2007年12月8日土曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」シンポジウム「機械と音楽」(2)「20世紀の音楽における機械の可能性」に参加して

シンポジウム「機械と音楽」(2)「20世紀の音楽における機械の可能性」
パネリスト:近藤譲、高橋雄造、三輪眞弘、呉姫淑、長木誠司(司会)
三輪眞弘「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」(世界初演):西陽子(箜篌)
2007年12月2日東京大学駒場キャンパス18号館ホール

東京大学駒場博物館で開催されていた「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の関連企画として最終日の 12月2日に行われたシンポジウムを聴いたので、その感想をまとめておく。なお、シンポジウムは前日に行われた 「音楽文化史における機械の役割」に続くものだったようだ(ただしパネリスト・司会は別)が、前日は都合が付かず、 2日目の「20世紀の音楽における機械の可能性」のみの参加となった。後述の通り、このシンポジウムはかなり議論が 発散してしまった印象があって、辛うじてリッチズ/三輪による「思考する機械」Thinking Machineがアトラクターの 役割を果たしていたように感じられた。長木さんがクロージングで、「機械」の定義をせずに議論をしたが、にも関わらず 「機械」=リッチズの機械という前提が存在したこと、それゆえその前提の上でのみ成立する議論があったことを 指摘された。それは全くその通りだと思うが、一方で、そうした前提に乗らない部分は議論の中で有効に機能して いたようには思えない。それが可能であったかどうかは知る由もないし、恐らくは困難が伴っただろうが、 もしかしたら、明示的に「機械」=リッチズの機械という前提で、各パネリストのスピーチをした方が良かったのではと さえ思える。実際、議論としては1日目の方が興味深いものがあったようだ。

なおシンポジウムの題名について、「21世紀になってどうして"20世紀の音楽"なんだ」と意図を測りかねていると、 開会の際に、司会の長木さんから、要するに「直し忘れ」で、意図的に20世紀に限定する主旨ではないとの説明があった。 前日のものは題名からして歴史的なパースペクティヴが前提となっているのに対し、この日のものは語の本来的な意味での コンテンポラリーを扱うのでなければ、「可能性」というのは素直に考えている限りはおかしなことになるし、三輪さんや 近藤さんといった作曲家をパネリストに呼ぶ意味もない。私も当然、それを期待していたので、とりあえずはほっとした。

1.

パンフレットや駒場博物館のWebページでは言及がなかったのだが、三輪眞弘さんの新作の初演がシンポジウムの 冒頭に行われ、三輪さんが最初のパネリストとして作品の紹介をするところから討議が始まることになった。 この作品についてこの文章で扱うのが必ずしも適当とは思わないが、幾つかの意味で「試演」としての性格を持っていた ようなので、ここで触れることにしたい。

「思考する機械」Thinking Machineは最初にも触れたリッチズ/三輪によるいわゆる自動演奏機械。同じキャンパス内とはいえ、 会場からは些か離れた駒場博物館に展示されているため、録音された「思考する機械」Thinking Machineが生成する音を 聴きながら、西さんが箜篌を演奏するという形態が採られた。公案番号十七というのは、(少なくとも理論上は)決定性の 動作をおこなうオートマトンである「思考する機械」の初期条件を十進数表記したもの。 また、タイトルの「逆コンピュータ音楽」は、こちらは「逆シミュレーション音楽」の直し忘れではなく、従来のコンピュータ音楽に 対するコンセプトとして、今回新たに用いたものとのことである。「逆シミュレーション音楽」の定義を踏まえれば、意味の方は 明らかだろうが、ここで注意すべきは、そのコンセプトの成立の要件には、人間が不可欠なものとして介在していることだと思う。 要するに、「思考する機械」Thinking Machineだけでは「逆コンピュータ音楽」は成立しないのである。

長木さんは「ライヴ・エレクトロニクス」と紹介されていたが、勿論、これが本来「ライヴ・エレクトロニクス」作品として 制作されたものではないのは明らかで、状況が許せば、実物の「思考する機械」と西さんが同じ場所で演奏をすべきものと思われた。 録音された音に付き纏う、別の時間・空間の気配、とりわけ不可避的に一緒に収録されている背景のノイズが箜篌の 非常に繊細な音色と並立するのは或る種異様とも言える感じで、これも意図されたものとは思えない。 音量という点では実物の「思考する機械」も結構大きな音がするのだろうが、人間が知覚する音量は測定値とは 正確には一致しないのだろう。私には、箜篌の古楽器らしいひっそりとした音色や残響が、録音されたベルの豊か過ぎる倍音と 不釣合いな感じが拭えなかった。伺うところによれば、箜篌は大変調律が難しい楽器と聞く。この場合「思考する機械」Thinking Machineの ピッチは固定だから、それに伴う調弦の困難があったようだ。もっとも私のような耳の悪い人間には、ベルの倍音のせいもあって ずれているのかどうかの正確な判断がきちんとできなかったのだけれど。

約7分間、西さんは楽譜なしで規則に従って「思考する機械」Thinking Machineの発する音を条件として、自分の弾く音を演算して 演奏する。更には、リハーサルのための時間の制約で、西さんが充分な準備をする時間的な猶予が無かったとのこと。 私としては、今のところ映像記録によってだけでだが、「蝉の法」の素晴らしい演奏を聴いている西さんの実演に 接することができただけでも得難い経験だったが、願わくば、充分な準備の下、オリジナルの意図どおりの、 「思考する機械」Thinking Machineと西さんとの文字通りの合奏を聴いてみたいと思った。

別のところで私は「思考する機械」Thinking Machineに博物館で接した時の違和感を書いたが、実は、西さんと 「本当に」合奏しているのを思い浮かべたとき不思議なことにその違和感が(すべてではなくても、かなり)消えてしまうことに、 些か驚いた。「思考する機械」Thinking Machineもまた、まさに箜篌がそうであるように古代の楽器であるような印象を持ったのである。 どちらかといえば繊細で、ひっそりとした「思考する機械」Thinking Machineの佇まいも、箜篌には相応しいように思える。 リッチズがもともとそれを狙ってこのようなデザインにしたとは思えないので、これは組み合わせの妙というか、 カバーストーリーこそないけれど、組み合わせが「架空の伝承」を呼び出しているようにも感じられる。

逆に言えば、「思考する機械」Thinking Machineに私が感じた違和感というのは、そういう性質のものなのだ、ということだろう。 私は高度なテクノロジーを連想しつつ「思考する機械」Thinking Machineに接した。しかし、博物館に「展示された」それは音をたてる、 無益な、なにものにも奉仕しない仕掛けに過ぎず、そこには「音楽」が欠けていると思われたのだ。だが、文脈が変われば、 それは紛れもない自動演奏機械なのだ。ただし、それは今日の私の、というよりは、別の時代に住む他の誰かの宇宙なり世界なりの 認識様態が反映したものなのだ。亀の背中に乗った古代インドの宇宙観を己のものとすることはできないが、そこにそうした見方をした人間を感じ取ることは 可能だろう。してみると、私が「思考する機械」Thinking Machineに見ているものは実は変わっていなくて、あちらでは苛立ちの原因であったものが、 こちらでは逆転し、寧ろ機械の不在と、それを代補する録音を再生する再生装置という「テクノロジー」の側に苛立ちを感じたということだと思う。

2.

シンポジウムではパネリストが順番にキー・スピーチを行っていく。三輪さんは上述の作品の紹介のみの簡単なもの。 呉姫淑さんはNam June Paik のテレヴィジョンを使った作品とDonoung Leeのサウンド・インスタレーションの紹介、 高橋雄造さんはいわゆるストリートオルガンにまつわる音楽社会学のような内容、近藤譲さんは制作(ポイエーシス)の立場から、 機械のための作曲と機械による作曲のそれぞれについてと、それに関連して「思考する機械」Thinking Machineの感想を述べられた。 特に呉姫淑さんのスピーチは入念に準備され、映像による作品の一部の紹介もある長大なもので、更に同時通訳つきで あったこともあって、結局パネリスト全員のキー・スピーチだけで2時間近くを要した。パネリスト間での討論というのは全く行われず、 10分の休憩を挟んで、予定では残り40分というところで主として会場からの質問に基づく討議が行われ、(これは 予想通りだったが)予定より30分超過して終了となった。

キー・スピーチの内容からして機械とは何か、音楽とは何かという基本的な設定に関してすら極めて多様で広範な スペクトルを持っており、議論が収束することが望むべくも無いことは最初から予測できたし、実際に司会の長木さんも その点についてははっきりと指摘されていた。こうなると、聴き手としても自分の関心に応じて聴くよりほかないし、それゆえ キー・スピーチやディスカッションの内容を逐一紹介しても仕方ないだろう。それでも、特にディスカッションは会場の最後列に移動して ひたすらその内容をメモしたこともあり、あくまで自分が関心をもって聴いた部分が中心だが、比較的詳細にその内容の 記録が残っているので、その中から、特に印象に残った部分について書き留めておくことにしたい。

とりわけ印象的だったは、最初にも書いたが、近藤さんのスピーチといい、その後の会場からの質問といい、 リッチズ/三輪による「思考する機械」Thinking Machineをどう捉えるかが繰り返し議論されたことだ。この点は自分の 関心の方向とも一致しているので、基本的にこの点を中心にまとめようと思う。

キー・スピーチでは、もともとの私の関心が、創作者の側から見た機械の可能性にあったこともあり、近藤さんのお話が 興味深かった。呉姫淑さんの紹介は、それ自体は興味深いものだったと思うが、私にしてみればどちらも音楽よりは 美術作品に近く、しかも「機械」そのもののメカニズムより、テクノロジー批判といった側面が中心的であったこともあり、 ここでは詳述しない。高橋雄造さんは電気工学者、いわゆる「電気屋」ということで、どのようなお話が聴けるか楽しみだったのだが、 どちらかといえば、音楽に関する「非専門家」の立場の代弁といったニュアンスの発言が多く、興味深い部分も多々あったが 些か拍子抜け。討議の終わり間際、人工知能における思考の定義が話題になったとき、人工知能の領域では 今やGOFAIと呼ばれて久しい、明らかに少数派と思われる見方を是認されたのは、電気工学者としては自然な 反応かも知れないし、あの発散しきった議論の場では適切な粒度の発言だったのかも知れないが、私としては かなり強い抵抗感を感じた。

近藤さんのキー・スピーチは極めて理路整然としたもので、まず最初にご自分の立場を、「機械」と「音楽」の関係のうち 「音楽」の側の多様性に注目し、「音楽」の制作(ポイエーシス)の現場にいる人間として、音楽機械によって「音楽」の側を 見直すというように規定され、その場合の問題設定は、(1)機械のために作曲すること、(2)機械によって作曲すること、の 2つであることを述べられ、それぞれについて論じられた。

(1)機械のために作曲することに関しては、テクノロジーの側面からの素材・媒体の拡大という側面は認めながらも、 結局のところ、通常の楽器と共通の水準で捉えうる媒体の違いに帰着するものと考えておられ、興味はないとのことだった。
興味深いのは(2)機械による作曲の方とのことで、コンピュータによる作曲が可能であることは自明であるとされ、その上で 自動作曲の長い伝統、作曲家の仕事を奪うといった市場の問題や音楽産業での重要性に言及された。その際、言語との 比較をされ、セマンティック・フリーな音楽はシンタクスのみ扱えば良いから、言葉にくらべて自動化は容易であると述べられた。

そしてとりわけ興味深いこととして、上述のような背景により作曲の完全自動化が可能であるという前提にたった場合、コミュニケーションの 可能性という美学的問題が出てくることを指摘された。即ち、作曲者がある「内容」を音楽を媒体として聴き手に送信するという 意図を持って作品を創る、といった前提にたった場合に、「意図」を持たない機械が作曲を行うことで「内容」の伝達とは何か、ということが 問題になってくる。これに対する答えは、音楽におけるコミュニケーションというのは、上述の前提のようなものではなく、聴き手が 音楽からどのような内容を読み出すかは作曲者の意図とは無関係で、従ってそこでは内容の伝達といったようなことは起きていないこと、 実はそれは機械による自動作曲の場合だけでなく、人間の作曲の場合でも同じで、内容の決定というのは不透明なものでしかありえない ということを述べられた。

近藤さんの著作や色々な雑誌に発表された文章を読まれている方にとっては、ここまでの発言はある意味では予想できたもので、従来よりの主張を 整理されて、わかりやすく述べられたものであるとお感じのことと思う。私の印象も概ねそうで、細部では異論がないことはないけれど、 全体としては抵抗感なく受け入れられるお話だった。寧ろこの日ならではのコメントは、それに続く「思考する機械」Thinking Machineへの 印象の方だったと私には思われた。それを私なりにまとめると以下のようになる。

現在では「再生」された音楽を聴くということが中心になっている点を前提に考えれば、音楽とはまずは音響現象であり、聴覚的な オブジェと見做すことができ、実際その前提で商品化して流通したりもしている。一方、それに対して音楽における視覚的側面や 演奏の身体性を重視し、それに加えて更に作曲のフェーズもあわせた全体を音楽とする立場もある。そして近藤さんによれば、 「思考する機械」Thinking Machineは、後者のような一連の音楽行為の総体としての音楽の表現になっている。 そこでは機械が自分で作曲し、演奏しているのを、視覚的・聴覚的に経験でき、そこに音楽行為のすべてが集約されていると 考えられるからである。そして音楽行為の表現になっているという意味合いで、それは一種のメタ・ミュージック、「音楽」についての「音楽」であり、 その様相は、パースやモリスの記号論における意味でのイコン、「音楽のイコン」であると見做せる。

これは実に興味深い発言であり、また、「思考する機械」Thinking Machineを通して、三輪さんの音楽のある側面を明確にしたものと 感じられた。実際、言い方の違いはあるけれど、音楽行為の全体を見直す姿勢は「逆シミュレーション音楽」などに明らかだし、 音楽とは何かを音楽を通じて問い直すスタンスは、メタ音楽的とも言える。そうした姿勢が「思考する機械」Thinking Machineにも はっきりと読み取れるということで、これは卓見だと感じた。論理的にも実に明快で、しかも前段の、機械のための/による作曲の議論とも 整合しているように思われる。自分の「思考する機械」Thinking Machineに対する見方の甘さのようなものを痛感する一方で、 ご自分は専ら人間のための音楽を、ご自分でお書きになる近藤さんが、「思考する機械」Thinking Machineのようなアプローチに このような高い評価をされる、その見識の高さに感嘆してしまった。このシンポジウムではこれ以外にも「思考する機械」Thinking Machineに 関する質問、コメントは幾つか出されたし、質問の中には共感できる切り口のものもあったけれど、この近藤さんの「感想」を超えるものは 一つとして無かったと思う。良く知られているように、近藤さんご自身も際立って意識的に音楽について吟味され、それと並行して 非常に実験的な音楽を作り続けておられる。私は幸い、川島素晴さんの企画による素晴らしい実演に接する機会があったが、 その経験からも、上述の近藤さんの感想は納得の行くものだった。

3.

だが、その一方で個人的な疑問や割り切れなさが、近藤さんの発言で一つ残らず解消したかと言われれば、若干の留保がついて しまうのも確かである。それらは皆、どちらかというとディティールの技術論のようなレヴェルの話であり、巨視的には反論になりえないが、 それでも幾つか疑問は浮かぶ。

例えば、機械のための/による作曲の2分法。前者について、テクノロジーの側面からの素材・媒体の拡大という側面に留意される 発言があったが、私の印象では、寧ろそうした側面がエスカレートした結果、2分法そのものを危うくし、破壊しかねないということは ないだろうか、という感じが拭い難い。三輪さんの音楽は、まさにそうしたテクノロジーの猛威の只中の「現場」からの発信ではないかと いうように思えるのである。私は音楽家ではないが、その一方で、ここでの機械の最も極端なもの、つまりコンピュータと関わって 生きている。一般にはコンピュータとの接し方は強いて言えば(1)に類比される立場になるのだろうが、そもそも「人工知能」というのは (1)をやっているうちに(2)に足を突っ込んでしまったといった性質のものなのではなかったか。コンピュータというのは、そうした区別を 曖昧にしてしまうような類の機械なのだ。しかも「人工知能」とそれ以外の技術との間には、そんなに明確な境界が存在している わけではない。勿論、最先端の研究者の研究なら純粋な(2)というのもあるのかも知れないが、私のような平凡な実用システムに 関わるエンジニアは(1)と(2)を行ったり来たりしているというのが寧ろ偽らざる実感なのである。もっとも、分野が違う人間のこうした 安易な類比は、これはこれで乱暴で粗雑な単純化を含むもので、慎重であるべきだとは思うのだが。

それは例えば、「思考する機械」Thinking Machineにまつわる、いわゆるエンジニアリングの側面をどう考えるかにも影響するように 思える。討論で「機械的な演奏」という言い回しが問題になったときに、近藤さんが「思考する機械」Thinking Machineも 正確に動いているわけではない点を論拠に、それに対してコメントされたときに私はそれを感じずにはいられなかった。勿論、誤差というのは 程度の問題はあれ無くすことはできないし、それをゆらぎとして肯定的に捉える視点があっても良いとは思うが、 「思考する機械」Thinking Machineについては、私はそれには抵抗を感じるのだ。 同じアルゴリズムを人間がやって間違えるのについてなら、それで構わないのだが、、、勿論、近藤さんが まさに直前に言われた内容の通り、作者の意図にはお構いなく、そのように「思考する機械」Thinking Machineを 捉えることができるというのは全く構わないのだが、作者の側にすれば、それは正確にバグなく動くべきなのであって、 それは例えば、演奏が一定の精度で行われるべきだ、という議論の水準に近く、そもそも「機械的な演奏」というメタファーが 問題になるような、解釈のレベルの問題とは少し違うように思えてならないのである。それは人間が作り、人間が演奏する場合には 議論の「前提」のはずなのだが、機械になると捉え方が違ってきてしまうようなのが気になる。逆にそこに「機械=正確」という イメージが逆さ映しになっているような印象が拭い難いのである。

恐らくはそれと関係することだが、「思考する機械」Thinking Machineをメタ・ミュージック、「音楽のイコン」と捉える見方もまた、 私の「思考する機械」Thinking Machineに対する違和感をうまく説明してくれない。それはお前の違和感の方が間違いだと 言われてしまえばそれまでなのだが、私の言い分は、恐らく以下の様なものだろう。

リッチズの(あえて三輪さんの名前をここでは省く)「思考する機械」Thinking Machineは、確かに「音楽のイコン」かも知れない。 そして私はまさに、そうした性質に苛立ったのだと、ふと思い当たったのである。
それはテクロノジーの持つ、上述のようなインパクトを、暴力を持っていない。せいぜいが思弁のレベルでのイコンでしかない。 いわば「たかだか」メタに「過ぎない」のだ。三輪さんがまさに「機械のための/による作曲」の両面にずっと取り組まれ、 自動作曲の現実と限界を現場の感覚として知っておられることを思えば、リッチズの機械に対する命名は、 メタファーであるか、志向的スタンスを狙ったものと考えなければ、その間のギャップは埋め難いように思われる。

「判断と記憶があれば思考だ」というのは原理的には正しいかも知れないが、これは今日においては、最大限好意的に 考えて、例えばチャーマーズがサーモスタットに意識があるかについて論じたような、あるいはホワイトヘッド的な連続主義の ような、寧ろかなり大胆な形而上学的前提に立った議論でのみ有効なもののはずだ。
そうでなければ定義上知的なマシンを作るのは簡単だということになる。人工知能の課題などないことになるし、昨今の 人工知能研究の行き詰まりなど存在しないことになる。そもそも人工知能研究の発端に、チューリング・テストのような 発想があったことを忘れるべきではないだろう。勿論チューリング・テストのみで知性を定義するのにも様々な問題があることは 指摘されている。だが、別に研究の流行を追うわけではないが、初期のAIの極端に論理主義的な前提は今や GOFAIと呼ばれることすらあるのである。

それはもしかしたら、リッチズの機械を取り巻くさまざまな制度の問題とも関連するのかも知れない。勿論、その制度こそが 「思考する機械」Thinking Machineを産み出したのだということを忘れてはなるまいが、「音楽のイコン」とて、会期が終われば 恐らくは倉庫にしまいこまれ、次にどこかで展示されるのを待つことになる。音を発することなく倉庫に保管されたそれは イコンとしては機能し得ない。あるいは壊れてしまうかも知れない。ところで、こうした制度的な側面もまた、三輪さんの活動の 主要な関心の一つだった筈である。さしあたってそれはロマン主義の時代に確立し、現在でも商業主義的な洗練を経て、 機能し続けているコンサートという制度の批判だったかも知れないが、だからといって、別の制度に乗り移ってそれが解決できる というものでは無い筈なのだ。近藤さんの音楽がそうであるように、リッチズの機械もまた、そうした制度については、あえて 超然としたスタンスをとっているように思われ、「音楽のイコン」というのはそうした前提において成立する見方なのでは、という気が したのである。

4.

以下、ディスカッションで会場から出た「思考する機械」Thinking Machineや三輪さんの作曲についての発言を簡単に振り返り、 感想を書いておこうと思う。なお、会場では発言者の名前を言うことが義務付けられていたが、以下では原則として省略することとする。 内容と、その発言の背景だけを問題にしたいからである。なお、ディスカッションでは「思考する機械」Thinking Machineだけが話題になった わけではないが、それらについてはここでは扱わない。勿論、全く無関係ではないとは思うが、ここではあえて範囲を限定して記述したい。

(1)「思考する機械」Thinking Machineのどこに「思考」が宿っているか、という質問。これはThinkingを三輪さんの意味で用いる時には 明らかで、三輪さんの回答も、当然のこととして「ボールと機械の状態を変える機構にある」ということになる。けれども以下の発言でもわかるように、 会場にはThinkingを三輪さんの意味で考えることに抵抗がある人も居たし、三輪さんの意図自体が文字通りに(納得されなくても)理解されていたとは 言い難いようだったので、この発言は寧ろ好ましく感じられた。実際、ここは本来「急所」であると言っても良いのだ。意識のアポリアで良く引かれる 思考実験には、このタイプの議論は少なくない。そこではニューラル・ネットワークをある別の媒体(コンピュータ・プログラムや単純なルールに従った 人間の集団の挙動など)に置き換えることによって何が起きるか、意識というのがニューロンという媒体と不可分のものか、 それとも同一のメカニズムを持っていれば充分なのかが問題にされるのだ。この質問者はドイツ人だったけれど、三輪さんの意図のある部分を よく掴んでおられたように感じられたし、以下に紹介する発言の全体を通じて、Golden Nicaの審査のコメントと通じるものを感じ、私としては心強く感じられた。

(2)「思考する機械」Thinking Machineとやはり今回、博物館に展示されたNomadische Harmonieとの関係。質問者は(1)と同じ。 これはまさに私が抱いた疑問でもある。(なお、Nomadische Harmonieについても「思考する機械」Thinking Machine同様、 それに触れた感想を別にまとめたので、興味がある方は参照していただければ幸いである。)
三輪さんの回答は、Nomadische Harmonieのメカニズムを簡単に紹介し、その発想が「思考する機械」Thinking Machineの先駆であると 考えられるというもの。質問者の意図としてはNomadische Harmonieに感じ取れるorganicなものは「思考する機械」Thinking Machineでは どうなったのか、というニュアンスもあったように思えたのだが、その点はその後直接論じられなかった。牽強付会かもしれないが、 彼のいうorganicなものは、私の感じた「身体性」と近い印象ではないかと思う。それだけに、この点にその後の議論のフォーカスが当たらなかった のは私としては残念だった。

(3)「思考する機械」Thinking MachineのThinkingをリッチズの定義、即ち「鑑賞者に考えさせる機械」、聴く、見るだけでなく機構について 考えさせる機械と捉えることに賛同する意見。これは「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」全体の企画者であるゴチェフスキさんのもの。 それによって、鑑賞者に別のコミュニケーションが成立しうることを述べ、さらに、小さな子供の反応、それに対する親の応答など、実際に 展示会場で見られた鑑賞者側のコミュニケーションの成立を評価する意見である。
これに対する三輪さんのコメントは、(予想されたことだが)「そうとも言える」というもの。

確かに、インタラクティヴ・アートには、作品と鑑賞者ではなく、 その場にいる鑑賞者間のインタラクションに狙いを定めたものがあるそうで、そういう意味では、これは実は典型的な反応なのかも知れない。 別にそうした見方を否定するつもりはないが、三輪さんの意図とは異なるもので、それでは「思考する機械」Thinking Machineはリッチズの 単独作品でいいことになる。(まあ実際、会場に置かれたFAQの作りといい、展示の仕方にはそういう感じもかなりあったのだが。)
またこれに関連して、このタイトルが共同制作委嘱の際に殆ど即興のように決められたというエピソードを披露なさっていたが、仮にそれ自体は事実だとしても、 だからといって「思考する機械」Thinking Machineという命名がその場の思いつきであるということにはならない筈である。 率直に言って、それが「機械と音楽」にまつわる共同制作の企画者の発言だと思うと、首を捻ってしまうが― 実際、上掲の質問やコメントをしたドイツ人のように、三輪さんのスタンスに「機械と音楽」の関係についてのラディカリズムを感じる人間はいるのだし―、 結局、ゴチェフスキさんは端的に「マーチン・リッチズ展」をやりたかっただけなのだと考えて納得するしかなさそうだ。

なお、この発言に関しては、近藤さんがThinkingを三輪さんの意味で捉えることを支持する発言をされた。その場の議論の流れを 改めて顧みるに、この発言に私は率直に言って深い安堵の念と、近藤さんはやっぱりきちんとわかってらっしゃる、という 感嘆の念を抱いたのを思い起こす。勿論、そうでなければ「機械による作曲」という側面が落ちてしまうのだから、それまでの近藤さんの 発言を考えれば当然なのだが、ご自分の制作(ポイエーシス)の現場では直接取り組まれているわけではないことを考えれば、 この発言自体に驚かれた方がいたとしても不思議ではないかも知れない。人それぞれの展望は異なり、この場では人工知能研究など 少なくとも話題の中心ではないのだろうから、近藤さんが人工知能研究に言及され、三輪さんの意図を支持されたのは、 私にとっては非常に印象的だった。仮に三輪さんが同じ事をおっしゃっても、それはご自分の意図の解説としてとられてしまった だろう。私個人にすれば三輪さんご自身が解説されれば更に良かったようにも思えるが、パネル・ディスカッションという場に 作用するダイナミクスを考えれば、この発言の持つ力は大きかったと感じられる。

だが、その一方で、その直後に続く議論の展開は、今度は私にとっては些か期待はずれのものだった。すでに述べたように、 それが「人工知能」におけるような定義に基づくものだというコメントは、それ自体間違ったものなくても、そこで固定化されて しまえば、今度は些か単純化されすぎていると私には感じられたのである。それを電気工学者の高橋さんが首肯し、更には「理系的」と いう言葉で置き換えられてしまうに至っては何をかいわんやである。

それにも関わらず、このシンポジウムの文脈では、それが適切な発言だったということもまた確かなことだ。もしかしたら、近藤さんも 高橋さんも、そうした前提にたった「聴き手へのサービス」の精神に基づく発言を、あえてされたのかも知れない。あるいはそうでなかったとしても、 仕方ない側面があることも認識している。同じ人工知能研究に携わっていても、例えば工学者と言語学者が共同研究をすることの困難、 あるいは音声認識の研究者と自然言語処理の研究者が共同研究をやることの困難を思えば、同じ「理系」でも分野が異なれば、 問題の所在についての展望が異なるのは仕方ないことなのである。

このようなシンポジウムの場では、まずはThinkingを三輪さんの意味で、 即ち、文字通りに「機械が思考する」というように受け止めることが可能であることを確認することが重要なのだ、と言われれば、それは 確かにその通りで、私の違和感はあくまでも個人的な文脈に依存するものだというのは認めざるを得ない。「そんなに文句があるなら 会場で発言したら良かったのだ。今頃になって文句を言うな」と言われてしまいそうだが、既に予定時間を大幅に超過している状況で、 私のような「部外者」が自分の関心領域に強く拘束された発言をして、時間を消費することは躊躇われたのである。ましてや名前を所属を 名乗らなければ発言はできない。それが匿名での無責任な発言への予防線で、学会などでのコンヴェンションであることは知っているが、 どっちみちこの文脈での私のロールに限れば所属などない。要するに「部外者」として、予め匿名性を刻印されているのだ。「傍聴者」は おとなしく聴いていれば良いのである。

それでも、割り切れなさが残るのは仕方ない。Thinkingを三輪さんの意味で考えることを認めたとき、それと同時にリッチズの機械の 振る舞いをThinkingと呼ぶことがどんなことであるかについての私見は、既に上に書いたので繰り返さないが、そうしたスタンスと「機械による作曲」の 方向を追求することの間には、20年前ならいざ知らず、少なくとも今日の時点では大きな懸隔があると私には思えてならない。 別に皮肉を言いたいわけではないが、文字通り、「20世紀の音楽における機械の可能性」だったら別に構わなかったかも知れない。 だが実際には、既に21世紀になっているのである。字義通りにコンテンポラリーを問題にし、テクノロジーを問題にするなら、 その違いは決して瑣末なものではないのだ。

(4)韓国ではコンピュータが用いられることが多く、メカニズムそのものに注目がいくことはないのに対し、「思考する機械」Thinking Machineは メカニズムを中心にしていて新鮮だった、というコメントは、想像がつくようにパネリストの一人である呉さんのもの。このコメントは、会場から 出されたポピュラー音楽などに典型的な「作曲者の不在」に関する問題提起への反応の一部であり、その文脈で「思考する機械」Thinking Machineに ついてのコメントが述べられたのである。それによれば、「思考する機械」Thinking Machineにおいては演奏行為も作曲行為も不在だとは思わない。 自動楽器のデザインに作曲者の意図は含まれるのであって、どのようなコンセプトで作曲を行うかという点を重視する観点にたった場合でも、 「思考する機械」Thinking Machineの意図は明らかであり、positiveに捉えているとのことだった。

このコメントは、「思考する機械」Thinking Machineを トータルの音楽行為の提示と見做す点で近藤さんの感想に近いと考えられる。作曲者の意図という点についても、ここでは音響現象の「内容」の 次元で捉えられているのではないから、これまた近藤さんの見解とは必ずしも対立しない。けれども、それでも意図の伝達の問題は依然として 残るには違いない。否、普通はこうしたレヴェルでの「意図」の方が遙かに掴み難いと思われているのではないか。そうした「意図」を評価するのは 結局、時代は変わっても、呉さんをはじめとするパネリストの方々や、質疑応答での質問者の方々を含めた、この会場の大部分を占めていたと 想像される、アドルノの言うところの「聴取のエキスパート」に限られるのではないか。呉さんはアドルノを研究されているようだったし、 このコメントは寧ろそれを出発点として議論をしていくのに適した性質のものと感じられたので、「部外者」の私としては、これが質疑応答の中で 述べられて、それきりになってしまったのは些か勿体無い感じがした。

(5)三輪さんを作曲者も含めた人の主体性を本気で消してしまおうとする唯一の作曲家として捉えているというコメントがまず為され、その上で 一方で作品には紛れもない個性が見られ、様式が存在することが指摘される。近藤さんの「音楽はセマンティック・フリーである」という議論を 踏まえつつ、個性や様式の感受が「思い込み」なのか、それとも作曲者の主体性の確保の意図が三輪さんの側にあるのかという質問がなされた。 これは日本人の音楽学者の先生の発言で、最初のコメントはニュアンス的に、それを肯定的に評価するものであったと私は受け止めた。
この質問のうち、近藤さんの提起した問題図式に関わる部分を三輪さんのケースに適用する、という点については興味深いものがあるし、 それはこうした場での議論よりも、寧ろ時間をかけた検証が相応しいテーマであると思うが、それよりも何よりもコメントの最初の部分に対して、 私は思わずあっけにとられてしまった。

もちろん、それは例えば「思考する機械」Thinking Machineの或る種の論理的な帰結である、という主張も成り立つかも知れないし、 「逆シミュレーション音楽」に対するGolden Nica講評の否定的な意見にあるようなファシズムへの懸念と裏腹の関係にあるのかも知れない。 さらには、これまた21世紀ではなく、すでに過去になった20世紀にさんざん持て囃された、かの「主体の死」を論じるような思潮との関係が あるのかも知れない。それらは、ここで私の如き人間が論じることは到底できないほど広大な射程を持つ問題に違いなく、 私がここでそれについて主題的に論じることができることなどない。それはそれこそ、このようなシンポジウムで専門家であるパネリストを 中心とした研究者の方々が論じるに相応しい話題なのだろうと思うが、時間の制約もあり、また恐らくは質問のスタンスが 最後は三輪さんの活動にフォーカスしたものであったせいもあって、この点について主題的に論じられることが無かったのは残念だと思う。

だが、いずれにしても、三輪さんのとりわけ近年の活動を拝見する限り、私見では「作曲者も含めた人の主体性を本気で消してしまおう」などと 三輪さんが「本気で」考えているとはどうしても考えられないのである。作品からの個性の読み取りの問題とは異なって、こちらは どのみち狭義での音楽の外の議論なのだから、例えば三輪さんがなぜ「架空の伝承」を設定するのか、「奉納」という言葉や 「修行」という言葉に何故三輪さんが拘るのか、あるいはそもそも何故三輪さんが作曲をするのかについて想像力を働かせれば、 理屈の上の結論はどうであれ、そこには(控えめに言っても、少なくともポイエーシスの、即ち「造る」)主体が残るように思われるのだ。

確かに、そこで言われる主体の「主体性」は、何か「新しい」「異なった」ものかも知れないが、だとしたら今度は 「主体性」の定義をせずに「主体性の消去」を論じることに無理があるということになるだろう。もしかしたら質問者はレトリカルな意味合いで、あえて挑発的な 言い回しの質問をされたのかとも思うが、三輪さんの回答は勿論、「作曲する主体の消去はしていない」であった。あくまで 「ロマン主義的な音楽観の消去」を意図しているのであって、もし「主体」という言葉を使うのであれば、「ロマン主義的な音楽観における 主体性」とすべきなのだろう。だがいずれにしても、その場合には、天才の神話や霊感による創造といったイメージにおける作者の神話の解体が 問題なのであって、作曲行為の主体の水準の話とは区別されるべきである。

「機械による作曲」の極限に「主体性の消去」のような発想が存在するという指摘そのものの方は正しいし、そうした認識は実は三輪さんもお持ちだろうと 想像するし、恐らく、今回の共同制作のモチヴェーション、そして「思考する機械」Thinking Machineという命名に、そしたヴィジョンが 影響しているのではないかとも思う。だが、実際の三輪さんの活動をトータルで見れば、それがそちらの方向を目指しているのでないことは 明らかであると私には思われる。否、「逆シミュレーション音楽」の定義を見れば、そこでははっきりと「作者」の存在が前提とされているではないか。 勿論、そうした三輪さんの方向性に異を唱えるということになれば話は全く別で、それならば成立しうると思うのだが。

(6)「思考する機械」Thinking Machineについての感想、その課題についての意見。(1)(2)の質問者のドイツ人によるもの。人間と機械の力の対立という メディア論的な視点から捉え、それを機械化された時代である今日の課題であると見做す。その上でそうした課題を考える上で、 音楽の立場の独自性を、それが思考・計算・アルゴリズムといったものとの交差点になりうる点に見出すコメントであった。

これは、シンポジウムのいわば結びとして述べられたもので、多少はそうしたコンテキストを差し引いて考えるべきかも知れないが、 私としては、シンポジウムの結びで、(別にそうする必要はないはずなのに)あえて「思考する機械」Thinking Machineへの関連付けに こだわった点が印象的に感じられた。私見では、細部には色々と疑問はあるけれど、少なくとも「思考する機械」Thinking Machineが、 まさに今日的な問題意識の産物であるという点は、全くその通りだと思う。

なお、この文章の冒頭に記述した、議論の前提としての機械に定義に関する長木さんのコメントは、この「まとめ」に対する反応でもあったのだが、 勿論、その「まとめ」が「機械と音楽」の関係の広がりのうちの一面に過ぎず、もっと別の捉え方があることを否定するわけではないものの、 これも最初にも書いたとおり、寧ろ「思考する機械」Thinking Machineを巡る議論に絞っても充分なくらい、その上に色々な意見が交錯する、 まさに「交差点」に「思考する機械」Thinking Machineがなりえていたように感じられたのである。

5.

最後の長木さんの説明によれば「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」全体の参加者はのべ7,000人とのこと。10月20日から6週間の博物館での展示、 コンサート2つとシンポジウム2つが公開の催しだったが、参加者数が多いのか少ないのかは私にはわからない。ちなみに2日目のシンポジウムの参加者は、 スタッフやパネリスト含め50名程度だったと思う。しかも、ほとんどの方が何らかの形でテーマに専門的に関わっておられるようで、私のような純粋な 「お客さん」はほとんどいなかったのではないか。だが、私のような「部外者」にとっても、この催しは非常に刺激に満ちたものだった。何しろ、3回会場を訪れ、 その都度の感想をこうして文章にまとめるだけのものを受け取ったのだ。改めてこうした企画に対して、受益者の一人として敬意と賛意、 そして謝意を表したいと思う。

なお、この文章の性質上、主題的に論じることができなかった「思考する機械」Thinking Machineについてはもう一度、 今回のシンポジウムに参加して改めて考え直したことに基づき、上で触れることができなかった論点も加え、 自分の問題意識に引き付けた上で、改めて感想をまとめようと思っている。 (2007.12.8初稿, 12.9,10,11,12加筆修正, 2009.6.16誤字訂正)

2007年11月28日水曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」再訪記(2)

マーチン・リッチズ/三輪眞弘 Thinking Machineについて
2007年11月26日東京大学駒場博物館

[はじめに]

以下の文章をお読みになる方に、予想される誤解を未然に防ぐべく、幾つかお断りをしておきたい。本来ならこんな前書きをつける くらいなら、誤解がないように本文の改訂をすべきかも知れないのだが、今回については、今のところ本文は初稿のままの形態を 残しておくことにした。

(1)まず、タイトルではリッチズ/三輪の共同制作と書いておきながら、本文中では、専ら作者がリッチズであるかのような書き方になっている点。
共同制作であることは、パンフレットにも謳われており、三輪さんのWebページでもそのように紹介されている。だがその一方で、会場に 備え付けのFAQが記載された資料は、リッチズの署名しかなく、三輪さんは専らアイデアの提供者として紹介されている。また、この作品は 他のリッチズの作品と一緒に展示されているのである。私が以下に記した反応が、FAQやその他のリッチズの作品という文脈の影響を 強く受けていることを否定するつもりはない。そして、その前提の上で、私はThinking Machineを第一義的にはリッチズの音楽機械作品と 受け取ったのである。例えば以下の記述のうちどれだけがThinking Machine固有のものかを改めて考えると、その点が一層明確になる。 つまり、以下の印象はThinking Machine固有のものというよりは、他の作品も含めた全体的な印象と言っても良いのだ。本文でも書いたが、 それは「何ものにも奉仕しない」ように見えて、でも少しも匿名ではない。リッチズの署名がされているように感じられたのである。

(2)リッチズと三輪さんに対して私が持っている情報の量には圧倒的な不均衡が存在する点。
私はリッチズについて、上述した以上の文脈は一切持っていない。三輪さんについては、一定量の情報を持っていて、誤解を 含んでいるにせよ、自分なりの了解が存在する。この情報量の不均衡が以下の記述に反映するのは避け難く、ことThinking Machineに 話を限定すれば、どうしても違和感の原因を、リッチズの側に投影してしまうことになっているのは否定し難い。
だが、裏を返せば、そこに投影があったとしても、それは結局、リッチズの他の作品やFAQでの彼の言葉に強く条件づけされたものであり、 上記のように、それをリッチズの作品の感想と考える限りでは、以下の内容について基本的に修正する必要性は感じていない。

(3)ということは、三輪さんの側から、しかも共作者としての三輪さんの側からの展望は、また異なったものである筈だという点。
実は私は以下の文章を書いた時、全く不当なことに、この視点を全く欠いていた。この点については三輪さんにお詫びしなくてはならないと 感じている。ヴィジョンを持つものにとって、それが具体化されることの持つ意味、自分のコンセプトが実際に動くのを見ること、しかも、 他の人の作品に、自分のアイデアが埋め込まれて実現されることの意義を見失ってはならなかった。それは、もっと平凡なものしか つくることができない私のような人間でも、そしてその対象が遥かにつまらないものでも、我が事になれば感じるのは間違いない筈のことなのに、 そうした想像力が私には欠如していたのだ。三輪さんにとっては、このプロジェクトはその点をもって「成功」と呼べるものだったということを 反省の念とともに、ここに補っておきたい。(2007.11.30補記)


三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れるべく東京大学駒場博物館を再訪したおり、併せて「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の 展示を見てきた。展示の中では、何といっても今回の目玉のマーチン・リッチズの「考える機械」(Thinking Machine)がお目当てだったのだが、 会場のスタッフの方に実演もしていただき、興味深い経験ができたので、これを中心にその感想をまとめたい。

最初に三輪さんのWebサイトで、「考える機械」(Thinking Machine)という命名を知った時に私が反射的に思い浮かべたのは、 「人工知能」の生みの親の一人であるマーヴィン・ミンスキーが創立した超並列コンピュータの会社名だった。 今はすっかり「人工知能」という言葉もアウラを喪ってしまったが、 コンピュータの黎明期には、コンピュータそのものが「電子頭脳」と呼ばれた時代だってあったし、「人工知能」華やかなりし頃は、 コンピュータが「人間のように考える」ことが近い将来に可能であるかの如き幻想がふりまかれたこともあったようだ。 日本では、最近亡くなられた淵一博さんを中心とした「新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)」が組織され、 「第五世代コンピュータ」の研究・開発が国家プロジェクトとして行われた。 人工知能研究は世間的には失敗した、あるいは控えめに言っても行き詰ったと思われているようだが、そうした判断の適否は おくとしても、コンピュータのハードウェアが凄まじい勢いで高機能化した一方で、「考える機械」の方は逃げ水のように捉え難いもので あり続けているのは確かなようだ。人工知能研究が世間的には退潮していくのと入れ替わるように、脳科学、神経科学の成果が 世間を賑わすようになり、ちょっとした「脳」ブームといった様相さえ呈したのは記憶に新しい。そして、その一方で―これは相対的には 日本固有の現象ではないかと思うのだが―「アイボ」「アシモ」あたりから始まって、「ロボット」がちょっとしたブームで、ロボット同士の 競技会の類が数多く催されてきたし、あるいは今現在でも、ロボットの博覧会が行われていたりもする。

だが会場の展示内容は、上記のような私の連想とはさしあたっては無関係で、それは西洋における自動演奏機械の歴史と、 自動演奏機械にまつわる思考の伝統を辿るというものだった。ピタゴラス派の天球の音楽から、アタナシウス・キルヒャーの ような新プラトン主義的な音楽観を経て、20世紀初頭のプレイヤーズ・ピアノに至るまでの流れが概観できるようになっている。

そしてそれと「背中合わせ」のように、マーチン・リッチズの音楽機械が、ダダ(デュシャン)や未来派(ルッソロ)に縁取られて 並べられている。「考える機械」(Thinking Machine)はそのうちの一つである。「背中合わせ」というのは、私にはリッチズの 音楽機械と他の展示との間に何となく乖離したものを感じたからだ。勿論、その間の連続性を主張するのは容易だし、 それを認めるに吝かではないのだが、何となく後付けで2つのアイデアを無理やり同居させたような感覚は拭い難い。 別にそれがいけないというわけではなく、考え方によっては共通のテーマのもと、少し違ったテイストの企画を2つ見れて お得だと言えないこともないのだが。

その異質感を私はまだ端的に言語化できないのだが、その由来については何となく思い当たることがないこともない。 まず、リッチズの機械は、実用性とか、それによって可能になる音響の一般的な意味での音楽的な価値とは無縁のものであろうとしているように思える。 一方でそれは、古の音楽機械、あるいは例えば音楽時計が持っていたコスミックな、より大きな秩序への情熱とも無縁のようだ。 音楽時計は時を告げるという役割があって、その機能こそが大きな秩序への通路なのだし、プレイヤーズ・ピアノはその機構自体は 「汎用的」に出来ている。あるいはまた、自動化というのはテクノロジーの追求といった側面があって、別に人工知能を持ち出さずとも、 とりわけ今日の音楽は、私個人にとっては中心的ではあっても、全体のなかではほんの一部を占めるに過ぎない伝統的な音楽を除けば、 まさにテクノロジーの上に成り立っているのだ。現代音楽でも、最先端のライヴ・エレクトロニクス技術を用いた作品が作られるかと 思えば、今やPC上で作曲や編曲、そして視覚的なメディアとの融合が可能な時代になっており、先日の自動ピアノのコンサートでも そうした作品の一つが演奏された。リッチズの機械は―実際には、コンピュータの支援を受けて動いているのだが、それでも「本体」の 動作機構自体をとれば―単に「ローテク」なだけではなく、「決められたこと」のみをやるようにできている。後述のように、それが オートマトンで、実際に生成される音の系列は見かけほど単純ではないにしても、そのアルゴリズム自体はいわばハード・コードされているし、 一方で生物が備えているような可塑性を全く欠いている。

一方でリッチズの作品は(自動楽器であることをおけばパーチを連想する人がいても おかしくないだろうが)、この世に一つしかないものだし、何かの役割を与えられているわけではない。 博物館でも美術館でもいいが、そこに置かれ観賞されるために作られていて、しかも別に存在する音楽作品を再生する媒体ではなく、 それ自体が作品たることを主張している。勿論、実現される音響について全く無頓着ではないのはわかるが、実現される音響に接すれば、 例えばそれをオルゴール替りに使う人はいないだろう。例えば音が鳴る間隔の長さは、ベルを鳴らすボールが転がる軌道の長さと傾斜、 それからベルを鳴らしたボールに再び位置エネルギーを与えるべく持ち上げる車輪の回転速度に規定されるが、それはまさに設計による 選択の産物の筈である。意図された退屈さ。あるいは観賞する人間を選別しようとするかのような、 愛想の悪さ。それはコンサートホールで演奏される作品が無意識のうちに備えてしまう、あのどことなくキャッチーな傾向から身を 離そうとしているかのようだ。さりとてそれが、人間を超えた秩序を志向しているというわけでもなさそうなのである。

私にはどちらかと言えば、現代美術にしばしば見られる、音の出るオブジェの類に近いように思える。 概ね木で作られたそれは、精巧にできているけれど、それだけにかえって繊細で、頼りなげでエフェメールなものにすら感じられる。 「美術品」に相応しく、Don't touchと注意書きがされ、見る人から隔離され、会場のスタッフの人のみが操作することを許された存在。 触れたら壊れてしまうのだろうか?―少なくとも頑健性は考慮されていないのだろう。操作には熟練が必要なのだろうか?― この作品に限定していえばそういうことはないだろう。でも、ウニカートな機械に熟練が必要だとしたら、何とコストのかかることか、、、。

永遠の秩序とは逆の、ヴァニタスすら思わせるような、目的を持たない機械。 野外で風雨にさらされることは想定されていないだろう、湿度や温度の変動に対する耐性はどうだろう、 どの程度の精度で作られているのかわからないが、「うまく動かない」こともありそうだし、 「楽器」「機械」としての耐用年数はどれくらいか、ウニカートであるゆえ、故障したらどうなるのか、などということの方が気になる。 初期値を与えたら永遠に動き続けるというのはプラトン主義的な理念の世界のことで、現実には機械は 人間のケアなしに動き続けることはないのである。それともDon't touchを、実は西欧の伝統において特別な意味を 持つ、あの「我に触れるな(Noli me tangere)」のように読み替えろとでも言うのか?

そしてこれは多分瑣末なことではない。「機械仕掛け」「自動」は勿論偽りではないが、だが、それは事態全体の半面にしか過ぎないように思われるのだ。 リッチズがわざわざ手作りの機械に拘る意図の所在は私の容喙するところではないが、こんなところで「手作りの良さ」を主張されても当惑するだけだし、 一方で、実はテクノロジー批判が秘められているのだとしても、それが作品に対して感じた疎遠な印象を救うことにはならない。 さらにまた、音楽時計もプレイヤーズ・ピアノも、恐らく制作コスト、耐用年数、故障率、維持管理コストなどなどといった尺度を適用することが できるし、また適切な対象だ。否、自動演奏機械だけではない。人間が演奏する楽器とてそういう点では変わるところはないだろう。 だが多分、リッチズの機械はそうした尺度からは自由なのだ。そしてその理由はといえば、それはこの機械が何ものにも奉仕しないから ではないか?

そしてそれは、いわゆる「ロボット」であろうとしているわけでもない。別に動物や人間のようなかたちをしているものだけがロボットではなく、 実際には工場のラインにはたくさんの産業用ロボットが活躍しているわけだが、仮にリッチズの機械が「オートマトン=自動人形」の実装の一形態で あったとしても、人がそれを「ロボット」と呼ぶための何かが、リッチズの演奏機械には決定的に欠けているのだ。 (何にも奉仕しない、という属性から、あるいは人はアシモフのロボット三原則を思い浮かべるかもしれない。あるいはロボットという言葉の 由来であるチャペックのチェコ語の原義に思いを致すかもしれない。そう、そういう意味合いにおいても、確かにこれはロボットではないのだろう。)

もっとも、こうした視点はそもそも「機械じかけの音楽」をテーマとしたこの展示にはお門違いなのだろう。音楽絡みということなら、 トヨタに頼んでトランペットを吹くロボットくらい連れてくるかと思ったのだが、このプロジェクトの関心はそちらにはないらしい。 まあ、歴史については「西欧の」という範囲限定があるらしいので、まずもって日本のロボットはそもそも対象外なのだろうが。 そしてこの点はリッチズの作品とその他の展示の対象に共通することかも知れないが、ここでは機械とは人間とは異なるもの、 端的に人間とは異なるものなのだ。しかもそれは例えば鳥のような人間とは異なる「被造物」とも違って、あくまでも人工物なのだ。

まるで出来上がったものよりも、そのようなものを設計し、組み立てることの方が大事であるかのように。 確かに完成した作品は、視覚的にも聴覚的にも観賞できるものになっているかも知れない。だが、機械がそのように動くことは 設計や製造の延長線にあって、それが「人の手を離れる」ことはない。設計したものは意図どおりに動かなくてはならないし、 精巧な仕掛けは、それを観賞する人を作り手、作者に送り返す。これはこれで「自動」であるかも知れないが、「自律」と呼ぶのは 躊躇われる。あるいは「自律」という言葉の捉え方に深い溝のようなものがある、というべきかも知れない。

私見では、マーチン・リッチズの楽器製作そのものは結局のところ「考える」というメタファーとはあまり関係がない。 「考える機械」(Thinking Machine)の命名者はどうやら三輪さんのようで、アルゴリズムも三輪さんの「蛇居拳算」で、 それを使うことを提案したのも三輪さんのようだ。命名に対する三輪さんの説明、要するにこれが「再生装置」ではなく、 「生成器」であるというのは間違いではないけれど、そういう意味では「考える機械」(Thinking Machine)という名称は、 リッチズの機械の独占物ではありえないだろう。「またりさま人形」がまず思い浮かぶし、例えば手順派による 逆シミュレーション音楽の実演は、その全体が「考える機械」(Thinking Machine)ではないのか?(どうでもいいが、 これはどことなく、意識のアポリアの問題ではお馴染みの、中国人によるニューロンのシミュレーションの思考実験を思わせる。) 勿論、逆シミュレーション音楽に「知性」を感じるのは無理な話で、その点では結論だけ見ればリッチズの機械と変わるところはないのだが、 いわば分散・協調型のシステムである「またりさま」に比べて、リッチズの作品は孤独で、どことなく自閉的な印象を覚える。 ひとりジャンケンみたいなもので、何が面白いの?という感じが付き纏うのである。いっそのこと音楽時計のような「再生装置」で、 素晴らしい音楽でも奏でれば、もっと長時間人の足を止めることもできるだろうが、リッチズの機械の奏でる「音楽」とは、 ずばり「機械のたてる音」なのだ。

機械のたてる音、機械化された工場がかつて持ちえたインパクトについては、未来派などの潮流や、有名なところでは例えば ラヴェルの「ボレロ」などにその痕跡が記録されているが、それとて端的な音響に対する驚きではなく、 機械の「正確さ」「自律性」を可能にするテクノロジーのアウラあってのものだったに違いない。 一方、リッチズの機械の方はと言えば、例えば水車小屋のたてる音、あるいはきっかけを与えると暫くは慣性で動き続ける 様々な機械やおもちゃの類の立てる音と大きく違うところはないように思われる。

勿論、三輪さんの意図が全くの無になることは無いけれど、でもこのレベルでは、結局は状態の数と遷移規則の 種類の問題に過ぎないし、ゆらぎのようなものを肯定的に捉えるにしても、それがこの機械固有のものなわけではないだろう。 二人とも「考える機械」という命名は大袈裟だと書いているが、何か意図したのだが及ばずに名前負けしたというよりは、根本的に ずれている感じがしてならないのである。それは共同制作という形態にまつわる問題なのかも知れないが、丁度、展示の コンセプトが分裂しているように、ここでもリッチズの機械への三輪さんのアイデアの接木は、あまりしっくりいっていない感じがして ならないのだ。例えば、リッチズの機械を、同じアルゴリズムを用いている三輪さんの「逆シミュレーション音楽」のあるヴァージョンと 比較してみるのは興味深い。ここで何が用いられ、何が無視されているか、その選択が何を意味するかを考えてみるべきなのだろう。 アルゴリズミックな方法論を採用することがアプリオリに結果を保証するものではないのは勿論、異なる土壌に移植された コンセプトは、最早同じ価値を持ちえない。三輪さんのコンセプトが孕んでいる毒の部分はここでは解毒されているように見えるが、 それとて歓迎すべきことなのかは疑問だ。洗い桶の水もろとも赤子を流してしまうことにはなっていないのだろうか。独身者の機械? そもそもこれは一体これはまだ「音楽」なのか?これは人間が聴くものなのか?

要するに、三輪さんのWebページの予告を見て私はもの凄く期待をしていたので、率直に言ってひどく拍子抜けしてしまったのだ。 勿論マーチン・リッチズの楽器には価値がない、と言いたいのではない。彼の取り組みに意義を見出す人がいるであろうことは 想像できるのだが、残念ながら私はあんまり興味を持てなかったというだけのことだ。あるいはまた、まさに私が抵抗を感じたその 理由が、別の人にとっては賞賛の理由そのものであるような事態だって考えられる。(実際、この文章を読んだある人は、 「これは、実は反語的に賞賛になっているという読み方もできる」と言ったほどである。)面白くないのか?―しばらくは機械が動くさまを 眺め、間歇的に鳴らされるチューブラー・ベルの音を聴いていたけど、それだけ。でも、お前はそれを見て色々と考えただろう、 それだけ刺激的な作品なんじゃないか、と言われるかも知れないが、率直に言ってあまり「楽しめなかった」のである。展示会 全体としての企画は非常に興味深いものだったけれど、リッチズの音楽機械について言えば、私にとってはそれが何か新しい発見を もたらすようなものではなかったし、温故知新にも、何かに対する相対的・批判的な認識への手がかりになることもなかった。 もっと端的に言えば、それが三輪さんとの共同作業の結果、「考える機械」(Thinking Machine)と名づけられなければ、 興味をひくことはなかったし、ネガティブであれポジティブであれ、あれこれ考えを巡らす対象にはならなかった。 限られた時間を思えば、それは素通りしてしまう多くの事象の側に分類されてしまっただろうと思う。

それにしてもこの違和感の原因は何だろう、と改めて思う。別にそれが、一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなもので あることが原因なわけではない。「機械じかけの音楽」に関心がないわけでもない。だが、何か決定的な齟齬があって、 「普通の音楽」、人間が作り、人間が演奏し、そして人間が聴く音楽、そこで使われる楽器の場合に比較して、なお 一層極端なかたちでその齟齬が現れているように感じられる。

上にも書いたのだけれど、これは「音楽」なのか?というのが最も端的な違和感の表明なのかもしれない。 そしてリッチズの作品とその他の展示の間に感じた懸隔もまた、この点に由来しているのではなかろうか。 実際にはそちらの方が中途半端なのだ、という批判はあるかも知れないが、それはさておき、古代以来の「機械じかけの音楽」に対する情熱には、 聴くことに対する人間の欲望が伴っていたように思える。たとえピタゴラス派の天球の音楽が、通常の聴覚では聴き取れないものとされていたとしても、である。 一方で、人間の限界を超えた何ものかに対する憧れというのもあって、その両者は論理的には相容れないものでありながら、 不可分であるかのようにいつも同居していたのだと思う。私見では、例えばクセナキスの音楽も、三輪さんの音楽も、 そうした背反を備えていて、だけれども、それがその営みを「音楽」にしていたのではないかと思う。

ではリッチズの音楽機械はどうなのか?意地悪な言い方をすれば、それは聴く人間の欲望に対しては無頓着だし、 人間の限界を超えるのではなく、その手前に閉じこもろうとしているように感じられた、ということだろう。そして、その両方の契機を 欠いたそれに、私は「音楽」を見出せないのだろう。 言うまでもなく、これは私個人の感じ方で、私がこういったからと言って、リッチズの作品が無価値だということにならないのは 勿論のことである。客観的な立場からの批評は別の問題であって、それはそうした資格と能力のある人の意見を聴けば良いのだ。 あるいはまた、主観的に「面白い」「素晴らしい」と感じる人がいても全く不思議ではない。 だが、私自身としては、客観的にそれが「間違い」であったとしても、そうした印象を偽ることはできない。 とてもがっかりしたのだけれども仕方ない。

ついでに言えば、別にそうした反感が、リッチズの作品が一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなものであることが 原因なわけではないことは、先日の自動ピアノコンサートでの経験と照らし合わせてみれば明らかなことのように思われる。 先日の自動ピアノコンサートでは、最新鋭のテクノロジーに支えられたマルチメディア作品―それは、示唆的なことに 「絶対音楽」「絶対イメージ」と命名されていた―がトラブルのために充分にリアライズできなかったが、私にはそうしたトラブルへの 頑健性のようなものも作品の一部に思われた。実際にはこれはひどく不当な態度というべきで、いわゆる「芸術」の世界での 価値観や事情は異なるのだろうと思いつつも、思わず私が普段生きている社会集団でのスタンダードを投影してしまったのである。 それにしても「絶対音楽」「絶対イメージ」って何なのだろう。作品を思い起こし、反芻しても杳として答が得られそうにはない。 そしてリッチズの機械に対しても、思わずそのようなスタンスを持ってしまったのだと思う。あるいはこれもまた一種の「絶対音楽」 なのだろうか?「絶対音楽機械」?なにものにも奉仕しないがゆえに、トラブルに対してアプリオリに無辜な存在?

もっと言えば、これに1200時間かけたというのを読んで絶句してしまった。しかもたった半年で1200時間。一日8時間として 150日である。180日のうち150日。自分の時間をお金に替えて日々の糧を得ることに汲々としている私のような人間にとって、 それはもはや想像の限界を超えている。同じ時間を与えられたって、どうせ私に何かできる訳ではないのだから、 これが不当な感じ方であることは自覚しているけれど、それにしても1200時間は凄い。しかも半年間にそれだけの 時間を投入できるなんて。見る人が見れば、「さすが1200時間かけただけのことはある」「やはり時間をかけなければ 素晴らしい作品は生まれないのだ」ということになるのだろうが、私には溜息しか出ない。強いて言えば、そうした時間の 使い方は、作品がそれに見合った金額で買い取られる保証があるとか、何らかのサポートなしには不可能だろう。 思えばこの展示も、自動ピアノのコンサートも無料なのだ。にも関わらず、受益者である個人に対してカンパを募ったり、 スポンサーを公募したりという話は、寡聞にして聞かない。もっとも、パンフレットを見れば、きちんとスポンサーや協賛企業が 記載されている。つまりそうした仕組みは、享受者とは別のところできちんと整備されているということなのだろう。 コンサートこそ盛況だったけれど、訪問する人間のまばらなこと、自分がそのうちの一人であることを思えば、受益者の 最たるものであろう自分に何かを言う権利などないのかも知れないが。

そして私としては、こうしたサポートを行う仕組みの方に寧ろ賛嘆の念を覚えるのである。リッチズがその半年で、自分の 思うような作品の創作に打ち込めたのだとしたら、それは無条件で素晴らしいことではないか。リッチズのあの機械、 人もまばらな博物館の中で、ときおり人が訪れる間だけ、スタッフの手によって初期値を与えられては間歇的にベルの 音をたてるあの機械は、その中に1200時間もの時間を閉じ込めているのだ。しかもそれは、いかなるものへの奉仕も求められず、 隔離されて慎重に管理され、なおかつ維持・管理コストや故障率といった尺度から自由な機械なのだ。 改めて「アート」の世界、それを支える社会的・経済的なメカニズムが自分とどんなに疎遠なものかを痛感せずにはいられない。 同じ時代と場所を共有しながら、それは何と自分からは遠く感じられることか、、、(2007.11.28初稿, 11.29, 12.12加筆・修正)

*   *   *

[付記]

最後にもう何点か、本文で書けなかったことを補足しておきたい。

(1)色々書いたが、結局、リッチズの機械はちゃんと動いている。「動いてなんぼ」「納期遵守」という観点から言えば、 リッチズの作業は非の打ち所がないことを確認しておきたい。頑健性にしても同じ事で、では私が普段生きている社会集団で それらがきちんと達成できているかを顧みれば、上に書いた言葉は自分に降りかかってくるものになるのは明らかなのである。 自戒の念をこめて追記しておきたいと思う。

(2)Thinking Machineの帰属や存在理由というのは、だが、いずれにしても問題として残るように思われる。例えば私は、こんなことを 考えた。この展示が終わったら一体「考える機械」はどうなってしまうのか?そもそも、それは存在し続けるのか、どこに置かれるのか? 上ではあたかも、それでもそれが「利用」され続けることが前提であるが如くに書いたが、本当はその点は全く自明ではない。 実は既に決まっているのかもしれないが、是非、機械の行く末を知りたいものだと思う。プログラムは保管という点では有利だが、 早晩、ハードウェアの互換性や移植の問題に直面する。その一方で、有体物たる機械は、上述した利用を継続する上での 保守・維持管理の問題もあるし、それが使われなくても、それはそれで保管の問題に突き当たる筈だ。

(3)そしてここで、[はじめに]で言及した問題に戻る。この機械は一体誰のものなのだろう。「Thinking Machineの帰属」と書いたのは、 だから、誰が作ったか、誰のために作ったか、誰が所有するのか、といった幾つかの側面をひっくるめてのことである。 勿論、そこには委嘱、共同制作といった仕組みの問題も含まれる。これも最初に述べた「匿名性」の問題もある。 なんなら知的財産権や所有権といったレベルの存在を思い起こしてもいいのだ。(ちなみに、良く知られているように、 プログラムの世界では、これは非常にクリティカルな問題である。だが芸術作品だって決して例外ではない筈だ。それどころか 第一義的に「機能」や「新規性」ではなく「個性」や「独創性」が重視される世界には、独特の困難があるだろう。)
実は、別のところにも既に何度か書いているように、「誰のためのものでもない機械」という考えは、私にとっても魅惑的なものなのである。 だが現実には、人間なしに「音楽」が存在し得ないといった議論よりも遥かに手前の水準で、既にそれは御伽噺に過ぎない。 コンピュータネットワーク上のソフトウェアの方が、手作りの巨大な機械に比べたら、まだ可能性が高いのではないかという気がする。 そういう意味では、上に書いた「何にも奉仕しない」というのすら、ある意味で既に作品の土俵に乗った言い方なのである。
そうしてみると、実は私が今回の展示で感じたのは、そのことに対する幻滅だったのかも知れない。(2007.11.30追記)

2007年11月26日月曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」再訪記(1)

三輪眞弘/入鹿山剛堂 Nomadische Harmonie (interactive installation)に触れて
2007年11月26日東京大学駒場博物館

東京大学駒場博物館で開催されている「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の記念コンサートとして10月31日に 行われた自動ピアノ演奏会については、その感想を既に書いたが、その際、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品については、 インタラクティヴ・インスタレーションという性質上、再訪の上、自分で実際に触れてみたいと書いた。偶々、予定していた アポイントメントが突然キャンセルになって、空白の時間が出来て休暇をとった午後、東京大学駒場博物館を再訪して、 「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の展示を見るととともに、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れてきたので、 その感想をまとめたい。展示の中での今回の目玉である「思考する機械」(Thinking Machine)を中心とした感想は 稿を改めるとして、ここではまず、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品について。

なお、最初にお断りしておくが、この稿を書くにあたっての素材は、作者の注文通りピアノの鍵盤を色々な仕方で叩いた 経験と、会場にあった作品についての簡単な説明のみである。つまり具体的なアルゴリズムの知識があるわけではないし、 背景知識もない。触ってみて作者に聞いてみたいことは結構あるけれど、残念ながら聞く機会はないし、それ以前に、他の感想が そうであるように、まずは先入観なしの印象を書き留めるのが目的であると考えている。背景知識の欠如についてもう少し補足すると、 私はプログラムの開発経験はあるけれど、MAX/MSPに触ったことはないし、楽理の方は更に怪しい。ピアノも弾いて楽しめるレベルには 程遠いし、音楽的な訓練を受けているわけではないので、音を聴いてぱっと和声を言い当てる、といったこともできない。 何故こんなことを書くかといえば、そういう知識さえあれば私がやった作業はもっと簡単なものだったろうし、より突っ込んだ 楽しみ方ができただろうと思うからであり、その一方で、以下の記述もまた、そうした専門知識を前提とすれば、ひどくまどろっこしい ものに感じられるに違いないことが容易に想像できるからである。また、知識がある人なら犯さない類の勘違いを している可能性も大いにある。間違いはできるだけ直していきたいが、それがなくなったところで所詮は、 (年甲斐も無く)好奇心旺盛な素人の体験談に過ぎない。従ってそういうものとして受け取っていただけるように予めお願いしたい。

実は当初、その前の3連休を使っての再訪を予定していたのだが、聞けば駒場祭とのこと、まあ、博物館自体の 混雑はまた別かも知れないが、キャンパスは人で溢れているに違いないし、博物館だって普段に比べて混んでいることが 容易に予想されて断念し、このままだと再訪は叶わないものと半ば諦めていたら、ふとした偶然で時間ができてしまった。 学園祭翌日の平日の午後、博物館は、私にとっては幸いなことに空いていて、主として1階で行われていた展示もゆっくり 見れたし、作品にも時間をかけて触れることができた。間歇的にやってくる他の見学者の方々に遠慮して席を外しては、 階下の展示を見て、空いた頃を見計らって、作品に触れられるピアノに戻る、というのを何回か繰り返したので、 或いは、博物館のスタッフの方には変な奴と思われたかも知れない。基本的にはご迷惑はおかけしていないと思うが、 多少、作品のインタラクションを試すためにあれこれ鍵盤を叩いたので、普段は立たないようなタイプの「騒音」を立てて しまったかも知れない。

端的に言ってこれはとても面白かった。とはいってもその面白さの大半は、音のインタラクションに由来している。 自動ピアノコンサートの感想でも触れたとおり、音に同期してディスプレイには、鳴っている音に連動して色の帯が 表示され、今鳴っている音の強さが帯の長さで、その音が属している(とシステムに判定された)調性が色で表示される ようになっている。絶対的な音高は反映されないし、アタック(スタカート、レガート)なども反映されない。 だが、システムは強度にもアタックにも、音高にも持続にも反応する。調性と色の割当は相対的には意味づけがされている。ただし それは絶対的なものではないようだ。(もっとも共感覚の個人差はかなり大きいようなので、こちらは無理だろう。) だけれども、調的に離れた音群が並存する環境になると、画面は虹のようにカラフルになるし、調的に収束すると、 概ね2色くらいにまで色彩のパターンも減る。少し慣れれば、画面上に虹を出したり、水色を基調にしたり、 マゼンダを基調にしたりといったことができるようになるので、これはこれで面白いが、それ以上のものではない。 音から聴き取れる共感覚に由来する色彩感とは基本的に別のものだし、繰り返しになるが、システムのインタラクションの 次元の一部を抜き出したに過ぎない。システムの状態の一部を示すグラフに過ぎず、せいぜいがインタラクションの実験の 結果を確認するインタフェース・ツールくらいの役割しか果たさない。聴覚的に得られる経験の方がずっとずっと豊かなのである。 画面を見ずに返ってくる音に聴き入った方が、はるかに色彩的に感じられるという印象は、自動ピアノ演奏会の時と変わらない。

なお調的とはいっても、西欧の古典的な和声のシステムに依拠しているわけではないようで、どちらかというと 旋法的な音の集合への帰属が基本になっているように感じられた。最も端的には一つだけ音を叩いて どのような音のパターンが返されるかを見てみれば良くて、この結果はほとんど規則的に感じられた。 また、システムがサンプリングするのは単一の音であり、和音を弾くことには意味がない。この点も システムが伝統和声に従っているのではないことと関係がありそうである。

ある音の調的な帰属の計算は隣接する2音、つまり今鳴っている音と直前になっている音との関係で決まっているので、 同じ音を叩いても、常に画面に同じ色が出るわけではない。(ただしオクターブ以上の解離のある2音連続の効果は 試すのを忘れた。)その一方で、目標となっている集合内に含まれると予想される幾つかの音を、順番に注意して選択的に叩けば、 収束を妨げることはない。ただし収束を加速させることができるかどうかまではわからなかった。 いずれにせよ、慣れてくればある程度までは、どの音が返ってくるか、自分の介入が収束を攪乱するか否かくらいの予測がつくようになる。 画面に虹を出そうと思えば、システムが選択しようとする旋法の外の音を選択すれば良い。あるいはシステムが 収束しつつある音集合の外に逸脱するように誘導するような音を継続的に順次選択していけば良いわけである。例えば 白鍵のうちの幾つかの音のみで構成される旋法に安定するようにさんざん仕向けておいてから、急に楔を 打ち込むように黒鍵での割り込みを繰り返すと、簡単に収束が起きずに、しばらくはいわば複旋法でのパターン生成が続く。 メシアン的なカレイドスコープみたいな音響効果が得られてけっこうまばゆいのだが、伝統的な和声に慣れた人が聴くと、 カオティックに響いたかも知れない。(もし、うるさいと思われた方がいらしたらすいませんでした。) でも勿論それはランダムなクラスターではなく、従って、確固とした色彩を音に感じることができる。

アタック、強度、持続への反応は面白くて、うまく叩いてやるとかなり複雑なリズムパターンを生成することも できるし、特殊なアタックや極端な強度の対比の効果は、それに対する最初のシステムの反応が、後続する音の系列に 減衰しながらも影響を残すので、これも生成される音を多様にする効果がある。 左ペダルはリセットのためにリザーブされているようだったが、右ペダルの人間の操作がサンプルとして 入力されていたかはわからなかった。もっと正確に言えば、多分サンプルにはなっているのだけれど、 その一方で、人がペダルを踏まなくてもシステムの側が勝手にペダルを踏む場面があったように 思えたので、あまり自信がないのと、ペダルを踏む操作が衝突すると楽器を壊してしまう 危険を感じたので、あんまり試せなかったのである。(ペダルを踏んではいけません、とは書いてなかったけれど、 これって、作者の側からするとフレーム問題の類に属する行為なのかも知れない。 ちなみにさすがに内部奏法をやってみようとは思わなかったが。)

ピアノが2台あるわけではなく、トリガーとなる人間の打鍵とそれへの反応が1台のピアノの鍵盤上に 並存するので、間歇的に、しかもシステムに遠慮して鍵盤を選ばないと、打鍵の衝突が起きるのは ご愛嬌である。しかも、システムは連弾を弾くような音域のとり方をするのではなく、どちらかといえば、 人間が叩いた鍵盤の隣接音を中心に反応を返すので、本格的な連弾をするのはなかなか難しそうだ。 もっとも、このシステムはどちらかといえば初期値を与えてもらって、そこからあるアルゴリズムに従って 音の系列を生成するような造りになっているので、上述の和声的な同時的な打鍵に対する制限は 勿論のこととして、そもそも人間がまとまった旋律を弾くこともまた、あまり想定されていないかも知れない。

そういう意味で面白かったのが、短二度や三全音のトリルとか比較的早い速度の半音階を 入力として与えることで、特に半音階については、短二度は互いに素であると思われるので、結果は色彩の散乱になる。 (はじめは伝統和声に従ったアルペジオを試したのだが、これはリアクションとしてはあまり面白い結果にならなかったと 記憶している。) また全音音階も興味深い効果が得られたように思える。その延長線でメシアンのM.T.L.も試して みればよかったかも知れないがこれは試さなかった。

システムは時間的に隣接する2音間の関係によって調的な帰属を計算しているはずだし、一音叩けばシステムは 勝手に自分も音を鳴らし始めるので、上述のような音の系列を人間が与えるといっても、厳密には 音の系列の間にはシステムが鳴らす音が混じることになる。だが、システムはもともとある音の 集合に収束するように傾きを与えられているし、その点に限定すれば絶対的な音高は関係がない ようなので(要するに上述のオクターブ以上の解離は意味がなく、オクターブの剰余類が演算の元になっている ように感じられる)、多少の攪乱は生じるが概ねは短時間に連続して入力する音の集合が全く無視されてしまうと いうことはないような印象を受けた。

そしてふと思いついて最後に試してみたのが、もともと旋法によって書かれている旋律を弾いてみることで、 これはやってみるとわかるのだが、システムの生成する音響と衝突することがほとんどないように感じられた。 例えば「君が代」がその例で、うまく弾くとまるでシステムが一人で弾いているように装わせることも 可能ではないかとさえ感じられた。というわけで最後は「君が代」を「合奏して」おしまいにした。 (偶然かどうかわからないが、タイミング良く階下から人が上がってきて、スタッフの方が注意しに来たのかと 勘違いして、一瞬びびった。)

実はこの作品、作成されたのは随分前のことで、1996年に奈良で開催された人工生命学会ALIFE Vで 発表されたものとのこと。2002年2月には、テレビの「題名のない音楽会」でも取り上げらたらしい。 言われてみればなるほどという気もするし、ここに「東の唄」などの「極東の架空の島の唄」の系列の作品の こだまと、逆シミュレーション音楽を予告する徴候の両方を見てとることができるような気もする。

発表時の反応を知る由も無いのだが、実際にインタラクションを試した限りでは、これは音楽作品として、 実に良く出来たものだと思う。(研究上の価値については、その方面のサーベイをやったことがなく、 ごく一般的な知識しかないので、私には判断できない。)

ひとつには鍵盤を叩く人間には、色々な関心をもった、色々な人間がいるわけで、 どのようなレベルの入力を想定するかについては様々な選択肢が存在するのだが、ここでは 丁度このような展示に相応しいように、最も単純な入力に対しても、それなりの反応を返すように できている。それだけでなく、必ずしもアルゴリズムの知識がなくてもシステムの癖がわかってくれば、 ある程度はその反応を人間が予測することができるし、簡単な「合奏」も不可能ではない。 しばらくいじっていると、私のような訓練を受けていない人間でもそれなりの「コツ」が掴めてくるのだ。 逆に言えば、音楽のプロにとってはあんまり面白くないだろうし、ピアノをバリバリ弾ける人にとっては 腕の振るいようがなく、発想の転換を迫られるもので、寧ろ苦痛に感じるかも知れないが、 私くらい能力がないと丁度良い按配なのかも知れない。

調的な収束についても、いわゆる急降下を行うわけではないようだ。恐らく人間の側の入力が収束に対して 攪乱するような働きをした場合への頑健性を考慮した結果だと思うが、Nomadischeの命名の通り、 収束は、ふらふらした軌道を描きながらのもので、逸脱に対しても反応ができるようになっているし、 最後の段階になっても、完全に安定してしまうわけではないようだ。喩えてみれば、ひねればまた 沸騰するように、ゆらぎが残った準安定状態のようなところに留まるようになっているようなのである。

そしてそうしたことの結果が、自動ピアノ演奏会の感想でも述べた、自動ピアノのリアクションの側に 感じられた身体性なのではないか。それはどちらかといえば虚像と言うべきなのだろうが、虚像であろうが なんだろうが、そのような感覚が生じた事実は残る。上で「君が代」で「合奏した」という言い方をしたが、 それは比喩であると同時に、実感そのものでもあるのだ。

一般的にインタラクションのあるシステムの設計は難しいものだ。それはシステムの状態だけではなく、 人の反応という得体の知れないものを相手にしなくてはならないからだ。一見すると「良心的な」 使い方しかしそうになく、だからそのようなリスクがなさそうに見える業務システムの設計においてすら、 少し複雑なものになれば、設計者の想定外の事が起きるのはほとんど不可避である。

その一方で、人間の適応力というのは実に優れていて、最初は使いにくく感じられるシステムも、 しばらくすると人間の方がシステムの挙動に合わせて自分の行動や意思決定を調整してしまう。経験を フィードバックして、機械の挙動を読んで先回りしてパラメータの制御・微調整をすることも稀でないどころか、 ごく普通のことだ。(例えば工場でのプラントの制御、製造用の各種の機械や工具の取り扱いなどを 考えれば良い。「熟練」というのは、そうした調整のための経験の蓄積のことを言うのである。 もっともこのこと自体は、例えば音楽における楽器の演奏だって基本的には同じだろうと思うが。) それはかなり複雑な意思決定支援システムでもそうで、それゆえ、現実にはそのような人間の調整能力を 見込んで、人間が歩み寄りやすいような挙動をするようにシステムの側の設計を行うといった ことが頻繁に生じる。学術的に優れた解を出すのが目的であれば別だが、実用のシステムに 要求されるのは、寧ろそうしたインタラクションによって得られる適切な均衡であり、逆にその均衡点を 事前に適切に設計して、その通りになるようにシステムを作ることは、これはこれで大変に難しいものである。

もっとも上述のような状況を、今回のインスタレーションを含めた三輪さんの作品に単純に類比するのは 無理があるだろう。「自動販売機に身体性を感じることはない」と書いたが、上述のシステムにおいても、 別に利用するユーザーはシステムに身体性を見出しているわけではない。そればかりか、均衡点を 見誤れば、人間がシステムに合わせて無理を強いられる、使い勝手の悪いものになってしまうのであって、 そこで起きているのは寧ろ人間の機械化である。要するに身体性の仮構は、それとはまた一つ別の 問題なのだ。

だがこの作品においては、三輪さんの作品はそうした弊を免れていると私には感じられる。 もっとも、どこがどう違うのかを現時点で分析的に述べることは私にはできない。それは三輪さんの 作曲家としての能力と、修練の賜物、これもまた「熟練」によって可能になっているのだと 想像してみるくらいのことしかできそうにない。そもそも、こうした感覚はあるところから先は 分析不可能なものだ。要するに実際に自分で触ってみて各人が感じ取るしかない類のものなのであると思う。 もっとも感性情報処理や、「勘」や「読み」の分析だって行われているのだから、そうした専門の方のお考えは また別かも知れないが。いずれにせよ、私の分析能力には限界があるので、そういう意味で直接作品に触る機会を 得られたことは非常に幸運だった。

勿論、興味は尽きることはなく、できればもう少し、システムのつくりについての詳しい説明や、 こうしたインタラクティブ・システムの可能性や現時点での限界などについて、作曲家の視点からの お話を伺ってみたいものだと思う。 繰り返しになるが、この作品はもう10年も前のものなのだ。個別の技術的な視点はおくとしても、 例えば現時点での展望はどのように変わり、あるいは変わらないのか、 任意時点でのユーザの介入を受け付けるこの作品と、分散・協調型ではあるが、 初期値が与えられれば基本的に外乱は想定しない「逆シミュレーション音楽」とを比較して どうなのかなど、聞いてみたいことはたくさんあるのだ。(2007.11.28初稿, 11.29加筆, 12.12修正)

2007年11月4日日曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」を聴いて

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」
2007年10月31日東京大学駒場博物館

三輪眞弘/入鹿山剛堂、ヒンデミット、トッホ、ナンカロウ、ゴチェフスキ、古川聖、山本純ノ介/土佐尚子の作品

自動ピアノというものの存在を初めて認識したのは、私の場合、マーラーがヴェルテ・ミニョンに残した幾つかの演奏記録によってだった。 1911年に没したマーラーは、時代を代表する指揮者であったにも関わらず、残念ながら指揮者としての演奏記録がない。 それゆえ1905年11月に記録されたピアノロールは貴重なもので、書簡や写真といった媒体以外でマーラーその人を知る資料と なっている。
またラヴェルについても自作自演のピアノロールが幾つか存在する。ラヴェルの場合、自作を指揮した録音もそうだが、 ラヴェル名義であっても実演は別人というケースがあるようだが、それでも自作自演と思われるものも幾つかあって、 こちらもまたCDで聴くことができる。
要するに、私にとってはピアノロールは記録媒体としてまず立ち現れた。不完全であっても、マーラーやラヴェルといった「伝説の人物」の 身体の記憶を封じ込めた魔法の筒なのだ。もっともマーラーもラヴェルも、勿論それなりにピアノを弾くことはできたが、ピアニストは 少なくとも本業ではなかった。更に言えば、ピアノロールによる再生をその場で聴いたことがあるわけではなく、そうした再生がCDに 収録されたものを介して、マーラーに、ラヴェルに接している(と錯覚している)のである。一体、本当に彼らの身体の痕跡をそこに 見つけることができるのだろうか、という疑問が起きて当然だが、それでも聴く私は、そこに何か取替えの利かない、ハエッケイタスを 読み取ろうとしてしまう。

今回報告する自動ピアノ演奏会での自動ピアノのあり方は、上記のようなものとは全く異なる。一つには、まず自動演奏の メカニズムの問題があって、今日の自動ピアノはピアノロールとは異なった再生システムを備えている。そして何より演奏された曲は、 はじめから自動ピアノのために書かれていて、だから再生される音は、誰かの身体の痕跡なのではない。かつての音楽時計、 或いはもっと身近なところでは、オルゴールのもの凄く高級なものと思えばよいのかも知れない。
当日演奏された曲のうち、ヒンデミットとトッホの作品は、まさに上記のヴェルテ・ミニョンのために作曲・編曲された作品。 素人が聴いた分には「自動ピアノのための」という側面は控え目なもので、ある部分で辛うじて、それが人間が2本の手で 弾くことができなさそうな感じがするといったレベル。勿論、それと作品自体の出来・不出来は別の問題である。
それに比べれば、ナンカロウの作品(Study21:Canon X)は、シンプルなアイデアだけれども、明らかに人間の弾くための音楽とは 異なった質感を備えている。例えばリゲティのエチュードは、これをもう一度人間の弾く音楽の側に折り返したのだったか。 普段聴きなれていないせいもあってか、着想の卓抜さと、出来上がった音響の面白さは群を抜いているとは思うが、 何となく所在ない感じに捉われる。可能性の開拓という点でナンカロウの独創性はずば抜けているとは思っても、 そしてそれが、自動ピアノという媒体にこだわったもの―つまり、今日では幾らでも存在する、より多様なパラメータを操作 することが可能な自動演奏のための媒体で置き換えたら意味を喪ってしまうような類のもの―であることが何となく感じ取れはしても、 何か腑に落ちないものが残る感じは否み難い。勿論、それはナンカロウの限界なのではなく、聴き手である私の限界なのだが、 さりとてナンカロウが意図的にそうした「腑に落ちなさ」を狙ったとも思えず、どことなく齟齬が存在しているのが気になってしまう。

ゴチェフスキ、古川の作品は(一緒に扱うことの是非はあるかも知れないが)、ナンカロウの作品が持っているような意味合いで 自動ピアノというメディアに拘束された作品には思えなかった。要するにシンセサイザーでも何でも、別の媒体でやっても いいのではという感じがした。実現される音響は全く異なるのだが、それでも聴いた印象は驚くほど似通っている。 作品の構造の元となったアイデア―ゴチェフスキ作品の場合には、無理数同士の比とのこと(私には今ひとつぴんと来なかったが)、 古川作品の場合にはフラクタルやカオス、セル・オートマトンという私にとっては馴染み深い素材―を、どのように音響にマップするかに ついて膨大な選択肢が考えられ、寧ろそちらの方が作品の実質を支配するくらいに思えるし、そこが音響と音楽とを分ける のではないかと思うのだが、その点について明確な印象が持てなかった点が共通しているのだと思う。 いずれも実験色を強く感じたが、恐らく意図としてもそうなのだろう。

プログラム上、最後に置かれた山本/土佐作品と、最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、どちらも映像と連動した作品で、 プログラムの構成は凝ったものと感じられた。もっとも最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、インタラクティヴな作品だという こともあり、催しの開始前にゴチェフスキさんがピアノの鍵盤を叩き、「演奏」を行っているのを、それが最初の作品だと 気づかずに聴いていて、プログラムが始まったら、三輪さんがコンセプトを説明して終わってしまうという、ちょっと意想外の 展開だったので、充分なコメントができない。日を改めて、再度博物館を訪れ、実際に自分で鍵盤を叩いてみて、 改めて感想を書きたいと思う。
最後の山本/土佐作品の方はといえば、機器の設定のトラブルによる演奏のやり直しや、途中、映像が映らなくなるという 事故の印象の方が大きかった。勿論それは作者にとって不本意なことであったに違いないが、こういうトラブルは、 マルチメディア作品を、普通の音楽と同じように「一発勝負」で演奏するという状況ならではのもので、参加者としては なかなか興味深いものがあった。会場で設定を担当された方、会場にいらした作者の方々にはお気の毒なこと だったと思うが。
クラシック音楽のコンサートなら、演奏中弦楽器で弦が切れたりするのが一番近いだろうか、とか、 以前聴いた川島素晴さん企画の近藤譲作品の演奏会で、よりによって委嘱新作の初演でエレキ・ギターの設定が おかしくて、アンコール代わりにもう一度初演をやり直すというハプニングが起きたことなどを思い浮かべた。 その際に印象的だったのは、―それは歌曲だったのだが―、二度の演奏で最も聴感が違ったのが人間の声だったということだ。 個人的な好みで行けば、太田真紀さんの強い表出性を持った声の印象は、最初の演奏の方がより強烈で、演奏の 一回性というのを強く感じたものだった。全体としてこの近藤作品の演奏会の質はずば抜けていて、しばらくCDの演奏が つまらなく思えたくらいで、近藤作品にとって演奏する人間の関係性―それは勿論、身体を介したものである―というのが如何に 本質的であるかを認識しもした。今回の自動ピアノのコンサートが基本的に演奏者の身体性の不在が前提であることを考えると、 ハプニング一つとってもなかなか興味深いものがある。(聴き手は気楽なものだ、とお叱りを受けそうだが、、、)

全体で約一時間程度、企画者であるゴチェフスキさんの流暢な日本語による司会・解説と、三輪さん、ゴチェフスキさん、古川さん、山本さんの 簡単な自作解説がついた非常に充実した企画で、これが無料というのは信じ難い。まずはこのような企画に対して賛意を表したいと思う。 会場は駒場博物館の2階の一室、展示スペースに椅子を並べてのものだったが、入場者の制限を行わなかったこともあり、 坐りきれないほど来場者が多く、会場の担当の方が椅子を持ってきては追加してという作業を繰り返し、なかなか開演しなかった。 しかも三輪さんがどんどん押し寄せる来場者に席を譲り続けておられて、なかなか坐る椅子が決まらないので、見ていて はらはらしてしまった。そしてその待ち時間の間、ゴチェフスキさんと三輪さんのアルゴリズムのインタラクションが行われていたわけである。

ということで、本来の主旨の筈の三輪さんの作品についてのきちんとしたレポートは別の機会に譲ろうと思うが、それでも、 幾つか印象に残ったことはある。

上記のような事情で、それが三輪さんの作品とは気づかずに聴いていたのだが、私の美術的なセンスの欠如も手伝ってか、 音響と同期した画像の動きについては、あまりに説明的に感じられて率直にいって退屈に感じられた一方で、音響的には、 ちょっと不思議な感覚に捉われたのをはっきりと覚えている。画像についていえば、調的な遷移があるのであれば、 スクリャービンやメシアンではないが、そうした調的な遷移と色彩の遷移の共感覚のようなものが感じられれば面白いと 思ったのだが、私の共感覚がずれているのか、そのような側面は画像からは感じられず、かえってそうした移ろいを感受することの 妨げに感じられてしまった。単なる私の感性の欠如かも知れないが。、目を瞑って聴いた方が面白かったように記憶している。
一方、音から受け取った不思議な感覚というのは、この曲に限って、自動ピアノのリアクションの側に身体性の ようなものを感じられたということである。それがインタラクションという仕掛けによる虚像なのか、あるいは別の何かに由来するものかは わからない。だが、虚像であったとしたら、それはそれで興味深い。機械に身体性を見出す「志向的スタンス」が聴いている 私の裡に生じていた、三輪さんのコンセプトがそのように仕向けたということだから。
他の作品では―ヒンデミットやトッホでさえ―、そのような身体性は感じられなかったし、上述したナンカロウ作品で感じた齟齬、 腑に落ちなさというのは、恐らくはこの点に関係しているのではと思う。一方でインタラクションが身体性の仮構を無条件で 保証するとも思えない。例えば通常、自動販売機に身体性を感じることはないだろう。いずれにせよこうした視点は、 三輪さんの「逆シミュレーション音楽」の、否、それよりはるか以前の「赤ずきんちゃん伴奏器」以来の一貫したテーマでもあるわけで、 いわば「ブラインドテスト」でそれが感じられたのは、非常に興味深いことに思われた。

繰り返しになるが、この点については是非、博物館を再訪し、自分の耳と身体で確かめたいと思う。そしてまた、その印象を 別途レポートしたい。(2007.11.4初稿, 公開)

2007年10月27日土曜日

「三輪眞弘 Golden Nica 受賞記念報告会」に参加して

「三輪眞弘 Golden Nica 受賞記念報告会」
2007年10月21日ZAIM(財団法人横浜市芸術文化振興財団) 別館2Fホール(Sound & Vision, インド文化交流協会 共催イベント)

三輪眞弘さんがArs Electronica 2007でGolden Nicaを受賞されたことは本Webページでも速報(といっても、1行告知を出してアンカーをつけた だけだが)した。受賞対象は、「逆シミュレーション音楽」のコンセプトそのものということで、これはこの種の賞の対象としては些か異例のことかも 知れないが、三輪さんの活動アプローチを顧みれば、至って自然なことに違いない。今回参加した催しもまた、三輪作品の演奏ではなく、 その Ars Electronica 2007に三輪さんが参加されたドキュメントビデオ、応募時の「逆シミュレーション音楽」の紹介ビデオに、今年7月に、 台風4号の中で行われた三宅島での手順派合同際「極東の架空の島の唄」を素材にした前田真二郎さんの「ビデオスケッチ」の3本の上映を 中心としたプログラムであったが、こうした催しに「きちんと」参加したのは初めてということもあり、色々と感じ、考えさせられたので、印象を書き残しておきたい。

実は当初は、当日感じたことを細大漏らさず書こうとしてみたが、一旦書きかかって、自分の書いた文章を読み直してみて止めることにした。一つには、 参加した直後は、開始時刻のこと、当日現地について初めて知った参加費のこと、それよりも何よりも、ゲストとして予告されていた草原真知子さんが、 遅れてくるどころか結局最後まで現れず、しかもそれに関して主催者に連絡すらない様子だったこと(恐らく開始時刻の変更の原因だったのだろう)など、 私が普段生活している社会集団の規範からすると「ハプニング」と感じられることが幾つかあり、それに関連して、その場で感じた違和感を書き留めて おくことに意味があるように思えたからなのだが、結局のところ、三輪さんのお話や上映された映像の印象に関連すること以外はどうでも良くなってしまった。 ロラン・バルトではないが、Il ne nie jamais rien : « Je détournerai mon regard, ce sera désormais ma seule négation. »である。どうせ書くなら 三輪さんのお話に関連して感じた疑問や懐疑について書いたほうが余程自分にとって意味のあることで、それ以外のことは結局自分にとっては 取るに足らないことなのだから、違和感を感じようが反撥を覚えようが、無視してしまうに限るのだ。私には大した能力もないし、時間も有限である。 もともと「マルチメディア・アート」なるものがどうなろうと自分には関心がなかったし、それに携わる人がどんな人で、何を考えているかについても同様だった。 そしてこの催しに参加しても別にその点では変化はなく、寧ろそうした判断を追認しただけだったとも言えるのだ。

この催しはSound & Visionという、マルチメディア・アート作品の(2回目の)展示会の一環として企画されたもので、それゆえ、コーディネータは Sound & Visionの企画をされた川崎義博さん、そしてプログラムの一部に、Sound & Visionにも出展しているChristophe Charlesさんの音響 作品の演奏が含まれていた。

会場となったZAIMというのは、横浜スタジアムのすぐ手前、中区役所の隣の、かつては官庁として用いられていたと思しき建物で、ホールといっても、 それは面積が広い一室に過ぎない。映像は、白い壁の一面に映される。その手前の脇、映写機を妨げない位置に折りたたみ机と椅子を 置いて三輪さんの席をつくり、三輪さんの席と映写のための空間を囲むように椅子を並べ、そこに参加者が坐って、ビデオを視聴し、 三輪さんの話を聴くという按配になっている。席が幾つ用意されていたかを正確に数えたわけではないが、100は無かっただろう。参加者は いわゆる主催者側のスタッフなどを含めても、50人はいなかったように思う。
ちなみに上の3階、4階の両フロアでは、件のSound & Visionの展示が行われていた。

催しの構成について言えば、最初に述べたようなハプニングもあって、当初予定されていたアジェンダのタイムテーブル通りには進行はしなかったが、 結果的には、ドキュメントビデオをじっくり見られて、三輪さんのお話を聴く時間が充分にとれたことになったので、その点に不満はなかった。
最後のコンサートに到達するまでのプログラムは、三輪さんの解説つきの3本のビデオ上映の後、川崎さんと三輪さんのディスカッションと、 会場からの質疑に対する応答という構成になった。ビデオのうち、Ars Electrotica のドキュメントは、40分にも及ぶ長いものだったし、 川崎さんとの対談では、旧「方法」同人の方を含む3名へアンケート結果が披露されたりと盛りだくさんな内容で、寧ろ些か 消化不良の感じがするくらい充実したものだった。

最初は「逆シミュレーション音楽」の紹介ビデオ。私は「弦楽のための369」しか実演に接していないので、一部、三輪さんのWebページで 見ることのできる映像を除くと、初めてのものが多くて新鮮だった。特に印象的だったのは、2本目、3本目のビデオにもそれぞれ登場する 「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」と「蝉の法」。「逆シミュレーション音楽」だと、もはやCDではなくDVDが適切なフォーマットかも知れないが、 この2曲は、音だけでもいいので、是非、全曲を聴いてみたい。

Ars Electronica 2007のドキュメントは、現地で演奏された「またりさま」と「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」の本番までのプロセスが 中心になっている。とりわけ、リンツ・ブルックナー・オーケストラによる「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」の演奏は、オーケストラの楽員の サボタージュや指揮者も含めた取り組み方の問題から、あわやキャンセルという事態にまでなってしまうという、当事者ならずとも 見るのがちょっとしんどい経過を辿る。私が親しんでいる音楽では、古くは度重なる演奏拒否、サボタージュによるフィアスコを経験しなくては ならなかったブルックナー(その名を冠するオーケストラが相手だったのは、思えば皮肉にさえ思われる)がいるし、ヴェーベルンは、 ―指揮者として彼自身もキャンセル事件を起こしたりしているが―自作の演奏で、しばしば奏者のボイコットにあったり、 演奏会がスキャンダルとなったりしている。あるいはまた、クセナキスだったらMetastaseisのドナウ・エッシンゲンでの初演がスキャンダルだったり、 最近では、ラッヘンマンのStaubが、現代音楽を弾きなれている筈のドイツのさる放送交響楽団にボイコットされてしまうという具合に、 知識としてはそういうトラブルが絶えないのは知ってはいたし、三輪さんの「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」については、実はカイロでの初演は、 やはり充分とは到底言えない演奏だったと伺っているが、実際にその経緯をドキュメントで知れば、目の当たりにする作曲者の苦衷の大きさに言葉もない。
この点では享受する側は実に無責任で気楽なもので、そうしたスキャンダルを後世から眺めて、まるでその音楽の先進性を証明する「勲章」で あるかのように見做してしまう傾向がある。否、それはそれで間違いではないのだろうし、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」が後世、 そのように語られる作品であると考えればいいのだろうとは思うが、それはそれ、それが現場で作曲者が蒙った傷を無かったことにすることはないのだ。 そういう意味では、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」が、作曲者の満足するレベルで繰り返し再演されることを強く願わずにはいられない。

その一方で、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」という作品そのもののつくりや、「逆シミュレーション音楽」のコンセプト自体が持つある側面を 考えると、―恐らく三輪さんご自身もその点ははっきりと認識し、大げさにいえば「覚悟」されていることだと思うが―、今回のリンツの オーケストラの反応の原因が、作品自体やコンセプトそのものに内在しているという点もまた、否定し難いだろう。 3分音の使用や、楽譜の特殊なノーテーション、「規則に従って」、つまり楽譜通りに演奏すべきだが、結果的に生じるずれは許容する という姿勢、プロのオーケストラの楽員の持つ極めて高い技能を否定し、新たな身体への造り替えを強制する暴力に対して、 そのオーケストラのスキルが高ければ高いほど、そして自己の伝統に対する誇りや信頼感が強ければ強いほど 抵抗が大きくなるのは、或る意味では当然のことなのだろうと思う。
ほとんど演奏不能な超絶技巧であっても、それが名人芸の延長にある限り、優秀な奏者は困難を克服してしまうだろう。 だが、ここで起きているのは寧ろ名人芸の端的な否定に近い。例えばラッヘンマンの楽器法がしばしばそうした側面を持っていることが、 その作品構造の観点から見たときの保守性にも関わらず(もっともそれには勿論戦略的な側面があって、それは丁度三輪さんの作品における 「架空の伝承」に近い機能を果たしていると考えることができる。ただしそのアブローチはある意味ではストレートであり歴史主義的だ)、 そして結果として生じる音響の未聞の美しさにも関わらず、演奏者にとって依然としてその音楽を挑発的なものにしている点が思い出されるし、 一方では、クセナキスの音楽がいわゆる伝統的な楽理を全く無視したものであるため、私を含めた多くの日本人にとっては印象主義の極限とでも いうべき、或る種の親近性を感じさせる、全く自然な音楽として受容できるにも関わらず、特にヨーロッパを中心に、未だにその作品がレパートリーと して定着できない状態にあることも思い出される。三輪さんと似て、その方法論のラディカリスムと或る種の合理主義が疑いなくヨーロッパの伝統に 連なるものであること感じさせながら、やはりクセナキスの音楽もまた、別の身体を要求しているのだ、と言えるのではないか。

こうした比較に大した意味は無いのかも知れないが、それでも今回、日本の国内の賞ではなく、ヨーロッパで「逆シミュレーション音楽」が 受賞したことを考えるとき、そうした点が検討の手ががりになるというのもまた、否定し難いように思われる。 要するに、一体彼らは何を見て「逆シミュレーション音楽」に賞を与えることにしたのかは、実はそれほど自明なことではないように感じられるのである。
勿論、私は三輪さんの音楽に対して、同時代の音楽としては例外的と自分でも言わざるを得ない関心を持っているから、 その音楽が受賞したことは自体はとても喜ばしいことなのだが、すでに別のところでも書いているように、一面ではモダニスムの極限とも見做せるような、 一見したところ、日本よりはむしろ彼の地での方が受け容れられ易い側面を認めつつも、同時に三輪さんの音楽に日本人的な感覚を 強く感じていることもあり、ヨーロッパで三輪さんの音楽がどのように受け止められたのか、もしそこに誤解やずれがあるとしたら、それはどのようなものなのか、 という点は看過できない点なのである。もし仮に誤解があったとしても、その内容によっては、必ずしも三輪さんの音楽に誤ったイメージを 押し付けることにはならず、寧ろ、より深い理解の契機になる可能性すらあるのだ。
オーケストラは無理解だったが、Ars Electronicaの審査員は違う、と果たして単純に言ってしまっていいものかどうかについては 慎重であるべきではないか。それこそ傍観者だからこんな気楽なことを言っていられると批判されそうだが、それでもなお、 抵抗を示したオーケストラの方が、三輪さんの音楽の含みもつ、ある側面を敏感に感じ取っていた故に、そうした反応が起きたのではないか。

そして実は、三輪さんもお話の中で、自分がきちんと理解されて受賞したのかについて疑念を持っていたことをはっきりと述べられていて、 私はその発言に寧ろ強い共感を覚え、大いに意を強くしたのであった。そして、講評を読んで、誤解の上にたった受賞でないことを 確認できて嬉しかったとおっしゃっていたのが印象的だった。
ちなみに、その講評は抜粋の邦訳のかたちで参考資料として当日配布されたが、私もまたとりわけその末尾近くの、 例えば以下の部分を読んで、今回の受賞を非常に喜ばしいことだと感じたのである。

三輪氏の方法は始めから審査員の注目を引き付けた。審査員の何人かは「逆シミュレーション音楽」という手法が、 デジタルプロセスをその中心に置くことによって、従来の音楽的「現実」に風穴を開けたことを賞賛した。(中略)
また一方では、イデオロギー的な理由で強烈な異議を唱えた審査員もいた。三輪の方法は、ほとんどファシズムに見られるような 制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの概念を持ち出してきたと言うのである。審査員の決議は全員一致の 決定に至らなかったが、この作品をめぐる活発な議論が審査室を越えて継続することを期待して、この作品にゴールデンニカ賞が 与えられた。紛れもなくこの作品は今年提出された提案の中で最も急進的でパラダイムシフトを促すものだった。(ジェームズ・ラッソ訳)

私見では、審査員の意見が割れ、活発な議論が起きたこと、そしてそうした議論を引き起こした急進性と、パラダイムという根本的な 部分に関わるという二重の意味での三輪さんのコンセプトのラディカルさに賞が授与された点を、とりわけ大変に素晴らしいことであると 感じた。それとともに、あくまで私見だが、賛成意見よりも反対意見の方にそのラディカルさに対する鋭敏な反応が見られたことが 興味深く思われたのである。実際に、私もまた、「逆シミュレーション音楽」における身体の扱いについて、別のところですでに若干の 疑念を記したことがあるし、そして未だに「逆シミュレーション音楽」について懐疑の念を拭えないでいるのである。

そういうこともあり、3本目のビデオの主題となった三宅島での「手順派合同祭」の映像と音は、そうした疑念を一層深める一方で、 拒絶し、否定することの困難な点があることを明らかにしてくれたように私には感じられた。
私見では、「ほとんどファシズム」というのは間違っていないと思うが、だからといって、それをもって イデオロギー的に反対するのは、些か単純化した捉え方に思えてならない。超越的なものに対する姿勢にしてもそうだが、 三輪さんのスタンスは、そうしたものの両義性を逃さず、そのためにネガティブなものを抱え込む危険を自覚的に引き受ける という点が明確であり、それだけに実現された作品は強いインパクトを持つようになっていると思われたのである。 「架空の」というヴァーチャリティは、醒めて反省的な意識を必要とする。 その意識が(ヨーロッパの言葉においてはまさに字義通り)良心を担保するのだ。

いずれにせよ、ここでのポイントは、そうした議論を惹き起こすようなコンセプトを提唱し、実際にそれを作品として実現することは、 それ自体が稀有なことだということで、そういう意味で今回の受賞の理由には些かの異論もない。それにしても、意見が割れた 対象に賞を与えるというところに、ヨーロッパらしさ、ヨーロッパの伝統の美質や強さを見るというのは考えすぎだろうか? 私もまた、三輪さんの作品が彼の地で活発な議論を呼んで、賛成・反対の交錯するなか、演奏され、検討されというプロセスが 進展していくことを強く期待したい。

「手順派合同祭」の映像を見て明らかになったと感じられた、拒絶し、否定することの困難な点というのは、端的に言えば、 例えば優れた能楽師、狂言師、あるいは文楽の人形遣いの舞台ではほとんど自明のことと思われる、修練し、身体化された 技能の持つ有無を言わせぬ力の存在である。もちろんそれは、クラシック音楽の演奏者についてだって同じことで、 「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」はだめでも、リンツ・ブルックナーオーケストラは、例えばブルックナーの交響曲であれば そうした力を聴き手に印象づけるような演奏をしたかも知れないのである。

「蝉の法」の演奏は、そうした意味では驚異的なものに思われた。というのも、この曲が奏される箜篌と呼ばれる楽器は古代中国の ハープであり、復元楽器であるがゆえに、恐らく、奏法の伝統というものが存在しないこと、そして三輪さんの作曲法もまた、 ―それが全く既存の伝統と独立であるかどうかはわからないし、また、その点についての事実関係にあまり拘泥する必要もないと 思うが―、とりあえずは伝統とは独立のものであるにも関わらず、西さんの奏するその音楽は、単純な演算規則からは想像が できないような類の豊かさを持ったものだったからだ。
もっとも、これについても日本の伝統楽器の多くは手組みという方法で、単純な奏法の組み合わせから、 豊かな音楽を構成することができるようになっていることを思い出すべきかも知れない。多くの場合、どの作品のどの部分で何を 弾くかは厳密に決まっていて、即興の余地はほとんどない。そしてしばしば、全く内容の異なる作品が、音楽上は実際にはほとんど同じと いうことも珍しくない。要するに、デリック・クックが「音楽の言語」で構想したような精神的・心理的な意味論を背景にもつ音楽の統辞論は、 ここでは不可能なのだ。

だが、だからといって、アルゴリズミックな方法論で書かれた音楽は無味乾燥に機械的に演奏されるべきだ、というのは、 およそ根拠のない主張に違いない。アルゴリズムを物象化して、勝手に作り上げたイメージを音楽に擦り付けても仕方あるまい。 そんなことをやるくらいなら、そうしたイメージが介在する余地がないまでに身体化を徹底させるべきなのだ。 能の構えや運びはそれ自体には意味はない。だが、名人上手の構えや運びは、特定の情緒にとどまらない圧倒的な 印象を見る者に与える。演者に、どういう解釈で、どういう気持ちでやっているか聴いても、聴き手が期待するような気の利いた 答えは返ってこない。けれどもそれは「機械的に」演じているのでは断じてないのだ。
伝統的な芸能にあっては、こうした違いは明らかなのだが、恐らくは身体的な技能のレベルでの伝承がないせいで、 「逆シミュレーション音楽」では、演者の側に混乱を感じることがしばしばある。けれども、今回一部を垣間見ることができた演奏では、 上記の「蝉の法」の演奏を含め、突き抜けたものが出現する瞬間を予感させる場面が幾つもあったような気がした点が、 これまでにない収穫だったと思う。

そのことと関連して、やはり同様に否定し難く浮び上がってくるのが、「逆シミュレーション音楽」を含む「芸能」の持つ 祭祀的な性格である。またしても日本の伝統芸能を引き合いに出せば、能にせよ人形浄瑠璃にせよ、 その出自もさることながら現在の形態においてすら、その祭祀的な性格は明らかである。 勿論能楽堂や劇場で観客を前に演じられているし、(私は能の場合は全くやらない習慣だが)観客の方は 演奏に対して拍手をするのが普通ではある。だが、それでも少なくとも私には、そこに作曲・演奏・享受の記号論的 3分法に収まらないものがあることは明らかであるように思われる。かつまた伝統芸能でよく言われる新作の定着の困難さの 原因の一部には、そうした新作が作曲・演奏・享受というフレームの中に閉じ込められていて、古典が実は今でも喪っていない 超越的なものに対する感覚に対して、あまりに無頓着に過ぎるという点があるように思えてならないのである。 例えば、古典芸能の伝承と普及という大変に立派な目的のもとに作られる「子供向けの作品」が多くの場合 陳腐なものになってしまうのは、まさにその目的に縛られて、受容者である子供の能力を過小評価し、その結果、 創作の素材を不要に限定し、演奏解釈を陳腐なものにしてしまうからなのではないか、という気がしてならないのである。

「逆シミュレーション音楽」の一部を構成する「架空の伝承」が、この問題に対する答になっているかどうかについての 判断はまだできないが、少なくとも、問題の在り処を探り当てているというのは確かなことだと思う。 そして恐らく重要なことは、架空の伝承の「性格」を誤ってはいけないということだろう。要するに、適当なカバーストーリーが つけば何でもいいというわけではないのだ。定義上はそのような制限は明記されていないが、それは伝統的な和声法、 対位法でも十二音技法でも同じことである。シェーンベルクの言った通り、十二音技法を使えばいいというわけではなく、問題 はどのような作品を創るかなのだ。何よりもカバーストーリーは、超越的なものとの関わり、「奉納」としての演奏という性格に 反するものであってはならないだろう。だが、そういった文脈に予め埋め込まれた芸能が、そこから抜け出すことが容易でないのと 同じくらい、架空のものがそのような性格を帯びることもまた、困難に違いないのである。本物の祭りと祭りの真似事の 違いは歴然としてあって、「逆シミュレーション音楽」についても同じことが言えるはずなのだ。

するとそこから、ある意味では非常に危険な一つの仮定に関連した疑問が生じる。架空をとってしまって、本気になったら どうなのか?という仮定に関するそれである。
三輪さんのトークの中でも最も刺激的だったのは、「逆シミュレーション音楽」を例えば小学校で必修で教えるように ならないだろうかという「希望」だった。教育というのは、結局のところ何某かの暴力性を帯びている、という三輪さんの ことばには説得力がある。そして「逆シミュレーション音楽」は、それが架空であるという前提を持つことによって、 現実のグロテスクとも言える側面を批判的に取り扱っている側面があるように思われる。つまりそれは或る種の戯画の ようなものなのだ。丁度ラッヘンマンの音楽が、少なくともある時期までは、それまでの音楽のネガであることを 積極的な存在意義としていたように。「またりさま」で言えば、アルゴリズム通りになかなかできないことを笑って 楽しんでいるうちは良いのだ。
だがその一方でその作品が、戯画以上のものであろうとしたとき、そこで要求される技能は、それが批判的に模倣していた 伝統そのものになろうとする。今度は自分が新しい伝統になろうとするのだ。そのとき「架空の伝承」という「逆シミュレーション 音楽」の規定はどうなるのだろうか?こうして考えてみると、一見したところ音楽そのものからは最も遠く離れていて、 それゆえ無視されがちな、プログラムノートは、実は一線を越えないための防波堤の役割を果たしているようにさえ 見えてくる。Golden Nicaの講評の反対意見は、必ずしも見当外れなわけではないと思われるのは、こうした理由からである。

けれども今回私が感じたのは、既に述べたように、そうした反対意見はそれはそれで些か事態を単純化しすぎているのでは、 ということだった。西さんの演奏する「蝉の法」、手順派による「またりさま」の演奏の記録の一部を見ながら、単純に「暴力」を 否定することはできない、「暴力」を十把一絡げに捉えるのは問題があって、―これは危うい言い方だが―、言ってみれば 良い暴力と悪い暴力があるのではないか、ということを思わずにはいられなかった。(といっても、それは善悪の判定が可能である、 とか、判定基準が普遍的で曖昧さのない形式で定義できる、ということを必ずしも意味しないのだが。)
そういう意味で、最近の三輪さんがよく使う言葉の中で印象的なのは、「修行」という言葉である。 「修行」が必要だ、「修行」が足りない、という言葉に対して抵抗を感じる人はあまりいないだろう。 少なくとも私個人としては、自分に足らないのはまさに「修行」、つべこべ言わずにじっくりとある課題に徹底して取り組んで、 それを充分に身体化することだと思っているので、個人的な水準に話を限り、なおかつ、「暴力」なり「強制」なりの向きを 自分自身に向けている分には、全く異論はないのである。
否、私のような愚かな人間は、自分でそれに気づくのが往々にして遅すぎる。 つべこべいわずにもっと若い時期にやっておけば良かったと後悔している事のリストは実は結構な分量になる。 親なり先生なりが、その時には「強制的に」やってくれた修練に感謝する一方で、もっと強制されてでもやるべきだったと 思っていることを挙げれば切りがないのだ。「またりさま」なら、うまくできないことを笑っていれば良いが、現実の問題として、 できずに笑って済ませられないこと、今からでも何とかならないかとさえ思うことは、実は山ほどあるのである。

というわけで、「逆シミュレーション音楽」については、それが危険な性格を備えているという認識を撤回する必要性は 依然として感じていないものの、その積極的な意義についてもう少し考えてみる必要がありそうだ、というのが 今回参加しての率直な感想である。そしてそれは(もしかしたら三輪さんの意図からは外れてしまっているかも知れないが)、 別に芸術の領域に限定されるものではなく、より広く、人間の営み一般に、従って、自分のように芸術とは無縁の人間に とっても無関係でないように思われた。

その後は既述の通り、川崎さんと三輪さんのディスカッション、事前に行われたアンケートの結果の紹介、そして 会場の参加者との質疑応答になったが、そのうち、アンケート結果と質疑応答について、印象に残った点があるので、 簡単に書きとめておく。

アンケートは基本的にマルチメディア・アートの展示企画の一部という枠に沿ったものだったが、その中で三輪さんを 作曲家とみるかマルチメディア・アーティストとみるかいう質問があり、それに対してすべての回答者が作曲家と見做している ことが印象的だった。
もっともそれが意外だった訳ではない。思うに三輪さんの思考は疑いなく「音楽」に根差している。 それは単なる音響ではないし、多様なメディアの中の選択肢、あるいは一つの次元と見做す視点とも異なっている。 宗教的なものや超越的なものへの関心、身体や社会への関心は、一見狭義の音楽の枠をはみ出してしまうように 見えるが、実際にはそれは(音響ではなく)「音楽」が含み持つ次元なのであって、それを手垢のついたかたちではなく、 伝統を批判的に捉えながら、まさに同時代的な文脈に相応しい仕方で問い直しているのだと思う。
そしてそれを強く感じたのは、質疑応答の中で会場に居たマルチメディア・アーティストの方が、アンケートの別の質問 項目の一つ、注目しているマルチメディア・アートは何かという問いに対するある回答者の回答をとりあげて、 批判的にコメントしたのを聞いたときだった。もっとも、それは指名を受けて、その場で即興で組み立てたコメントの ようだったから、必ずしも本意ではないのかも知れないのだが。それは「紋切り型」、いわゆるクリシェを巡っての もので、現在のマルチメディア・アートに存在するある種の傾向の批判を含むものだったが、いわゆる部外者、 芸術とは無縁の市井の人間、仕事としてコンピュータに常時接し、人工知能技術に多少なりとも関わりを持ち 続けている人間にとっては、その批判そのものがこれまたクリシェではないかとまぜっかえしたくなるような、 居たたまれない気分にさせられるものだった。

無論こうした反応は一面的、一過的なものであって、所詮、質疑応答に対する感想など、 発言の背後にある真意を理解した上でのものではありえない。してみれば恐らく、私の反応には不当な 部分があるということになるのだが、それはこうした催しの質疑応答ではほとんど避け難いことでもある。 三輪さんの発言に関しては、それでも多少はその背後にある考え方を予め知っている(と自分では 思っている)が、それ以外についてはお手上げである。
この点に関連して言えば、―これは単なる誤解かも知れないが―、質疑応答の質問者がいずれも、 あまり三輪さんの活動や主張について知っているようには見受けられなかったこともまた、 些か意外に感じられた程だったのだが、考えてみればこれも無理からぬことであって、 それを言い出せばこうした催しにおける質疑応答の意義をどう考えるかという話になってしまうのだろう。

いずれにせよ私にとっては、「マルチメディア」というものの広がりの大きさ、意思疎通の難しさ、 アートの世界にいる人間と自分の、同じ対象に対する感じ方の隔たりの大きさ(本当にそれは「同じ」対象なのか、 という問いさえ成り立ちそうだ)などなど、色々なことを感じることができたという点で非常に良い経験になった。 単に、理解できない壁があることを再認して、いささか凹んだだけという見方もできるが、、、
その一方で、三輪さんの活動や考え方に対する違和感の無さというのは、これはこれで貴重なものなの かも知れないと感じもし、と同時に、それが実は勝手な思い込み、錯覚に過ぎず、実は全くわかってないのでは ないかという懐疑の念も抱いた。まあ誤解であろうがなかろうが、同時代の「アート」について 「わかった気になる」こと自体、私の場合は珍しいことだから、主観的に貴重なことには違いないのではあるけれど。
何しろ、わからなければ黙ってやり過ごすしかないのだ。所詮「アート」など自分にとってはその程度の価値しか 持たないということなのかも知れないし、逆に「アート」の側からすれば、私のような人間は不要な存在なのだと いうことだろう。こうした催しに参加した結論がこうした認識であるのは、我ながらうんざりするが、否でも応でも、 それが現実であり、自分の気持ちを偽っても仕方が無い。結局、自分の能力に応じて、選べるものを選ぶしかないのだ。

何か冴えない結論になってしまったが、実際の当日の印象はこの文章の結論程ネガティブなものではなかった。 現実には、非常に大きな刺激を受けて、高揚した気分で帰途についたのである。
この経験は単に消費されておしまいという類のものではなく、今後、吟味をしながら消化していくべき 大切なものが含まれていたのは確かなことだと思う。そしてそれをきちんと消化し、自分なりに生かすことができるかどうかは 最早私自身の問題なのである。(2007.10.27初稿, 28一部修正, 11.3改訂、公開, 11.4補筆, 11.5修正)

2007年2月25日日曜日

弦楽四重奏曲「皇帝」を聴いて

弦楽四重奏曲「皇帝」
クァルテット・エクセルシオ(西野ゆか、山田百子、吉田有紀子、大友肇)
2007年2月24日紀尾井ホール「日本の作曲・21世紀へのあゆみ シリーズ第3期(1976年~2000年)・III[最終年]第37回 室内楽の諸相V ~1990年代」

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[おことわり]:この文章で扱う上記作品には、(「驚愕」交響曲の作曲者ハイドンの精神に則り!?)ある「仕掛け」が施されています。以下の文章は事実上、 その「仕掛け」の「種明かし」になってしまっていますので、予めご了承ください。とりわけ次の再演の時まで、あるいはリリースされるであろうCDを聴くまで 「最初の一回の楽しみ」をとっておきたい方は、読まないでください。(この文章の作者は、その「仕掛け」が作品の全てだとは考えませんが、様々な 状況から、少なくともそれが作曲者の意図の一部であると考えます。そこでこのような[おことわり]をつけることにしました。)

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三輪眞弘さんの作品におけるプログラムノートの位置は独特だ。作曲家が作品を提示するだけではなく、作品について言葉で語るようになったというのは、 いわゆる20世紀の「現代音楽」の特徴の一つだろうが、「逆シミュレーション音楽」において明確なかたちをとっているように、三輪さんの場合には、そうした 「習慣」を逆手にとって意識的に、戦略的に「利用」する姿勢があからさまだ。それに対し、あえて知らぬ振りを決め込んで、「音楽そのもののみ」を 問題にしようとすることもできるし、ある意味では素直に、作曲者の仕掛けにかかってみることもできるだろう。
私のスタンスは明らかに後者ということになる。三輪さんの場合には「音楽そのもの」がそれ自体虚構であるという認識があって、いわゆる実験音楽に おけるのとはまた異なった位相で「作品」概念自体を批判的に考えているのは明らかだから、というのが理由だが、それ以前に私自身がそういう 聴き方をする癖を持ってしまっていて、偶々この場合には、作曲をするコンピュータプログラムを作るというアプローチや、その背後にあるコンピュータを 人間にとっての「他者」、環境に存在するエージェントとして見做す志向的スタンス、そして、それを通して人間を捉えなおすという方向性への共感ともども、 単なる「音響」を享受することができない性向が、お誂え向きに合致しているというのが本当かも知れない。 ちなみに「お誂え向き」というのは、ひねくれた観方をすれば、作曲者が「いいカモ」だとほくそえむかも知れない、ということである。

というわけで、事前にプログラムノートだけを読んだときの私の反応の一つは、ひとことで言えば「国歌を問題にするなら、何故「君が代」ではないのか?」だった。 簡単に言えば、当惑したのである。ハイドンの皇帝賛歌の場合には、私はそれを「国歌」としてでなく、変奏曲の主題として捉えてしまっている という現実がまず先にある。「国歌」であるより先に、弦楽四重奏曲の第2楽章の主題なのだ。本当ははじめからそれは「皇帝賛歌」であったにも 関わらず、私はそうしたコノテーションには無頓着で、従って、国歌の問題を考えるときに「皇帝賛歌」を媒介にする、というのが、少なくとも私の場合には、 出発点から捩れてしまっていると思われたのだ。勿論、何かの理由があってのことだろう、というのは想像された。三輪さんはドイツに長く滞在していたから、とか (それなら私とは関係がないことになる)、あるいは、ここでの「音楽」とは、差し当たり「西欧音楽」なのだし、「国歌」を制定する、という発想自体、 輸入品であるとも言える、などなど、、、
更には、「機会音楽」と「純粋(?)音楽」との関係―弦楽四重奏というのは、最も抽象度が高い形式、ということになっている―のことも考えられるし、 自分にひきつけてみれば、通常はそれと自覚することもなく、音楽をごく「個人的に」「消費」していること、しかも、少なくとも私にとっては事実上、 音楽が強い意味での個人的なもの、つまり実存とか主観性とかいったレヴェルでの私的な位相を持つ(ただしそれは「独我論」的なものではない)ものに なってしまっているので、そうでない音楽との関わり方を考えるのは、とても難しい、ということが思われたりした。
現実には作曲家にとって「国歌」はともかく、「校歌」「市民歌」あるいは「社歌」といった機会音楽(コンクールの課題曲なども、それに準ずるものと考えて も良いかもしれない)の作曲が、今尚現実に仕事として存在することを思えば、自分のような立場が、音楽を専ら享受する極に位置するがゆえに可能な、 どちらかといえば極端なものであるようには感じていて、本来礼拝のためにある宗教音楽を、文脈に拘らずに聴いてしまう、というのもそうした極端さの表れに 違いないのである。また、「儀礼性」への抵抗感も、多分に同根に違いなくて、これは三輪さんの「逆シミュレーション音楽」や、 仮想的なカルトのための音楽への違和感とも通じているに違いない。 私の感覚では、逆シミュレーション音楽というのは、(恐らくここで批判の対象となっている)「国歌」のようなあり方を寧ろ認める 方向性があるように思えてならないのだ。それでいて、そういう文脈への無頓着さというのにひっかかりを感じていないわけでもない、、、 その何よりの証拠に、現にこうやって一音も聴かないうちに「音楽そのもの」とは無関係な考えが増殖しているではないか、、、
ともあれ、個人と集団、儀礼性といった問題は、三輪さんの音楽を聴くときに私がひっかかりを感じている部分で、今回もまた、そうしたひっかかりを抱えたまま、 会場に向かうことになった。一方でこの作品は、「コンピュータが変奏曲を作曲する」という試みでもあり、私にとってはそうした自動作曲の側面はそれ自体で 興味を引かれるものがある。一体どんな変奏になっているのか、それを確認してみたいという気持ちも強かった。

すでに何度目かの再演であるこの作品をご存知の方には笑われてしまうかも知れないが、要するに私は、こと「音楽そのもの」について言えば、 鮮やかに「一杯食わされた」のである。これはなかなか愉快な経験だった。 既に述べた通り、私は必ずしもこの作品を「仕掛け」が全てとは思わないが、 それでもなお、この「仕掛け」に嵌められる体験を今後する可能性がある方々のために、あからさまな「種明かし」はしないでおきたい。 (今読んでみたら、会場で配られた長木誠司さんによる作品解説も、そこの部分は何食わぬ顔でぼかしてあるし。)もっとも、ここまで書いてしまえば、 察しの良い方なら何が起きたかは想像できてしまうだろうし、以下、感想を書く上で、どうしても察しがついてしまうことになりそうなので、 「仕掛け」を事前に知りたくない方は最初にもおことわりしたとおり、読み進めない方が良いと思う。

仕掛けといえば、この作品の場合、楽譜にもちゃんと仕掛けがしてあって、「演奏について」のところに記載された楽譜で使われている特殊な記号の解説に 従って譜読みをすると、「あれれ」、ということになる。何という徹底振り!
更に言えば標題にも別の(ただし最終的には関係がある)仕掛けが用意されていると見るべきかも知れない。 「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」の企画者側が事前に用意したチラシやWebページの情報では、「弦楽四重奏曲、ハ長調"皇帝"」となっていて、 調性の指定がある。上述の長木さんの解説も、それを踏まえた説明になっている。一方で出版譜では調性の指定がない。当日配布されたプログラムは 出版譜に従ったのか、やはり調性指定は削除されている。不思議に思って、作曲者のWebページを参照すると、どうやら前回の再演時までは、 調性指定があったらしい。今回の再演と出版にあたって、恐らく意図的に落とされたようなのである。
この点は取るに足らぬことのように見えるが、長木さんの解説では調性指定に言及がされていて、ハ長調と書かれているけど、開始はト長調、終了は ニ長調であるとされ、「冗談とも遊戯ともパロディともとれるような真面目な作品」という評価のある種の裏づけとして指摘されている。
既にご存知の方も多いかも知れないが、背景の整理をすると、4楽章からなるハイドンの弦楽四重奏「皇帝」の主調はハ長調、三輪作品が「引用」 している緩徐楽章は主調の属調であるト長調で書かれている。他方、三輪さんの作品もまた、主題はそのままト長調と「一応」は言えそうである。 ただし楽譜の記譜上は、―無調の作品でのように―へ音が出るたびにシャープが臨時に付く記法になっていることに注意すべきかも知れない。 ちなみに主題が「引用」されている、という言い方は三輪さん自身の言い方なのだが、聴くとすぐにわかる通り和声付けはハイドンのものと全く同じではない。 特にAABCCの構造のCの部分の後半のフレーズのチェロの動きは原曲とは違っていて、和声進行としても 歪みが入れられているのがはっきりと聞き取れる。この歪みはその後の「変奏」でも割合と律儀に保存される。
一方で終わりはもっと問題がある。497小節目の終止は確かにニ長調の主和音のようだ。だが、この終止はいわゆる「まともな」終わりではないのだ。 ハイドンを含む西欧の古典音楽の和声進行の帰結ではないのである。495小節目の裏から496小節にかけて響くニ音のユニゾンの後に、唐突に付加 されているだけなのである。それまでの音楽の経過の帰結は495小節目の裏から496小節にかけて響くニ音のユニゾンの方であって、それは作曲者の 指示にほぼ従って実演でも行われた照明の変化によっても強調されている。 つまり、421小節以降のコーダの部分は496小節のニ音のユニゾンまでは舞台照明が徐々に紅にフェードしていき、497小節でそれが通常の照明に戻るのである。 というわけで、長木さんの解説は勿論正しくはあるのだが、まるで作曲者への共犯の意図に基づいたかのような含みのある、ぼかした書き方なのだ。 (確認したわけではないからこれは単なる私の憶測に過ぎない。そういえば前段の三輪さんの音楽を概括的に紹介する文章も、間違っているわけではないが、 少なくとも表現的に随分とぎくしゃくしているようだが、これまた意識的にやっているのだとしたら、かなり徹底している。もっともそれと気付かない人がもし いれば、些か危ないことになるような気もするが、、、)

要するにハ長調でないのもはっきりとしているが、ト長調からニ長調に転調するのでもない。実際には問題の495小節目の裏から496小節にかけての ニ音は西欧的な調性の主音ではなく、「旋法」を構成する音なのである。おまけに照明は、「はっきりと境界線がわかる真円形のスポットライトが望ましい」という 指定が為されていて(私が聴いた座席の位置からは、舞台が近すぎてそのようには見えなかったけれど)、赤い太陽のように見えることが意図されている。 コーダに入って音楽は終結に向けて高潮していくが、聴き手は今聴いているのがハイドンの「皇帝賛歌」の変奏である筈だということをうっかり忘れそうになる。
とはいうものの、そこにははっきりとキマイラであることがわかるほど見え透いた「変化」があるわけではない。コンピュータ作曲の有名な例で、ベル研の マックス・マシューズを「メタ作者」とした音楽がある。「ジョニーが凱旋するとき」と「イギリス擲弾兵」を入力とし、前者から後者へ、そして再び前者へと変化する 奇妙な「作品もどき」で、この場合にはヘ長調からホ短調への転調と4分の2拍子から8分の6拍子への変換が些かぎこちない仕方で行われるものだった ようだが、その場合とは異なって、ここでは変奏という口実のもとで行えるほど滑らかなものである。これは一つには三輪さんが用意したプログラムが 洗練されていたことによるのだろうが、より根本的には、国歌というものが持つことが要求される音楽の性質がもたらす類似性によることを示していると 受け止めるべきなのだろう。私はそんなにいくつもの国歌を知っているわけではないのだが、それでも、国歌というのがしばしば取替えがきくのではと思えるほど 似た雰囲気を持つことはしばしば感じることではある。

それにしてもコンピュータが国歌を変奏する、というのは国歌の機能を考えれば、それ自体が奇妙なことのように思える。我々と異なって、コンピュータは (少なくとも今のところは、レムの「ゴーレムXIV」に出てくるようなものはSFの世界の話なので)「愛国心」を育むべく、思想教育さながらのチューニングが 行われるとなどという事態は現実には起こりえないし、自分が埋め込まれる環境に対して無頓着で、そうした環境への対応を主眼においたものもあるには あるが、例えば(少々古いが)ブルックスのロボットがそうであるように、せいぜいが昆虫を模擬する程度の柔軟性しか持っていない。 自分が共同体に帰属する、などという意識がないのは勿論だし、もろもろの国歌の共通性を抽出するプログラムを作成して実行することはやろうと思えば できるかも知れないが、その場合は解釈するのはあくまで人間なのだ。そもそも「コンピュータが変奏をする」、という言い方自体、人間がそのような 志向的スタンスでプログラミングされたコンピュータの動きを捉えているということに過ぎない。それが国歌であることは、あくまでプログラムを書く人間、 プログラムが生成した音楽を演奏し、聴く人間の側の問題なのだ。
だがその一方で、人間もまた、自分の拠って立つ基盤を直接認識し、操作することはできない。自分が動かされる衝動や本能は、ある部分は生物として、 ある部分は社会的に蓄積されたもので、無媒介にその外に出ることなどできない。音楽の聴き方一つとっても、身に付いたものを変えるのは容易なことではない。 ある部分から先は変えることがそもそもできないのかも知れない。この作品はそうした危うさを、ユーモアをもって指摘しているのだと感じた。
もっとも赤い光の中で、コンピュータが紡ぎだした音楽を、人間が奏でるのを見、そして聴くのはちょっと不思議な感じの経験だった。 (これは三輪さんの意図からは外れるかも知れないが)それが「国歌」であることは副次的なことになってしまい、寧ろ端的に音楽を、本来 人間にとってのものでしかないはずの音楽を、誰のためでもなくコンピュータが無限に紡ぎ続けるというイメージが鮮烈に浮かんでしまい、 頭から離れなくなってしまったのだ。勿論、聴く人間がいない以上、コンピュータが紡いでいる「それ」は、最早「音楽」とはいえない筈で、 これは単なる御伽噺に過ぎないことはわかっているのだが、、、

私がこの曲に対して興味を抱いたもう一つの側面、コンピュータが変奏を自動的に生成するという点については、三輪さんの他の作品同様、うまくできているな、 というのが率直な感想である。以前に三輪さんの初期の「架空の木管五重奏のためのBQMOVM1E」について書いたときに、主題を与えて、それに基づく 即興をやらせたら面白いのに、というように記したが、この曲はほぼそこで期待していたことの実現になっていて、大変に興味深かった。 もっともここで「変奏」と言っているのは、少なくとも古典的な意味での、つまりハイドン自身が書いたような類の変奏とは随分と異なっている。 主題は確かに調性を持っているが、変奏は機能和声に従って作られているわけではなく、和声進行が保存されるわけでもなければ、 旋律線が装飾されるわけでもない。旋律の断片が漂い、似たようなコードが出てきて、何となく原曲の雰囲気が残っているかというくらいの、かなり 自由なものである。
一般に言って、変奏をする際に、どのパラメータを固定にして、どのパラメータを変更するか、どのような変更を認めるかには非常に大きな自由度が 存在する(それは人間がやっても同じことだが、人間が無意識のうちに自分が身につけた技法なり、「変奏」に関する了解なりの内側で動きまわる のに対して、プログラムの場合には、寧ろそうした「フレーム」を用意することの方が難しい)。それは更には、例えば機械学習や自己組織化などで時折問題になる、 どこまでが設計者により決定されていて、どこから先が自律的な動作なのか、というような話とも関係していくだろう。幾つかある変奏の違いは、 どのようにして可能になっているのか、言い換えれば各変奏の特徴(楽器の配分やリズムなどの違い)はどのように与えられているのか、とか、 変奏の排列は作曲者が決めているか、それともこれもコンピュータが決定しているのか、とか、色々な疑問が湧いてくる。 私はコンピュータで音楽を作ったことはないので、具体的な細部についてはわからないが、コンピュータに知的な―正確には知的に見える―振る舞いを させるプログラムを作ることについては、全く接点がないわけではないので、どうしてもこうした部分に目が行きがちになるのだと思うが。
そうした詳細は三輪さんに時間をかけてお話を伺うでもしなければわからないだろうが、とにかく、原則的に鳴っている音はコンピュータが生成したものであるということで、 プログラムの出来の良さに素直に感心してしまった。なんといっても各変奏内の時間的な構造の単純さは、人間が実現する階層的でしばしば大域的な 構造に比べて明らかに異質なものだとは思うが、それでも結構聴き応えはあったと思う。ちなみに時折指摘されるミニマリズムとの類似は、実際には結果論に過ぎない と私は思われる。単にアルゴリズムが、例えば歌謡形式の持つような再帰的な構造を、伝統的な和声進行ともども考慮して作られているわけではない からに過ぎず、言ってみれば欠如しているものがたまたま一致しているに過ぎないのではないか。ミニマリズムというのも実際には非常に多様であり、例えば 「逆シミュレーション音楽」であれば、それをある種のミニマリズムであるとするのは妥当なことかも知れないが、この曲に関してはそれとは単純に同一視はできないし、 そもそも比較の対象として想定するものが、一般にミニマリズムを代表するとされるライヒなどの作品だとしたら、志向から言っても、実際の音の肌触りから言っても、 随分と異質のものに私には思われる。 しかもここでは、上述の「仕掛け」を埋め込む必要があったわけで、そのためには埋め込みを行うための自由度が必要だろうから、変奏のいわば「もどき度」の強さは、 そうした目的から逆に決められたものかも知れないと想像してみたりもする。 研究レベルで興味深いアプローチを行うことと、音楽として面白いものを作ることとは一致しない。恐らくは限られた 手持ちの道具立てで、実用に耐えるものを作ることのが持つ特有の難しさ―これは研究を専らにされている方々には理解していただけないことが多い―を 我が事として感じているので、分野は違うけれども、その成果には心から感嘆してしまう。(レベルに違いがありすぎて、比較する気は全く起きないけど。)

演奏もまた素晴らしいものであったと思う。勿論、当日演奏されたもう一曲の野平さんの弦楽四重奏曲(これはとても優れた作品だと感じた)が要求する、 特殊奏法を駆使した多彩な音色や複雑で多重的な時間構造をリアライズするための技量や、洗練された繊細な感覚を受け止めるセンスはここでは 意味を持たない。「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」がそうであったらしいのと同様に、あるいは「弦楽のための369」がそうであったと感じられたように、 三輪さんの作品はいわゆる「現代音楽」の中では異彩を放って響く。コンピュータの生成した作品は、人間の身体性を考慮しないから、 音域や重音奏法が演奏可能なように調整する必要はあるだろうが、奏者の身体技能を前提とした名人芸作品のような意味合いで「楽器のために書く」ような ことは起きない。三輪さんが施した「仕掛け」とは別に、コンピュータが生成した音楽は、聴き手にとってもどことなく「ずれた」、不思議なユーモアを感じさせる ものだし、(今回多少楽譜を調べての想像だが、)恐らく奏者の方々にとっても、一見して平易に書かれているようでいて、決して滑らかではない、 独特の感触を持ったものではないかと推測される。主題も変奏も人の声に近い音色を持つ中音域が中心的に用いられているが、それらは総じてのびのびと 歌われ、自然な表情付けがなされていて、この作品の持つ不思議な晴れやかさとよくマッチしていたように聴こえた。
ここでもう一度、コンピュータが作った作品を人間が演奏することの意義を考えてみることができると思う。コンピュータ自体に再生させないこと、 あるいは例えばMIDI音源にしないことの意味は、この場合、音楽が良かれ悪しかれ、人間のためにあること、音楽によって得られる喜びも 音楽が利用される危険も、それを人間が歌い、聴くことにあることを浮かび上がらせること、そして同時に、アルゴリズムもまた両義的な価値を持つもので あることを示すには、「通路」となり「媒介」となる身体が、他者があるべきなのだ、ということではなかろうか。

もう一つ、この作品が日本の作曲の歴史を顧みるという企画のもとで演奏されたことと関連して感じたことがある。それは儚い人間が世代を介して 受け継いで行くものの方が、直接テクノロジーを媒体として、それに従属したかたちでしか在り得ない作品よりも、実は「長持ち」なのではないかということ。 いにしえにおいても「楽器のために」書かれた音楽は、その楽器の製法や奏法の伝承が喪われると、存続しえなくなる。今日のコンピュータをはじめとする テクノロジーの進展と世代交代の速度は、例えば、ほんの10年前に書かれた作品を新しい環境に「移植」することなしには再現不可能なものにする 可能性を含んでいるように思える。アルゴリズムは機種依存性がないから、そのまま残るし、生物としての人間の進化は極めて緩慢なものだから、 それに合わせた調整を見直す必要性は高くない。勿論、こうした議論に対しては、文化の発展や奏法の進歩の速度は、生物学的な水準とは 別のものだから、そうは行かない、という反論があるだろう。けれども、実際に何百年も前に、全く別の文化の中で書かれた音楽を聴くことが今日では 普通に行われている。それを思えば、やはり実際の問題として、そうした媒体への依存の問題はあるのではないか?人間に比べてコンピュータの性能は 遥かに可変性が大きい。端的な言い方をすれば「手順」とは別に「速度」という側面があるのだ。
こうしたことについて、コンピュータ音楽に取り組まれている方々はどのようにお考えなのだろうか?現実に、「再演」に際して実際的な壁にあたることはないのだろうか? こういう点も是非、話を伺ってみたいところではある。私自身について言えば、その速度のせいで、10年前には断念していた手順を、今なら実用に供して見よう、 などといった判断をしばしば迫られているので、これまた他人事とは思えないのである。多少、前後の主旨から逸れてしまうが、これもまた会場で思い当たった ことであり、ここに備忘のために書き留めておく次第である。

この作品はややもすれば、その「仕掛け」をもってのみ語られてしまい、「際物」扱いされてしまう危険があるかも知れない。けれども私が聴いた感じでは 必ずしも一度聴いて「種明かし」されたらおしまい、といった作品ではないと思う。ユーモアに込められた毒はきついものだし、それに釣り合うように、 コンピュータが生成した音楽は、美しくて、どこかで微妙にずれている。そのずれを再認するのは、いつも興味深いことであるように私には思われる。 「仕掛け」に拘れば、これは演奏者や聴衆の国籍を選ぶ、文脈拘束性の強い作品だということになる。けれども、そうした文脈がなければ意味を 喪ってしまうようには思えない。もっとも、実際にどうであるかを主観的に確認する術は、勿論私にはないけれど。そして、私個人にとっては、それ以外にも 色々な問題意識をかき立てて止まない作品なのは確かなことなのである。 (2007.02.25作成、公開,27加筆修正)

2007年2月21日水曜日

「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」を聴いて

「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」(世界初演)
2007年2月18日東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007)

CCMC2007というのは、アクースモニウムと呼ばれるマルチ・チャンネルスピーカーシステムで再生される作品の演奏会で、 流れとしてはシェフェールやアンリ等のミュージック・コンクレートの系統のようだが、ここで三輪眞弘の新作が発表される ということで、東京日仏学院に出かけた。 会場は日仏学院の2階の、エスパス・イマージュと名づけられた普段は映画を上演していると思しき部屋。 かつて学生だった時分にフランス語を習いに来たことがあったが、結局この部屋は一度も利用しなかったので、入るのは 初めて。席数は100席くらいだが、席の一部は機材によって塞がれていて、80席程度か。正面を中心にして、左右の 壁際と後方の壁際の席を潰してスピーカーが設定されている。上演中は部屋の照明を落とすが、勿論、演奏者は いないし、別に映像を見る訳ではないので、そこだけぼんやりと明るい正面のスピーカー群を眺めながら音を聴くということになる。 自分の家で音楽を聴くときだって、再生装置の前に坐って聴くのだけれど、ここでは数十人の人間が空間を共有するという 点が異なっている。

実は今回の催しを聴くことには2つの理由から躊躇いがあった。
まず私は、テープ音楽というのにはほとんど興味がない。私が繰り返し聴くのは、クセナキスの作品を除けば、 三輪の「Dithyrambe」くらいのものだ。理由は単純で、そもそも一般に音響的な側面での素材の拡大や、 編集・加工技術の進展によって開かれる可能性に対してほとんど関心がないからだろう。(だからテープ音楽だけでなく、 いわゆるライブ・エレクトロニクスのようなものについても、拒絶することは無いにしても、その可能性を 見極めようという気は起きない。)少なくとも私が聴きたいと思っている何かは、 とりたててそうした素材なり技術を介してでなければ見いだせないものであるようには感じられないと いうことなのだと思う。 勿論、例えばクセナキスのテープ音楽に込められた、演奏会という空間の拘束からの解放のインパクトは今尚 感じ取れるし、音響の空間的な扱いに圧倒されもするが、それはクセナキスの音楽が持っている認識様態の絶えざる 拡大と相対化の指向の上でこそ感じ取れるものだと思う。従ってここでの私の関心は、「アルゴリズミック・ コンポジションの作曲家」である三輪が、テープ音楽、しかもその中でもミュージック・コンクレートという、一見したところ 三輪のこれまでの作品とはやや疎遠に見える制約条件にどのように対峙するのかにあったと言って良い。
次に新作が「新しい時代」の系列に属していること。「新しい時代」は、2000年に制作されたモノローグ・オペラを はじめとする幾つかの媒体での作品群やCDにつけられたタイトルであり、カバーストーリーとして架空の宗教が 背景になっている。以前に私は三輪のアプローチに含まれる擬似カルト的な方向性の危うさとそれに対する自分の 拒絶反応を書き記したことがあるが、いわばこの作品系列こそが私にとってのアキレス腱のような存在なのだ。 けれども、その危険は作曲者自身が明確に意識し、自覚的に引き受けているものなのは確かなことで、 前回「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」の初演を聴いたときも、―すべてがすっきりとしたわけではないが― その問題意識に釣り合った音楽を聴くことができたと感じていて、それゆえ今回もまた、 認識を新たにすることになることを期待して会場に足を運んだのである。

このような、どちらかといえば聴き手としては相応しからぬ貧弱な前提しか持たずに、しかも一度きり聴いたものが十分に わかるということはそもそも期待していなかったし、実際に聴いてみて、とても強いインパクトを受けたのは確かだが、 それをうまく文章にすることができないように今なお感じている。ましてや作品の出来について云々したり、 批評することなどは全く不可能である。 だが、まずは後日の備忘のために、まとまりがなくても、あるいはたとえ混乱していたとしても、 印象や連想したことを、上記2点の躊躇いに対する結果がどのようなものになったかも含め、 書き留めておくことにしたい。ある意味では予想通り、自分のどちらかといえば苦手な領域の作品に接して、 受けた印象の強さとは裏腹に、それをどのように扱ったらいいのかわからずに、途方にくれているだけのような気もするが、 恐らくは数多く含まれる誤解も含め、その場で感じたことは確かなことだし、それは(少なくとも私にとっては) なかったことにするわけにはいかないものなので。あまりに性急で単純な図式化には、その場における経験の質が 異議を唱えることになる。それよりは混乱は混乱として書き留めておくことにしたい。

まずテープ音楽という枠組みに対し、ラジオを付け加えたことを看過することはできないだろう。演奏をしている 場にラジカセを持ち込む、というのは三輪の作品ではしばしば行われることだが、常には人間による演奏の場に 持ち込まれる(例えば「歌えよ、そしてパチャママに祈れ」)のに対し、ここではスピーカーシステムによる 作品の再生の場に持ち込まれているのが異なる。そして、作曲者自身がラジカセを持って現れ、正面の スピーカーシステムの手前に置かれ、そこだけ照明で照らし出された椅子にラジカセを置くことで作品が始まり、 作品が終わると、ラジカセを片付けに現れることで、作品の再生の「場」が縁取られることになる。 意図するとしないとに関わらず、事実上そのことによってそれは既に単なる作品の「再生」ではあり得なくなってしまう 演出になっていた。
一方で置かれたラジカセはライトを浴びて浮び上がるから、聴き手は単にスピーカーから飛んでくる音を聴くという わけにはいかない。否応無くそれは何らかの「記号」として機能してしまい、音響を文脈づけてしまうことになる。 私にはラジカセはいわば「窓」とか「通路」のような役割を果たしていると感じられた。それは「外部」に通じているのだ。 それは具体的な音(雨の音でも、虫の鳴き声でも、何でも)を聴いて、何かを「連想」するというのとは異なる。 寧ろ、今鳴り響く音響を、単なる「音楽」として、もっと言えば単なる(聴き手である私の手前で閉じて完結した) 「作品」として享受することを妨げていて、今ここでの音響の享受、そしてそれに触発された連想の戯れのみに 充足することを禁じているかのようなのだ。

いわゆるミュージックコンクレートというジャンルとの対比に拘るなら、様々な素材の提示の時間的な構造が アルゴリズミックに決められていて、子供の声、街頭の雑踏、渋谷とかで時々(特にクリスマス近くに)聴かれる キリスト教のものと思しき「布教活動」(これ自体録音されたテープを街頭でラウドスピーカーによって「再生」する 行為である)といった素材や「新しい時代」のテキストに交じって、丁度基調の響きのようにそのアルゴリズムを 決定している「神の旋律」が素材としても埋め込まれている点は、具体的な音響の録音を素材として用いるという点でも、 それらを直接聴きながら編集・加工していくという点でも、ミュージック・コンクレートからは逸脱していると考えられる。 時間方向の推移としては、最初には優勢な戸外の具体音が、徐々に「新しい時代」のテキストや、譫妄状態のような激しい息遣いの音 に置き換わっていくような経過を辿っていて、その間に基底の響きのように流れている「神の旋律」が浮かび上がるようになっている。 末尾近くには幾度か鈴の音が響き渡る。最後は神の旋律も途絶え、沈黙の中を鈴の音が響いて終わる。 全体として比較的はっきりとした時間の流れがあり、とりわけ「終わりが近い」ことははっきりと感じ取れるようになっている。 上演時間は計測したわけではないが、およそ20分程度ではなかっただろうか。
時間方向の構造をどのように決めるかというのは、普通の「音楽」でも、調性組織や伝統的な形式に依存 しない場合には問題になりうるが、テープ音楽の場合には更にそれがはっきりと現れるように思える。 要するに、感覚的に決定された経過が興味深いものになることはほとんど期待できないし、さりとてレディ・メイドの 形式を借りてくるのもまた、退屈だ。三輪の方法では、初期値さえ決まればあとは決定論なので、かえって 録音・再生といった条件向きであるとさえ言える。実際、様々な素材の出現と持続の制御については 適度な緊張感を維持できて成功していたように思える。要するに「音楽」的に聴いた場合でも、大抵の場合に 様々な音響上の工夫が凝らされてはいても、結局は退屈な時間経過に飽きてしまうことが多いのに対して、 それは緊張に満ちた、素晴らしいものであったように思われる。(もっとも、単純にアルゴリズミックであれば 退屈ではない、ということではない。表面的な方法の模倣が退屈な結果に終わるのはアルゴリズミックな 方法とて例外ではない。)

だが、それは私が、そうした音響を「音楽」として聴いた、ということではない。既に書いたとおり、明らかにそれは 単なる「音楽」ではない、あるいはいわゆる狭義の「作品」ですらない何かであろうとしていて、作品を享受する 聴き手であるというよりは、何かの記録の再生に立ち会っているような感じを覚えた。 だが同時に、それはドキュメンタリーが担保しているはずの「真実らしさ」、「事実の再生」を装うどころか、 あからさまにその内容がフィクションであることを告げてしまってもいる。再生されるのは決して「生の現実」、 「客観的な事実」などではない。
この「作品」で用いられている素材はほとんどすべて、(事実として「同じ」素材を用いたのではないにせよ) 三輪のこれまでの作品のあれやこれやを想起させずにはおかないもので、それゆえに、テープに記録された 音響の再生という条件を口実に、自己引用のコラージュにより、メタ音楽(それはもはや音楽ではない)と して構成されているというような聴き方も可能かも知れない。
一例をあげれば、擬似カルト的なテキストは旧作の「引用」なのだが、そのいかがわしさと嘘っぽさは、 「それが記録だから真実なのだ」という錯覚に陥ることを妨げる。もともとの「新しい時代」の筋書き自体、 風刺が込められたパロディにしか取れないのだが、ここでは、そこで再生される「物語」の虚構性を 浮かび上がらせるように機能しているように感じられる。そのテキストを聴くことは私にとって決して愉快な 経験ではないのだが、少なくともここでは、それはそこで起きていることを「覚醒した」状態で受け止める のに寄与しているように感じられた。
今や誰も物語を信じることはできないし、記録と称するもの、現実の忠実な再生と称するものだって疑わしい。 実は「再生」されているはずのオリジナルな経験など、どこにもないかも知れないのだ。 再生される「具体的な音」のもっともらしさは、聴き手に自己の文脈にどうしようもなく拘束された連想や物語を 生じさせることにしかならないし、ましてやその音によって作曲者が体験した何か特殊な経験なり印象なりが聴き手に 「そのままのかたち」で伝わるわけはない。まずもって「純粋な知覚」というのは人間が環境の中で生きる動物で あること忘れたが故の虚偽なのだし、一見「それ自体」に忠実に見える再生も、共役可能な何かには決して辿り着かない。 してみれば、物語の内容、つまりそれがどんな物語であるかは実際にはあまり問題ではないのかも知れない。 それよりも物語は結局のところ付いて回るし、そこから自由になることはできないという認識の方が重要なのではなかろうか。 それが陳腐なものであったとしても、物語というのはようするにこの私そのものなのだから。

しかしながら、だからといってすべてがまるまる出鱈目ということにはならないし、再生の現場に立ち会うのが 不快なだけで不毛な経験だったというわけではない。 実際の聴いた印象はメタ音楽的な単なる批評性にとどまらず、醒めて屈折した姿勢と、それを突き抜けてしまう 「生々しさ」が激しく拮抗しているような感じが強かったのである。 とはいえ、ある種のドキュメンタリーが意図するように、不快であっても目を背けてはならない「現実」を認識させるというのが、 この「音楽」ならぬ「作品」のメッセージであるというのもまた、その場の経験をあまりに単純化してしまった言い方になる。 従って、(これだけでも充分に手のこんだやり方だと思うが、)ここではドキュメンタリーのパロディとして、真実らしさを 同時に嘲笑うことによって、単にそれを否定してしまうことのみが目的だというわけではないだろう。
それを虚偽であるということを知ることによって、虚偽を成り立たせる回路を浮び上がらせることが可能になる。 そしてその上で、場合によってはそうした虚偽を産み出してしまう指向をもう一度拾い上げることができるのかも 知れないのだ。聴き手がそこに見出すのは自分自身の影なのだろう。だとすると、三輪がプログラムノートで言うところの 「幽霊」とは、聴き手の意識が反省や分析によっては自ら認識することができない、従って、自分で制御できない 不随意な部分、だがそれでもなおとりあえず自分に属しているというほかないある領域、(準)現象学的な姿勢が 突き当たる壁の向こう側の領域のことなのだろうか?私という物語を紡ぐのは私自身ではないのだ。そのある部分に ついて、私は全く受動的で無力ですらある。物語を、虚偽を産み出すメカニズム(何なら、それをアルゴリズムと 言っても良いかも知れない)を単純に否定することもまたできない。プロかコントラかの性急な選択は短絡的であり、 危険なことに違いない。

ということで、もともとあった「新しい時代」作品群に対する懐疑のためか、今回私が聴き取ったのは、まずは作者の強い批判的な 意志であったように思う。そして素材に対する緊張感が作品に強度をもたらしていたことは確かだと思うし、 アルゴリズミックな発想が様々なレヴェルで作品の本質的な部分を支えていることを感じ取ることができた。 一方で既述の通り、テープ音楽という媒体の扱いにも(幾つかの逸脱も含め)、これまでの取り組みとの一貫性を感じた のだが、そうした逸脱によって、批判的な手つきではあるし、グロテスクに歪められてはいるのだが「何か」を 救い出したいと思っているのではないかという印象を強く抱いた。

正面に置かれたラジカセは「外部」への「通路」のようだ、と書いたが、それに関連して、私にとって作品中 もっとも印象的だった鈴の音、後半になって導入され、特に、熱にうなされるような激しい息遣いが止まり、 神の旋律も聴こえなくなり、物語が終わった後でスピーカーから響いた鈴の音もまた、「外部」を暗示していたように感じられる。 勿論、鈴の音は(三輪の作品では「またりさま」で印象的に用いられているが)神的なものの到来といった呪術的な コノテーションを強く帯びている。 (神社の鈴や、三番叟などを思い浮かべても良い。)だが、この鈴の音が印象に残ったのは、単にそうしたコノテーション によるだけではなく、この作品のおける境界性、それが持つ両義的な意味合い故なのではないかと思う。
一方でそれはあたかも待ち望まれた瞬間が到来した、成就したのではと一瞬思わせるがゆえに、聴き手をぞっとさせる。 (突飛かも知れないが、私はアドルノがマーラーの第8交響曲について語ったとき「救い主の危険」という言い回しを 用いたのを思い浮かべた。第2部の少年合唱が成就を歌うとき、本当にそれが起きたのではないかと錯覚して ぞっとする、と書いたアドルノの言い回しは、全体として批判的であっても全面的な否定ではないと私には 感じられる。) だが勿論、そうした瞬間など訪れはしない。作曲者がラジカセを片付けに来て、拍手が起きて作品は終わる。 けれども、終わった後に耳の奥に残った鈴の音が、確かにスピーカーから響いたと聞いた筈なのに、本当に 「再生」されたものなのか、その鈴は作品の内側にあったのかがわからなくなる。 鈴の音が持ちうる意味のうち、どれが「本当」かを問うても恐らく意味はないだろうが、それはおそらくそこから 「音楽」が生じる領域の存在を示していたように感じられる。それは作品の内側に取り込まれた、 外部の痕跡のようなものなのではないか?

それが物語の姿を纏えば今や陳腐なパロディにでもなる他ないとはいえ、そこには「衝動」がある筈なのだ。 恐らくは暴力と不可分の、それ自体は両義的というほかない衝動こそ、それを否定してしまったら全てが意味を、 価値を喪ってしまうものに違いない。 例え戦略的な選択だとはいえ、擬似カルト的な装い危険性がなくなったとは思わないものの、 この衝動を浮かび上がらせるためにあえてそうした手段を選択したことに、今回は寧ろ作者の批判的な姿勢と 懐疑の強さ、そして(適切な言い方ではないかも知れないが、とりあえず他に表現が思い浮かばないのであえて この言葉を使うのだが)「誠実な」姿勢を感じた。そして、その「衝動」の強さ、ベクトル性の深さは、批判的な 姿勢との拮抗の激しさを通して、あるいはそれをくぐりぬけて、聴き手の私にはこのうえもなくはっきりと共鳴を 引き起こすものと感じられた。それを「美」と呼んでいいのか、そうするのが適切なのかはわからないが、 そこには少なくとも驚異が、圧倒的な何かの影が確実に感じ取れたと思う。
こうした感じ方は、もしかしたらあまりに牽強付会が過ぎるかも知れないが、 少なくともこれだけの強度で自分の問題と共振を起こす作品はないし、私は実際そのようしか受け取れなかった。 だから「客観的に」もし間違っていたら、それはそれで仕方がないし、そのことが主観的な経験の質、クオリアを 損なうことは無いだろうと思う。随分と独りよがりな言い方だとは思うが、こればかりは仕方がない。
もしかしたら共役不可能な、他者と共有できない部分においてこそ共感が生じるというのはパラドクスという他ない。 けれどもそれこそが、私のように芸術に縁のないことによって糧を得ている人間ですら、それなしでやっていくのが 困難であると感じる芸術の謎、それを特権性と呼ぶのであれば、まさに芸術の特権性なのだと思う。 だからこそ(「弦楽のための369」の感想でも書いたことだが、)それは単なる娯楽ではないのだ。「イケテナイ」こと 甚だしいことは認めざるを得ないが。そうでなければこうした感想を書く必要もまたありはしない。 批評はもっと客観的で、大きな芸術上のトレンドや動向を踏まえた上での評価の営みであるべきで、それゆえ 私のような聴き方は恐らく永久に批評には辿り着かないのだろうが、それは仕方のないことだと思っている。 そして批評も大切だろうが、批評ではない感想も、とりわけ対象が、現在進行形の営みである場合には、 全く存在意義がないわけではないだろうと思う。少なくともコミットメントの証にはなるだろう。感想の存在意義は 結局のところ「聴いた」という事実性にしかないのかも知れないが、それで構わない。そこにあるのは、骨董品と して飾られた遺物としての芸術作品ではないのだから、聴き手だってそれを撫で回すことしかできないわけではないだろう。

そして更に(これも私の思い込みかも知れないが)、聴き手である私と作曲者の間に客観的には存在する筈の超えがたい溝が 不思議と感じられなかったのも印象的だった。それは勿論作品が「わかりやすい」と感じられたということではない。 そうではなくて、作曲者が発信をし、聴き手が受け取るという図式があてはまらないように思われたということである。 勿論、そうした側面を無視してしまうことは出来ないにしても、そして別にその場に作曲者がいて一緒に作品を聴いたからと いうわけではなしに、聴き手が一方的に受動的であるという感じはなかった。 初演に立ち会うという状況がもたらす一回性のアウラ(少なくとも私はそれが「初演」であるということを知っていた)とはまた別に、 共同作業というのには明らかに無理があるにしても、この「作品」のアリバイの「証人」として関わっているような感じを覚えた。 単純に「従来の作品概念を超えた」というような乱暴な言い方はしたくないが、少なくとも個別の作品のあり様というのは、 その都度の具体的な体験に照らして判断すべき微妙さを持っていて、図式的な批判は意味を持たない。 そうした微妙さを感じることができたのは貴重な経験だった。

それにしても、こうした感じ方もまた「再生芸術」のもたらす幻想ではないだろうか? 例えば「逆シミュレーション音楽」における演奏者の身体性の疑わしさに比べた時に、テープの再生が演奏者の媒介抜きで、 従って一見作曲者と聴き手の間が短絡できる媒体であることが寄与しているのだろうか? またそれゆえに再生芸術においては、作者の視線(あるいは秘められた意図)を聴き手に明示的・暗示的に 強制する暴力がより直裁な仕方で機能しうるという危険を逆説的に提示していると考えるべきなのだろうか?
そんなに確信を持って言えるわけではないが、私が聴いた感じでは「否」である。 この感じの由来は、作曲者が発信をし、聴き手が受け取るという図式からの逸脱が、単なるテープ音楽ではないことにあり、 技術に対する批判的なスタンスにより多くを負っているように思える点に存する。例えば、最初に言及したラジカセの利用が そうだ。ラジカセは丁度演奏者がそうであるように、作曲者と聴き手の間を隔てる「外部」、「他者」であると同時に、 それは媒介するもの、「通路」なのだ。そしてそれを通じて、私は「作品」を閉じて完結したものとしてではなく、そこで響く 音響を単なる「再生」としてでなく、自己の領域に影を落とすものとして感じ取ることができるように思える。
それでもなお、アルゴリズムを設定する作曲者の立場は特権的であって、聴き手はやはり疎外されている、 という言い方はできるかも知れないが、作曲者はアルゴリズムに対する支配者の立場にあるのではないし、 その一方で特定のアルゴリズムの物神化が生じているのでもないことは、少なくともこの場合にははっきりしている。 アルゴリズムなり手順なりもまた、両義的なのだ。それが暴力なのだとしたら、それは聴き手にとってそうであるのと同様、 作曲者にとってもそうではないだろうか?(アルゴリズムをセリーに置き換えて後期のヴェーベルンの場合を考えてみても よいかも知れない。)2000年の時点と今日の間には、「逆シミュレーション音楽」の提唱が存在している。 であれば「逆シミュレーション音楽」の経験が「新しい時代」という作品系列にどのような影響を及ぼしたのかを 検証すべきなのかも知れない。(もっとも現在の私にはできない作業だが。)

今回はとりわけ、その作品が「理解」できたという感じを持つことはできなかったし、だから上述の私の受け止め方に 少なからず混乱があることを否定するつもりはない。だが作品を聴いて受け止めたものが、(今のところは正直なところ手に負えかねるほど) 強いものであることは確かだし、それが(否定的な意味でなく)「挑発的な」作品、聴き流すことを拒む強い力を 持った作品であることも確かだと思う。そして、三輪の作品を聴いて感じること、「作品」を提示するというよりは、 寧ろ、聴き手に問いかけをし、そして(その仕方は聴き手により様々であってよいのだと思うが)それぞれがその問いかけに 対して何らかの応答をするように誘われているような感覚は、これまで以上にはっきりと感じることができた。 端的な言い方をすれば、私にとって三輪の音楽は、それによって自分が勇気づけられるような類のものなのだ。 その問いかけを己の事として受け止めることは、同時代に生き、現在進行形の試みに接することができる場合にのみ 可能なことだ。だから今後も可能な限りその帰趨を確認していきたいと思っている。
また、この作品は勿論だが、「新しい時代」の系列の他の作品の再演が行われるのであれば、是非足を運びたいと思う。 残念ながら今やCDに収められた作品以外は体験することはできないし、とりわけ2000年のモノローグオペラは実演に 接しなければ経験できない部分が多いように思われる。今回受けた強烈ではあるが些か混乱した印象がより明確な姿をとるの ではないかという期待をこめて、今回の作品も含めて一連の「新しい時代」作品群の再演を期待したい。 (2007.02.19--21作成,22,24一部加筆修正)

[文中敬称略]