2008年11月27日木曜日

「愛の賛歌 4ビット・ガムラン」東日本初演を聴いて

「アート・コンプレックス2008 第2夜 三輪眞弘プロデュース 愛の賛歌 4ビット・ガムラン」
2008年11月24日神奈川県民ホールギャラリー

三輪眞弘「愛の賛歌 4ビット・ガムラン」(東日本初演) 演奏:マルガ・サリ、美術:小金沢健人、解説:三輪眞弘

ガムラン・アンサンブルのための作品「愛の賛歌」は初演以来これまで何度か再演されているにも関わらず、その場所が私の在所からは 遠隔であったため、これまで聴く機会を得なかった。それがいよいよ横浜で演奏されるということで、神奈川県民ホールへと赴いた。 連休最後の振替休日だが催しは夜、終演後の帰途の時間が行く前から気になる上に、当日は雨も降り、些か気分は萎え気味ながら 約1時間半かけて会場に着くと、「トゥーランドット」と思しき音楽が鳴り響いているのに驚く。キエフ・オペラの公演の丁度最後の数分の タイミングで着いたということだったようだ。これからガムランを聴くのに、その前にイタリア・オペラのフィナーレにぶつかることになり、 これまた些か複雑な思いに捉われる。

厳密に言えば「トゥーランドット」を私はきちんと観たことも聴いたこともないけれど、プッチーニの 音楽は決して未知の存在ではない。一方で、三輪さんの音楽には関心をもって接してきたけれど、ガムラン音楽というは私にとって 全く未知のジャンルである。未知のジャンルといっても例えば箜篌のような復元楽器の場合とガムランとは明らかな違いがある。 前者にはない(あるいは断絶し、喪われてしまった結果、知ることのできない)伝統が、後者にはある。ここで伝統というのは通時的な 次元のみを指しているのではなく、共時的な広がりも含んでいる。伝統は単線的なものではないしマルガ・サリのみがその伝統の 継承者ではない。だがどっちにせよ私はいずれの側面についてもほとんど何も知らずに、いきなりそうした伝統の恐らくはかなり特異な一点と 接することになるのである。「西洋音楽」だって所詮異国のものではないか、という言い方は可能だし、それを否定することはきっとできないのだが、 能楽や義太夫節といった、それでも比較的接する機会の多い日本の伝統音楽ですら、「西洋音楽」に比べればはるかに皮相な知識と 経験の持ち合わせしかない。所詮は劣等比較に過ぎないとはいえ、聴取のみならず演奏の経験の有無、記譜法からはじまって、楽器の奏法やら 楽典についての情報の量と定着度において有意な差があることは否定しがたい。

その一方で三輪さんの音楽の方法論は、それが如何なる伝統に帰属するのかという点はおくとして、或る種の普遍性というか、どんな媒体にも 適用できる一般性を備えているのは確かなことだろう。アルゴリズミック・コンポジションによって生み出された作品の媒体の多様性を考えれば それは明らかなことで、「またりさま」の隣に「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」もあれば「蝉の法」もある、といった具合なのだ。そして勿論、 「愛の賛歌」もまたその中に位置づけることが可能だろう。

だがそれでは三輪さんの作曲というのは、例えば「フーガの技法」が少なくとも結果としてはそうなったように、特定の媒体に依存しない抽象的な 音の構築物の案出なのかといえば、決してそうではない。勿論、原理的にはそうした選択肢もありうるのだが、実際には三輪さんの作品において アルゴリズムは、演奏する「行為」に対して適用されるからだ。些か単純化して端的な言い方をすれば、それは音のシステムであるより多く、 奏法のシステムなのである。注意すべきは、あくまでもそれは「奏法」のシステム、つまり「音楽」を演奏する行為にフォーカスされていて、 より一般的な身体の動きへの向かうことはない。そしてそれと表裏をなすように、そのシステムはその行為の結果生成される音響について 無頓着であるわけではないのだ。演奏行為のシステム化は、生成される音響にもその痕跡をはっきりと残すのである。従って、音響のみを 記録して、別の文脈で再生することを可能にする「録楽」が、演奏行為を伴った狭義の「音楽」と区別されるのが当然である一方で、 「録楽」が単純に無価値なものとして否定されるわけもまたないのだ。だが、これまた当然の帰結なのだろうが、三輪さんの音楽ほど 演奏の現場に立ち会って「音楽」を経験することと、「録楽」を聴くことの違いを痛感させられることもない。多分その一部は同時代性や 実演に立ち会うことと録音を聴くことの割合といった要因に因るのだろうから、因果の転倒の懼れなしとはしないが、それでもなお、 三輪さんの方法論、「奏法」の方法化が「音楽」と「録楽」の違いを際立たせていることは間違いないように感じられる。

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それでは「愛の賛歌」についてはどうだったろうか。演奏会場は「トゥーランドット」が演奏された大ホールではなく、小金沢健人さんの 展覧会が行われている地下のギャラリーで、中央にガムラン楽団が座る雛壇が設けられ、それを三方から取り囲むように 聴衆が取り囲むかたちで行われた。椅子は用意されず、クッションのようなものが床に置かれ、そこに座るのである。実はこれには理由が あって、この催しでは「愛の賛歌」が演奏されると同時に、男女各1名の舞踊が行われ、さらに四方の壁に小金沢さんの作品が映写 されるため、床に座った方が都合が良いわけである。クセナキスの「ポリトープ」が上演されたとき、観客が床に寝そべって空間を飛びかう 光線を眺めていたのが記録として残っているが、そうした例を思い浮かべていただければ良い。聴衆の数はきちんと数えたわけではないが、 少なくとも100人程度はいたのではなかろうか。

プログラム構成は、最初に10分程度三輪さんの解説があり、その後「愛の賛歌」の演奏が行われた。演奏時間は約50分ほどで、 私がこれまで実演に立ち会った三輪さんの作品の中では物理的には最長の作品である。全体としては19:30開始で20:40終了 だから1時間10分ほどの催しだった。

最初の三輪さんの解説の内容について簡単にまとめておくと、まず最初に天候、即ち雨の話があった。大切なイベントには雨が降る といった話で、当然のことながら昨年の三宅島の「手順派合同祭」のことに言及されていた。ついで三輪さんの「プロデュース」についての 説明。他の作家の作品の紹介をするなど別の可能性も考慮のうえ、「愛の賛歌」の東日本初演を選択したと述べられ、また、 アート・コンプレックスのコンセプトとして、現代音楽、アートといった各領域それぞれにとっての外部との関わりをテーマに据えるという点から、 ガムランがそうした外部として位置づけるという主旨が説明され、「愛の賛歌」は、譜面を持たないことなどに端的に窺えるように異なった 伝統を持っているガムランで演奏されるが、「現代音楽」として作曲されているという点に言及され、詳細はプログラムノートに記載されている旨、 説明があった。

その上で特に(1)「4ビット・ガムラン」について、(2)「愛の賛歌」というタイトルについて、(3)コラボレーションについての3点に ついて以下のようにコメントされた。

(1)「4ビット・ガムラン」について:西洋の音律に従わないガムランのための作品をどのように作曲するか考えて、奏法、様式にアルゴリズミック・ コンポジションを適用することにした。つまりこのように演奏せよという奏法の指定にアルゴリズムを適用した。4ビットによる状態表現を4人の 奏者の演奏指示とし、ビットが立っているときに音を奏することとする。4人の奏者は2人で1組でそれぞれ向かい合って演奏するが、 一方は数え上げ、一方は数え下げをする結果、同時には音を出さず、同時に休むことも無い音の系列が得られることになる。 結果として、演奏される音は次々と変化をしていくことになり、同じパターンは出現しないので、伝統的なガムランやミニマル・ミュージックなど の反復による楽曲構成とは異なった構成法である。また舞踊は音楽とは独立のものだが、「4ビット・ガムラン」の奏法の展開である。

(2)「愛の賛歌」というタイトルについて:2人1組の2組が4ビットの系列の遷移を奏していくことに、遺伝子の二重螺旋のイメージを重ね合わせた。 規則による計算の物質化という点で共通している。またペアであることから「愛」への連想がはたらく。一方「愛」はポップスをはじめとする 多くの音楽がテーマとしているが、それは神も宗教もない今日において日常の合理性を超えた経験であるからではないか。恋に「落ちる」 という言い方が適当なように、それは努力して得られるものではない。そしてそうした経験は音楽経験の持つ超越性に関係すると考える。 4人の奏者もまた偶然もなく、即興もなく決められた系列を音にしていくが、にも関わらずそこには感情の作用があるし、音楽は感情の起源たりうる。

(3)コラボレーションについて:伝統的なガムランが舞踊や影絵芝居と組み合わせて演奏される一種の「総合芸術」であることから、この催しも 同様に開かれたものであって欲しいと考えた。小金沢さんの映像については、旧作を再編集したものを用いた。色鉛筆の二本の線がゆっくりと 動き続けるもので、線の同一性、連続性、色の持つ固有性の表現など、映像でしか実現できない極限が示されていると考える。また、映像が ひたすら動き続けることが生命のメタファーになっているように感じられる。止まることは死を意味する。線の存在、動きと生身の人間の演奏が 一体のものになっている。

最後に演奏時間が約50分であること、ガムランの持つ独特の非日常的な時間性を経験できることを願っていることを述べて、スピーチが終わり、 続けて演奏になった。

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演奏に接しての印象は、これまでの三輪さんのどの作品よりも、能を観たときの感覚に近い、しかも能の中でも「翁」のような祭祀性の強い能を 非常に優れたシテが舞うのを観たときの身体感覚に近い、ということだった。といってもこの感覚は舞踊によるものではなく、寧ろ音楽のリズムと 経過によるものであった。「翁」における囃子のリズムは他の能とは些か異なっており、呪術的といってもいいような強度を持っている。かつて 喜多流の初会で香川靖嗣さんが「翁」を舞ったときの経験は強烈で、身体が内側から温まるような感覚になったのを覚えているが、 それに近い感覚を今回も感じることができた。

50分というのは作品の時間方向の構造を規定する規則から想像すれば、些か長過ぎるのではと思われそうだが、実際に聴けば そんなことはない。作品の中の時間の流れは一種独特のものであり、その外部に基準を持つ時計による計量はほとんど意味を持たない。 最後の部分ではっきりと音が疎になり、収束するのが知覚されて音楽が間もなく停止することがわかるが、それまでの時間の流れ方の 方向感覚は独特で、その音楽は映像と舞踏とのコラボレーションがあったにも関わらず、それとは別にもう一つ別の風景の次元を 備えていたと私には感じられた。途中で中列の楽器や最前列の擦弦楽器と声のパートが何度か加わることによる時間の分節が 生じるが、それは全体としてどこかに向かうというのではなく、寧ろその場で日常は折りたたまれて見えない別の次元をその中でだけ 仮想的に展開して提示するようなものであったと思う。

作品の構造については幾つか気になる点もあった。背景となる4ビットの軌道を辿る後列の4人の奏者が、定期的に挿入される銅鑼に よって区切られるように4拍サイクルの系列を奏していくのに対して、前列の2人のパートは3拍1サイクルで重なっていくのだが、 その重ね合わせの規則や、更にその上に加わる擦弦楽器や声のパートの入りや演奏される音形がどのような規則に基づくものかは はっきりとわからなかった。また、演奏時間はほぼ予告どおりだったようだが、演奏中に計算ミスが生じれば、軌道は予定されたものから 逸れていくと考えられる。そうしたハプニングの可能性、別の初期値による演奏の可能性など、興味は尽きないが、これらについては 三輪さんにお話を伺わなくてはわからないだろう。また、私の座った位置からは演奏中に中列の奏者が床におかれたおはじきのようなものの 位置を定期的に移動させていたのが見えたが、その目的なども伺ってみたいところである。

というわけで、全体としては三輪さんが意図されたであろう音楽の祭祀的な側面は非常に顕著な水準で実現されていたと思う。 伝統的なガムラン音楽を全く知らない私にとって、そうした伝統の中にある人なら持ちうるであろうような、言い換えれば、西洋の音楽の 文脈でなら無意識のうちに自分がしてしまうであろうような距離の測定は、今回はなすべくもない。だが、そうした伝統の文脈を超えた部分で その音楽は確実に力を備えていたと感じられたし、三輪さんの方法論はここでも大きな成果をあげていたように思えた。残念なことに、 私は音を聴き出すと視覚の方が疎かになってしまう(そのかわり、音が描き出す風景ははっきり見える方なのだが)ために、コラボレーションの 成果について述べることはできないが、それはそれに相応しい他の方に委ねることとして、私は自分が聴いた音から受け取ったものに ついて語るに留めようと思う。最後に一つだけ、これは三輪さんの作品の演奏に立ち会う時にいつも感じることなのだが、今回もまた、 その「音楽」に接して、とても元気づけられるような気持ちになった。少なくとも私にとって三輪さんの音楽は、自分もまた何かをしなくてはならない、 あるいは何かとにかくしてみようという気持ちにさせられる類のものなのだ。それは(拙くても、無価値であっても)私自らの「実践」への誘いである ように私には感じられるのである。(2008.11.27初稿, 11.29修正・加筆)

2008年10月13日月曜日

「シリーズ音の洪水 vol.1 現代音楽の冒険 三輪眞弘の世界」を聴いて

「シリーズ音の洪水 vol.1 現代音楽の冒険 三輪眞弘の世界」(主催:洪水企画
2008年10月11日新宿文化センター小ホール

ステージ鼎談 「音楽は三輪眞弘にどんな冒険を命じたか」 西村朗/小沼純一/三輪眞弘
三輪眞弘「虹機械 ふたりの奏者のための単旋律」(世界初演) 演奏:ROSCO (ピアノ:大須賀かおり ヴァイオリン:甲斐史子)、作品解説:三輪眞弘

「洪水」誌を主催されている池田康さんが三輪さんのコンサートを企画され、そこで新調性主義による新作が発表されるという お話を伺い、新宿文化センター小ホールへ。定員210名の通知があったが、ざっと見渡したところ半分程度の入りだったろうか。 ここでもいわゆる「部外者」がどれくらい聴きにきたのだろうか、と思ってしまう。「洪水」誌の関係者と三輪さんの知り合い。 2つの集団が、それぞれの内部では「再会」し、でもそれぞれの間では恐らくほとんど無関係のまま共存する。 私はそのどちらにも属しておらず、会場に着いてから去るまで、一言も誰とも喋らない。逆説的なことに、見ず知らずの人間が 隣の席で同じ出し物を体験し、見ず知らずのまま別れていくという、通常のコンサートではごく当たり前のことの奇妙さが 浮び上がるように思える。強いて言えば能の公演が似ているだろうか。演者のお弟子さんたちの集団にまじった外部の人間。

開場がやや遅れたせいもあり、自由席なのでまず席を確保して、そのまま席に坐ったまま「蝉の法」がスピーカーから流れるのを聴きながら 開始を待つ。三輪さんが違いを強調するからか、あるいは例外的に三輪さんの場合にはコンサートに赴き「録楽」より「音楽」を 聴く機会が多いせいか、あるいはこの前聴いた「録楽」ならぬ「音楽」が西さんによる「蝉の法」だったせいか、スピーカーから流れる 「蝉の法」に或る種の目眩のようなものを感じる。

クロノロジカルには前後するが、鼎談の最後に「録楽」に関して出てきた「幽霊」という言葉がこの感覚と関係するのは間違いない。 テクノロジーが可能にした再生芸術の生み出す「幽霊」。同時にチャーマーズに代表されるような意識の哲学の思考実験に 登場する「ゾンビ」のことをふと考える。コンピュータがあるアルゴリズムに従って(ただしここにはヴィトゲンシュタインのいう 「規則随伴性」は存在していない)生成する系列の音響への翻訳と、それを人間が演奏したものを記録したものの「再現」。 短絡させた「ゾンビ」の「幽霊」というのは実はありえない。今回の「虹機械」のマトリクス(母型)となった「五度重ねの 公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」は、コンピュータによるシミュレーション結果がそのままICCでデモとしてプレゼンテーションされた。 そこには「幽霊」はいない。いつも同じものが再生されるという点では同じでも、西さんがある日ある場所で演奏した「蝉の法」の 記録の方にしか「幽霊」の存在を可能にする条件はないのだ。だがそれは、それが西さんが演奏したものであることを私が知っているが故の 錯覚ではないのか。実は西さんが弾いているのではなく、デカルトの懐疑に出現する自動機械よろしく、ロボットがヴィトゲンシュタイン風の 「規則随伴性」なしに、ある種の「盲目性」のもとで演奏したものの録音だとしたら?これまた「虹機械」と関連の深い Nomadische Harmonieにおけるプレイヤーズ・ピアノの使い方の可能性のことを思い浮かべても良い。「幽霊」は一体どこにいるのか。 それが結局は見聞きする私の裡にいることは確かであっても、「幽霊」出現の条件の問いは依然として成立するし、 それはトリヴィアルではないし、不良設定問題というわけでもないだろう。ただし「幽霊」を経験から(何なら「クオリア」から、 と言ってもいいが)離れた言葉の遊びに解消してはならないだろうが。

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催しは2部構成になっていて、池田さんによる主催者挨拶、三輪さんの紹介に続いて、前半の1時間は 小沼純一さんが進行役、西村朗さんが質問をして三輪さんが答えるといった役回りの鼎談。 15分の休憩をはさんで後半の45分は新作初演。三輪さんの解説と、ROSCOの演奏で合計2時間のプログラムである。

鼎談の内容は、もしかしたら「洪水」誌に掲載されるかも知れないのでここでは細かくは記すことは控えることにして、 個人的に特に印象に残った「ロマン主義」批判とその周辺の問題に限って以下に少し触れたい。 全体として西村さんの問いは鋭く、三輪さんの立場を闡明するという狙いを実現したものであったし、 小沼さんのコメントも三輪さんの活動の座標定位を行うことに寄与して、非常に充実した対談であったと思う。

三輪さんの批判する「ロマン主義」が括弧付きのものであり、それがアルゴリズミック・コンポジションを梃子にした 「音楽」の通念に対する問題提起のための戦略といった側面があったことはほぼ明らかだったが、それが鼎談で 明らかにされたと同時に、「表現」の問題が引き出されたのが私には興味深かった。音楽が感情や情緒の「表現」ではなく、 狭義の世界観の「表現」にさえ留まらず、世界に対する認識や姿勢に基づく「実践」であるという点が重要だと 思われる。そして「ロマン主義」に属する音楽であっても、私個人にとって、その点は変わらない。 作者の意図の次元においてもそうかも知れないが、それを超えた水準においても、聴き手は音楽を聴くことにより 世界の認識の様式を、感受の様態を、世界に対する姿勢を、世界の中に存在する様態を感受することができる。 そこに人間の限界を超える意志を感じることも出来るし、限界を超えることのできないことへの諦観を聴き取ることも できると思う。

音楽を聴くことは、ホワイトヘッド的な意味合いで「感受の感受」であり、感受の伝達なのである。だから 音楽をコミュニケーションモデルにおけるメッセージを伝達する形式と見做すことは行き過ぎた抽象化であり、 狭義の「表現」では汲み尽せない次元でのやりとりが音楽を通じて起きている様相に注目すべきなのだ。 見方によっては「ロマン主義」の典型と見做されるマーラーが自作について「あらゆる手段を用いて世界の構築をすること」と 言ったり、「もはや人間の声ではなく、天体の運行である」と言ったりしたこと、音楽が自分を常にはみ出すという意識を 持っていたこと、それを自己の表現の手段とは捉えていなかったことを思い浮かべても良いだろう。一般にはこうした発言や態度は 後期ロマン派の肥大した自我の誇大妄想の表明という扱いを受けることが多いが、そうした扱いは一方で十年一日どころか 百年前と何も変わっていないかの如く、マーラーの音楽の「標題」を、その「内容」としての「世界観」を議論すれば 事たれりという姿勢と表裏一体になっていて、実は自分の身の丈に対象を合わせて歪めている点では変わるところがない。 「ロマン主義的音楽観」として批判されているのは、具体的な音楽の経験ではなく、それを単純化した誤った抽象であり、 そうした抽象がドクサとなって音楽の聴き方を拘束してしまうことに対してなのだろう。「着メロ」を平気で切ることの 出来る同じ人間が、その「着メロ」に設定した恐らくお気に入りの旋律によって「心から心へ」メッセージが、「熱い思い」が 伝わると信じているということだって充分にありえるわけである。

(全く関係のないことだが、ひどくびっくりした点を一つ。西村さんが後期ヴェーベルンを「ニヒリズム」とおっしゃったのには びっくりした。それとともに、自分のヴェーベルンの音楽の聴き方が間違っているのかと思って、結構へこんでしまった。 私が聴く限りでは、後期ヴェーベルンは寧ろニヒリズムとは逆の境位にある。ニヒリズムがあるとしたら、それは後期ヴェーベルンを 受容した側の受容の仕方の方にあって、ヴェーベルン自身は全く別の方向を向いていたし、それは受け継がれなかった というのが、私の率直な印象なのだ。ここでの文脈に引き寄せれば、そこには「中世」への還帰もあるかも知れないし、 その一方で当時はコンピュータはなかったけれど、見方によってはアルゴリズミック・コンポジションの萌芽すら見出せるかも知れない。 「論理」についてもそうだし、「超越」についても然り。ここで問題なのは、アルゴリズミック・コンポジションもまた、 モダニスムの極限であるといったレベルの話よりも、「ノモス」を、音楽と「ノモス」の関係をどう考えるか、どこに人間を、主体を 置くかというの姿勢の問題であり、表面的な方法とはとりあえずは別の水準なのである。もっとも、ニヒリズムの定義も様々なので、 例えばクセナキスにも三輪さんにもニヒリズムはある、後期シベリウスにもある、ということであれば、後期ヴェーベルンにもあると いうことになるのかも知れないが。)

もう一つだけ印象を付け加えれば、コンピュータとの関係の具体的な様相の話になると、やはり実際にプログラムを 作って動かして、結果を検証して、というプロセスを実際にやった経験の有無というのが実感の有無と結びついてしまう 感じは否めない。こちらも言葉で伝えるのにはどうやら限界があるようで、些かおこがましい言い方になるが、三輪さんの 発言の中で私のような部外者が感覚的に腑に落ちる部分がうまく伝わっていないようなもどかしさを感じる場面があった。 これは勿論、理系かどうかといった問題ではなく、単純に経験の有無による暗黙知の問題なのだ。アルゴリズミック・ コンポジションに関しても同じで、オートマトン、力学系を(それが具体的なモデルか、形式的な側面かはあまり大きな 問題ではなく)実際に調べたり、記述してみたり、という経験の有無は大きいように思える。こうした側面は、私にとっては 三輪さんの際立ってわかりやすく、親しみやすい部分だし、「同時代」ならではの問題意識や、テクノロジーの共有を 背景とした「共感」(それが幻想であっても)を支えている側面だし、上記の「ロマン主義」批判とも不可分のものに 感じられるのだが、それが例えば、「論理と魔術」といった捉え方で「中世的」なものに結び付けられると、逆に自分に とっては自明と感じられている「同時代性」が、実は甚だ危うい、自分の勝手な思い込みによるものなのでは、という 疑念さえ浮かんでしまう。中世における世界認識のありようが、実感として本当にわかるのだろうか、 という疑問の方はおくとして、「魔術」がテクノロジーをブラックボックス化したことによって生じた余白を埋めるために 用いられているとしたら、やはりそうした捉え方には違和感を感じる。

何でもそうだが、テクニカルな側面の内側から見れば、多分「魔術」などないのだ。勿論それはすべてが合理的に 説明できるという意味ではない。そうではなくて技術的に追い詰められる限界がどこまでなのかは、知っている 人間には(一応は)明らかであり、課題もまた明らかな筈だということである。 そして閃きとか着想とかの独創性や、それらの掘り下げの徹底、思いがけない展開というのは、 その先にしかない。逆に言えば、その先は恐らくいつでもどこでも(例えば数学や理論物理学の世界でも) 同じなのではなかろうか。

例えば遅ればせながらノーベル賞を受賞された南部陽一郎さんの理論的な着想は素人目にも天才的な閃きに満ちていて、 まさにそれは最高の意味での「冒険」と呼ぶのに相応しいと私には感じられる。 本当に今まで受賞しなかったのが不思議で、個人的にはこれほど嬉しいことはなく、素人の独り善がりの滑稽さは承知で、 あちらこちらにその感激を言ってまわっているのだが、その凄さが本当にわかるのは同じくノーベル賞を受賞した 益川さんのような同じ圏に属する人に違いない。自身の受賞にはあんなにクールな反応を示された益川さんが 南部さんの業績に触れた時に感極まって声を詰まらたのは本当に印象的だった。 そこには外部の人間の想像するレベルでの魔法などなく、厳密な数理が支配している領域で数学という技術を 使って世界についてどのような未聞のモデルを描きうるかが問題なのだ。物理の場合には常に観測によって理論の 正しさが検証されるが、南部さんの提示する理論の場合には、検証の結果、ディティールにおいて仮に難点があったとしても、 その理論によって新たな見方が、アプローチが可能になるという凄みがある。勿論、領域は全く異なるし、 感動の質も異なるし、その一方でどちらに対しても所詮は素人で、だから本当の凄みがわかるということは ないのだが、それでもなお私にとって三輪さんは、私なりの接点によって同じような種類の凄みを感じることのできる存在なのである。

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一方の新作「虹機械」については、Nomadische Harmonieに触れて色々試行した経験や、 ICCでの新調性主義の発表をライブ・ストリーミングで視聴した文脈を持っている私にとっては、 そうした参照先を思い浮かべつつ、外乱によって遍歴に出て、様々な遷移過程を経て収束する音の流れに身を浸す、 実に刺激的な経験だった。受けた刺激のすべてを言語化することは勿論できないが、幾つか、特に印象に残った点を ここに書き留めておきたいと思う。

「虹機械」の虹は、「虹の技法」の虹とは異なって、ここではNomadische Harmonieでは視覚化されていた 調性の虹を指しているとのこと。作品は3つの部分(以下、便宜的に楽章と呼ぶことにする)よりなり、 それぞれ「無題」「ロム・アルメ(L'homme armé)」「シンクロナイズド(Synchronized)」と題されている。 全体をいわゆる無窮動(perpetum mobile)の音の継起が覆っているが、これはアルゴリズムによって 自動的に生成された音の系列に他ならない。第1楽章ではヴァイオリンが、第2楽章ではピアノが 音の系列を凄まじいスピードで演奏していくのに対して、第1楽章ではピアノ、第2楽章ではヴァイオリンの ピチカートが間歇的に音をおくだけである。第1楽章はわずかに3回、第2楽章は17回それがおきる。 第3楽章は2人が合奏で音の系列を演奏していくが、終曲間際、音の系列が収束するととともに、 楽器に替わって奏者が自分の声で収束した音形を歌う。全曲の長さは測定していないので正確には わからないが、15~20分程度ではなかったか。

ICCでは既述の通り、「五度重ねの公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」がデモとしてプレゼンテーションされたが、 これは力学系の分類でいけば自律系であって、12分程度の音の系列は初期値から厳密に、前に鳴った音を 入力として次に鳴る音が計算されるのを繰り返すことによって生成されていたのに対し、「虹機械」の最大の 特徴は、系が非自律系であり、開いていることだろう。この点はNomadische Harmonieと共通していて、 いわば他者が打ち込む音が外乱要因となって音の系列に変化が起きるのである。上述の第1楽章では ピアノ、第2楽章ではヴァイオリンのピチカートが鳴らす間歇的な音がまさにその外乱要因であり、 特に第1楽章では、はっきりと音の系列とは異質な音が鳴らされ、その前後で音列の継起パターンが はっきりと変化するためすぐにそれとわかる。(特に冒頭、同じパターンの繰り返しをずっとヴァイオリンが弾くところに ピアノが最初の介入をするところはわかりやすく、私はここですぐにNomadische Harmonieを思い浮かべた。) それに対して第2楽章はヴァイオリンが置いていく「ロム・アルメ(L'homme armé)」(中世のミサ曲などで旋律が 繰り返し用いられた民謡)が、音の系列の中からロム・アルメの音を拾い出したものか、第1楽章同様の外乱 かが私にはわからなかったのだが、正解は後者であったようだ。詳細はわからないながら、Nomadische Harmonieでは 「君が代」で人間が割り込んでも自動生成される音の系列を大きく攪乱することにはならなかったし、 「ロム・アルメ(L'homme armé)」は旋律としては比較的単純だから、外乱であったとしても系の状態を そんなに急激に変えるような働きをしなかったのかも知れない。第3楽章はまさにシンクロナイズされているから、 これは自律系であり、アルゴリズムは音を中心とした調性に収束するようにプログラムされているから、最後には 単純な音形の繰り返しになって終結する(この末尾が人間の声で歌われるのである)ものの、それまでの過程は かなり複雑で、ICCの時もそうだったように幾つかの準安定状態を彷徨ったのちにようやく収束する。

ROSCOのデュオを想定してのことかも知れないが、デュオにしたときに一方が他方にとって系の外部に 立つようにした趣向は興味深い。その一方で、Nomadische Harmonieとは明らかに力点が移動している点が 注目される。即ちここでは、機械と人間とのインタラクションが問題なのではない。外乱といい開放系といい、 結局は事前に計算され、記譜されているわけであるし、それを人間2人が役割分担して演奏するのである。 コンピュータの生成した音列を人間が演奏する点では逆シミュレーション音楽に近いが、規則に基づく計算を 人間がしながら音を鳴らしていくのではなく、計算結果を音響に変換する作業を人間がやっていく。従って、 アルゴリズムが単純なものであるという制約はここではなくなり、実現する音響の複雑さや多様性には 大きな自由度が存在することになるとともに、演奏者には今度は高度な名人芸が要求されることになる。 丁度ラヴェルのヴァイオリン・ソナタのように。

ラヴェルは左手のための協奏曲を委嘱したヴィトゲンシュタイン(こちらは兄のピアニスト、パウル の方)が音を勝手に変えたのに腹を立て、「演奏家は作曲者の奴隷だ」と言い放ったらしいが、言い方はともかく、 ここには西欧音楽の伝統の中で、一般には表面的で精神性に欠けると見做される傾向にある、だが実際には 作曲者が強い信頼を置いている、演奏家の高い技量とそれを支える技術の伝承のシステムを支えとする 「名人芸」の側面が取り出されていると見ることもできるだろう。ただしその内実は大きく異なる。というのも、例えば ピアノ音楽で「名人芸」作品と呼ばれる作品は、ピアニスティックに、要するに高度な技巧は必要とするが、 生理的には弾きやすく、聴き栄えのするように書かれる場合が多い。一方では、聴いた感じではそうではないのに 酷く弾き難い作品というのもあって、わざとそうした難所を仕掛けるといった、演奏者への挑戦のようなことも 行われてきた。ところがここでは、そうした楽器奏法上での都合はほとんど顧慮されない。あくまでも 生成した音の列をそのまま演奏していく必要の結果として、いわば生理にはお構いなく演奏至難な箇所が 頻出することになる。

楽器の構造、奏法を顧慮せず、或る種の法則に従って音の配置を決めた結果、演奏至難、厳密には 演奏不可能な超絶技巧を要する作品になった例としては、例えばクセナキスの幾つかの器楽作品が 思い浮かぶ。だが、結果として生成される音響の様相の違いはあまりに大きい。クセナキスもまた 人間が演奏するという点に拘っていたが、クセナキスの音楽は結果としても常に機械による 完全な演奏というのを論理的な極限として設定することができるものであるように思え、クセナキス本人の 意図に関わらず、例えば今日ならMIDIプログラミングによる実現は作品の持つ性質からいって可能だと思う。 寧ろ世代的に先行するクセナキスにとっては電子楽器の性能の限界のせいで、人間による演奏の方が 媒体として優れていたという側面が常にあるように感じられるのだ。

それに比べたとき、三輪さんの音楽はなんと「人間的」なことか。 2人の奏者が第1楽章、第2楽章で行うやりとり、即ち一方が他方の状態遷移を 攪乱する外乱となるという役割もそうだし、第3楽章の最後で人間が歌うのもそうだが、それ以上に、 素人目に見ても凄まじい超絶技巧にも関わらず、あるいはそれを実演の場に立ち会って「音楽」として経験する故にか、 それが人間のものでしかありえないという感じを受けたのだ。(川島素晴さん主催のコンサートで 大井浩明さんの弾くクセナキスの「ヘルマ」を聴いた時には、その美しさに圧倒されはしたものの、 「人間の音楽」という感じは全く抱かなかったのとの対比が個人的には印象的である。)

曲の末尾に人の声が侵入するのは三輪さんがこれまでも用いてきた手法で、「言葉の影、またはアレルヤ」や 369のシリーズなど、すぐに幾つか例が思い浮かぶが、ここでは調性に収束する傾向が与えられた アルゴリズムの収束点をまさに人間が歌うというのも示唆的である。もっともこれは実際上、合理的だとも言える。 調性のない、だが厳密に音高を指定された音列を人間が歌うのは困難で、現代音楽の合唱曲などでは 音叉で音を確認しながら歌うケースもある。音域的にも収束し、調的で、音型としても同型反復になった部分なら、 人間が歌うのも困難ではないだろう。

私が上でラヴェルに言及したのは、時折特に調性感の強くなる部分の響きの質に、 似たような印象を受けたからに他ならない。(実際私は、第3楽章の無窮動(perpetum mobile)を 思い浮かべずにはいられなかった。) 今度は「東の唄」「東のクリステ」のような意識的な引用ではないのだろうが、ここではクセナキスの場合とは異なって、 はっきりと調性を巡る遍歴が問題になっているのだ。調性システムがより「自然」なものであるかどうかに ついては議論があって、確かに単純な振動比に基づく議論や倍音列についてはそうした「自然」を 考えることもできるだろうが、どこかから先はやはりそれは文化的な構築物なのだろう。ここでも平均率 システムの選択、楽器の選択はそうした文化的な構築物への参照を控えめに言っても含意しているし、 どこから「自然」が始まるかを見極めることは重要ではないだろう。重要なのはその「自然」がクセナキスの それのように、あからさまな他性を帯びているわけではなく、どこかで文化的な伝統と親和的なかたちで 繋がっているということだろう。

勿論三輪さんの場合だって、自動演奏ロボットが演奏してもいいのではないか、などといった空想を してみることはできるだろうが、その場合に「歌う」ことは人間が演奏した場合と同じだろうか。例えば 人間にしても、「二人の奏者のための」と銘打たれはしても、ここでは恐らくROSCOの二人の女声を 想定して書かれたヴォーカルの部分が、男性の演奏家が演奏する場合どうなるかはこれはこれで興味深い。 だが、それと自動演奏ロボットの合成音声との間の差は程度の問題なのだろうか。この作品は単に 演奏至難な作品ではない。技術的な完璧さ、音響の完全なリアライズとは別の何かもまた、この作品では 要求されているのだ、ということを感じずにはいられなかった。

それにしてもプロの演奏家の能力というのは素晴らしいものだとつくづく思う。三輪さんが作品解説において、 2ヶ月生活費保証で演奏家を借り切れればスコルダトゥーラにも新しい楽器にも対応できるのだが、 それは現実にはできないとおっしゃっていたが、そうしたアルターナティブなしに普通の楽器で普通でない音の並びを ROSCOのお二人は弾ききってしまわれた。三輪さんはICCでの新調性主義の提唱の中で、演奏家の高度な 技術の蓄積を生かす方向性を語られていたが、そういう意味では、三輪さんの懸念を超えて、 新調性主義の方向性はROSCOのお二人の高い技術と音楽性によって支持されたと考えて良いの ではなかろうか。丁度、物理学では実験による検証によって理論の正しさが証明されるように、ここでは 実演によって、要するに「音楽」としてそれが成立しうるかどうかによって、三輪さんの方向性の正しさが 比喩的な意味あいで証明されたと言えるように感じられた。

*   *   *

いずれにしても、この催しを通して改めて三輪さんの活動への共感を強く感じるとともに、自分のその共感が 非常にローカルで、もしかしたら思い込み、錯覚に過ぎないのでは、という感じを強く抱いた。だがそれは 仕方ないことなのだと諦めるほかなさそうである。三輪さんの音楽に関心を持つ人間の中では私は明らかに マイノリティに属するのだろうし、自分が特権的な視点に立ちうるという如何なる根拠の持ち合わせもない。 自分を取り囲む文化的・社会的・技術的環境の違いの分だけは、自分の展望が歪んだものになるのは 避け難いし、完全な共有は不可能なばかりか、そもそも無意味である。音楽を聴くことになんか理由は いらないのかも知れないが、その点に関する立場も含めて、音楽に対する立場は多様だし、立場に応じて 自分がそこから汲み取るものが異なるのは当然なのだ。三輪さんの音楽に限らず、どんなことでも それを不要とする人間が必要とする人間よりも遙かに多いのは当たり前のことである。一方でその音楽を 必要としている人間にとって、新しい作品の誕生に立ち会えることがどんなに大きな意味を持つかは明らかだ。 私がここに感想を記すのも、ただただそのことをこれもまた一つの実践として、行為をもって示さんがために 他ならない。今回もまた、三輪さんが持っていると私が感じている凄みを感じることが出来たのは間違いなく、 それがこの文章を書く衝動を支えているのは確かなことなのだ。そうした経験が出来たことに対して、 三輪さんと、ROSCOの甲斐さんと大須賀さん、西村さんと小沼さん、そして主催者の池田さんに感謝したい。 (2008.10.13初稿, 公開, 14,18修正)

2008年5月31日土曜日

「蝉の法」を4種類のアングルハープで聴き比べる

ブリヂストン美術館レクチャーコンサート「古代ギリシアのアングルハープ 復元と演奏」 レクチャー:木戸敏郎、演奏:西陽子
2008年5月30日(ブリヂストン美術館ホール)

三輪さんの「蝉の法」は、昨年台風の中で決行された三宅島での「手順派合同祭」の記録を通して聴くことができていて、 その音楽の素晴らしさとともに、西陽子さんの演奏の群を抜いた素晴らしさに深い感銘を受けていた。別のところで繰り返し書いているように、 私は「逆シミュレーション音楽」に納得し切れていない部分があり、その理由の一つが結果として実現される「音楽」の質に対する懐疑で あったのだが、西さんの演奏する「蝉の法」を聴いて、この作品については実現される「音楽」に対する懐疑は完全に取り払われたと感じ、 また西さんが実践されている演奏行為が「逆シミュレーション音楽」の持つ含意を、圧倒的といって良い説得力で明らかにしているように 感じたのであった。些か短絡的な言い方になるが、こんなに素晴らしい演奏が可能なのであれば「逆シミュレーション音楽」を、 実現される具体的な音楽がつまらないという廉で否定することはできない、と思ったのである。もっともこうしたことは例えば、古くは シェーンベルクの十二音技法についてさんざん議論されてきたことだし(それに関するシェーンベルクの彼らしくレトリカルな有名な コメントを思い出していただいてもいい)、クセナキスやラッヘンマンの作曲法にしても同じようなことは言われてきた。 レムの「完全な真空」に「あなたにも本が作れます」と題された一篇があったが、その顰に倣えば「あなたにも曲が書けます」 「あなたにもプログラムが書けます」式の言い方にはいつもそうした側面が付き纏うのであって、勿論、ある価値基準において より良い方法というのはあるだろうが、いずれにしても方法が結果を無条件で担保することなどありえない。「手順派合同祭」の記録は、 企画自体は魅惑的なものであったが、その記録を視聴した限りでは、皮肉にもそうした事情を端的に示す実例になっていたように 感じられていた。

そしてそうしたことを感じ、考えていた折に、三輪さんが逆シミュレーション音楽の展開として「新調性主義」を提示されたのだが、 その中で、特殊な技能を、つまりは特殊な身体を持つ存在としてのプロの演奏家とこれまでコラボレーションを行ってきた経験から、 これまでは寧ろ高い技量を持つ演奏家の専門家としての技能を否定して(少なくともその自明性に揺さぶりをかけて)、 新しい身体を作り上げる方向性にあったのに対して、既存の楽器や技術の継承を生かすよう配慮する方向性を提示された点が 私にとっては非常に印象的だった。それを「新しい音楽」であるかどうかという点に関して「妥協」ととるかどうかについては、三輪さん ご自身が言及されていたように、意見があるだろうが、これまで短期間で間歇的ではあってもそれなりに三輪さんの作品の 実演を聴いてきた私個人の経験に照らして、それは非常に自然で、かつ妥当な選択であるように感じられたのである。

一般的に演奏家の高度な音楽性が作曲家に刺激を与えた例ということになれば、洋の東西、古今を問わず、 これまた枚挙に暇がないが、三輪さんの作曲と西さんの演奏もまた、そうした例の一つに含まれるのは確かなことのように思われる。 例えば2007年末に東京大学で行われた「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」のシンポジウム「機械と音楽」(2) 「20世紀の音楽における機械の可能性」で初演された「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽 「箜篌蛇居拳」公案番号十七」にしても、残念ながら会場の制約から、不完全な形態でしか実現しなかったが、本来は マーチン・リッチズ製作のThinking Machineと箜篌を弾く西さんが文字通り「合奏」することが想定されていたし、定量的に 評価したわけではないが、シリーズを形成する「逆シミュレーション音楽」の作品群の中でも「蝉の法」の再演率の高さは 群を抜いているのではなかろうか。「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」は疑いなく傑作だけれども、これは「逆シミュレーション音楽」から 派生したコンサートピースだし、「またりさま」も演奏機会は多いだろうが、寧ろ儀礼性の側面が強く、コンサートという制度に 馴染まないこともあって「音楽」としての受容については、「蝉の法」に一歩譲るように感じられる。普段は19世紀末から 20世紀前半を中心とした特定の作曲家の音楽のみを専ら聴いているという私個人の嗜好も勿論あるだろうが、 「またりさま」のための新しい身体を獲得した「方法マシン」の演奏もあるとはいえ、私見ではやはり何といっても西さんの演奏する 「蝉の法」の音楽としての素晴らしさは群を抜いている。それゆえ上述の「新調性主義」における優れた演奏家の高度な技量や 音楽性への配慮の方向性の契機の一つに西さんの存在があることは確実なことに思えたのである。

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前置きが長くなったが、私がブリヂストン美術館のレクチャーコンサート「古代ギリシアのアングルハープ 復元と演奏」に足を運んだ 背景を書けばおおよそ上のようなことになる。私は一般的には仕事帰りのコンサートというのが苦手なのだが、今回迷わず 前売券を購入したのは、西さんによる「蝉の法」の実演を聴きたかったということに尽きる。 前日からの雨で気温が下がった曇天の中、仕事の帰りに開場ぎりぎりに到着して受け取った整理券の番号は51番、 前回の東大で聴いた経験から、できるだけ間近で聴きたかったこともあり、少し出遅れたかなと思ったものの、 程なく開場して整理券順の入場となってみると、幸いなことに前の方に空きがあって、前から2番目の列に坐ることが できたのは幸いだった。ホールは美術館の1階にあって、前売りの席数から推測するに130席程度だろう。 コンサートが主目的ではなく、レクチャーとか映像の上演などが主として想定されているに違いないが、アングルハープは もともとコンサートホールでの演奏を目的として作られた楽器でないから、前提から言って観賞には全く支障はないはずで、 寧ろ規模の点からすれば適切ではなかったか。上述の通り私は前から2番目の列で聴いたので、後ろの方の席で どのように聴こえたかは確認しようがないのだが、最後列近くに若干の空きがある程度でほぼ満員の盛況に先ずは少し驚いた。

壇上中央に演奏用の椅子があり、録音用のマイクがセットされていて、向かって左手前、私の席のすぐ近くに縧軫(じょうしん)箜篌が立てられ、 その奥の壁際に並べられた椅子の上に転軫(てんじん)箜篌が倒された状態で置かれ、更にそのすぐ左の左の壁に立てかけるようにしてエジプトのアングルハープ (縧軫)が置かれている。正面向かって右には今回のテーマであるギリシアのアングルハープ(転軫)が倒された状態で 置かれ、右の壁際に講演者がスピーチするスペースが設けられるといったレイアウトで、講演時には正面奥の壁にスライドが映写された。

現代音楽のコンサート、あるいはメディアアートのレクチャーの類とは些か雰囲気も違うようで、それはこれが美術館主催の、 しかも第一義的には復元楽器がテーマのレクチャーと実演であるという性格に依るものと思われた。まずもって、開演前に 演壇の前に人が集まり、置かれた楽器を見たり、写真にとったりという状況に少し驚く。すかさず主催者側から、開演前 および終演後の楽器の撮影は自由であるというアナウンスがあり、控えめに落としていた演壇周辺の照明を明るくした こともあって、開演間際まで演壇の前は撮影する人で賑わった。まさかこうなるとは予想していなかったのだが、同行した 人の携帯で1枚だけ、私の席の正面すぐ近くに立てて置かれていた縧軫箜篌を撮影させてもらい、更にもう1枚、 本稿のために今回の催しの「主人公」たる古代エジプトのアングルハープを撮影していただいた。 開演直前に、主催者からアジェンダが述べられ、1時間程度のレクチャー、10分程度の休憩、その後演奏と補足説明で 全体で2時間の予定であることがわかる。実際には最後に行われた15分弱の会場からの質疑応答も含めて 時間通りの進行で、開場時の誘導から始まって、全体としてスタッフの方の対応は丁寧であるだけでなく、 臨機応変でもあり、運営は素晴らしいものだったと思う。

既に述べたように私がこのレクチャーコンサートに足を運んだのは、西さんによる「蝉の法」の実演を聴きたかったということに 尽きるのだが、流石に鈍い私もここまで来れば、それが少なくともこの催しの主旨からすると些かずれた目的であったということに 気づいて、多少うろたえることになる。だが、終わってみればそれは杞憂で、木戸さんの解説、西さんの演奏とコメントによって、 結果的に三輪さんの「蝉の法」という作品に対する理解もまた、大変に深まった、否、漫然と音楽だけ聴いていたらまず 私にはわからない点が明らかになったこともあって、非常に有意義な催しであった。ということで、催しの主旨はあくまで アングルハープという楽器およびその復元作業についての解説で、コンサートもまたどちらかといえば楽器を紹介する方法と して設定されていた感じがあるが、ここでは木戸さんのお話の内容をもれなく記録することはせず、私が「蝉の法」を理解する上で 役に立ったと感じられる点にのみ触れることにすることをお断りしておきたい。だがその一方で、復元された楽器はその楽器を 復元した人の「思想」の結晶であり、それは木戸さんの「作品」という性質があるのもまた明らかなことで、しかも、三輪さんの 作品はそうした木戸さんの「思想」を踏まえたものなのであり、そのことに気づいた点こそが、今回の収穫の中でも重要な点の 一つなので、視点は逆転するが木戸さんのお考えについても触れずに済ますことはできない。そもそも「蝉の法」は、木戸さんの 音楽運動「舞楽法会」の附楽として委嘱され、2003年に作曲された作品なのである。それは今回のレクチャーでも中心的には 語られることこそなかったが随所にちりばめられていた木戸さんの活動に対する三輪さんの応答であって、三輪さんの作品を 過去に製作された骨董品としてではなく、同時代ならではのその生成の相において眺めたときに、そうした側面の持つ重要性に ついては論を俟たないであろう。

もっとも、このような催しの性質、それによってある程度は規定される観客の反応が、「蝉の法」の演奏にとって、ということは つまり演奏者である西さんにとって必ずしもすべてプラスには働かなかったのでは、という印象もまた否みがたい。 例えば、前半のレクチャーが終わったあとの休憩時間には西さんが、再開後の演奏に備えてチューニングをなさっていたのだが、 開演前同様、休憩時間中も演壇の周りに人垣が出来て、チューニングをされている西さんに対して色々な質問をする 人も見かけられた。質問の内容そのものは楽器への関心に基づく真摯なものであったけれど、そして西さんも嫌な顔をされることなく 笑顔で質問に答えられていたが、それがチューニングの妨げにならないはずがない。ここでも主催者側からストップが入って、 その後は質問は出なかったが、チューニング中の西さんを撮影していたと思しき人もいるなど、楽器を演奏するという側面に 対する配慮については些か希薄な感じもあった。演奏中にがさがさと音を立てる人もいたが、こちらは、作品の演奏を聴くのが 主目的であるはずのコンサートホールにおいてすら(不思議なことに)珍しいことではなく、それを思えば特に目に余ったわけではないが、 それでも感心しないのは勿論のことである。木戸さんが楽器を復元した意図を忖度するに、「蝉の法」のようなその楽器のために 書かれた作品を、西さんのような高度な技量と音楽性を持つ演奏家が演奏すること、つまりそういう点では一般に用いられている楽器と 別け隔てない音楽の実践に楽器が用いられることは決して瑣末なことではないはずで、それを思えば、こうしたことは西さんだけではなく、 木戸さんにとっても残念なことに違いないはずなのである。これまで(まだ短期間で、回数は少ないけれど) 私が三輪さんの作品に接してきた環境の多くが持っていた閉塞感、独特のムラ的な閉鎖性がなく、従って、部外者としての疎外感を 感じることはなかったけれど、その一方で、楽器の復元に対する受け止め方や、復元楽器における作曲や演奏の実践に対する 関心において、こちらはこちらで違和感を感ぜずには居られなかった。どちらの環境にしても、関心の高さ、熱心さや教養という点では 質的には申し分なく高いに違いなく、私のような人間がコメントするのは筋違いで僭越の謗りを免れないとは思いつつも、 今回の催しの主旨に照らして、私の感じた違和感は単に私の方こそが「勘違い系」の参加者であったからに過ぎないとして お終いにしていいものかどうかについては、自分では判断しかねている。

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アングルハープ(英語ではangler harp)というのは2本の木をほぼ直交させ、その間に弦を張る構造を持った楽器のグループの名称で あって、アングルハープのグループの中には今回のレクチャーの古代ギリシアのものも含まれるし、「蝉の法」が書かれた箜篌も含まれる。 パラディグマティックには、アングルハープは撓めた一本の木に弦を張る弓形のタイプやモダンなオーケストラで用いられるハープのように3本の 木でフレームを作って、その中に弦を張るタイプと対比されることになる。一方、歴史的な成立や伝播などの側面を取り払って、 楽器の細部の機構や素材に注目したときに、アングルハープは、(1)弦を調律する機構、(2)弦や共鳴板の素材の2点で下位範疇化できる。 (1)については、(a)組み紐を使って固定する縧軫と、(b)捩子を用いる転軫が、(2)については、(i)弦がガットで共鳴板が皮のギリシア・エジプトのものと、 (ii)弦が絹で共鳴板が木(桐)の正倉院所蔵の箜篌があって、組み合わせ上4種類の楽器が存在することになる。(直接関係ないが、木戸さんが「水調子」に 関連して先代の喜左衛門さんの話をされたこともあり、この話を聞きながら、三味線というのが単純な構造でありながら如何に「複合的」で、かつ操作上の特性に 配慮した完成度の高い楽器であるか、更に義太夫三味線の奏法というのがそうした楽器の構造を踏まえた、これまた完成度の高いものであるかを感じた。 ご存知の通り、現在も使われている三味線は比較的新しい楽器で、しかも楽器として完成して以降の期間が長く、それゆえ奏法上の伝統が 存在するという両面を持つ楽器なのである。更にまた三味線が、皮と絹の組み合わせを採用したのに対して、ヴァイオリンが木とガットの組み合わせを 採用したこと、いずれも指で直接弾くことは奏法の一部には残っているが、一方は撥で弾き、他方は弓で擦るのが基本というのも、 アングルハープの構造、機構・素材に選択における分布と比較した場合、興味深いものがある。)

楽器として演奏した場合の音の質(木戸さんご自身は「音の情報量」という用語をお使いになられているが、情報量という用語は、私が親しんでいる 情報理論などでは、かなり異なった定義がされていて、専ら個人的に抵抗感があるという理由のみで、ここでは別の言い方をさせていただくことを お許しいただきたい)や操作性に、上記の構造と素材が大きく影響するのは当然のことなのだが、まずアングルハープに共通する特性としては、 低音域と高音域の弦の張力の違いにより、音の質が音域によって大きく異なることが挙げられる。木戸さんもご指摘の通り、西欧のモダン楽器の 進化の方向性の一つとして音色の均質化があったことを思えば、これはまさに木戸さんのおっしゃる「始原楽器」に相応しい特徴である。 一方で、西欧の楽器が一応完成した頃から、作曲する側からは獲得された音色の均質化に対する反動が起きている点を見逃すことはできない だろう。私が馴染んでいる音楽では、マーラーの通常の管弦楽法のセオリーに反するような楽器法(鳴らない音域をわざと使うなど)や、マーラーにも 見られ、新ウィーン楽派で更に顕著になる特殊奏法による音色の多様化(これはラッヘンマンのような極端なケースにまで至る)、 両者に共通する、弦楽器における弦毎の音色の特性への拘りや同属の管楽器の持ち替えや重ね合わせの頻用(こちらは特にクラリネット属などで顕著で、 特に相対的に新しい楽器であるにも関わらず、音域による音色の変化に富んだクラリネット属への偏愛自体が音色への嗜好を良くあらわしている)、 あるいは特殊な打楽器の増加、特に調律できない騒音的な打楽器の使用などが思いつく。アングルハープの第2の特性としては調律がしにくいことが 挙げられ、特に縧軫の場合の制御の困難は機構上容易に予測できるのだが、そちらも併せて、「始原楽器」が実はそうした私にとっては馴染み深い トレンドに繋がるという側面は無視できないだろう。三輪さんご自身の活動では昨年のマーチン・リッチズとの自動機械Thinking Machineの 共同制作が記憶に新しいが、こちらもまた、手作りでウニカートであるという特性ではパーチなどの試みとの関係が、新しい創作楽器が新しい音律や 音色の追求と密接な関連をもって行われてきたという点では例えばクセナキスのシクサンと、更に、創作・演奏・享受といった実践の相の見直しという点では やはりクセナキスのUPICなどのメディアとの比較すら可能に違いなく、そうしたコンテキストに木戸さんの活動と、それに連動した三輪さんの「蝉の法」という作品を 置いてみることができるはずなのである。

今回の催しの最後の質疑応答での客席の関心が集中した点でもあるのだが、そもそも復元楽器の場合、調律法や奏法、利用形態などの 伝承が存在しない場合がほとんどで、今回のテーマのアングルハープにしても例外ではない。 通常の楽器と異なって、復元楽器では作品を創ることのうちに調律法や奏法の指定が含まれること、木戸さんも「始原楽器」という呼称の説明に因んで 同様のことを強調されていたが、更に敷衍してしまえば「始原楽器」を歴史主義的な視点から古代楽器の復元として 捉えるよりは、寧ろメカニズム上、近代西欧の楽器とは異なった制約・性質を持つ創作楽器と見做す方が適切で、そこでは調律法、奏法ばかりか、 その楽器が用いられる文化的・社会的な環境なりコンテキストなりもまた、新たに定義されるものなのだ。そうしてみれば、木戸さんの委嘱が 三輪さんにとって渡りに舟ではなかったかと想像されるほど、復元楽器のための作曲が三輪さんの活動とその背後のコンセプトにとって格好の 設定であるのは明らかである。「蝉の法」という作品そのものの紹介が非常に簡単なものになってしまったせいもあって、そこに焦点が当たらなかったのは、 今回の主人公があくまで「楽器」自体であることを考慮しても些か残念なことである。できれば「蝉の法」の「楽譜」がどんなものであるか、 「逆シミュレーション音楽」の定義ともども、その概略の説明があれば良かったのに、と思われてならない。 実際、客席からの質問の多くは「蝉の法」の「楽譜」を見れば自明のことも多く、その場に三輪さんが同席されて、ご自身のお考えを説明できれば、 木戸さんの活動に対する適切な視点を提示することになった筈なのだ。

もっともそれでは2時間では時間が足りないし、今回の催しに盛り込むのはもともと無理だとは思う。かつまた今回は古代ギリシアのアングルハープが 中心なのだから無いものねだりだろう。更に言えば、私から見ればカバーストーリーに至るまで全くお誂え向きに見えても、古代楽器の復元という 点に関心があり、歴史的な事実に興味があったであろう今回の催しの参加者の中の恐らくは少なからぬ割合の方々にとっては、 そうした側面は余計なものなのかも知れない。だが箜篌が復元楽器としては例外的な利用頻度の高さを保っているのは、 西さんの活動による部分が大きいに違いなく、また三輪さんの「逆シミュレーション音楽」は、結果的にそのための有効な戦略たりえているのは 間違いのないことで、もし楽器の「復元」が、単なる機構の物理的な再現で終わりだという認識が一般的なのであれば、木戸さんにとっても それは不本意な受け止められ方ではないだろうか。こんなところに書くよりはアンケートに回答すればよいのだろうが、そういう点から考えて、 今後の企画の方向性として、楽器自体よりも復元行為の射程にフォーカスした展開が考えられるのではないかという感想を私は抱いた。

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今回は長短はあったが、上述の4種類全ての復元楽器で「蝉の法」が演奏されたのだが、恐らくは企画の狙い通り、それによって楽器の 機構や素材の違いははっきりと体感できたと思う。ガット弦は構造上、弦の張力に限界があるこの種の楽器ではどうしても音色上、 ぼんやりとした印象のものになる。更に、音域による音色のコントラストについても、絹の弦に比較すると変化には乏しい印象がある。 三宅島での「手順派合同祭」では転軫箜篌が、東大のレクチャーでは縧軫箜篌が用いられたと記憶しているが、いずれにしても 「蝉の法」は、絹の糸が可能にする音域による音色のコントラストの大きさを活かせる作品になっているように思える。 一方で木戸さんは重視されておられないようだったが、転軫と縧軫の機構差の音色への影響もまた、私の耳には無視できないものに 聴こえた。それは西さんが、弦の中央ではなく端を弾く時にはっきりするのだが、共鳴版が皮か木かの違いの方もさることながら、 組み紐にひっかけて固定する縧軫と、木製の捩子に巻き付けて固定する転軫では音の硬さのようなものがはっきりと違うように 感じられたのである。一方で転軫と縧軫の比較およびそれぞれの絹とガットとの組み合わせについて言えば、恐らくガットと縧軫を 組みあわせたエジプトの楽器は、最も「冴えない」(これは必ずしもネガティブな意味合いで用いているのではないが)感じが する一方で、絹と転軫の組み合わせの転軫箜篌は、鋭く硬い感じが強く、私に音色上最も「美しく」感じられたのは 縧軫箜篌だった。縧軫箜篌は音色の多様性という点でも最も豊かで、演奏されている西さんが縧軫箜篌を最も気に入られている とおっしゃっていたのは個人的には共感できる。

縧軫箜篌に関しては、木戸さんが前に聴いたときより音が鳴るようになっているとおっしゃっていたのも印象的だった。 楽器は手入れをして使い続けることでコンディションが維持されるというのはよく言われることであるが、アングルハープとて 例外ではないのだろう。西さんのお気に入りの縧軫箜篌は、立てて置ける専用の台も作られ、脚の部分には椅子の脚につける ようなキャップがつけられて、演奏中に滑らないように対策もされていて、そういうところからも使用頻度の高さが想像できる。 三宅島での「手順派合同祭」は実演ではなかったこともあり、今回、直接空気を伝わってくる音を間近に感じ取ることができたことで、 弾かれていない弦が共鳴を起こす効果や長い弦が弾かれたときのどちらかといえば打楽器的な空気の振動を伴うこもったような 弱音など、微細なところまで聴き取れたのは貴重だったし、中でもとりわけ、縧軫箜篌の芯がある柔らかな音色と響きの 変化の多様さに接することができたのは、身震いが来るほど感動的な経験だった。

勿論、そうした印象を受けたのには、西さんの卓越した演奏技術と解釈が寄与していることは言うまでもない。 もともと三輪さんの楽譜には、音の継起の規則と、基本的なリズムパターンに関する説明以外のものはない。 三輪さんの音楽が、感情や情緒の表現という意味でのロマン主義的な立場をとっていないことを思えばそれは 当然なのだが、(よくある「原典主義」に関する誤解と同様に)だからといって、「機械的」な演奏がオーセンティックなわけはない。 アルゴリズミック・コンポジションの多くが退屈である理由の一つが、演奏解釈に関するそうした点についての勘違いに起因している というのはおおいに考えられることだし、現実には、それが演奏技術の未熟や解釈の不在の隠れ蓑というか口実に使われている ようにしか思えないようなケースも見受けられる。「蝉の法」が恵まれているのは、それが西さんという優れた演奏家によって 繰り返し演奏されているという事実に依るところが大きいのではなかろうか。楽譜に指定があるわけではなくても、 弦を弾く位置の違いによる音色の変化、弾き方の違いや、琴や三味線のそれを思わせる特殊奏法、強弱の変化、 微細なテンポの揺れなどが西さんの演奏には盛り込まれていたし、もともと三輪さんの楽譜も完全に確定的な指示になって いるわけではなく、演奏の自由度を許容していて、演奏者の解釈が介在する余地は大いにあるのである。結果として 西さんの演奏解釈によって「蝉の法」が聴き応えのある充実した作品となっているのは疑いないことだと思う。 そしてそれがアングルハープなり箜篌なりの楽器の特性をしっかりと踏まえたものであることにも注目すべきだろう。 一つ一つの音に固有の表情があり、いわゆる音に「さわり」が感じられるのだ。調律の困難と表裏一体の演奏中に生じる 音程のゆらぎすら、紛れも無く「音楽」の一部になっているのだ。そればかりではなく、西さんは初期条件に応じて その後の時間方向の発展過程が決定論的に決まるこの「蝉の法」の作曲法に従い、恐らく確実に、幾つもの初期条件を 試されて、その中の音楽的に興味深い幾つかのものはその過程をほとんど把握されていて、その場の状況(例えば 演奏時間の制約など)に応じて使い分けをされているようにうかがえた。(残念ながら「楽器」が主役の今回の催しの 質疑応答では、三輪さんの作品の演奏固有のこのような点についての質問は憚られたこともあり、 ご本人に確認したわけではないので、これは私の推測に過ぎないが、多分大きくは間違っていないと思う。) いずれにせよ、西さんが本来は筝の演奏家であることや、繰り返しになるが、箜篌にはもともと奏法の伝統が存在しないことなどを 考えあわせ、西さんの創意の豊かさと楽器に対する接し方に対しては感嘆の念を禁じることができない。

最後に述べたピッチの問題は、特にその点について主題的にコメントするだけの重要性があるだろう。アングルハープの 楽器の構造に由来する調律の困難については既に触れたし、縧軫の場合には更にその困難が増すという点にも言及したが、 それは東大でのThinking Machineとの「合奏」の際に特に問題になったという話を伺ったことがある。Thinking Machineは ピッチが固定されていて変更が利かないので、自ずと箜篌をそれに合わせて調律せざるを得ないのだが、もともと箜篌は 絶対的なピッチを合わせるのには全く不向きな楽器なのである。しかも調節機構が素朴であり、かつ弾奏するという奏法の 問題もあって、演奏中にもピッチの変化がはっきりとわかる程度に起きてしまう。もっとも、そういう点では例えば ヴァイオリン属の楽器でも程度の違いはあれ同じような問題は生じているわけで、そこではこうしたピッチの変化を 誤差と受け止め、それゆえに場合によってはマーラーのような長大な多楽章構成の作品の場合には、楽章間に チューニングが行われることさえ珍しいことではない。ところが、箜篌をはじめとするアングルハープの場合には、それを 誤差と受け止めれば、許容限度を超えるようなことになってしまうゆえに発想の転換に迫られるという事情もあるのだろう、 とりわけ独奏楽器として使用する限りにおいては、その変化を寧ろ楽器の特性の一部として捉えるような 発言が、木戸さんからも西さんからも伺えたのは非常に示唆的であった。もっともこれは邦楽器の伝統では決して 異質な発想ではないだろう。木戸さんは邦楽の世界ですら、音色の均質化が進み、大人数を収容するホールに 響き渡るような大きくて張りのあるムラのない響きが優勢な傾向を嘆かれていたが、実際、義太夫節の三味線でも ごく一部のお歳を召された名人の音色の多彩さに比べて、若手の多くの三味線は音色の次元が幾つか縮退していると 感じられるほどで味気なく退屈なものなのは私も繰り返し感じてきたことである。

このピッチのずれに関して最も興味深いのは、アングルハープの構造上の特性上、各弦の独立性が低く、 木戸さんの言葉をそのまま使わせていただけば「運命共同体」にあることだろう。そしてこの傾向は、機構上、縧軫の 楽器に最も典型的に顕れるのは容易に想像ができる。西さんが演奏中のピッチのずれも、誤差ではなくてより 積極的なファクターとして取り込みながら演奏をしているという発言をされていたのにも、そうした楽器の特性が 与っているように思われるのである。ある特定の弦だけ大きくずれてしまえば、それは誤差としか捉えようがないが、 木戸さんのいう「楽器の自然な状態」への収束過程と捉えれば、それ自体が時間方向の発展の項の一つと 考えることができるわけだ。そして私見では、「蝉の法」を創るにあたって、三輪さんがそうした楽器の特性を明確に 意識しているのは間違いない。「逆シミュレーション音楽」は、どれも人間が犯すミスに対しては頑健で、そうした ノイズを新たな軌道への転轍機として利用しているのだが、丁度「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」が 弾き慣れない微分音程の利用によって時間経過とともに拡大する誤差を逆用したように、「蝉の法」においても (勿論、調弦は規定されているが)やはり時間経過とともに「楽器の自然な状態」に収束しようとすることで 生じるピッチの変化を予め織り込んで作曲を行ったように感じられるのである。勿論、西さんも三輪さんも 訓練を積んだ音楽家であり、私のような人間に比べて遙かに鋭い音感を持たれているから、ピッチの変化に 気づかないはずはないし、気にしたら気になるに違いないのだ。そしてピッチの変化は私のような素人にさえ 感じ取れるくらいの程度のものなのである。けれども「蝉の法」のアルゴリズム自体は実は、ピッチの絶対幅には 依存しない仕組みになっている(弦を弾く両手それぞれの2本の指の位置の移動規則が与えられている)点に 注意してもいいだろう。要するに「蝉の法」の作曲法は、アングルハープの構造特性に対して頑健に出来ている ということもできるし、その特性を利用していると見ることもできるように思えるのである。 こうした事情は今回の催しのように楽器の構造についての解説をしていただかなくては気づかない点であり、 また木戸さんが三輪さんの作品を非常に高く評価されている様子がお話から伺えたことからも、木戸さんの 楽器復元、西さんの奏法の開発と演奏、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」による作曲という コラボレーションが非常に緻密に行われたこと、そしてそれが西さんの演奏によって実現される音楽の質の高さと して私のような門外漢にもはっきりと感じ取れることが確認できたのは非常に印象的な経験だった。

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というわけで、これは大変に充実した企画で、西さんの「蝉の法」の実演に接するという、もともとの目的が達成できたばかりか、 「蝉の法」という作品が、箜篌という楽器の特性を実によく考慮して創られたものであることを認識できたこと、更には 「逆シミュレーション音楽」が(その狙いそのものではなく、副産物的な効果だという見方もあるだろうが)非常に意義深い仕方で 機能していることを実感することができたのは大きな収穫であった。帰りは例によって途中までは混雑したマナーもへったくれもない 電車(しかも金曜日なので、酔客の割合が多く更に性質が悪い)に乗ることになり辟易したが、こうした催しであれば、 めげずに再度足を運びたいと思った。できればやはり休日の昼間の方がいいには違いないけれど、、、(2008.5.31初稿)

2008年4月12日土曜日

「New Tonalism / 新調性主義 ―逆シミュレーション音楽の彼方へ―」について

ICC開館10周年記念セッションシリーズ Vol.4 デモ・パーティ「Media Explosion!!」
2008年1月20日(東京オペラシティ4階・ICC特設会場:ライブ・ストリーミングによる視聴)

以下の記録は、上記の催しにゲストとして参加された三輪眞弘さんのデモのライブ・ストリーミングを自宅のPCで視聴した際のメモに基づいている。 内容としては、最初に「新調性主義」についての20分弱の講演があり、続けて12分程度の作品のデモ、その後質疑応答が行われた。

三輪さんの思考は、そして創作活動はこの3ヶ月程の間にも進んでいるわけで、この手の記録は本来、時間が経過しないうちに 公表することにこそ価値があるのかも知れない。しかし残念ながら、専ら私的な事情でその時間をとることができず大幅に公表が遅れてしまった。 だがその一方で、その内容の価値が僅か3ヶ月程の時間で色褪せてしまうということはないだろう。私としては寧ろ―例えば有名なところでは ソシュールの講義録がそうであったように―、自分の理解力の限界から、あるいは単純な聞き間違いなどによって、三輪さんの考えが正しく 伝わらないことを懸念している。そうしたことのないように留意したつもりではあるが、その一方で、いつものようにこれは、現代音楽に関しては門外漢である 私の「感想」に過ぎないことを最初にお断りしておきたい。より客観的な講演記録にしてしまおうかとも考えたが、まずもって時間が経ってしまった こともあり、自分のメモの内容の正確さに信頼がおけないのでそれは断念した。もっとも、そもそもそれは私の役割ではないだろうし、 ライブ・ストリーミングが可能なくらいだから、ありのままの記録はICCにアーカイブされているに違いなく、客観性を問題にするならば、 始めから私の出る幕はないはずである。というわけで、以下の文章の文責は私にあることを明記するとともに、専ら私の誤解や聞き違いがあたかも 三輪さん自身の発言として流布することを防ぐ主旨から、内容の転載は控えていただけるようお願いする次第である。

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最初に音楽と録音された音楽である「録楽」の区別についてから話が始まり、「逆シミュレーション音楽」が、単なる音響でも演奏でもなく、 まずその核心がアルゴリズミック・コンポジションにあり、寧ろ脳の拡張と見做しうること、さらに「逆シミュレーション音楽」の定義にはルールに従って 演奏を行う人間の身体が含まれること、しばしば複数の身体による分散システムであること、ルールは身体にとって未知のもので、 それは新しい身体、新しい技芸を作る試みであるという説明が行われた。

そうした「逆シミュレーション音楽」の先にあるものを考えるにあたって、(1)アルゴリズミック・コンポジションは保持すること、 (2)音楽の持つ神秘性・超越性も保持すること、(3)素直に捉えられる音楽であること、の3点を前提に置くことにする。 特殊な技能を、つまりは特殊な身体を持つ存在としてのプロの演奏家とこれまでコラボレーションを行ってきた経験から、既存の楽器や 技術の継承を生かすよう配慮する方向性が考えられる。そこで「調性」(Tonality)の見直しを行う。ただしそれは機能和声に 従うことは意味しない。調性はあるが機能和声には従わない「新調性主義」(New Tonalism)を提唱する。

そのときに調性へのマッピングのあり方は多様で、単純なものではありえない。そうした観点からの三輪さん自身の作品中での 先駆的な試みとして、「東の唄」とNomadische Harmonieがあげられた。後者は五度圏の考え方に基づく 16音の音列を初期値とするオートマトンの一種である。ここではその考え方に基づく実験作「五度重ねの公案による 単旋律ハ長調(エオリアン)」のデモを行う。デモはコンピュータによるシミュレーションだが、ピアノでの演奏を想定していて、 最終的な作品は人間が弾くことになる。作品は初期値が与えられると前の2つの音を見て次の音を決める規則に従う。 パターンは12分くらいで収束する。まだもっと調性的に響くものを求めて暗中模索中である。

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「五度重ねの公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」のデモ
一聴した感じでは、単純な規則にも関わらず、リズム、アタック(ペダルを含む)、音群の分布の点で かなり多様なパターンを生成している。(ペダルについては、後に、音程の幅が狭くなるとペダルを踏むように プログラムされているという説明があった。)単旋律とのことだが、擬似的な対位法のような少なくとも幾つかの 声部を聴き取ることが可能に感じられる(バッハの無伴奏ヴァイオリンの作品を思い浮かべれば良い)。結果として 生成されるパターンは単なる音響ではなくもっと構造的なもので、適切な命名と定義が必要だろうが、 少なくとも私には優れて「音楽的」なものに聞こえた。これが完全に単純な規則に基づいているものとはちょっと 信じ難い複雑さで、特に後の質疑応答で、三輪さん自身が言及されていた、擬似的な収束を何回か経て 最後に収束を迎えるその過程は、実際に解析したわけではないから専ら比喩的な言い方に留まるが、 カオスの縁の豊かさ、複数のアトラクターを遍歴する「カオス的遍歴」を思わせる豊かな構造を持ったものだった。

デモの後は、引き続いて質疑応答の時間になった。以下、その概略を記載する。メモを元に起こしているので、 もしかしたら他者からの質問と、三輪さんの自問が混同されている部分があるかも知れないが、何が話題と なり、三輪さんがどのように考えているかの大筋は把握できるものと考える。

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Q:収束するとMi-Laが残るように聞こえたが?
A:Mi-La-Reが残る。音が集中していく様な傾向は与えられているが、具体的にどのようにそれが起きるかは やってみないとわからない。

Q:音楽も詩も絵画も人の心を揺さぶらなければ価値がないと思っている。そういう意味で、作品における 収束は情緒的なものを狙ったのか?
A:そうではない。これは単にルールに従っているだけだ。

Q:作曲にあたって、情緒的な抑揚などはつけていくのか?
A:それはしない。それはロマン派的な発想。J.S.Bachは「俺の熱い気持ちを聴いてくれ」とポリフォニーを 書いたのではないだろう。ただし人の心、感情に働きかけることはあるだろうし、寧ろその様子を見てみたい。 感情を込めるのは演奏者の仕事であって、作曲者は関係ない。勿論、密かにある部分が好き、とかはあるが。 この作品では擬似的な収束が周期的に訪れるが、それをどう解釈するかは演奏者の自由である。

Q:聴き手の知覚の観点から眺めると、聴き手の印象としては途中は12音音楽のようで最後は調的に聞こえた。 結局のところ「新調性主義」というのは、作る側の心意気のようなものに過ぎないのではないか?
A:作品にはまだ改良の余地があると考えている。特に転調に注目している。移行のさじ加減の問題であり、そこにフォーカスして 改良していきたい。

Q:作品のメカニズムについて解説して欲しい。
A:16音の並びが初期値として与えられる。後は規則に従った決定的な動作を行う。

Q:「またりさま」は、新しい規則に従っているという演奏者の「感じ」があるという点で、新しい音楽と言えると思う。 一方「新調性主義」の場合はその点についてはどうか。同じことが言えると考えているか。
A:勿論、そのように期待している。このような方法では作曲者は寧ろ観察者に近い。現在の制度上は作曲者と 呼ばれているに過ぎない。逆シミュレーション音楽を知っている人にとっては、「新調性主義」は妥協に見えるかも知れないが、 プロの演奏家が現実に居るわけで、その現実に対応したい。あわよくばポップスを作りたいと考えている。

Q:自分が予想していたことが当たっていて、うれしく思っている。
A:読まれていましたか、、、

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以上で三輪さんのデモは終わり、デモ・パーティそのものもクロージングへと向かった。クロージングではゲストが デモ・パーティ全体の感想を述べる部分があったが、そこでの三輪さんのコメントは「予想していたよりもはるかに 楽しかったし、学術的な研究もあって面白かった」といった内容だった。

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この手の催しではどうやらごく当たり前のことであるというのが最近になってやっとわかってきたのだが、タイムテーブルは守られず、予定より 大幅に遅れて三輪さんの講演が開始されたのは20:13頃、終了は手元の時計で21:07だった。予定では三輪さんを含めた3人のゲストの デモは18:30~20:00というスケジュールだったはずだから、すでに開始時点で予定の時間を過ぎていたことになる。主催者とゲスト、それ以外の ほとんどは応募者とその周囲の人達によって占められていると思しき会場は、そんなことを意に介する雰囲気は微塵も感じられず、 デモ・パーティなるものが予定を1時間以上も過ぎてようやく終わりに達するのをネットワークのこちら側から呆然として眺めていた。

そう、ネットワークを介した傍観者の立場というのは、私には全く相応しい環境であったと感じられたし、今でもそう感じる。そのことの是非はおくとして、 三輪さんとその作品に関連した催しに接していつも感じる疎外感、所在無さの感覚は、三輪さんの音楽そのもの、そして三輪さんご本人に 対して感じる(それ自体は恐らく多分に身勝手な)親近感と共感をほぼ常に囲繞し続けている。その居心地の悪さが、例えば通常のコンサートの それとどれだけ共通し、どれだけ異なっているのかはよくわからない。一方、上記のデモでも三輪さんが触れられていた「録楽」、 例えばCDを自宅で聴くのと、このようなライブ・ストリーミングでの聴取とを突き合わせてみるべきなのかも知れない。そして勿論、こうしたことは 三輪さんの場合に限って言えば決して瑣末な問題とは言えない。演奏者しかいない場が奇妙なのか、演奏しない聴き手が存在することが 奇妙なのか、聴き手の場所はどこにあるのか、といったことを考えた時、私はこうした催しに閉塞感のようなものをどうしても嗅ぎ取ってしまう。 勿論、こう言っているからといって、私はそれがいけないと言いたいわけでも、存在意義がないと言いたいわけでもない。否、そうした場が 必要なのは明らかなことだと思う。だが、それにしても、とりあえずはそうした文脈の中に位置づけられている三輪さんの音楽についていえば、それが 恐らく間違いなく聴き手を前提としていて、しかもそれが自分が探している類のものであるように感じられていること―もっとも、その両者が共存したところで、 必ずしも「出会い」が保証されているわけではなく、実際にはすれ違いが起きているのかも知れないが―を思えば、そうした閉塞感を感じ、しかも 自分がその外部にいることを繰り返し意識させられるというのは逆説的な状況ではないだろうか。

実際、「録楽」の問題が念頭にあって、この催しについても会場に行くことも考えたのだが、最も懸念したプログラム進行については当に予想通りの進行で、 当日の体調を思えば訪問を控えて正解だった。私はこの時体調を崩していて、翌週には寝込んでしまい、1/27に東京ワンダーサイト本郷で行われた 三輪さんの「語られた音楽が語るとき、クラーレンス・バルローの言葉による」を聴くこともできなかったのだ。(2008.4.12/13初稿)