第4章 社会集団の構造と成員の心の構造の関係(2):祭祀自体の「亡滅」の後で
1.20世紀末の祭祀の中断・終焉を劃期としてみるべきか?
狩俣の事例における<二分心>の崩壊についてここまで検討してきたが、<二分心>の崩壊は、「亡滅」そのものではないことに注意が必要である。そもそも狩俣が藤井によって、
「創生神話をいまに語り、英雄叙事詩を語りのこした村落が、日本語文化圏のなかに現存しているという事実。村落を中心にして神話的宇宙の広がりを持ち、部族国家時代の歴史を語り伝える、この村は折口の『古代研究』をつらぬく「古代」村落の想像的根拠であるといってよい。」(藤井『<うた>起源考』第9章「神歌、史歌」と神話, 2.「史歌」(稲村)、「神歌」(外間・新里)、英雄叙事詩, p.175)
と位置づけられ、「亡滅」の手前―本論では、それを<二分心>の崩壊の過程、ジェインズのいうヒュポスタシスの相に位置づけようと試みているわけだが―を垣間見ることを可能にするものという位置づけを得たのは、まさに藤井が述べる通り、「創生神話をいまに語り、英雄叙事詩を語りのこした」からであり、つまり「亡滅」を免れたからに他ならない。だが、そうであるとすると、狩俣の事例を考える上で看過できないこととして、20世紀末に生じた狩俣の祭祀の文字通りの「亡滅」について、即ち、祭祀の中断ないし終焉を考えないわけにはいかない。
なぜ、今、中断されることになったのか?もともとの要因は?外部起因による環境変化によるものであるとしたら、三分観への移行の時には祭祀の中断にまで至らず、寧ろ(強く仮定されることとして)儀礼のシステムの再構築が行われたのは何故か?儀礼のシステムにもレベルがあって、<二分心>の時代の儀礼と意識の時代の儀礼があるのではないか?もしそうだとして、今度は近年の祭祀の中断・終焉は、意識の時代の儀礼の終焉として、これも一つの劃期ではないのか?
まず、狩俣の祭祀が今ある形態になった時期を考えるにあたり、狩俣の神歌の一部をなす「狩俣祖神のニーリ」の成立に関する外間の以下の見解を確認しておこう。この見解は今日でも一般に広く受け入れられているだろうし、本論においてもそれ自体については異論はない。ただし、現在判明している事実を総合的に俯瞰したとき、狩俣の祭祀において徹底しているビキリ・ブナリの双分観の原理に照らして、祭祀において男役によって唄われるニーリが祭祀全体に占める位置であるとか、ニーリの内容を通時的に眺めたときに、少なくとも「ミヤーク」の領域においてはその双分観自体が徐々に揺らいで男性優位の村落構造への変容が見られ、その先に外間が言う「最終的」な完成の時期が来ていることを考えた時、ニーリの完成時期というのが持つ意味合いには一定の留保が必要であろう。
「(…)「狩俣祖神のニーリ」は、狩俣部落に久しく口承されてきた神歌のタービ、ビャーシ、フサや、神話、伝説などを下敷きにしてしだいに積み重ね、作り上げられたものであり、最終的には、仲宗根豊見親のころ、全体の体系的なまとめと、沖縄を意識する部分の肉づけがされたものと思われる。
『古事記』や『日本書紀』を、縦ざまに貫ぬく意志が、まさに国家的、政治的であることに似て、狩俣、あるいは宮古島全体の政治的社会の成立と、権力者達が、自らの歴史的優位を歴史の中で正当化しようとする歴史意識が仄見されるものである。歴史意識に目覚めた宮古の支配者(仲宗根豊見親)は、統治組織の中に、アヤグ部という職制を設けて史歌の伝承につとめたということである。」(『南島歌謡大成III宮古篇』解説 宮古の歌謡(外間守善執筆), p.478)
ここで検討すべきは、『古事記』や『日本書紀』のような「正統な」文字記録としての史書の確立というのを、祭祀そのものの継承、存続の観点から、どう見るべきかという点である。それに相当するのはここでは宮古島旧記類なのかも知れないが、仮に男役の謡うニーリが既に、正当な史書に記載されるものと同等の編集や改変を経たものであるとして、それ自体は文字で記録されることなく、依然として原則としては口承での祭祀の継承が行われていた筈であり、それを史書の内容と単純に同一視する訳には行かないだろう。一方で、男役がニーリで謡うことそのものもまた、祭祀の発展と変容の過程の中では比較的遅い時期のものであるとして、それでは祭祀の中で先行して確立した部分は、そうした祭祀全体の構造変化にも関わらず、基本的には変化を受けることなく存続してきたと考えるべきなのか、つまり単純に今見ることのできるものが古い層であるといって良いのかという点にも疑問なしとしないだろう。
一方、これを継承の手段の観点から見たとき、ニーリが成立した仲宗根豊見親時代以降、文字記録は原理的には常に可能であったにも関わらず、口承性の優位という原則に基づいて文字記録化は抑圧されてきたと考えるべきなのか、もしそうだとして、そのことが持つ意味は何かということでもある。宮古島旧記類と狩俣の神歌の内容の比較検討というのがしばしば行われるが、そしてそれが手続き的に不当なものであるという訳ではないにせよ、外部から観察され、(恐らくは多少の加工を経て)文字に記録されたものと、口承で継承されてきたものの間にある筈の差異をどのように考えるべきなのかということでもある。
そしてそのことは翻って、近年における研究者による祭祀の調査とその結果としての映像や文字記録化をどのように考えるべきかいう点に繋がっていく。目的の如何によらず、研究者が祭祀の内容を尋ね、神歌の意味を尋ねることは、祭祀の継承における秘匿性や口承性に関する禁忌の侵犯を引き起こさずにはいない。それを与那覇原軍の襲撃に比べれば、或いはその後の琉球の、薩摩の収奪から比べれば「平和的」な性質の外部との接触であることを否定する必要はないが、その結果として興味本位で狩俣を訪れ、写真やビデオカメラでの撮影が行われ、意図するしないに関わらず、立入が禁止された場所への侵入が起き、祭祀に支障が起きるといった事態に対して全く責任がないとすることはできないだろう。否、民俗学であれ、人類学であれ、そのような学問の名の下に行われる調査は、結局のところ調査対象からすれば、外部からの侵入者であり、一見平和的な形態をとっていても、内部構造を蚕食し、変容させ、破壊するものでもありうるということは否定できないだろう。勿論、それなくしても「亡滅」に至ったであろうものを記録して残すことの意義を評価し、場合によってはそれが伝統の再構の礎となることだって考えられるのであって、調査対象の側にも「亡滅」の危機感があって、「亡滅」の過程にあるものの価値の自覚にたって調査が行われるといった側面を軽視することもまたできないだろう。(実際、狩俣とは異なって、禁忌に忠実であった島尻の祭祀については、ほとんど記録されることもないまま存続が不可能となり、伝承は途絶えてしまったし、近年、離島観光の最後の「秘境」の如き取り上げられ方をするに至った大神については、狩俣のように、記録を残す動きが見られるものの、予断は許されない状況にある。)それでもなお研究のための調査・観察がその対象に対して全く透明でありえないこと、それを契機にして調査対象の存続を危うくするといった側面が現実にあったことに関する消息は、まさに狩俣の神歌を江湖に知らしめた当事者である外間守善によって自覚されており、外間の研究協力者であり、実際に何度となく狩俣を訪れた新里幸昭が自己の狩俣歌謡の研究の集大成というべき『宮古の歌謡』のあとがきに記した調査協力への感謝の思いに満ちた回想と、外間が『南島歌謡大成III宮古篇』のあとがきに記載した自己弁明のニュアンスさえ感じさせる回想とを突き合わせて読むことで、その消息を窺うことができるように思われる。
「そして、調査のたびに大山家に顔を見せながら、狩俣の神事については一言も教えてくれなかったパルマヤーの老婆・砂川カニメガさん。そのカニメガさんは、狩俣の神々に私の加護を一心に祈ってくれていたのであった。最愛の夫が臨終の床に就いていても、狩俣の創世神との約束で、末期の水をとれなかった最高神女アブンマ平良マツさん。アブンマの平良さんが神歌を教えてくれるという決断と手ほどきがなければ、狩俣の調査はついにできなかっただろう。創世神の霊力によって神となり村の繁栄と村人の健康を願い、創世神のお告げをいつも待ち続けていたアブンマは、片時も島を離れることをしなかった。始原の昔から伝承されてきた神歌や神々に対する誇り、信仰心の強さが、神歌を記録するという私の願いを叶えてくれたのであった。アブンマ平良さんのご厚意で、他の神女の方たちからも次々と協力をいただいた。」(新里幸昭『宮古の歌謡』あとがき, p.356)
「(…)最高神女アブンマを中心とする主だった神女たちに集まってもらって、そろそろとビャーシ、フサ、タービの採集も始めたが、初めのうちはやはり神に対する神女たちのおそれとためらいのため、思うようには進まなかった。しかし、しだいに私たちの心が通じていくらしく、何日かおいたさいごの頃には、「自分たちの神はすばらしい神であり誇るべきである。学問のためなら喜んでお伝えします」という積極的な協力に変わっていった。そしてこの時に、初めて体系をなしている狩俣の神歌の基本的な部分の採録をすることができたのである。
神に捧げた十四年の間に、他界した夫の末期の水もとらなかったという今は亡きアブンマ平良マツさんをはじめ、外からは押しはかることもできないほど厳しい禁忌にしばられた神女たちのこの決意は、私たち狭い何人かの学問の問題として片づけてしまうわけにはいかないであろう。」(『南島歌謡大成III宮古篇』あとがき(外間守善執筆), p.528)
そして実際、当事者から離れたところで、寧ろ村落の内部に近いところからは、以下のような証言を耳にすることにもなる。
「(…)人口900人足らず、甘蔗栽培を主とするが、若者の多くは都市に転出、いとなみ寂れた集落のほぼ中ごろに、よろずやめいた店舗があった。その家の主婦は、案内してくれた友人と女学校時代のクラスメイト。地域で指導的立場にいた。私たちの訪問を歓待してくれたが、ウヤガンについては、「ことしはよそからの人への警戒がとりわけて厳しく、触れないでほしい」と、そのいきさつを言った。
ことし相次いで、集落の最高神女が亡くなった。神罰によるものではと、集落の人びとは恐れとおののきでささやき、ウヤガンの取材に対しては拒否することが集落の会合でとりきめられているのだ、と。
いま集落には原始共同体的くらしは失われ、社会的指導権は男に移っているが、原始以来のアミニズム的信仰は、暮らしに根付いてなお続いていた。
集落の人びとの意識は、個の自立を当たり前とする近代的自我より、集落への帰属意識がより大きい。集落の役員から、学問的貴重な調査への協力だと説得され、外部へ洩らすことはタブーとされている神謡を、最高神女2人は、こころの葛藤つらく謡い、録音に応じたのだ。その後まもなく神女は相次いでガンを病み、亡くなったのである。
古代祭祀を訪ねた沖縄・先島の島々で、島びとがウタキ(御嶽)と呼び、神の憑りつく聖なる場として崇め、代々大切に護り伝えてきた場所が、踏み荒らされ、神事が撮影され、見世物的に公開されることが、「日本復帰」(1972年)後いちじるしいと、嘆きをすくなからず聞かされていた。(…)」(もろさわようこ「太古の系譜」, 『上井幸子写真集 太古の系譜』所収, p.210)
ここで問題にしたいのは、上記引用の末尾のような主張の当否の判断ではない。そうではなくて、そのような主張が集落の中から出てきてしまうという事実の方であって、研究者個人の良識とか、研究対象に対する敬意や節度ある態度を前提にしてなお、そうした巨視的なトレンドの一部に過ぎないということを否定することは、結局できないのではないかという点にある。見方を変えれば、未来の史家によって、その数十年の後に祭祀を無期限の休止に至らしめた外部環境の変化のうちの一つとして研究調査は位置づけられるということが起きるかも知れないし、仮に祭祀が復活したとしたら、遠い将来において、祭祀の中断と復活を示唆する内容の一部として祭祀が外部の手によって文字に記録されたということ自体が歌の内容に付加されるような事態も原理的には考えられるのではないか。そうしたことを考えると、これまで支配層の交替や、一度ならず繰り返されてきた祭祀の禁圧にも関わらず存続してきた祭祀を、その基礎から崩していき、遂には祭祀の無期限の中断に至らしめたとするならば、寧ろ、そうしたことが生じた現代の時期こそが劃期として把握されるべきではないかと思えてくるのを避けることができないのである。
自分とは全く無縁の(血縁は勿論のこと、知人や友人すら一人としていない)訪れたことのない異郷の、既に一旦は途絶えてしまった祭祀について語る資格が私にあるわけではない。実際には、現地では、部分的にであれ祭祀を復活させようと試みておられる方もいらっしゃるようで、そうした現実を考えれば、私が今、ここでやっていることが何なのかを自問した時、権利上、「ありえたかも知れない」という枠組みにおいてのみ許容されることであって、このような試みは、意図せずとも、現実に対して不当な行為ではないのかということを考えずにはいられない。
2. 狩俣の村落の変容における城壁の意味:狩俣の「古代性」について
ともあれ、狩俣における祭祀の「亡滅」を考えるにあたっては、それが絶対的な年代として何時であるかよりも、狩俣の祭祀の中断、停止が、社会システムのどのような動作によってもたらされたものかを構造的に突きとめることの方が重要であろう。もちろん、そのタイミングでの外部としての他の社会のあり方は、狩俣の社会の構造の変化に影響する限りで考慮されるべきである。
だがそもそも何が外部かは接触のあり方による。外部を取り込むことによって村のシステムは維持されるという側面があるからである。一方、もしそうだとしたら、外部に出て行く方はどうなのか?というのも、以下の本永の記述にあるように、狩俣の場合には、クバラパアズによって構築されたと伝えられる城壁があり、なおかつ城壁の外部に出ることは永らく禁忌とされていたからである。
「(…)ところで、このミヤークと呼称される場所は、ごく最近まで一定の範囲を占めていて、その四方周囲が小高い石垣でもって包囲されていた。村人の住むべき空間が定められていたのである。村人は、この空間から外へ出て住むことを禁じられ、その内部のみで、住居を構えて生活していた。」(本永清「三分観の一考察」, 日本文学研究資料叢書『日本神話II』所収,p.253)
この城壁について、沖縄大学沖縄学生文化協会『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告中の「狩俣村落における村落構造と変遷」では実地調査の結果に基づき、以下のように述べている。
「この狩俣村落は、往古より村落の周囲に石垣をはりめぐらし、その石垣は以来何度か拡張されたと伝承に残っているが、」(「狩俣村落における村落構造と変遷」3.結びにかえて 3)村落を囲う石垣の線で止まった。(狩俣村落の地籍図参照)そしてこの3つの門を有する石垣より外に村落民が家屋を建てることは禁止されていたため、大正2年頃になってから初めて何戸かの家が石垣の外に進出したといわれる。」(『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告所収, p.29~30)
この城壁の具体的な変遷については、佐渡山正吉も「地名と屋号で見る狩俣集落の変遷」(宮古島市総合博物館紀要,1994)において集落内の地名や屋号からの推定に基づき、初期城郭が「人口の増加、宅地の狭隘などの理由」(同論文, p.78)により一旦拡張されたという説を具体的な城壁の位置の仮説とともに提示し、その後、明治39年8月に新里新穂、平良新孝、川満恵公の3名が字民を説得して石垣を除去し、住居区域が拡張されたことが狩俣字会の沿革に記載されていること、またその後、大正2年の狩俣小学校の移転やその翌年の現在の県道にあたる道路(狩俣はウプンツと呼ばれる)の開通を契機にして城壁外への住居の移動が加速したことを述べている。その時の状況の詳細については、岡本恵昭が紹介する、狩俣からの分村である野田集落の成立(大正13年)に関する記録の中に確認できる。この記録は村落住民の認識を証言するものとして貴重であるのみならず、野田集落の分村が、石垣の撤去、石垣外への家屋の進出という、狩俣の歴史上の劃期をなす出来事の流れの中で行われたことがわかる点でも重要である。
「○島出で(部落拡張)
昔狩俣の偉人にクバラパア按司(按司とは位の名称)がいた。この人の遺言として、狩俣の村(明治40年までは村でした)は大道(ウプンツ)から南へ島出したら村が発展しないから大道(今の部落の中央道路)から南に住宅を建ててはいけないという遺言が遺されていたので大道から南に住居することは禁じられていた。
茲に於いて狩俣1473番地の平良新孝氏は、此の迷信を憂へ何とかして之を打破したいと考え、沖縄県立師範学校を卒業して狩俣尋常小学校校長に就任するや村有志にはかって大道から南(前原)に道路を新設して部落拡張計画を樹てる事を決め、明治39年道路を創設した。(現在の前原の道路は其の当時新設した道路である)
◎現在(1967年)の大道から南の第1班・第3班・第6班の道路は其の当時新設した道路で其れ以前は、タア原・前浜・アラビキの3線しか縦線はなく、横線は一つもなかった。
◎大正時代以前は、狩俣部落は石垣で囲まれ石垣の内側にはガジュマルの木が植えられて繁茂し、部落の道路は東のトウリャ西のトウリャといって石の門が東の部落の入口と大山の南にあったのみで部落の出入りはこの2つの石門が使用されていた。
◎大道は道路というより草原で、旧8月15日夜の大綱引きと年に1・2回施行された競馬場にしか使用せず、子供が大道に行ったらタマシーがにげるから子供は大道で遊ぶなといわれる程こわがっていた。
◎2つのトウリャー(石の門)は、終戦後、クルマの往来にじゃまになって不便を感じたので当時の青年幹部が年寄りの反対を押し切って取り除いた。東のトウリャは、その後、根間金市氏によって鉄筋コンクリートの門に造り替えられた。
前記のとおり、平良新孝氏によって大道から南に道路が新設された部落拡張計画成るや、明治40年(サル年)に、774番地に島尻金蔵氏が初めて住宅を新設。昔から言い遺された迷信も打破された。禁じられた部落区域外住宅の建設も解消され、1967年現在では狩俣小中学校と100軒以上の住宅が設置され、こわがられていた大道は部落の中央道路となって、部落は南へ南へと拡張し益々発展していることは両氏の迷信を打破した功績である。」(岡村恵昭「資料紹介:『島尻吉之助ノート』より―狩俣部落のあゆみ・野田部落移住についての思いで― ノート原題「部落のあゆみ・明治以降」」, 宮古島市総合博物館紀要, 1996所収, p.105~106)
通常このことをもって、石垣の除去以前は、基本的には城壁が制約となって村を拡張することができなかったが故に、人口は村の外部に流出していったというように捉えられているようである。勿論基本的にその認識自体が誤っているわけではないのだが、既に前の章で検討したように、「狩俣圏」の中での狩俣・大神・島尻の関係の中で狩俣の村落の構造と変遷を見る時、寧ろ注目すべきは、仲松の「古代性の濃い」という形容にも関わらず、「狩俣圏」の中では狩俣が最も変化した形態を備えており、島尻は、恐らくは元島への居住の継続という点ではより「古代的」であり、大神については、城壁がなくても島そのものが城壁の役割を果たしていると見做すことができるという点で、更に「古代的」と見做すことができるという点である。つまり狩俣の城壁については、現代から振り返った時、その閉鎖性のみが注目されがちだが、ここでの議論では寧ろ、それが元島からその外への移住やその後の人口の増加による村落の拡大に対応して徐々に拡張されてきたという点こそ注目されるべきだと思われるのである。そういう意味で、沖縄大学沖縄学生文化協会の『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告中の「狩俣村落における村落構造と変遷」の以下の指摘は、狩俣の村落の変遷の把握として、細部はともかく基本的には正鵠を射たものと評価できる。
「(…)思うに狩俣村落の石垣は、最初島尻村落と同様に小規模の防備の為の囲いであったのが、人口の増加やその他の理由により何度か拡張されたが、比較的新しい時代になると当初防衛の為に築かれた石垣がその目的を変え、いわゆる支配者の経済外的強制である統治政策(例えば耕作地へ農民を追い出すときの面通しや逃亡の防止、村落の閉鎖性の増進等)に利用され、あわせてその時代には上述の大規模な土地区画の規制が行われたのではないか。」(『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告所収, p.30)
なおここで「上述の大規模な土地区画の規制」とは、狩俣村落の中心部が井然とした碁盤型形態に近い区画を持っていることの理由として想定されたものであるが、上記の把握のポイントは、最初「神の森」附近や丘陵東側の、現在は祭祀のための領域が居住地であった時代に構築された城壁が、その後の村落の変容と拡大に伴い何度か拡張されたという点に存する。その結果として狩俣は、元島とその外部という双分的構造を維持し続けた島尻と異なって、「三分観」を可能にする重層的・複合的構造を村落の中に持つことが可能となったのではなかろうか。
図2:狩俣・島尻の村落構造の変遷の対比
狩俣が古代性を残していると言われるのは、逆説的に、狩俣が動的に変容を重ねてきたからで、そうすることにより、重層し複合する構造の内部に、いわば「自覚的に」古代性を保持することが可能となったという点を重視したいのである。しかしながら、そうした動的で或る意味柔軟とも言える特性は、祭祀における秘儀性の維持や存続が要求する保守性に関しては、或る種の脆弱性を孕むことにもなる。これも既に見たように、「狩俣圏」の内部では、狩俣の祭祀が最も早く断絶することになったのにも、そうした特性が関わっているという見方が可能かも知れない。
一方で、理由の如何によらず、祭祀が中断されかかるとそれを後世に残すべく記録を保存するようになっていくという傾向が見られる。だが見方を変えれば、記録の保存は中断への抵抗ではなく、寧ろ中断への(物理学でいう最少作用の原理に基づく)最短経路という見方ができるのではないか?勿論、これもまた同様に、こう言ったからといって、記録に残すことが、却って祭祀を断絶を助長させる働きをするということを意味しているわけでは全くない。記録に残すことが祭祀の終焉を早めることになるというのは、恐らく言い過ぎだろう。現実の村落の動力学に関わるパラメータは極めて多様であり、或る種の隷属原理によるあるパラメータの優位がその都度成り立つとしても、具体的にどのパラメータがどのような条件で支配的になるかを把握することは極めて難しい。
だが例えば、「狩俣圏」の三村落に関して、祭祀を限定的であれ外部の研究者に公開し、記録を残すことに対する寛容さの度合いには著しい違いがあることは事実として認められるべきであろう。即ち、研究者に対して相対的には寛容であった狩俣については既に膨大な歌謡の記録があり、祭祀に関する調査結果や映像記録が存在し、島尻や大神は外来者への公開を厳しく拒み続け、祭祀の秘儀性について厳格であり続けてきた。そして祭祀の中断に至る経過を見れば、別のところにも既に記した通り、狩俣が最も早く、次いで島尻の祭祀が停止し、大神の祭祀のみが辛うじて存続しているから、おおまかな関係は認められそうであるけれど、島尻と大神の差異の説明にはなりえない。一般的な説明として直ちに思いつく理由は、大神島が離島であり、島尻に比べてアクセスが困難であることであろう。もう一つの見方として、大神島の祭祀の停止も時間の問題だとする立場もあり得るだろうが、その一方で、大神島の祭祀に関しては、近年、記録が為されつつあるという状況もあって、結局は幾つかの要因の複合で決まる経路が偶然に、記録を残すことを許容したりしなかったりということに過ぎないかも知れない。狩俣のみが先に祭祀を停止した理由は、寧ろ祭祀のシステム上、大神と島尻との関係の方が密接で、狩俣はそれに比べれば(大神との交流はあったようだが)比較的独立して祭祀を行ってきたという事情があるのかも知れない。
しかし、狩俣の或る種の開放性についてここで注目すべきなのは、村落を形成する構成員における士族と平民の割合のような点で、士族が文字文化に触れる機会が相対的に多かったことや、宮古島の中央(平良、或いは漲水御嶽)との交流がより密接であった点ではなかろうか。琉球や薩摩の支配において狩俣は一時的にであれ、独立の間切の中心であった時期が知られている位で、宮古島北部の領域における中心であったのに対し、大神・島尻は周縁であり、周縁の方が、伝統をより強く、長く保存するという周圏論的な了解がここでも成り立つと考えれば良いということだ。士族/平民の区別というのは、通時的に見て、狩俣の村落の変遷の歴史の上では明らかに後代に付加されたものであるが、にも関わらずそのことが、性差に関わる双分的規定において、狩俣に「息子」すなわち男(ビキリ)が割当られることに寄与しているということはおおいにあり得えそうだし、何よりも、先に述べた狩俣の、あくまで「狩俣圏」内での相対的なものに過ぎないとはいえ、島尻や大神に比べた時の、狩俣の構造変容に対する「柔軟性」、動的に変容を重ねることで、重層し複合する構造の内部に、いわば「自覚的に」古代性を保持することを可能にする特性と相関しているとは言いうるのではなかろうか。これは明治36年の調査であるが、狩俣圏における士族/平民の割合は以下の通りであり、「狩俣圏」における狩俣の特殊性を確認することができるだろう。
|
人口(人) |
割合(%) |
||||
|
士族 |
平民 |
計 |
士族 |
平民 |
|
|
島尻村 |
0 |
383 |
383 |
0% |
100% |
|
狩俣村 |
690 |
365 |
1055 |
65% |
35% |
|
大神村 |
1 |
75 |
76 |
1% |
99% |
人口は『明治36年沖縄県統計書』の「戸数及人口 第42 区間切本籍人員族称別及棄児 明治36年12月31日, p.57~58」による。割合は本稿で引用にあたり追加。
3.口承性と秘儀性
しかし、狩俣が琉球・薩摩支配体制において、宮古島北部の中心になり、士族が構成員の多くを占めるようになったからといって、そのことが直ちに祭祀の口承性の断絶に繋がったわけでもなさそうだ。記録で確認できる限りでは、祭祀の口承性の厳密な保持・継承に関しては、狩俣においてもずっと後年まで時代を下り、大正時代あたりまでは保たれたようなのである。ではなぜ大正時代かという問いについては、恐らくは初等教育が浸透し、識字率が著しく向上したという事情を考えることができるのだろう。そして大正時代になって神歌の継承にあたり文字記録を媒介するようになっても、祭祀そのものの口承性は、その断絶迄保持され続けた。そのことが決して当たり前のことでないのは、宮古島の他の集落の祭祀では、口承性を断念し、祭祀にあたってその場で紙に書かれた文字を見ることを許容することで、祭祀そのものが断絶してしまうことを回避するような方策がとられることもあれば、南西諸島の他の島では、神歌の継承自体が最早不可能になってからも祭祀自体を継続する必要性から、神歌の継承が途絶える以前に録音した歌唱記録を再生して、その場での神歌の歌唱の代替とするような方策がとられているような例もあることを思い起こせば自ずと了解できることであろう。
極端なケースではパラドキシカルにさえなりうる、口承性と祭祀の継承との関係性がここには存在する。即ち、口承での継承は、環境の影響によって、誤りや改変が生じうるけれども、誤りや改変は、継承の正統性には実は影響を及ぼさない。そうした改変の事例として、内田が記録している以下の事例を参照することができるだろう。
「(…)<祓い声>では家づくりのことはよまれずに、次の詞章で終了するのがふつうである。
(詞章は略)
これは外間らの1960年代の調査によるものだが、私が耳にすることができた四度の演唱においても、いずれも「海鳴りが恐ろしい」とい詞章で終了した。アブンマの説明にあった、「下におりて来て、おうちをつくった」ということは読まれずに終了するのが通例である。
ところが1995年11月29日に行われた祭儀では、アブンマは「海鳴りが恐ろしい」のあとに次の二節を続けて<祓い声>をよみ終えた。
(詞章は略)
通常はよまれない詞章である。1960年代の外間・新里の調査の頃にもよまれていなかったものだ。
この時の演唱は、いつもよんでいる通りだったかとアブンマに尋ねてみた。いつもと同じ、それが彼女の返事であった。
変えてはならないはずの神歌である。しかも何年にもわたってアブンマは「海鳴りが恐ろしい」でよみ終えてきたのである。この翌年の1996年の祭儀では、再び「海鳴りが恐ろしい」で終了するスタイルに戻っていた。」(内田, 終章「神歌の伝統と変容」1.ひとつの追加, p.199-200)
更に居駒は、島村恭則の報告を参照しつつ、祭祀システムの外部からの影響によって、祭祀が改変されてしまうケースについて、以下のように言及している。
「島村恭則氏が調査・解明された狩俣集落のウプグフムトゥ祭祀と神話をめぐる問題はこの点に関わる問題である。神役のなかで補助的な役割を果たしていた、ある巫者的な女性が大蛇神アサティダから指示を受けたとして聖所ウプグフムトゥにその男神の香炉を祀るようにはたらきかけたという。また、彼女は狩俣で一般的に知られている始祖神話と異なる、男女二神が天地から出現する神話が神から授けられたという。このことによって、彼女と神役たちのとの間で葛藤が生じるが、最終的には聖所の祭壇に男神の香炉がそのまま置かれて、昔からこうであったと説かれるに至っているとこのことである。」(居駒,前掲書, 第1部 声の神話をめぐって 5.声の神話の変容, p.14)
一方、仮に正確であったとしても口承性の観点からは逸脱である、研究者が採集し文字として記録したものを参照することは、寧ろ正統性を損なうものとして排除されるのだ。このことについてもまた、居駒が参照している以下のような報告によって裏付けられる。
「(…)宮古島狩俣の場合、高橋一美氏が報告されたように、神話の内容を含んでいるフサやタービと呼ばれる呪詞は就任時に前任者である神役のノートを借り受けて書写するのであるという。フサを朗誦する役のフサヌヌスの一人は研究者のまとめた書物から書写したことを前任者のフサヌヌスからとがめられたことがあったと語っておられる」(居駒,前掲書, 第1部 声の神話をめぐって 5.声の神話の声と伝承, p.6)
そして口承での継承は、断絶を許容しないという脆弱性を孕んでいる。既に断絶して久しい他の地域の祭祀の例からもわかるように、口承性を前提とした場合には、祭祀の経験者が後続の世代に直接継承できる世代的な幅が、断絶を許容する限界を構成する。したがってその最大幅はたかだか人間の寿命の長さを超えることはないし、病気や村落から他の地域への移住などによって、その期間内においても継承ができなくなるケースは幾らでも考えられる。それに対して、近年行われるようなマルチメディアによるマルチモーダルな祭祀の記録が徹底して行われるとすれば、世代を超えた継承が、程度の差はあれ可能であるということになる。もともと口承の場合でもエラーは付き物であったことを思えば、記録の不十分さをもって継承の完全性が損なわれるという理由は、原理的にはないことになるだろう。
だが忘れてはならないのは、口承性に対する立場の違いは、継承の可不可に関わるだけではなく、実は祭祀自体の性質を変えてしまいうるということだ。祭祀の実施にあたって文字記録に依存する祭祀は、そうでない祭祀と同一のものとは最早言えないのではないかと問うてみる必要はあるだろう。メディアは中立的な単なる媒体ではなく、メディアによってそれに媒介される行為そのものが変容してしまうと考えるべきなのだ。それは丁度、文字の獲得がヒトの心の構造を変化させ、異なる意識のレベルの成立を可能にすることに対応している。心の構造の変容、意識のレベルの変化は、単独の孤立した主体における出来事と考えるべきではない。それは常に・既に、集合的な心において、複数の意識のカップリングの場における出来事と考えるべきなのだ。寧ろ、であればこそ、祭祀の口承性がその伝統の「古代性」を担保するという認識が正当化されるわけである。
口承性と秘儀性は原理的には独立でありうる。文字記録自体を集団内で秘匿して、外部に公開しなければ良い。逆に口承であっても儀礼を外部の人間に公開する場合もあるし、場合によっては、外部の人間の祭祀(の一部)への参加さえ許容される場合がある。直ちに思いつくのは、波照間島のムシャーマの例であろう。儀礼が公開性を帯びたとき、それは芸能に接近する。ただしこの場合、観客は必須ではなく、無観客でも儀礼は成立する。その一方で観客を必須の要素とした場合には芸能となる。観客が不在なら、芸能は成立しない。問題があるとすれば、公開性を帯びた儀礼が無観客で行われた場合に、観客が居て行われる場合と質的に同じものであるかどうかだ。だとすれば、立会人という媒介が必要な儀礼のことを芸能というのだろうか?だが、儀礼と芸能を区別するのは、それが超越的な何者かに対して「奉納」されるという構造を持つか否かの方ではなかろうか?その意味でムシャーマは決して芸能ではなく、儀礼であり続ける。
一方で、だとしたら、儀礼が秘儀性、外部への非公開という性質を帯びることがもたらす帰結はどのようなものだろうか?ここでは、公開を拒絶するけれど祭祀が実施されていること自体が秘匿されているわけではないことに注意すべきだろう。完全な秘儀性が成り立つのであれば、祭祀の実施者以外は儀礼の存在自体を知らない筈である。すると実はここに質的な境界点が存在するのだろうか?現実の祭祀においては、秘儀性には程度があって、何をどの範囲でどのように公開するのかには多様な選択肢が存在しうる。その場での見聞きは構わないが、文字記録不可、撮影不可という水準があるとしたら?「遠くから」、壁の向こう側から眺めたり、聞いたりすることが可能であるというのは?勿論、ここではこれらの問題が、<二分心>かどうかといった、祭祀を支える心のシステム、意識のレベルに、双分制・三分性といった社会の構造に、或いは双分観・三分観という、集団の成員の認知のスキーマに影響するかどうかを、一つ一つ問わねばならない。これらの点については次章において、狩俣の神歌が実際に詠まれる現場での神役の意識とともに、神歌の分類と祭祀の構造の関係を具体的に見ていくことによって、確認していくことにしたい。
4.歴史意識の先行と神話・儀礼・神歌の関係:観察・記録された祭祀とは何だったのか?
今見ている祭祀が既に三分観に基づくものである(本永清「三分観の一考察」)のであれば、それは初めから「ミヤーク」成立後の(<二分心>の時代ではなく)意識の時代の儀礼の筈である。今見ている祭祀から「亡滅」の手前を探るとは、それ故「三分観」から、それが生成する動因となった双分観の複合を垣間見るというアプローチになる筈だ。<二分心>時代には、同じ意味合いでの儀礼がそもそもあったとは言えないだろう。なぜなら、今ある神話・神歌はそれ自体、<二分心>から三分観への移行の相を対象としたものであろうからである。
祭祀の条件として祖先崇拝がある以上、歴史意識というのは認められる。祖先崇拝と共同体への帰属は、<二分心>の時代に成立していたと見てよい。
「古代・伝統社会の主体図式については、アフリカ人の自我に関してSowが定式化したことが、全般的にあてはまるだろう。彼は、今から30年ほど前になるのだが、アフリカの伝統社会における人々の自我について、垂直軸は祖先との強い絆があり、水平軸には共同体の仲間との強い絆があり、この垂直軸、水平軸での集団自我(group ego)が堅固な仕方で存在していると述べた。この集団自我は、西欧近代に始まる個人的自我(individual ego)と対立するもので、垂直軸の頂点には神(ないし神々)が位置していることからして、二院制精神の名残を強くとどめ、神の権限が重きを成しており、個人の主体性、所有権は限られている。わが国においても、かつて多くの伝統社会では祖先、ひいては神々との緊密な連帯があった。この主体図式が近代、そして現代では失われ、主体図式は大きく変化していくわけである。」(加藤敏「統合失調症の現在 進化論に注目して」(第104回日本精神神経学会総会教育講演), V 所有(property)の問題枠, 日本精神神経学会誌 111巻3号,p.341)
Sowの伝統社会の心性のうち、水平軸の方は起源が極めて古く、社会的動物としてのヒトから遡って、高度な心性を持たない(ダマシオ/エーデルマン的には中核意識しか持たない)哺乳類にまで起源を辿れるかも知れない。儀礼・舞踊における相互的・集団的所作、そこで起こる共鳴的模倣、引き込みによる同調もまた、進化的には古い起源のものと考えてよいだろう。その一方で、垂直軸の方の起源は、こちらこそが自己の構造のレベルに応じて、ある時期以降に生じたものと考えられるものであるが、それでも、<二分心>から意識への移行を捉える時に、<二分心>に先行する諸条件に基いて成立したものであることは確実である。一方で、<二分心>から意識への移行によって、意識から覗き見ることの可能な様態以外の様態を想像しにくくなっていることに留意する必要があるだろう。それは翻って、水平軸方向の社会性のあり方にも影響を及ぼさずにはいない。垂直軸の変化に伴って、水平軸方向の具体的な行動の水準は異なってくる。その典型の一つは「言語」の使用と、それに伴う「表象」「象徴」の確立、その結果としての、アフォーダンスの対象である「現実」とは独立した記号のシステムの構築だろう。ここで垂直方向について留意すべきは、祭祀の対象として祖先を対象とするための条件であり、これは(相対論的な意味で)自己の世界と直接的な因果関係にない、絶対的な過去の認識、つまりは歴史意識の発生を前提としているのだが、それを可能にした条件の少なくとも一つとして「言語」の使用を挙げることができるだろう。更には文字の使用及びそれに相関する外部記憶装置の利用により、口承以外の手段での継承が可能になったことも劃期をもたらした可能性がある。
だが既に前章で見たように、狩俣の祭祀を単純に祖先崇拝と規定することには無理がある。それは沖縄本島他の、琉球弧で寧ろそちらの方が一般的とされる門中制度におけるそれと比べて複合的であり、同系の血族の祖先ではなく、寧ろ、複数の親族集団の複合体としての村落―それは2つ以上の生物が合体して誕生したとされる真核生物に類比されるものと本論では考えたいのだが―の始祖としての祖神であり、村の起源に纏わる神話の中の登場人物に対する崇拝なのだ。それゆえ本永清が「神話・儀礼・神歌」において以下のように指摘する通り、祭祀は神話の再現でもあるという構造が成立するのである。
「第一に、狩俣では神話が儀礼を説明し、儀礼は神話を再現したものになっているということ。第二に、儀礼の一部である神歌は神話の内容をいつくかの部分にわけてうたっていること。したがって第三に、儀礼が神女たちの行為による神話の再現であるとするならば、神歌はことばの表出(言霊)による、そしてそのために神女たちの<観念の世界>における神話の再現であるということである。神女たちの<行為>と<観念>の両レベルにおいて神話が再現されていると見ることもできよう。そのことはまず確認されてよい。こうした神話、儀礼、神歌の三者関係が見出される社会は今のところ宮古でも狩俣他、いくつかの村落に限定されるが、しかしここでの事例は他の民俗社会における神話と儀礼、儀礼と神歌、神話と神歌との諸関係を見る上できわめて重要な示唆を私たちに与えてくれそうである。」(本永清「神話・儀礼・神歌」, 古橋信孝・三浦佑之・森朝男編『古代文学講座3都と村』所収, p.229~230)
ここで本永が整理した神話、儀礼、神歌の三者関係は、それが<二分心>・意識の構造間の移行・併存を通過したことを証ししており、琉球弧でこれもまた一般的であるとされる単純な双分的構造ではなく、村落の歴史の中で、外来者の併合を繰り返しながら双分的構造が重層した結果として「三分観」が確立したことの反映と見ることができるのであり、恐らくは狩俣の祭祀が「古代性」を保ったまま存続しつづけることができたことにも関わるのではなかろうか。
本章では、その狩俣の祭祀自体が「亡滅」を迎えた現在の時点を出発点にとったのだったが、そのことに関連して更に言えば、狩俣に限らず、近年の村落祭祀における基本的な構造である村落から人口流出の増大は、村落祭祀を担う主体の減少を招く一方で、祭祀の期間だけ村落で生まれ育った元の成員が村落に戻って祭祀に参加するという状況を招来したが、その点についても、祭祀が継続するためには「傍観者」が構造的に必要とされていたのだというように捉えることができるのではなかろうか。実際、後述するように狩俣の祭祀の構造の中には予め「傍観者」にあたる役割が確保されており、この「傍観者」こそが神話や英雄叙事詩的な内容を持つ神歌の詠唱者そのものであり、本永の要約した神話、儀礼、神歌の三者関係、より端的には藤井が指摘する「神話が神歌を包む、言い換えれば神歌のなかに神話が詠唱される(あるいは唱えられる)という実態」(藤井『<うた>起源考』, p.172)の担い手に他ならないのである。こうした点も「三分観」を背景とした狩俣の村落構造や祭祀の構造が持つ複合性の現われに他ならず、おそらくは狩俣が「亡滅」を潜り抜けてきたことに関わりを持つと思われるのである。勿論そのことは単純に、「三分観」が成立した「から」「亡滅」を免れたという因果関係を認めることには繋がらないし、「三分観」の成立がその必要条件であるということを意味するのでは全くない。そうした誤った論理的な推論に対しては、他の村落における反例を幾らでも見出すことができるだろう。そうではなくて、村落の構造や祭祀の構造に、「三分観」を通して、その背後にある複雑な構造変容の過程を読み取ることが可能であるということ自体が、狩俣の神話、儀礼、神歌から垣間見ることができるものが、例外的に「亡滅」以前の古代的なものであることの根拠に他ならないということに過ぎない。そしてそれは、前章でみたように、狩俣の構造変容に対する「柔軟性」、動的に変容を重ねることで、重層し複合する構造の内部に、いわば「自覚的に」古代性を保持することを可能にする特性がもたらしたものと考えられるのである。
これを「音楽芸術」一般に、あるいはその現在の地点に引き戻せば、例えば現代音楽のシーンにおいて、いわゆる「関係者」「身内」が聴き手のほとんどを占めるといった状況は特段珍しいことでもないが、村落で生まれ育った元の成員が村落に戻って祭祀に参加する状況との並行性を認めることができるのかも知れない。こうした、自閉的な閉塞にも見える状況に対する批判も多く、私見ではそうした批判に対して首肯できる部分も大きいが、注意すべきは、オートポイエティックなシステムは散逸系であり、それが自律的に、境界を維持しつつ存続しつづけるためには、外部からのエネルギーの供給が必要であるという点である。
実はレヴィナスの『全体性と無限』の第二部 内部性とエコノミーにおいて展開される享受論は、オートポイエーシス論として読み替えることができ、享受が「糧」として特徴づけられ、認識における対象との分離が成り立たないとされる点は、まずもってそうした系の開放性に関わっているという解釈ができるだろう。一方で、生きることが分離として捉えられ、享受によって分離が生じるのだが、分離は単なる切断による空間的な遠ざかりとして捉えられるのではなく「住居」に住むこととして捉えられる点は、オートポイエティックなシステムの自閉性に関わる側面と考えることができよう。レヴィナスはまた糧の享受は単なるエネルギーの獲得ということでは汲み尽くせない点を強調し、情態性の介在、対象との関わりの情動的な側面が単なる随伴事象ではない点を指摘するが、それらは須らく、自立して世界から分離しているという自己認識を抱いている自己が、そうした自己認識とは裏腹に、構造的にその背後において常に外部に接していること、それを糧の次元で捉えるにせよ、他者との関係の次元で捉えるにせよ、そうした外部との関わりが自己の都度の立ち上げの前提であり、その逆ではないことを告げていると考えられる。
狩俣の村落の変容プロセスも、絶えず外部との関わりにおいて自己を維持してきたことを告げているし、村落の構造や神話と儀礼と神歌の内容に刻印された双分観から三分観への移行は、狩俣が、自らの構造変容に対する「柔軟性」、動的に変容を重ねることで、重層し複合する構造の内部に、いわば「自覚的に」古代性を保持することを可能にする特性によって「亡滅」を逃れてきたことの証と見るべきなのである。それは二分心の崩壊と意識への移行のヒュポスタシスの痕跡でもあるが、それを見出すことができること自体が、狩俣が「亡滅」を逃れて古代性を保持し得たことを証言していると考えられる。繰り返しになるが、それは権利上も事実上も、「亡滅」を逃れるため唯一の方法ではないし、それを保証する条件でもない。そして勿論、そうした社会システムの様態や、それと相関する心のシステム様態の価値について何某か判断をすることは別の話である。だがそうであったとしても、狩俣が「古代の村」の想像的根拠たりうることが、そのシステムが持つどのような構造によるものであるかを把握することの意義は小さくないのではなかろうか?

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