2014年11月10日月曜日

「TRANSMUSIC 2014」について

サントリー芸術財団コンサート
TRANSMUSIC 2014
2014年11月8日いずみホール

クラーレンス・バルロ「ナイルの一月」室内オーケストラのための
指揮:野平一郎 管弦楽:いずみシンフォニエッタ大阪

三輪眞弘「ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読」シンギング・マシン、アイントンと9人の演奏者のための(2013)
シンギング・マシン、アイントン:マーティン・リッチズ、管楽5重奏と4人のドレミパイプ奏者:いずみシンフォニエッタ大阪 

フォルマント兄弟 歌謡曲「夢のワルツ」MIDIアコーディオンとオーケストラのための(2012/2014)
MIDIアコーディオン:岡野勇人、ギター:佐近田展康、指揮:野平一郎 管弦楽:いずみシンフォニエッタ大阪

三輪眞弘「万葉集の一節を主題とする変奏曲」MIDIアコーディオンと管弦合奏のための(2014)
いずみシンフォニエッタ大阪 (サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演)

三輪眞弘「海ゆかば―<万葉集の一節を主題とする変奏曲>内包曲―」MIDIキーボードとパソコンのための(2014)
MIDIキーボード:岡野勇人(サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演)

トーク・セッション:三輪眞弘(作曲家)、マーティン・リッチズ(美術家)、伊東信宏(音楽学者)

「TRANSMUSIC 2014」が三輪さんを迎えて開催されるということで週末、土曜日に大阪に向かう。プログラムは上掲の通り、 クラーレンス・バルロの「ナイルの一月」、三輪さんの「ひとのきえさり」とフォルマント兄弟名義の佐近田展康さんとの 共作「夢のワルツ」の再演、そして最後に三輪さんの新作初演を含む非常に贅沢なもの。

一方で私はと言えば、二週前に崩した体調の恢復がいつも以上に思わしくなく万全ではない上に、 幸いにも仮にであれ一区切りがついたタイミングとなって気分的に引き摺る要素が少ない替りに、その分 溜め込んでしまった平日の疲れが抜けない儘に、新幹線に乗るべく移動すれば、その途上で人身事故での 運転見合わせに遭遇し、それでも辛うじて1本新幹線をずらすだけで開演前にはホールに辿り着くという、 万全からは程遠い状況で演奏に立ち会うことになってしまったのは残念であった。

しかも加えて、会場において、今度は新作初演の際に機器のセッティングの不備があり、演奏をやり直すという ハプニングも重なり、新作を十全に受け止められたかどうかについては全く自信がない状態なのだが、 後日の備忘のために簡単に感想を記しておきたい。

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最初におかれたクラーレンス・バルロの「ナイルの一月」は、ある仕方で選択された「変容」の過程自体を音響的に定着させたと いった印象の作品。演奏が終わった後のトーク・セッションでの三輪さんの種明かしによれば、ここでの素材はドイツ語のテキストを 音響的に分析した結果とのことだが、それを知らずに聴いても、何らかの基底となるモチーフが時間の経過とともに浮かび上がり、 変容していく様は明確に聴き取ることができる。但し、微分音程を含む音響の中から旋律が出現し、調性圏のようなものが 輪郭を明確にしていく変容のプロセスは、少なくとも微視的には人間的なものではなく、明らかに幾つかのパラメータの 操作をいわば「機械的に」行うことで産み出されたものであり、題名に引き摺られてというわけでもないが、恰も河の流れのように、 人間的な秩序を超えた法則性に基づき音響が滔滔と流れつつ姿を変えていく経過に立ち会うことになる。

一方で巨視的な過程としては、途中でそれまでの流れが断ち切られ、突如として伝統的な意味での音楽が演奏される部分に切り替わり、 今度はそこからの変容のプロセスが再開され、但し再び冒頭のような混沌に戻ることなく終わるという構造は決して聴き難いものではなく、 或る種の聴き手へのサーヴィスにも怠り無い、高い完成度を備えた聴き応え充分の作品であると感じた。 野平さんが指揮するいずみシンフォニエッタのメンバーの演奏の精度は高く、作品の姿を十全に示すものであったように思う。

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二曲目の三輪さんの作品「ひとのきえさり」は私にとっては二度目、再演を聴くことになる。何時の時代であっても同時代には膨大な数の作品が 産み出されて試演されはしても、その多くは再演の機会を得ることすら叶わずに、時の流れの中に消え去ってしまうものなのだろうが、 初演の際に感じた、この「ひとのきえさり」が、そうした流れの中で繰り返し演奏されるべき作品の一つであるという印象は 再演を聴いて、確信に変わったように思える。

今回は舞台に向かって左側にシンギング・マシンを中心としたドレミパイプ奏者、右側に管楽五重奏、そして中央に3つのパイプよりなる アイントンが配置されての演奏。作品は「序奏と朗読」というタイトルの通り、管楽五重奏が中心となり、音を発しない シンギングマシン(但し「調音」は行われている)とドレミパイプ奏者の演奏と囁きの交替が影となる前半部分、管楽奏者が退場してしまった 後、非常に低いEsの音を鳴らす3本のアイントンが折々呻りを発して基底の響きを作り出す中で、シンギングマシンが子音の代替となるピッチを 持った母音を発声することにより藤井貞和さんの詞を「朗読する」のに対して、ドレミパイプ奏者が「伴奏」する後半部分とに分かれているのだが、 実は前半も5本の管楽器のそれぞれが母音を担当し、子音にあたるピッチを奏していくことによって、いわば器楽による藤井さんの詞の「朗読」を 行っているのであれば、この作品も「ひとのきえさり」の詞に基づく(序奏と朗読の2つの部分からなる)変奏曲と見做すこともできるだろう。

シンギング・マシンのすぐ近くで聴いた前回とは異なり、舞台から離れ、どちらかというと管楽五重奏の正面で聴くことになった今回は、 そのせいもあってか、前回よりも前半の管楽五重奏の部分の印象が強く、それゆえ変奏曲という印象を強く持ったのかも知れない。 何よりも印象的だったのが、管楽五重奏の序奏がそれ自体、楽器という発声機構を持つ「装置」による「朗読」に他ならないことが 明瞭に感じ取れたことであった。各楽器に母音が割当てられ、子音がピッチに変換されることにより、藤井さんの詩が、 意味は勿論のこと、ヒトの発声器官の特性さえ剥奪され、楽器の音色の交替として実現される母音の変化と、 ピッチの変化として実現される子音の移り変わりという構造に還元され、抽象化されて提示されている印象を抱いたのである。 こう書くと如何にも分析的な聴取の仕方ととられるかも知れないが、実際には全く反対で、藤井さんの詩の持つ音響的な変化と 多様性の美しさが、いわばエッセンスのようなかたちで提示されているように感じられたということなのである。 アイントンのEsを基音としていることもあり、管楽器による「朗読」は非常な困難と伴うのではないかと思われるのだが、 まるで一つの装置が「発声」するような自然さでのリアライズが行われていたことも、上記のような印象に 与っていることは間違いないだろう。

後半の「朗読」の冒頭、リッチズさん製作のシンギングマシンが朗読を始めた時、ピッチと母音のみしか音響的には実現されていない筈なのに 確かに「ひとのきえさり」と発声されているようにしか聴こえなかったのもまた、単なる偶然とは思えなかった。それだけではなく、 この曲を繰り返し聴いている裡に、母音とピッチだけで藤井さんの詩が本当に聴き取れるようになるに違いないとさえ感じられたのである。 それはひとまずは、一見したところ全く異なるシステムの言語であっても、繰り返し聴くことの「暴力」により、いずれそのシステムに 馴致されてしまうということなのであろうが、一方で、半ば無意識的にその中に埋め込まれている「通常の」システムもまた、 実は同じような仕方で、それに適合するように学習されたものに過ぎないのだ、ということに対する認識の方が、私にはより鮮明に感じられた。

再演を聴くというこちら側の条件と、コンサートホールでの舞台上での演奏ということも相俟って、前回に比べると儀礼性よりも 音楽作品の高精度のリアライズといった側面がより強く感じられたが、この作品が機械と人間によるアンサンブルという 三輪さんの作品のコンセプトの一つの最高度の実現の一つであるという認識は一層揺ぎ無いものとなった。 演奏後のトーク・セッションで進行役の伊東さんが、自分が作った楽器を「礼拝」したリッチズさんに対して、「どちらが主人なのか?」と いう質問をしていたが、消え去って既にいない人間の記憶を、断絶を乗り越えて継承するテクノロジーとしての装置は、 ここでは人間が世代を超えて、忘れてはならない記憶を継承するための不可欠の契機、「文化」の拠り所であり、 寧ろそちらの方が優越するという認識すらありえるのだということが示されているのだろう。シンギングマシンというのは、 もしかしたら、調音機構自体も含めて、最早亡き者の過去の記憶自体であり、MIDIアコーディオンを用いてしか発声する ことができなくなり、固有の「声」を喪ってしまった未来の人間にとって、或る種の聖遺物として、礼拝の対象と すらなりえるのかも知れない。

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休憩を挟んでの後半は、最初にMIDIアコーディオンが歌う「夢のワルツ」の管弦楽伴奏版。MIDIアコーディオンが今日の姿になる プロセスに立ち会うことができた私にとって、「夢のワルツ」はすっかり馴染みの曲になってしまったが、 野平さんの指揮するいずみシンフォニエッタの名手達が、MIDIアコーディオンが「歌唱」する演歌のフェイクの伴奏をすることによって 惹き起こされる、或る種の眩暈のような感覚が印象的だった。勿論、(「現代音楽」というジャンルを含めた)いわゆる 「クラシック音楽」を演奏することを目的としているオーケストラによる演奏で、同じ目的のためのコンサートホールにおいて、 本来そうした場での演奏を想定されていない音楽が響くこと自体は、現代においてはそんなに稀なことでもなく、 そのこと自体の異化効果のようなものはとっくに消滅しているし、他方で例えば和楽器が用いられるかと思えば、電子楽器が用いられ、 音響が増幅されたり、加工されたりすることもまた「見慣れた」風景となっているのであれば、管弦楽伴奏によりMIDIアコーディオンを 用いて演歌が演奏されること自体にも違和感などありはしない。従って眩暈のような感覚というのも、寧ろこれまで専らMIDIアコーディオンを 用いた人工音声による歌唱の実証実験のサンプルの感のあった「夢のワルツ」が、超絶技巧を要求される現代音楽をものともしない 名手達の指揮と演奏により、余りにも普通の音楽としてリアライズされてしまったことに対する驚きに由来するものであったかも知れない。

そのことは同時に、実際には岡野さんの超絶技巧によって成立している「誰のものでもない声」による筈の「歌唱」が、 「誰でもない」ことの不気味さよりも、どちらかというと「人声」と同じ音色と音程を持つ新しい「楽器」を「表情豊かに」 弾きこなしているという、寧ろ「当たり前」で「自然」な状況、他の楽器であればごく当たり前の状況を産み出しているように 感じられた側面に通じているに違いなく、人間と機械の関係の微妙さを感じることができる非常に興味深い経験であった。 非常に単純化した言い方をしてしまえば、MIDIアコーディオンの「匿名性」はこの方向性では喪われてしまい、 本来は奏者の人格に対して外的で中立である筈の楽器があたかも奏者固有の「声」に喩えられるような状況が一般的に生じるのと 同じように、MIDIアコーディオンの「声」が、(第二の、補綴されたものであれ)奏者である岡野さん固有の「声」に なってしまうように感じられたのである。

それは恐らく、休憩前の演奏におけるリッチズさんのシンギング・マシンが、ウニカートであり、誰のものでもない声を発するという点では 音声合成によって声を発するMIDIアコーディオンと共通していている一方で、実際には機械仕掛けでプログラムされた手順で「朗読」して いくのであるとはいえ、結果として「自動的に」「朗読」を行っていたのに対し、ここでは岡野さんがアコーディオンを操作することで 「歌唱」が行われるというリアルタイム性に関する差異が(或る意味では逆説的な仕方で、というのもその点こそがこの試みを、例えば 「初音ミク」に代表されるヴォーカロイドとの差別化のポイントであったのだから)惹き起こしたものではなかったかと思う。 アバターが音楽に合わせて動く画像が捏造する擬似的な人格との違いは勿論歴然としてあるのだが、ここではリアルタイム性が、 「匿名性」を消去する別の経路となっている感があって、いずれにしてもMIDIアコーディオンを用いた人工音声による歌唱の試みの 可能性は、決して「人間」(現在においては、そこには初音ミクのようなキャラクターをも含めるべきなのかも知れないが)の 真似をする方向には決して存在しないという、実際には「フレディーの墓」の時点で既に明らかになりつつあった点を改めて 確認させられたように感じられた。そしてMIDIアコーディオンのあるべき方向性はと言えば、次に演奏された三輪さんの新作に よってこそ明確に提示されているように思われたのである。

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プログラムの掉尾を飾る新作、MIDIアコーディオンと管弦楽奏者達による「万葉集の一節を主題とする変奏曲」とその内包曲とされる信時潔の 「海ゆかば」のMIDIキーボードによる「歌唱」は、演奏上は一続きのものとして演奏された。MIDIアコーディオンは、通常のアコーディオンと 人工音声発生装置の2つのモードを切り替えて演奏されることが意図されていたにも関わらず、冒頭にも述べたように、セッティングの ミスにより切替が行われずに、三輪さんの判断により一旦演奏を中断し、セッティングをし直し(といっても実際には抜けていた端子を きちんとつなぎ込むだけのことだったようだが)もう一度最初から演奏をしなおすというハプニングがあった。これによってホール 全体の緊張感が途切れてしまったのは、仕方ないこととはいえ、残念なことであったが、MIDIアコーディオンの朗詠の不気味なまでの 雄弁さとともに、その後に続けて今度はMIDIキーボードで「普通に」歌われた「海ゆかば」の逆説的な不気味さ、更にその末尾で、 意図的にキーボードを音声を発生するモードから通常のモードに戻し、間違って、音素に変換されるべき指遣いでの演奏を、通常の モードで演奏させることにより、いわば舞台裏を垣間見せることによって、メカニズムが露呈される部分の凄味などには尚、 圧倒的な印象を受けた。また例えば風鈴をうちわであおいで音を出すのに導かれて演奏が始まるという着想も、霊魂が音に導かれて 到来するという伝統的な「鎮魂」の儀礼的な手段を自然な形で取り込んだものであり、効果的であった。

ここでのMIDIアコーディオンは、「夢のワルツ」を歌うそれとは異なって、ある時には通常のアコーディオンという楽器であり、 ある時には「海ゆかば」を読み上げる匿名の声である。しかもそれは歌唱を目的に設えられたヴォーカロイドとは異なって、 呼吸をし、喘ぎ、囁き、絶叫する存在である。意図的に聴き取れないように管弦楽奏者達によって唱えられる特攻隊員の辞世の歌も そうだが、ここでは「歌」はほとんど解体されてしまい、何者かに向けての祈りや訴えしか残っていないかのようだ。 ここでの変奏というのは、伝統的なそれのように歌を装飾していくプロセスでも、歌の骨組みに当たる要素に基づく変容の 可能性を追求するプロセスでもなく、寧ろ演奏行為も含めた「歌」の背後にあるものを暴き出し、アンサンブルの中では 調和的に回収され、馴致され、或いは美化さえされたかも知れない異質な要素を浮かび上がらせる機能を担っているかのようだ。

これは何の予断も前提知識もなく音響に接した聴き手にとっては知りえない事柄ではあり、だがアッタッカで演奏された 信時版「海ゆかば」の「歌唱」の末尾の「仕掛」によって実は遡行的にヒントが与えられていたようなのだが、 ここでの変奏は、注意深く、文字通り読み取れば作品の題名が正確に指示している通り、信時版の「音楽」に対する それではなく、万葉集の大伴家持の歌の一節である詞に対するそれ、しかも、音素を鍵盤で弾くための規格に従いつつ、(勿論意図的に) 間違えて、通常のモードで、つまり音素を生成するためのアコーディオンのボタンの組合せを、そのまま変換せずに音響化して しまった時に生成される音響によるそれであったようなのである。もっとも私はそのことを自分の耳で聴き取ることができず、 作曲者に問い合わせて教示されて始めて、その「照応」に気付いたに過ぎないのだが。

そうであってみれば、変奏曲に引き続いてMIDIキーボードが「歌唱」した「海ゆかば」が、始めこそサンプルされた 伴奏に合わせて普通に歌われるものの、聴くに耐えないようなおぞましさを帯びて聴こえてきたのは、私が個人的にこの曲に 結び付けている連想が惹き起こす情緒的な反応によるものばかりではなく、変奏曲が浮かび上がらせたものが無意識的に働きかけた 効果によるものではなかったか。実際には、こちらはその場で気付いた、信時版「海ゆかば」の演奏の末尾の意図的な「間違い」に 照応する「万葉集の一節を主題とする変奏曲」の変奏の側で仕組まれた変換モードの「誤り」(ハプニングは、この誤った状態から MIDIアコーディオンが抜け出せなくなってしまっていた点に存しているわけである)は音素への変換の誤りという点では同一であっても、 一方はアコーディオンのボタンの割付、他方はキーボードの左手部分のキーの割付という異なった機構の上でのものであり、 従って、聴き手が受け取る音響は、仮令同一の詞に対する誤りであっても異なったものでありうるのであれば、両者の間に存在する 対応関係は、両方の規則を身体化した奏者(岡野さんは確かにそこに含まれるだろう)以外には隠されたままで留まることになる。 だが恐らくは、注意深い聴き手が「変奏曲」で、音声のモードに切り替わった瞬間に気付いたということはありえるだろう。 そもそも私もまた、MIDIキーボードの変換規則を身体化しているわけでもないのに、「海ゆかば」のケースについては 気付いたのだし、最初に主題が提示されるのではなく、最後に主題が提示されるようなタイプの変奏曲は伝統的な クラシック音楽にも存在すること、或いはバッハの対位法作品に見られるような謎解きが含まれる音楽を思い浮かべても良い。 そしていずれの場合でも、聴き手が無意識的に受け取るものは、規則を見破り、謎を解く事ができるかどうかとはまた 別の次元に属している筈なのだ。

管弦楽奏者達が奏していたのは、変換ミスにより「歌」になりそこねた結果としての音響であり、それはアンサンブルの拒否と いうよりは寧ろ、間違ったアンサンブルの(強制された)実現と言う方が適切だろう。勿論のこと、音素変換の規格におけるボタンの割当は、 それが変換されずに音響として実現された時のことに配慮してなどいないから、その結果は通常の意味において「音楽」と呼べる ものではないし、従ってそこには「表現」が成立する余地など存在しようがない。それ故、それは直接的な怒りや絶望の表現では ありえないのだが、にも関わらず、詞にできず、歌として口ずさむことができない何かを、その意図に相応しく、未成の「音楽」、 「音楽」の幽霊とでもいうべきものとして、それでもなお音楽作品として定着させようとする作曲者の意志の凄まじさのようなものを 感じずにはいられなかった。勿論、人によっては、ここで織り込まれた意図的な変換エラーの結果を音響化してしまうという姿勢を、 最早「音楽」ではないものに突入してしまっているとして拒絶することだってありえるのだろうが、にも関わらず、私個人については、 この作品のこの側面に限って言えば、わからないなりに、無意識的にであれ、その仕掛から何かを受け取ったということは事実として証言できるし、 それが伝統的な意味合いでの音楽であるかどうかなど、受け取ったものの重みの前では副次的な問題に感じられる。最早「音楽」が 不可能であることが最後の音楽の条件であるような地点に私はいるのではなかったか。

だがその一方で、例えば、管弦楽の奏者各自の形態端末に配信されるテンポの指示に従い、 ずれたテンポで楽器が演奏するアイデアなどは、全体としては指揮者をおかず、各奏者がアコーディオンの音に反応して演奏をしているかの ような自律協調的な見かけとの重ね合わせのせいか、作曲者の意図が充分にリアライズされているのかどうか、率直に言って良くわからない面もあった。 勿論これは、演奏によるリアライズが不充分であったのでは、という意味合いではなく(その点については申し分なかったようなので)、 あくまでも聴き手たる私にとって、手に余る状況であったということを述べているに過ぎないのだが。

ここでの器楽が通常の意味での「アンサンブル」ではないことが目指されているのは明確なのだが、その先にあるものが、 「アンサンブル」の拒絶としての系のエントロピーの単なる増大(つまり無秩序への崩壊)への志向なのか、例えば「59040年カウンター」 においては見事に達成され、圧倒的な効果を上げていた、自律的協調による新たな秩序の構築への志向なのかが判然としないように 思われたのである。しかもその前提として、そこで奏される音群が、いわば誤変換の結果であるという条件が予め課せられているとき、 更にその上にかかるテンポの条件が与えられたことの音響的な結果の帰趨を見定めるのは、私の個人的な能力の限界を最早超えているようにも 感じられるし、それを更に人間の奏者が演奏する(誤った音を、決して揃わないテンポで奏することになる)ことがどういうことなのかもまた、 見極め難いように思われる。 例えば、全く異なる理由でしばしば現実に行われているように、奏者は耳栓をして、他の音を聴かずに演奏をすべきなのか? にも関わらず、同じステージで演奏することの奏者にとっての意味は、そしてその演奏に立ち会う聴き手にとっての意味は何か?

聴き手たる私に課された問いがあまりに重く錯綜としていることは明らかだし、ハプニングを含めた色々な条件が重なった一度きりの 聴取で判断を下すことは私にはできないことを告白せざるをえない。少なくとも、単に私に聴き取れなかった部分があり、その結果として 理解できなかった部分があることは疑いないわけだから、性急な判断をして総括する愚を冒すことは控え、再演の機会があれば是非、 この点についてもう一度確認し、更に考えてみたいように思う。

だがそれでもなお、この作品の射程と意義について私なりに感じたことを後日のために書き留めておくならば、それは以下のようなものに なるだろうか。三輪さんには「永遠の光…」のような、祈りを音楽化することの不可能性を出発点にとった作品がある。ここでもまた、 鎮魂を、追悼を「心を合わせて」集団で行うことへの深い懐疑があり、そのことによる「内面化」の作用に関し、そこで音楽が 持ってしまう力に対する作曲家としての拒絶があるように思われる。勿論それは、分析的な思弁の産物などではなく、それ自体が 強い情動を伴った判断であり、それゆえそれは、屈折を経た上で、それでもなお、もう一度「音楽」として作品化されることを欲するものなのだ。 しかもそれは、最早信じることのできない自分の固有の声を通してではなく、社会的集団の匿名の声でもなく、誰でもない他者の声を 介してしか語ることができないような性質のものであるに違いない。こうした点においてこの作品は、少なくとも大きな枠組みにおいては、 まさにそうでしかありえないような必然性を帯びたものであるように私には感じられる。この作品の場合、作品のかたちで定着され、 記憶されることを望まれている状況は、あえて破綻を意図的に作品の構造に組み入れなければならない程、限界的なものなのだ。 技術的な細部はおくとしても、私はその必然性を感じることができたし、その重みを感じることもできたように思える。 私のあまり狭く鈍ってしまった受容能力で、それを十全に受け止められたかどうかについては甚だ心もとないものがあるし、 受け止めたものに相応しい応答を、何か明確な形で、直ちにすることはできなくとも。

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私の最近の音楽との接点は誠に貧しいものであって、今年はこのコンサート以前には、辛うじて三輪さんの作品も僅かに2作の演奏を聴いたのみに 過ぎず、己の感性の摩滅が、聴取の不全となって作品の理解を妨げていはしまいかという疑念は拭い難い。一方で三輪さんの活動の方は、 「ひとのきえさり」がドイツで初演されたのが丁度1年前のことだったが、その後の1年間で 「みんなが好きな給食のおまんじゅう」「お母さんがねたので」「火の鎌鼬」「59049年カウンター」に続いての新作ということになる。 そればかりか大学教授としての職務は勿論、芸術賞の審査員、「ひとのきえさり」の日本初演を含むコンサート企画、三輪さんが音楽を 担当しているイェリネクの「光のない」の再演等の活動と並行してのことであり、この1年間の三輪さんの作曲のペースは驚異的という他ない。 のみならず今回の新作は、フォルマント兄弟名義での近年の活動の一つの到達点と位置づけられる作品であり、なおかつ三輪さんの 他の作品の系列との融合が試みされた第一歩でもあり、今後の発展、展開が期待される。それ故、一方では同時代に生きる者の務めとして、だが 何よりも自分が生き続けるための糧として、引き続いて可能な限り三輪さんの活動を追って行きたいと私は思う。なぜならば、ブレヒトの「セチュアンの 善人」の中で歌われるように、Der muß vor Nacht gerodet sein / Und Nacht ist jetzt schon bald! と嗾けられ、その挙句に落伍し、 踏みつけにされ、見捨てられ、あまつさえ断罪され、有責とさえされかねない状況、真理がファンタズマゴリーとしてしか経験できない状況は 過去のものであるどころか、今日まさに、我が身にふりかかっている現実に他ならず、そうした人間にとって三輪さんの音楽は、その音楽の 破綻自体すら真理に他ならず、常に誰にも聞いてもらえず、否定され、却下されてしまう、声を奪われた自己の代弁者なのだから。 (2014.11.9初稿、10加筆・公開, 11修正)

2014年8月31日日曜日

「59049年カウンター」世界初演を聴いて

2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための「59049年カウンター」(詞:藤井貞和)

LSTチーム詠人:松平敬(バリトン・レインスティック)
MSTチーム詠人:高橋淳(テノール・レインスティック)
桁人および悪魔:横浜都市文化ラボ桁人チーム(桁人・シェイカー、悪魔・桁人移動シミュレータ)
アンサンブル(傍観者):
斎藤和志・齋藤光晴(ピッコロ・フルート)
大石将紀・江川良子・冨岡祐子(ソプラノサクソフォーン・アルトサクソフォーン・テノールサクソフォーン)
飯野和英(ヴィオラ)、宇田川元子(チェロ)、鈴木隆太・白石准・高橋ドレミ(シンセサイザー(鋸波・三角波・正弦波))
岩見怜奈(タムタム・アンヴィル)、村居勲(LSTドレミパイプ)、山本貢大(MSTドレミパイプ)

2014年8月30日 サントリーホール大ホール:「木戸敏郎がひらく」21世紀の応答

今年のサントリーホールでのサマーフェスティバルでは、木戸敏郎さんのプロデュースによるコンサートが3公演行われ、 そのうちの8月30日の公演は「21世紀の応答」というタイトルを持つ、シュトックハウゼンの「暦年」洋楽版の日本初演と 三輪眞弘さんの委嘱新作「59049年カウンター」によるプログラムであった。この公演は8月28日の「20世紀の伝言」と 題された「暦年」雅楽版の再演と一柳慧さんの雅楽のための新作の公演と対をなしている。更に8月22日には、木戸さんが 取り組まれてきた始原楽器の復元と始原楽器のための作品委嘱の活動を紹介する「始原楽器の進行形」と題された公演があり、 ここでは三輪さんの逆シミュレーション音楽の傑作「蝉の法」が西陽子さんにより演奏された。私は8月30日の公演のみ 訪れることができたので、三輪さんの作品を中心に8月30日の公演の感想をまとめておくことにする。

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プログラムの前半は、「暦年」の洋楽版の日本初演。この作品がオペラ「火曜日」の第1幕となり、「火曜日」をその一部と した演奏時間30時間弱、7日に渉って演奏される構想の全7作のオペラ・ツィクルス「光」の出発点になった作品であることは 辛うじて知っているが、雅楽によるオリジナルの「暦年」が初演の際に蒙った批判のことは伝聞していても実作に接したことが ない私の耳には、その音楽はごく普通の西欧の現代音楽と聞こえた。楽器の編成からも、各パートの音形からも、オリジナルの 雅楽版の姿が見え隠れするものの、雅楽のオーケストラ編曲といったイメージから想像される違和感は殆どなく、寧ろ緻密に 書かれ、見通しの良い(途中で先がほとんど読めてしまうという点では、寧ろ良すぎるかも知れない)構成と、(電気的な 増幅のような処理も含めて)生成される音響に対するこだわりが感じられる音楽は、奏者の際立って集中力の高い演奏によって、 非常に高いクオリティでリアライズされていたと思う。それぞれ異ジャンルの4人からなる舞踊、これも強く西欧のオペラの 伝統を感じずにはいられなかったミカエル、ルシフェル、レフェリーについても同様で、作品自体の評価を云々する以前に 演奏の質に圧倒されるような高水準の上演であったと思う。

雅楽版のそれ、あるいは「シリウス」のような同時期の作品のそれと同様、物議を醸すことの多いシアトリカルな部分についていえば、 私が強く感じたのは、読み取ることはさほど困難なこととも思えない作曲者の意図といった意味内容の側面よりも、それをこういう シーンとして埋め込んでしまう作曲者自身のか、あるいは作曲者の埋め込まれた伝統のか、どちらともつかない個性であり、 それに対するどうしようもない距離感であった。

シアトリカルなシーンは時間を進めようとするミカエルと時間を止めようとするルシフェルの抗争の場面のようだが、効果音や 効果音的なBGMを含めた演劇的時間の面で、止めようとする側と進めようとする側のコントラストはないから、予断ない目と 耳で聞いたとき、シアトリカルなパートが音楽と舞踏による持続のパートに対する或る種の中断、介入であることはわかっても、 それが時間自体の進行と停止に関する抗争であることを読み取ることは困難であろう。同様に明確な発展・ 展開の弁証法を持つわけではない音楽は、ストップウオッチでカウントするというシアトリカルな身振りで端無くも 露呈されていたように、時間の進行というのを、生成し、発展していくものではなく、計測し、比較することができる時間表象に よって捉えようとしているが故に、ミカエルがというよりは寧ろレフェリーが仕組んだ各桁間の意味不明の競争の時間の持続に対して、 ルシフェルの試みる介入こそが出来事としての時間の発展の契機となるという、恐らくは作曲者の意図にとっては皮肉な (だが時間論的にはある意味では当然の)結果となっているように感じられた。そうした意図の水準を括弧に入れてしまえば、 ここでは(ミクロに見れば、例えばバレエ等でもそうであるように、舞踊を基準にテンポが設定され、舞踊を見ながら、それに 合わせるように器楽の演奏が行われたとしても尚、決して舞踊から音楽が引きだされるのではなく、) 音楽が時間経過を支配しており、舞踊は音楽に随伴し、そして演劇的時間の方は音楽的時間とは無関係(つまり、有機的な 重層性を形作る関係にはない)であるように見受けられる。

だがそれらよりも印象的であったのが、そのことの是非は別にして、この作品の音楽的構造が作曲者の設計により1977年という時点をいわば 「ラベル」の如きものとして抱え込んでいる点である。カウンタの1と10の桁は実際には7進法によっており、7の2乗が更に 9回という全体構造は、10進法システムである筈の西暦を数えることよりも、1×9×7×7という、4つの数の組合せを優先している ように見える。実は7進法でカウントアップしていく下2桁を見て、全てが7進法で支配されていて1700年代以降の 時代がショートカットされるというコンセプトを思いついてしまったが、それでは肝心の1977年が飛ばされてしまう。 勿論、舞台の上には2014と大書されていて、各桁の舞踊は(作曲者の指示通り)その数字に応じて1977年の時とは 異なった動きをするようになっているのだが、舞踊自体も結局のところそれに従属している音楽的な構造は「1977」という文字列に支配されていて、 実際に演奏はカウンタが1977年に到達したときに終わるし、その後とってつけたようにカウンタを2014年に(何の音楽的・舞踏的・ 演劇的イベントもなく)飛躍させることで、辛うじて上演する現在との結びつきを保持することになる。

作曲者自身はこの作品は毎年上演されることを希望していたらしいが、私が感じ取ったのは、この曲が作曲された1977年と いう年号の記憶の方なのであり、洋楽版の方はこれが日本初演であり、1回目の演奏であったにも関わらず、それは1977年を 反復することで記念する儀礼の如きものであるかのような印象を受けたのである。 勿論、そうしたコンセプト的な側面は作品の一面に過ぎないし、この作品の音楽的質と独立に論じることができるものであるけれど、 それでもなお、1977年から2014年までの時間がいわば「盗まれた」ような感覚に囚われるのは避け難いし、上述のように、 実際の上演の時間の流れと作曲者の意図、更には意図を実現すべく、そこにあてがわれた時間表象との間に懸隔を感じずに いることもまた、避け難い。結果として、この公演のタイトルにかけて言えば、初演の時の批判は最早過去のものであるとしても、 作品自体が自ら1977年という時点に留まっているのに対して、2014年のこちら側から、新たな演出・演奏をもって応答していると いった印象を強く持ったのであった。

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20分の休憩を挟んだ後の三輪さんの新作は、シュトックハウゼン作品のコンセプトのうち「年を数える」というコンセプトに対し、 三輪さんが逆シミュレーション音楽を通じて可能性を追求してきたアルゴリズミック・コンポジションによる「応答」を試みた ものといえるだろう。以下、三輪さんの近年の他の作品との対比をしつつ、作品の構造の特徴の概要を記しておくことにする。 実際には他の逆シミュレーション音楽の系列の作品と同様に、厳密に演奏の手順が定められていて、それが通常の西欧音楽における楽譜の替りを しているのだが、ここでは厳密さは犠牲にして、コンセプトとリアリゼーションの両面において、「応答」の射程を理解する上で 重要と私が感じた点を中心に記述することにしたい。

三輪さんの近年の作品は、蛇居拳算と名付けられたアルゴリズムをいわば共通のマトリクス(母型)として用い、一つ一つの 作品がまるで共通のDNAを持ち、異なるゲノムを備えた生物であるかのような様相を呈しているが、更に「みんなが好きな給食のおまんじゅう」 「火の鎌鼬」といった作品と「59049年カウンター」は、アルゴリズムのシミュレーションのリアライズにあたってサミュエル・ ベケットのQUADに基づいている点でも共通していて、それに付与される物語(逆シミュレーション音楽における「由来」)が 異なっているという点で、見かけは多様な神話物語が共通した構造を持っていることを思わせる。「59049年カウンター」では2組のQUADが用いられるが、 各QUADでは、方形の4つの辺と対角線を桁人が移動でき、5人の桁人のうち4人が常に4つの頂点を占め、一人は頂点から頂点への移動を行い、 蛇居拳算は移動している桁人と移動先に居る桁人との間で行われて状態が更新される。2組10人の桁人の状態が10桁の3進数の各桁に対応し、 10人の桁人の状態が暦年を表すようになっている。

その一方で、「ひとのきえさり」「火の鎌鼬」と「59049年カウンター」は、藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」を素材としている点で共通しているが、 その実現の仕方は作品により異なっている。「ひとのきえさり」では7種のピッチを持った母音の調音のみができるマーチン・リッチズの音楽機械が 絶滅したギヤック族の儀礼を反復するという物語の下で詩の朗読を行うのに対し、「59049年カウンター」では、桁人の形作る2つのQUADの図式の各々の 中央、「ドラマ化されたタブー」と名付けられた位置に居る2人の詠人が、定められた旋律 (ただし、バリトンの側は2種類の旋律のいずれかを選択できる)によって朗唱する。 朗唱する節は、桁人同士の演算の結果、対角線方向への移動が生じて自分に向かってくる桁人から手渡される札によって決められている。

「ひとのきえさり」では朗読にあたって子音音素に割当てられていた音名組織は、ここでは5人1組で2組10人よりなる桁人のいる位置のIDとなっている。 10人の各桁人に対応してまず10種の楽器(音色)とビート(持続)が割当てられ、更に桁人の状態に応じた音域が定められて いるので、各楽器奏者は、自分が割当てられた桁人のいる位置と状態(その位置に到達する際の移動方向)によって自分の演奏する音名・音域を 選んでいくことになる。更に桁人が対角線方向への移動を行う際には、ドレミパイプの奏者が移動元と移動先の地点によって定まる音名のパイプを 奏することになっている。

一方で、桁人自身もQUADの頂点に居る間にマラカスを奏することで、自分の状態を他の奏者に伝達するし、タムタムとアンヴィルの奏者は 詠人に桁人から札が渡されるタイミングやある桁が特定の状態になったことを告知するように、指定された楽器を指定された奏法で演奏する。 アンヴィルの演奏は、楽器奏者の演奏の中断のキューとなっており、結果として、特定の暦年に達したときには桁人のマラカスの音と 詠人のレインスティックの音のみが残るようになっている。このようにして桁人の舞台上での動きによって音響体の音色・音高・リズム(ビート)が 変容していくプロセスが展開されていくことになるのである。

曲の開始と終了を定める状態は、桁人の状態により表現される3進数を10進変換して得られる暦年が2014の状態から開始され、 再び2014年が回帰したときに音楽が終了するように設計されている。その間に蛇居拳算によって変化する桁人の状態を変換して得られる 暦年は、標題である59049年(10桁の3進数で表現できる最大値を10進表記したもの)を最大として、過去・未来を往来することになるが、 その出現順序は蛇居拳算による状態遷移規則によって厳密に定められているのである。従って、今回演奏された初期条件・終了条件を 1つのヴァージョンと見做せば、このヴァージョンにおいては2014年という年がいわば「記念」され、「記憶」されていることになるが、 ここではシュトックハウゼンの場合と異なって、年を経る毎に初期条件・終了条件を変えた異なるヴァージョンを演奏することもまた、 原理的に可能なのだ。もっとも実現される状態遷移過程が音楽的に興味深いものであるかどうかは別問題だし、どれくらいの長さで 周期ができるのかもシミュレーションしてみなければわからない。にも関わらず、原理的に開かれた構造を持っていることは、 コンセプトの徹底という観点から好ましいことであることは確かだろう。

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上記の概略的な説明だけからでも、シュトックハウゼン作品のコンセプトから抽出された、「暦」の「年を数える」という機能が、 アルゴリズミック・コンポジションにおける系の時間的発展によってより徹底した形で音楽化されていることがわかる。 更に三輪さんの作品で特徴的なのは、音楽的な時間発展が、時間発展の実現主体である桁人間のインタラクション、 更に桁人、詠人、傍観者といった3層の奏者間のインタラクションによって、身体性を伴って自律分散的に進行していくことであるが、 特に従来の三輪さんの作品と比較したとき、一連の逆シミュレーション音楽における音楽的時間の構築の試みが、これまでにない重層性と 多様性を持って為されていることが大きな特徴であると思われる。

記譜された楽譜を演奏するのではなくして、いわゆる手順書に従って、自分の演奏のキューとなる他の奏者と呼吸を合わせ、 それ自体が他の奏者へのメッセージとなる音響を実現していくインタラクションを、ほとんど極限的と感じられる程に複合的に 重ね合わせることにより、かくも豊饒な音楽的時間をリアライズした奏者の集中力に、まずは敬意を表したい。 何よりも強く感じられたのが、奏者間のインタラクションによって音楽が生み出されていくことの結果としての、時間の流れの 有機性であり、単に音楽的と形容するだけでは足りない、何か生命体の活動を目の当たりにし、客席も同じ生命を持つ存在として、 それに同期していくような、緊張感に満ちていながらも、比喩でなく、文字通りに血の通った音楽的時間の出現を体験できたのは稀有な経験だった。

一方で、決定論的な規則に従うことを奏者に強制するこの作品に、各奏者の役割が独立していても、あるいはそれゆえに 一見して自主性や自律性を尊重しているかに見える、巧妙に偽装された全体主義の戯画を感じる人がいるかも知れない。 あるいはまた、三輪さん自身のプログラムノートによって示唆されているように、原発事故によって個体としての寿命を遥かに 超えるばかりか、種としての存続すら自明でないようなスケールの時間に対する責任を問われることになった現代の 技術文明のおかれている状況に対する暗示を読み取ることができるのかも知れない。

だが、少なくとも私が感じたのは、例えばゲノムによる個体発生のプロセスが、やはり同じようにプログラムされた手順に従って、 正確なタイミングで系が動作することによって可能になるのであり、そこでのエラーはしばしば個体にとって致命的なものとなると いった事実であり、エントロピーの増大という時間の矢に抗して秩序が形成される「時の逆流」のプロセスとして、生物学的な発生の過程も、 情報論的な音楽作品の発生の過程も、同じように常に危険と隣り合わせなのだというようなことであった。あるいはまた、 原子炉の内部で起きているプロセスの制御についても同じことが言えるのかも知れない。社会の、文明の維持と発展についても 同じことが言えるのかも知れない。自分には制御できない力に曝され、それを受容しつつ、秩序を維持し、豊饒さと多様性を維持することは、 カオスの縁を辿る綱渡りに他ならず、それが生起し、維持される確率を計算すれば、或る種の人間原理を想定したくなる程の偶然に見えてくるような 軌道を、今こうしているうちにも我々は辿っているのだ、ということを思わずにはいられない。藤井さんの詩はギヤック族という、 既に消滅した架空の民族の詩という仮構に基づいて書かれているが、それはまさに一つの民族におきた個別の出来事ではなく、神話的な 普遍性を帯びたプロトタイプの如きものとしての「ひとのきえさり」を物語っているとも受け止められるし、種としての「ひとのきえさり」を 物語っているとも受け止められるだろう。

けれども私が「59049年カウンター」という作品の初演に立ち会った際に感じ取ったことは、作品に托されているであろう 鋭い批判意識や悲劇的な状況に対するプロテスト、やり場のない怒りにも関わらず、何よりもまず、複数の人間の自律的な同期によって 構築される時間の流れの、有機的な温もりのようなものであり、そこで立ち上がり、姿を時々刻々変えながら交響しつつ広がっていく、 様々な長さと音高と音色を持ったパルスの豊饒さであり、それは狭隘な私の知覚・認知のチャネルには到底納まりきらない複雑さを備えており、 私はそこに或る種の生命のようなものを感じずにはいられなかったのである。 一つ一つは単純で機械的に見える動作が、これまた決定的で単純なアルゴリズムに従って展開していくことが、多層に重なって 相互に同調しあうことで、かくも豊かな秩序を形成しうるのだという事実を目の当たりにして、私は単純に圧倒されてしまったのである。 そうした私にとっては、三輪さんのプログラムノートの記載のうち、とりわけても以下の部分が、作品として圧倒的な説得力を持って 実現されていることが最も印象的であった。

今では太陽系惑星の運行をコンピュータによって「算出」できるし、何千年後のその位置関係をシミュレートすることもたやすい事だろうが、 逆に、宇宙空間の物質の方こそがそれらの「情報」を算出している、つまり人間による演算と物理現象との間に本質的な違いなどはないと 考えてみるのはおかしな考えだろうか。人類とはこの宇宙が、素粒子の次元で、生命体レベルで、 そしてその名の通り宇宙的規模で「数えている」ことの意味を理解する奇跡的な存在である。 そのような人類の「直感」をぼくは古い伝統を持つ雅楽にも、また「リヒト」をはじめとするシュトックハウゼンの作品の多くにも感じるのだ。

ここでもまた、桁人が移動し、エネルギーが消費されることにより情報の伝達が行われ、それに随伴するかのように、あたかも(天球の音楽が惑星の運動の それであるのと同様に)副産物であるかのように音楽が紡ぎ出され、詞が朗詠される。 だが系が状態遷移の過程の遍歴を終えて初期の状態に戻り、動作が停止したとき、それまでに生じた 出来事の記憶はどこに行ってしまうのか?それは喪われてしまうのか?それは一方では「音楽が何の役に立つのか」という、 古くて新しい人生相渉論争の音楽版の、今日における問いかけであるが、他方ではゲノムのプログラムに従って生きて、老い、死んで いくことを運命づけられている運搬体としての生物の個体一つ一つの運命に対する問いかけでもあるだろう。更にはそれは生成し消滅していく 無数の民族の文化や文明のそれでもあるだろう。そうした問いかけの根底に、物理的な現実のプロセスも、音楽作品の演奏のような、現実に 場を持ちながら架空の世界を構築するプロセスも、等しく情報処理プロセスと見做すことができるという認識(それは例えば、デイヴィッド・ドイッチュや セス・ロイドといった研究者の認識と共鳴しあうものであると私には感じられる)が存在しているのであり、 そうした認識のもと、アルゴリズミック・コンポジションの持つポテンシャルがこれまでにないほど徹底的に追求されたのが 「59049年カウンター」という作品ではなかろうか。

その他、幾つか演出上の細部で気付いたこと、感じたことを記しておくことにしたい。

1.三輪作品においても「悪魔」が登場するが、シュトックハウゼン作品においてとは異なって、ここでの悪魔はプログラムに従って 動作する系の傍らに桁人移動シミュレータを持って座り、系がシミュレートした通りに作動しているかどうかを観察する役割を 果たしている。彼の役割は例えば能楽における後見のようなもので、桁人と同じチームに属し、桁人の演奏中におきる ハプニング、例えば小道具を落とすような出来事に対して対処する役割を課せられている。系の外にいて、複雑ではあっても 決定論的な系の挙動を知っているという点で、ラプラスの魔のようでもあり、系の動作が異常を起さないように観察していると いう点で、マクスウエルの魔を思わせなくもなく、神話的な原理の一つとしてのイメージから、熱力学的=情報論的世界観における それへと役割の移動が起きているのは、応答のあり方として興味深く感じられた。

2.シュトックハウゼン作品で用いられたカウントアップしていく暦年を表示するプロジェクタは、三輪作品の演奏中、 2011を指して止まったままであった。より正確に言えば、1の桁は1/5程上にずれた状態で止まっており、否応なく2011年の3月11日を 指して止まっていることに気付かざるを得ない。勿論これは、狭義では作品の外部における演出に過ぎないが、事前に公開されている プログラムノートを読めば、シュトックハウゼン作品のような歌手による科白の朗唱も、シアトリカルな物語も含まれないこの作品が、 際立って同時代的な問題意識によって提示されていることがわかるだろう。暦を数えることは、ここでも決して消し去ることの 出来ない過去の出来事を記録し、記憶することである。だがここでの時間意識は過去から始まって現時点に到達して終わるわけではない。 原子力発電所の災害への対策は、まさにこの作品の持つ有効桁数が溢れてしまう程遠い未来に対する配慮を必要としてしまっているのだから。

3.傍観者について。この作品において音楽的に音高と音色の次元を提供し、あるいは暦年の経巡りがあるエポックに達したことを 告知するのは13人の楽器奏者なのだが、彼らは「傍観者」と呼ばれている。「傍観者」もまた、最近の三輪さんの作品の幾つかに 横断的に出現しているコンセプトだが、音響的な実現の主体である筈の奏者を「傍観者」と呼ぶことに関して、私は震災直後に 同じサントリーホールで初演された「永遠の光、、、」において、ラジカセで再生された音響にあわせて演奏をする指揮者と 打楽器奏者を楽器をもったまま、舞台の上でまさに傍観することを強いられたオーケストラの奏者のことを思い浮かべすにいられない。 私が上で、音楽を桁人の運動の随伴事象、副作用といった書き方をしたのは、音楽を実現する奏者が「傍観者」と規定されていることを 意識してのことだが、シュトックハウゼン作品における音楽と舞踊や演劇的なパートとの関係と対比したとき、作品の構造における こうした布置関係とそれに対応した奏者の規定は、それ自体三輪作品の「応答」をなしているに違いないことに留意すべきだろう。 そしてこの規定の背後には、音楽が現実に対して果たしうる機能や役割の限界についての作曲者の率直な認識(それはたとえば、 「レクイエムなんか書けない」ということばに端的に表れているだろう)と、無力であることによって逆説的に現実に 寄与することができること、規則に従って虚構の世界を構築することがそのまま、自己再帰的な現実の豊かさの実現でありうる という信念の両方を物語るものであるように私には感じられる。この観点の射程は広大なものに違いないが、それを探求するためには 機会を改める必要があるだろう。

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上記のようなことから「59049年カウンター」は、プロデューサーである木戸さんの期待に違わず、 「トランスフォーメイション」としても成功していたし、まさにシュトックハウゼンの「暦年」のコンセプトに対する「21世紀からの応答」に 相応しい作品であり、なおかつ三輪さんのこれまでの試みの集大成であるだけではなく、その可能性の豊かさを示した点で画期的であり、 三輪さんの作品中の頂点を為す作品であると感じられた。そしてこの作品の持つポテンシャルが、この日の初演の演奏によって充分に 解き放たれていたのは間違いなく、演奏者の方々をはじめとして、何よりも作曲者の三輪さん、まさにこの作品の産み親である木戸さん、 超絶的な技巧を秘めた素晴らしいテキストを編み出された藤井さん、そしてこの作品の制作と演奏の実演に関わった全ての方々に対して 御礼を申し上げて感想の結びとしたい。(2014.8.31初稿, 9.1,2加筆修正)

2014年6月8日日曜日

「新しい時代」への応答のための準備作業(4):(不)可能なアルゴリズミック・コンポジションの周辺を逍遥する

人間は、今我々の生きている文明の中で形成され、維持されてきた意識の様態の下では、 言葉なしで生きることはありえない。過去の記憶と未来への予期という時間の中で 自伝的な「自己」を形成し、維持していくことは、そもそも言葉なしには可能ではない。 そしてそのような自己の様態は例えば法的な権利・責任といった倫理的な価値が 成立するための根拠になっている。

言葉を紡ぎ、文字を書いて定着させることは、一見すると記憶にとって二次的なものに見えるけれども、 実際には時間の構造の具体的な在り方、その複雑さの度合いを決めるにあたっては 決定的なものであるはずだ。

と同時に、そうした外部記録手段は、個体の経験した事柄をその個体の個別的な経験に留めるに留まらず、 その個体以外の個体への伝播を、しかも世代を超えた伝播を可能にした。生物学的な次元での遺伝においては、 個体の経験は次の世代に継承されることはないのに対して、文化的な次元での継承は、ある個体が達成したものを 個体の死を超えて存続させ、発展させることが可能だが、それは言語を獲得し、ダマシオの言う自伝的自己を形成し、 維持することに基づいている。

だが言語がもたらしたものは、そうした微視的な個体の生きる時間の構造と、複数の個体間で編まれて行く 歴史的な時間の構造の次元だけではない。過去の記憶、未来の予期が可能になることは、今現実に生起して いないことを仮想することでもある。言語を持つことは命題をホワイトヘッド的な意味合いで、肯定的にのみならず、 否定的にも感受することであり、ありえたかも知れない可能世界の重なりを、まだ起きていないこと、起こりそうに ないこと、起きなかったことも含めて認識するという、想像力、構想力の働きと本質的な関係を持つ。 想像力、構想力と呼ばれる心の働きは、価値論的(倫理的・美的)な極限を想像することを可能にし、 驚異の感情や崇高の感情を抱くことを可能にし、更には、人間の生物学的な環境世界とは異なった 抽象的な世界を形成することを可能にする。その時人間は、 一つの世界を生きているのではない。一つの世界の分岐する可能な径路からなる世界を生きているだけでもなく、 それとは異なる想像上の領域を産み出し、その中でも生きている。

その一方で、そうした事実、一見したところ所与に見えるものは、実際には、生物学的な進化の基盤の上で生じた偶然に過ぎず、 更には、そうした基盤の上で成立した社会的・文化的な領域の動的な発展の産物に過ぎない。人間の意識がこのようなもので あるのは、地質学的、生物学的な視点からすればほんの一瞬の期間に過ぎないし、今後も系固有の力学によって、地質学的、 生物学的スケールと比べれば比較にならないほどの速度で変化していくだろう。その速度は今のところは人間の個体の 生物学的寿命を追い越すには到っていないが、ほんの1世紀後のことを予測するのが困難な程の速度で変化していて、 我々の世代は人間が、意識の持ちかたも含めて、今現在のようなあり方をしている時代から、異なったあり方へと 移行する、カーツワイルの言う技術的特異点の手前で個体の寿命を終える、ほぼ最後の世代になるという可能性すらある。

特異点の向こう側から今の我々の意識のあり方を眺めたらどのように見えるのかを想像することは困難だし、 我々にとって乗り越え難い障壁であるように思われる個体としての限界がなくなったとき、 価値基準がどのように変化するかを想像することは難しい。その時、我々の今生きている文化的・社会的な 存在様態の記録は、理解不能な考古学的遺物になってしまうかも知れない。ただし、そうした特異点の 向こう側の領域というのは、それ自体、多重に存在する世界の一部の領域に過ぎず、地質学的・ 生物学的基盤に拘束されたまま生きる生物も存続し続けるだろうし、 現在のような生き方を続ける人間も存続するのかも知れない。

そもそも現在のような生き方といっても、異なる社会においては異なった意識の様態をもった人間がいる可能性だってあるし、 同じ社会においても、意識の様態は個体によって大きく異なるだろう。 もしかしたら意思疎通が困難であったり、価値観の共有が困難であるくらい様態が異なるということもありうる。 通常価値観の相違と言うとき、共通の生物学的・社会的文化的基盤の土俵の中でのことだという暗黙の前提があるものだけれども、 それすら自明ではないのだ。

*   *   *

いずれにせよ明らかなのは、私という個体の意識は、多重に広がる世界のうちのほんの一部の世界にしか棲んでいないということだ。 その世界の中には、他の個体の意識と共有している領域もあれば、極私的な領域もあるかも知れない。 ある個体の展望自体は原理的には私的で交換不可能なものだが、他の個体に伝達し、交換できる ような媒体に自分の経験を移し込むことは可能だし、そもそも現実に私が棲んでいる多重世界の一部は、 そのような媒体によって私の中に引き込まれた他者の展望であって、私というのは、そうした 複数の他者の声が反響する場の如きものなのかも知れないのだ。

事実として、私が生きる世界は、私が感覚器官を用いて知覚し、認識する環境世界だけではない。 その中には数学的オブジェクトが存在する世界もあれば、意識そのものの構造についてのモデルが 存在する世界もあれば、自分の経験したことのない、ある日に他者が認識し、経験したことを、その時のその他者の心の動きの 記録もひっくるめて封じ込めた「作品」の世界もある。寧ろ、そうした「仮構」された世界の占める割合の方が多いかも 知れない。

それもまた、ある社会・文化の中の成員の中でも個体差が極端に大きいものなのだろうが、その多寡の価値はおいて、 事実として、抽象的であったりヴァーチャルであったりする世界の中にいる時間が長いような生き方をしている人間もいるし、 そうでない人間もいるのだ。

そのことが価値的に優越するかどうかはおいて、でも、私は自分が経験したものの中で、自分の生きる世界の価値の システムを構築してきたし、それを否定することはできないと感じている。その理由は明確で、自分の生きる世界の 価値のシステムは、私が一人で勝手にでっち上げたものではなく、私の中に棲むようになった他者達の ネットワークから自ずと生起してきたものであって、私の恣意でどうにでもできるものではない、 寧ろそれは私が自分をそれに従属させるべき規範の如きものだからだ。

自己再帰的な仕方で、その価値は、私がそれが存続・発展することを是とするような個体の意識の様態の存続・ 発展にとってプラスになるようなものだし、社会的・文化的な価値の領域でも、生物学的な進化の領域と同様、 生存競争はあって、存続するためには複製し、その価値を明らかにし、あるいは変形して新たなものを 創造することでより優れた価値を示すことが必要なのだ。 散歩しつつ、自分の頭の中で行う孤独で私的な作業もまた、完全に孤独で私的なものではありえない。 生物としての私が遺伝的に決定されているのと同じように、意識として私もまた、 文化的、社会的に幾つものレベルで決定されていて、私はそうした制限の中でやれることをやるしかないのだ。

勿論、全く私的なものではないとしても、その価値の空間に棲む個体の数は多くはないだろう。 でもそれは極控え目に、価値中立に言って、生態系的なニッチではあるはずだ。 広く伝播するものが長く存続するわけではない。否、ごく単純に、私は自分が見てしまったもの、 出会ってしまった、自分に優るもの、個体としての私を超越するもの との出会いを、自分の個体としての限界に屈して、墓の中に持っていき、 自分の脳が停止した途端に、その記憶が破壊され、痕跡無く消えてしまう ことに耐えられないだけなのだ。このように或る個体の意識に 思い込ませること自体が、或る種の詭計、神の見えざる手の為せる業 なのかも知れないけれど、それならそれで構わない。

*   *   *

個人的な印象や感覚を作品として記録することの意義については 懐疑的にならざるを得ない一方で、我々のような個体としての 意識であることを余儀なくされている存在にとって、ある個体の個別的な 経験、一回性の出来事を記録することは、とても切実なことであって、 詩作や音楽の作曲がそのために在ってもいいのではないかと私には感じられる。 勿論、私自身という個別の出来事の複合体に関して言えば、そうした 個体性を記憶されるべきは決して私という個体ではなく、私が出逢った他者、 それ自身はそうしたことに無意識か、拘りがない、でも私にとっては かけがえのない他者だと感じている。

単にその個体が存在したという事実性自体に価値を置くというやり方を とる哲学者が時折いるが(例えばジャンケレヴィッチ)、 そうした一般化自体が救い出したいと思っている個別性そのものを 蝕んでいることに対して鈍感であるとしたら、そうした言説を為す 哲学者の度し難い御目出度さを私は拒絶するし、それが哲学なら、 哲学を拒絶してしまって構わない。一見すると記録に値する 価値がないような平凡さの中に、何か存続すべき価値を見出せばこそ、 一回性の出来事を記録することが切実なのに違いない。そして ここでの個別性の記憶とは、レヴィ=ストロースが「神話」の機能と して指摘したもの、「野生の思考」の或る種の動因に他ならないだろう。

一方で、言葉のカオティックな生成に身を任せてしまい、自己をその中で 解体するに任せてしまうことに対して警戒感を持つことも、 そうしたある個体の個別的な経験、一回性の出来事を記録することに 対する拘りとどこかで繋がっているのは確実だろう。そうした姿勢は、 つまるところ個体としての伝記的な自己を持った意識というあり方の 檻から出られてない、出ようとしないということなのだろう。

自分を超える、個体に優る何かに触れるのであるか、そうした他者を 記憶する墓碑銘の如きものであるか、そのいずれかであるとしたとき、 単なる自己の中での放恣な言葉の氾濫にも、自分の経験を記録すること自体を 自己目的化することにも疑問を感じずにはいられないのだ。 この両者に共通するのは、強いて言えば書くことそのものの(無意識な) 自己目的化なのかも知れない。娯楽の提供のために、あるいは何か 相対的なイデオロギーのために書くことと、書くことの反省無き 自己目的化の間に、実用主義的でもなければ、芸術至上主義的でもない あり方があって、それに共感し、コミットしたいと感じている、 自分の心の中に広がるヴァーチャルな空間の中に棲む他者は、そうした 人々で、私はそうした人々に応答しなくてはならないと感じているのである。

*   *   *

言葉を持つことで自然との無媒介な合一が阻まれると考える発想、言葉が思考を 裏切るという考え方が根強く存在する一方で、言葉の外部に意識が意識で 在り続けたまま出ることはできないという関係の認識からは、2つの異なった ヒュブリスが導かれるだろう。即ち言葉の行使によるヒュブリスと、 言葉の行使を止められると思いなすヒュブリスと。だが、それは言葉だけではない。 恐らく音楽もまたそうなのだ。音楽がより自然に近いというのは、それもまた 錯視の一つではないか。だがそもそも「自然」自体が或る種の錯覚、蜃気楼の 如きものなのではないか。同様に、媒体なしの思考、素材に拘束され、 歪められない純粋な思考というのもまた、同様に錯覚ではなかろうか?

そして他方で、言葉があったから可能になったことは評価しないのか? 言語以前の自然との無媒介な合一は、歴史的に見て、ジェインズの 言うbicameral mindに更に先行する時期への逆行を意味するのか? 勿論、実際には意識の構造の変化が可逆である保証はなく、 それは偶然も含めた歴史的な径路の辿って現在に到っている。 今日、可逆な径路を辿ることができてとして、それは或る種の 狂気の状態と見做され、それは通常我々の社会がその成員に 要請する、法的な意味合いも含めた「人格」を備えているとは 見做されえないであろう。

個体発生は系統発生を繰り返す、というのは心的な構造についても 言いうるのかも知れない。ラカン的な鏡像段階と、ジェインズの bicameral mindを経て今日の意識構造に到達するまでの歴史の 素描との間に並行性を見出すことはできないのだろうか?

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それにしても西欧の思考のある様態において、言語の媒介を否定的に捉えるのは なぜなのか? 乏しき時代、神が隠れた時代、それはbicameral mindにおいては 可能であった神の告げに従った意識なき行動が不可能になって しまったということなのだろうが、それが何故否定的に捉えられるのか?

西欧の思考のある様態においては、ルソー的な自然状態への回帰 への憧憬がある。啓蒙時代には言語の起源についての議論ともに 理想言語の探求が実証を欠いた思弁的な仕方で為されたが、理想言語には 2つの方向性があった。ルソー的な感情表現に結びついた言語の想定に 対する代替案としての、コンディヤックの理性の道具としての 合理主義的言語観の2つであり、両者の統合としての ヘルダーの言語観を位置づけることができるだろう。 アドルノ的な自然支配の道具としての立場は寧ろコンディヤック的な見方であり、 ルソーの立場からは、原初的な理想言語から、合理的な言語へといわば 頽落したということになる。そのかわり、理想言語に逆戻りできれば、 といった、言語自体を否定するのではなくして言語の理想状態を回復 することを通じての調和の回復というのを考えることができるのかも 知れないが。

価値論的な逆転をしてみたらどうなるのか? スティグレールから遥か彼方を見やって、カーツワイルような ポスト・ヒューマン論者、あるいはドイチュの「無限の始まり」に提示 されているような方向性においては、寧ろ進歩を、啓蒙を続けなくてはいけない。 啓蒙を続け、進歩を続けるために、ポパー的な検証可能性を 備えた枠組みが必要になり、想像力・構想力の行使が必要になり、 創造が必要になる。

更には、構想力が自由に働いている無秩序状態から、統一が生じることそのものを 否定的に考える必要がなぜあるのか? 逆に構想力が自由に働いている無秩序状態が継続し、そこから統一が 生じなければ、構想力の行使にはどういう価値があるのか? 無秩序状態自体に価値があるわけではないのではないか? それは狂気、言語の構造の破壊に繋がることはないのか? ドイツロマン派的なメタ主体の無限後退による主体の浮遊化は、実体が伴うか? どのような実践が可能か?その実践は単なる言葉遊び以上のものたりうるか? 結局、構想力の働く余地を残しつつ、だが、カントにおける総合的判断の機能を 阻害してもならないのではないのか?

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ありえたかも知れないものとして把握される統一。 観念的想起を通した模倣。実は模倣される対象はかつて 一度も存在したことがなく、経験されたこともなく、ありえたかも知れないものとして把握され、 その限りで美しいとされる、、、

創造は、それ自体は主体の死としての自己超越のプロセス、それによる客体的不滅性の獲得である。 仮構されたものとしての存在との統一の恢復は、そのまま個体の死だ。 言語を捨てない限り一致はないかに見える。言語を透明にすることはできない。 それは私を廃棄することはできないのと同じだ。 一致は私を廃棄することなしにはできない。統一が成就した時、個体的なものは消滅する。

そしてそこは「美」が生まれる場でもあるだろう。「滅びの中の生成」のヘルダーリンによれば、 過ぎ去ろうとしているものが想起の中で美的なものを伴って再現前化されるという。そしてこれは、美的に把握された 「時の逆流」の経験そのものである。可能なものの現実への生成には、主体の過去の脈絡としての世界の没落、 没落するものの感受と想起が伴う。(この点はヘルダーリンは、(時間論的に解釈された) 「滅びの中の生成」で、極めて正確に捉えている。)

そこに感じられる「息吹」の問題。それはかつて実在したことがないとしたら、何に由来するのか?それは単なる幻想なのか? かつて一度も起きた事のないかも知れない、統一の仮構された恢復への誘いとしての不一致の感覚は、 意識の受動性、不随意性の感覚やら、意識にとっては彼方から到来するように思われる、無意識的な活動の 意識への介入によるものだろう。意識とは物語化の装置であり、恢復された一致の展望のための原点として、 己を風景の中に仮構するに過ぎないのだし、ジェインズ的な意識の考古学のレベルでは、一致に向けての 模倣は過去のbicameral mindにおける右半球からの神の声の模倣であるということになる。神不在の 今日の詩人は、不完全な模倣を、ヘルダーリン風に言えば「計算」によって行う他、術がないのだ。

結局それは、しばしばそう思いなされるような、言葉の手前ないし彼方にある、非言語的経験を 掴もうとする試みなどではないが、自分という檻の外に出たいという自由への欲求に帰着するのではないか? 必ずしもbicameral mindへの退行が唯一の経路ではないし、統合失調症のような病理やら、催眠術等の(深層も含めた) 心理の操作、あるいは脳内で分泌される化学物質を人為的投与することで鬱病を治療したり、麻薬により意識の変性 状態を作り出したりすることばかりが可能性な訳でもない。 問題は一致そのものではなく、意識の構造の崩壊・破壊としての狂気、言語の組織としては、 構造を喪失して散乱するカオティックな状態に対して、カオスの縁に身を置くこと、そうした危険に身を曝すことなく 創造はできない、新しい秩序の生成はない、ということ、つまりはシステムは常に動的でなくては準安定状態を保てない ということなのではないのか?結局はベクトルの問題で、無秩序への志向ではないのだ。 秩序への志向だが、それは静的な構造の維持ではありえず、常に動的な不安定な状態で、定常性を維持しつつ、 より高度な秩序を生成することへの志向であるはずだ。

その時、ホワイトヘッドのプロセス哲学における「時の逆流」を、「滅びの中の生成」と結びつけることができるだろう。 それらをネゲントロピー、秩序生成という時間の矢のレベルでの時の逆流という文脈で捉えることも可能だろうし、 更にそうした「時の逆流」を情報論的なレベルで捉えたとき、詩作や作曲といった活動をも、自己再帰的な構造の ある階層における「時の逆流」として考えることができ、「美」というものを、そこでの秩序の性質、その安定性、 出来のよさと関連付けることができることになるだろう。

新しさは主体にとってのそれであると同時に、世界にとってのそれでもあることに注意しよう。 そして結局、どのような秩序を築くかにかかっているのであって、始原の状態、未分化な状態を賞揚することになど意味はないし、 静的で死んだ秩序でも、何もそこからは生じない動的な混沌でもない、自己組織化可能な経路の選択こそが問題なのだ。

だとしたら、啓蒙を否定する必要が本当にあるのだろうか? 否定しなければならないのは、意識が構築するものがドグマとなって、心の創造的な働きを抑圧してしまうこと であって、意識ある存在が、啓蒙の延長線上にて、何かを構築し、宇宙をより豊かなものにするのに与りたいという 欲求とは別なのか?あるいは自己そのものを止揚し、人間の存在様態自体を変革したいとさえ考えることはどうなのか? (私はここでドイチュやカーツワイルのような論者の主張を思い浮かべている。)

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その上で詩作とは、音楽とは何か?bicameral mindの時代の神の告げに対するノスタルジー以上の意義はないのか? 恐らくは、美が果たす役割を考えることが、それに対する答を見つける鍵になるのはないか?美は芸術以外の領域においても 意味を持っている。数学者や物理学者、ソフトウェア開発者は自分が構築する抽象的な世界に対して、美的な評価を行うものだ。

詩を通じて、音楽を通じて認識できること、感受できることは一体何だろう。創造と新規性という芸術と化学の共通の基盤の 存在は明白で、科学的な理論の構築は、寧ろ詩作や音楽の作曲に近いとさえ言いうるだろう。 無意識のエクササイズとしての芸術というベイトソンの定義を思い浮かべるべきだろうか? 新しいタイプの美のデザインをする実験領域として、詩作や音楽は、歴史的な経緯からしても、人間の心に対して 直接働きかけることができるし、音楽は直接に右脳に働きかけることによって、詩作は右脳と左脳の両方に同時に働きかけることに よって、脳の創造的な働き方のエクササイズになり、創造的な活動を飛躍的に増大させるためのスプリング・ボードの如きものに なるうるのかも知れない。

一方で、一回性のものの記憶、個体的なものの擁護との関係はどうなるだろうか? かつて詩が、右脳に座する神々の命令であり、bicameral mindの人間はそれに無条件に従って行動したのであるとして、 だが今、伝記的自己意識を備えた人間、自らの有限性を意識するようになった人間にとって、そうした有限性についての詩作や音楽は、 個体の生物学的基盤の上に随伴する存在でしかないが故に、有限の期間しか存続しえない限界を持った意識の自己憐憫なのか? だが意識というのは、結局のところ何らかの基盤の上で、動き続けることで存続するに過ぎない。仮に生物学的基盤から 自由になる日が来ても、「自己」が存続する限りは個体的なものの擁護は意味を持ち続けるのか?

勿論、特異点の手前で生を終えることがほぼ確実な運命である生物としてのヒトの脳内で機能している私の意識にとっての 意味は、自分より過去の意識にとってそうであったのと同じ切実さを持っている以上、己の領分においては改めて問うべき 事柄ではなく、自分にとって切実であるということを事実として受容すれば事足りるのかも知れないし、それをどうにかすることは 或る種のヒュブリス、冒頭、暗にヘルダーリンの詩作の立場を想定して出発点においたときに確認したヒュブリスに過ぎないのだろうが。

少なくとも言えることは、永遠という言葉を無限への漸近という意味合いで捉えることを前提として、詩作とか音楽の創作は、 それ自体が、自分に課せられた有限性を、まさに自己を滅することによって超越し、永遠を希求するものであるということだ。 一回性のものを記憶し、個体的なものを記念するのは、己自身のためでは決してなく、あくまでも詩作や音楽は、 声無き者の代弁であり、他者のために、他者に向けて差し向けられる行為なのだ。それは神無き時代にあって、沈黙する神を 甦らせる詐術であってはならない。最早欺瞞にしか役立たない神話の復権であってはならない。神の不在を証言すること、 自分が出逢った個別的な経験を証言すること、それを他者に向けて記録し、証言することが為すに値することである ということは確かなことであろう。

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詩作を問題にすれば言葉が問題になるが、音楽自体を問題にしたら、展望はいささか変わってこないだろうか? bicameral mindの枠組みでいけば、右脳に直接働きかける音楽は、神々の領域に、今なお直接働きかけることができるわけだから。 前に書いた文章で、暗黙の裡に「言葉」を前提にしている「声」に対して「歌の優位」という言い方をしたりしたが。 でも、これだけなら単なる一般論で、「音楽」の中にも「動かしがたさ」の基準というのが あるという、単なる受け手である私にもはっきりと感じ取れることの説明には届かない。音楽については、更に別に 検討の必要があるだろう。

手がかりとして、アルゴリズミック・コンポジションにおける「パラメータのマッピング」を、 例えばヘルダーリンの言う詩人の「計算」とつき合わせてみよう。bicameral mindの崩壊後、詩人は厳密な計算によって詩作すべき なのだとヘルダーリンは主張する。そして、そもそも神不在の乏しい時代の詩作というのは、(bicameral mindの時代の詩作の) 逆シミュレーションだということを言っているようにも思える。方法主義者ヘルダーリン、逆シミュレーションとしての詩作。 一般のヘルダーリンのイメージとは全く異なるけれど、こちらの方が本当のように思える。ヘルダーリンが21世紀に 生きていたら、詩作をコンピュータ・シミュレーションベースで試みたというのは、ありえない話ではないように思う。 方法、計算はそれ自体「一致」を保証するものではないけれど、自己意識を持った存在が「一致」に近づくために必要な基盤を 用意するものであるということは確かなように思える。

音楽が右脳に直接働きかけるというとき、それはまずもってメロディの水準である。 「歌」は内容としての歌詞なしでも成立するし、歌詞のない「歌」のレベルで伝わるものがあり、しかもその水準こそが 感情・情動に直接作用する。「歌」の水準はメッセージの「形式」の水準であり、「腑に落ちる」かどうか、つまり美的価値は、 寧ろその水準のみで論じられる。そしてこれは一方でミズンの「歌うネアンデルタール」、 他方でレヴィ=ストロースの「野生の思考」の水準であり、かつ、ジェインズのbicameral mindの崩壊前の水準でもある。 そしてそれが故に言語的に「説明」するのは困難を伴う。説明は「物語」の「内容」の水準だからだ。

いわゆる「物語」における意味、主題や内容の側は言語の意味の水準であり、それは左脳の領分である。 またそれは言語を基盤として成立している自伝的な自己意識の水準でもある。 自己意識がある以上、それは物語を要求する。物語化して自伝的自我を形成するのが意識の役割だからだ。

ところでしばしば物語の内容が楽園追放のような分離状態の神話となるのはなぜなのか? また音楽が分離状態からの(ヴァーチャルな)回復を目論む儀礼に用いられるのはなぜなのか?

それは一方では意識の自己の状態の自己言及的な記述であり、意識の宿命的な欲求(形而上学的な欲求と言って良い) だからで、なおかつ意識自身にはそれを解決することが原理的にできないからであり、 他方において音楽には、「歌」の水準において、右脳に働きかけることで、分離状態からの回復を可能に する力能が備わっているからではないか? レヴィ=ストロースが「野生の思考」の重要性を主張し、三輪さんが「神に見放されない」ために必要と 感じられるのは、上記のような理由からではないか。

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レヴィ=ストロースが「野生の思考」で「ゲーム」について言及しているところがある。そこでは 「ゲームは構造から出来事を作り出す。」(邦訳p.41)と言っている。これは「神話」が「出来事」を 組み合わせることによって構造を浮かび上がらせるのと対照させているわけだ。 一方でレヴィ=ストロースは「ゲームは離接的であり、儀礼と神話は連接的である」とも言う。 ゲームはゲームの遂行によって参加者を(ヴァーチャルに)勝者と敗者に分割するのに対し、儀礼は最初に分割を 設定しておいて、儀礼の遂行によって分割を(ヴァーチャルにせよ)解消することを目指す、と。

「洪水」誌の三輪眞弘特集号の後書きで、編集者である詩人の池田さんが、三輪さんへのインタビューで「ゲーム」に 興味がないかという質問を池田さんがしたところ、三輪さんは少し考えて明確に否定したということがあったのを 記録されている。この部分を読んだとき、私には、この池田さんの質問が、インタビュー本文の内容からすると ちょっと浮いた、唐突なもののように感じられ(勿論、そうだからこそ、本文には収録しないという判断になった可能性はある)、 池田さんは一体何を思ってあんな質問をしたのだろうと思った反面、確かにそういう質問をしたくなるかもな、 とも思ったのを鮮明に記憶している。 「逆シミュレーション音楽」の中には、一見すると「ゲーム」に見える側面があって、そこだけを取り出すと ゴールデン・ニカの講評が述べていたような危険を感じてしまうのだろう。私自身も「覚書」以来、 何回かそれに近いことを書いてきた。

レヴィ=ストロースは「遠近の回想」で、西欧ではある時期以降、音楽が神話の代わりになったという ことを言っている。神話が音楽と小説に分担されるようになったということも言っている。 素材を組み合わせることによって構造を浮かび上がらせる側面は、いわゆる「絶対音楽」によって受け継がれたのだと。

コンピュータ・シミュレーションで作曲するということは究極的に「パラメータのマッピング」を することに帰着するが、それはいかようにも恣意的にできる一方で、あるいはそれゆえに、その恣意性を 根拠付けるために「物語」が召喚されるという構造があるという消息を上記の展望の中で位置づけようと するならば、凡そ以下のように素描できるだろう。

「アルゴリズミック・コンポジション」は西欧的な絶対音楽の思考のいわば極限で、物語性を排除して 構造を浮かび上がらせることがいわば抽象されたものであり、「動かしがたさ」は、それによって 浮かび上がる構造の豊かさ・美しさと相関する。一方で、物語が排除された状態で、その操作の結果を 実行することは「ゲーム」にもなりえる。それを「儀礼」たらしめるためには「物語」が 必要なのだと思われる。しかもそれは西欧の歴史の神話⇒音楽+小説のプロセスの逆転だから、 物語は、選択されたパラメータによって産出される構造と適合したものである必要がある。 そのとき物語の方は、記憶すべき個別的で偶然の出来事に関わるものになるのではないか。

そしてそこも含めて、全体として「動かしがたさ」が獲られたとき、ようやく「儀礼」が回復できるのではなかろうか。かくして、 音楽の構造が示す一般的で普遍的な秩序の豊かさ・美しさに、人間的な次元がいわば再帰的な仕方で畳み込まれるのではないか。

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更に言語との対比で音楽を捉えた場合に、音楽のアナログ性が持つ意味にも触れておこう。 音のトーンと言語を対比させたとき、アナログ/デジタルの区分では音楽は前者、言語は後者ということになる。 言語がパターン分類と分類されたパターンのルールに従った生成のメカニズムであり、世界を分節し、抽象化することで 一般的なもの普遍的なものへの通路を開くのに対して、音楽の持つアナログな部分は個別性に留まり、デジタル的なものを 通して可能である普遍的なものへの到達は、音楽にとっては無縁であるかのように見える。音のトーンの都度異なる 反復不可能な微妙なニュアンスは普遍的なものとどのようにかかわりうるのか、それは登ったら捨てられる梯子の 如きものに過ぎないのか?

直接の答えになっていないかも知れないが、端的に言えば、音楽が我々と関わる仕方が身体的であることが鍵に なっているのではないだろうか。そしてそれゆえに音楽が、まさに三輪さんの言う、 「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための 儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」 であるためには、常に個別的・具体的なものでなくてはならないことに関連しているのだと思われる。

音楽が右脳に直接働きかけることができるということは、自伝的自己を作り上げる自己意識に対してのみならず、 ダマシオの言うところの「ソマティック」な原自己、中核自己の水準に直接働きかけることができるということ、 言い換えれば感情や情動の領域に直接働きかけるということである。 人間の脳には単一の「音楽センター」が存在せず、音楽を聴くには脳全体に散在するたくさんのネットワークが 関与しているだけでなく、まさに全身で聴く、内臓や筋肉の緊張、呼吸、脈拍といったあらゆるものが音楽に反応する。 そして情動を惹き起こす。それは意識には制御できない不随意的な反応なのである。つまり音楽は意識の有無に 関係のない自律システムであって、それゆえ夢の中でも音楽は抑圧による変形・加工を受けにくい。 それは言語的な意味から遠いからなのだ。

音楽の美というのは、言語的な意味・内容とは異なって、分節されておらず、都度異なる反復不可能な微妙な ニュアンスによって惹き起こされる身体的な反応、常に個別的で無目的、無関心だけれども、 でも合目的で普遍性を備えたクオリアがもたらす感情に関わるのである。莫大な組合せ論的可能性の中から、 あるパラメータを選択したとき、そのときにのみ「腑に落ちる」、そうした選択を行うのが作曲の営みである として(実はそれは、アルゴリズミック・コンポジションに限らず、いわばより一般的な作曲行為の 或る種の極限、エッセンスであるという見方ができるのだが)、「腑に落ちる」という言い方は、 音楽の美が本質的にソマティックであるという消息を正確に伝えている。

「判断力批判」のカントは、単なる「感覚の遊び」にすぎないとされる音楽について、 「すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占める」と 評価する。(逆が言語芸術である詩作である。裏返せば、音楽は外からいかようにも言語的意味を押し付けうるもので、 物語の恣意性の危険は非常に大きいということも物語っている。) しかしこのカントの評価は、基準を逆転させることもできる。それは言語を獲得し、象徴を操作できるようになった 人間のみならず、ネアンデルタール人、もしかしたら他の種とすら基盤を共有している可能性がある。 だとすると、ここにはデジタル化とは別の普遍性の次元が開けているといえるのではないか?

ところで、自伝的自己に対応する延長意識が行うのは、本当は離散的なものを補完して滑らかにして認識するという 働きで、人間の世界がアナログに思えるのは、「意識」がそのように世界を見ているからだ。 けれども良く知られているように、人間の知覚は本来デジタルなものである。 ドイチュが「無限の始まり」で持ち出す例は印象的で、ずばり言語/声のトーンの対比を持ち出すのだが、 知覚器官自体は実はデジタルに機能していて、意識が受け取るときに連続的に補間が行われている。

時間意識もそうで、実は現在は巾を持っているのに、数直線で表象されるときには巾を持たない点である瞬間が 仮構される。ホワイトヘッドの延長的抽象化の理論によれば、離散的な時間の原子の継起から連続的時間が 抽象される。また、リベットの有名な実験によれば、現在の巾は0.5秒程度で、実際にはそれ以上の分割が行える というのは錯覚に過ぎない。つまり意識は常に既に時間的・空間的に連続補間されたものを見させられている わけで、それゆえ逆に、意識の裏をかく集団的なものへの同調、恣意的な言語的意味との重ね合わせによる馴化と いった音楽の持つ催眠性(意識が眠っている間も音楽は働きうる)を利用される危険もあるわけである。

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美的経験は常に個別的だが、その形式は普遍化しうる。音楽の実現の現象面のみを見ずに、音楽のシステム的な側面に注目すれば、 音楽もまたデジタル的な側面を備えていることがわかる。アナログなものをパターン化し、離散的な構造を与えていく こともできる。例えばスケールというのは、音程を量子化し、離散化するシステムである。 西欧音楽のように、生成されるピッチの正確さ、和声としての複数の音程の振動数の比例関係に拘るものもあるが、 実現される音程の正確さよりも、別の次元に重きが置かれるシステムもあるだろう。 相変わらずそれらは言語的な意味とか内容からは遠いものだが、形式的な構造としては言語の操作と同型の ものを声のトーン、旋律、和声進行などを使って行うことができる。依然としてそれは情動を惹き起こすが、 言ってみれば、人間の無意識のプロセスを構造化するのである。 であるとすれば、芸術が無意識のエクササイズであるというベイトソンの定義は、こういう意味での音楽、言語のように構造化された 音楽にこそ最も良く当て嵌まりまるのかも知れない。音楽的な美は、いわば意識の背後から、人間の在り方を調律し、リズムを整えるのだ。

そうしたパターンが「作品」として定着されたとき、それは反復可能となり、「デジタル化」されると考えることができるだろう。 コミュニケーションを考えれば、「作品」とは上演の個別性に対する量子化であり、逆にメッセージ伝達における誤差を一定の 範囲に抑える働きをすることになるからだ。アナログなものは個別の身体に生じる私的な出来事であり、それはデジタル化すること なしには保存・複製・転送できないのである。

ここではアナログなものの持つ、反復不可能で再現不能な一回性は、普遍性に近づくためにデジタル化されることに よって、断念されているという見方もできるだろう。個別的なものは自己を滅ぼすことによって普遍性を獲得する という構造がここにも見られる。一方で、何らかのパターンなしに美というものがありえない のだとしたら、アナログなものの持つ、反復不可能で再現不能な一回性自体は如何なる意味合いでも美的なものではないだろう。 美的なものは、それがパターンとして記憶され、反復されることによって、初めて美的な価値を獲得する というように考えるべきなのかも知れない。

同じように一回性の儀礼というのはありえない。儀礼は、最初の一回を、唯一の出来事を反復して 想起することで「記念」する。しかもその反復は、都度、個別的で、かつ異なった一回性の新しい出来事でもあり、 都度新たにソマティックな仕方で儀礼の参加者に働きかけることによって、普遍的な価値に漸近していくのではなかろうか。

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ある時期に私は、自分が普段眺めていて当然と思っている内面的・抽象的展望は、ほとんどの人間にとっては見えないし、 存在すらしていないこと、しかもそれは書くことで自分の外側に記録しなければ、何も無かったのと一緒であることに気付いた。 自分が無くなるのはともかく、自分が遭遇した価値あるものが無くなることが 絶え難いと思ったとき、それを価値として永続化させるためには、それを記録するしかない。 しかも書くこと自体が、それを自分の主観的な印象に留めず、他者に伝達可能な価値として定着 させることに他ならないことに思い当たったのである。

デリダの言うように、唯一の出来事を、唯一性を断念して反復して想起することで「記念」できるという構造がある。 個別の文脈から切り離し、記録し、複製し、壜につめて流すこと、それは「物語る」ことそのものだ。 そして物語ることは、この意味合いでは、レヴィ=ストロースが言うところの「野生の思考」に近い営みだ。 それは唯一の、偶然の出来事を記憶に留めることであると同時に、それを必然的・不変の構造に統合することでもある。 更に言えば、レヴィ=ストロースが「野生の思考」で指摘する、神話的思考が出来事を用いて構造を作り出すときに生じる 美的感動と、ヘルダーリンが「滅びの中の生成」で言う、過ぎ去って行くものに宿る美は実は同じもので、同じことを 別の仕方で語っていると考えられる。それはプロセス哲学的には、「創造」の過程を「時の逆流」として記述することに 繋がるし、自己組織化的な秩序生成がエントロピーを減少させ、熱力学的な時間の矢を逆転させるという描像とも重なる。

多分私は、同じところを堂々巡りしていて、より適切な説明を探しているだけなのだろう。 説明とは物語の一種だが、やはり(ドイチュの言う)「動かしがたさ」という基準を間違いなく持っている。 そして、事後的に結果を評価することはできても、なぜそれを選んだか、なぜそちらに進んだかを説明することはできない、 それは意識が与り知ることのできる領分ではないのではないかと思う。(それは別に芸術家や科学者だけにおきることではなく、 コンピュータを用いた自動スケジューリングのようなエンジニアリングの場面でも、しばしば経験することだ。)

宇宙を一個の情報処理機械とみなし、世界の経過が情報処理プロセスであるとしたら、詩人や作曲家、科学者やエンジニアの営みは シミュレーションを行うことに他ならないシミュレーションされる対象自体が情報処理プロセスなのであれば、シミュレーションは 寧ろ自己同型写像の一種であり、巨大なオートマトンの局所における自己再帰的な発展と 見做すことができるのではないか?

ところで上記のような考え方は、以下のようなマイケル・ ポランニーの「個人的知識」の末尾の言葉を読み直す 方向付けを与えるものに思えるし、更にそれは、ドイッチュが 「無限の始まり」で述べていることと共鳴しあうようだ。 そしてこの水準では、科学者とエンジニア、詩人と作曲家に区別はないように見える。

「われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の 中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに 先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる 経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している目標を追求してきたように思われる。それらは、すべて われわれの血族である。というのは、これらすべての中心、すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くが すでに消滅した異なる経路を産出した無数の多くの他の中心の存在がもたらしたすべての中心は、究極的な解放に 向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。 われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが 考えもおよばない完成に向かって前進するようにと命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかもしれない。」 (マイケル・ポランニー「個人的知識」)

結果として時間的存在である意識の自体の有限性の自覚と、無限への志向の両極の間に張られた空間の中に、 詩作や音楽やプログラムを作ることを位置づけるという課題に対しては、未だ見通しがようやく獲られたといった レベルに過ぎないが、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」のそうした展望の中での位置の確認をしていくための 通路を確保すべく、以上の点を書き留めておくことにしたい。 (2014.4.29-5.12, 6.28公開, 29修正, 7.7「洪水」インタビューの件を訂正。ご指摘に感謝します。)

2014年2月16日日曜日

「ひとのきえさり」日本初演を聴いて

「ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読」
KNMベルリン
2014年2月11日アサヒ・アートスクエア:「ハイブリッド・ミュージック」東京公演

「ハイブリッド・ミュージック」は、マーティン・リッチズのミュージック・マシンと人間の奏者の「合奏」という編成による 新作委嘱作品を中心(というのも1曲だけ、トム・ジョンソンの「24個のパーカッション・インスタレーションのために」のみは、 1995年に書かれたという点と人間の奏者は介在しないという点のいずれにおいても例外なので)としたプログラムの演奏会企画であり、 既にドイツでは昨年の11月8日にエッセンにてコンサートが行われている。 プログラムには企画のディレクターの1人である三輪さんの新作「ひとのきえさり」の初演が含まれており、日本公演は、その 日本初演ということになる。日本公演は名古屋(2月9日)と東京(2月11日)の2回で、そのうち東京公演に立ち会うことができた。

昨年来多忙を極め、例年参加することにしている催しも、極僅かな例外を除くと殆ど何も参加できなかった故、久しぶりのコンサートで あり、今回についても、そもそも行ける判断がついたのが1月末であったが、同じく盛況であったらしい名古屋公演同様、 東京公演も、開演時にはみぞれがちらつく天候の中、立ち見も出る程の盛況であり、また作品・演奏ともに非常に充実した企画であった。 主催者はじめ、企画・制作・演奏・技術のスタッフの方々に敬意を表しておきたい。色々なことを感じ、考えさせられたのではあるが、 残念ながら時間的な余裕がない状況は続いており、既にこの文章を書いている時点で1週間弱が経過しようとしている。そこで ここでは「ひとのきえさり」を中心に、ごく簡単に感想を記録しておくことにする。

全体として、ミュージック・マシンに対する日本とドイツの基本的な姿勢の違いのようなものが 感じられたのはとにかく印象的だった。いわゆるアコースティックでない電子楽器の利用はライヴ・エレクトロニクスも含めて 今や当たり前だし、その経験が逆流するように、例えばラッヘンマンの「楽器によるミュージック・コンクレート」に代表されるような 特殊奏法による音色の拡大もいわば既成事実であり、前提となっているような状況においては、マーチン・リッチズの制作した ミュージック・マシンをどう扱うかの基本的な発想自体がクローズアップされるようだ。

三輪さんの「ひとのきえさり」では、機械はいわば「最後の人」の代補、「礼拝」の対象、或る種のトーテムめいたものであるという 物語の枠が設定されているが、足立智美さんの「あんたトノはなし方のならい方」における「あんた」とはトーキング・マシンのことであり、 ここでは人間と機械との(ロシア・アヴァンギャルド張りの)身振り言語を介しての往還可能性がいわば「前提」となっている。

一方、トム・ジョンソンの作品がインスタレーションの一部を構成するものとしての音響の次元の構成と割り切って、空間的な移動の 効果を含めた音響の構成の提示に徹しているのに対し、ドイツの作曲家の新作2作品は、個別の作品の違いを超えて、 あくまでも通常の楽器と一緒に演奏=操作される音響・音声発生装置としてミュージック・マシンを扱っているように感じられた。 つまりそれはきっかけを与えれば後は勝手に音を発しはするものの、結局人間の操作する道具であり、結果として生じる音響も、 他の楽器の音と或る意味では同等なのであり、細部はいざ知らず、それ自体の演奏者としての自律性は、少なくとも表には 出てこない印象を受けた。ここでは機械を操作する人間が演奏者と協同する(いわゆる対比的な扱いを受けて、あるいはアイロニーを 込めて「協奏」するように設計されている場合も含めて)のであって、勿論、機械が合奏に加わる場所では、指揮者も含めた人間の 演奏者は否応無く機械に「合わせ」ざるを得ないのだが、それも例えば歌劇やバレエのピットのように ごく自然に行われていて、例えば三輪さんが「永遠の光、、、」でCDプレーヤーをあえて用いて浮かび上がらせたような状況は 浮かび上がって来ない。勿論、そうした状況について作曲者が無自覚であるということはないだろうし、人間と機械の関係を 対立的に扱うにしても、その具体的な様相は決して画一的なものではないし、各作品毎の差異というのも あるのだが、初演を一度聴いたきりだと、その点について主題的に扱うのは困難であり、ここではそうした大まかな共通性の 指摘に留めたい。或る程度の時間的な広がりを確保し、アイロニーも遊びの要素も含めて、その中を徹底的に隅々まで作曲し 尽した感じがあるのは、如何にもドイツ的というべきか。(プログラムにはもう1曲、イギリスの作曲家ショーン・トザーの 作品が含まれていて、これはフルート・プレイングマシーンとフルート奏者の「合奏」で演奏された。)

それを民族性の相違のようなもので説明してしまっていいものか、とは思うのだが、私が共感するのは三輪さんや足立さんの 機械に対するスタンスであるのは間違いない。そして恐らくその点と決して無関係ではないと思うのだが、三輪さんにあっては 「子音パイプ」と名付けられた、調律されてはいるけれど、それで膝を叩くことで音を出す筒の利用、足立さんの場合には身振りを 含めた身体的な所作と声の利用と、いわば限定された素材を介在させることによって人間と機械との距離を浮かび上がらせるとともに、 マーチン・リッチズの、こちらはこちらで手作り感があってローテクな趣のある機械の肌触りのようなものに触れることに 成功しているように感じられた点も印象的である。会場の聴衆にはドイツ人も少なからず混じっていたようだが、一体どのような 感想を抱いたのか、聞いてみたい気もする。

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「ひとのきえさり」は、藤井貞和さんの7音7行で1連の7連からなる詩をシンギング・マシンが朗読することを中核とする作品である。 編成はピッチを持った母音を発声できる機械であるシンギング・マシン、Esの超低音のみを出すことができるアイントン、フルート、 オーボエ、クラリネット、バス・クラリネット、トロンボーンの管楽5重奏、「子音パイプ」という調律された音高を持つ7本の パイプを交換しながら膝で叩いて音を出す4人の奏者からなる。配置は、舞台中央に輪になった管楽5重奏に対し、シンギング・マシンを 囲むように輪になった4人の「子音パイプ」奏者の背後にアイントンが置かれるというもの。奏者は9人だが、音楽機械の操作をする マーチン・リッチズもまた、パフォーマンスの中で重要な役割を果たす。

作品の構成は、タイトルに示される通り、序奏と朗読の2つの部分に分かれている。序奏は管楽5重奏によって演奏されるが、 その脇で、無声でピッチだけを取り続けるシンギングマシンのピッチの変化に合わせてパイプを交換する奏者が交替で パイプでリズムを刻んでいく。序奏が済むと管楽5重奏は退場してしまい、今度は有声でピッチを持った母音を発声する シンギングマシンによる「朗読」が、シンギングマシンを囲む奏者が、7音一サイクルのパターンを、パイプを交換しながら 反復して演奏することにより、機械の「朗読」を「伴奏」する中で行われる。全体を通してアイントンの超低音の唸りが 基底の響きをなす。

「子音パイプ」の奏者はこれも周期的に、タイトルを交替で囁くが、「朗読」が進んでいくうち伴奏のパターンが尽きると、こちらもまた 退場してしまう。タイトルの通りの「ひとのきえさり」の後、残されたシンギングマシンの「朗読」は続けられるが、 それも終わりに辿り着くとアイントンの唸りも止み、静寂の中にマーチン・リッチズが現れて、まずはシンギングマシンに一礼し、 その後舞台中央で客席に向かって一礼して終曲となる。

自らがディレクターをつとめる「ハイブリッド・ミュージック」というタイトルの催しに相応しく、この作品はこれまでの三輪さんの 創作の様々な側面が複合的に組み合わされているように思われる。全体は「逆シミュレーション音楽」の規定に従って創られている。 カバーストーリーは、「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」でも登場したギヤック族が登場し、「子音パイプ」を交換しながら、 規則に従ったパターンを反復していくのは、「村松ギヤ」や「またりさま」と同様の「逆シミュレーション音楽」における 「架空の儀礼」の一部を為している。 マーチン・リッチズの音楽機械と人間との合奏は、かつて東大で演奏されたThinking Machine(思考する機械)と箜篌による 「逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」を思い出させる。七色に塗り分けられた七本の「子音パイプ」は、 それがパイプであるという点で、「算命楽」でのレイン・スティック、「村松ギヤ」のザーメン棒を思い起こさせる一方で、 7色の虹の色から「369」や「虹の技法」といった新調性主義系列の作品にも繋がっていく。正確には同じ編成ではないが、 管楽5重奏ということでは、架空木管五重奏のための「BQMOVM1E」を、序奏と朗読という2部形式は、前奏曲とリートという 2部からなる「夢のガラクタ市」のことを思い出ささずにはいないだろう。

そればかりではない。声調言語ならぬ、ピッチが子音に対応するという音声体系を持つ架空の民族の歌を、ピッチを持った 母音のみが発声できる機械に歌わせるのは、フォルマント兄弟名義での音声キーボード・音声アコーディオンによる歌唱の試み との直接的な関連を持っているだろう。かくしてこの作品は、三輪さんのこれまでの活動の「ハイブリッド」であり、或る意味での 総合となっていると考えられる。

しかしこの作品において最も意表をつき、インパクトがあるのは、タイトルの通り、文字通り人が消え去っていき、機械のみが 残るというプロセスが作曲されているという点であろう。三輪さんの作品の中には、既に上で触れた「369」や「虹の技法」の 系列の作品、あるいはそれに先行する「言葉の影、またはアレルヤ」のように、作品の終わり近くになって、楽器を 演奏している奏者に発声をさせるものがある。だが、この作品は管楽5重奏の奏者も、4人の「子音パイプ」奏者も、最初こそ 発声をしながら演奏をするが、じきに舞台を去ってしまい、残るのは機械の声だけなのだ。東日本大震災の後に作曲され、 初演された「永遠の光、、、」もまた「虹の技法」同様、新調性主義の系列の作品だが、この作品すら、前半で打楽器奏者と 指揮者がラジカセで再生されるオーケストラのシミュレーションと「合奏」するのを沈黙して楽器を演奏しないオーケストラ 奏者がひたすら聴き続けた後、後半にはオーケストラが自ら演奏を行うのに対し、ここでは誰もいなくなった後に機械による 朗読だけが残るという或る種の逆転が生じている。カバーストーリーに重ね合わせれば、 それはギヤック民族の絶滅を象徴しているのだろうが、そうしたプロセスが更に何を意味しているのかについて、 聴き手は様々に考えることができるだろうし、そのように誘われているのだろう。これまた近年、特にフォルマント兄弟名義での 活動で追求されている問題系の一つである「幽霊性」との関連を考えることもできるだろう。

だが、それらとは別に、会場で「ひとのきえさり」に立ち会った私が感じたのは、そこで見たもののどこまでが「夢」の内容 なのかが曖昧になってゆく感覚であり、「音楽」そのものの「きえさり」に立ち会ってしまったかのような感覚であり、 人間が消滅した後、もともとは人間のためのものであった何かを、誰に聞かせるためでもなく、電力が枯渇するまで永遠に 機械が反復し続けるという状況の持つ生々しさであった。実際には私は子音とピッチの対応規則を事前に教わっているわけでもなく、 だから初めから朗読の意味を聴きとっていたわけでは決してないけれど、それでもなお何かが損なわれ、喪われていく過程、 「逆シミュレーション」によって辛うじてまだ成立していた何かが解体する風景の予感の如きものを感じずにはいられなかった。 と同時に、機械が止まり、アイントンの基底の響きが止み、沈黙が支配する中で、黙り込んでしまった機械に対して一礼し、 最後に聴衆に向いて(だが、それは本当は聴衆に向けられたものではないのではないか?)一礼した、機械の作者の挙措の 意味を図りかねていた。それはカバーストーリーに書き込まれていた夢の続きなのか、夢の外側なのか、それに立ち会っている 私は一体、どこにいるのか。

もちろんそれは、コンサートの中での出来事であり、拍手とともに奏者が現れ、三輪さんが呼び出され、皆が退場して 拍手が止めば、休憩時間となって、私はコンサートという制度の中にいる自分を見出すことになる。コンサートが終われば 帰途を急ぎ、翌日の仕事の準備をしなくてはならなかった。だがその一方で、「ひとのきえさり」が展開して見せた ヴァーチャルな時空は自分の内側に確固たる場を占めてしまい、リアリティに対して作用を及ぼしつつあることに気付かざるを得ない。 残念ながら私の能力の限界のせいで、一回聴いただけでは作品の全てが把握できたわけではなく、これ以上、書き留めるに 値する何かを持っているわけではない。しかも基本的にはウニカートな音楽機械を必要とし、「子音パイプ」という 「特殊楽器」の奏法の習得を奏者に強いるこの作品の再演の至難さは容易に想像できる。けれど、そうであれば尚更、 その作品から受けた印象という点では圧倒的な経験であったことは、それがたとえ自分のためだけで あったとしても、記録に留めておきたい。少なくとも私にとってのそれは、コンサートでの音楽作品の演奏と いうよりは、寧ろ「夢の中」におけるような儀礼に近い質を持っていたこととともに。(2014.2.16初稿)

2014年2月2日日曜日

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」で用いられている制約プログラミングについて

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」
2013.2.24 大垣、ソフトピアジャパン:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」総括報告・シンポジウム
2014.2.22 大垣、ソフトピアジャパン: フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、久保田晃弘、福田貴成、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」(新しい時空間における表現研究)
日本学術振興会科学研究費補助金研究・基礎研究(C)研究課題番号23520175

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2014.2.22の総括報告における発表用スライドは以下からダウンロードできます。

2013.2.23の中間報告での発表用スライド・補足資料は以下からダウンロードできます。

なお中間報告に先立って書かれた本ブログの記事として以下があります。

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1.はじめに

1.1.「和音平均化旋律・運指法計画」の背景

2012年7月に発表されたMIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱のための「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」は、 従来のMIDIキーボードにおいて、旋律を受け持つ右手に対して、音素生成を担当する左手で演奏するキーボードに対する音素の 割当の規格である「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」に相当する役割をMIDIアコーディオンの左手で演奏するボタンで実現する ための規格であった。それは基本的に日本語のモーラをボタンに割り当てる発想のもので、概ね五十音表をボタンにマップしたものだが、 ボタン数の制約などから、濁音、半濁音、拗音については複数のボタンを押すことで実現するものだったが、その後、母音と子音の 組み合わせをボタンに割り付けることにより、原理的に(というのは、サンプルした音素はあくまでも日本語のものであるからだが) 他の言語にも拡張することが可能となる、より汎用性の高い国際規格も発表されている。

1.2.「和音平均化アルゴリズム」における「運指法」の特殊性

一方、右手が担当するキーボードについては、キーボード演奏によって微分音程を含む旋律の「歌唱」を実現するために、 「和音平均化アルゴリズム」が提唱されている。これは複数のキーを同時に押すことで、和音ではなく、同時に押し下げしたキーの ピッチの平均のピッチが生成されるものであり、常に生成されるのは単旋律となるかわりに、半音以下の1/2半音、1/3半音等の生成を 可能にする。その一方で、同一のピッチを実現するキーの組み合わせは複数考えられるので、演奏にあたっては、どの組み合わせを 用いるかを決める必要がある。このことは一方で、複数の候補の中から運指が容易なものを選択することを可能とするが、他方では、 通常、実現すべき和声と1対1対応の関係にあるキーの組み合わせに対して適切な運指を決定すれば良いところを、実現すべきピッチに 対して1対多の関係にあるキーの組み合わせ候補群から、運指を考慮しつつ適切なキーの組み合わせを選択し、更に、それに対して 原理的には複数可能な運指の候補群から適切なものを求める必要があり、通常の楽曲の運指決定よりも複雑な問題に対応しなくては ならない。キーの組み合わせの選択問題と、選ばれた複数のキーを同時に押さえる運指の選択問題の両方を解くことは 単なる運指の決定に比べて遥かに広い探索空間を相手にした作業となるため、手作業で行うのは非常に手間のかかる作業となっている。

そこで「和音平均化アルゴリズム」による微分音程旋律の運指をコンピュータによって決定する手法を独自に開発する必要性が 出てくる。この課題の解決の手法は色々なものが考えられるだろうが、そのうちの一つが制約プログラミングと呼ばれる手法を 用いたキーの組み合わせと運指を候補の中から探索するプログラムを作成し、実現すべき微分音程を含むピッチの系列を プログラムに与えて実行し、キーの組み合わせと運指の系列を自動的に求めることである。

1.3.本稿の目的と制限

ここでは技術的な正確さは或る程度犠牲にして、制約プログラミングで上記問題を解くためのアプローチの概要を説明するとともに、 制約プログラミングそのものについても若干の説明をすることにする。ただし情報処理技術としての制約プログラミングの紹介や 音楽以外の領域への適用事例については既に多数存在する著作に譲ることにする。

また、(上記の催しの際にも指摘した通り、) 制約プログラミングのコンピュータ音楽に対する寄与については、例えば Curtis Roads, "The Computer Music Tutorial", MIT Press, 1996 (邦訳:「コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート」, 訳・監修:青柳龍也, 小坂直敏, 平田圭二, 堀内靖雄, 訳:後藤真孝, 引地孝史, 平野砂峰旅, 松島俊明, 東京電機大学出版局, 2001)のような書籍に要を得た記述があり、参考文献の 紹介もされている(第2章「音楽システムのプログラミング」の「プログラミング言語について」の節、p.p.65-66、および第18章 「アルゴリズム作曲システム」の「決定的プロセスと確率的プロセス」p.689のAmesの「制約下の探索」による対位法の旋律生成の 事例、更に第19章「アルゴリズム作曲の表現と技法」の「生成・検査法」の節の p.740以降、だが特に「制約」の節p.p.743-6は、 まさに制約プログラミングをテーマとした節であり、Levitt の調性的協和に関する制約モデルを例とした紹介や、 Courtot 1992, Ebcioglu 1992への言及が為されている)。

従って、ここでは概説的な紹介はそうした紹介に対する補足をするに留め、フォルマント兄弟や三輪さんの活動に 対してどのような位置づけを占めているのかを素描することにしたい。

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2.制約プログラミングとその周辺

2.1.制約プログラミングの定義

制約プログラミングとは何か、という問いに対する答えは、制約プログラミングに関わる人の立場により様々だろうが、 ここでは、それは問題を解くための手法であり、(a)問題を変数の集合と、その変数間に存在する制約の集合として定式化する モデルリング手法と(b)問題空間が持ちうる状態の中から、制約を充足する状態を求めるために、制約を有効に使って効率的に 解を求める手法を備えたものであるとする。プログラミングパラダイムの観点から見た場合の特徴は、問題の宣言的な記述と 求解アルゴリズムの分離であり、記述のためのシンタクスが処理系毎に定められ、処理系が備えている汎用のソルバーを使って 問題を解くことになる。通常のプログラミングにおいては、データ構造の宣言とともに、問題を解くためのアルゴリズムを 記述することがプログラミングの中心であるのと比較して、かなり違ったパラダイムであり、アルゴリズムを明示的に 与えようとすると条件の分岐が多くなりすぎて、事実上解くプログラムの記述が困難な問題を解くためのものと考えることができる。 更には、確率を導入する拡張は可能であるものの、基本となるモデル上では制約は決定的であると見做される。(条件付制約下での 制約充足解を求めるためには、非決定的な探索が必須となるが、条件つきの制約自体は静的に決定的に宣言可能である。)

2.2.数理計画法

実際には、上記の定義は非常に広くて、「制約」の記述形式の制限や「探索」の方法を限定しなければ、狭義での制約プログラミングでは ないものも包含してしまう。例えば問題を連立方程式や連立不等式の組で表現した時の様々な求解アルゴリズムはそれらの中に 含まれてしまうことになるだろう。それらの中で特に、目的関数の値を最適化する変数の組を求める手法は数理計画法と 呼ばれる領域を形作っており、連続変数に対する制約なしの非線形最適化手法であるニュートン法や同じく連続変数に対する 一次連立不等式の制約つきの一次式の最適化手法である線形計画法なども含まれることになる。

線形計画法の求解アルゴリズムとしては非常に長い産業応用の歴史を持つダンツィヒによる単体法や、ひと頃特許騒動で 有名になったカーマーカー法を含む内点法などが有名であるが、これらは汎用の求解アルゴリズムであり、問題を 定義した制約不等式をマトリクス表示した入力を読み取り、目的関数を最適化する変数の値の組をベクトルとして出力する ソルバーが提供されている。これらのアルゴリズムは問題の複雑さに比して高速であり、制約条件を用いて解の存在領域を狭めていき、 効率的に最適解に辿り着くことができるため、大規模な実用的な問題への数多くの適用事例を持っている。

一方で変数の一部を 整数値に制限した混合整数計画問題、凡ての変数を整数に制限した全整数計画も定式化可能であるが、これらは 連続変数における単体法や内点法のような高速なアルゴリズムがなく、分枝限定法、分枝切除法のような枝刈り手法を 用いた探索をすることになるため、線形計画問題に比べて実用的な時間で解ける規模は制限される。その中で、変数を [0,1]のいずれかをとる離散変数(0-1変数と呼ばれることが多い)に限定した上で専用の効率的なアルゴリズムを 用いる、0-1整数計画問題の研究も行われている。

2.3.論理プログラミング

他方で、人工知能研究との関わりで人口に膾炙するようになったProlog言語処理系を代表とする、論理プログラミングと 呼ばれる手法があるが、これは記号論理学における述語論理体系に基づくもので、非常に制限されたシンタクスの論理式 (ホーン節と呼ばれる標準形)で問題を宣言的に記述し、論理式の集合が真になるように宣言中に含まれる変数に値を 付けることにより問題を解くことを実現するものであり、求解にあたっては処理系に組み込まれたバックトラックを 用いた汎用の探索機構を用いる。対象となっている問題領域の違いはあるが、こちらも処理系がソルバーの役割をしており、 解を解く部分をプログラミングする必要がないという点では共通している。

この仕組みは形式的に非常にエレガントであり、非常に汎用的な定理の自動証明システムなのだが、問題の規模が大きくなると バックトラックに頼る探索はすぐに組み合わせ爆発を起こして、実用的な時間での求解が困難になることがしばしばであるため、 実用的なシステムにおいては、問題に合わせて探索空間の枝刈りをする処理を明示的にプログラムしてやる必要がある場合が ほとんどである。既述のように論理プログラミングは人工知能研究に関連が深く、日本でも過去、第5世代コンピュータの 開発プロジェクトなどを通じ、基礎、応用の両方にわたる多くの研究がなされたし、優れたProlog処理系が開発されている。

2.4.制約プログラミング

上述のような手法と区別されるものとして制約プログラミングを狭く捉えた場合、制約プログラミングの特徴は以下のような 点に存するであろう。(a)変数は離散的であるが、真偽の二値を持つ論理変数だけではなく、 有限の領域を持つ領域変数を持つことが多い。(b)制約のシンタクスも論理プログラミングや数理計画法に比べてより柔軟で、 論理的な制約もあれば、算術的な制約もあるし、より高水準の組み合わせ論的な制約(例えばある値の出現回数の制約など)も 可能である場合が多い。(c)制約を充足する変数の値の組を求めることが求解であり、ある目的関数の値の、制約条件下での 最適化のための手法ではない。

制約プログラミングにおける求解アルゴリズムとしては、論理プログラミング同様、バックトラック機構を用いた探索が 一般的だが、制約を用いた自動的な枝刈りの機構を備えており、制約条件によっては効率的な求解が可能である。 しかし組み合わせ爆発の問題の一般的な回避ができるわけではないので、 実用システムでは探索の制御を明示的にプログラムすることが多い。

また、制約毎に充足確率を持った確率的制約プログラミング、制約の充足に優先度を持たせたり、制約を階層化するアプローチ、 あるいは集合に対する制約を扱う演算領域の拡張など、モデルの拡張の提案も多い。一方で制約のシンタクスには形式的な 制限があるわけではなく、どのような制約を扱えるかは処理系に依存しており、上記の手法に比べて形式的に融通が利く一方で、 理論的な解析が困難であるといった研究上の難しさがある。

2.5.SAT

上述の数理計画法における0-1整数計画問題における0-1変数は、真偽の2値を持つ論理変数と等価であるが、 制約プログラミングにおいても変数を0-1の2値変数に制限し、制約式のシンタクスにも制限を加えた上で 高速な汎用アルゴリズムを与えるSATと呼ばれる手法の研究が近年急速に進展している。

高速なSATソルバーの提供が行われるようになってきており、通常の離散有限の領域変数とそれらの間の制約として モデル化した問題をSATに変換し、SATソルバーで解いた後、結果を逆変換して元の問題に戻してやるといった 解き方も可能になっているが、変換にかかるコストが大きいことや、通常の有限領域の変数上の制約として 定義された原問題に対して変換後のSATの問題が極めて大規模になる傾向にあることから、実用上は適用可能な シーンが限定されることも現時点では少なくない。しかし他方で問題の形式が制限されて理論的な解析がしやすいことから、 今後も改善が行われていくものと考えられる。制約充足問題における相転移現象の研究が行われているのも この領域であり、近年注目を浴び、急速に研究が進展している分野である。

2.6.諸手法間の関係

上記の幾つかの手法は、問題を記述する変数の性質や制約式の形式に関する制約が異なってはいるが、いずれも 問題を宣言的に定義し、汎用の求解アルゴリズムを実装したソルバーを提供して、アルゴリズムを明示的に書くのが 困難な問題を解くための手法である点は共通しており、実際に研究において相互に影響を与え合っている。 制約充足問題の汎用ソルバーの中に、上記の様々な手法による複数のソルバーを備え、問題によってソルバーを 使い分けることができるようにする試みも日本国内で既に研究成果がある。

実用的な問題解決の場面でも特に問題が大規模な場合に、幾つかの手法を組み合わせて用いることしばしば行われている。 一般に問題の形式が特に具体的に特定の構造を持つ場合には、それ専用のアルゴリズムを開発すれば良く、 汎用的で遅い方法に拘る必要はない。特に既知のアルゴリズムが知られている形式に現実の問題を帰着させることが できる場合には、既知のアルゴリズムを用いれば良い。いずれの場合でもアルゴリズムの計算量への配慮は必要であり、 規模によって適用可否を見極めて、適切な解法を選択する必要がある。

数論の分野に例を求めると、例えば2つの整数の最大公約数を求めるアルゴリズムであればユークリッドの互除法という O(logN)の高速なアルゴリズムが知られているが、素因数分解は計算複雑性理論上困難な問題であるとされており、 総当りで2から順に√nまでの素数で割っていくという単純な方法では、数が少し大きくなると計算時間が 爆発して実用的ではなくなる(この性質に依拠するのが現在、公開鍵暗号として一般的なRSA暗号である)。 そのため大きな数に対しては、ポラード・ロー法、連分数法、楕円曲線法、各種の篩法など、様々な アルゴリズムが提案されていて、目的に応じてそれらの特徴を見極めて利用することになるだろう。 (例えばポラード・ロー法はフロイドの循環検出法に基づく擬似乱数を用いる確率的なアルゴリズムであり、 実行時間と素因数発見確率がトレードオフの関係にあることが知られていて、対象となる数が素数の場合には 常に失敗することが保証されているが、合成数であっても失敗する場合があることに注意しなくてはならない。)

2.7.量子コンピュータ

一方で、量子コンピュータを用いれば、現在事実上求めることが難しい大きさであっても、遥かに少ない計算回数で 素因数分解を行うことができることが1994年にショアにより示されている。量子コンピュータの研究領域の一つは、 従来、解く事が困難であった問題を少ない計算量で求める手法の研究であり、初期の成果として、探索問題に対する ドイチュとジョサの解法があるのも良く知られている。

量子コンピュータは状態を重ね合わせて持つことができるという量子の性質を用いているのだが、それが候補の状態を 保持できる領域変数の(ごく粗いものではあるけれど)アナロジーになっていて、非常に興味深い。ただしこちらは状態の 重ね合わせを単なるビット列で持つに過ぎないからアナロジーは極めて肌理の粗いものに過ぎないのだが、それでもなお、 量子コンピュータが実用化されることになれば、量子制約プログラミングというのが成り立つのではないかと考えることは できるだろう。例えばセス・ロイドの著作(Seth Lloyd, "Programming the Universe : A Quantum Computer Scientist Takes on the Cosmos", 2006, 邦訳:「宇宙をプログラムする宇宙-いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?」, 水谷淳訳, 早川書房, 2007) を読んで、そういう印象を抱いたことがある。

2.8.制約プログラミング適用にあたっての留意点

制約プログラミングを用いて個別の問題を解くことに話を限定した場合でも、隣接、関連する他の分野においてと同様に、 一つの問題に対する具体的なモデル化や求解のアプローチには多様な可能性がある。また、解かなくてはならない 現実の問題の持つ性質や求解にかけられる時間や求解の目的(例えば充足解の存在の証明か、全ての充足解の列挙か、 好ましい性質をもった充足解を手早く見つけることか、等)や求解のための時間の制限、あるいはメモリのサイズ等の 条件に応じて、変数のモデルを作り、解の探索の制御をしてやる必要がある。問題を分割して一部のみに制約プログラミングを 適用することが必要なケースもあるだろう。

従って、現実の問題を制約プログラミングを用いて解く場合には、 問題を表現する変数を定め、問題の持つ制約条件を変数間の制約として記述するモデリングの作業と、問題を解く求解 アルゴリズムに対して、実用的な時間で必要な答えを得るための探索の制御を決める作業が重要であるということになる。

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3.制約プログラミングの運指決定問題への適用

3.1.一般の運指決定問題の場合

今回の問題である「和声平均化旋律」における運指の自動決定は、それでは制約プログラミングに適した問題なのかと言えば、 恐らく答えはYesであろうと考えられる。まず一般に運指というのは、(今回は適用される楽器がアコーディオンで あることから)例えば対象を右手の5本の指に限定したとして、楽譜に記載された音を5本のどの指に割り当てるかを 決める問題である。親指から小指までの指に1から5の番号を付与すると、記譜された音毎に1~5の数のどれかを 割り当てる問題として形式化するのは直感的にできるだろう。そして、(例外がないことはないが)1本の指では 1つのキーしか押せないとか、指が広げられる音程の幅の条件、同時にキーを複数の指で押し下げる際の制約、 時間方向の変化に対して、演奏可能なように指を割り当てる必要がある、といった様々な条件を、楽音毎の割当られる 指番号の変数間の制約として記述してやればいいことになる。これは典型的な離散的組み合わせ問題であり、 しかも有限整数領域の領域変数と変数間の制約によって記述できるから、一般に運指の問題は、上述の狭義での 制約プログラミングに適した問題であると、まずは言っていいように思われる。

3.2.「和声平均化旋律」における運指決定問題の場合

更に「和声平均化旋律」における運指への適用を考えると、既に述べたように、「和声平均化アルゴリズム」では、 一つのピッチを実現するためのキーの割当の候補が複数ある点が、通常の運指の問題と異なる部分である。 つまり例えばMIDIコードの60のピッチを実現するための手段は、60のピッチのキー一つを押し下げること以外にも、 59のキーと61のキーを同時に押し下げるなど、複数の選択肢が存在しうるのである。従って実現されるピッチをではなく、 ピッチを実現するために使用するキーの組み合わせと押し下げ・解放のタイミングを記譜したものが楽譜であるとするならば、 「和声平均化アルゴリズム」を用いて或る一つの旋律を実現する場合、楽譜そのものが複数存在しうることになる。

3.3.楽器の特性と運指の制約

これは鍵盤楽器では通常はありえないことであるが、例えばヴァイオリンでは、ある単一の音を4本ある弦のどれを用いて 出すかについてはG線でしか出せない低音と、E線でしか出せない高音を除けば一般に選択肢が存在するから、 寧ろそちらを思い浮かべればいいのかも知れない。ただしヴァイオリンの場合には弦によって音色の特性が異なるから、 逆にどの弦を用いて演奏するかが予め指定されていることがありうるのに対し、「和声平均化旋律」の場合にはそうした ことはないから、同一ピッチの実現に対して複数存在するキーの組み合わせの候補の選択は、純粋に運指のし易さの 観点から選択すれば良いことになる。

一方で鍵盤楽器であっても、ピアノのようにキーを押し下げ続けなくても打鍵の残響の効果が残る打楽器的な楽器もあれば、 オルガンやアコーディオンのように、指を離せば音が出なくなる楽器もある。 更に「和声平均化アルゴリズム」を用いる場合には、複数の指によって或るピッチを生成する際に、或る指が遅れたり、 或る指だけ早く離してしまえば、そこで音程の変化が生じてしまうことになるから、記譜された音の持続を正確に実現できる ような運指を選択する必要がある。

また音程の跳躍に対応するポジションの移動は、記譜上は記載されていなくても音と音の間に極小幅の休止が存在していることを 前提としているが、「和声平均化旋律」が演奏対象として典型的に 想定している楽曲は、音程の変化や揺らぎを含み持つ長大なフレーズを、途中ほとんと息継ぎなしで一息に歌う必要があり、 その区間内の音の変化は、いわば(弦楽器であればポルタメント奏法によって)連続的に変化するように補間されていると 見做さなくてはならないから、その区間内では全ての指が同時に離れる瞬間を生じさせることなく、ポジションの 移動が必要な大きな音程変化に対しては、親指を潜らせることによって実現する必要がある。

更に一般には、同じピッチを 実現するキーの組み合わせが複数あるとき、同時に使うキーの数は少ない方が、複数使う場合には、ピッチ幅が狭い方が 演奏の困難さが低くなると考えられるが、例えば同一音が持続している区間に1/3半音の「うなり」が入るような場合、 「うなり」を実現する運指を考えたときに、あえて半音を2つのキーで実現して、もう一つのキーを追加して1/3半音の 変化を実現した方が人間にとって自然な運指になるといったような条件もある。

これらの条件が、1つのキーを複数の指で押すことはないといった自明の制約、1本の指では同時に1つの キーしか押さないといった基本的な制約、親指以外の指どうしが交差することを禁じる制約、親指を潜らせる ポジション移動時には、親指のみがキーに割り当たるといった制約に加えて、指を広げられる幅や指を潜らせるときの 幅といった、奏者の身体的な条件にも依存するパラメトリックな条件ともに運指の制約条件となる。

3.4.前処理としてのピッチの離散化による規格化

一方で、連続的な音高の変化を、弦楽器のようなグリサンド、ポルタメントによって自然に実現するのではなく、 離散化された音高しか持たないキーボードで実現する場合、「和声平均化アルゴリズム」を用いて微分音程を 実現する場合であっても、連続的なピッチの規格化による離散化のプロセスが、いわば前処理として必要になる。

例えば同時に押し下げする指の数を3つまでに限定した条件下では、「和声平均化アルゴリズム」の下で 実現可能な微分音程は1/3半音,1/2半音に限定される。従って、実現されるピッチの系列は、半音、1/3半音, 1/2半音の微分音程を用いた系列に離散化してピッチを規格化する必要が出てくる。

3.5.時間方向の離散化(量子化)の問題

上記以外にも、制約プログラミングで解を求めることができるようなモデルに現実の問題を適用するにあたって 問題になることはある。例えば、サンプリングした歌唱を解析してピッチの系列を求め、それに対する運指を 自動決定する問題を考えてみよう。

キーボードでの演奏を前提にしている以上、既述の通りのピッチの離散化・ 規格化も必要だが、時間方向の量子化もまた必要になる。1ミリ秒毎のピッチ変化をサンプリングしたデータが 与えられたとして、このピッチ変化を忠実に楽譜化しても早すぎて人間には演奏不可能である。そこで人間が 演奏可能な単位にまで、時間軸の変化を量子化してやる必要がある。

このとき単純に区間内のピッチの算術平均を その区間の代表ピッチとして計算してしまうと、もともと区間内に含まれていた極小値・極大値といったピークを 平滑化してしまう。特に同じ音高がしばらく持続している最中に、1/3半音程度の「うなり」が挟まっている場合にも 算術平均をしてしまえば、「うなり」は制約プログラミングで運指を決める以前の段階で喪われてしまい、 そもそも入力データの中には存在しないことになってしまう。

3.6.実際に構築したモデルの概要

そこで今回は、与えられた10ミリ秒単位のサンプリング結果を入力として受け取り、演奏可能な区間(概ねMM.4分音符=60で 32分音符相当)で量子化し、1/2半音、1/3半音までを許容する前提でピッチを離散化して規格化された入力ピッチの系列を計算し、 このピッチを実現する区間内の算術平均を取るのではなく、極値を取って区間の代表値とすることにした( 極値が複数あれば、再び、今度は極値間の算術平均をとる)。ピッチの規格化にあたっては、同じ音高が(概ね4分音符 1つ程度)しばらく持続している区間については、1/3半音として規格化する幅を広めにとって、変化の乏しい区間には 「うなり」を取り入れられるようにした。

その結果求まったピッチに対して、一般に複数存在するそのピッチを実現するキーの組み合わせ候補の中から、 既述の運指の制約を充足するようなキーの組を選ぶわけだが、これについても同じ音高が(概ね4分音符 1つ程度)しばらく持続している区間については、「うなり」の演奏に配慮して、半音を2つのキーの組み合わせで 実現することとし、その他の区間では、特に音程変化が激しく、親指を潜らせることによるポジション変更に 配慮して、半音はキー1つ、2つの候補のいずれかを選択できるようにし、1/2半音、1/3半音ともども、指を拡げる 幅の最大値の範囲内で可能な全てのキーの組み合わせを候補として、3.3.に記載したような制約の下で条件を充足する 運指を探索させることにした。モデル上、運指の探索はサンプルされた音の系列が持っている時間の方向に対して 対称性を持っているので、時系列に対して順方向、が逆方向の探索を行わせることができる。これが認知的に妥当か どうかは別に議論があるだろうが、J.S.バッハの対位法的作品においては作品自体が逆行、反行、蟹行等の対称性を 備えている場合があり、一般に楽譜を後ろから逆向きに演奏することがないからといって、必ずしも運指の決定自体が 音楽の流れの方向に対して非可逆的であるとする根拠はないとは言いうるように思われる。

3.7.求解実験の概要

上記のように構築したモデルに基づき、C言語でプログラムを作成した。制約処理系としては、日本国内で開発され、無償で 利用できるC言語ライブラリとして提供されている(株)NTTデータセキスイシステムズのiZを用いた。検証は フォルマント兄弟より提供された約40秒の持続を持つ山唄のサンプリング結果を入力として実施した。 最初に求まった制約充足解を結果として採用することにし、規格化・量子化などの条件を変えて幾つかの問題を 解かせた。各問題における制約のhardnessにより計算時間は様々だが、概ねIntel Celeron 1.4GHz、RAM896MのPC上で、 数秒以内に答えを得ることができている。(例を含む詳細な結果は、研究成果報告等で別途なされるので、そちらを参照されたい。)

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4.成果と今後の展開

4.1.成果

上述の通り、「和音平均化アルゴリズム」における運指の決定を自動的に行うために、制約プログラミングを 適当できるかどうかの検討および検証を行い、短期間で現実の課題に対する運指案を自動作成することができた。 制約プログラミングの長所として、問題の直感的なモデリングが比較的容易で、かつ求解をするプログラムの プロトタイピングが短時間で書け、比較的短期間のうちに必要最低限の制約を実装して、実データを用いた検証が 開始できるという手軽さがある。今回も基本的なプログラムの完成までに2日、その後、不足していた制約の 追加を数回繰り返し、都度検証を行った。本問題の解決手法として制約プログラミングが 有効であることは示すことができたのではないかと考えている。

4.2.課題

一方残された課題も多い。これまでは制約条件の抽出については明確な方法論によることなく、経験的に 思いつく条件を追加しては改良する手法で進めてきたが、現時点で一定レベルの解が得られるようになったことを 踏まえ、制約条件や解の探索の手法について、より自然な解が得られるように改善を継続するためには、 運指の制約条件について体系的に整理をし、ルールを詳細化していく必要がある。

他方で、規格化・量子化の後の運指を決める制約充足解を求めるプロセスのみに限定しても、特に短時間に ピッチの大きな変動が起きて、手のポジションの移動が生じる部分については、親指を潜らせる運指を許容して 制約非充足になることを回避しているが、問題によっては探索が効率的に行なえずに現実的な時間(例えば 数秒)で解が求まらない場合もある。これは現時点では探索戦略が、時間に対して正順・逆順といった単純な ものであることが原因と思われる。人間が運指を決めるときも、(特に本件のように、人間の生理に必ずしも 従わない、いわゆる「ピアニスティック」でない音の並びの場合には)運指が困難な場所を試行錯誤的に検出して、 そこから解いていくようなやり方を採っているもの思われるため、そうした点に配慮した上で、更なる探索戦略の 改良が必要である。

4.3.確率的手法との組み合わせの可能性

今回取り上げた運指決定問題についても、制約プログラミングのような決定的な手法だけでなく、 統計的な手法を用いることが可能だろう。もっとも、上でも述べたことだが、制約プログラミングと統計的な手法は 相容れないものであるわけではない。例えば制約プログラミングで制約充足解を探索する際に、より好ましい候補を 優先的に選択するために、ピッチの遷移仮定毎に運指の候補の選好度を統計的な手法で求めておき、それを用いて 探索をするといったような手法も考えられる。また、長いピッチの系列の運指を決める際には、運指上の制約が大きな 部分から先に決めていくことで効率的な探索を行うことができるが、そうした求解の困難さについても統計的な 手法との組み合わせによって評価を行えるようにすることが考えられる。

更にはモデル化プロセスにおいて決定的な手法の持つ、全てを明確にルール化して記述しなくてはならないという 実用上の問題を、統計的手法を用いて解決していく方向性(その延長線上に、機械学習の適用等も含まれる) もまた、その必要に応じて検討すべきだろう。

4.4.他の問題への適用可能性

"The Computer Music Tutorial"にも紹介されていることだが、制約プログラミングのコンピュータ音楽に対する 貢献は、今回適用を試みた運指の分野よりも、主としてアルゴリズミック・コンポジションの領域で和声法、対位法、 音楽の文法(従来、楽式論で扱われていた形式にたいする工学的なアプローチ)などを中心になされていることがわかる。 今後は、運指決定について更に改善を加えていくのは勿論だが、アルゴリズミック・コンポジションの他の領域への 制約プログラミングの適用を検討していくことも方向性の一つではないかと考える。

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5.関連する諸領域の概観

本稿においては制約プログラミングを「和音平均化アルゴリズム」による微分音程旋律の運指をコンピュータによって 決定する手法の基盤として用いた事例を紹介した。だが制約プログラミングを包含する制約充足のパラダイムは コンピュータ音楽に対してプログラミングの手法を提供するに留まらない。

以下では制約プログラミング、あるいはより一般に制約充足のパラダイムが関連する他の領域のうち、フォルマント兄弟や三輪さんの活動に 対する関連を持つと思われるものを幾つか指摘することで、非常にラフではあるが議論のための見取り図を提示することとする。

(A)デイヴィッド・K・ルイスの「根元的解釈」

例えば、分析哲学の領域において 可能世界意味論の形而上学的解釈の非常に強い版である様相実在論=多重世界説を唱えたデイヴィッド・K・ルイスは、 一方で「根元的解釈」を制約充足問題と特徴づけ、志向性の帰属は物理的事実といくつかの帰属原理という制約に対する最適解問題である としている。制約充足のアプローチを認識論的な場面に適用するならば、世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を 候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、物理的事実を条件づけている制約を充足するように 変数の値を確定していくプロセスをモデルとして提示していると考えることができる。ルイスはまた、「反事実的条件法」 (Devid K. Lewis, "Counterfactuals", 1973, 邦訳:吉満昭弘訳, 勁草書房, 2007)に見られるように、 ヴァーチャリティに関する理論的枠組みとして、可能世界の集合、および集合の集合を割り当てる圏域体系を用いている。

なお様相実在論における可能世界という形而上学的な道具立てと、例えば量子論の多重世界とは区別されるべきであり、 両者は混同されるべきではない。前者においては現実世界と因果的に全く独立しており、現実世界で 成立しているヒューム的スーパーヴィニエンスは現実世界とその近傍の類似性をもつ可能世界に関する局所的で偶然的な原理 に過ぎず、物理法則が成り立たないような可能世界があっても構わない。だが寧ろそれゆえに、「音楽芸術」のような、人間の想像力が 及ぶ限りのヴァーチャリティに深く関わるものを扱おうとしたときに参照可能な理論的枠組みとしては有効であろう。他方、理論物理学に おいても物理法則がどこまで普遍的なものであるかに関する議論があり、別段、別の世界を持ち出さずとも、この世界の始まりには、 現在成り立っていた物理法則が成立していなかったという理論が提唱されていることにも留意しておくべきだろう。

(B)ジャン=ピエール・デュピュイの「賢明な破局論」

ルイスの反実仮想性に関する議論を導きに、過去から未来へと推移する「歴史の時間」に対して、「投企の時間」の形而上学の可能性を 示し、因果的な連鎖の推移する時間に対する逆流として、可能態としての破局の予測を位置づけるジャン=ピエール・デュピュイの試み がある。彼は従来確率論やゲーム理論の枠組みで構築されてきたリスクの理論を補強することによって原子力発電所の事故などのリスクに 対する倫理的思慮の基盤として援用することを目指す「賢明な破局論」を構想している。(Jean-Pierre Dupuy, "Quand l'impossible est certain : pour un catastrophisme éclairé", 2002, 邦訳「ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて」, 桑田光平・本田貴久訳, 筑摩書房, 2012)

(C)フッサール現象学の可能世界意味論による解釈(ヒンティッカ)

可能世界意味論は、例えばヒンティッカによって為されたフッサール現象学の志向性理論の可能世界意味論による解釈( 「志向性と内包性」(Jaakko Hintikka, "Intentionality and Intensionality", 1975)を参照せよ)などを通じて、 現象学的な枠組みとの関連付けを試みることが可能である。 特にヒンティッカがフッサール現象学における志向性を内包性の観点から捉え、概念が志向的であるのは、それがさまざまな 可能的な事態ないし出来事を同時に考慮することを含むとして可能世界意味論による志向性の論理学の構築を試みている点、 とりわけその中では、対象の「超越」が我々の信念と両立可能な可能世界の多様性、 すなわちその対象が要素となっている可能世界の多様性の無尽蔵さと関連づけられている点は注目されて良い。更に言えば、 ヒンティッカが上掲論文中で芸術的創造に関する節を設け、芸術的創造行為をもその対象としていること、しかも芸術的 創造を従来の「目的論的」な解釈の反例としてあげ、志向性概念の目的論的説明を代替するものとして可能世界意味論を 提示している点は、ここでの文脈において重要な意味を持つ。

(D)プロセス形而上学(ホワイトヘッド)における「生成の自己超越」

世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、 物理的事実を条件づけている制約を充足するように変数の値を確定していくプロセスは、ホワイトヘッドのプロセス形而上学に おいては「生成の自己超越」のプロセスに相当するから、ホワイトヘッドのプロセス形而上学における抱握(Prehension)の理論を 制約充足のプロセスとして読み直す可能性が示唆されるだろう。

遠藤弘は「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」(2000)において、 ホワイトヘッドの形而上学と場の量子論の関係を論じており、波動関数による存在確率の波の収縮を生起が自己を 超越するときに起きるものとしているが、多重世界説については、それが観測問題に関わる限りにおいて、一つの観察者たる 主体が多くのホワイトヘッドにおける「半影」を思い描くものと捉えるとすれば、「半影」(penumbra)の部分を次の生起がどれだけ 取り入れるかによるとしている。ここで「半影」とは与件の周辺につきまとう実現されなかった「永遠的客体」(Eternal Object)のことであり、 過去の生起と潜勢態とがコントラストをなして、次の感受のための誘因(lure)として機能するものである。フッサール現象学的な 意味合いでの対象の超越はわれわれの信念と両立可能な可能世界の多様性、すなわちその対象が要素となっている可能世界の 多様性の無尽蔵さであるが、これは与件の周辺につきまとう実現されなかった永遠的客体である「半影」に対応している。

ホワイトヘッドのプロセス形而上学の枠組みは極めて一般的なものであり、その図式は非常にミクロな事象を扱ったものである 点には留意すべき(従って「自己超越」という言葉を、人間化して理解するのは一旦は留保すべき)であるが、その一方で、 人間のような、高度な意識を持つ結合体(nexus)におけるマクロな事象の水準との連続性もまた存在する。自己組織化過程に おける上位の階層での新しい法則性の創発があるとはいえ、自己再帰的なアナロジーが成立する部分もまたあるのである。 (ここで量子論やエントロピーの保存則に関する「観測」についての議論が、意識的存在者である人間による観測から、「機械」による測定を 経由して、ミクロレベルでの観測の対応物に辿り着いていることを想起されたい。)そしてその限りにおいて、そうしたマクロな秩序の、 しかも歴史的・偶然的な産物に過ぎない「人間」であるわれわれの経験は、自己超越により可能世界の集合を制限することはできる (というか、制限してしまう)が、他方で超越的対象のそうした「半影」を取り込んでしまう程度に応じて、主体の思い描く像は 多重世界とならざるを得ないのである。

一方、主体が複数あったときに、その主体の歴史的経路(historical routes)を積分すると、その値は各主体に 分散してしまうという意味でのモナド論的とでもいうべき存在論的水準での多重世界というのを考えることもできる。 そして、デイヴィッド・K・ルイスの様相実在論との関わりではこちらの方が一層興味深い(例えば可能世界の因果的独立性を、 同時に存在する主体の相対論的な意味での因果的独立性から導くことができる)。だがこの点を主題的に扱うのは 本論の射程を離れることになるので、ここでは示唆に留めざるを得ない。

(E)量子論における「多重世界説」

そしてまた、上のような議論を踏まえてみると、量子における複数の状態の重ね合わせによって多重世界=「半影」が 成り立っており、観測とは周囲の環境が量子系の情報を得ることで量子の波動性を破壊するプロセスに他ならず、 量子論的な重ね合わせの状態から古典的な確定した状態へと自己超越するプロセスであると記述できる。 であれば、まさに2.7.において言及したセス・ロイドの著作に出てくる量子コンピューティングと、制約プログラミングの モデルとの間に感じ取れたアナロジーも見かけほど突飛なものではなく、寧ろ従来のコンピュータではなく、 量子コンピュータこそが制約充足パラダイムがより十全なかたちで実現できる基盤であると考えることも可能なように思われる。

*   *   *

6.おわりに

6.1.人間のための、だが人間の自己超越としての「音楽」

音楽だけが、というわけではないが、少なくとも音楽は優れて人間のためのものである。それは三輪さんのように、 コンピュータのようなメディアを獲得して後に、アルゴリズミック・コンポジションという、一旦あたかも 最も人間から離れた地点で音楽を思惟する人が、逆シミュレーション音楽という、もしかしたら今日、音楽が そうでしかありえない地点を、ぎりぎりまで抽象したかたちによって作品を産み出しつづけるその成果によって、 それまでになかったような説得力のある仕方で証されたことである。

そうした地点から、かつての音楽、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない 音楽作品とその演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に 属する人間が作曲し、記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に 終わった作曲を、別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、 自分のできる仕方(それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、 そうした人間の営みによって、音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、 そうした自分という或る種の制限、檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも 関わらず、その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて未知の 知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、私のようなちっぽけな 人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。

勿論、それは常に生じるわけではなく、ごく限られた作品のごく限られた演奏であるのだが、その狭さが私という 個体のフィルターの限界によるものであることはほぼ疑いないことであるのに対し、その強さは私の容量を常に 圧倒的に超えてしまっていることが感じ取れる。 それはまさにカントが「判断力批判」において、あるいはヘーゲルが「美学」において「崇高さ」に割り当てた性質と 極めて類似した何かを備えているようなのだ。そこには「人間」のための音楽が、「人間」を介して、「人間」を 超越していく、と同時に「人間」もまた自己超越していくという逆説を見出すことができるだろう。

6.2.数理の世界と「計算する宇宙」

その一方でもちろん人間は、数理の世界の風景に圧倒されることもできるし、そこにも美を感じ取ることができる。 否、人間達の社会よりも寧ろ、数理の世界の中でより一層自由に動き回ることができるように自分のことを 感じる人間にとって、共感覚者が数字に色を見たりするのとさほど違わないメカニズムによって、 抽象的な空間の起伏を感じ、道なき道を見えない手によって導かれ、次の角を曲がったときに遭遇する 何かを予感し、慄くこともあれば、慰めを感じることすらできる。

想像力、あるいはカントにおいては構想力と訳されることもある 能力によって、多様な選択肢の中から新しいタイプの出来事を出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、 ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた物理学的、化学的、生物学的、 社会学的過程を支える数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が 生成しうるような仮想的な場を用意することが作曲であるとするならば、それは制約プログラミングのパラダイムによる 問題解決とのアナロジーが成立するプロセスであるという感覚から私は逃れることができない。そのアナロジーを支えるのは、 そうした人間の営みそのものが、複雑な世界を創ることのできる「計算する宇宙」の一部であるという事実に根ざしており、 そしてそれらの作製のプロセスを捉えるフレームとしての制約充足のパラダイムなのではないか。

6.3.アルゴリズミック・コンポジションと制約プログラミングとの並行性

そうした展望を踏まえた上で言えば、「和声平均化アルゴリズム」による運指の自動計算という問題に対する 技術的な解決手段としても勿論制約プログラミングは有効だが、それ以上に、音楽と制約プログラミングを用いた 問題解決に、より本質的な並行性があることを感じずにはいられない。

制約プログラミングに基づいて自動計算された運指に従い人間が演奏をすることと、アルゴリズミック・ コンポジションによる作品を人間が演奏することとの間には、 前者が人間の身体の構造上の生じる条件を制約として、それを充足する運指を計算しているのに対し、後者は 「逆シミュレーション音楽」が鮮やかに証しているように、「計算する宇宙」の数理的な秩序に対して「由来」を 与えることにより、誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙(ただしその宇宙は 「計算する宇宙」そのものである)を想起させるための儀式たることを目指しているという差異を 捨象すれば、形式的な水準での違いはないと言って良い。(そして制約プログラミングによる問題解決の 他の場面での適用、要員配置計画、設備利用計画etc.との違いもない。)

勿論、その差異にこそ「音楽」の意義が賭けられているのであるが、「音楽」もまた「人間」の尺度から 自由ではないことを無視してはならない。それは「計算する宇宙」の数理的秩序の、人間の尺度における 反映であり、「計算する宇宙」そのものの一部である「人間」という領域における自己再帰的な実現なのである。

制約プログラミングによる問題解決をしていて強く感じるのは、問題解決のための現実を抽象化して作成されたモデル自体は モデル化の出発点であった現実からの意味づけを離れてしまえば単なる数理的な構造に過ぎず、だからそれは他の問題を 解く事にも利用しうるものであり、モデルが何を意味するかは、それを利用する人間の側が付与するものに過ぎない、 ということである。

その一方で、計算というプロセスは、それがこの宇宙で生起する限り、完全に抽象的なものではない。計算もまた、 物理的プロセスに他ならず、シミュレーションは或る意味で、シミュレートされる対象である現実と類似した構造を備えた、 並行した、別のもう一つの現実である。裏返せば、対象となっている現実もまた、シミュレーションと並行した 計算であると見做すことができるだろう。当然のことであるが、チャールズ・ベネットが言うように、 そもそも計算機もまた物理法則に従わざるを得ないし、計算の原則は人間が勝手に選べるわけではないのである。 (ちなみにドイチュが量子コンピュータを発想したのは、この発言をきっかけであり、またドイチュは量子論の多重世界説に 関心を持っていたとのことだ。)

このように考えたとき、制約充足による問題の解決とアルゴリズミック・コンポジションによる作曲という行為の間の並行性は 一層明確なものとなる。両者はともに、デュピュイの言う「投企の時間」性を備えたものである。それらはいずれも人間の 「自己超越」と関わっているのであり、それは論理学的な意味で偶然的な、ある歴史的文脈の産物に過ぎない「人間」概念 自体の(自己)更新にさえ関わりうるのである。

常には芸術とは縁遠く、 産業応用の場面において用いられる制約プログラミングさえ、それを用いた各種計画の自動作成の開発においては、 人間の計画立案者の感性に寄り添うことがしばしば求められる。しかし現実には、完全に人間の計画立案者の代替と なることはない。その差異には人間の犯すミスをすることがないという実用上のメリットの側面もあるが、 研究目的であればともかく、実務上開発されるシステムでは人間の臨機応援さには所詮は及ばないという側面もある。 しかし、特に興味深いのは、そのいずれでもなく、完全に制約充足解でありながら、人間には思いつかないような 解を機械が求めることがしばしば起こるという点である。人間の感性に寄り添いつつ、人間の計画作成プロセスを 一旦機械に置き換える作業の過程において、人間のやっていること(計画作成の対象となる作業と計画作成作業自体の両方)を、 暗黙の裡に排除して「やっていないこと」をも含めて、程度の差はあれ浮かび上がらせてしまうことになり、その結果が (機械が作成した計画に従って計画対象となる業務が遂行されるという意味と、開発において獲られた知見に基づいて対象となる業務の プロセスを改善するという意味の両方において)現実のプロセスにフィードバックされるという事態が起きるのである。 一般には産業応用のプロセスでは目的論的な発想が強く求められ、制約プログラミングを用いて開発されるシミュレータ、 スケジューラは道具としての性格を持つものと規定されてしまいがちだが、実際のプロセスを振り返ってみると、 それは必ずしも目標の設定と達成といった図式に収まりきらない側面を持っており、しかも逸脱する部分こそが 本質的な寄与を為すこともしばしば起きるのである。

そしてこうしたことは、ヒンティッカの述べる通り、「芸術的創造活動」においてはより一層本質的な側面となる。 実際、「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」という、題材それ自体は工学的でもありうる可能性を 持ちながら、あえて美学的なアプローチを試みたフォルマント兄弟の今回のプロジェクトでも並行的な事態が生じているのを、 協力していく過程で私は間近に経験することができたので、これについては節を改めて証言をしておきたい。

6.4.兄弟式MIDIアコーディオンはヒューマン・インタフェースなのか?

それは事後的に見れば、冒頭に述べた「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」の「国際化」規格の成立プロセスのでのことであった。 実は「国際化」も、少なくとも当初はそれ自体が目的ではなかったと記憶しているし、結果においてもそれは単なる「国際化」には 留まらなかった。 その背景についてはフォルマント兄弟自身から説明があることと思われるので詳細は割愛するが、当初の五十音表に沿った、 或る意味ではわかりやすく、操作上も1モーラ1ボタンで済ますことができるインタフェースから出発して、 1モーラにつき2つのボタンを必要とするという演奏技術上の困難さと引き換えに、子音単独の発声や中間母音の発声を 可能とすることで、結果的に日本語の歌詞をピッチつきで「歌う」ためのインタフェースから逸脱し、寧ろ人間が生物学的に 備えており、発声・歌唱に用いている器官の代補をする補綴器官を、生得的な器官を操るのとは全く異なった仕方で操る ためのインタフェースとでも呼べるものが獲得されたのである。つまり「国際化」規格は、同じ「MIDIアコーディオンによる 合成音声の発話及び歌唱のインタフェース」でありながら、その内実や射程において全く異なるものであり、 MIDIアコーディオンの存在自体を道具としての「楽器」から、或る種の「器官」の延長へと変えてしまったと言いうるように 思われる。従って私見では明らかに、兄弟式MIDIアコーディオンは単なるヒューマン・インタフェースではないのである。

それはもともとは、最初のインタフェースにおける、常にモーラ単位で音声を合成することに起因する 「不自然さ」(子音から母音へのわたりが制御できないなど)などの技術上の問題の解決の選択肢の一つであった。 だが、或る種の精度向上が意図されていたのだとしても、規格化され、平均化された歌唱を目指すというよりは、 「自然さ」を背後で支えている「音楽」における規格化しがたい部分を捉えようとするフォルマント兄弟の一貫した 志向に拠るものであり、「和音平均化アルゴリズム」が微細な音程のゆらぎを実現するための手段として考案されたのと 軌を一にするものであることに注意すべきだろう。

そしてそれは意図せずして、「歌」と叫びや囁き、唸りや喘ぎといった感情表現との連続性を浮かび上がらせることになり、 「歌」における「言語」に先立つ領域を照らすものとなった。しかもここでは生得的な固有の器官ではなく、本質的に 固有性を持ち得ない、「誰のものでもない」声が身体性や人格・個性といったものと不可分のものであると見做されるであろう 「表現」を行っているのである。私にはこうした「事実」を述べるのが精一杯で、到底そのポテンシャルを汲みつくすことなど できないが、別のところでも述べたように、この試みが単なる補綴性すら超えて「ありえたかも知れない未聞の種族の 音楽を仮構すること」へと通じ、その射程は美学的な側面に留まらず、倫理的・存在論的な次元にまで及ぶであろう点と、 こうした展望がまさに自動音声合成による歌唱を追及する試みの中でこそ可能になった点は強調しておきたい。

そのことは、一見現実から 遊離した無力な存在に見做される「音楽」が、しかもその中でも一見したところ人間的な感情から最も遠いところにあるかに 見えるアルゴリズミック・コンポジションによる「逆シミュレーション音楽」や自動音声合成による歌唱を追及する試みが、 まさに最も人間的と見做されるであろう「音楽」を、あえて「機械」を経由させることによって、「音楽」自体に留まらず、 「音楽」を含めた現実に対する批判的なポテンシャルを獲ていることを確認させることであった。 そうした迂回路を経たシミュレーションによって生じるヴァーチャリティから、危機的な状況にある現実に対抗し、 現実を変化させるリアルな力を汲み取っているのである。更に、そうした作業を可能にするのと同じ「想像力=構想力」が 危機的な状況における倫理的思慮の基盤であることがフォルマント兄弟の活動や三輪さんの活動から強く示唆されるのである。

6.5.むすびにかえて

安易なアナロジーは欺瞞的な結果をしばしばもたらすが故に慎重であるべきだろうが、セス・ロイドのように 宇宙を情報処理機械と見做す発想に基づくならば、制約充足のパラダイムの持つ展望は非常に大きなものがあるように思われる。 そしてそうした枠組みの中で改めて人間について考え直すことこそ、メディアに取り囲まれ、浸食されてかつての 定義から異なったものへと変容しつつある今日の人間、あるいは三輪さんが「感情礼賛」において「夢に見た」ような、 あるいはレイ・カーツワイルのような技術的特異点論者が特異点の後に予見するポスト・ヒューマンの世界(Ray Kurzweil, "The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology", 2005, 邦訳:「ポスト・ヒューマン誕生: コンピューターが人類の知性を超えるとき」, 井上健監訳他, NHK出版, 2007)を意識した上で、現在における「人間」と音楽との 関係を問い直すことに挑んでいるフォルマント兄弟や三輪さんの試みに応答することであると私は考える。

以上のようなことから、より広く、フォルマント兄弟や三輪さんが取り組むべき 課題と捉えておられる事象を記述するためのフレームとして、あるいはフォルマント兄弟や三輪さんの活動も含めて、 音楽に纏わる過程の全体を眺める際のフレームとして、更には制約プログラミングによる問題解決という行為自体をも アナロジカルに捉えるためのフレームとして、制約充足のパラダイムの適用可能性を探っていくことは意義のあること ではないかと思われるのである。(2014.2.2初稿, 2.9, 11改訂, 2.11公開, 2.14, 2.19加筆・修正)

[謝辞]

本研究への協力の機会を作っていただくのみならず、モデルの構築・改善にあたっての助言、検証にあたっての 実データの提供や結果の検証や音声化などを通して支援して下さったフォルマント兄弟に感謝します。