2010年9月26日日曜日

フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについてのメモ

最初にお断りしておくが、私は「フレディーの墓/インターナショナル」という「作品」が提示していると私が感じ取り、あるいは認識しているものの意義の 大きさについて確信しているし、以下のような文章を書いたからといって、その評価を撤回なり補正なりすることを意図しているのではない。それ以前の三輪さん単独での 逆シミュレーション音楽の企図、その後のNeo都々逸シリーズの展開といった展望の中に位置づけたとき、「フレディーの墓/インターナショナル」の中の 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブという文章だけが、奇妙に浮き上がってしまい、皮肉なことにパースペクティブを攪乱し、もしかしたら 「作品」を裏切っているかも知れないとさえ思われたその由来を、当該の文章の内部にある飛躍や混乱(と私には少なくとも感じられるもの)、文脈を明らかに するどころか、寧ろ蒙昧化する役割しかしていないような固有名の参照などといった側面を確認することによって突き止めることを目的としているだけである。

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Ⅰ.装置による現前:ここでの「装置」とは一体何を指しているのか。一般器官学(というのも、この文章ではスティグレールが参照されているから)の 枠組みを踏まえた上で、ここでは人間の身体もまた「装置」として考えられているのか、それともそれとは区別される機械、第3次過去把持を可能にする 「装置」のことなのか。この部分においては「声」そのものが、そもそも「影」あるいは《痕跡》と喩えられている。現実世界の音響の《随伴性》、《事後性》が 必ず伴っているとされるとしたら、その限りでは区別はなされていないのだろう。つまるところ「装置による現前」というタイトルの正確な定義はなされていないのでは、 という懐疑に読者はいきなり囚われてしまう。現実世界の音響一般について述べられていることが、より特殊な事象固有のそれといつの間にかすり替わる 予兆が既にここで見られるのだ。

そしてそれは「声」と「音響一般」の差異に対する曖昧さ、ひいては「音」と「音楽」の差異に対する曖昧さと通底している筈である。 スティグレールが正当にも指摘して批判している(「技術と時間」第2巻、第4章第3節の末尾、邦訳325~326ページ)ことでもあるが、哲学者は時間性を分析するに あたってメロディーではなく、音をしか分析しない。これはスティグレールが言及しているフッサールだけではなく例えばベルクソンにも言えることで、本来なら音楽学者、 美学者はそれに対して異議申し立てをしそうなものにも関わらず、現実にはそうした哲学者の分析を音楽に援用するといった錯誤がしばしば見られることについては、 別のところでマーラー研究に関連して書き留めたことがあるのだが、ここでは音楽を分析するのではなく創りだす側でそうした挙措が見られるのは甚だ 遺憾なことに感じられる。

ところで、声の一次元性を取り上げているが、情報の次元の数が何に寄与するのかは明確ではない。一次元「だから」装置によってもしばしば可能なのだろうか。 (だとしたらここでの「装置」からは人間の身体は排除されているのだろう。)次元の違いをどのように価値づけるのか、声を何らかの理由で特権視しようとしているのか、 それによって自分たちの試みの価値に何かを付加しようとしているのか、総じて顔と声の対比で何を言わんとしているかは、結局明らかにならないように見える。 後にVI.で記録映像との対比によって音響が特権化される件を除けば、この対比に再び言及されることもないし、次元量に至ってはその後全く言及されない。 読み手は肩透かしを食らわされたような印象を抱くことになる。

ついでに言えば、一次元性という特徴は、「声」ではなく「音」一般に言えるものというのが適当ではないか。これは決して揚げ足取りではない。 先に引用したスティグレールの指摘を俟つまでもなく、寧ろ重要なのは「声」の複雑さが問題なのであって、その複雑さこそ後にフォルマント兄弟が言及する 技術的な困難の由来である筈ではないのか。更に言えば単なる「音」ではない「音楽」の、それと並行して「声」ですらない「うた」の複雑さこそ問題にすべきでは ないのか、という気がしてならない。そして先回りして言えば、単なる事実性の次元ではなく、「作品」というフィクションの地位こそを問題にするのでなければ「録音」 ならぬ「録楽」が提起する問題の射程を汲みつくすことはできないのではないか。

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II.ロック・スター:ここで「意図」が表明される(あえて私は「明確になる」、とは書かない)。曰く、「音響の《随伴性と事後性》に即した現実世界の再構成」が課題であると。 「つまりそれは」と受け継がれ、「音響の合成のみによって、その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を 創造する試みである」とされる。さらにここで注目されるケース、つまるところフェイクの対象となる事象が、メディア・テクノロジーに媒介されたという意味で「装置による現前」で あることが告げられる。要するにここでの装置は、より個別にメディア・テクノロジーという媒体のことを指示しているらしい。

だとしたら、ここで別の可能性が生じることになる。例えば義太夫節の名人でも、大ピアニストでもいいが、演奏の録音記録が残されているとする。それらが演奏された 現場に立ち会った聴き手は、メディア・テクノロジーの媒体なしに彼らのその日・その場所での演奏に接した筈である。実際の問題としては、そういった意味でなら、 フレディーの「実演」もまた、それが「録音」されたからには必ずや存在した筈なのだ。クラシック音楽の世界でなら更に、いわゆるセッション録音とライブ録音の差異を 指摘することが可能かも知れないし、その差異もまた、ここで問題にされている「再構成」の観点からすれば決して取るに足らないものではないだろう。例えばセッション 録音は言ってみれば初めから「再構成」を目的としているという見方も可能だろう。要するに既にメディア産業の現場において「装置による現前」は当たり前の 風景なのではなかったのか。にも関わらず、このような状況下でフォルマント兄弟は、だがそうした事情よりも、それがメディア・テクノロジーという媒体によって 流布したという点に重きを置いているようだ。そこで彼らは、フレディーの「実演」ではなく、録音されたフレディーの歌声の模倣にターゲットを絞る。つまり最初から メタ・レベルに自らを定位しようとしているらしいのだ。

ここで私は、随伴性なり事後性なりの、I.の末尾で言及された言い方では不十分な意味合い、にも関わらずII.の上記の文章では既に 暗黙裡に含意されている意味合いをあえて無視している。起源は随伴性や事後性から遡及的に構成されるしかないという点に異論を唱えようというのではない。 そうではなくて、後に「録楽」を問題にするのであれば、効果として、戦略的にであれ、寧ろ「実演」とその記録というコントラストこそまずは強調されるべきではないか、 ということが言いたいだけである。

もう一言付言すれば、例えば「ライブ録音」と称して販売される録音記録が、実は幾つかの実演のツギハギであったり、あるいは補正が為されたりする ケースは近年では日常茶飯事である。古い音源に拍手を付け加えた歴史的演奏記録の偽造、演奏者のすり替えといった事例にも事欠かない。 皮肉にもこうした現実の方が、あるいは上述の「セッション録音」が既に常に備えているフィクション的な性格の方が、《随伴性と事後性》に即した 現実世界の再構成を端的に証しているように私には感じられてならない。 もし録音された結果、効果としてのフレディーの歌声の模倣ということであれば、寧ろ録音されたものの複製の容易性、同じものが何度も再生できることにより、 起源の一回性(ここでは聴取におけるそれ)や、そのたびに異なった聴取を行う主体の同一性の方がかえって問いに付されるといった事態の方が余程興味深い。

結局のところ、録音されたフレディーの歌声の模倣にターゲットを絞ることは、「音響の《随伴性と事後性》に即した現実世界の再構成」「音響の合成のみによって、 その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を創造する試み」という観点から見た場合、 どのような価値を持つのだろうか。何故、現実の身体の〈かつて-そこに-あった〉活動の直接の模倣を拒絶するのかは結局のところ説明されることはない。 要するに、殊更に差異を取り出して見せながら、その差異が本質的な意味合いを持つ場面は、どうやら最後に至るまでないようなのである。些か先走って 言えば、後に持ち出される「亡霊」というメタファーにしても、一足飛びに、事後的に遡及される身体、つまりありえたかも知れない「実演」を指し示してしまう。 結局のところ、音響の《随伴性と事後性》をフォルマント兄弟はどの水準の議論だと認識しているのか、それの彼らによる「再構成」が一体どういう射程を持つのか(これが 自明なこととは思えないし、もし自明なら初めからこんな文章は不要なはずだ)が不明瞭であるが故に、ここでの文章は単に彼らがやったことの説明にしかなっておらず、 タイトルにも関わらず、些かもパースペクティブといったものを浮かび上がらせない。

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III.人声の合成:ここでも末尾で「「装置よる現前」の作品化」がフォルマント兄弟の挑戦であるといった書き方が為されるが、この言い方は控えめに言っても 極めて曖昧な言い方に思われる。強いて言うならば「作品化」という言葉に篭められたニュアンスを汲むべきなのだろうが、ここでの「装置よる現前」は、素直に読めば フォルマント合成に基づきつつ、職人芸的な直観と試行錯誤によって実現されるものを指示しているように読めてしまう。これはI.やII.においてフォルマント兄弟が 行っている事象の差異化を考えればあまりに肌理の粗い言い方に思えてならない。少なくとも3つの「装置」が区別されるべきで、それぞれにおいて「現前」の 様態もまた異なるわけであり、従って、「「装置よる現前」の作品化」という言い方は何重にも飛躍のある表現なのだ。無論、ここでは戦略的に そういう言い方をすることによって、そうした「装置」間の差異が実は「ない」のだということを示そうとしているだという解釈だって可能かも知れないが、 それが意図されているとも思えないし、もし仮にそれが主張なのであれば、それが決して自明なことではない以上、しかも件の差異を自ら持ち出した以上は、 はっきりとそう書くべきではないか。

結局ここで書かれているのは、(それが録音されたものであるかどうかといった差異は一旦どうでもいいことになって)「ある実在した人間」の歌声のシミュレーションの 技術的な困難さ、しかも彼らにとっての困難さに過ぎない。しかもその困難さが一体どのようなパースペクティブを開くのかはこれまた杳として知れないといった具合である。 極めてレトリカルに書かれてはいるが、ここはいわゆる「新規性」を主張しているだけなのだろうか。実際にはそこに職人技的な側面が、直感的なパラメータ選択と 試行錯誤があることは、技術のある部分における共通の特徴かも知れないのだ。例えば人工知能分野における自然言語処理や大規模で制約の多い スケジューリング問題の解決などにおいてもそうした側面は存在することは間違いない。勿論、そうしたパラメータ調整自体の自動化の試みも為されているし、 一例を挙げればコンピュータ将棋のプログラムの近年のドラスティックな性能向上には自動学習理論が寄与しているといった事例もある。問題は、フォルマント兄弟が ここで述べているそうした技術の現場での状況が、この文章において意図されているはずのパースペクティブとしてどのようなものを与えるものであるかが ちっとも見えてこないことにある。このテーマもまたこの場限りでその後展開されることはなく、彼ら自身の「技術」の境位を規定しているはずの地平も 少なくともこの文章の中では些かも明らかにならない。

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IV.インターナショナル:この節ではスティグレールという固有名の参照が印象的である。そしてその参照に続く文章が途端にスティグレールの言い回しの ミメーシスといった様相を呈するのもまた印象的である。だがしかし、そこでの参照の含意は結局のところ明らかにされない。しかも「単一のユートピア世界というエロス」と いう言い回しには、控えめに言っても飛躍というか、ニュアンスの重畳が存在するだろう。まずもってスティグレールが指摘している事態は、「インターナショナル」という 個別の歌とは独立の、より一般的な事態であるし、スティグレールがポップスについて分析した文脈で彼が導き出す展望(勿論、彼の方はそれを明確な パースペクティブの中で行っている)に対するフォルマント兄弟の試みの定位が為されることがないようだ。後段のミメティックな文章で表明されている「記憶」の問題は、 確かにスティグレールの主要な問題系の一つだが、ここで言われていることはスティグレールなど参照せずにも充分に言いうるものにしか見えない。

そもそも「インターナショナル」が「技術の普遍性によって統合された単一のユートピア世界というエロスを人々に与え」たという言明の妥当性は少なくとも無条件で投げ出して 首肯されることが期待されるほど自明なこととは私には思えない。スティグレールという固有名に拘泥すれば、「インターナショナル」が歌われた文脈においても何らかの 「技術」が寄与していたことは疑い得ないが、それをプロパガンダに用いられたメディアに限定し、あたかもそれに還元されるかの単純化には大きな抵抗を感じずにはいられない。 それを措くとしても、「インターナショナル」という歌が全世界的に流通したことと、フレディーの声がメディア・テクノロジーに媒介されて 流布したことを単純に同一視することが可能かどうかは決して自明ではないだろうし、勿論そこに或る種の共通性、類比を認める立場もあろうが、些事に拘泥すれば、 例えばラジオという媒体とレコードという媒体の共通性と差異もあるだろうし、西側・東側といった政治的・社会的な体制の差異と共通性を見極める作業も必要であろう。 要するに、フレディーにインターナショナルを歌わせるという組み合わせ自体を文章のこの箇所で主題視しないとしても、それぞれについて今回の試みの射程がこの文章によって 闡明されたとは到底思えない。要するにここでもまたパースペクティブのようなものは些かも見えてこず、読み手は嘆息せざるを得ないのだ。

序に言えば、「インターナショナル」とフレディーの組み合わせ自体は、フォルマント兄弟自体の来歴を知るものにとっては別段突飛なものとも思えないだろう。 それらにあえて言及しないのは、或る種の抑圧によるレティサンスなのか、それとも戦略的な意図によるものなのかと勘ぐってしまう人間が居ても不思議ではない。 否、文脈を欠くならば些か突飛なこの組み合わせは、フォルマント兄弟を知る者にすれば、否応なく、フォルマント兄弟固有の来歴、構想力の地平に思い至らざるを 得ないのではあるまいか。フォルマント兄弟の作品表の中で、「インターナショナル」は決して初出ではないし、ロックというジャンルも決して突飛ではない。 勿論、それをそうしたものとして証言する必要はないし、プレゼンテーションの戦略として、そうした事情をあえて隠蔽し、私の主観ではかなり頼りないものにしか 見えないメディアの絆によってフレディーとインターナショナルを結びつけることも、それ自体を問題視するようなことではないだろうが、それらを代補するパースペクティブが あるようにも見えないのはプレゼンテーションとしても奇妙に感じられる。

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V.死者なき亡霊:ここでは更にフレディーがインターナショナルを「日本語で」歌うことが指摘され、そうした事態を「死者なき亡霊」と呼ぶことを書き手は 主張する。そしてこの文章全体でも中心をなすこの節では、「死者なき亡霊」のうちすでに説明が済んでいる「亡霊」はおいて、「死者なき」の如何にしての方が説明される。 ところがここで引用されるのはロラン・バルトが「写真」というメディアについて述べた事柄なのだ。バルトの写真論そのものは巷間に流布しているし、スティグレールの読者であれば、 「技術と時間」の第2巻第1章においてバルトの写真論が取り上げられているのは知っているだろうから、それらを地平としてこの文章を読む、それらをパースペクティブとして 作品を受け止めることが要求されているということなのかも知れない。(もっとも「技術と時間」自体への参照はされていない。それは第2巻がその時点で未訳であったことに 基づくフォルマント兄弟の配慮によるものなのだろうか。)

だが、写真や映画で成立したことのどこまでが、まずもって「音響」において有効なのか、冒頭でも問題になったが、「音響」と「音楽」の差異はそんなに簡単に乗り越えられる ものなのか、そうした差異に対するフォルマント兄弟の認識については些かも明らかにされない。フォルマント兄弟がいとも軽やかに成し遂げる飛躍が有効であるかどうかについては 予断を許さない事柄ではないのか。勿論、声についてもまた類比が成立すると推測すること自体、困難を伴うようなことではないし、結果として文章から読み取れる主張に 大きな異論があるわけではないとしても、である。

そしてまた、この文章が書かれた時点を考慮すれば(文章の最後に日付は明記されている)、「音楽」が「ダウンロード可能なデジタル・コンテンツ」であるという主張も 別段違和感はない。だがしかし、ここでメディアが問題になっているのなら、ダウンロード可能なデジタル・コンテンツ「だけ」を想定したかのような言い方は誤解を招き易い。 ここでも主張の結論に異論があるというわけではない。しかもここではダウンロード可能なデジタル・コンテンツだけを想定したケースというのは、主たる主張を導く対比の 部分を為している(つまり「…という以上に」という節の中の文章に含まれる)ことは明らかなものの、そのスコープの限定が主たる主張まで及んでいるか(つまり、件の節内の 「…としての「音楽」においては」という部分と、主節における「装置よる現前とは」の部分の関係がどうなっているのか)は文章の上では自明とは言えない。言いうるのは主たる主張に 「メディア・テクノロジーが生み出す「痕跡の効果」」というくだりがある以上、「装置による現前」における「装置」については、少なくともI.やII.で告げられた「装置」が 念頭にあることは明らかだろうということであるが、参照元となる箇所での「装置」の定義の曖昧さについて既に触れたような状況であるとすれば、後続する「現前しているかに見えて すでに痕跡であり、確かに過去の痕跡であるかに見えてすでに効果でしかない」という条件を充たす状況が、「フレディーの墓/インターナショナル」が提示するそれのみに固有の ものなのか、もしかしたら、それはより一般的に(もしかしたらある条件化では常に)成立するようなものなのか、疑問に思う人がいても不思議はない。

結局、「疑いもなく確かに現前しているかに見えてすでに痕跡である」というのは、ここでフォルマント兄弟が試みた「「装置よる現前」の作品化」、つまり 「音響の合成のみによって、その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を 創造する試み」に限定された事象なのだろうか。例えばもう一度、フレディーが歌った声、実演を録音した場合には、最早録音された声は痕跡ではないのか。 要するに、実現した作品が指し示す問題の在り処はひとまず置くとして、この文章における《痕跡》の位置づけには、哲学的な観点からすれば 看過できない曖昧さ、多義性があるように窺えるのである。彼らは自分達の道行きが含む微妙な、だが恐らくは瑣末ではない差異に、この文章では あまりに無頓着に見えてならない。実現されたものが実際には備えている際立って屈折した情況が、ここでは暴力的に単純化されているように思え、 思わずそこに意図的な隠蔽があるとさえ疑いたくなるほどなのだ。パースペクティブと称して極めて曖昧に参照されている固有名のそれぞれが備える 固有の地平は、一体ここではどのように調停されるのかと途方に暮れざるを得ない。

勿論、ここには固有の地平、フォルマント兄弟独自の主張が存在するのだろうから、そうした微細な差異の指摘、分析の結果に基づく 概念の補正が為されるのであればそれ自体全く問題はないし、それどころか非常に興味深いものだと思うのだが、厄介なことにこの文章はバルトを、 スティグレールを、デリダを引用指定してしまっているのであれば、例えばスティグレールが「技術と時間」で行った分析とフォルマント兄弟の見解がどの点で一致し、 どの点で袂を分かつかを明記しなければ、引用の意図と意義に深刻で致命的な問題が生じることになる。 フォルマント兄弟が、単なる権威付け、ソーカルが批判するような虚仮脅しとしてそうした固有名を参照するとは思えないが、実際にはそうした固有名と 自分達の距離について明確な記述が為されているようには到底読めないというのが率直な印象である。

「ナイーブな存在論を粉砕する」といった刺激的な言辞は、だが一体、どのような存在論に向けて発せられているのか、「亡霊的」と 呼ばれるのが適当な事象の定義は正確に、例えばスティグレールの場合にはどうであって、フォルマント兄弟のそれと同じなのか、異なるとすればどう 異なるのかは些かも自明ではないにも関わらず、フォルマント兄弟はここでそうした距離の同定をすることなく引用のみを行っているのは非常に遺憾に感じられる。 フォルマント兄弟は、「現代のデジタル・テクノロジーが可能にしたこの亡霊的な痕跡の効果」について言及するが、引用されている側の文脈では、 痕跡の効果は別段、現代のデジタル・テクノロジーでなければ可能なものとはなっていない筈であり(勿論、現代のデジタル・テクノロジーの特殊性は別の ところにあると主張されているのだ)、控えめにいってもそこに飛躍なりすり替えがあるといった印象は免れない。

更には「未来の私達の社会全体を取り巻く」といった予言、託宣がなされるに至っては、あまりの飛躍に生理的な拒絶反応を催す人が居たとしても 不思議はない。例えばスティグレールが「象徴の貧困」で述べた内容すら、ポレミカルな戦略による些かの単純化を感じずには居られないが、ここで留保もなく、 「「死者なき亡霊」は、〈かつて-そこに-あった〉過去から〈いま-ここに-ある〉われわれに触れにやって来ている」といった言い回しが用いられるのを目の当たりにすると、 どこまでがレトリックで、どこまでが実質的な作品の射程の記述なのかの判断に苦しむことになる。いったいここで言われる〈われわれ〉とは誰なのか、 〈いま-ここに-いる〉ということが、ここで述べられている文脈においてはどのような時間性の了解に基づいて述べられているのかは決して自明なことではない のではなかろうか。

あるいは私の頭が悪いだけなのかも知れないが、次の章の末尾に及んで声の現前性自体が問いに付されているようなのであってみれば、その一方で 〈いま-ここに-いる〉ということについて、フォルマント兄弟が一体どのように考えているかを説明せずにいるのはあまりに読み手に対する要求が大き過ぎるように感じられる。 そう、率直に言って、フォルマント兄弟がどのような理論的な枠組みで、参照されている固有名で指示される理論をどのように組み替えて自説を述べているのか、 私にはよくわからないのである。是非、補説を請いたいところである。

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VI.録楽:ここにいたって「装置」というのが、写真、映画、メディアアートといったテクノロジーにより生まれた「新しい芸術」の表現手段であることが 明確に述べられる。その上で「音楽」における「録音された音楽」の無視が指摘されるのである。その後に、一見したところ唐突に続くアウシュビッツのガス室や 広島の原爆の「音」についての言及についてはひとまず措くとして、「録音された音楽」に相当するものは、印刷された絵画(いわゆる「模写」は別の問題を 提起するだろうからここでは別に考える、それは「編曲」行為をどう考えるかと類比的に扱われるべきだから、ここでのフォルマント兄弟の問題圏と 別でないどころか、寧ろこちらこそ主題として議論されるべきかも知れないのだが、まずは置いておかざるを得ない)、写真撮影された(従って、 ある射影からの視に限定された像としての)彫刻etc.との類比が適当であって、写真・映画との直接の類比には飛躍が伴うのではないか、あるいはまた、 仮に写真の対応物を求めるとすれば、ミュージック・コンクレートが素材とするような具体音、サウンド・スケープがそれではないかといった素朴な疑問に応える必要が まずあるのは確かなことだろう。

例えば写真が「かつて-そこに-あった」過去を示しているとしたら、録楽と呼ばれるものは、第一義的には「かつて-そこに-あった」過去の「演奏」の事実をまずは 示しているのであるし、写真とて、意図的なポーズ、構図に基づいて撮られたとすれば、それは音楽がそうであるような「作品」であり、「作品性」が高まればそれだけ、 「かつて-そこに-あった」といった性格は希薄になる。その一方で音楽作品はもともと録音を経ずとも「作品」として存在しえるわけだから、 録音が告げるのは、あくまでも演奏が「かつて-そこに-あった」ことで、例えば1939年のウィーンにおけるワルター指揮のマーラーの第9交響曲、 同じ年にアムステルダムのコンセルトヘボウで録られたシューリヒト指揮のマーラーの「大地の歌」の記録には、「かつて-そこに-あった」演奏会の 雰囲気を伝えるといった側面もまた否定し難く残っているし、演奏された作品が何であるかとは必ずしも必然的に結びついているのではない、 歴史的な記録としての価値があることは疑い得ない。

もちろん上述のような粗雑な議論で、音楽作品とメディアの関係が尽くせるとは思えないし、 そもそも音楽作品は、個別の作品毎に、その作品が位置づけられる文脈における技術との関係抜きに定義することが可能とは思えない。 演奏が録音され、複製されることで、演奏がどのように変容するか、それを前提としていない音楽作品の受容がどのように変容するかは、それ自体 分析を要する問題であろうし、録音・複製の技術が既に地平を形成している環境における音楽作品が如何なるものであるかは、また別の問題である。 だから私は「録楽」を問題として取り上げることの意義自体は些かも否定的に捉えておらず、寧ろ、それを積極的に受け止めるべきだという立場を とっているのであり、ここで問題視しているのは、この文章がそれを些かも開示していないようにしか見えないにも関わらず、パースペクティブを名のっていることに 対することに限定されるのである。

従って、アウシュビッツや原爆の記録の残酷さを口実に、音響を特権化して「録楽」というジャンルの不在を説明するのは不当なことにしか思えない。 「なぜなら…耐え難いものだからだ」という理由の説明は、さほど説得的なものに思えないし、音に対する贔屓の贔屓倒しの感じを抱く人が居たとしても 不思議はない。「録音された音楽」一般を表すことばもないが、それは例えば印刷された絵画を表すことばがないのと同じであって、絵画や彫刻についてレプリカの 意識があるのと、演奏会の録音記録についての意識があるのがほぼ対応するのではないかという感じは免れない。それを言い出せば、例えば版画のような もともとレプリカしかないとも言えるような形態や、音楽であればテープ音楽のように、「生」の定義が揺らぐようなケースや、ライブ・エレクトロクスのような、 デリダ=スティグレール風に言えば、従来存在した差延を最小化するような形態についての検討は欠かせないであろう。

その後主張される、「二つの《身体=身体》を〈いま-ここ〉へと持ち来たらすことにこと」が何故「われわれの《現在=現前》を亡霊化」することになるのか、 〈それは-かつて-あった〉によって過去の事実そのものを創造するテクノロジーで、われわれの《歴史=物語》をも亡霊化」することが如何にして可能なのかは、 それに対する説明の欠如にも関わらず、依然として不明であると言わざるを得ないであろう。上記のような言辞は参照元となった文脈で用いられた 用語法の不適切な外挿ではないのか、より素朴に、ここでは「亡霊化」という言葉の用法に看過できない混乱・曖昧さが見られるのでは、というより根本的な疑念はおくとしても、 フォルマント兄弟の文章表現の晦渋さは、単なる韜晦趣味と受け止められかねない危険を孕んでいるように感じられてならない。

《声-現前》が、冒すべからざるものとして人類(とは一体「誰」のことなのだろうか?)が「今までテクノロジーの亡霊化作用が及ぶことに 最後まで抵抗して来たもの」であるという見解を読むに至っては、その文章全体が、何かの「痕跡」たろうとするのではなく、 何らかの「効果」を狙った修辞ではないのかという疑念を禁じることが困難なレベルに達している。寧ろそうした言辞自体が却って《声-現前》の 特権性という神話を仮構しているということはないのだろうか。冒頭の二次元映像の視覚(控えめに言ってもこれはかなり乱暴な視点で、例えば D.マーの業績を全く蔑ろにする発言としか思えない)と一次元の音響の対比を思い起こしたとき、それをデリダの「声と現象」への参照で 正当化するかの挙措は全くもって不可解というほかない。そうした挙措はデリダがエクリチュールに託した狙いを歪めるものだし、デリダにおける「代補」、 スティグレールにおける「補綴」といった概念の文脈を逸脱するものであることは否定しがたいとすれば、その逸脱についての言及なしの 断定は、そうした逸脱を文脈によっては積極的に評価するものにすら疑念を催させるものであるのではないか。

そしてまた、デリダに由来するらしい《声-現前》(だが、デリダがどのような戦略的意図をもって、フッサールに対してかのごとき読解を試みたのか、 その背景をもう一度確認し、更にここでの議論にそれを無作為に接木することの妥当性は吟味すべきだろう)に関してフォルマント兄弟が、現前の形而上学が 支配したといわれもするヨーロッパですらなく、何と「人類」全体に対して提示する嫌疑と異議申し立ての隣で、「声」と「うた」の差異はどうなったのか、ここで議論されているのは 「音楽」なのか、「音響」なのかといった素朴な疑問が再び頭を擡げてくる。「録楽」というからには、ここでは「声」そのものではなく、「うた」が問題ではないのか。一方で、 人間とは何かが今や問いに付されているのだとしたら、(冒頭ではそうであったのにも関わらず、あるいは随所でそれが同一視されているにも関わらず、ここに至って)「声」であり 「音響」でないのは何故なのか。少なくともこの文章においてフォルマント兄弟は、自らの営為を、その価値にみあった正確さと厳密さをもって記述することに失敗しているのではないか。 控えめに言って、少なくとも私のような不注意な読者が彼らの意図を見誤る程度に彼らのパースペクティブの提示は曖昧で、省略に満ちているのは確実なことに思えるのである。

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結局のところ、パースペクティブと題されているにも関わらず、「フレディーの墓/インターナショナル」におけるフォルマント兄弟の試みの射程と、それによって開かれる展望、 賦活される問題圏を彼ら自身の文章は些かも明らかにしない。もしかしたらこの文章自体が、フォルマント兄弟の兄である三輪眞弘の作品、とりわけ逆シミュレーション音楽に おいては必須の要件とされるカバー・ストーリーの如きものなのではないかと想定するならば理解できないわけではないが、この場合、状況はそれとは些か異なるだろう。 「という夢を見た」という決定的な括弧入れを欠いたまま提示されたこの文章が「フレディーの墓/インターナショナル」という作品の一部である在り方は、 カバーストーリーとは異なるものである、と通常は受け止められるだろう。だとしたら意図的な韜晦なのだろうか。この文章もまた、「フレディーの墓/インターナショナル」が 広義ではそうであるような、フェイクなのだろうか。あるいはこれまた、彼らのいうところの「物語=歴史の亡霊化」の早速の、自己言及的な実践というわけか。

実は既に私は一度、以下のように書き付けたことがある。

化石や考古学的発見の偽造・捏造の例は多いし、美術史や音楽史を紐解けば、悪意のないものも、あるものも含めてパスティッシュや 贋作の記録を辿ることもできよう。それでは「死者なき幽霊」による歴史の捏造というのは、そうした胡散臭い事例と一体どう違うのか。もうお気づきのことと思うが、 これは逆シミュレーション音楽における「由来」や架空のカルトと構造的には非常に類似している。だとしたら、私のような事例における失敗も含め、全ては計算済みで、 批判的機能を強調するためにわざと「インターナショナル」を選び、テクノロジーによる記憶の捏造を「演出」したと捉えるべきなのだろうか。それは例えば しばしばおきる「歴史的録音」の偽造への警鐘なのだろうか。要するに、これは非常に手の込んだものではあるが最終的には芝居であって、しかもその機能は 啓蒙的かつ教育的なものであることが意図されているのだろうか。これはいわば「ソーカル事件」の「録楽」版(ただしこちらはあらかじめ「由来」によって種明かしは されているのだが)を狙っているのだろうか。

だが上記の文章は、ここで私が問題にしているものと同一の対象に向けられているのではない。ここで私が問題にしているのは「フレディーの墓/インターナショナル」そのもの、 その全体ではなくて、その一部を(だがどのようにして?)構成していると覚しき、「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブと題されたこの文章だけなのだ。 私の能力、私のこれまでの来歴(デリダ、バルト、スティグレール、更にはここではとりわけ、デリダとスティグレールがしばしば参照する、フッサールの現象学や ハイデッガー、レヴィナスあるいはカントについての読解の訓練の経験を含めて)によっては色々な点で理解が及ばない、謎めいたテキストを 問題にしているのだ。勿論、自分の知識の欠如、読解力、理解力の不足に由来する部分もあるのかも知れないとは思う。だが、上で些事拘泥を厭わず取り上げた 内容は、寧ろ文章そのものに内在する問題なのである。だとしたらやはり、この文章自体も「フェイク」なのだろうか。 否、ソーカルがでっちあげ、権威あるとされたある専門誌の査読体制の不備をまんまとすり抜けることに成功したあのテキスト同様のことを意図していたとは思えないし、この文章の存在にも関わらず、 Ars Electronicaの審査メンバーが、「フレディーの墓/インターナショナル」が提起する問題の重要さを認識したからこその入賞であることを私は疑わない。

ソーカル事件において問題視されたのは、人文系分野における数学やら物理学的な用語・数式の濫用であったが、ここでは哲学が濫用されているということは ないのか。「フレディーの墓/インターナショナル」そのものはこの文章で朧げに(としか私には感じられない)表明されている「意図」の射程を大きく超えた意欲的な 試みであると思われるし、この文章で示唆されているよりもずっと繊細でずっと微妙な事態を開示していると思われるだけに、この文章を受け止める際の 居心地の悪さは著しいものになってしまう。私の感じたままを率直に述べれば、作品はごく控えめにいっても、あまりに韜晦的な飛躍と気儘な参照に満ちたこの文章を、 この文章に示された意図の論理の破綻、首尾一貫の欠如、曖昧さを、デリダやスティグレールの少なくとも文章そのものの内在的な論理構成においては本質的とは 到底思えない参照を凌駕している。だからこの「作品」の全体の価値を私は些かも疑わない一方で、些かもパースペクティヴを開示しないこの「デジタル・ミュージック」における 6つのパースペクティブという文章に対する違和と苛立ち、不快感を押えることはできそうにない。

私には、本質的な混乱がここにはあるように思われる。彼らがデリダ、バルト、スティグレールといった固有名の下にミメティックに展開するメタファーは(丁度、注における 文献参照が漠然とした書籍名の指示に留まり、具体性を全く欠いているのと呼応するように)その定義が曖昧で、場所により水準が異なり、一貫しないように見受けられる。 それが意図されたものであれ、そうでないにせよ、やはり寧ろソーカルが俎上にあげたような事象に近接しているといった印象に抗うことは極めて難しい。 私見では、「フレディーの墓/インターナショナル」で起きている事態はもっと明確な仕方で記述可能だし、参照される固有名との距離もきちんと測定し、 その結果を記載することが可能な筈である。Ars Electronicaがこの文章に対してどのような 評価をしているのか詳らかにしないが、この文章が受賞した作品に含まれることが、フォルマント兄弟の作品と、Ars Electronicaの審査の両方の価値を疑問に付すような ことがないことを願わずにはいられない。まさにそれゆえここに、ささやかながらも疑念を表することにした次第である。 (2010.9.26初稿, 27, 28加筆修正)

2010年8月29日日曜日

NEO都々逸シリーズ「せんだいドドンパ節」初演の感想

フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康):NEO都々逸シリーズ「せんだいドドンパ節」(世界初演)
MIDIキーボード:岡野勇仁
2010年8月28日サントリーホール・ブルーローズ(小ホール)

前日の管弦楽のガラ・コンサートに続いて、この日は室内楽のコンサート、全体は15:00からの第1部と 17:00からの第2部の2部構成で、総計20人の作曲家の20作品を10作品ずつ演奏していくというもの。 フォルマント兄弟の新作初演が含まれる第2部の開始にあわせてホールに着くと、昨日のコンサートよりも 寧ろ盛況の様子。だが考えてみれば、単純に作品数だけ演奏者と作曲者がいて、それぞれに聴き手が いるわけだから、現代音楽全般なり、芥川作曲賞そのものに関心がある一定の層以外の潜在的な聴き手は この日の方が多いというのは自然に想定できる。

今日は入場時に夏田さんの作品の演奏中止を告げるチラシが配られる。予想されたとおり、「事情により」としか 書かれておらず、理由についての説明はない。この点については既に前日のコンサートの感想で書いたので繰り返さない。 ちなみに三輪さんは、演奏前のセッティングには参加されたが、終演後の拍手に応えたのは佐近田さんのみだった。 昨日に続いてのこの行動には明確なメッセージがあるのははっきりしていると思われるから、 それを目撃した証人として、そうした事実をここではきちんと記録しておくことにしたい。

一方で細かい話だが、よりによってこのチラシの夏田さんの名前の表記が間違っていることに気付いてしまい、 またしても複雑な気分になる。プログラム冊子本体の方にも表記ミスがあったようで、訂正の紙が挟まれている。 こちらも昨日はなかったから、夏田さんの作品の演奏中止の件ともども、いずれも誰かが指摘したのだろうか。 だが、チラシに更に含まれる誤字を訂正する機会はないだろう。受け取る側も嫌なものだが、用意した側も、 用意する作業自体楽しかろう筈がない上に、更にミスがあったとわかればさぞ嫌な気分になることだろう。

だが、演奏が始まってしまえば、そうしたことは少なくとも背景に引いてしまう。演奏者はどの楽器をとっても当代きっての名手揃いで、 作品の出来以前に演奏の素晴らしさが客席を圧倒してしまうのだ。アコーディオンのような通常クラシックでは用いられない楽器もそうだが、 現代音楽はいわゆる邦楽器のための作品を含んでいて、それゆえサントリー・ホールのような場所でも、現代音楽の場合に限っては邦楽器の演奏が行われるというのは 改めて考えてみると奇妙な現象ではある。純邦楽におけるような和服正装での演奏は、足袋が靴履きと 相容れないから、床の上に更に床を仮設する(市民ホールなどで能舞台を仮設するのと同じことだ)か、畳でも敷くしかあるまいが、 現実には椅子に座るなり、立つなりしての演奏で、しかも洋服でという場合も多いから、この点が問題になることはあまりないようだ。

その一方で、アコースティック楽器に混じって電子機器が登場するのも現代音楽ではそんなに珍しいことではない。もっとも もともとは伝統的な楽器を演奏するために設計されたホールだから、電子楽器に対する配慮が事前に為されている訳ではなさそうで、 恐らく準備等には色々な困難がつきまとうことだろうが。更にはシアター・ピースのようなパフォーミング・アートに近接するとどうだろう、 サウンド・インスタレーションとなると最早コンサート・ホールでは無理ということになるだろうかと考えていくと、逆にサントリーホールのような コンサートホールで実行可能な現代音楽というのが浮かび上がってくるように思われる。勿論、それは制約には違いないが、 それにどう対峙するかは様々だろうし、作品の出来・不出来はまた更に別の話だろう。だがそれでもやはり、私はそこに軽い倒錯の ようなものを感じずにはいられない。こういう言い方は事態を暴力的に単純化しすぎていることは承知しているが、コンサートホールの 側がホールの存在証明のために作品を求めているというような展望の方が状況を見渡せているのではという気にもなってくる。 現代音楽の作曲賞というのをホールが主催するのも、そうしてみればずっとすっきりするのではなかろうか。管弦楽を前提とせざるを 得ない大ホールに比べ、小ホールは遥かに融通が利く空間で、芥川作曲賞そのものは管弦楽作品を対象としているにも関わらず、 それを記念するためのガラコンサートが既に、小ホールでのそれの方が網羅的でかつ多彩というのは皮肉な事態だということになるの だろうが、より広く考えればコンサートホールは現代音楽によって維持されているわけではないのだから、この点を言あげするのは かえって近視眼的な視界狭窄なのだろう。結局のところ浮かび上がるのは、そうした何重もの捩れの上に成り立っている現代音楽という 領域の特殊性の方なのだ。

なぜ上記のようなことを書くかといえば、それは勿論、この日に初演されたフォルマント兄弟の作品が、そうした狭義での現代音楽から はみ出ていく指向をはっきり備えた作品であり、どことなく場にそぐわないような違和感を孕みつつの初演になったように感じられたからである。 楽器はMIDIキーボード(メガフォンつき)とラジカセでアコースティクス楽器はなし、奏者は作品が成立する本来の場を反映した ティーシャツを着て演奏をするという点もそうだし、奏者は厳密に言えば楽器を演奏するのではなく、MIDIキーボードを「弾く」ことにより、 リアルタイム音声合成による歌唱(のようなもの)を行う点やら、真の演奏主体は(有名なヴォーカロイドのパロディであろう)「高音キン」という アニメーション・キャラクター(実際にはこちらは「未だ」動画ではないから正確さを欠く言い方になるが)であって、 だから仮想のキャラクターであって、奏者はまるで文楽人形の黒子のような役回りである筈だという点もそうである。

もっともコンサートホールにおいては主人公は間違いなく奏者の岡野さんであり、終演後の大きな拍手もその多くは岡野さんの「演奏」に対して であったというのが真相だろう。実際、岡野さんの演奏は例えばコブシのリアライズなどにおいては実現されたものとしても見事な効果を 挙げていたし、実際には「演奏至難」の理由は別であるにせよ、いわゆる奏者の超絶技巧を眺めるという、ソロのコンサートであれば 伝統的なクラシック音楽のそれでもつきまとうことは疑いのない側面がここでは一際くっきりと浮かび上がったのは間違いのないことだろう。 そういった意味においては、この作品をわざわざクラシックのコンサートホールで演奏することにも一定の意義はあったのかも知れない。 いわゆる「シリアスな」現代音楽の中で明らかに異彩を放っているそれは、だからといって拒絶反応に逢う訳でもなく、これもクラシックの コンサートではありえない、だが伝統芸能なら「大向こう」というのが存在して、ごくありふれた光景、考え方によっては「上演」の一部 とすら考えられる仮想キャラクターに対する「掛け声」も含めて、寧ろ笑いを誘い、場を和ませるような効果を生み出していた。 要するに幾つか次元での「越境」という点では、それをごく自然に実現していて、その結果、周辺の「現代音楽」との鋭いコントラストが 生じていたのは疑いない。

だが、本来の文脈に立ち返って実際に達成されたものが何であったかを考えると、今回の演奏には率直に言って疑問を呈さざるを 得ない。実は夏田さんの作品の演奏中止を告げるチラシとともに、「せんだいドドンパ節」演奏のシナリオに相当する内容が表面に記載され、 裏面に作者の文章が記載されたチラシも一緒に配られたのだったが、(シナリオが字幕表示されるよりはましとはいっても)聴き手の関心は 音声合成のなりゆき、しかもどの程度それらしく聞こえるかといったレベルに集中してしまうことは避け得ない。要するに「音楽」は二の次に なっていたのではないかという感じがしてならないのである。一方でその音声合成のレベルは、サビのような一部の箇所を除けば、 今度はシナリオを見ながらでなければ到底判別しえないような不明瞭なもので、歌詞が聴き取れない歌唱というのはこれはこれで クラシックでは別段珍しいものではないし、実は一般的な場合でも歌詞などきちんと聞き取ってはいないのだという意地悪な見方はおくとして、 ここでの目的が或る種の認知実験などではないのであれば、そこで達成されたものの質については大きな不満を感じずにはいられなかった。 それが「前人未踏」であることの価値は認めた上で、だけれども「音楽」はどこに行ってしまったのか、という感覚を拭い去ることが出来ないのである。 もともとフォルマント兄弟は狭義での「音楽」を追求しているのではない、という見方もありえるだろうし、実際これまでの試みでもそうした傾向は 窺えるのだが、それでもなお、用意された仕掛けと実現されたものの間の乖離に、ユーモアなりアイロニーなりを感じてよしとするのでは済まされない ものを感じずにはいられなかった。黒子であるはずの岡野さんの「パフォーマンス」ではなく、「高音キンのパフォーマンス」としては、 最後の「おしまい」の一言が一番「うけた」のを、「パフォーマンスとしての成功」と見ることに異論を挟むつもりはないが、それとて 恐らくは、チラシを見ていなかった多くの人についてはあっけにとられている中、岡野さんがラジカセを持って退場することによって ようやく「終わり」を察したというのが実際ではなかろうか。

だが私の感じた疑問の多くは、恐らくは技術的に解決可能な問題なのではないかという気がする。例えば仮想キャラクターを用意するならば、 奏者は黒子にしてしまって、別のものを聴き手には見せる可能性があるように思えるし、そうでなければ寧ろ仮想キャラクターは余計ではないか。 それがコンサートホールという場の制約のせいでいわば不完全にしか実現できなかったのかもしれないが、前回のNEO都々逸六編のときには パフォーマンスとしても成功していたのに比べると、今回の演奏は些か消化不良の感じを拭えない。いずれにしても私が感じたのは、 今回の試み自体が持つ射程の広さ、シリアスさにおいて他の作品に比べて優ることはあっても劣ることは決してない作品に篭められた意図の 深さは明らかなことなのであって、だから当日のパフォーマンスにおいてはその真価が未だ充分には発揮されていないのでは、ということであった。 勿論、それにはコンサートホールとは異なる場なり制度なりが必要なのだということであれば、それはそれで構わない。一例をあげれば、ここで 問いに付されている「演奏する人格」の問題は、「作曲の主体」の問題ともども、例えば最近復活した「新しい時代」の「布教放送」の ような一層ラディカルなかたちで問題にされているし、更に言えば今回の試みと逆シミュレーション音楽における幾つかの(架空の)伝統芸能の 仮構との関係はどうなっているのかについても確認が必要だろう。作品の演奏そのものではなく、三輪さんのとった行動も、他ならぬ「言葉の影、 またはアレルヤ」の作者のとった行動として受け止める必要を感じる。残念ながらすぐには時間がとれそうにないが、今回のコンサートは こうした問題を考えていく上での重要なマイルストーンであるように思われてならない。(2010.8.29初稿, 9.2加筆修正)

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」再演を聴いて

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」
秋山和慶指揮東京交響楽団
2010年8月27日サントリーホール・大ホール

芥川作曲賞20周年記念のガラ・コンサートは8月27日夜の管弦楽のコンサートと、8月28日の2部よりなる室内楽のコンサートより構成され、 室内楽のコンサートではこれまでの19回20人の受賞者全員の作品が1曲ずつ演奏されるのに対し、管弦楽の方はどのような選定基準によるものかは 杳として知れないが、受賞者への委嘱作の4曲が演奏されると予告されていた。三輪さんは管弦楽のコンサートで委嘱作が再演される4人のうちの1人、 これは個人的な事情だが、私にとっては初めて三輪さんの作品を実演で接することになった「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」を、4年後の同じ日に 聴くことができるということで、何とか都合をつけてサントリーホールに赴く。

実に三輪さんの作品の実演に接するのは昨年12月以来8ヶ月振り、そればかりか 今年はこの半年というものの、何であれ催事に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余裕がなく、自分の内面が干上がってしまったような感じを 持っていて、コンサートホールに行く事が億劫になりはしまいか、着いても居たたまれなくなったりはしないか懸念していたのだが、その点は杞憂に終わり、 無事にホールに着き、席を確かめると、舞台は4年前にも見たのと同じように、中央の指揮台を同心円状に取り囲むように椅子がセッティングされ、 最も外側に六角形の頂点を構成するように、コントラバス奏者のあの高い椅子が6つ、これも中央の指揮者に向いておかれている。6角形の頂点の 1つは、普通なら指揮台が置かれている場所にあって、だからコントラバス奏者の1人は正面側の客席に対して完全に背を向けて演奏をすることになるのである。

ところが、開演を待っているとアナウンスが入り、プログラムに予定されていた4曲のうち、夏田昌和さんの作品の演奏がキャンセルになったこと、チケットの払い戻しが 可能であることが告げられる。キャンセルの理由はなく「事情により」とだけアナウンスされる。実は私は、その「事情」というのを、翌朝、あることをきっかけに 調べるまでは知らなかったので、大いに戸惑った。もっとも、他のコンサートの感想でも書いている通り、企画側が決めた曲を順番に、原則として最後まで 椅子に座って聴かなくてはならないコンサートの約束事は、私のような関心の範囲が狭く、体力にも余裕がなく、時間に追われている人間にとっては 必ずしも好ましいものではないので、自分がそのために足を運んでいる当の作品が演奏されないという事態にでもならない限りはあまりがっかりはしない。 それにしても、理由も告げられずにプログラムが変更されるのは決して快いものではない。翌日に事後的に「事情」なるものを知った時にも、「それならそうと はっきりと言うべきではないか」というように私には思われた。

演奏をやる、やらないについては議論が分かれるところだろうし、私自身も意見はあるが、それと一致する、しないに関わらず主催者の判断は理解できなくもない。 昨今の日本の世相を慮るに、この判断はある意味では無難な選択だと私には思われる。公演数日前になってこのようなトラブルに巻き込まれてしまった 主催者の立場を我が事として想像してみれば、これは随分と厄介な状況であることは容易に想像がつき、お気の毒という他ない。だがその一方で、理由を明確にせずに 結果だけアナウンスするのは、「事情はおわかりでしょう?」という暗黙のメッセージが添えられているのだということなのだろうが、そのことを含めて、私は些かの違和感を 感じずにはいられない。寧ろ、なぜそういう判断をしたのかを明確にして開示すべきなのではないか、と私には思われる。今回は自分がチケットを買った聴衆という クライアントの立場に居るからではなく、寧ろ、自分だったらお客様に対して何故そうするのかを説明することを選んだだろうということである。もっとも組織の論理というのは、 組織の中にいる個人の判断を超える場合がままあるから、立場が変わったとして、どこまで自分が頑張れるかについて仮定の話をするのは慎みたい。

上記のようなことは作品の演奏とは関係ないかと言えば、決してそんなことはあるまい。どのようにそれが影響したかは自分でも分析はできないが、コンサートというのが 社会の中で営まれる制度の一つであるからには、無関係ではありえないし、恐らくはどこかで当日の自分の音楽の聴き方に影響していたに違いない。それをこの文章の 冒頭に記したような、より個人的な文脈よりも優位に置くかどうかはまた別の問題であるにせよ、全く影響がない筈はないのである。

だが、演奏そのものがどうであったか、再演という文脈で自分がどのように聴いたかについてもまた、一言記録しておくべきであろう。困難なのは、どこまでが自分の側の 状況に由来するもので、どこからが演奏そのものに由来するのかの判別であるが、前回の演奏に比べて、ずっと精度の高い、演奏者の手の内に入った感じのある 演奏のように思われた。三輪さんが狙っている倍音の効果に関しては、フラジオレット奏法の精度の高さもあって今回は見事にリアライズされていて、 特に後半の「虹」のパートにおいては、いわゆる「七色の虹」ではないにしても、はっきりと色彩の散乱を感じることができた。 前回も書いたとおり、私は弱いながらも音と色の共感覚があるので、実際に色彩が交替するさまを「見る」ことができたし、 曲の末尾に至ってはっきりと母音と色の対応が感じられ、実際に奏者が母音を発する前の段階で、楽音そのものから既に母音がはっきりと 聴き取れ、それとともに色が交替するのが「見え」たのは印象的であった。総じて実現された音響は作曲者の狙いを充分に実現したものと感じられ、非常に 完成度の高い、素晴らしい演奏であったと思う。

勿論、そうした完成度の高さと引き換えのように前回に比べて後退したと感じられた側面もあることは否定できない。例えば前回非常に強く感じられた儀礼性、 そこがコンサートホールであることを一瞬忘れてしまうような雰囲気はずっと希薄になり、コンサートという場にずっと自然に馴染んだ演奏、もっと言えば数ある 「現代音楽」の1曲として演奏されたような印象は否定できない。これについてはそもそもが両立が困難であるようなジレンマを作品自体が抱えているといった 見方もあり得る。更に言えば、先に述べたコンサートプログラムの変更というハプニングとか、三輪さんの作品に限らずもっと一般に音楽から比較的疎遠な生活を この半年ばかり自分がしてきたといったより個人的な文脈が、いわば「ただの音楽」として作品を聴いたことに影響している可能性も否定できない。 芥川作曲賞の20周年記念ガラといったコンサートの位置づけだって、それ自体は祝祭的な意味合いがあるのだろうが、この作品の展望する儀礼性とは 些かベクトルは異なるだろうし、何よりも受賞時の委嘱に応じて書かれた複数の作曲家の作品をいわば「並べて」演奏するというのは、曲自体の持つ 異質性を中和してしまうだろう。加えてハプニングにより、コンサートが置かれている様々な現実的な社会的文脈を強く意識させられたとあっては、 なおさら作品固有の文脈に入り込むのは困難になる。

その一方で、自分がこの作品を初演を聴いてからの4年間の三輪さんの活動をある程度知っていて、特に最近の活動からの展望でこの作品をいわば 「振り返る」ような立ち位置にいること、この作品については楽譜も見ていて、作品についてもその全体が自分の中にある程度入っているという点の方が 実は本質的ではないかという気もする。そういう観点で行けば、三輪さんの近年の作品系列の中に位置づけたときに、この作品を「新調性主義」の 先駆なり原点として見做すのであれば(そしてこの見方は決して突飛でもなければ、強引な読み替えを要求するようなものでもないと私には思われる)今回の演奏は、 その方向での理想的な実現の一つであったという見方も可能ではなかろうか。 ただしこうなれば今度は、儀礼性と直結する架空のカバーストーリーの方が宙に浮いた感じになるのは否めないだろう。 だがそうはいっても、作品の儀礼性が揮発してしまう懸念がある訳ではない。寧ろ実現された音響そのものの持つ時間の流れや色彩の移ろい自体がはっきりと 儀礼性を孕んでいると感じれたし、一見すると儀礼性とはかけ離れたものに見えるかもしれないフォルマント合成といったテクノロジーとの関連といった 側面こそが、ここでは儀礼性を直接支えているように私には思われてならない。

あえてここで更にもう一つ別のストーリー(ただしこれは架空ではないが)を呼び起してみれば、よく知られているようにヘブライ文字では子音のみが 表記され、読み方がわからなくなるのを防ぐために、聖書(マソラ)の伝承の過程でマソラ学者たちによりニグダーという母音符号が発明されはしたが、 今日においても一般にはニグダーは省略される。だが、そうした表記法は偶然の産物ではなく、細部の不正確さを懼れずに単純化してしまえば、 ヘブライ語を含んだセム語においては子音の組がいわば意味の核をなしており、母音の入替や接辞の付加によって品詞が派生し、あるいはこれまた 独特のアスペクトシステムを備えていた(現代ヘブライ語は必ずしもそうでないので過去形にしている)動詞の相が変化するといったシステムに なっていることに基づいているのである。

ここではそれを裏返すように、母音だけが楽器により奏せられ、奏者により発せられ、子音は省略される。一方で母音と色彩との対応はランボーのソネット 「母音」をはじめとして、これまた幾度となく言及が行われてきたし、共感覚は特殊な知覚現象ということになっているが、その器質的な根拠を探れば 脳の機能分化の来歴を垣間見させるような一般的なものに行き当たる可能性だってあるだろう。ここで音楽が儀礼性を帯びるのは、「現代音楽」において も相変わらずしばしばそうであるように、宗教的なテキストに付曲されているからでもなく、宗教的な経験「についての」音楽であるからでもない。 強固な伝統の上に立つ弦楽合奏という形態の上で、倍音の効果という楽器の構造上極めて基本的な側面にフォーカスし、一旦通常の奏法を廃し、 更にフォルマントを模したピークを意図的に弾かせることによって、もともと「人の声に近い楽器」と言われてきた楽器に別の仕方で母音を演奏させると いった際立って意識的・批判的な「方法」により、「音楽」をもう一度シミュレートすることにより、儀礼性もまた結晶化するのである。儀礼性は作品の構造に 由来しており、従って作品の技術的に精度の高い実現こそが儀礼性を呼び起す条件となろう。そうした意味において、「人間ならば誰もが心の奥底に 宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を起させるための儀式のようなもの」「そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」といった側面は、今回の演奏によっても充分に実現されていたと私には感じられた。

終演後、拍手が続く中、指揮者の秋山さんが客席を向いて指差す先には三輪さんの姿はなかったし、次に演奏された作品の作者である山本裕之さんのように 三輪さんが舞台に上がることもなかった。その理由はその必要があればご本人が開示されるであろうから、ここでは臆測を逞しくするのを控えるべきだろうし、 何も書かないでおく。だが、三輪さんがご自分の作品の演奏の場にいらっしゃらなかったことは、私が三輪さんの作品の実演に接して以降だけに限れば、 ほとんどなかったことだし、このコンサートの趣旨を考えれば必ずや立ち会われたに違いない。理由は何であれ、自分の作品の演奏に立ち会うことができないのは 非常にお気の毒なことだと私には感じられる。この記録が代わりになるということはあり得ないのだ(否、何だってそうで、原理的に「身代り」は不可能なのだ)が、 それでもなお、その現場に居合わせたものとして、その事実を記録することには何某かの意義があるものと信じたい。

身柄を拘束されておられるだろう夏田さんは、仮に作品が演奏されてもその場には居られるはずはないから不在なのは勿論として、夏田さんの 作品がキャンセルされたために休憩後にそれのみ演奏された3曲目の作品の作者である江村哲二さんは更に別の理由で拍手に応えるべく舞台に上がることはなかった。 私もまた「事情はわかるでしょう」であるのは一貫しないし、実は「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」の初演の場に、江村さんが、今回、夏田さんが翌々日の29日に 予定されていたようにその年の作曲賞を選考する審査員として会場に居られたのを拝見していただけに、その後、その知らせを聞いたときには大変に驚いたし、今回も また何とも言えない気分になったので記しておくが、江村哲二さんは2007年6月11日に膵臓癌で逝去されたのである。同じ時期に自分がお世話になった上司が その少し前に同じ病気でやはり逝去していることもあり、江村さんの死は私の記憶に深く刻み込まれている。勿論、江村さんの不在については事前に知っているから、 これまた作品を聴くに際して、そのことを意識して聴かないでいることはできなかった。普段、過去の音楽、ミーム間の生存競争を勝ち残った音楽が鳴り響くことの方が 多いコンサートホールではある意味では当たり前の状況(のはず)だが、同時代の音楽が演奏される場としては、この日のコンサートは色々な意味で異様な 状況だったことをしっかりと記録しておきたいと思う。(2010.8.29初稿, 9.2加筆修正)