フォルマント兄弟による「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」において、リアルタイム性が、「人間」の演奏として介在するという点に おいて生じていることを振り返ってみよう。規則合成方式による、人間であるかどうかもわからない「誰でもない声」が歌うのだから、それを人間が演奏することにより、 人間に生物学的に事前に備わっているのとは別の、もう一つの発声器官を持ったことになるだろう。その時、生物学的な人間とは別の身体を持った 「種族」が歌っているのだということができるだろう。 それは今日の状況を踏まえれば当然構想されるべきでありながら、未だに構想されたことのない、まさに現在の状況に相応しい試みであり、 三輪さんが言う「コンピュータ語族」の歌であり、「ありえたかも知れない未聞の種族の音楽を仮構すること」ということになるのではないか。
ところで「フレディーの墓」においても、フォルマント兄弟による「演奏」という契機が必須であるはずなのに、「お化け屋敷」では自動演奏が行われていたことを 思い起こそう。人間の演奏の映像という幽霊と、実在する機械によるライヴの自動演奏。人間による追悼の不可能性を証言するかのような。喪の不可能性、 レクイエムを書くことの不可能性を告げるかのような。一方で「永遠の光…」のあの前半部分、「音楽」の不可能性の否定的な表現であるかのようであっても、 だが、そこではCD Playerに合わせることしかできなくても、指揮者がいて、演奏者がいた。あるいはその他の大勢の演奏を禁じられた演奏者がいたことを 思い起こそう。そのようにして、そして後半では「逆シミュレーション音楽」のように、ただしここではプログラムの実行結果であるアルゴリズムの描く軌道を 「演奏」することによって、「音楽」は成立し、「レクイエム」が演奏されたのだった。今、ここではそのようにしかあり得ないような異形の姿であったとしても。
人間の演奏という媒介を欠いた「フレディーの墓」には超越性が欠如している。喪に服する人間の、己もまた今よりのち死すべきものであるという 有限性の認識が、そしてその結果として「崇高」なものの認識が欠けているようにしか思えない。そして、それがないところに死者の眼差しがありえるだろうか? ここでは無限なものと有限なものの、媒介不可能なものの不可能な出会いは、不可能なものとして、仮象としてすら存在していない。 幽霊的なあり方自体がここでは禁じられている。死者の眼差しもまた。そして勿論、そうした状況の証言、象徴的な表現としてであれば、 「フレディーの墓」は成功しているといえるのかもしれない。まさに「墓」たることに失敗することによって。 かくして「フォルマント兄弟のお化け屋敷」には 幽霊はいないのだ。
だがしかし、(お化け屋敷ではなくてそれが墓であるとしたならば、)墓とはそもそもそういうものではないのかと問うこともまたできるだろう。 墓そのものは外部的・質料的な物質性によって、スティグレールのいうところの第三次過去把持の基体たり得ているのではないのか? そして自分の知らない根拠、起源の記憶の世代を超えた継承は、追憶は、そうした墓の固有性を欠いた物質性に依拠すること無しにはできないのではないか? 墓の外部性、物質性は、繰り返し想起し、追憶するための必須の契機であり、デリダがツェラン論「シボレート」で論じた、固有名の、暦法や 日付の反復可能性と同じアポリアの構造を持っているのではないか?
しかし、それもこれも記憶し、追憶する個体による想起あってのことだ。追悼する人間が最早おらず、自動音声合成による 歌唱を反復する機械による「追悼」しかないとしたら、それは最早追悼ではないだろう。読む者が最早いない記録は記録ではない。 実は人間の有限性こそが記録を記録たらしめているのだ。 一方で「絶えざる永遠の光」の永遠性は、何らかのカント的な意味合いでの理念などではなく、超越論的な領域は解体され、 電力が続く限り、記憶媒体の劣化に応じて、といったかたちで定義され直すのだろう。スティグレールが述べるように、 テクノロジーによってメディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、超越論的な 枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、 物象化される。そしてそれは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。
だがそれでもなお、純粋に可能なもの、或る種の極限概念としての「理念」は、これまた「人間」のものであり、 「人間」のものでしかないのだ。イエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直観的知(悟)性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。だがカントはそれを神的知性にのみ可能なもの、 「人間」にとっては「理念」としてしか語りえないものと考えたのである。そしてそれは超越論的枠組みが維持できなくなっても 変わることはない。ジェインズの意識の考古学のような経験的な事実性の水準で、人間は技術なしには今のような構造の意識を 備えることはなかったであろうし、今のような時間性を生きることもなかったであろう。技術が意識の個体性を損なう危険を 孕んだものであるとしても、その危険なしには理念的なもの自体が成立しえないのだ。
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そのテクノロジーによって、単なる補綴を超えて、それまでは決して出来なかったこと、記録された「自分の声」を聴くことが可能になった。 そこでは私は文字通り一個の他者、自分にとって馴染みのない、見知らぬ人間となる。だが、「記号」というのは実はすべてそういうものだ。 それだけではなく、「私」はそうした「記号」の編み目によって辛うじて成立しているのだ。私が「我々」に解消されず、個体性を維持しつつ、 他者に向けて問いかけ、応答するためには、自分にとっては外的な技術を、「記号」を用いなくてはならない。 「記号」によってしか、問うことはできないし、答えることもできない。 そして記号化した問いや答えはアーカイブされ、個体性の限界を超えて、世代を超えて保存される。 記号による外部化を介して、ホワイトヘッドの言う「客体的不滅性」への通路が仮構される。 個体性を損ない、出来事の唯一性を損なうかに見える記号の複製可能性、反復可能性こそが、個別的なものが記憶され、 継承され、理念的な極限としての「永遠」へと漸近するための唯一の径路なのだ。 私は自分の声を聴くおぞましさに耐えることなしには、自分の声を持つことはできないし、歌うこともできない。 自分固有の声が自分にとってよそよそしく、おぞましいものですらありえるという逆説に耐える他ない。
声だけではない。このように書くこともまた、同じことなのだ。記号の、技術の反復可能性の両義性に全てはかかっている。 私が書いたものは、読み手によって誤解され、私が意図したとおりには受容されないかも知れない。意図的に曲解される 可能性すら常に存在する。私の応答は、余計なもの、してはならないもの、災厄を招くものであるかも知れない。 だが、その可能性とともにでなければ、私は自分を成立させることができない。誤解を招来することを防ぐべく、沈黙すること、 内的独語に自閉することは、自己を自己として成立させる契機そのものの断念に他ならない。
否、寧ろ、応答することを避けるのではなく、適切に問うことこそが問題なのだろう。 歓待のためには、応答のためには、それに先立って、まず相手に呼びかけること、そして正しい問いを発することが できなくてはならないのではないか。歓待のための、応答のための地平としての問いが未来を事前に規定してしまい、 意識の選択を事前に決定してしまう。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたように、意識は遅れて、あたかも自分が選択し、 自分の意思で応答したかのように思いなすかも知れないが、実際には前意識的な判断を追認し、予め仮構され、編集され、 並べ直された事象の系列を受け取っているに過ぎない。それは意識自身がしたのではない問いの結果であり、 意識の応答は、意識自体に先行する問いに導かれているのだ。
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もう一度今、ここで、再び「言葉の影、またはアレルヤ」について問い直してみる。「ひとびとの行いの何もかもが情報化され記号化されていくこの世界で、 その巨大な記号化プロセスに対する反抗」と作者によって規定された「言葉の影、またはアレルヤ」において、旋律の中に浮かび上がる、複数の人間の、 独立して鳴り響く音高の絡み合い、重なり合いによって生じるひとつの声、「名を呼ぶことも、言葉になることもなく、ただ時の中をさまようだけ」の声。 国籍すらわからない、否、そもそもそれは最早「人間」ではないかも知れない、誰のものでもない/誰でもないものの声、「持ち主のいない声」は、 言葉を持つことのできない人間のための、つまるところ常に・既に「幽霊的」にしか存在することが許されない人間、誰にも呼びかけられず、 応答することもできない人間のための「声」の代理なのだ。それは「代理」でしかない。とはいえ、幽霊にとっては代理以外の声は、端的に存在しない。 装置を通じてしか、私の声は有声にならないし、どこにも届かない。仮に装置がいかがわしく、歪みから自由ではなく、信頼のおけるものでないとしても、 それの介在により例えば剽窃や贋作の、あるいはあろうことかコミュニケーションの拒絶の嫌疑を受けようと、独創性の欠如や解釈の困難さについての 非難を受けようと、そのようにしか声を発することはできないのだ。
生物学的な人間における声の特殊性は、それを書くことと対比させた場合、一見するとそれが無媒介で直接的で、外部的な媒体を経由せず、 自分固有の身体のみを通じて発せられるかに思い為される点にあるのだろう。書くことは、それ自体が外部的な媒体への 「転記」と見做されるのに対し、声は直接的であると思い為される。実際には、それが声でなく言語であるならば、 実際には、言語システムという外部が自分の裡に既に埋め込まれているのだが、それは都合良く無視されるわけだ。 自分の声を聴くことのおぞましさは、録音と再生の技術を持つまで永らく人間が、自分の声が外部の空気の振動として 耳から聞き取られるという状況になかったからであり、そうした技術を獲たところで、自分の身体を経由して(つまり、 いかにそれが自己固有のものと見做されようと、実際には別の媒体を介して)聞き取られているからに過ぎない。 自分の身体を経由しての聴取のことを、「内側からの」聴取と呼んでいるわけだ。そしてそれはフッサールの内的時間意識の 現象学的分析における第一次過去把持の水準に対応している。かくして、デリダの言うところの「現前性の神話」が 成立するというわけだ。書くことは予めそうした「内側」を持たない。それは初めからスティグレールの呼ぶところの第3次過去把持の 様態だからだ。
だがしかし、声の場合には逆説的に、テクノロジーの媒介なしには、他者に聴かれている自分の声を 聞くことができないように限界づけられているのだと考えることもできる。そこに「おそましさ」を感じるなら、自分が如何に おぞましい仕方で他者に向けて語っているのかを人は知らない。テクノロジーによるの媒介を経て、やっとそのおぞましさに 気付くのである。そこに浮かび上がるのは、寧ろ自分の身体という(自分の背中を見ることはできず、自分の身体の内部を 覗くこともできないというような意味で)不可視の媒体の不気味さなのだ。従ってここでも、不気味なもの、疎遠なものは 実は最も身近なものであるというフロイトの主張する逆説は成立しているわけだ。
そして注意すべきは、自分の中に埋め込まれた 外部としての「言語」の体系の方は、そうした媒介の差に対して透過的であって、内的独語の「内容」「意味」があたかも 直接的・無媒介的に自分に対して現前しているという印象をもたらすのは、それが「言語」の体系が自己固有のもの でないがゆえの透過性に由来するという点だ。あるいは第二次過去把持のレベル、つまり自己の記憶に基づく想起を 可能にするがゆえに、外部的なものではない「個人言語」のごときものが可能であるかの錯視を生じせしめる自己のみが 用いる「記号」の水準においてさえ、「記号」の文脈に対する中立性、透明性は、それが時間を隔てて、異なった 文脈で再利用可能であること、反復可能性に依拠していることに留意すべきである。
自分のものである筈も声のおぞましさの由来は、実は媒体の相違に由来するものであって、 それはだから、「記号」そのものではなく、抽象化してしまいがちな水準、一見すると副次的なものとして扱われがちな次元、 感情や感性に関わる水準に関わるのである。私の声であると 自己認識しているものが、実は客観的には不在であり、誰のものでもない、私以外の誰も聴くものがないという点で 分類不能なものであることが問題になっているのだ。要するに見かけの透明性・無媒介性は、記号という反復可能性・非私的な ものを前提としている一方で、一見すると「心から心へ」式の無媒介な伝達が可能と見える場所で、不可視の媒体である 「固有の身体」がおぞましさの原因となる構造が、テクノロジーの媒介を経て示されているのである。だが、であれば、 おぞましい声によって、「俺のハート」は一体どのようにして伝達されうるのかを問うのでは最早なく、寧ろ、そうした「私」には 不可視の次元を介して、私にとってはおぞましいものでしかないであろう声によってしか「俺のハート」は他者には届かない という事実から出発をすべきなのではないか。こうした理由から、「声」をメタファーに語られる様々な 水準の問題を混同することなく、自分の「声」の固有性というのを問うたとき、実は、「声」ではなく、「歌」をメタファーとして 用いた方が「声」に纏わる問題を適切に扱うことの出来る可能性があることに注意すべきであろう。
そしてここに「歌」の問題がある。「声」ならぬ「歌」の問題が。「記号」の剰余、だが「記号」の「上演」に不可避的についてまわる「効果」。 一見「意味」にとって外部的であり、分離可能に見えて、実際には不可分の次元。オルトテティックな記譜のテクノロジーに よって記録され、伝承可能となったそれは、だが「演奏」され「(再)上演」されなくてはならない。それは仮構された理念としての 「意味」を裏切らないまでも、それを逸脱するかに見える。だが、その逸脱なくしては、「(再)上演」なくしては、継承はない。 (自分の声を聞くことは非質料的な内的独語として、現前性を徴づけるものであるかに見えるのに対し、自分の歌を聴くことは、 質料性を経由し、技術を媒介にしたおぞましい回帰、他者としての幽霊的な自分の分身との遭遇となる。そして歌は自分のための ものではない。たとえ聴き手が一人もいなくても、それは独り言ではない。寧ろそれは、もしかしたら超越的な何かに対する 奉納であるかも知れないのだ。私的な言語というのがないのと同様の意味合いで、私的な歌というのもまた、ありえない。「歌」は 「詩」と同様、ツェラン的な意味で「対話」なのだ。)
録音技術の補綴により、記録された自分の声を再生して、自分の身体を通して内側から聞くのではなく、自分の外部の一人の他者の声と して聴くことのおぞましさを考えるとき、自分の歌を聴くこととの対比をしてみることは、更には自分の楽器演奏を録音し、プレイバックして聴くこととの 対比も含め、そのおぞましさの由来を裏側から浮かび上がらせる効果があるだろう。更には自分が書いた文章を後で読み返すこと、既に エクリチュールの技術が確立して以来、こちらは恰も自明のことと思われる操作との比較をしてもいいだろう。あるいは、最早当たり前のことと なってしまったかに見える写真に撮られた自分自身、ヴィデオに録画された自分自身を見ることはどうだろう。「自分の声を聞く」ということ自体、 根源的な出来事であるどころか、何重ものドクサの上に構成された、それ自体がいわば(無意識的であれ、予め)「仕組まれた」行為なのでは なかろうか。その「自分」は一見そうは見えなくても、実は予め用意されたスクリーンに映写された(仮構されたものとしての)「像」に過ぎないのではないか。 そこに「幽霊」を見出そうとするのは、滑稽なことようにすら感じられる。録音された声が「幽霊性」と関わらないわけではないが、それはまたそことは別の 次元でのことなのだ。そんなところに「自分」はいない。イニシエーションとしての「自分の歌」を探すことは、一見そのように見えたとしても、 いわゆる「自分探し」では決してない。アイデンティティの確立は、いわゆる「自分探し」とは全く別の次元の出来事なのであり、 だからこそベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」としての芸術が要請されるのだ。
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主体の不在においても反復可能でなければ、それが「記号」として意味を持つことも、理解することも使用することもできないという事態は、 意識の時間論的構造と関連している。そして意識は身体的な出来事をもそのような「記号」として解釈してしまう。 意識はあらゆるものを「記号」として捉える。それが意識に与えられた役割そのものなのだ。そしてそのことによって自らの固有性の次元を 明け渡すかに見える。その代わりに「再上演」の可能性を手にすることになる。
しかし「記号」は現実を抽象した結果であり、その一部を為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう 様々な因果的な効果が働いている。そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。 第二次過去把持までではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を 及ぼしている対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。
そして歌は、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きにこそ 関わるのだ。技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、 ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」という芸術の定義は、かくして単なる「声」ではない「歌」の水準において しか成立しえない。一見したところ声なくして歌はありえないかのように見えて、実際には歌によってこそ声が可能になっているという点で、 歌こそが声に権利上も事実上も先行しているのだ。声は既に歌であり、歌として声が発せられたとき、物質性と技術的なものを経由しつつ、 その限りにおいて私の個別性を生じさせるのだ。MIDIアコーディオンを用いて「はい」、「いいえ」と答えてみると良い。調音のためにボタンを 押し、抑揚をつけるためにキーボードを操作することによってそれは可能になる。そうした操作を介さない透明な「声」はありえない。ただ、 人は生物学的に備わっている器官を用いるとき、意識の背後で無意識に為されている非常に複雑な調整作用に気づくことがない。 そしてそのことが「記号」の透明性を可能にしているのでもある。同様に技術的な補綴性もまた、時として忘却され、透明になり、 「記号」として流通することになる。だが、実際には「声」は常に予め「歌」なのだ。予め「歌」であることを忘却した結果、「声」が仮構されているに 過ぎない。
私の歌を探すことがイニシエーションであるというのは、歌を探しあてることこそが、私自身を成立させ、私の個別性を可能にすることそのものだからだ。 そして正しく歌うことは、正しく問うことでもあるだろう。そうすることによってこそ他ならぬ自分自身をアーカイブすることが可能となり、それによってようやく 応答が可能となり、応答によってようやくリインカーネーションが可能となるのだ。それはまさにシモンドンの言う横断的個体化のプロセスそのものであり、 「新しい時代」の3つの段階は、「私」が成立する前史の記述となっているのである。
かくして、単なる「声」ではない「歌」の水準においてこそ、三輪さんが自ら規定する音楽芸術の規定、すなわち「人間ならば誰もが心の 奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、 というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」を問うことが可能なのであり、 三輪さんの活動は、フォルマント兄弟としてのそれも含めて、今日の状況を踏まえた上で、歌を歌うことの可能性と不可能性の追求を介して、 「われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズ」としての芸術の可能性と不可能性を探求する試みなのであり、それは同時に、「私」が 今日、如何にして可能であり不可能であるかについての問いかけであり、その存在の困難さの証言でもあるのだ。
* * *
「言葉の影、またはアレルヤ」について書いてから1年が経過し、再び「5月24日」が近づいてきている。だが再び、またしても私は、 今しばらくは自分の「5月24日」のために、こことは別の場所で証言をし、陳述をしなくてはならない。全く別の様式で、私でないかのように、 アーカイブされることを予期しつつ、よじべえとは別の名で、よじべえとは異なった他者の声調で証言し、他者の文体で陳述しなくてはならない。 複数の人間の、独立して鳴り響く音高の絡み合い、重なり合いによって生じるひとつの声、「名を呼ぶことも、言葉になることもなく、 ただ時の中をさまようだけ」の声によって。それは公的な場に響き渡る。「対話」としてではなく。それは私の署名を伴いつつ、にも関わらず個体性を、 独自の音調を持つことを禁じられている。その空間では、そのようにしてしか声を響かせることができないのだ。
それゆえにまた繰り返し、今一度、ツェランの「ゴル事件」以降の詩が、カフカの審判の結末のような状況に置かれた彼の、それに対する 秘められた暗号による戦略的な抵抗の試みであったように、この文章もまた、恐らくは「私」の意識の意図を超えて、私の抵抗の戦略の 一部なのだ(ろう)。ツェランの詩が、特定の読み手にとってのみ解読できる、ある具体的で私的な出来事を記録する「暗号」でもあるように、 私の文章もまた、意図せずそうした暗号として機能することになる(だろう)。よじべえの署名によるこの文章が事後的に、ツェランにおける「詩」の対応物として、 三輪さんにおける「歌」の対応物となる可能性に、これが正しい「問い」によって出会うことのできた他者への「応答」であり、「対話」となる可能性に私は賭け、 かくして私は再び投壜をする他ない。私の「歌」を探して、「歌」を求めて、更には導きに対して「応答」すべく、このようにして。 (2013.5.19公開,20,21修正, 8.4加筆)