2012年12月16日日曜日

「科学技術終結期」に旧人によって書かれたメモ

三輪眞弘「感情礼賛」(2008年11月7日初演)「今年の感情礼賛について 《学長の挨拶》」(「三輪眞弘音楽藝術」所収)

(...)

意識は存在しないのか?クオリアは存在しないのか? 意識は存在しない、或いは、クオリアは存在しない、といった言い回しは、 人を驚かし、興味を惹き付けるレトリックとしての意義はあるだろう。 だがそうした主張は、決まってまず、意識なりクオリアなりの定義が曖昧であることを 指摘し、自分なりに意識なりクオリアなりを定義し直し、そして自分の定義した 意識なりクオリアなりが存在しないことを示してみせるといった手順を辿るものだ。 そしてその主張そのものは別段間違っているわけでもない代わりに、人を驚かす ようなものではないことが明らかにされる。そして事実に関する理論としては それは別段どうということもない。厄介なのは、事実に関する認識の変更に 対する誘いが、存在の様態に関する或る種の規範的な価値判断を潜ませて いる点にある。そして冒頭のような挑発的な物言いをするときには、 事実に関する理論上の提起に留まらない志向が潜んでいるもののようである。 要するに、一見すると事実についての問いに見える「意識は存在しないのか? クオリアは存在しないのか?」という問いは、「あなたの心の理論から意識や クオリアを消去せよ」という誘いであり、そしてこのような消去主義的な挙措は、 意識やクオリアが存在するという思いなしが、何か良くないことを惹き起こしていると いう信念に裏打ちされているもののようなのである。であるとすれば、消去主義的な 挙措の意図するところは、思いなしを崩すことにより、その思いなしの由来を露呈させ、 その結果、別のモデルを採用するように誘われるということに存するのであろう。

確かに意識とかクオリアといった言葉の定義は曖昧だろう。そしてそこで定義された 意識なりクオリアなりを消去するのは構わない。だが、そうした消去の効果は 何だろうか?何が残るのか?何のために、自分で定義してみせた範囲の 意識なりクオリアなりを消去するのに、あたかも意識なりクオリアなりで 指し示されたかも知れない全てを消去してしまうかの如きレトリックを弄するのか? その「意図」は何なのか?そして消去の対象としての意識なりクオリアなりを 自分で決めておいて、それを消去することで、目的は達成されたのだろうか? 残ったものは目的に照らして「無害な」ものばかりとなったのだろうか?議論の 都合上都合の良いように敵を定義しておいて、本来の敵を取り逃している ようなことはないのだろうか? もし目的に到達しようとするのであれば、 寧ろ説明されるべきは、どうして意識やクオリアが存在するような思いなしがかくも 強固に成立するのかという「誤解」の由来ではないのか? 手品の如く手並みも鮮やかに消去して、得意満面といったところ なのだろうが、それによって得られた結果、どのような展望が得られるのか?

意識の働く範囲を限定し、意識の働く範囲と心的な機能とを同一視せずに、 前者を後者のごく一部と考え、しかも意識を必ずしも心的な機能に必然的に随伴する ものではない付加的な形態と考えることには異論はないだろう。心的なものは一方では 内側に拡張され、それ自体自律性を有する(つまりある程度は「意識なし」でやっていける)無意識的・習慣的な身体内のシステム領域が含まれることになる。一方では身体を超えて 外へと拡張され、環境との関係そのものに心性を見出そうとする。こうした修正は全く 妥当であって、寧ろ現実の把握の仕方としてより自然であると考えられる。ただし、 それはホワイトヘッドが「具体性の履き違えの誤謬」として指摘した、意識が自ら 作り上げた「イメージ」を一旦括弧入れすることなしには得られない。成否はともかくとして 現象学における「還元」もそうした括弧入れのための方法として企図されたものであったと 捉えることができるだろう。しかしこうした立場の採用と「意識を消去する」という挙措との 間には随分と懸隔があるように感じられるだろう。少なくとも、こうした拡張された心の 理論の採用は、それがそのまま意識の消去を意味するわけではない。拡張された心 というのが、目指すべき、あるべき規範であるのではなく、寧ろ現実の在り様の端的な 了解であるとするならば、躍起になって消去しようとしている意識にまつわる強固な 思いなしの存在そのものもまた事実なのだから、拡張された心の理論の中で、そうした 思いなしの成立が説明可能であるべきなのではないだろうか。そうした思いなしは、 システムの適応のそれなりの結果であり、経済性と合理性を備えている筈であって、 それを消去して事たれりというわけにはいかないのではなかろうか。

さしあたりはまず、自己の心の理論から意識を、クオリアを消去せよ、という誘い自体が 心の働きであり、しかも意識を有するような高度な精神的なシステムの振る舞いなのだ という点に留意しておこう。実際に消去されるのは、意識そのものではなく、 意識についての或る種の模型に過ぎない。そして一体どうすれば良いのかを問うたり、 残ったものが何なのかを確認する営為もまた、意識の働きと呼ぶほかないものであるし、 そこにはある目的に向けてのドライブが存在する以上、そうした営為には或る種の 情動が伴っているのは事実である。そうした消去主義的な挙措そのものが、 こちらもやはり意識と呼ぶほかないものの働きであるとき、その挙措そのものが 我が身に返ってくることはないとたかを括っていられるものだろうか?一体、 消去されたものは何で、残ったものは何なのかをもう一度振り返ってみた方が いいのではなかろうか?

事実問題として、意識は存在しないのか?クオリアは存在しないのか?と問うた時の 答えは、意識やクオリアの定義による。そして大抵の場合、消去主義者の定義は、 非常に限定されたものであることが多く、その帰結を受容したとしても、学習すべき ものを学習でき、否定判断ができ、仮想的な状況を想像でき、抽象的な概念の操作が できるような高度な心性と、そうした高度な心性において生じる様々な情動的な 感じが否定されるわけではないのである。そもそもこうした高度な心性の働きは 事実として確認できるのだから、それらを扱えないような理論は心の理論としては 不充分なものであろう。問題は一見してそのように見えるような、心性の否定や 心の私性の否定ではない。寧ろ逆であって、ようやく高度な心性が科学的な研究の 対象となり、心の理論が精緻化されるに従って、心というものを意識に限定したものでも、 身体の内部に限定したものでもない、開かれたシステムとして考えなくてはならないことが わかりつつあるということなのである。だから、そもそもが、意識なりクオリアなりが存在するか というのを事実問題として設定するということそのものが、適切な挙措とは言えず、 人を欺く側面を孕んでいるのである。理論の平面では意識やクオリアについての 或る理論が事実の説明として妥当かどうかが問われているだけなのだから。

一方で、拡大された心の理論に基づく高度な心性についての認識がどんな ものであるかは、まだ十分に明らかになっているとは言いがたいのではなかろうか。 心に公共性を認めることはできても、心の私性を完全に消去することはできない。 意識についての陳腐な模型を破壊して悦に入ることはできても、意識をそっくり 消去することは、意識を、クオリアを心についての理論から消去せよ、という誘い自体の 自己破壊にしかならない。単純に自らの檻の外に出ることなどできないし、内的なもの、 私的なものを完全に破壊することはできないし、恐らくはすべきでもないのだ。 事実として私性がある以上、それを説明できない理論は不充分であろうし、 自己組織化や自己創発をはじめとする有機体についての理論によって、 私性の起源、意識の起源の説明が可能になりつつある。しかしそれだけではなく、 私性の否定は、自律性を備えた意識的主体間での相互作用によって産み出されて来た これまでの蓄積を否定することでもあり、自らの起こしてきた様々な問題・弊害に 対する責任の放棄に繋がるがゆえ、すべきではないのだ。意識が多くの過ちを為し、 テクノロジーの発達でそれが増幅されるようになり、危機がクリティカルなレベルに 達したという現実に対し、単に意識を否定し、状況をある意味で放置することが 問題の解決になるとは到底思えないし、自分が形成してきた脈絡によって生じる 責任の放棄が許容されるとも思えない。それは自らの全能性の過信の単純な 転倒に過ぎない。必要なのは、自らの能力の及ぶ範囲を認識し、適切に 制御することであり、そのようにして自己のみならず、自己が関係する環境を 形成する他なる私性をも擁護することではないだろうか。

自我の超克やら意識の拡大への誘いというのは別に今に始まった話ではなく、 寧ろ常に叫ばれてきたことであったことを思い起こせば、そして単に意識を融解させて 無意識的なものを噴出させることによっては、単なる選択される部分の変更に 留まり、本来必要であるそうした部分の統合には到達できないことが既に明らかで あるのであってみれば、心についての(恐らくは意識の存在理由に照らして非常に 適合しているに違いない)「当座理論」の一つである、意識やクオリアについての 或る種の見方を否定しようとしたとき、単純に意識を、クオリアを否定するのではなく、 単純に私性を否定するのでもなく、端的に、私的な側面も備えている心的なものが 意識を超え、身体を超えて拡がっていて、公共的な側面もまた備えているというような 統合的な認識を持つことが必要なのであろう。そしてその限りで、寧ろ私的なものの 交換不可能な展望の独自性は、それを受容する側にとっての他性、新しさの 根拠として寧ろ擁護されるべきなのだということになるのではなかろうか。

意識についての問いそのものは近年のものではないが、ここで一瞥したような 近年の文脈においてその問いに向かおうとしたとき、三輪眞弘さんの活動とその 作品は、参照点として極めて重要な位置を占めていると思われる。 非平衡力学、カタストロフィー理論、カオスやフラクタルのような非線形力学系と 関連しつつ生物のような有機体を対象に形成されてきた自己組織化論や サイバネティクスをはじめとする様々なシステム論の発展、動物行動学、脳神経科学、 情報理論、認知科学、ロボット工学や人工知能研究といった分野での探求と 単に時代を同じくするだけでなく、それらと問題意識を共有し、その上での 音楽芸術のあり方を探索し、開拓していくその活動は、音響素材を用いた 単なる認知実験であったり、簡単な検証を伴った思弁ではなく、 しかし芸術をも対象とするそうした分析の一素材としての作品を提供するにも 留まらず、そうした分析を一部とする研究と背景や問題意識を同じくし、 更に芸術活動として自己がおかれた状況に対して意識的であるような 芸術活動である点において稀有である。そこには単純な説明や一面的な解釈を 超えた、拡張され、開かれた心の理論の実践があり、それゆえにその可能性の 射程は同時代においては測り難い側面を備えているに違いない。だが、時代と 場所を近くする人間は、その活動との対話を試みることによって、寧ろ自分の 実践を確認し、方向性を見定めることができるであろう。その活動を受け止めるには、 意識のみに留まらない、だが意識も含めての、拡大された心の全ての領域を 動員する必要があるだろう。

そもそもわれわれは自分がその中に組み込まれているシステムの外に出ることはできないし、 恰も外にいるかのように観察して記述して事たれりとするわけにはいかない。 自分の活動が(活動をしないことも含めて)システムに対して影響を及ぼすのだと いうこと、そうしたシステムの成員として相互に影響を及ぼしあうことでシステムの 状態が決まっていくのだということを踏まえる必要がある。それが世界のごくわずかな 一片にしか影響を及ぼさないような取るに足らないと感じられる類のものであれ、 自分が生み出したものは不可逆的にシステムに組み込まれていく。そして我々は、 意識を備えているが故に、意識がない場合とは異なった世界に住んでいることを 自覚しつつ、自分がコミットする価値に対して自分に可能な仕方で応答をして いかなくてはならないのではなかろうか。意識も含めた、拡大された心の全ての 領域を用いて。三輪さんの活動は、それ自体そうした応答そのものであり、かつまた 更なる応答への誘いであるように私には思われる。

例えば「責任」という概念もまた、意識の私性とそれに関連した「人格」概念と無関係ではない。 今や西欧近代的な「人格」を前提とすることによる矛盾や齟齬が生じつつあるとはいえ、 それを単純に放棄すれば良いというものではなかろう。何か全く別のものに置き換えられるとも 思わないし、それ以上にそうしたいとは思わない。自分の世界における脈絡によって、 ここまである方向で自己形成をしてしまった以上、後戻りは利かないし、私は自分の選択が (あくまでもこうした点に限っては)誤っていたとも思わない。価値論的・倫理的な事柄については、 最後は机の叩きあいになってしまうのかも知れないが、そうであるとしたら、私は相対主義に 退却して高みの見物を決め込むよりは、自分が共感できる立場にコミットメントすることにした。 もう時間はなく、自分の力はあまりに僅かだし、そうした価値に寄与・貢献できる範囲は 知れているだろうけれど、私は自分が価値を認めたものが、自分の死と共に消えてしまうのに 耐えられない。私の生命よりも、そうした価値の方が優越しているのは明らか(それらは それを「ミーム」として捉えようが、そうした見方を拒絶しようが世代を超え、時代を超えて 現実に継承されているのだから)なので、私もまた、(それ自体はこれもまたいずれ擦り切れ、 消滅してしまうとしても)衣を織ることに与りたいと感じているのだ。

あるいは遠い将来、三輪さんが《感情礼賛》において夢見たように、拡大された心は 実際に私性を廃棄することになるのかも知れない。だが21世紀の初頭に生き、 自分の生きている間にはカーツワイルの言う「特異点」が訪れることもないであろう私には、 それは差し当たり関係のないことだし、私が私である間は、自分の私性との、私的な 感情との折り合いをつけていきながら、遅れていても、遠く離れていても応答を続けることに よって自己を保っていかなくてはならないのだ。(2012.12.16)

2012年11月18日日曜日

「新しい時代」への応答のための準備作業(2):ワーグナー「パルジファル」についてのメモ

三輪眞弘
モノローグ・オペラ「新しい時代」(初演:2000.4.22 京都、アルティー / 4.27 東京、紀尾井ホール, 前田真二郎(演出&映像))
50台のiMacとオペレータのための「新しい時代」(1999)
2人のオルガニストとメガフォンを持ったアシスタントのための「新しい時代」(1999)
Webのための「新しい時代 http://www.the-new-era.org/」 (1999)
混声合唱のための「新しい時代」(2001)
声(歌と語り)のための"Wach jetzt auf!"(2001)
「新しい時代」布教放送(2001.3.10より http://www.The-New-Era.org/ 一時停止後, 2010.8より rtsp://neuezeit.org:554/nz.sdp にて再開)
新しい時代の「流星礼拝」(2002, 2012.8.26 東京、サントリーホールにてケージ「ミュージサーカス」の一部として再演)
「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」(2007.2.18 東京、東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007))

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三輪さんのモノローグ・オペラ「新しい時代」を、それが備えている射程に応じて理解しようと思ったとき、少なくとも私にとっては同時代に「素手」で 立ち向かうよりは、自分が「音楽」としては馴染みの深い時代の、でもそれ自体は疎遠な、というよりも寧ろ気になりながらも半ば無意識的に 避けてきたのかも知れない「パルジファル」を射影平面に使うことがもっとも効率的なアクセスの方法であるように思えます。「新しい時代」自体が、 「言葉の影、またはアレルヤ」と同様、重要でありながら、アクセスの仕方が難しいといった点、そして多様な解釈を呼び起すという点で、現代に おける「パルジファル」の位置を占める作品であるように私には思えます。私のもっている文脈からすれば寧ろ疎遠で、単純化すれば「敵」に 分類される、対決すべき相手である「パルジファル」を媒介に、「新しい時代」にアクセスできそうな気がしてきています。西欧の文脈でも 「パルジファル」は到底解決済みとは言えないようですし、現実的にも色々なレベルで(一連の)「新しい時代」(たち)は極めて間接的ながら 「パルジファル」の提起した問題への時間と空間を隔てた「応答」であるとさえ言えるかも知れない。

「パルジファル」に深入りするつもりはなかったのですが、調べていくにつれ、「パルジファル」が孕んでいる「問題」の重大さと、それに応じて書かれた 多くの論考の持つ重要性に半ば引き摺られ、更には「新しい時代」について考えるときの射影平面として、まさに恰好のものであることが ますます明らかになったこと、更には能楽との比較対照等の可能性についても考えることができたりして、当初の考えとは異なり、 「パルジファル」自体について調べておくことの意義の大きさを認識せざると得なくなったというところです。

「能」との接点ということでいえば「パルジファル」は、一つには「舞台神聖祝典劇」という性格付け(拍手するしないが問題になるといった点にも 共通性が現れていると思います)の点で、更には個別には「蝉丸」、あるいはクンドリーに焦点を絞れば「山姥」と いった能が(勿論、対応は部分的なものに留まらざるを得ませんが、やはり或る種の神話の「変換」の一つとして)思い浮かんでおり、興味をそそられます。 しかも「能」との構造的な比較を試みると或る種の変換操作なしでは、対応付けができない。(実は「新しい時代」も またそうです。そこで要求される変換操作自体は全く異なるものなのですが、変換が必要なことには違いない。もっともそれだけではなく、 「言葉の影、またはアレルヤ」、「総ての時間」といった一連の作品群そのものが変換のネットワークを形成していて、それらを総体として捉える必要がある点で、 一レベル外側の視点(それは端的に「音楽」の外側かも知れません)を要求している点に留意する必要があると思えますが。)

考えてみれば、「パルジファル」もまた、ありえたかも知れない伝統芸能・ありえたかもしれない宗教の「夢」なのかも知れません。現実にいまだ ヨーロッパでは復活祭の時期に、受難曲のような作品がそうであるように「パルジファル」が歌劇場で上演されることが多いという話をきいたことがあって、 こちらは季節感に拘らない番組をするようになってしまった「演劇化」した能よりも寧ろ徹底していると言えるかも知れないし、拍手をする、 しないといった不毛な論争が絶えず繰り返されるのも並行的です。

そして同時にその「夢」は、アドルノの言う「ファンタズマゴリー」でもありうる。作品自体が「夢」であり「ファンタズマゴリー」であるのと対応するように。 そこでは「魔法」が、現代の魔法としてのテクノロジーが幾重ものレベルで浸透している。そういう点では寧ろ、能よりも歌舞伎の方が、時代の 変化に応じた読み替えに積極的であり、西欧的な反応により近いと言えるかも知れません。

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レヴィ=ストロースが「パルジファル」についての文章を書いています。 そこではワーグナーの「パルジファル」を一連の聖杯にまつわる「神話」の掉尾を飾るものとして評価しています。 レヴィ=ストロースはペルスヴァル神話を「問われることのない問い」意思疎通の不在による世界の停止・荒廃ととらえています。 構造的に(問のない答に対する疎通の過剰による混乱の物語である)オイディプス神話と相補的であると。

ところで、「パルジファル」については、アドルノも興味深い文章を書いていて、舞台神聖祝典劇の理念はヘーゲルに由来する 「芸術宗教」のそれであることを述べています。魔力から解き放たれた現実世界にはその意味の実体が欠けているのだから、美的形象に 形而上的な意味を呼び出させようという狙いであると。アドルノらしく、ただちにその希望は空しく、「パルジファル」は虚偽で あるけれど、そこから「消え失せた意味を単なる精神から呼び出そうとするのは不可能だ」という真実が生まれ出るのであって、意味を 呼び出す営みのなかなさを表現している点において、「パルジファル」は長い生命を保つ、というまとめをしています。いわば「パルジファル」 という作品はそれ自体が「亡霊」だといいたいかのようです。

「パルジファル」は(フランソワ・ニコラは否定していますが、例えばシャイエなどはそう捉えているし、少なくともそうした側面を否定しさるのは 作品の持つある側面を不当に無視することに陥る危険があるように私には思えます)若者のイニシエーションの物語です。 私はワーグナーをほとんど聴きませんが、「パルジファル」はそれが「奉納」であることを少なくとも目指しているもあって、気にしていたの ですが、当然のこととして三輪眞弘さんの「オペラ」である「新しい時代」がどうしても思い浮かびます。三輪さんが「新しい時代」や 「言葉の影、またはアレルヤ」に関して記したものをはじめとして様々な文章で繰り返し語っている「神話」の不可能性、 歌うことの不可能性は、上記のアドルノの言葉と共鳴します。「神の旋律」は、際立って少なく、したがってむしろ延々反復されつつ けるような「パルジファル」におけるモチーフの利用法や、それと裏腹の和声法、「トリスタン」までは解決を目指していたものが、ここでは そうした図式自体が解体され、解決自体が最早志向されず、結果として際立って静的なそれとともに、まさにレヴィ=ストロースの言う 「問のない答え」を音楽構造として支えているかのような和声法と突き合わせてみることができるように思えます。 つまり「問のない答え」が問題になっているのではないかという気がします。

第一義的には聖なる愚者であるパルジファルのイニシエーションの物語ですが、「新しい時代」との対照を考えたとき、 寧ろクンドリーの解脱に焦点を当てたらどうなるのか、ということに思い至ります。クンドリーはパルジファルにいわば「浄められ」、 そのことによって呪われた状態で永遠に行き続けなくてはならない運命から離脱します。それは「リインカーネーション」に他ならない。 ワーグナーの版では、不具の王アムフォルタスはクンドリーと対なのでそれは実はアムフォルタスにとってもそうであるはずです。

一方で、魔法の石としての聖杯をテクノロジーが自動販売機として実現したとするならば、聖杯物語を現代のエコロジーの視点で読むことが できるのではないかと思いました。更に言えば、レヴィ=ストロースがいわば通りがかりに用いた自動販売機の比喩は、むしろ原子力発電所に 読みかえることができるのかも知れません。人間が住む空間とは異なった論理によって、万能の力を際限なく生み出す 魔法の容器。その場合でも、エコロジー的な読みは依然として可能です。

近年のオペラの恣意的な演出には嫌悪感を持っていますが、空想理にこうした読み替えをするのは意味がないことではない。 こうしたことの素材としてなら「神話」は今でも力を持っているのだろうと思います。決して「復権」などではない、特に「音楽」が間に介在するので あればなおのこと、そんな簡単な論理では説明しきれないのは明らかですが。

一方で、もう一度、今後は三輪さんの「中部電力芸術宣言」の文脈における「子供でもわかること」を、イニシエーションの儀礼に折り返してみたらどうなるでしょう? 再び「問のない答え」、「問われることのない問の答」が問題になっているのではないでしょうか。

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上に述べたように、「パルジファル」の問題系の抽象的な構造を抽出して、現在の展望に変換をするという過程をしたときに、私は否応なく、 三輪さんの「新しい時代」に行き着くのです。そして、こと今、ここでの文脈を問題にするなら、私にとっては「パルジファル」より「新しい時代」の方が力を持ちます。 その一方で、「新しい時代」に対して距離を取ろうとしたときに、レヴィ=ストロースやアドルノが「パルジファル」に見出したものは参照点として役立ちます。 両者の違いも含めて。そして勿論、「パルジファル」が色々な意味で極めて優れた作品であることは言うまでもなく、それゆえ参照点としての重要性もまた 明らかです。

特に「問いなき答」というのは非常に重要な視点のように感じます。答えのない質問が重要でないというのではありません。それは単にマーラーや アイヴズの時代に相応しかったというだけではなく、時代を超えて、自分自身の問題でもあると感じています。「新しい時代」と丁度双子のような関係に ある作品、「言葉の影、またはアレルヤ」に対して感じているのと恐らくは同一の疑問を私は一群の「新しい時代」に感じていているのですが、 実はそこでは「問なき答」が問題になっているからなのではということにようやく思い至ったように感じています。わからないという事態そのものが、 「答えのない問」の構造に由来し、その構造を自明視することによっていわば自ら視野を幕で覆ってしまい、その幕に移る影を追うことしかできなく なっているのであって、実は「問いなき答」という構造を考えるべきだったのではないか。勿論このことは、私にとっては遅ればせの「発見」であるにしても、 もしかしたら、三輪さんには最初からわかりきったことなのかも知れないし、おそらくはもっときちんと説明すれば、意識するしないに 関わらず、三輪さんが気づいていたことなのではないかと思うんですが。

少し違った言い方をすれば、私は「問なき答」というのを考えたことすらなかったのかも知れません。「問わないこと」が何をもたらすかに無自覚な ことは、逆に「問うこと」が孕む危険に対して無頓着であることでもありえます。でも私にとっての問題は、そうではなく、「応答すること」が自明であると 思っていること、自ら本当に「問う」ことをしていないのではないか、ということなのかも知れません。本当に難しいことは寧ろ適切に「問う」ことなのだと。

でも、もしそうだとしたら、私は既にもう「資格」がないのではというようにも思います。その一方で、レヴィ=ストロースが見出すある種のルソー主義、 「パルジファル」を徴づけている「無知」そのものがある種の仮象ではないかという疑いもあるのですが、そうした疑いが、自己正当化に動機づけられて いるのではと問われると、率直にいってそれを否定するのは難しい。

明らかなのは、いわばオルトテティックな「アーカイブ」を介して、私自身の中にすでに他者が住んでいることです。 そして問うのも答えを見つけるのも他者の力によるのであって、私が何かをするのではない。だから私には、イニシエーションというのが良くわからないのです。 それは私の場合、自己を確立することというよりは自己の中に他者を見出すことであったように思えます。いや、正確には自己確立とは、 他者の発見そのものであったように思えます。だから自分の歌など私にはない。それ以前にあるのは歌のない状態でしょう。歌を奪われているのは、 私が現代に生きているからなのかというのも、だから私には正しく測ることができない問題なのかも知れません。

その一方で、改めて「新しい歌」に引き付けて考えてみれば、いまだに私はイニシエーションに到達していない、もしかしたら、このまま 到達できないのではないかという気もします。あるいは永久にその途上のアーカイブに留まって、そのままリインカーネーションに 到達できないのではないかと。だから「パルジファル」がそらぞらしく、アドルノとは異なって、そもそもそこに否定的なかたちですら「真理」を見出すことができないのかも 知れない。「音楽」そのものが私には耐え難く感じられる。(それがバイロイトという媒体を想定したものであることおよび、それに付随する 様々な事柄もひっくるめて。)

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丁度先頃に二期会が記念公演と銘打って「パルジファル」をやったようですが、演出は海外でやったもの(クラウス・グートのもの)をそのまま持ってきているとのことで、 興醒めに感じました。日本人ならではの解釈が可能で、しかも作品を壊さずにできるだろうに、新国立劇場にもその傾向があるようですが、 何かオリジナルのものを発信する意志はないのだろうかと感じないでもありません。二期会のそれは歌唱や管弦楽演奏の評価はすこぶる良いようですが、 巷にあふれるオーケストラのコンサートのプログラムと同じで、どうしてそれを、今、ここでやるのかという問題意識はほとんど感じられない。 西欧古典芸能の極東の出店で(演奏者も含めて)伝統を「消費」しているようにしか見えない。それなら「パルジファル」など、平均的な日本人の 問題意識とは縁遠いとして取り上げなければいいのに、と感じずにはいられません。

そして「パルジファル」を今、ここで演出するのであれば、それはまさに「新しい時代」を思い起こさせるようなものになるに違いない、 結果として、レヴィ=ストロース的な変換の論理で両者が繋がっているという直観はそんなに間違っていないだろうという確信が調べれば調べるほど強くなっています。 もっとも、だとしたら「パルジファル」を上演するよりも寧ろ「新しい時代」の再演の方が遥かに相応しいし、そうした視線で「パルジファル」を読み直せば、 非常に興味深い結果が(必ずしも結論ではなくて、問題提起かも知れませんが)獲られるとも思います。

せめて、例えば「パルジファル」についてエコール・ノルマルで行われたような企図をもった研究・講義が三輪眞弘さんの活動に対して、 日本のどこかで行われてもいいと思うのですが、、、私の知る限り、欧米ではそうした跡付けが徹底的に行われているのに、 日本ではそこが非常に貧弱で、ほとんどは欧米で行われたことの落穂拾いにしかなっていないのではないか。素人目にはそのように感じられてなりません。

と考えて、ふと思い当たったのが、三輪眞弘さんご自身がIAMASで今年度取り組まれている企画がそれに対応するものであるということでした。 逆にIAMASのような場所では、過去の作品の検討や分析よりも、新しいものを創造することに重点が置かれるのは当然でもあるし、 そうあるべきだと思うので、それ自体に違和感があるのではないのですが、「新しい時代」に限らず、同時代のそうした活動を跡付ける作業がどこかで 行われているようには見えないのが、こうした市井のアマチュアが一般には余技としか見做されないであろうこうした活動を止められない理由に なっているように感じています。残念ながら私にはそれをやる様々なリソース(時間も場所も含めて)が不足していますが、今後も引き続き、 残された時間をそうしたことにあてていこうと思っています。初めは単なる参照点に過ぎなかった「パルジファル」を主題としても、 延べ時間にしたらごくわずかな時間しかかけていなくても、それなりの分量の蓄積が既にできていると思います。目の前にある問題の空間を端から 踏破するだけでも、恐らくモノグラフとせざるを得ない程度の分量に達しています。しかもそれは「新しい時代」について語り、その問題提起に 応答するためのほんの予備的な作業に過ぎないのです。

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パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしません。第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせます。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も持っておらず、過去に起きた歴史的出来事の再現を 企図しているのではないにも関わらず、ひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、あるいは生じつつある出来事のようです。 これもまた、あるいはこれこそが「ありえたかもしれない」出来事なのでしょうか?

時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはありません。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄です。 全ては起こるべくして起こり、仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の意味での「新しさ」がここには欠けているのではないでしょうか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の提示のように感じられます。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは反復されうるように感じられます。 同じものがそっくりそのまま繰り返されるかのようです。

色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、 結局は同じものの繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようです。 しかしそれはある意味では当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を変えても、 音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、所詮はそうした演出上の、舞台装置の、衣装の、振り付けの変化は、 或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎません。ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一ということはないのに、 結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはあるように感じられます。 こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、神話そのものと言っても良いようにすら思われます。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるでしょう。

私の上記のような印象は、何種類ものCDによる演奏記録、DVDによる上演記録の視聴に基づくものであることは確認しておくべきでしょう。 私は劇場で「パルジファル」を経験しておらず、いわばその「幽霊」のみによって作品に接しているに過ぎません。 このことが上記の印象にどれだけ寄与しているのでしょうか?もしかしたらそれは決定的であって、例えば二期会の公演を訪れればまた違った印象を 受けた可能性はあるかも知れません。私の個人的な環境における当座の布置として、「パルジファル」を挟んで、三輪さんの「新しい時代」のいわば 対蹠点にあるマーラーの作品については、第8交響曲にせよ、第9交響曲にせよ、私は実演に接した経験を持っている。同じく未来完了的な 構造を持っているとされる第9交響曲の時間性と、「パルジファル」のそれとは実質において異なったものである、というのが私の印象なのですが、 その判断は、こうした聴取の経験の条件に影響されているのでしょうか。そうかも知れない、とも思いますが、それは非常に一般的な事実関係という 平面においてそうである以上、否定できないといった意味合いに過ぎません。両者の時間性の差異は、聴取の媒体を含めた環境の差異であるよりも、 寧ろ、第一義的には両方の「作品」そのものの違いであり、あえていえばジャンルの差異がそれに影響しているといったところが妥当ではないかと 考えます。

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そして私は、私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を確認しながら、 一方ではベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入したフロイトに由来する 「一次過程」について、ただし直接的ではないにせよ、「冗長性とコード化」において、動物が行うイコンへのコード化と、人間の会話に現われるコトバへの コード化との中間に位置する事例として夢(と神話)に言及するくだりで再説されている件の方を思い浮かべ、 他方では、三輪さんの「新しい時代」のうち、自分が初演に立ち会うことが出来ず、その初演を収録した映像記録でその様子を確認するほかない モノローグオペラのバージョンと、こちらは8チャネルテープのための作品であるという制約を除けば、基本的に同じものの再生が何度も可能である 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」の東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007)での 「初演」に立ち会った時のことを思い出しています。

「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している 性質故ではないだろうかというように思えます。それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないでしょうか。だからそれは、何度でも、変形されつつも、 同じ「パターン」として提示されうる。「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思えます。否、それはより一般に「音楽」そのものの 定義なのかも知れません。

ところで同じ部分でベイトソンは、演劇、美術、数学が夢の論理の精緻化であるのに対し、ダンスや音楽や詩はキネクシスとパラ言語によりコミュニケーションの 精緻化であると述べています。「パルジファル」は複合的、雑種的なジャンルであり、その両者を含みますが、いずれにしてもベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と 優美と情報」で主張する、多層的な精神のうちの無意識の層の機能であることには違いありません。そしてここで問題なのはまさにベイトソンの言うとおり、 「作品が内包するメッセージ素材のどの要素が、芸術家の心の(意識から無意識へ至る)どの階層と結ばれているのか?」という問いなのではないでしょうか。 「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」というベイトソンの芸術についての定義は、「パルジファル」を経由して「新しい時代」に アクセスしようとこのように準備をしている私の文脈では非常に的確な定義であると思われます。

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まだそれらを主題的に扱う準備は出来ていないとはいえ、この時点での展望の中で「新しい時代」はどのような姿で浮かび上がっているのかを確認して おくことは無意味ではないでしょう。「新しい時代」については、読み替えも含めた様々な演出が存在しているわけではない替わりに、作者自身が、 様々なヴァリアントを提示し、それらの布置が既に一つの星座を形成しているように見えます。主題的に扱ったときには、その一つ一つの座標と、 他の作品との関係を確認していく作業が必要ですが、ここでは「出来事」のパターンの総体を扱っているという点に注目してみると、その中でひと際光を 放っているのは、先ほど言及した、「モノローグオペラ」と、一見するとそれとそれを囲繞する作品群とは離れた位置に孤立した位置を占めているかに見える 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」の2つのように私には見えます。この2つの作品は それをジャンルと言うか、媒体、素材と言うかはともかく、同じ出来事の過程を異なる展望から、その展望の違いに応じた仕方で記述したものであるかに 思えます。

事実関係として数年の隔たりを経て、その間に「逆シミュレーション音楽」とフォルマント兄弟名義での様々な試みを介しているという事実関係も 無視できませんが、それだけではなく、「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」は、その 作品そのものが、モノローグオペラを(いや、より正確にはモノローグオペラに定着された出来事のある「パターン」を、というべきなのかも知れませんが) 後から想起しているかのようです。ところで「想起」というのは、少なくとも人間という有機体が行うそれは、記録されていた過去の再生ではありません。 そしてそうした人間が創り上げたテープ作品であるそれもまた、テープ作品という性質ゆえに、全く同じものの再生を何度も行えるにも関わらず、 その作品が提示する出来事の方は、いわば「オリジナル」の忠実な反復ではありえない。それは新たな「創造」に他ならないということを、ある意味では 「自覚をもって」この作品は告げているように思えます。ここで「自覚を持つ」主体は、まずは作者ですが、作品そのものでもあります。或る意味では テープ音楽という素材の形式の持つ条件を逆用して、かつてモノローグオペラが上演した出来事を含む複数の出来事がそこでは縒り合わされ、 それぞれは変形を受け、重ねあわされる。「初演」の折には作者自身によってラジカセが置かれましたが、その事が明確に告げているように、 そこには装置が介在し、装置を経てしか出来事を受け取ることはできない。そしてそれは聴き手は勿論、作者もまたそうなのです。 ベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであると考えたのを、意識の側の自己正当化に基づく或る種の 転倒としていますが、そこに自己正当化を嗅ぎ付けて批判的な立場を取る取らないに関わり無く(というのも、ここでそれを提示するのもまた、 ベイトソン的には「一次過程」である芸術作品なのですから)、その転倒のプロセスの芸術的精緻化がこの作品であるというように私には思えてなりません。

ベイトソンが言うように、 有機体はすべて、精神全体のうちのささやかな部分を意識するだけで満足しなくてはならないのですが、それだけでなく、意識が受け取ったものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」に過ぎない。意識はわかりきったこと(身体化された技能)、見たくないもの(抑圧されクリプト化された対象)を 削除して、自分に課された課題に対して合理的・経済的に情報を処理するように進化の過程で形成されてきたものなのです。だから、あえて 自分の背後を覗こうとしてみても、そこにあるのはバラバラになった死体であり、幽霊でしかないといったことが起こるのです。つまりまず最初に、 意識と無意識の関係がもたらす幽霊性があります。

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現代のテクノロジーがもたらした様々な装置は、もともと人間の身体の不充分さを補う補綴的ものとして人間自身が生み出してきたものですが、 そうした身体のいわば「代補」としての装置は、例えば一方では人間の記憶の不完全を補い、完全な過去の再生、反復を可能にするかに 見えます。そして実際、記憶の補助としての再生装置の効用を無視することはできないでしょう。また技術の向上がもたらす再生の 精度は、いわゆる「オリジナル」の忠実な再現に向けて向上し続けていることも事実でしょう。あたかも現実であるかのように、過去を経験する ことが可能になる日が到来しないとも限りません。三輪さんが、「魔法の鏡、または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」で 記号の「透明性」について語るのは、こうした記録媒体に備わっている透明性、ベルナール・スティグレールの言う「オルトテティックな」性格を 捉えてのことなのです。

けれども、ここで逆転が起きます。テクノロジーが可能にするかに見える「あたかも現実であるように」は、再生の忠実さを全面的に 担保するわけではないのです。 メディアが透明になればなるほど、人間とて例外ではなく、そこから原理的に逃れられない、有機体自体が構造上持っている意識の量的・ 質的な限界のもたらす幽霊性の「リアリティ」が増すという逆説的な状況が招来されるからです。「原理的」という意味は、それらの限界は、 寧ろ意識を備えた有機体の構造そのものに起因するものであるがゆえに、如何なる技術的手段をもってしても、機械による補助・代替が 為されたとしても、その構造自体が変わらない限りは逃れられないといった意味合いです。つまり「幽霊性」は有機体のシステムを定義する 数理に由来するものであるということです。

スティグレールもまた「意識はそれ自体の内では主ではなく、自らの統制を逃れるいくつもの力を己の内に宿して」おり、「精神を迎える主として、 いくつもの精神=幽霊によって住まわれ、これらの精神=幽霊は意識に取り憑き、腹話術さながらに語っている」という事態を、 彼がフッサール現象学における第一次過去把持と第二次過去把持の区別を踏まえて提示する「第三次過去把持」、記憶のための様々な テクノロジーが可能にする、だがとりわけその中でも「オルトテティックな」性格を備えた「ヒュポムネーシス的な」それが明らかにすると述べています。

そうした有機体である人間の「芸術」、しかもテクノロジーに囲繞された現代におけるそれは、一体どのようなものでありえるでしょうか? 「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」というベイトソンの定義を保全し、意識を持ってしまった有機体の、 その意識が己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みとしての「芸術」は。ベイトソンの言う「魂の部分間の 統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を実現し、「優美さ」を回復するためには どうであるべきなのでしょうか。

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起きてしまったことを恰もなかったかの 如くに無視して、まだ「神話的」なものが手付かずのまま可能であるかのような挙措は、既に状況の中で病んでしまっている精神にとって、 かりそめの安らぎを与えるものであっても、状況を動かして解決にもたらすことはできないのではないでしょうか? 一方で、ますます洗練され、透明性の度合いを高めていくテクノロジーに乗じて、既に技術的には実現されつつあり、将来は恐らく当たり前の ものになるであろう拡張現実や仮想現実を先取りしてプレゼンテーションしてみせ、それが可能にするかに見える意識間のシンクロナイゼーションを 示して見せたり、やはりテクノロジーの進歩が可能にするであろう媒体の透明性による仮想的なものと現実的なものの融解を演出し、存在でも あり非存在でもあるような新たな様態を提示することは、意識の構造そのものに由来する分裂を表面的に糊塗することにしかならず、 却ってそうした状況を強化するばかりなのではないでしょうか?

既に予め分裂している状態で試みられなくてはならないのは、それが既成の意味合いでの「芸術」から逸脱するものであるとしても、寧ろ、 幽霊を「歓待」し、その他性に応答することによって受動的に超越がもたらされるといった構造を指し示す限りにおいての「対話」を試みること ではないのでしょうか。「対話」が生じるためには、もっと一般に情報が、意味が生じるためには、2つのシステムが必要です。 2つであるためには夫々が自律的である必要があり、そのためには両者の間に隔たりが、差異があり、お互いがお互いにとって偶有性の 契機でなくてはなりません。相手がその場に不在であることは「対話」の欠如を意味しません。勿論、その場合には「対話」の成立の保証もまた、 無いには違いないですが、逆にそうした状況でしか「対話」は成立し得ないような構造になっているのです。

「新しい時代」という一連の作品達の布置、星座は、それ自体、そうした問いに対する応答の試みであるということは、確かに言えることのように 私には思えます。それはテクノロジーがもたらすメディアの機能に対して意識的であらざるを得ないでしょう。 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」がそうした状況に対する応答であるのは 既に述べたように明らかに思われますが、それでは「モノローグオペラ」の方はどうでしょうか? ここでそれを十分に語る準備はまだ出来ていません。けれども、例えば「光のない」闇の中で行われる 儀式を赤外線カメラで写した画像をあえてディレイさせて映し出すテクノロジーの利用の仕方が可能にする「現実という虚構」の提示、 更にはそこでの複数の「声」の扱い、つまり4人のキーボード奏者によりフォルマント合成される「声」、それに応答する人間のいわば「生の」声 といったものが介在しつつ成立する「儀礼」の上演は、しばしば陥りがちな単純な「意識の拡大」による心の癒しの獲得とは異なったものを 提示しようとしているように見えます。

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この作品が「モノローグオペラ」と定義されている点も示唆的です。「パルジファル」における「対話」は 実はコミュニケーションの不在を、擦れ違いを提示するものであったのに対し、ここでの「モノローグ」は、実はより「対話的」ではないでしょうか? 一つの声は、既に複数の声の合成なのです。そして一見すると自閉的で、或る意味では自己破壊的なものであるとさえ言える儀礼を 作品として提示する試みは、ここでもまたベイトソン的に「一次過程」として儀礼を、その「パターン」を提示しつつ、一見したところ「モノローグ」的な 層の背後に存在する複数の声の反響を、複数の時間の流れを浮かび上がらせているのではないでしょうか。「モノローグ」というのは、 ですから、端的な状況の構造を提示したものなのです。この作品は、「歌」を歌うことは、そのようにしてしか可能ではないのだと いう状況の構造の証言なのではないでしょうか。「歌」もまた、パウル・ツェランがビューヒナー賞受賞講演(「子午線」)で「芸術」と対立させた 「詩」に他ならず、ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞講演においてマンデリシュタームの「対話について」を引用しつつ、 「詩」がそのようなものであるとした「投壜通信」に他ならないのだと。秘教的でコミュニケーションを拒絶しているとさえ言われたツェランの詩篇が、 実際には「対話」的なものであるように、一見、自分のイニシエーションのために歌われる歌は、意識の背後の精神と、その彼方の他者に対する 「呼びかけ」なのではないでしょうか。そしてそれはマイケル・ポランニーが「個人的知識」で述べた「コミットメント」でもあるのではないでしょうか。

ポランニーの「コミットメント」は、一方で客観的で厳密な手続に従って遂行されているかに見える科学的探究の場面においても、 その最先端においては或る種の主観的な確信に基づく選択が為されていることを証言するとともに、そうした選択が全面的に意識的な 行為であるわけではなく、暗黙知の次元を含み持つこと、つまりそれは意識的関与という側面の一方で、前定立的な「しがらみ」でも あることに留意しておきましょう。そしてポランニーが同じ「コミットメント」を神話や宗教的儀礼に対する関わりの場面においても適用していることを 思い起こすべきでしょう。「祈り」もまた「コミットメント」であり、両義性を備えたものとして捉えるべきなのです。そしてこれを冒頭に触れた「パルジファル」に ついてのレヴィ=ストロースの指摘と関連づけるならば、「答えのない問」ではなく「問いなき答」という構造の存在への気づきがここでも問題に なっているのではないでしょうか。正しく「問う」ことこそが問題なのではないでしょうか?

そしてその事を踏まえて言えば、三輪さん自身が別のところで書いた「音楽」の定義、 「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、 顕わにする技法」は、単に意識を融解させることで無意識なものを噴出させることを目指しているのはないのは確かなことだと思います。 繰り返しになりますが、それはベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする 精神の多重レベル間の統合」を、現代の日本において実現し、「優美さ」を回復する試みなのです。 (2012.9-11, 2012.11.18公開, 12.17,22補筆, 2013.5.3修正, 19改訂)

2012年10月8日月曜日

「魔法の鏡」に関する三輪眞弘氏に宛てた応答の断片、または「新しい時代」への応答のための準備作業

三輪眞弘「魔法の鏡、または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」(F/Tジャーナル創刊号)

(...)「パルジファル」の第2幕、魔術師クリングゾールは様々な魔法の道具が置かれた部屋の 中で、とりわけ鏡を扱うというト書きの指定がある。例えばクプファーの演出では、構造上 クリングゾール/クンドリーによる前半と、パルジファル/クンドリーによる後半の場面転換の繋ぎ、 両者を橋渡しする幕間の狂言の如きものとしての「花の乙女」の場面を、多数のモニターに 映し出させる花と乙女の映像が生み出す虚像として演出し、テクノロジーの魔術に幻惑される パルジファルを出現させる。第2幕終幕でクリングゾールの投げる聖槍を受け止めて十字を切る パルジファルが出現させるのは、ゴミとしてのモニターの山であり、廃墟と化した魔法の城は 「光のない」闇に沈んで第2幕が終わる。聖杯が放つそれを含めて様々な光が交錯する 「パルジファル」、「光のない」闇の中で行われる儀式を赤外線カメラで写した画像をディレイさせて 映し出す「新しい時代」でのテクノロジーの利用をそれと突き合わせてみることも可能だろう。(...)

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最初に題名である"Licht/Lux"について、「つまり」原発災害について。

私としては、"Lux aeterna ..."の作者である三輪さんが、(イェリネクをどのように読んだか、 ですらなく、)イェリネクの戯曲が扱っている「同じ」現実をどのように認識しているのか、 "Lux/Licht"についてどのような認識を抱いているのかを語りかけるだけでも、非常に 大きな意義があるのではと思える。

戯曲に書かれた状況が"Kein Licht"であるという認識は一体どのように説明されるのか。 イェリネクの戯曲におけるLichtは多義的で、のみならず厄介なもののように見える。 単純に良い光・悪い光の区別が可能であるのではないだろう。逆にもしそうなら、 そうであるに過ぎないのであれば、それが西欧の「前衛」であるイェリネクの思考の 「囲い」を徴づけていると私には見えてしまう。

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「目に異物が入れば人は涙を流す」の引用についての三輪さんとイェリネクとの認識のずれ。

三輪さんは「心を動かされる」こと自体が異物が入ったときの反応を変わるところがないと 述べる。そして私もそうした見方の方が、今や適切な認識ではないかと思う。 一方でイェリネクの文脈では、「悲しみ」「絶望」の欠如という状況について上記引用を 用いていて、三輪さんが「絶望する(考えない)」と書いているのと、少なくとも表面上は 対立するかのように見える。しかも、この違いが音楽を音をどのように考えるかについての イェリネクの認識と三輪さんの認識の関係と並行的であるように私には見えるので、 実はまさにこれを引用することで、急所が押えられているように私には感じられた。

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「記号」について。

私の知る限りでも記号とは何かについては様々な定義がある。 記号論と呼ばれる研究分野があるが、そこで何を扱うかは研究者によって様々だ。 三輪さんの定義はそのうちの幾つかからすると独特の部分を含んでいると思うが、 それ自体が問題であるとは私は考えない。 「複製可能なものはすべて記号である」という規定や例示により三輪さんの記号観は明確だ。

ちなみに、記号はすべて複製可能か?複製可能でないものは記号でないのか?というのは 上記規定と矛盾することなく問うことができることは念のため確認しておくべきだろう。 というのも、私には何となく、それらもまた三輪さんの議論の背景にはあるように感じられる からであり、そしてこの点は多分、決して瑣末な点ではないと私は感じている。

一般に記号の特徴は、(恐らくは言語記号が範例的とされるからだろうが)記号が 指し示すものと異なっているという不透明性が言われることが多いのに対して、ここではとくに 「録楽」における媒体の透明性がもたらす効果、テクノロジーの発達が可能にするバーチャリティと リアリティの境界の知覚レベルでの曖昧化が重視されている。 複製可能性と透明性の2つの相乗効果として、恰も「現実(ここでは「音楽」そのもの?)」が 「反復」されうるかのような錯覚が生じるということなのだと思うが、それを「記号」と名付けた ものの効果と言われると、不透明な記号を範例的なものとして思い浮かべる人は戸惑うかも 知れない。

上記の議論はそのまま「あの世」とは何かという問題に直結する。一般には記号には 指示対象があることになっていて、それは逆に「この世」なわけだ。ところで、ここでいう 「この世」には否定的にしか言えない、反実仮想的なもの、ヴァーチャルなもの、想像上の ものが含まれるのかという古典的な問題がある。(20世紀初頭の時点でのフランス国王も そうだが、ここではペガサスのような存在が問題だろう。) ソシュール記号論では、記号そのものにシニフィアンとシニフィエがあって、それらは指示対象 とは区別される。だから「あの世」とはシニフィエのレヴェルのもので、だから「この世」に 含まれる指示対象そのものとは異なるとされる。 そのとき、以下のような問いをすることは可能ではなかろうか?

この立場に立ったとき、記号ではない音楽が「表現する」反実仮想的なもの、 ヴァーチャルなもの、想像上のものの地位はどうなるのか。それはここでいう「あの世」でも 「この世」でもない、別の何かなのか?

「この世」は「あの世」と独立のものなのか。或る種の立場では、実は「この世」というのは カントのいう「物自体」のような理念的なもので、あるのは「あの世」だけなのだ、ということにも なりえる。話を知覚に限って、もっとトリヴィアルなものを取り上げれば、「錯覚」のようなものも ある。しかも知覚において錯覚は実は本質的なもので、既に生物学的なレベルで、 実は加工された情報を「私」は知覚しているのだ、というのはどちらかといえば事実としても いい考え方だろう。でも恐らく三輪さんの主張の水準はこのレヴェルにはないものと想像される。

実際には、ここでいう「あの世」というのは、人為的にテクノロジーを利用して、操作済みの 擬似現実たる「あの世」を見せて、更に媒体の持つ透明性をいいことに、恰もそれを 「この世」であるかに見せかけて人間を騙す類のメディア操作の水準の話だろう。 原発事故報道における情報の隠蔽や加工の話は、こちら側に属する。 ところでこうした水準の話と、「録楽」が記号であるという話の間の関連はどうなっているのか。 ある時期のロラン・バルトのとりわけ写真の記号論は、写真によって世論を操作する 「神話作用」の批判の手段という側面を備えていた。ところで、このレベルにおいても、 「この世」は「あの世」と独立のものなのかという問いは成立するのではないか?

そしてここに様々な危険が存しているように私には感じられる。

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「幽霊」について。

「幽霊」についても、それが多義的であり、 幾つかの種を区別する必要があり、それを混同すれば誤った単純化によっておかしな結論に 辿り着く可能性があることに注意しよう。ヴァーチャルなもの、想像的なものの地位、 存在論的な範疇の問題が、まさに「幽霊」の問題そのものなのだ。

幽霊自体は両義的な存在であること、そして幽霊の存在は 「録楽」のような(三輪さんの言う)「記号」のみが召喚するものではなく、寧ろそうした 「記号」からは逸脱するであろう優れた芸術作品において最もよく召喚されうるものとは 考えられないだろうかという点は繰り返し確認すべきだろう。

(なお、記号がテクノロジーに支えられたものという認識にたてば、幽霊に必要なのは 電気、そして不断のメンテナンスというのはごく自然に理解できるのであって、 逆にそのように書くことによって、「幽霊」が「テクノロジーによって記号が召喚するもの」 であるという認識が徹底されているというように読める。

「私もまた幽霊かも知れない」という認識は、勿論、私も「記号に 召喚された」存在であるに過ぎないという認識であるとすれば矛盾はしない。だが しかしその一方で、「記号が召喚するもの」以外の「幽霊」こそ、歓待としての「音楽」に 相応しい者、追悼としての音楽に、奉納としての音楽に相応しい対象ではないだろうか? 私もまた幽霊でしかないとして、問題は「幽霊ではない何か」ではなくて、「幽霊」を歓待する方法、 幽霊を文字通り亡き者にするのではなく、幽霊でしかないという認識の下、生き延びることを可能に する技法なのではないか。

幽霊ではない何かではなく、捏造されたという意味で架空の存在であるわけではなく、 歴史から抹殺され、過去に生を刻むことなく流砂に埋もれるばかりの存在であるがゆえの 幽霊性を、「録楽」は忠実に再現し、反復するものの、事実性の境位に留まるほかない 幽霊性ではなく、そうした幽霊性を「歓待」する可能性こそ記号ではない「音楽」にしか できないことなのではないか?

「録楽」を支えるテクノロジーは、同時に「投壜通信」を可能にするテクノロジーでもある。 死んだツェランが自作の詩を朗読しているのを聴くことができることを用いて、例えばあれ程苦しんだ 亡きツェランに更に不名誉の濡れ衣を着せるような操作をすることも可能かも知れないのだ。 幽霊を更に苦しめる「テーマパーク」を設えることも可能だろう。

けれども、必ずそのような操作が帰結するというのははっきりと誤りであると私は考える。 「幽霊」が出現すること自体は、どちらかといえば価値中立な「事実」の類なのではないか? ただし、「録楽」が呼び起す「幽霊」は、常に同じものの「反復」、過去の再現でしかありえない。 そして皮肉なことに、操作なしには、再生技術の発達は、「反復」の、「再現」の忠実度を 上げる方向にしか寄与しない。そこには生成も創造もない(勿論、生産的な「録楽」の 聴取は可能であり、それは別の問題だ。そこで生成、創造があるとすれば、それは「録楽」 そのものの裡ではなく、私の「心の仕組み」の側の問題のはずだ)。一方で実演は、 「幽霊」を歓待し、「幽霊」のために祈ることではないか?歓待や祈りといった部分に こそ、生成が、創造の働きがあるのではないか?そして、そうした場面にあって本当に 創造的であるためには、自分もまた「幽霊」でしかないことについての自覚が必要である、 とは言えないだろうか?

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(..)いずれ「光のない」モノローグオペラ「新しい時代」を取り巻く一連の作品における「光」について、例えば 信徒歌曲集で歌われる夥しい「光」について、100年前の西欧での「新しい時代」であったかも知れない 舞台神聖祝典劇「パルジファル」の光と突合せる作業を行うべきではないだろうか。借り物の演出による 「パルジファル」を上演することよりも、3.11後の不可能な「永遠の光」を、「魔法の鏡」である「録楽」の前で 沈黙する舞台上のオーケストラに向き合うことの意味を考えることの方が、より一層切実な作業ではないのか。 例えば「パルジファル」の「花の乙女」がモニターに写された画像であるなら、(メディアアートであれば「当然」の 選択肢として考えられるように)オーケストラの方もまた、「録楽」による音響の再生であるべきではないのか(...) (2012.10.08公開)

2012年5月13日日曜日

「言葉の影、またはアレルヤ」について(前半)

I.
1970年の今日、5月12日はパリ郊外のある墓地でツェランの葬儀があった日です。 日付というものは、そのように記録し記憶されなくてはならないと私は思います。 そして「言葉の影、またはアレルヤ」におけるそれ、「子午線」における1月20日に相当する 日付、私達の「1月20日」は、5月24日なのでしょう。(自己の出会うすべてに対して 払おうとする心遣い、すべての日付を記憶しようとする集中力は、更に「子午線」の中に、 偶然にも、もう一つの5月24日が書き留められていることに気付くでしょう。まさにドキュメントの 引用というかたちをとって。"(...) In Nacht vom 23. auf den 24. Mai 1792 wurde Lenz entseelt in einer der Straßen Moskaus aufgefunden. (...)", (Celan, Gesammelte Werke in 7 Bänden, Suhrkamp, Band III, S.194) )

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また、ツェランとはパウル・アンチェルとは別の名前であり、一方ではその名によって自らを 秘匿しつつ、しかしその名前において書くことで、自らの最も奥底の声を曝すためのもの であることに改めて気付かされます。「ツェラン」という名で語る者はそもそも「この世」、 「世の成り行き」(Weltlauf)の中に場所を持っていたのでしょうか?だけれども、「ツェラン」の 名の下において以外に、声を発する術はなかった。「ことばが有声となる途」もなかった。 「ツェラン」という名もまた、或る種の装置であり、回り道だけれども、それは必要だったのです。
別の名は、少年A(この名は更にこれ自体、また別の仕方で与えられたものですが)の 問題でもあり、昇天少年の問題でもあり、「フォルマント兄弟」の問題でもあり、私「よじべえ」の 問題でもあります。この玉石混淆に眉を顰められても仕方ないと私は感じていますが、それはこの問題が 価値の多寡による問題ではなく、基礎存在論的な地平に由来するものと私が考えているからです。

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「言葉の影、またはアレルヤ」のことが特別に私の中でひっかかったままで いることはずっと気付いていたことですが、それを書きとめておく衝動に突然駆られて、 こうして書いています。3.11.という日付の敷居を越えてしまった今、もしかしたらそれは最早 作曲者の三輪さんの関心からは外れているのでは、とも思いますし、三輪さんの中では 済んでしまった問題なのかも知れません。
ただし作曲者の三輪さんも2010年冬号の「洪水」誌で掲載された往復書簡でこの作品に 言及されていて、そこで「亡霊」について、「はい」と外にむけて応えることの切実さに ついて語っています。その言葉は近年のフォルマント兄弟名義の三輪さんの活動、とりわけ 「フレディーの墓」や「お化け屋敷」の系列で探求されている(しかも私にはそれが必ずしも 十分成功しているとは思えないことや、感じる疑念について別のところに書いていますが)主題系に 繋がっているように私には見えます。一方、そうした主題系は私にとってずっと切実な問題であり 続けているし、そのことは3.11後も変わっていません。

*       *       *

昨年の夏に、別の文章の副産物として成立した「フレディーの墓に辿り着けない国籍なき少年の「言葉の影」」は 直接「言葉の影、またはアレルヤ」自体を対象としたものではありませんが、そこでもそのように 注記したとおり、「言葉の影、またはアレルヤ」のことが念頭にありましたし、その中で、 吉岡さんの文章に突如として出現した「ゴッホの耳」の、その扱われ方に対する 強い違和を唱えたときにも、やはり「言葉の影、またはアレルヤ」のことを考えていました。
ツェランの詩の中にもゴッホの耳について言及したものがあって、それをこの一週間の うちにまた読み返しました。当然、上記の文章の当該部分を書いたときにも、 以下のツェランの詩をも思い浮かべながら書いていました。(このMächte, Gewalten.は またもや「世の成り行き」(Weltlauf)のそれ、それを構成する成員にさえ制御できず、構成する 成員自身に降りかかるそれで「も」あるでしょう。仮に、一般的なこの詩の解釈においては もっと直接的に、ツェランの個人的な状況、ゴッホと共通の状況を直接指し示していると解釈されるとしても。)

MÄCHTE, GEWALTEN.

Dahinter, im Bambus:
bellende Lepra, symphonisch.

Vincents verschenktes
Ohr
ist am Ziel.

(Celan, Gesammelte Werke in 7 Bänden, Suhrkamp, Band II, S.209)

ツェランもまた、あれ程に傷つき、病みながらも、彼の「メディア」、ただしここでは それ無しには彼自身の、個別の彼としての存在が不可能になるという 極限的な意味合いでのそれである「詩」が、モノローグではなく、対話であること、 神ならぬ「誰でもないもの」との対話であること、また彼にとって詩とは「投壜通信」 であることを確信していました。
彼は最早「幽霊」としてしか存在することを許されない死者である「誰でもないもの」たちの 「媒体=霊媒=メディア」として、やはり、生きながらも「幽霊」としてしか存在することを 許されない私のような「誰でもないもの」に向けて/のために、詩が必要であると信じ、 最後まで詩を書き続けたのだと思います。己を死者達の側に引き渡すまで。 彼の詩は、ある意味で「誰でもないもの」の語りだけれど、それを詩にもたらし、 「誰でもないもの」に名前と日付を与えることができたのは、そしてそれを極東の異言語を 母語とする私のような人間が(いわば「無国籍的」な仕方でしかゆるされていないのですが) 共有することができたのは、彼の詩によってなのです。
ツェランの訳者で研究者でもある飯吉さんは、「神への信仰」から「詩への信念」への 移行という捉え方をされていますが、それには強い違和を感じます。 同様に、飯吉さんとは異なって、私は「誰でもないものの薔薇」以降の彼の詩が自由を喪い、 窮屈になった挙句、悪結果をもたらしたとも思いません。私は詩の何たるかが わからないので、詩として技術的な出来、芸術的な完成度については良くわかりませんが、 窮屈と評価され、悪結果と言われる作品の方が、私にとっては心に響き、かけがえ のないものに感じられます。
ツェランは「子午線」でそう述べるように、一方で芸術を「機械仕掛けの自動人形」として規定し、 それをはみ出していく衝動を擁護する点において、彼にとって芸術は「手段」に他ならない。 だけれども他方で、そうしたいわば「テクネー」としての「芸術」と「詩」とを単純に対比させれば事足りるとは 決して考えていなかったことも確かで、手段、通り道としてであれ、その媒介なしに済まされることはなく、 だから彼にとって「ことば」は信仰の対象の代替などではないし、彼は「ことば」の無力をどこかで 感じていただろうし、だけれども、にも関わらず、そういう「ことば」によってしか可能でないことがあること、 如何にそれが困難であろうとも、それに縋るしかないことに気付いていたと思います。
そして私にはそうした衝動に忠実に、ツェランの詩はますます力を強めていったように感じています。 そういう読み方が詩の読み方として正しいかどうかはわからないけれど、私には ツェランの詩によって私に伝えられる何かが他人事とは思えない。まるで自分の死後も 私のような惨めな存在がいて、誰かが「声を与え」、誰かが名前を、日付を与えて くれることを求めていることを予想して、自分のために、自分に代わって語ってくれている ようにさえ感じられます。
客観的に見れば彼の苦しみの原因も質も、私のそれと同じである筈はないし、 共感など幻想だといわれてしまえばそれまでですが、他人から見れば馬鹿げていても、 私は彼の気持ちが、詩を書かずにはいられない衝動が自分にもわかると思いたい。 自分もそれを共有し、与っていると思えなければ、耐えられないと感じています。 ナンセンスであっても、時間を遡及して届くことなどあり得なくても、「はい、私はここにいて あなたの投壜通信を拾いました。そのことをあなたに返答します」という言葉が彼に 届かないとしたら、何を拠り所にしたらよいのかわからない。

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もうおわかりと思いますが、そして作曲者の三輪さんが同意して下さるかどうかの方については 私は自信がありませんが、三輪さんの活動とその結果として生み出される作品もまた、 そうした存在なのです。それに応答することによって、自分がかろうじて存在意義を 見出せるような存在なのです。
そして三輪さんが、「言葉の影、またはアレルヤ」について書かれている文章もまた、 そうした私の感じ方を裏付けてくれているように私は(勝手に)感じています。 「持ち主のいない声」は、言葉を持つことのできない人間のための、つまるところ 常に・既に「幽霊的」にしか存在することが許されない人間、誰にも呼びかけられず、 応答することもできない人間のための「声」の代理なのだと感じています。 (「代理」。でも、幽霊にとっては代理以外の声は、端的にないのです。 装置を通じてしか、私の声は有声にならないし、どこにも届かない。仮に装置が いかがわしく、歪みから自由ではなく、信頼のおけるものでないとしても、それの介在により 例えば剽窃や贋作の、あるいはあろうことか、コミュニケーションの拒絶の嫌疑を受けようと、 独創性の欠如や解釈の困難さについての非難を受けようと、そのようにしか声を 発することはできないのです。)
その一方で、「言葉の影、またはアレルヤ」が「ノンフィクション作曲」であるとも 三輪さんは書かれています。また、バタイユの「ハレルヤ」が「ぴったりだ」とも おっしゃっています。私は(今もどこかで生きている)少年Aについてそんなに多くを 知っているわけではないですが、彼との距離感を測ることはうまくできない。 ツェランもまた病んだ人間だったけれど、少年Aにはそれとも異なった、全く異質な 何かを感じるのです。また、バタイユの言葉が垣間見させる風景は、こちらもまた、 私を囲繞する風景とは随分異なったものに感じられます。
それはもしかしたら「新しい時代」の系列の作品に対して私が感じる異質感と どこかで通じているのかも知れません。でも私には、率直な言い方をさせて いただければ、そこにおいては、三輪さんの作品自体と三輪さんの作品の文脈として 与えられたものがきれいに重なって像を結んでいないように感じられるのです。
わずかでも誤解される可能性を排除すべく急いでお断りしますが、これは 三輪さんへの、あるいは三輪さんの作品へのプロテストや疑念ではありません。 寧ろ私は、そうした異質感を抱く原因を自分なりに突き止めたいだけなのです。

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例えば「言葉の影、またはアレルヤ」に関連して言えば、少年Aが書いたとされる 「懲役13年」という文章が伝わっていますが、この文章から受ける印象は、 上述の違和感を解消するような性質のものと感じています。「懲役13年」の 末尾には、ダンテの「神曲」の冒頭が引かれていますが、実は私も 「身辺雑記、あるいは「はじめに」の余白に」というタイトルの文章の冒頭に掲げて、 文章を綴ったことがあります(現時点では「身辺雑記」と改題し、5つに分割した形態で、マーラーに関するブログの中に収めています。) そして私は「懲役13年」の内容についてなら、気質や性格や環境のちょっとした 違いによって、距離感を測ることすら困難な隔たりができてしまっただけなのでは、 という印象をも持っているのです。三輪さんの作品と、「懲役13年」が唯一の接点、 辛うじて存在している隘路のように思えています。
そしてまた他方で、私がこれまで三輪さんのある種の作品に対して抱いてきた違和感は、 実は自分の性格なり気質なりの檻に囚われているが故なのでは、という気も しています。「言葉の影、またはアレルヤ」の上演に立ち会ったことはなく、私は 専ら録音の記録のみで接しているだけですが、この作品に関する違和感は ある意味では非常に特殊で、そこで参照されているAのテキストとバタイユの テキストがのみが、それらを参照していることのみが違和感の原因になっているように 感じているのです。(ちなみに「懲役13年」には偽作説があるようですが、私は 半ばそれを信じたい気持ちですらあります。)
私には「言葉の影、またはアレルヤ」という作品が、少年Aの 「夜空を見るたび思い出すがいい」というたった一つの言葉から出発して、 直ちにそこを離れたものであると、A.とよばれた者の、でも別の名の署名がなされた テキストを出発点にとりながら、寧ろそれは直ちに、寧ろ別の偽名が署名された テキストで語られた不気味なもの、疎ましいもの、メドゥーサの首や自動機械への道のり によりそうものであるように感じられます。勿論それらは全く別のものではないでしょう。 (ほんの一例に過ぎませんが、例えば、こんなに異なる風景にも関わらず、そのいずれにも、 全く異なる仕方であっても「薔薇」の形象が出てきてしまうのは果たして偶然なのか、 問うことはできるでしょう。) だけれども、私もまた、「夜空を見るたび思い出すがいい」と繰り返し呟く類の存在で あったとしてもなお、その夜空に見える星座は異なったものであると感じています。 私は、それが強引な文脈の換骨奪胎であるという謗りを受けたとしても、 別の星座の下で、私にとって親しいそれらの下で壜を拾い上げるしかない。私の住まう岸辺は そうした場所なのです。
その風景の違いの由来を正確に言い当てることが 私にはまだできないし、そうする時間がもう私には残されていないかも知れません。 けれども、それがどこか決定的に違うのだということ、私はそれを、あの、気付かない人には わからない或る種の雰囲気を感じ取る、本能的な勘によって感じ取っているのだということ、 一見共通した形象が観察できても、背後にある動力学は異質のものであり、単なる初期値の 違いに対する敏感さに由来するというだけでないのですが、いずれにせよその軌道は 異なった方向に向かっているだろうということを、ここに書きとめておきたい。
かくして私は予感から、幾つかの手がかりを、大急ぎで、根拠も示さずに、必ずや存在する適切な 連関に基づくことなく提示するよりほかありません。例えばそれは、己の有限性の自覚に基づき、 閉ざされた自己の内部に捏造されたのではない、外なる「あなた」への途、むすびつけるもの、 出会いへと導くものの探求を志向するかどうか、あるいはモノローグではなく、対話を本質的と 考えるかどうか、惨めな生き物としての絶望の裡にあって、それでも「声を与える」ことを、 投壜通信を希求するか、途上にあり、何かを目指すものという自覚をもっているか、言い換えれば (そう、これらは見かけがそうでないように思えたとしても単なる言い換えです) 「儀式」が、自身に対して超越的な他者に対する、自己自身の贈与たりえているか、 声なきもの、声を奪われたもの(それは人間であるとは限りません。否、それは人間という概念の 中に留まってはならないのです、そうであるからこそ)、言葉を持たぬものを己と同列のものと見做し、 それらの犠牲のもとに「奉納」が、「儀式」が行われることを拒絶する意志を備えているか、、、 等々といったものです。
そして私は自らも、価値の多寡はおいて、自ら語ることができるかという違いを超えて、三輪さんやツェランと 同じ星座の下にあることを幸いに感じているのです。声は未来に向かっても、過去に向かっても届きはしません。それは 全く異なる仕方でしか、時間を通り抜けることはできない。時間を飛び越えた通信はできないのです。 そしてそれが届いているのかを確かめる術もありません。応答が有効かを知る術もまた、ありません。 けれども私は応答をするし、しなくてはならないと感じるし、したいとも感じています。「あなた」を 間近に予感しながら。私に代わって語ってくれるもの、私に声を与えてくれるものの存在を予感しながら。 かつて別のところで、同じ予感に浸されつつ書き留めたことばをもう一度繰り返すことをお許しください。 
わたしの中に潜んだあなたがた、わたしの中から時おりこみ上げ、立ち尽くすわたしを、だが、そうして支え生かしている、 それゆえに辛うじてわたしが生きている所以である「あなたがた」にとっては私は楽器なのだ。 沈黙の中、あるいは饒舌の支配するなか、私は「あなたがた」を担い、運び、溶け合わせ、響かせ、流れ出させる、 固有の方向づけをもって、永遠には辿り着かずとも、あたかもそれを希求するかのように、 時を通って、だれかのもとに届けられることを希って。私は「あなたがた」の記憶であり、私の歩み、 たどたどしく、覚束無い、時には蹲ることもある歩みのその方角、それは「あなたがた」の定める力学によっている。 声の複数性、複数の声の反響、共鳴の場である私は、「あなたがた」の示す方角に歩むほかない。 こうして語ること、ことばを紡ぐことは、別の部屋に住まう「あなたがた」が、まだ私という搬体を捨てず、 私のなかで結晶し、析出しようとすることの現象でなくてなんであろう。
私はそうした「あなたがた」の運動の痕跡、私が発したと思いなされたことばは「あなたがた」の軌跡、 「私の作品」は「あなたがた」の抜け殻に過ぎない。私という意識は、そうした空間を照らし出す照明に過ぎない。 擁護されるべきは意識そのものではなく、意識が照らし出すわたしではないのに、外からはわたしと見做されるところの、 だがむしろ「あなたがた」の相貌であるところの結晶の構造、結晶が形成される空間の地形そのものなのだろう。

*       *       *

私もまた(ある程度は自ら進んで選択して)声を奪われた身ですし、近年、 その度合いが益々増しているように感じます。 GW前には精神的な緊張がちょっと緩んだと思ったら、ストレスの亢進に 身体の方が参ってしまいました。幸い今年のGWの休みは長くて、 何とか恢復するだけの余裕がありましたが、この先、いつ「よじべえ」という 人格が活動を停止することを余儀なくされるのか、自分でもわからない状況です。 でもそうなる前に、この問題は自分なりに決着をつけておきたく感じていて、 このように書きとめた次第です。これもまた、如何に不完全で価値なきものであったと しても、一つの「山での対話」(Gespräche im Gebirg)の試みなのです。 小さなもの(Klein)から大きなもの(Groß)への呼びかけなのです。
そして最後にもう一編だけツェランの晩年の詩を引用するのをお許しください。 それらはどれもこれも自分にとって近しい言葉たちですが、その中でもあまりにも 直截に私の心の中に飛び込んだものを。原因となった状況をどうすることもなく、 ただ結果として病を獲たものの自己責任において治癒を強制し、それが ままならなければ排除するといった論理もまた、テクノロジーの発達の受益者でしょう。 ツェランの最後の飛躍は、そうした論理への反逆でもなかったかとさえ思えます。

DIE SPUR EINES BISSES im Nirgends.

Auch sie
mußt du bekämpfen,
von hier aus.

(Celan, Gesammelte Werke in 7 Bänden, Suhrkamp, Band II, S.117)

*       *       *

II.
8時間の時差を考慮したとしても、もうツェランの葬儀は終わったでしょうか。

今や私は、譬えて言えば、船がいつ沈むかわからない状態で、とにかく壜を投げてしまわないと、 永遠に通信の機会が喪われてしまうことを懼れているのだと自分で 感じています。それゆえもう少しだけ、一旦閉じた文章を補足しておきたいのです。

*       *       *

私は寝起き前後に「ひらめく」ことが非常に多く、それは浅くなった眠りの 中であるか、起きた直後か、自分の意識が届かない向こう側から、 それは到来します。私は極めて自然言語的・空間的な人間なので、 非常に多くの場合それは自然言語による命題のような形をとります。 たまに抽象的な空間がある形をとるとか、ある姿で見えるというような 形をとることもありますが。何かを意識的に必死で考えているような折に それはよく訪れます。逆にそうしたことが起きるとき、自分が必死なんだと 事後的にわかるのですが。例えば、プログラムのバグをとってもらったこともありますし、 そのひらめきで何度も状況を打開してもらった経験があります。
私の場合、それは人格的なものではないし、こちらから語りかけたり することはできず、受動的に受け取るだけ、いつ受け取れるかもわからない のですが、あまりにそれが多いのである程度は、それに自分を委ねるような スタンスをとるようになっています。逆にそうした「ひらめき」がない場合には、 自分はまだ必死でないのだと判断したりします。
これはしばしば記録されている、「夢のお告げ」と同じものなんだと思います。 それは私のような能力のない人間ですら、限定されたものであれば 起きることなのですが、おそらくそれを実現している基本的な仕組みは 物理的・生理学的基盤に基づく説明が必ずや可能なもので、 天才と呼ばれる人、ラマヌジャン、マクスウェル、ポワンカレ、同時代では 南部陽一郎博士(南部さんの場合は、数式が動くようですが、これは 南部さんの中では、数式の記号レベルでの操作が、普通の人間の言語の 操作並みの自然さで行われていることを告げているように思えます)と 基本的には変わらない。ラマヌジャンは定理が「証明」ぬきで彼の信仰する 女神様から告げられると言って、ハーディを困惑させたようですが、これは インド人の信仰体系による翻訳が行われているのと、彼のその「定理」の ひらめきのレベルが常軌を逸して、サヴァン並みのものであったからで、 そこに神秘的なものはない。ハーディにだって「ひらめき」はあったに違いないと 思います。
もっとも、世の中には「お告げ」をあてにしない天才もいるとは 思います。意識的な活動のレベルで常人では想像がつかない速度で 遠くまで辿り着くことのできる人間を私はわずかながら知っています。 だからハーディはこっちだったのかも知れません。(比較するのもおこがましいのは 百も承知の上で、能力が遥かに劣る私のような人間ですら、或る種のモデリングを するような場合のスピードに限って言えば、どうやら自分がそう思っている以上に 普通ではないらしく、時々顰蹙を買って傷つきます。 ヘーゲルの言う「世の成り行き」(Weltlauf)においてはそれは自分勝手だとか、 他人への配慮がないと怒られたりしますから。) でもその場合でもそうした 意識的な活動を支える、高度に「技能化」された回路ができているのは 同じだと思います。そうした回路が、意識が活発なときに働くのか、不活発な ときに働くのかの違いに過ぎない。もっとも、この両者における意識のあり方は 随分と違ったものだと思いますが。

*       *       *

なぜこんなことを書くかというと、一つには、今しがたもそうした「ひらめき」が 訪れて、昨日書いたことをもっと簡潔に言い表せることがわかったからでもあり、 こうした「ひらめき」が、対話の問題と、「言葉の影、またはアレルヤ」の問題と 密接に繋がってるからでもあります。
まずは前半からいきます。
例えば、スクリャービンが顰蹙をかったのは、彼が「神智学」やオカルト的な ものに凝ったからだとしたら、同じ志向がカトリック信仰の形をとるようなケース (例えばトゥルヌミールやメシアンの神秘主義)と実質はどれだけ異なるのだろうか、 という疑問があります。オウム真理教はなぜだめで、既成の仏教ならなぜいいのか。 同様に「言葉の影、またはアレルヤ」の文脈なら、少年Aの「バモイドオキ神」との 対話はなぜだめなのか、ということになります。私は「懲役13年」には別のものを 感じたと書きましたが、そこでも対話ではなくても自分の内部にある他者との 対立・葛藤はあります。両者はどういう点で異なるのか、私は説明を求められている と思います。(そして昨日の文章の後半において、或る仕方での説明を、過去に 書きとめた文章の自己参照などを通して試みたつもりです。)
その上で、「言葉の影、またはアレルヤ」は「バモイドオキ神」信仰の記録としての 「ノンフィクション作曲」なのだろうか、という問いが最も端的な問いの形であると いうことに気付いた、気付かされたのです。
私は「神秘主義」というのに対する警戒心を持っていて、「お告げ」や臨死体験の ようなものでも、自然主義的な脳の機能を基盤とした説明ができることを疑って いません。一方で現時点では説明のつかない現象があることも認めるべきです。 要するに問題は理解・説明の仕方であって、現象そのものではない。 バタイユはその点で両義的な存在に感じます。私は個人的には彼のもつ或る種の 雰囲気に生理的な嫌悪感を感じる一方で、彼の言っていることには、それを徹底的に 自然主義的に修正することを条件に、でも絶対に無視できないものがあるとも 思っています。
私自身、超越的なものへの志向、普通には宗教的なものへの傾向を強く持って いると思います。中学生のとき以来、でも私はそれをカントに倣って、理性の宿命と 考えたいと思い続けていますし、カントの「批判」のあり方は(それが実際には持っている 時代の制約は認めなくてはならないけど)規範であり続けています。
一方で、自分の「お告げ」だって「バモイドオキ神」信仰と変わりないのかも知れない という疑念はあります。けれども私は、何かが違うと感じています。 私の内なる声、誰でもないものの声もそうではないと言っている。 原理的に説明できるものなのかすらわかりませんが、そして間違っているかも知れませんが、 私は「言葉の影、またはアレルヤ」は「バモイドオキ神」信仰の記録ではない、 仮に発端はそうであったとしても、それとは違った何かに辿り着く経路を啓いていると 感じています。
あるいは「バモイドオキ神」信仰を、別のものに変える力を持っていると言うべきかも 知れない。三輪さんもそのことに気付かれていて、少年Aに、それもまたテクノロジーの 力に他ならないのですが、「声を与える」ことによって、少年Aを救済する可能性を ヴァーチャルに試行したのだというように感じているのです。ここではテクノロジーは 両義的なものです。でも三輪さんの言う「コンピュータ語族」である我々にとってはそれが「現実」 なのだと思います。
「言葉の影、またはアレルヤ」に、私は或る種の「救い主の危険」を感じます。 (これはアドルノがマーラーの第8交響曲を評して使った言葉です。そしてこの 評言に限ればアドルノの指摘は私にもうなずけるものがあります。またそこで、 アドルノとしては異例なことに、カバラの形象すら出現するという点にも目配せして おきましょう。) でも、「コンピュータ語族」である私達にとっては、それは別の形をとらなくては ならない。そして三輪さんの「言葉の影、またはアレルヤ」が、それをまさに 具現していると感じているのです。ここでマーラーを引合いに出すことは、私の文脈の 制限に由来するものですから、マーラーを特別扱いするつもりはありません。 もっと他にもそういうものはあると思います。あるいは人によって、それが何であるかは 異なるかもしれない。強調したいのは、「今、ここ」での同時代の試みとして、 私は「言葉の影、またはアレルヤ」をそのように捉えているということだと思います。

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これで終りと思って離席した間に、「お告げ」がもう一つやってきましたので、 書きとめておきます。
ゲーテのファウストは「嬰児殺し」が救済されてしまう物語であると見做しえます。 私はかつて、「カラマーゾフの兄弟」の有名な大審問官の直前の「反逆」の節で、 イヴァンが幼児虐待を根拠に「反逆」を呟く部分を参照しつつ、マーラーの 第8交響曲をどう自分が受け止めているかを文章にしたことがあります。 それは一緒に暮らしてきた鳥が、長い闘病の末に逝ったときに書いたものです。 三輪さんのLux aeternaとは比べものにならないけど、私なりのLux aeternaです。 (マーラーのブログに収めてある「ある日、第8交響曲第2部を聴いて」がそれです。)
少年Aが救われるべきなのか、少年法とかの次元を超えて、でも法制度が どうあるべきかという視点も含めて、多くの人が思いを巡らせただろうと思います。 「言葉の影、またはアレルヤ」は、それについてはどうなのだろうか、と考えるに、 やはりここにも「救い主の危険」があると私には思えます。
ここでの文脈からは一見離れて見えるだろうけれども、もう一点、 アドルノがツェランから「山での対話」を送られた際、返書において自分の マーラー論の第9交響曲についての部分を引用しつつ「山での対話」についての コメントをしていることを思い起こしておきたいと思います。私見では、それは決して トリヴィアルなことでも、偶然もありえません。更にまた、アドルノのマーラー生誕100年に ちなんだウィーンでの講演の特に末尾を思い起こしてみましょう。そしてそれをツェランの ことばの途と、「言葉の影、またはアレルヤ」から「新しい時代」を経由し、 フォルマント兄弟の「フレディーの墓」や「お化け屋敷」へと通じる途と交差させてみましょう。 「対話」として予め意図され、仕組まれたものではなく、それぞれが別々の 時空を持ちつつも、ある「どこにもない場所」において、「対話」に通じる途の可能性そのもの についての声の交響が私にははっきりと聴き取れるのです。

”..., sondern sein starkes Ich hilft dem geschwächten, sprachlosen zum Ausdruck und erretter ästhetisch sein Bild. (...) Seine Symphonien und Märsche sind keine des disziplinierenden Wesens, das triumphal alles Einzelne und alle Einzelnen sich unterjocht, sondern sammeln sie ein in einem Zug der Befreiten, der inmitten von Unfreiheit anders nicht zu tönen vermag denn als Geisterzug. Alle Musik Mahlers ist, wie die Volksetymologie eines seiner Liedertitel das Erweckende nennt, eine Rewelge. ", (Adorno, Gesammelte Schriften, Band16, S.337 ff.)

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私はまだ、半分しかお話できていません。話の穂を継いだもともとの契機のうち2つ目のもの、 即ち、「ひらめき」が、対話の問題と、「言葉の影、またはアレルヤ」の問題と密接に繋がってる点に ついてこれから書くつもりでいます。けれども外的な事情から、今それを果たすことが叶いません。 その理由については、このようにだけ言っておきます。書いている最中には私の意識にとっては 未知であった事実が、この文章を一旦公開して後に明らかになった結果、またもや不思議な 偶然の重畳により、更に、もう一つの「5月24日」があることを事後的に私は知りました。つまるところ それは今度は私自身にとっての「5月24日」に他なりません。そして(僭越の謗りは甘受することと して)ツェランの顰にならって、ツェランの詩が、特定の読み手にとってのみ解読できる、ある具体的で 私的な出来事を記録する「暗号」でもあるように、私の文章もまた、意図せずそうした暗号として 機能する結果になったことだけをここに記録しておきます。
いずれにしても当初目論んだ通りに、ここの部分に後半を埋め込むことは最早不可能です。 というのもこの文章自体が、最早私にとって他性を帯びつつあるからです。とはいえそれは、 書かれている内容について考えが変わったりといった事を言っているのはありません。そうではなくて、 単純に、上述の、「私の5月24日」についての事後的な発見と、そうした状況変化への対応に 忙殺されることにより、私は文章を続けることを一時断念せざるを得なくなっただけでなく、 それによって生じた風景の変化に応じて、後半部分を別途書き始める必要を感じているからです。
もう一言だけ付け加えることをお許しいただきたく思います。「私」は、最初にこの文章を書き始めた時に、 「よじべえ」の遺書として、遺作として、「よじべえ」を葬る意図をもって書き始めました。けれども この文章を書くことは、結果としては「よじべえ」とは別の「私」にとっての危機の予告であり、「よじべえ」が その「私」に救いの手を差し伸べるという、全く逆のものに今や変容してしまったのです。従って今は ここで筆を擱かざるを得ないのです。そしてそのことは、私にとってこの文章自体が、或る種の「お告げ」による ものであったことへの気づきという変化に応じたものであり、私はその「お告げ」、ある意味では聞き違いを していたかも知れない「お告げ」に応えるべく、稿を改めるよう命じられているように感じているのです。

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いずれにせよとにかく、「言葉の影、またはアレルヤ」の問題を解決せずに 自らを葬ることはできません。それは私の内側に響く声に反することです。 ヘーゲルが精神現象学で言う「世の成り行き」(Weltlauf)の論理ではそれが、 「バモイドオキ神」信仰並みの、排除さるべきものであるとしても、否、懼れているように、 「世の成り行き」の論理の外においてすら、「よじべえ」としての 私しか知らない人たちにとってすら、「バモイドオキ神」信仰でしかないのではないのか という、ずっと苦しみ続けてきた疑念、最近は半ばそれから自由になりかかっていた 疑念に再び苛まれながらも、まだ「反逆」は可能ではないかという思いを捨てきれずにいます。
でもこうして書いていると、「どうだい、お前の「バモイドオキ神」はそろそろ満足したか? もう十分じゃないか?」と言われても仕方ないように感じます。ツェランの詩すら、 批難されたのです。そんなことはあってはならないのに。それなのに、私のような人間が、 一体、こんなことをして何になるのか、、、私も自ら去年の夏の「フレディーの墓に 辿り着けない国籍なき少年の「言葉の影」」で、そのように擬したように、 全く異なってはいてもやはり、もう一人の少年Aなのではないか、、、 そして私自身、時間に追われ、「もう満足したか、言いたいことは言ったか?」と 確認している現実があります、、 、
そして再び、かつて別のところで、同じ予感に浸されつつ書き留めたことばをもう一度繰り返してこの文章を結ぶことをお許しください。

*       *       *

そう、これは私の「投壜通信」である。だが、より正確には、私の奥底の誰かが私を介して 投じたものと言うべきだろう。それは私の内なる「別の部屋」に響く他者達の声を「外に」伝えるために 為される必要がある。そしてそれは己が投壜通信の受信者であることを証することでもある。 このようにして時間のなかを他者達の声は伝わっていく。私のたどたどしいことばは、 勝りたるものの仮晶、私の個性そのものが、あるいはまた個別性そのものもまた、 そうした他者達の声の交響が浮かび上がらせるホログラムなのだ。 意識である私はそうした他者達に耳を傾け、それを書き留めることでしか存在し得ない。 かくしてことばを綴ること、誰に宛ててでもなく、だが、決して独語ではなく、 誰かにあてて自分が聴き取ったものを書き記すことこそ、崩壊した私の修復の営みに等しく、 そうやってばらばらになった断片が拾い集められ、貼り合わされて私が恢復されるのだ。 そう、私とは他者達の幽霊に他ならない。かつまた他者達にとって私は私ではない 私のうちなる他者達のことばから事後的に構成されるほかない(まずもって私自身に対してもそうなのだ) という意味合いでも幽霊でしかありえない。

*       *       *

(2012.5.13暫定公開, 5.20, 23, 26補筆, 7.1修正, 7.14加筆, 2024.3.18自己引用にリンクを追加するなど加筆)

2012年1月9日月曜日

「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」についてのメモ

第93回情報処理学会音楽情報科学研究会 招待講演
「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」
2011年12月11日首都大学東京日野キャンパス

アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性という題名は、アルゴリズミック・コンポジションが 「神に見放されない」ための方法としての可能性ではあっても、それだけでは不十分であるという事態を 告げているのではないか。逆シミュレーション音楽は、単なるアルゴリズミック・コンポジションが、 神話の代補たりえない点を補い、そのことによって神話的な象徴が最早不可能であることを 告げているのではないか。講演中で言及されている通り、任意のアルゴリズムを恣意的に選択し、 パラメータを替えるだけでは不充分なのだ。神話の構造が群論でモデル化できたとして、抽象化の 結果であるその具体的で個別的なモデルそのものは何も意味しない。一見したところ、音楽外にさえ 見える「由来」が求められる理由はそこにある。それはデリダ的な意味合いにおける「パレルゴン」なのだ。

逆シミュレーション音楽では由来は「命名」によって仮構される。それは構造上、常に「…という夢を見た」という 括弧の中に入れられてしまう。括弧入れによって、由来は自らを否定し、神話の復活の不可能性を宣言する。 だが、まさにそうすることによって、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが逆説的に可能になるかのようだ。 否、それも常にそうであることの保証ではありえない。しかし、機械と人間が不可分に一つのシステムの構成要素で ある現在、かつての「人間」のための音楽とは別のものでなければ、3.11のような出来事に対峙することは できないだろう。「崇高」に対峙することはできないだろう。「神に見放されない」でいることはできないだろう。

継承されてきた伝統芸能が今なお力を喪っていない事実を確認した上で、例えば、過去の宗教や神話を 渉猟して組み合わせた自然中心主義の哲学の構築が今更のように求められているわけではない。 神話の再発明など哲学者の頭の中での思弁に過ぎない。別の方法はきっと可能だと言い切られは するものの、具体的な方法が一つとして提示されるわけではないし、別の方法の選択によって生じる帰結に ついて、具体的な影響を蒙る他者の各々に対して生じる筈である責任を引き受けた発言とも 思えない。具体的な方法を考えて実行するのも他人なら、責任も具体的な方法の立案者・実施責任者に 帰属するということなのだろうかと怪しむ人がいても不思議はない。その思弁は、現実を構成し、 規定するシステムと、それを支え、時に暴走させもするテクノロジーに対しての具体的な感覚をまるで 欠いているようにしか感じられないし(再び、それは専門外、担当外だから、専門家、担当者に丸投げということだろうか? だが、それは三輪さんが「中部電力芸術宣言」において異を唱えた態度そのものであることを思い起こそう)、 そもそもが、今つきつけられている事象によって惹き起こされている「崇高」についての把握に関してもまた、 決定的なギャップを感じずにはいられない。

そうした哲学が必要なのは、まずもってその必要性を唱導する哲学者自身であるということはないのだろうか。 そうした姿勢自体に対して、哲学の外部こそが寧ろ問題になっていることに対して頬かむりを決め込んでいると 感じる人がいても私は不思議には思わない。そしてそうした挙措は寧ろ、端的に最早神話の神が不在であること、 それが復活することがないということを告げているとさえ言えるだろう。そうした挙措に対して感じるのは、 人間は結局のところ主観の経験の側からしか出発できず、感覚の檻から逃れることができないのだという 実例を見ているかのような感覚である。

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カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては 「美と崇高」が対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、ふさわしい表現がないことの 感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることができると述べる(「判断力批判」第23節)。 この最後の部分でカントは間違っているというのは簡単だ。だが「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが 端的に不可能ではないとしたら、どのようにして可能になるのか。カントの崇高について、ヘーゲルは「美学講義」の 「崇高の象徴論」において批判的に展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは表現に相応しい 対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが 主観の側からしか崇高を見ていないことだが、カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しているから これはある意味で立場の問題だし、ヘーゲルの立場がそもそも可能なのかと問うこともできるだろう。 いずれにせよ、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことは無限と有限の間に架橋することに他ならず、 カントもヘーゲルも主観の側からはそれは「不可能」だという点では一致しているように見える。

「芸術は感覚を越えたものを感覚に媒介する行為」という言い方はだから、幾つかの点で今の私には 気持ちの悪いものに感じられる。まず「媒介」がそもそも不可能かも知れない、つまり芸術がそもそも不可能かも 知れないというニュアンスが、これだけだと落ちてしまう。しかも、ここでは方向はヘーゲル的に、客観の側からと読めるのに、 「行為」という恰も主観的な方向からの運動であるかのような言い方になっている(またしても、「誰」の問題だ。ここでは 表面上には出現すらしない、あの「われわれ」とは誰かという問いをここでも再びしなければならないのか?)。だが 結局のところ人間は、生物である限り感覚的なものや情動から離れることはできないし、それを否定したところで無くせない以上、 それをカント的な「理念」と呼ぶにせよ、知覚の受容の来歴の痕跡が産み出す内的な幻想と呼ぼうと、「人間」(やはり括弧つき とは言いながら、けれどもこれは必ずしもかつての「人間」ではないだろう)である限り、主観の檻から完全に逃れることは できないのではないか。

カントが「崇高」は自然における対象そのものの表現としては正しくないとさえ言っていることに注意しよう。 彼にとって「崇高」は理性の理念なのだから、ある意味では当然であるが、そうした論理的一貫性や無矛盾性が 問題なのではなく、「崇高」を構想力/想像力に関わるもの、しかも構想力/想像力がそこで挫折する躓きの石 として捉え、それが感覚的な限りでの自然ではなく、非感覚的な「無限なもの」に向かっているという点、 最早そこから先では美的なものではなく、倫理的なものが問題になる限界点において「崇高」を捉えているという点が重要なのだ。

だが、だとしたら、上記の芸術の定義は、結局のところ「美」の圏内に自閉しており、「崇高」が「美」を、もしかしたら 「芸術」を越えるかも知れないという部分は、都合良く端折られているように私には思えてならない。そして、そうした 定式からは三輪さんの活動への補助線を引くことは酷く困難であるように感じられてならない。

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その一方で、超越を否定し、内在の優位を主張する立場は、その内在の、そう語る己にとっての超越性を都合良く無視しているに 過ぎない。俯瞰できる己の立ち位置を都合良く忘れているに過ぎない。理念を手前、始点に位置づけ、内部に、無限小に 持っていくのはパースペクティブを転倒させただけで、それならば例えば、その中で視点を変えた記述を重ね合わせることができる ホワイトヘッド的な枠組み(彼はそれを物理学の理論に相当する仮説のごときものとして提示してさえいるのだ)の方が、 システム内での理念の位置を正しく位置づけることができている。その手前は消去され、語りえないという点でそれは「超越的」である他ないし、 内部とはいえ、それは中に穿たれた外部の如きものなのだから、やはり「超越的」である他ない。例えば内側への超越があっては 何故いけないのか?ドゥルーズのように肯定性をスローガンのように断定的に主張することがそれ自体、 転倒したルサンチマン、自身が忌諱しているはずの振る舞いそのものであるということはないのか?そこでは他者は可能的なものに過ぎず、 自己の成立の条件として「しか」見做されない。個別的な、出会われるべき他者は予め排除されているかのようだ。 そして個体化の裏面としての死もまた。存在しかつ非存在である潜在性の空間では、存在でも非存在でもない「幽霊」が出現することはできないだろう。

経験的な水準においてすら、たとえば人間の感覚を超えた極微のスケールを扱う量子論以降の 理論物理学の描像に、そしてそれが宇宙論的な極大のスケールと繋がっている事態を、「崇高さ」を、「超越的」なものを 感じてはならないのか。それは単なる思い違い、錯覚だというのか。分野を限定して、原子力災害への関わりが深い核物理学の 扱うスケールにしても、人間の寿命を遥かに超えた半減期と、人間が見ることのできない極微のスケールでの反応の両方が 存在しているのだが、そうしたことに対して「崇高」さを感じてはいけないのだろうか。

必要なのは「理念」に対して見せかけの換骨奪胎を施して、それを手前にある「問題」として未規定性やら多様体やらとして規定(だが、 どんな?せめてそれは、規定たりうるような厳密性を備えた、比喩的なイマージュをスローガン的に撒き散らす以上の「肯定的」な「理論」 たりえているだろうか?その水準にすら達していない、単なるナンセンスではないだろうか?)してみせることでは全くない。 それが発生の理論であるならば、「構造」と「生成」の対立を難じても仕方なく、 寧ろある構造から新たな構造が生成していく過程の具体的な様相の複雑さを適切な語彙をもって記述し、「境界」の構造の複雑さを記述するための モデルを提示することの筈である。異なる概念のありうべからざる混同も、脈絡なく撒き散らされる唐突な断定も、「~でもなく、~でもない」式の 否定神学的な言辞も、既存の道具を使いこなす能力の欠如、道具を発明するための能力の欠如を告げているようにしか見えない。 数学的な道具立てをせいぜいが曖昧極まりないイマージュとしてしか扱えないのは、能力と、それこそ「想像力」の欠如の問題でしかない。 具体的な記述の改善、洗練に向けての努力をそっちのけに、実は不適切な語彙で不正確に、曖昧にしか語りえないという事態に由来する 言説のわかりにくさが持て囃されれば、そこに「知の欺瞞」が生じるのは避け難い。

そして潜在性からの創発を持て余した挙句、機械における組合せの連鎖のイマージュに、あるいは結晶や地層といった無機的なイマージュに 逃げ込むのは、人工知能や人工生命をはじめとするテクノロジーの現場の感覚、あるいは非線形の数理や非平衡系おける対称性の破れを 扱う現場の感覚にまるで逆行しているとしか感じられず、理論を構築する場としてのそうした哲学の無力、それを唱導する哲学者の 「想像力」の欠如と無責任を端的に示しているようにしか見えない。 (例えば解析の容易性から研究が進んでいる微分可能系、連続系に対し、漸化式、離散系の挙動を研究することは興味深いだろうが、 それならそれで、事後的に(後出しジャンケンであることを承知で)「俯瞰」してみれば、ドゥルーズの持ち出した微分概念は、メタファーとしてさえ 相当に的外れだったということになるのだろう。そもそもカオスやフラクタルなどについて言えば、離散か連続か以前に微分不可能性がキーと なっている側面すらあるのだから。そしてそれがメタファー以上のものであるとするならば一層問題は深刻で、スローガンに示された企図に 対する理論上の実質的な貢献が一体何だったのか、訝しく感じる人がいても不思議はない。百歩譲ってメタファーとしてであれ、 選択は妥当だったのだろうか?そしてこれらが本当に企図されたものと本質的に関係するのだろうか?世上顕揚される新しさは 一体どこにあるのか?意図が含む価値は置くとして、具体的な理論の詳細については全く見当はずれの着眼であり、「理解するのではなく、 利用せよ」というプラグマティスムの掛け声とは裏腹に、そもそも利用したくてもできないような代物ではないのか?創造としての哲学を取り戻すという 掛け声とは裏腹に、己の実践においては、そもそもその企図は全く別の枠組みでなくては達成できない類のものではなかったのか? 例えば寧ろ、新しい数学的な道具が必要だったというようなことはないか?)

そうした挙句の果ては、辛うじて実質的でありえたかも知れない理論的な枠組みを放棄し、かつては批判的な道具と いう目的が限定された手段であったかも知れないものが何時の間にか基礎付けの部品になりかわるという単純化による自閉でしかない。 差異を称揚する一方で、文脈もお構いなしに哲学上の 様々な概念を接続を断定的に行い、それぞれの分野の現場では峻別される概念の定義上の区別や正確さへの拘りに対する 配慮もなく短絡させるといったような、まるで現場の人間を侮辱するかのような振る舞いはどのようにして正当化されるのか。 「想像力」の機能たる縮減の効果であるらしい「横断」が一方的になされたとき、それが一体何をもたらすのか、 差異の「肯定」の結果するところは差異そのものの縮減ということにはならないのか、結果を見る限り極めて 疑わしいと言わざるを得ない。

そうであれば今一度、超越の拒否は単に他者性に対する感覚の欠如を告げているに過ぎない。必要なのは超越が生じる限界の 構造を出来るだけ具体的に、的確に記述するための語彙(勿論、数式、反応式、図式を含む)であり、不適切な語彙を積み重ね、 独りよがりなイマージュを気儘に撒き散らしても、それは彼の能力の限界を示し、彼の主観の檻を浮かび上がらせるだけで、 哲学者自身が抱える蒙昧さから逃れることはできない。結局、そうした言説は多分に政治的と呼ぶほかないアジテーションにしかならず、 そうした人間自身が知的遊戯、ゲームと化した言説空間を歎き、哲学を擁護するのは、もう一度、己の背中を見ることの困難さを 証言する事態にしか見えない。

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例えば「崇高さ」について、原子力災害を津波や地震のような自然災害の延長線上で論じてしまっていいのだろうか。 一方では、感覚的なものを超えたものでありながら、(再びカントを参照しつつ述べれば) それは直接的には数学的でも力学的でもない。放射線は目に見えず、そもそも直接的には感覚できないのだ。 だが、その影響は身体に刻印され、一定の量を超えれば、時を隔てて致命的な影響を及ぼすかも知れないから、 そうしたかたちでの人間の制御を離れてしまった力の露呈の(測定機器などの道具を介した)認識に、 あるいはその露呈の可能性の認識に対し、「崇高」を見出すことはできるかも知れない。もちろん直接的な 情動には結びついていないが、測定機器が数値に対して強い情動が惹き起こされるような回路が二次的に 構成されるということはあるだろう。他方でそれは、紛れもなく人間を含むシステムの内部で起きているという 意味で「自然」ではなく、人災なのだ。

だがそれを言えば、津波や地震の災害の方も、それらを単純に「自然」に帰属させ、人間の力が及ばない 威力に「崇高」を見出だすという点に終始して事足れりという訳にはいかないというのが、現代の状況ではないのか。 災害の予知、警報システム、避難場所の選定や避難手順の策定といった点においては、それらは原子力災害と 異なるところはない。そして感覚的なものの方はと言えば、テクノロジーに支えられたメディアによって、津波の映像が、 それを直接経験した訳ではない人間にも突きつけられ、制御できない情動的な反応を惹き起こしかねない。

だとしたら、そもそも津波や地震に「崇高」を見出すのは既にカントの時代に行われているが、原子力災害は そうではないという対比自体、上述のような状況の下においては不充分ではないのか。しかもまた、 それでいてなぜ原子力災害に限って、人間中心主義の乗り越えという「物語」が繰り返されるのか。(ところでそれもまた 「頑張る物語」ではないのだろうか。) 寧ろ津波や地震の方が制御が困難であって、原子力災害の方は狭義での「技術的な」問題として対処できるからこそ、 「物語」を持ち出せるという倒錯がそこには潜んではいないだろうか。一見したところとは逆に、テクノロジーの介在なしには 知覚することも操作することができない原子力の方が、否定して代替の可能性を求めるにせよ、近視眼的な否定を 戒め、それを受容する可能性を探るにせよ、現在の人間にとっては把握しやすいものであると思いなしていると いうことはないのか。(とはいえ、ここでもまた、別の方法をはいくらでもあると言われるだけで、具体的にどういう方法がありえるかの 提示は何一つとしてされない。「頑張らない」方法を探すべきだという発言も、現場でぎりぎりのところで異様な現実に 対処するべく「頑張らざるをえない」立場におかれ、実際に自分の持分を果たすべく頑張っている人間が置かれている 状況を目の当たりにすれば、虚しくしか響かない。) 人間中心主義の乗り越えが「有用」であると見做されるのは、むしろ原子力災害の方であって、津波や地震の方が 人間にとって把握しがたいものであり続けると見做されているからということはないのか。ここでもまた、現実を構成し、 規定するシステムとそれを支え、時に暴走させもするテクノロジーに対しての具体的な感覚をまるで欠いているようにしか 感じられないし(それは専門外、担当外だから、専門家、担当者に丸投げということだろうか?だが、それこそ三輪さんが 「中部電力芸術宣言」において異を唱えた態度そのものではないか?)、そもそもが、 今つきつけられている事象によって惹き起こされている「崇高」についての把握に関してもまた、 決定的なギャップを感じずにはいられない。

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三輪さんは感覚のレベルに留まる音楽を拒絶すると同時に、実践のレベルで「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことの 困難も意識している。そしてその困難は、芸術一般のそれでもあり、同時に、現在おかれている上記のような状況に 直面したときのそれでもあるだろう。癒しの断念も、レクイエムが書けないという発言もそうした背景の中で聴き取るべきなのだ。

そして他方でアルゴリズムとコンポジションの結びつきを「あり得ない」と感じつつ、でもそこに可能性を見出しているのは、 それが一見不可能にさえ見える「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことを可能にするかに見える方法の一部(繰り返すが それだけでは不十分なのだし、三輪さんはそれにも気付いていて、だから「逆シミュレーション音楽」に辿り着いたのだ)を なすからなのだろう。あるいはまた、「芸術は役に立たない」という規定もまた、一面においては一般的な意味における 有用性の水準での発言であり、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」効用の可能性を否定しているわけではない一方で、 「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが「芸術」には不可能な限界的な状況があり、そして敢えて逆説的な言い方をすれば、 「芸術」が有用であるとしたらそれは「芸術」が役に立たなくなるようなそうした瞬間において、まさに役に立たないということに よってそうなのだ、ということでもあるだろう。

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だとしたら、墓は誰のためのものであったのか。「フレディーの墓」は正しく「命名」されたと言えるのだろうか。だが「クープランの墓」 だって、そう名付けられたものの、戦没した友人の「墓」ではなかったか。「フレディーの墓」は誰の墓なのか?共産主義運動に 殉じた者への?共産主義運動を僭称した恐怖政治の犠牲者への?これは自動音声合成による機械の歌唱による追悼の 不可能性を反語的に示しているのか。「逆シミュレーション音楽」が、音楽として成立するために 「由来」を必要とし、更に人間による「演奏」を必要としている点を逆光の効果のように浮かび上がらせているのか。

「フレディーの墓」においても、フォルマント兄弟による「演奏」という契機が必須であるはずなのに、「お化け屋敷」では自動演奏が 行われていた。人間の演奏の映像という幽霊と、実在する機械によるライヴの自動演奏。人間による追悼の不可能性を 証言するかのような。喪の不可能性、レクイエムを書くことの不可能性を告げるかのような。「永遠の光…」のあの前半部分、 「音楽」の不可能性の否定的な表現であるかのようであっても、だが、そこではCD Playerに合わせることしかできなくても、 指揮者がいて、演奏者がいた。あるいはその他の大勢の演奏を禁じられた演奏者がいた。そのようにして、そして後半では 「逆シミュレーション音楽」のように、ただしここではプログラムの実行結果であるアルゴリズムの描く軌道を「演奏」することによって、 「音楽」は成立し、「レクイエム」が演奏されたのではなかったか。今、ここではそのようにしかあり得ないような異形の姿であったとしても。

「フレディーの墓」には超越性が欠如している。喪に服する人間の、己もまた今よりのち 死すべきものであるという有限性の認識が、そしてその結果として「崇高」なものの認識が欠けているようにしか思えない。そして、それがないところに 死者の眼差しはあるのだろうか。ここでは無限なものと有限なものの、媒介不可能なものの不可能な出会いは、不可能なものとして、 仮象としてすら存在しない。幽霊的なあり方自体がここでは禁じられているのだ。死者の眼差しもまた。そして勿論、そうした状況の証言、 象徴的な表現としてであれば、「フレディーの墓」は成功しているといえるのかもしれない。まさに「墓」たることに失敗することによって。

あなたを追悼する人間は最早いない。自動音声合成による歌唱を反復する機械があなたの「追悼」を行うだろう。(あなたがそれを 「追悼」と認めるかどうかはわからないが。)電力が続く限りは。電力の続く限りにおいて「永遠の光」は途絶えないだろう(あるいは「永遠」という言葉は、 ここでは何らかのカント的な意味合いでの理念などではなく、このように定義されているのだろう)。 そもそも人間とは生物学的に耐用年数が定められた、極めて不具合の多い機械の一種の名称ではなかったろうか。 だとしたらここには「芸術」は存在しない。「感覚を越えたものを感覚に媒介する」それも、死者のための、死すべきものという 自己認識をもった生者のためのそれも。そもそもそこには生者がいないのだから。あなたは予め幽霊的な 存在なのだ。だからそれはあなたの墓ではない。あたなの墓はもうないのだ。あなたは幽霊でしかありえない。

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「逆シミュレーション音楽」は、アルゴリズミック・コンポジションの不可能性を告げ、同時にアルゴリズミック・コンポジションをその一部とした 音楽の可能性を告げているように思われる。それは神話的思考が最早不可能であるという認識の下、無限なものの肯定的な象徴表現が 最早不可能であるという認識の下、人工物に取り囲まれ、人工物とともに生きる他ないという状況の認識の下で「神に見放されない」ための 「方法」、可能な「奉納」の仕方なのだ。それを「芸術」と呼ぶかどうか、「音楽」と呼ぶかどうかは恐らくは人それぞれだろう。 人は未だかつて「芸術」と呼ばれたもの、かつて「音楽」と呼ばれたものをそう呼び続ける習慣の裡に生きている。そして恐らくそこにしか「美」はなく、 (逆説的だが)「聖なるもの」もないのだろう。

だがそもそも、「芸術」は神的なものへの導きなどではない。そして神的なものに関わるのは、「神から見放されない」という点に関わるのは、 「芸術」によって到達し、だが「芸術」が「芸術」でなくなる瞬間、美的な側面が無効になる瞬間においてでしかない。美的なものは 生物である限り、感覚的なものであれ、理念的なものであれ、それらが惹き起こす情動から離れることはできない人間という生物個体の ホメオスタシスの維持機構の産物であるという来歴のいわば遺物なのだ。神的なものは、単に到来する。到来は、他なるものの到来、 自分を超越したものの到来であり、神と人とが分離されたものである限りにおいて、倫理的なものでしかない。そこでは享受ではなく、 美も、聖なるものもなく、歓待が求められる。構想力はそこで決定的に挫折する。だがそうした構想力の挫折の瞬間を標し付けるものが 「崇高」ではなかったか。「崇高」は、いわば主観の側からの最期の展望なのだ。

「芸術」は「奉納」として自己を否定しつつ、その場を用意するが、(思えば当然のことだが)神の到来を保証するものではない。 個別に生じた結果(それは作品そのものかも知れないし、その作品の演奏かも知れないし、その作品の享受かも知れない)は単なる行き止まり、 崩壊に終わることもあるだろうし、或る種の閉塞と排除、自己疎外に終始するリスクを否定することはできない。そしてそうした隘路を潜り抜けた としても、それを可能にした構想力/想像力は挫折を運命づけられている。

とはいえ、「場」を用意するのは、潜在的なものを、仮想的であれ実現するのは、「芸術」というよりは「技芸」の、「音楽」というよりはより広く、 「制作」(ポイエーシス)によってでしかない。それは新しいタイプの出来事が出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、 ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた物理学的、化学的、生物学的、社会学的過程を支える 数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が生成しうるような仮想的な場を 用意することなのだ。そこで生じるのは既存の存在の分類からすれば、或る種の畸形と見做されるかも知れないもの、 だが寧ろ生物学的な比喩を導入して「異型発生」と呼ぶのが相応しい出来事なのだ。構想力/想像力は自分の把握できないものを 産み出すために行使されるのであり、そのようにしてしか窒息状態にある現実からの恢復の可能性はないのだろう。

三輪さんの制作の軌跡は、おしなべてそうした「場」を用意することに存しており、そしてそれは今、ここで、そうでしかありえないかたちで達成されている。 その営みは、美を、芸術を絶対視せず、制作行為そのものを通じて、現実を構成し、規定するシステムとそれを支え、時に暴走させもするテクノロジーに 対しての具体的な感覚を喪わず、かつまた、死者の眼差しを意識するだけでなく、己もまた今よりのち死すべきものであるという認識にたったものなのである。 それは癒しを断念し、レクイエムなんか書けないと言いながら、受け止めたものに限りなく忠実であるが故に異形のものである他ない作品 (それは最早人間「だけ」のものでないが、それが「音楽」である以上、 人間や動物たち、あるいはより広く生物のものであり続けているし、それゆえ人間のもの「でも」あり続けているのだし、そこには或る種の癒しを、 冷徹な現実認識や気付きとともに見出すことすら可能である)を創りあげた作曲家のそれである。 「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」は、そうした達成に裏付けられたものなのだ。(2012.1.8/9初稿, 1.22/23/24修正・加筆)