2021年7月3日土曜日

ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ(2021.7.15更新)

ドイッチュが『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか』 熊谷 玲美, 田沢 恭子, 松井 信彦, インターシフト, 2013)の中で展開している持続可能性批判について、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)の所説に対する批判的検討の足掛かりとすべく、現時点で私に見えている限りの風景を以下に簡単に記述してみたい。ここでの目的は「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という視点から持続可能性がどのようなものとして捉えられうるのかについての検討に着手する準備作業として大雑把な見取り図を描き出すことにあり、結果として稍々単純化し過ぎもあるだろうが、そうした点を振り返って確認し、「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という視点からの検討に繋げていく作業については後日を期することにしたい。

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大まかに言えば、成長を加速することに対して肯定的である点において、ドイッチュは『ポスト・ヒューマン誕生』の著者である特異点論者カーツワイルと意見を同じくし、『人新世の資本論』とは対立的だと言いうるだろう。だが持続化可能性というトピックの扱いについて言えば、両者の立場は明確に異なる。

カーツワイルは持続可能性のような議論を主題として取り上げることはないように見える。『ポストヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』 井上健(訳), NHK出版, 2007)に限って言えば、その最後の章「GNRの密接にもつれあった期待と危険」の更に末尾の部分に、「さまざまな批判とその反論」という節が設けられており、カーツワイルの主張への様々な批判に対するカーツワイルの反論が記されているが、その中で辛うじて、マルサスの『人口論』的な立場からの批判において「指数関数的成長を維持するための資源が必ず枯渇する」からカーツワイルの主張は実現不可能だ、という批判があるくらいであって、それに対するカーツワイルの返答はあっけらかんとしたものだし、それ以外にも貧富の格差からの批判というのが別に立てられれているが、こちらに対する批判もそっけないもので(というか、指数関数的成長が貧富の差を解決すると言っているので、批判する側からしたら実質的には答になっていないと受け止められるだろう)、そもそもカーツワイルは自分がいる資本主義の空間の中にしか興味がなく、その中がこのまま加速を続けるとどうなるかをひたすら追求するばかりで、『人新世の資本論』の中では分かち難く結びついている資源の枯渇と貧富の差の問題が独立に論じられていることからも窺えるように、両者は差し当たり全く相容れない立場のように見える。

もっとも、それらに先行して「さまざまな生存上のリスク」という節があるように、人類の生存の危機、文明の滅亡の可能性について全く無視しているわけではなく、特に技術発展がもたらした現時点でのリスクとして、毒性の強いウィルスによるバイオテロのような可能性について触れているのは、目下の新型コロナウィルス感染症の蔓延を思えばその着眼には鋭いものがあるが、これについてのカーツワイルの処方箋は、それ自体GNR革命の一部であるナノボットをベースにした技術に他ならないのである。

更に言えば「予防原則」についても(当然ながら批判的にだが)言及しており、リスクに対して無視を決め込んでいるわけではないが、結局のところ技術の進展による未来の変容、特異点への到達は「不可避」であるというカーツワイルの主張が揺らぐことはない。これは『人新世の「資本論」』で展開される「脱成長」のための選択肢を考えれば興味深い点であるが、カーツワイルが生存上のリスクについての節を閉じるのは、「テクノロジーの全体主義的な放棄」の可能性について述べながらなのであり、それは「進歩という考え自体を放棄する世界的な全体主義システムによるしかない。」(p.551)いうかたちで「脱成長」について言及していると見ることもできよう。だが、この可能性に対するカーツワイルの答もまたあっけらかんとしていて、知識の分散化による民主化が全体主義を防ぐだろうといったようなものなのだ。勿論、カーツワイルのシンプルで思い切りのよい論の運びは、見かけ以上に深い直観に根差したものであろうし、端倪すべからざるものがあるとはいえ、持続可能性そのものについての検討が十分に為されているとは言い難い。とどのつまりは、カーツワイルにとって技術の進展を妨げるものは端的に打ち克つべき敵であるようだし、結局のところそうした敵も最終的には技術の進展を妨げることはできないとする彼の立場からすれば、そもそも持続可能性についての是非を議論する余地はなさそうである。

それに対して、ドイッチュの持続可能性批判というのはちょっと捻ってあるように見える。簡単に言うと、持続可能性のような発想に陥ると結局持続不可能になってしまう、だから持続可能性のような発想は止めて、技術革新に突き進むべきだ、というように受け取れるのである。一見したところこちらもまた(ドイッチュ自身の言う「楽観主義」ではなく語の通常の意味での)楽天的な技術信仰で、同じ持続可能性という発想を批判するにしても、「脱成長」をするなら、資本主義と折り合いをつけようとすような中途半端はだめで、コミュニズムじゃないと追い付かないという『人新世の資本論』のような主張とは反対に、問題に対して変に先回りしようとすると却ってひどいことになるから、そっちの方向は同じ穴の狢だと考えているようなので、直接「脱成長」を論じてはいないものの「脱成長」などを考えても結局は行き詰る、と言っているように見えるのである。

カーツワイルとは違って、ドイッチュは『人新世の「資本論」』が提起するような類の問題を見ないのではなく、問題を見た上で、正解は持続可能性とか脱成長の側にはないのだと主張しているようだ。かなり勇ましくて、大丈夫かな?という懸念を感じることはあるかも知れないが「未来に対して責任がある」というハンス・ヨナス的な責任の原理と無縁ではないし、実際に未来に対する責任を放棄しているようには見えない。寧ろ、「未来に対して責任をとろうとしたら、出てくる問題を一つ一つ個別に撃破し続けるしかない。そしてそれを続けるなら富の蓄積はあった方がいいし、技術はできる限り研ぎ澄ましておくべきだ」と言っているのである。技術の力、知の力を過信したドン・キホーテと見る立場もあるだろうが、私には、ドイッチュの姿勢は或る意味で常識的で、かつ寧ろプラグマティックに感じられる側面を持っているように思えるし、全面的に賛成するわけではないにしても、ドイッチュの見解のうち、未来というものをどう捉えてどう対処すればいいのかという点に関しては傾聴すべきものがあると感じる。

一つにはドイッチュは未来が予測して先回りできるほど現実は甘くないと思っている。未来予測はたいていうまくいかない、当たらない。だからいい加減な仮説に乗ってネジを逆向きに巻こうとするような話には眉に唾を付けて聞くべきだと言っているのではないか?そして、本当に予測できないことは原理上事前に何とかすることはできないというのは(当然だが)事実である。そしてドイッチュは、予測できないことが起きる可能性を無視していない。もし起きたら、その時に持っているありとあらゆる手段(差し当たりお金と技術)を用いて頑張るしかないだろう、つまるところ「アイデアの力」が重要だと言っているのであって、これは或る意味では随分と醒めた発想だと私には感じられるのである。そして重要な点は、そうした「アイデアの力」によってドライブされる科学の進歩そのものが未来の予測を困難にしているという点である。

その「アイデアの力」を引き出し、それを実現し、最大限に加速してきた社会システムは資本主義的なシステムであり、『人新世の資本論』が批判して、そこからの脱却を目指す当のものではないのかという問いに対しては、それを肯ぜさるを得ないだろう。だがそもそも散逸系としての生命システム自体が動き続けなければ維持できないという点で、宿命的に、『人新世の「資本論」』が規定する「資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である」(p.132)という意味合いにおいて資本主義的と言わざるを得ないのではなかろうか。社会システムとて同様で、完全な閉鎖系というのは現実にはあり得ず、従って完全な自給自足な社会というのは幻想であり、永久機関のようなものに過ぎず、原理的に不可能なのではなかろうか。勿論、持続可能性についてよりましな仕方というのはありえるだろうが、本質的には逃げられないのではないか。そこの部分をわかっていないか、わかっていて無視ないし軽視しているように見えるような議論、本当は答がないかもしれないのに、これはだめ、あれはだめと言いながら、これでもあれでもない「何か」が恰も現実に可能であるかのような言い方をする類の議論は極めて疑わしいと言わざるを得まい。『人新世の「資本論」』が唱導するところの「脱成長コミュニズム」は、もどき、即ちそれの失敗例であれば、過去において幾らでも現実に存在したであろうが、既に山のように存在した筈のそれらが皆行き詰り、事実に即して判断する限りでは持続可能だった例が全くなさそうであると言わざるを得ないのは一体何故なのだろうか?それが突然、今、これから実現可能になるというのは如何なる根拠によってなのか?

ドイッチュの主張については、そういう意味での疑念はない。彼の静的社会に対する批判は大筋において妥当だと思うし、ここではそれを行うだけの余裕がはなけれども、それをもって「脱成長コミュニズム」に対して疑念を提示することだってできるであろう。確かにそれは結局、資本主義を一先ずは肯定しているのであろう。だがドイッチュの主張の目指すところは資本主義そのものの肯定ではない(当たり前だが)。その一方で技術の重視について言えば、現実に、環境問題のあるものが技術的に解決されてきたことを無視すべきではないだろう(20世紀後半の日本に生を享けた者であれば、例示に事欠かないであろう)。勿論、かつての旧ソ連の自然改造みたいなのもあるし、現在進行形の事象としてもまた、中国大陸を始めとして、そこかしこにおいて、自分達のやったことに対するネガティブな結果を嫌という程思い知ることになるのであろう。だが、技術は滅びを加速するためだけに存在するのではない。これはほとんど確信をもって言えるが、もし将来、環境問題が或る程度ましなレベルになることが「現実に」あるとすれば、それは資本主義的な社会が産み出した技術の力によるものであることは間違いないだろう。それが頭の中の空想とか言論空間でのバーチャルな議論ではなく、現実を問題にしているのであれば、「脱成長コミュニズム」とどっちに賭けますかと問われた時の答は、私については決まっている。

他方、だからといって「内部」を維持するためのエネルギー源たる「外部」の搾取の問題はどうなるのだ、という指摘に対して回答が不要になるわけではないのも明らかなことである。現実に「外部」はどうなるのかというのは余りに大きな問で、それに対して答えるだけの準備が私にはないことを認めざるを得ないけれども、ドイッチュの主張の先で「外部」がどうなっているのかについて、私が見つけた(と思っている)手がかりを示唆することなら現時点においても可能かも知れない。なお、こういうと恰も、技術をとるか「脱成長コミュニズム」をとるかの二者択一以外の可能性、つまり「脱成長コミュニズム」の中で技術も進歩させるという可能性を予め排除しているととられるかも知れない。実際、『人新世の資本論』では技術の進歩が否定されているわけではなく、寧ろ狙うところは「いいとこ取り」であるように見える。しかしながら問題は、その「いいとこ取り」が可能であることを示す立証責任は、専ら「脱成長コミュニズム」の側にあるということで、この点についての『人新世の資本論』の言及は具体性に乏しく、カーツワイルの知識の分散化による民主化が全体主義を防ぐといった主張レベルの図式的なものさえ見えてこないのは、専ら読み手の能力の問題なのだろうか?図式的に提示された選択肢は現実的な実現可能性の点からみれば、著しい不均衡を持っていて、単純にそのうちのどれを選んだらよいかという議論は、既に現実から乖離しているように感じられるし、その点を措いたとしても、科学技術の進歩が問題を悪化させてきた一方で、ある時点での「見かけの問題」をその後の技術の進歩が解決して来なかったわけではなく、それが批判の対象となっている選択肢においても現実に起きてきたという認識にたって現に作動している力学系を制御していくやり方ではなく、ゲームチェンジャーの如きものとして「脱成長コミュニズム」をそうした現実に対置させる抽象性が、説得力を削いでいるように感じられるのである。

ところでドイッチュは『無限の始まり』の中で、持続可能性について論じた第17章とは別のところでも政治や社会体制の話もしており、特に第9章 楽観主義において、文明の滅亡についても第17章とは別の切り口で語っている。ドイッチュがカール・ポパーに依拠しているのは前著『世界の究極理論は存在するか』以来のことだが、可謬主義は科学者としてドイッチュにとっては基本原則なのだと思われる。それを踏まえた第9章末尾での「盲目的な楽観主義」と「盲目的な悲観主義」の定義は極めて興味深く、それ以上に、ドイッチュの言う「楽観主義」の定義(「いかなる悪も知識が不十分なために生じる」(p.304))は興味深い。まだ整理できているわけではないが、前者については『ありえないことが現実になるとき』のドゥピュイの「賢明な破局論」における予防原則批判と突き合わせてみる必要があるだろう。後者について言えば、またしても大まかな言い方になるが、ドイッチュの発想はつまるところ「知は力なり」なのだろう。だが物理学者ということもあって、これまた第9章末尾のまとめにおける「富」の定義(「起こすことのできる物理的変成のレパートリー」(ibid.))が経済学的な議論の水準を逸脱した面白い切り口を提示してくれているように、「力」という言葉もまた社会的な議論の水準における「権力」に尽きるものではなく、敢えて言うならばポスト・ニーチェ的とでも言うべき、自己再帰性を持った階層の間を谺し続けるような読み方を迫るものではなかろうか。

最後に、今のところ単なるレトリックのレベルに過ぎないが、その実それに留まらない展開の可能性を含む論点を指摘して終わりにしたい。それはドイッチュがまさに『無限の始まり』について語っているということそのものである。「無限」には「外部」に通じる回路が存在する。一方で、無限というのを現実とは無縁の、抽象物として捉えることは間違っている。カオスとかフラクタルといった複雑系は、無限と密接に関わりを持っている。(或いはまた、無限集合が如何に奇妙な振る舞いをするかを思い浮かべて頂いてもいいかも知れない。)そして世の中は実は古典的な力学や幾何学で説明がつく単純なものよりも、カオスとかフラクタルのような構造を持つもののほうが「普通」なのだということは強調されて良いだろう。科学は自分が持っている道具で説明できる範囲でしか説明をしない。道具が物の見方を規定してしまうのだ。勿論それでかなりの範囲の事柄が説明できるわけだが、だからといってカオスとかフラクタルは病的で例外的かといえばそんなことはなく、寧ろ、それらありふれた構造であって、だから心の構造とかを考える際にカオスとかフラクタルを用いるのは、寧ろ自然なことだと私には思える。(この点で私は津田一郎さんの感覚に共感している。世の中はカオスで充ちている、特に「人間」を尺度とした場合には、身近なところでは寧ろ、カオスとかフラクタルの方が当たり前の構造なのではなかろうか。)

勿論、具体的なある生物に、ある人間に固有のスケールというのがあって、そこから自由になることはできないのだが、にも関わらず、そうした制約を超えて人間が「無限」を発見できたという事実は残る。そしてそれは「二分心以降、シンギュラリティ以前」の「考える葦」たる人間にしかできないのだ。インコでも「ゼロ」の認識ができていることは実験によって示されているが、恐らく「無限」という概念は持ちえないのではないか?「人新世」に対して「二分心以降・シンギュラリティ以前」という劃期を立て、自伝的自己を備え、自己意識を持ち、という心の構造の不可逆的な変化がそれなしでは不可能であった「反逆」を可能にしたという『自己が心にやってくる』の第11章におけるダマシオの主張を思い起こしてみよう。その「反逆」の可能性は、「無限」概念の獲得と少なくとも構造的に連関があるのではなかろうか?「無限」に辿り着き、自分がそこから出てきた基盤の制約に対する「反逆」が可能になったことで、ハンス・ヨナスの言う「未来に向けての責任」を論じることができるようになり、ドュピュイの「賢明な破局論」が可能になったのであり、「二分心以降・シンギュラリティ以前」の種族たる「人間」以外の地球上の生物にはそんなことはできないのだ。

当然想定されるように「反逆」は両義的で、一方では、言われるところの資本主義を加速させ、他方では、抑制することができるのであろう。「脱成長」は後者であり、一般化して言えばこれまた或る種のホメオスタシス的なものの実現、動的で不平衡な系における或る種の準安定状態の実現の問題なのだろう。だが近年の知見によれば、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている(フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結である)。人間の脳は、予測機械、シミュレータなのであって、運動もまた予測なのだ。それを思えば、社会的な水準においてもまた、単なる持続可能性ではなく、単に「生き延びる」だけではなく、世界をシミュレートしつつ「生き方を学ぶ」必要があるのではないか。そしてそれは、或る種の情報については「価値を絶えず増やしていく終わりなき運動」を許容することによってしか実現できないのではないかというように思えてならない。そしてそれを思えば、ドイッチュが『無限の始まり』において展開した持続可能性批判には、様々な水準で、様々な方向に深く掘り下げるべきものを含んでいるように思えてならないのである。

ドイッチュの考えは所詮は科学者の或る意味で能天気な科学信仰なのかも知れず、或る種の啓蒙主義の評価やらポパーへの依拠ともども、例えばフランクフルト学派のような立場からすれば余りにナイーブな主張として反論されるのかも知れない。そして恐らく、控え目に言ってもその反論の一部は『人新世の資本論』の主張を補完することになるのだろう。或いはまた『無限の始まり』の別の箇所で展開される芸術に関する見解のナイーブさとの共犯関係を指摘する向きもあるだろう。けれどももしそうだとしても、とりわけ「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の後半部分がクローズアップされる今日の状況において、その目指すところは「人文工学」が精緻化すべき領域なのではないかというように思うのである。特に後者については、一見したところ局所的で派生的な問題に見えるかも知れないが、芸術の扱い、特にその「価値」については、それを「無限の始まり」の重要な契機として扱うドイッチュよりも、寧ろ『人新世の資本論』の方が、そのナイーブさが明らかであり、尚且つそのことが「脱成長コミュニズム」の抽象性に根本の部分で繋がっており、決して周辺的な側面ではないように思われる。ということで芸術の価値をどのように捉えるかという問題は、『人新世の資本論』でも正面から取り上げられておらず、ドイッチュも取り逃している問題の構造の急所に関わっていて、その検討を通して両者の議論の抽象性を指摘し、問題の空間の内部の布置を変え、結果として一見したところ両立不能に見える両者の主張を調停するのではなく、或る仕方で組み合わることによって新たな通路を発見することに繋がる可能性を秘めているというのが現時点での見通しということになる。(2021.7.3初稿, 7.7加筆, 7.15加筆修正)

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[後記]上記のメモは、2021新書大賞を受賞した話題作、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)を読んでの感想を起点とした持続可能性をめぐるメールのやりとりの一部が元となっていて、持続可能性をめぐる論点の整理の一つとしてブログでの公開を薦めて頂いたことから記事化したものです。遅ればせながら、メールでのやりとりをさせて頂くことで上記のような論点を引き出して下さり、ブログ記事として公開するきっかけを作って下さった京都大学人文科学研究所の岡田暁生先生と三輪眞弘さんへ御礼申し上げるとともに、記事執筆・公開の経緯を記載させて頂きます。また上記記事のいわば前段をなす部分のうち、特に本ブログの主旨に即した部分を別途「落穂拾い」として公開する予定です。(2022.1.1追記)

2021年2月27日土曜日

『人形たちのための五芒星』初演にネットワーク越しに立ち会う

 IAMAS 2021

マルガサリ 特別公演

『人形たちのための五芒星』

2021223日(火・祝)16:00- 16:30

IAMASよりライブ配信  

 

作曲:三輪眞弘

映像:前田真二郎

音響:牛山泰良

ARプログラミング:伏田昌弘


協力:西本昂生・石田駿太

「またりさま人形」(2003) 制作:小笠原則彰


マルガサリ(ガムラン・アンサンブル):大井卓也・谷口かんな・中川真・西真奈美・西村彰洋・森山みどり・柳野伽耶)

ほんまなほ(スリン、ルバブ

林暢彦(悪魔:ARカメラ


主催:タイムベースドメディア・プロジェクト 

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新型コロナウィルス感染症の感染拡大から早くも一年が経過した。二度目の緊急事態宣言は一か月の延長を余儀なくされ、依然として専門家の慎重論がある中で、IAMASの所在する岐阜県を含む関西・中京圏については2月末で解除されるものの、首都圏一都三県については感染収束のペースが鈍化しており、37日の解除については予断を許さない状況にある。そんな中、IAMAS2021の企画の一環として、新作「人形たちのための五芒星」の初演が行われ、その様子がライブ配信されるのに接することができたので、その視聴の記録を以下に残しておきたい。これはいつものことではあるが、新作のもつ意義、この上演の持つ射程を余すところなく明らかにすることは、私の手に余ることであり、ここでの私の役割は、上演がどのようなものであったかの証言者としてのそれに過ぎないことを事前にお断りしておきたい。 

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 「人形たちのための五芒星」は、昨年9月に、これもまた無観客でライブ配信されたサラマンカ・ホールでの『三輪眞弘祭』で初演された「鶏たちのための五芒星」の姉妹作として作曲者自身によって位置づけられている。実際、五角形の辺と対角線を規則に従って移動するパフォーマーの動きに従って、ガムラン・アンサンブルが演奏を行うという基本的な構造を共有しているが、このように共通の「母型」(マトリクス)に基づいて幾つかの作品がネットワークを構成するというのは、これまでもあったのだが、今回の新作の大きな特徴は、パフォーマーの移動が現実の空間で行われるわけではないという点にある。作者自身の作品解説の言葉をそのまま引用すれば、「前作のパフォーマーたちは非物質化された記号(3D オブジェクト)に替わり、その移動の様子は AR(拡張現実)カメラを通してでしか見ることができない」。この状況は『三輪眞弘祭』において上演された作品では、藤井貞和の詩に基づく、筝と風鈴のための『もんじゅはかたる』の奏者のそれに相当する。『もんじゅはかたる』では奏者はゴーグルを装着して、ゴーグルが映し出すAR内の楽譜に従って演奏を行うのだが、今回の「人形たちのための五芒星」では、ガムラン奏者はARゴーグルを装着するのではなく、譜面台のように楽器の手前に置かれたディスプレイに映し出される映像を見ながら演奏する。演奏はIAMASが所在するビルの高層階の一室で行われたようだが、現実のその部屋では、床に描かれた五芒星の中央に一体の「またりさま人形」が置かれ、それを取り囲むようにしてガムラン奏者が座るものの、パフォーマーはおらず、パフォーマンスが行われることはない。五芒星の頂点にはスピーカーが置かれて、そこからは、パフォーマーが演奏している「筈の」カラーパイプの音響が出てくるのみである。 ちなみに「鶏たちのための五芒星」では、カラーパイプの演奏は、パフォーマーが五芒星の頂点にいる時だけ行われ、移動中は行われなかったが、それに正確に対応して、「人形たちのための五芒星」においても、その時点でその頂点にいる筈のパフォーマーが持っている筈のカラーパイプの演奏の音響がスピーカーから出て来るようになっていたようだ。(実際には、ネットワーク越しにライブ配信を視聴する私には、各スピーカーから出て来る音響の空間的な定位が識別できたわけではないので、これは恐らくそうであったろうという推測に基づき、事後的に確認して判明した事実なのだが。)

 とは言うものの、それでは譜面台替わりに置かれたディスプレイの中では、パフォーマーが移動しているのが見えるのかといえば、そうではない。再び作者の言葉を引用すれば「非物質化された記号(3D オブジェクト)」、具体的には、六色に色分けされた四面体・立方体・球体が、五芒星の描かれた床の上に浮遊しており、規則に従って対角線や辺に沿って移動するのが見えるだけである。それは「逆シミュレーション音楽」の定義に沿って言えば、「規則による生成」によって生み出される計算結果の「解釈」についてのシミュレーションに他ならない。実際、そのようなシミュレーションは作品の創作の過程で、都度行われているであろう。実演においては発生されることが想定され、それに対する対処まで規定されている解釈者の犯す誤りはシミュレーションでは発生しないのだが、重要なのは、それがシミュレーションであると視聴する人間が思いなした途端に、そこでは誤りが起きようがないという信憑が成立してしまうということだ。実際には可能性の上では、「非物質化された記号(3D オブジェクト)」の動きは、更に別の場所で実際に行われている、リアルな解釈者による解釈のリアルタイム再生であるかも知れず、もしそうなら「非物質化された記号(3D オブジェクト)」は間違った動きをする可能性もある筈なのだ。その一方で、これはここでのみならず「鶏たちのための五芒星」でもそうであったのだが、ガムランの演奏はパフォーマーの動きを楽譜に見立てて行われるわけで、そこにも解釈があり、そこで誤謬が生じる可能性があるという点、つまり解釈行為が二重化されているという点が、この新作においては、一方をARの中に括弧入れすることにより浮かび上がるような仕組みになっていると言うこともできるだろう。そしてこれまでの作品を改めて俯瞰したみた時、このことに関連した素朴な疑問の存在に気付かされる。それは「なぜガムラン奏者が「傍観者」なのか」という疑問である。「音楽」にとって音響的実現が必須の条件であるとしたら―そして一般にはそのことに疑いが持たれることは無いだろうが―、ガムラン奏者こそが演奏の主体である筈なのに、何故殊更に「傍観者」という規定を受けるのか。最初にこの新作に接した時にも、その疑問は直ちに頭をもたげたのだったが、上演に立ち会った後、印象を反芻する裡に、「鶏たちのための五芒星」と今回の「人形たちのための五芒星」の間に設定された或る種のシステマティックな変換による布置のずれの中に、その疑問を解消するヒントがあるように感じられた。だがこの点については後程もう一度取り上げることにして、今は上演の記録に立ち戻ることにしよう。 

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 上記の記述のみでは今回の上演の複合的な枠組みのうちの、謂わば内側のレイヤについて語っているに過ぎない。再び作者の言葉を参照すれば、それが「前作同様、ライブ配信を前提とした前田真二郎との「中継芸術」の試みである」という点について触れずして全体を語ったことにはならないのだが、「前作同様」という言葉にも関わらず、その具体的な様態は前作とは全く異なったものであり、寧ろそのことが「人形たちのための五芒星」の聴取の印象にとって支配的なものだったと私には感じられた。

 端的にその違いを述べようとした時、ポイントとなるのは「悪魔」の役割である。ラプラスの魔やマクスウェルの魔を嫌でも思い起こさせる「悪魔」が従来果たしていた役割は、メタレベルの観察者、規則通りに系が動作しているかどうかをチェックするというものであり、それは「鶏たちのための五芒星」についても該当していた。そこでの悪魔は「規則による生成」の結果である記号列が記載された「帳面」、祭祀の上演のための謂わば「アンチョコ」にあたるものと舞台上でのパフォーマンスを照合し、エラーが生じた場合にはゴン(銅鑼)を鳴らしてパフォーマンスを中断する役割を果たしていたのだった。それに対して、パフォーマーがAR上での3Dオブジェクトに置換され、実演が実演のシミュレーションに置換される「人形たちのための五芒星」において、規則の遵守を監視する役割から解放された悪魔がやることは、ハンディのARカメラを持って演奏会場を徘徊し、自身の移動を伴う視線がARカメラ越しに捕らえた光景をライブ配信される映像に付加することであった。

 ライブ配信された映像は、ARカメラの映像か通常のカメラの映像(「現実」の演奏会場を撮影したもの)のいずれかで、それぞれカメラの置かれた場所に応じた複数の視点から構成されており、それらが随時切り替えられていくのをネットワーク越しに視聴することになっていたのだが、それに加えてARカメラの映像の一つとして、但し、それだけは移動性を伴った視線として、「悪魔」が持つARカメラの映像が配信されたのである。この点で思い起こされるのは、「鶏たちのための五芒星」を含む『三輪眞弘祭』において、そのような移動性を伴った視線を担ったのは、舞台を自在に動き回りながら撮影した画像をインスタグラムにあげていった写真家だった筈だということである。筈である、という言い方をするのは、実はインスタグラムのアカウントを持っていないというごく単純な理由から、私はリアルタイムで写真家の視線を上演の際にリアルタイムで追うことができなかったからであるが、今回の上演での悪魔の視線の自在な動きに接して思い出したのは、まさにそのことであった。今回の上演の配信の総体的な印象を決定したものがあるとすれば、まさに悪魔のARカメラの映像がそれであったように思われる。上演が始まって暫らくは五芒星の脇で仰向けに寝ていたが、起き上がってからは、演奏会場である部屋を自在に動き回り、五芒星上での3Dオブジェクトの動きを追ったかと思えば、或る時にはガムラン奏者の脇に、或る時には上演を見守る作曲者や映像監督の背後に廻って上演の様子を紹介し、更には逆立ちしたり、カメラを自分自身に向け、所謂「セルフィー」を映すことによって自分自身を匿名にしておくことなく顕在化させたかと思えば、会場となった部屋の西に面した窓をあけて、外光を遮っているブラインドの向こう側にカメラを出して大垣の夕陽を映し出してみたり(部屋の中にはひとしきり外気が入って、日差しが射しこんだ)、ドアを開けて部屋を出て部屋の外部の空間を映すことによって上演が行われた場所や時間の具体性を浮かび上がらせるということを行ったりもしていた。そしてそうした「悪魔」の或る意味で饒舌な動きが、会場にセットされた通常のカメラに、或いはガムラン奏者の楽譜替わりであるディスプレイにも映し出されることは、映像の視線の複数性が否応なく際立つという点で効果的だったのではなかろうか。 

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 これも後で伺った話では、この「悪魔」の役割に関しては、いくつかの希望を伝えた以外それほど指示は出していなかったとのことだが、であるとしたらそれは悪魔役自身による一貫した解釈に基づく徹底したリアリゼーションであったということになるだろう。これが祭祀であることを思えば、やりそうなことを余さずきちんとやってくれたという意味において些か律儀に歩き回り過ぎたという印象を持ったのだが、こう書いたからといって、その解釈に関して全体としてネガティブに考えているわけでは決してない。その動きは或る意味でとても啓蒙的で、作品に込められた種や仕掛けをあらかたわかるように提示してくれており、見る方にとってはこの上演に込められた意図が誤解の余地なく伝わって、わかりやすかったのではなかろうか。

ただその一方で、役割上仕方ない面もあることを思えば無い物ねだりの側面があることを否定することはできないことを認めつつも尚、悪魔だけが或る種治外法権的な、メタ的な位置にいるように見えてしまうことが、これを人形供養の祭祀としてみた時に或る種の異質性を感じさせるものになっていたこともまた否めない。謂わば「…という夢を見た」という操作を余りに徹底してやり過ぎてしまった結果、見る側に夢見る隙を残してくれなかった点を憾みとするとでも言うべきだろうか?深夜に無観客のコンサートホールで行われた『三輪眞弘祭』の画像があえてモノクロであったのに対して、今回の上演の画像は、日中の、或る意味では日常的なごくありふれたビルの一室を、それとわかる加工を施すことなく映し出したものであり、劇中劇が舞台と舞台裏を同時に提示するのに通じるような、醒めた意識的な視線を感じさせるものであったが、それが姉妹作の「妹」たる「人形たちのための五芒星」という作品に課せられたミッションだったと思えば、啓蒙的な悪魔の振る舞いともども、その意図は余すところなく達成されたと考えるべきなのだろう。

一方で、逆説的に、遡行的に、「姉」たる「鶏たちのための五芒星」におけるコンサートホールという場所の持つ力、モノクロの画像の持つ力、上演の時間帯の持つ効果を想起させ、最初に述べた来るべき「解釈」のシミュレーションのようなものとして感じられてしまう拡張現実の中の多面体や球体たちの動きは、これもまたネガのような形で、人間による上演の持つ意味を浮かび上がらせずにはおかない。例えばだが、撮影上の工夫によってガムラン奏者が見ているAR画像を配信しないことも可能な筈で、その時には、床に描かれた五芒星の中央には(鶏の精とは異なって、白い粉をかけられない替わりに、自ら動くこともしない)「またりさま人形」が置かれ、五芒星の頂点のスピーカーからカラーパイプの音が聞こえてくるだけの動きのない風景の中で、ガムランによる演奏が繰り広げられる、ということになったであろう。だがもしそうだとして、(これは大変な難事だろうが)奏者の脳内のシミュレーションによってパフォーマンスがシミュレートされ、いわば「暗譜」での演奏が行われていたのだという可能性はどうだろうか。

思えば『三輪眞弘祭』において移動性の視線を備えていたのは、写真家だけではなかった。それが自分達のための儀礼であることを知る由もなく、演奏会場を動き回る六羽の鶏たちの視線もまた含まれていた筈なのだ。自らが作り出した人形を供養する儀礼(妹)の中で、「姉」の上演の際にはメタ的に行為の遂行を監視していた「悪魔」が移動性の視線を獲得し、自らを被写体としつつ、「音楽」が立ち上がる空間がそれによって成り立っている複数の視線を浮かび上がらせるのだとしたら、一見したところ此処では不在であるように見えた人形たちの視線について問うこともまた、可能ではなかろうか。それは端的に不在なのだろうか、それとも単に不可視なだけで多重世界のどこかの層には含まれるのだろうか… 

いずれにせよ、ライブ配信を前提とした「中継芸術」という制約を逆手にとって、ここでは「逆シミュレーション音楽」の定義の最も根本的な部分である人間によるパフォーマンスという規定さえが分裂させられ、「音楽」の総体が「生の」現実だけでも拡張現実だけでも完結することなく、その両者に跨った形でしか存在しえないという状況が提示されている訳だが、そのことによって気付かされるのは、そもそも「音楽」というものは「生の」現実だけではなく、必然的に想像力の領域にも広がっている筈のものであること、それは人間の持つ「いまここ」を離れたシミュレーションを行う能力によって可能になっているのだということに他ならない。一見してそのように思いなされたとしても、そしてそれが「音楽」にとって不可欠な次元であるとしても尚、「音楽」は複数の身体が同期して共鳴を惹き起こす共同的な空間のみからなるのではないのだ。それが命名され、世代を超えて継承されるためには、「いまここ」を離れ、現実と仮想の両方の空間を貫き、時間の中を貫いて存在する「自己」がその中から立ち上げってくるということが必要とされるのである。

* * * 

16時ちょうどに開始された演奏が終わったのは1627分頃だったろうか。ほぼ30分程度の長さを持つ作品の全体は、これまた「鶏たちのための五芒星」でもそうであったように「規則によって生成」された数列の対称性を持つ周期性により四つの部分に分割されている。ブロック単位でテンポが変動する点も「鶏たちのための五芒星」と同様である。これは私に固有の事情だが、実はライブ中、何度かは画面が固まって、そのうちの一、二回は音も飛んだりして、受信状態は必ずしも良くなかったのだが、出だしと後半では、音響のバランスがはっきり変わったように私には感じられたのであった。だがそれは特に意図されたものではなく、またそのように編集・加工された訳でもなく、実際に、自然と、全体的にガムランの音は最後には大きくなったようで、結果として、最初はカラーパイプの音の方が優越していてガムランの音響は寧ろ後景だったのが、一旦カラーパイプが休止する部分を経た後は、ガムランの音響が前景に出るよう感じられたものらしい。

繰り返しを厭わず言えば、今回は、仮想現実でのパフォーマンス(カラーパイプの「演奏」も含む)の「傍観者」として位置づけられた奏者たちが奏でるガムランの音響だけが、複数の人間が同期して織り上げていく生の現実の音として響き渡ったのだが、結果的には単なる思い込みに過ぎなかったのであるけれど、私にはそうした音響バランスの変化が、人間の営みに如何にも相応しいものであるように思われたのである。ここでは人の声は用いられないけれど、最初は演奏する映像ばかりで、ほとんど聞こえなかったルバブの音が、予め定められた数列に基づいた音響系列のリアライズを終えた後、最後にガムランの高音のパートとともに残った時に、余りに人間的な息遣いに満ちたものに感じられたのだった。これは自慢ではなく寧ろ不明を愧ずべき事柄だと思うが、印象を正直に述べるならば、『三輪眞弘祭』での「姉」の上演の折、ルバブが人間の声の代補であるという説明があったと記憶するが、私にとってようやくそのことが腑に落ちたのは、凡そ半年の遅延を経て、今回の「妹」の上演に接することによってであった。

今回の「妹」の上演は、大仕掛けで、まさに「祭」と呼ぶに相応しい「姉」の上演と比べた時、一見したところシンプルに見えるが、実際にはAR技術を駆使した今回の上演には、前回とは異なるタイプの様々な技術的な困難があったことと想像される。それを乗り越えての上演の成功に対して、まず祝意と敬意を表したい。勿論、こと受容サイドについて言えば、新型コロナ禍の中でネット配信によって接することができたに過ぎないという点は、厳然たる事実として決して軽視されるべきことではないだろう。だが繰り返しになるが、ライブ配信を前提とした「中継芸術」という制約があればこそ、それを逆手にとるようにして「逆シミュレーション音楽」の定義の最も根本的な部分である「人間によるパフォーマンス」という契機さえが分裂させられるに至ったこと(但し、それを実現するためには、それ自体が解釈であるパフォーマンスを更にジャワ・ガムランの持つシステムにマップするという作曲者の企みに富んだ「力業」が必要であったことを忘れるべきでないだろう)、その結果として「音楽」の総体が、「生の」現実だけでも拡張現実だけでも完結することなく、その両者に跨った形でしか存在しえないことが示されたこともまた強調されて然るべきことではなかろうか。少なくとも私個人としては、「音楽」が成立するために必要な多層の領域が技術的な手段によって実践的な形で具体的に開示され、複数の視線や声ならぬ声が交錯する中から人間の「うた」が立ち上がってくるという消息を実際に目の当たりにすることができたことに対して、心からのお礼を申し上げたい。

更に言えば、「規則による生成」を解釈し、音響的に実現するガムラン奏者たちがなぜ殊更に「傍観者」と呼ばれるかというのも、その点に関連付けて理解することができるように思われるのである。「またりさま」のような「逆シミュレーション音楽」においては、解釈者たるパフォーマー自身が音響的実現の主体でもあったのに対し、既述のように「鶏たちのための五芒星」では、数列の解釈であるパフォーマーの動きが、更にガムラン奏者によってジャワ・ガムランのシステムに解釈されて音響的実現を得るというような重層的な構造が実現したのであった。その点を作曲者は作品解説で「その場で生成される楽譜として読み替え」ることと規定しているが、そうした規定は、まさに今回、読み替えの対象となるパフォーマンスがARによって実現された仮想的な世界に分節化されていること、更にはパフォーマーがアバターのようなイコン的な似姿を持たない「非物質化された記号」であることによって裏打ちされているとは言えないだろうか。それは記号の成立の、記譜法の確立の現場そのものではないだろうか。それは複数の身体が同期して共鳴を惹き起こす共同的な空間の中に無媒介に融即した状態から一旦身を引き離して距離をとり、時間のずれを伴って、改めて「自己」の「うた」としてうたい返すプロセスに他ならない。それはまさにシグナル的な記号からシンボル的な記号への移行のプロセスそのものであり、同時にまた他者の声が交響し、リズムが交錯する空間の中から「自己」が立ち上がっていくプロセスそのものでもあるのではなかろうか。

逆説的なことではあるけれど、まさにこれこそが「音楽」なのではないか、「うたうこと」の困難さ、時として不可能性とさえ感じられるような状況の桎梏の中において、それこそが三輪さんが目指してきたことなのではないか、だとしたらこれこそが優れて「音楽」と名付けられるに相応しいのではないかとさえ思えるのである。

思えば昨年、新型コロナ禍をうけて『三輪眞弘祭』がオンライン配信を前提として企画されることを知った時、そのことが新しい自己の立ち上げの可能性を秘めているのではないかということを考え、そのように発言もしたのであるが、今回の上演に接し、「鶏たちのための五芒星」を「人形たちのための五芒星」から眺めることによって、それらがまさに新しい自己の立ち上げのシミュレーションに他ならないことを認識できたように思うのである。このような状況においてさえ、なお「音楽」は可能だし、逆説的に、このような状況であるからこそ聴き取ることができる「声」がある、ということを認識することができたことに対して、重ねて感謝の気持ちを表しつつ、この拙い記録を閉じることとしたい。(2021.2.27初稿公開, 3.2更新

[追記]「人形たちのための五芒星」については、タイムベースドメディア・プロジェクトの以下のWebページに、公演の記録および作品解説が掲載されており、ライブ配信の記録を再生して視聴することが可能となっています。(2021.2.28)

https://sites.google.com/iamas.ac.jp/tbm/home/Live/20210223?authuser=0