2013年5月19日日曜日

「新しい時代」への応答のための準備作業(3):再び「言葉の影、またはアレルヤ」について

フォルマント兄弟による「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」において、リアルタイム性が、「人間」の演奏として介在するという点に おいて生じていることを振り返ってみよう。規則合成方式による、人間であるかどうかもわからない「誰でもない声」が歌うのだから、それを人間が演奏することにより、 人間に生物学的に事前に備わっているのとは別の、もう一つの発声器官を持ったことになるだろう。その時、生物学的な人間とは別の身体を持った 「種族」が歌っているのだということができるだろう。 それは今日の状況を踏まえれば当然構想されるべきでありながら、未だに構想されたことのない、まさに現在の状況に相応しい試みであり、 三輪さんが言う「コンピュータ語族」の歌であり、「ありえたかも知れない未聞の種族の音楽を仮構すること」ということになるのではないか。

ところで「フレディーの墓」においても、フォルマント兄弟による「演奏」という契機が必須であるはずなのに、「お化け屋敷」では自動演奏が行われていたことを 思い起こそう。人間の演奏の映像という幽霊と、実在する機械によるライヴの自動演奏。人間による追悼の不可能性を証言するかのような。喪の不可能性、 レクイエムを書くことの不可能性を告げるかのような。一方で「永遠の光…」のあの前半部分、「音楽」の不可能性の否定的な表現であるかのようであっても、 だが、そこではCD Playerに合わせることしかできなくても、指揮者がいて、演奏者がいた。あるいはその他の大勢の演奏を禁じられた演奏者がいたことを 思い起こそう。そのようにして、そして後半では「逆シミュレーション音楽」のように、ただしここではプログラムの実行結果であるアルゴリズムの描く軌道を 「演奏」することによって、「音楽」は成立し、「レクイエム」が演奏されたのだった。今、ここではそのようにしかあり得ないような異形の姿であったとしても。

人間の演奏という媒介を欠いた「フレディーの墓」には超越性が欠如している。喪に服する人間の、己もまた今よりのち死すべきものであるという 有限性の認識が、そしてその結果として「崇高」なものの認識が欠けているようにしか思えない。そして、それがないところに死者の眼差しがありえるだろうか? ここでは無限なものと有限なものの、媒介不可能なものの不可能な出会いは、不可能なものとして、仮象としてすら存在していない。 幽霊的なあり方自体がここでは禁じられている。死者の眼差しもまた。そして勿論、そうした状況の証言、象徴的な表現としてであれば、 「フレディーの墓」は成功しているといえるのかもしれない。まさに「墓」たることに失敗することによって。 かくして「フォルマント兄弟のお化け屋敷」には 幽霊はいないのだ。

だがしかし、(お化け屋敷ではなくてそれが墓であるとしたならば、)墓とはそもそもそういうものではないのかと問うこともまたできるだろう。 墓そのものは外部的・質料的な物質性によって、スティグレールのいうところの第三次過去把持の基体たり得ているのではないのか? そして自分の知らない根拠、起源の記憶の世代を超えた継承は、追憶は、そうした墓の固有性を欠いた物質性に依拠すること無しにはできないのではないか? 墓の外部性、物質性は、繰り返し想起し、追憶するための必須の契機であり、デリダがツェラン論「シボレート」で論じた、固有名の、暦法や 日付の反復可能性と同じアポリアの構造を持っているのではないか?

しかし、それもこれも記憶し、追憶する個体による想起あってのことだ。追悼する人間が最早おらず、自動音声合成による 歌唱を反復する機械による「追悼」しかないとしたら、それは最早追悼ではないだろう。読む者が最早いない記録は記録ではない。 実は人間の有限性こそが記録を記録たらしめているのだ。 一方で「絶えざる永遠の光」の永遠性は、何らかのカント的な意味合いでの理念などではなく、超越論的な領域は解体され、 電力が続く限り、記憶媒体の劣化に応じて、といったかたちで定義され直すのだろう。スティグレールが述べるように、 テクノロジーによってメディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、超越論的な 枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、 物象化される。そしてそれは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。

だがそれでもなお、純粋に可能なもの、或る種の極限概念としての「理念」は、これまた「人間」のものであり、 「人間」のものでしかないのだ。イエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直観的知(悟)性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。だがカントはそれを神的知性にのみ可能なもの、 「人間」にとっては「理念」としてしか語りえないものと考えたのである。そしてそれは超越論的枠組みが維持できなくなっても 変わることはない。ジェインズの意識の考古学のような経験的な事実性の水準で、人間は技術なしには今のような構造の意識を 備えることはなかったであろうし、今のような時間性を生きることもなかったであろう。技術が意識の個体性を損なう危険を 孕んだものであるとしても、その危険なしには理念的なもの自体が成立しえないのだ。

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そのテクノロジーによって、単なる補綴を超えて、それまでは決して出来なかったこと、記録された「自分の声」を聴くことが可能になった。 そこでは私は文字通り一個の他者、自分にとって馴染みのない、見知らぬ人間となる。だが、「記号」というのは実はすべてそういうものだ。 それだけではなく、「私」はそうした「記号」の編み目によって辛うじて成立しているのだ。私が「我々」に解消されず、個体性を維持しつつ、 他者に向けて問いかけ、応答するためには、自分にとっては外的な技術を、「記号」を用いなくてはならない。 「記号」によってしか、問うことはできないし、答えることもできない。 そして記号化した問いや答えはアーカイブされ、個体性の限界を超えて、世代を超えて保存される。 記号による外部化を介して、ホワイトヘッドの言う「客体的不滅性」への通路が仮構される。 個体性を損ない、出来事の唯一性を損なうかに見える記号の複製可能性、反復可能性こそが、個別的なものが記憶され、 継承され、理念的な極限としての「永遠」へと漸近するための唯一の径路なのだ。 私は自分の声を聴くおぞましさに耐えることなしには、自分の声を持つことはできないし、歌うこともできない。 自分固有の声が自分にとってよそよそしく、おぞましいものですらありえるという逆説に耐える他ない。

声だけではない。このように書くこともまた、同じことなのだ。記号の、技術の反復可能性の両義性に全てはかかっている。 私が書いたものは、読み手によって誤解され、私が意図したとおりには受容されないかも知れない。意図的に曲解される 可能性すら常に存在する。私の応答は、余計なもの、してはならないもの、災厄を招くものであるかも知れない。 だが、その可能性とともにでなければ、私は自分を成立させることができない。誤解を招来することを防ぐべく、沈黙すること、 内的独語に自閉することは、自己を自己として成立させる契機そのものの断念に他ならない。

否、寧ろ、応答することを避けるのではなく、適切に問うことこそが問題なのだろう。 歓待のためには、応答のためには、それに先立って、まず相手に呼びかけること、そして正しい問いを発することが できなくてはならないのではないか。歓待のための、応答のための地平としての問いが未来を事前に規定してしまい、 意識の選択を事前に決定してしまう。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたように、意識は遅れて、あたかも自分が選択し、 自分の意思で応答したかのように思いなすかも知れないが、実際には前意識的な判断を追認し、予め仮構され、編集され、 並べ直された事象の系列を受け取っているに過ぎない。それは意識自身がしたのではない問いの結果であり、 意識の応答は、意識自体に先行する問いに導かれているのだ。

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もう一度今、ここで、再び「言葉の影、またはアレルヤ」について問い直してみる。「ひとびとの行いの何もかもが情報化され記号化されていくこの世界で、 その巨大な記号化プロセスに対する反抗」と作者によって規定された「言葉の影、またはアレルヤ」において、旋律の中に浮かび上がる、複数の人間の、 独立して鳴り響く音高の絡み合い、重なり合いによって生じるひとつの声、「名を呼ぶことも、言葉になることもなく、ただ時の中をさまようだけ」の声。 国籍すらわからない、否、そもそもそれは最早「人間」ではないかも知れない、誰のものでもない/誰でもないものの声、「持ち主のいない声」は、 言葉を持つことのできない人間のための、つまるところ常に・既に「幽霊的」にしか存在することが許されない人間、誰にも呼びかけられず、 応答することもできない人間のための「声」の代理なのだ。それは「代理」でしかない。とはいえ、幽霊にとっては代理以外の声は、端的に存在しない。 装置を通じてしか、私の声は有声にならないし、どこにも届かない。仮に装置がいかがわしく、歪みから自由ではなく、信頼のおけるものでないとしても、 それの介在により例えば剽窃や贋作の、あるいはあろうことかコミュニケーションの拒絶の嫌疑を受けようと、独創性の欠如や解釈の困難さについての 非難を受けようと、そのようにしか声を発することはできないのだ。

生物学的な人間における声の特殊性は、それを書くことと対比させた場合、一見するとそれが無媒介で直接的で、外部的な媒体を経由せず、 自分固有の身体のみを通じて発せられるかに思い為される点にあるのだろう。書くことは、それ自体が外部的な媒体への 「転記」と見做されるのに対し、声は直接的であると思い為される。実際には、それが声でなく言語であるならば、 実際には、言語システムという外部が自分の裡に既に埋め込まれているのだが、それは都合良く無視されるわけだ。 自分の声を聴くことのおぞましさは、録音と再生の技術を持つまで永らく人間が、自分の声が外部の空気の振動として 耳から聞き取られるという状況になかったからであり、そうした技術を獲たところで、自分の身体を経由して(つまり、 いかにそれが自己固有のものと見做されようと、実際には別の媒体を介して)聞き取られているからに過ぎない。 自分の身体を経由しての聴取のことを、「内側からの」聴取と呼んでいるわけだ。そしてそれはフッサールの内的時間意識の 現象学的分析における第一次過去把持の水準に対応している。かくして、デリダの言うところの「現前性の神話」が 成立するというわけだ。書くことは予めそうした「内側」を持たない。それは初めからスティグレールの呼ぶところの第3次過去把持の 様態だからだ。

だがしかし、声の場合には逆説的に、テクノロジーの媒介なしには、他者に聴かれている自分の声を 聞くことができないように限界づけられているのだと考えることもできる。そこに「おそましさ」を感じるなら、自分が如何に おぞましい仕方で他者に向けて語っているのかを人は知らない。テクノロジーによるの媒介を経て、やっとそのおぞましさに 気付くのである。そこに浮かび上がるのは、寧ろ自分の身体という(自分の背中を見ることはできず、自分の身体の内部を 覗くこともできないというような意味で)不可視の媒体の不気味さなのだ。従ってここでも、不気味なもの、疎遠なものは 実は最も身近なものであるというフロイトの主張する逆説は成立しているわけだ。

そして注意すべきは、自分の中に埋め込まれた 外部としての「言語」の体系の方は、そうした媒介の差に対して透過的であって、内的独語の「内容」「意味」があたかも 直接的・無媒介的に自分に対して現前しているという印象をもたらすのは、それが「言語」の体系が自己固有のもの でないがゆえの透過性に由来するという点だ。あるいは第二次過去把持のレベル、つまり自己の記憶に基づく想起を 可能にするがゆえに、外部的なものではない「個人言語」のごときものが可能であるかの錯視を生じせしめる自己のみが 用いる「記号」の水準においてさえ、「記号」の文脈に対する中立性、透明性は、それが時間を隔てて、異なった 文脈で再利用可能であること、反復可能性に依拠していることに留意すべきである。

自分のものである筈も声のおぞましさの由来は、実は媒体の相違に由来するものであって、 それはだから、「記号」そのものではなく、抽象化してしまいがちな水準、一見すると副次的なものとして扱われがちな次元、 感情や感性に関わる水準に関わるのである。私の声であると 自己認識しているものが、実は客観的には不在であり、誰のものでもない、私以外の誰も聴くものがないという点で 分類不能なものであることが問題になっているのだ。要するに見かけの透明性・無媒介性は、記号という反復可能性・非私的な ものを前提としている一方で、一見すると「心から心へ」式の無媒介な伝達が可能と見える場所で、不可視の媒体である 「固有の身体」がおぞましさの原因となる構造が、テクノロジーの媒介を経て示されているのである。だが、であれば、 おぞましい声によって、「俺のハート」は一体どのようにして伝達されうるのかを問うのでは最早なく、寧ろ、そうした「私」には 不可視の次元を介して、私にとってはおぞましいものでしかないであろう声によってしか「俺のハート」は他者には届かない という事実から出発をすべきなのではないか。こうした理由から、「声」をメタファーに語られる様々な 水準の問題を混同することなく、自分の「声」の固有性というのを問うたとき、実は、「声」ではなく、「歌」をメタファーとして 用いた方が「声」に纏わる問題を適切に扱うことの出来る可能性があることに注意すべきであろう。

そしてここに「歌」の問題がある。「声」ならぬ「歌」の問題が。「記号」の剰余、だが「記号」の「上演」に不可避的についてまわる「効果」。 一見「意味」にとって外部的であり、分離可能に見えて、実際には不可分の次元。オルトテティックな記譜のテクノロジーに よって記録され、伝承可能となったそれは、だが「演奏」され「(再)上演」されなくてはならない。それは仮構された理念としての 「意味」を裏切らないまでも、それを逸脱するかに見える。だが、その逸脱なくしては、「(再)上演」なくしては、継承はない。 (自分の声を聞くことは非質料的な内的独語として、現前性を徴づけるものであるかに見えるのに対し、自分の歌を聴くことは、 質料性を経由し、技術を媒介にしたおぞましい回帰、他者としての幽霊的な自分の分身との遭遇となる。そして歌は自分のための ものではない。たとえ聴き手が一人もいなくても、それは独り言ではない。寧ろそれは、もしかしたら超越的な何かに対する 奉納であるかも知れないのだ。私的な言語というのがないのと同様の意味合いで、私的な歌というのもまた、ありえない。「歌」は 「詩」と同様、ツェラン的な意味で「対話」なのだ。)

録音技術の補綴により、記録された自分の声を再生して、自分の身体を通して内側から聞くのではなく、自分の外部の一人の他者の声と して聴くことのおぞましさを考えるとき、自分の歌を聴くこととの対比をしてみることは、更には自分の楽器演奏を録音し、プレイバックして聴くこととの 対比も含め、そのおぞましさの由来を裏側から浮かび上がらせる効果があるだろう。更には自分が書いた文章を後で読み返すこと、既に エクリチュールの技術が確立して以来、こちらは恰も自明のことと思われる操作との比較をしてもいいだろう。あるいは、最早当たり前のことと なってしまったかに見える写真に撮られた自分自身、ヴィデオに録画された自分自身を見ることはどうだろう。「自分の声を聞く」ということ自体、 根源的な出来事であるどころか、何重ものドクサの上に構成された、それ自体がいわば(無意識的であれ、予め)「仕組まれた」行為なのでは なかろうか。その「自分」は一見そうは見えなくても、実は予め用意されたスクリーンに映写された(仮構されたものとしての)「像」に過ぎないのではないか。 そこに「幽霊」を見出そうとするのは、滑稽なことようにすら感じられる。録音された声が「幽霊性」と関わらないわけではないが、それはまたそことは別の 次元でのことなのだ。そんなところに「自分」はいない。イニシエーションとしての「自分の歌」を探すことは、一見そのように見えたとしても、 いわゆる「自分探し」では決してない。アイデンティティの確立は、いわゆる「自分探し」とは全く別の次元の出来事なのであり、 だからこそベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」としての芸術が要請されるのだ。

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主体の不在においても反復可能でなければ、それが「記号」として意味を持つことも、理解することも使用することもできないという事態は、 意識の時間論的構造と関連している。そして意識は身体的な出来事をもそのような「記号」として解釈してしまう。 意識はあらゆるものを「記号」として捉える。それが意識に与えられた役割そのものなのだ。そしてそのことによって自らの固有性の次元を 明け渡すかに見える。その代わりに「再上演」の可能性を手にすることになる。

しかし「記号」は現実を抽象した結果であり、その一部を為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう 様々な因果的な効果が働いている。そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。 第二次過去把持までではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を 及ぼしている対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。

そして歌は、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きにこそ 関わるのだ。技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、 ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」という芸術の定義は、かくして単なる「声」ではない「歌」の水準において しか成立しえない。一見したところ声なくして歌はありえないかのように見えて、実際には歌によってこそ声が可能になっているという点で、 歌こそが声に権利上も事実上も先行しているのだ。声は既に歌であり、歌として声が発せられたとき、物質性と技術的なものを経由しつつ、 その限りにおいて私の個別性を生じさせるのだ。MIDIアコーディオンを用いて「はい」、「いいえ」と答えてみると良い。調音のためにボタンを 押し、抑揚をつけるためにキーボードを操作することによってそれは可能になる。そうした操作を介さない透明な「声」はありえない。ただ、 人は生物学的に備わっている器官を用いるとき、意識の背後で無意識に為されている非常に複雑な調整作用に気づくことがない。 そしてそのことが「記号」の透明性を可能にしているのでもある。同様に技術的な補綴性もまた、時として忘却され、透明になり、 「記号」として流通することになる。だが、実際には「声」は常に予め「歌」なのだ。予め「歌」であることを忘却した結果、「声」が仮構されているに 過ぎない。

私の歌を探すことがイニシエーションであるというのは、歌を探しあてることこそが、私自身を成立させ、私の個別性を可能にすることそのものだからだ。 そして正しく歌うことは、正しく問うことでもあるだろう。そうすることによってこそ他ならぬ自分自身をアーカイブすることが可能となり、それによってようやく 応答が可能となり、応答によってようやくリインカーネーションが可能となるのだ。それはまさにシモンドンの言う横断的個体化のプロセスそのものであり、 「新しい時代」の3つの段階は、「私」が成立する前史の記述となっているのである。

かくして、単なる「声」ではない「歌」の水準においてこそ、三輪さんが自ら規定する音楽芸術の規定、すなわち「人間ならば誰もが心の 奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、 というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」を問うことが可能なのであり、 三輪さんの活動は、フォルマント兄弟としてのそれも含めて、今日の状況を踏まえた上で、歌を歌うことの可能性と不可能性の追求を介して、 「われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズ」としての芸術の可能性と不可能性を探求する試みなのであり、それは同時に、「私」が 今日、如何にして可能であり不可能であるかについての問いかけであり、その存在の困難さの証言でもあるのだ。

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「言葉の影、またはアレルヤ」について書いてから1年が経過し、再び「5月24日」が近づいてきている。だが再び、またしても私は、 今しばらくは自分の「5月24日」のために、こことは別の場所で証言をし、陳述をしなくてはならない。全く別の様式で、私でないかのように、 アーカイブされることを予期しつつ、よじべえとは別の名で、よじべえとは異なった他者の声調で証言し、他者の文体で陳述しなくてはならない。 複数の人間の、独立して鳴り響く音高の絡み合い、重なり合いによって生じるひとつの声、「名を呼ぶことも、言葉になることもなく、 ただ時の中をさまようだけ」の声によって。それは公的な場に響き渡る。「対話」としてではなく。それは私の署名を伴いつつ、にも関わらず個体性を、 独自の音調を持つことを禁じられている。その空間では、そのようにしてしか声を響かせることができないのだ。

それゆえにまた繰り返し、今一度、ツェランの「ゴル事件」以降の詩が、カフカの審判の結末のような状況に置かれた彼の、それに対する 秘められた暗号による戦略的な抵抗の試みであったように、この文章もまた、恐らくは「私」の意識の意図を超えて、私の抵抗の戦略の 一部なのだ(ろう)。ツェランの詩が、特定の読み手にとってのみ解読できる、ある具体的で私的な出来事を記録する「暗号」でもあるように、 私の文章もまた、意図せずそうした暗号として機能することになる(だろう)。よじべえの署名によるこの文章が事後的に、ツェランにおける「詩」の対応物として、 三輪さんにおける「歌」の対応物となる可能性に、これが正しい「問い」によって出会うことのできた他者への「応答」であり、「対話」となる可能性に私は賭け、 かくして私は再び投壜をする他ない。私の「歌」を探して、「歌」を求めて、更には導きに対して「応答」すべく、このようにして。 (2013.5.19公開,20,21修正, 8.4加筆)

2013年2月17日日曜日

フォルマント兄弟の「和音平均化アルゴリズム」をめぐって

フォルマント兄弟:NEO演歌「夢のワルツ(2012)
基本旋律版試演:2012.7.20 大垣、ソフトピアジャパン、ドリーム・コア「兄弟式ボタン音素変換標準規格公式説明会」:岡野勇人, 長坂憲道(MIDIアコーディオン)
初演:2012.8.26 東京、サントリーホール:サントリー芸術財団サマーフェスティバル25周年記念「ジョン・ケージ:ミュージサーカス」:岡野勇人(MIDIアコーディオン)

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」(新しい時空間における表現研究)
日本学術振興会科学研究費補助金研究・基礎研究(C)研究課題番号23520175

「和音平均化アルゴリズム」は日本の伝統芸能などに聴かれるいわゆる「こぶし」を実現するために、微分音程旋律を 通常の12音平均律のキーボードで演奏するための方法であり、同時に押さえた鍵盤の音高を単純平均することにより 微分音程を演奏可能にしている。これはフォルマント兄弟が一貫して追求してきたリアルタイム音声合成に よる音楽演奏を可能にするための各種の規格・方式の一翼を担うものであって、「和音平均化アルゴリズム」を 「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」に加えれば、左手で音素ラベルの指定を、右手で微分音を含む音高の指定が 可能になるし、2011年度より3ヵ年でいわゆる科研費プロジェクトとして推進されている MIDIアコーディオンによる音声合成の発話・歌唱の研究において開発された「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」に 基づくボタンによる音素ラベルの指定、更にアコーディオン特有の蛇腹に割当られた音量と声帯緊張度のパラメータ指定と 組み合わせることによって、アコーディオンの鍵盤で微分音を含む音高の指定をすることで、微分音程を含む日本語の「歌」を リアルタイムに合成した音声により「歌唱」することが可能になる。

これまでもフォルマント兄弟の活動に関しては幾つかの感想を記録してきたし、「和音平均化アルゴリズム」に基づく最初の 作品である「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」を用いたMIDIキーボードのための「NEO都々逸」6編については、 その初演に立ち会った記録を別のところに記した。「和音平均化アルゴリズム」をMIDIアコーディオンによる合成音声の歌唱に 適用した作品であるNEO演歌「夢のワルツ」については、私は基本旋律版試演、初演とも立ち会うことができなかったが、 初演の模様の記録が公開されており、成果を繰り返し確認することができるようになっている。

ここでは作品そのものではなく、その作品により可能性の一端が示された「和音平均化アルゴリズム」をはじめとする フォルマント兄弟のリアルタイム音声合成・演奏のための試みの全般について感じたことを、備忘のためのまとめておくことにする。

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そもそもフォルマント兄弟のリアルタイム音声合成・演奏のための様々な試みは、「人間が演奏する」ことを基本的な 前提においていることを確認すべきだろう。「演奏する」ということからリアルタイム性への要請が出てくるし、また人間が 奏法を習得するという側面が生じ、記録や伝達の手段としての記譜法の問題が生じるのである。そしてこれらは 音声合成技術一般を考えればいずれも自明の前提ではないし、音声合成による音楽演奏に限定しても、やはり 同じことが言えるだろう。リアルタイム性に関しては自動音声合成でしばしば行われるようなテキスト読み上げ方式のことを 考えれば良いし、人間が演奏するという側面についても、リアクティブな自動演奏システムを考えることができるし、 元々人間が演奏するために作られたキーボードなど用いなくても、人間が読むことができるいわゆる「楽譜」がなくても 演奏をすること自体は可能であろう。

一方で、人間が演奏するための手段として採用されたのが、いわゆる西欧の音楽の伝統に属する12音平均律システムに 基づく音楽を演奏するためキーボードであり、それに対応して記譜法としても五線譜によるものが用いられている点にも 一定の選択が働いていることに注意しよう。しかもここでは「こぶし」をこなすために微分音程の演奏を実現することが 問題になっているのである。微分音程を実現する手段として、12音平均律に従う離散的な音程に調律された鍵盤を 用いる必要は全くないのは明らかで、同じ伝統に属する楽器でも、弦楽器を選択すればそれは遥かに容易であることは 直ちに思い浮かぶだろう。実際、フォルマント兄弟のメンバーの一人である三輪さんには12音平均律に基づかない作品があるが、 そこでは弦楽器が用いられている。例えば「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」の弦楽器のパートではオクターブを18分割しているが、 弦楽器のパート譜には絶対的な音高ではなく、特殊な記号による相対的な上昇・下降の指示のみが行われており、 伝統的な記譜法からは逸脱している。西欧の音楽の系譜でも19世紀末から20世紀前半にかけて、主として東欧において 微分音程の組織的な導入の試みが始まった。例えばチェコのハーバやロシアのヴィシネグラツキーといった名前が直ちに思い浮かぶが、 先駆ともいえるブゾーニにおいては単なる理論的な可能性の提起に留まったものが、彼らの場合には理論の構築や記譜法の 提唱、更には具体的な創作や専用の楽器の制作として結実しており、その作品は録音もされていて、実際に聴いて確かめることも できるようだ。この中でヴィシネグラツキーの試みがシステマティックな音律の体系の拡張といった傾向を持っていて、彼の支持者で あったメシアンの移調の限られた旋法がそうであるような非伝統的な別の体系を志向する方向性が見られるのに対し(これは 同時期のロスラヴェッツが12音平均律の中で行った「合成和音」のシステムにも共通する)、ハーバの場合は、 むしろヤナーチェクにおける言葉のイントネーションを音楽の旋律に定着させる試みの拡張といった趣があり、フォルマント兄弟に おける「こぶし」の実現といった目的にはこちらの方が近いように思われることは興味深い。

一方、例えば日本の伝統音楽にも伝承のための記譜法、唱歌といったものはあるが、それは実現される音響の持続や音高、 強度といったパラメータを確定的に指定するようなものではなく、寧ろ奏法の指定である。だがその差異は根本的な発想の 違いが現象したものであることに注意すべきだろう。例えば能管のような楽器は音高の変化をつけられるようになってはいるが、 それは絶対的なものではなく、個別の楽器によって異なりさえする。つまり能管は実質的に不定のピッチを持ち、ノイズを含む 様々な音色の変化による表現を可能にする奏法を備えた打楽器であり、囃子の中にあってテンポとリズムを定める役割をしており、 そもそも五線譜のような西欧的な確定的な音高と持続を記譜するシステムには馴染まないものなのだ。

西欧の音楽が学校教育に導入されて以降、しばしば行われてきた五線譜に記譜された「民謡」は、ここでフォルマント兄弟が 17音平均律のシステムとそれを実現するための奏法としての「和音平均化アルゴリズム」によって救いだそうとしている側面を 切り捨てて、12音平均律の中で可能な5音音階の中に無理やり押し込めることによって全く別のものへと変質しており、 もともとの伝統の記録という観点からすれば全く不完全な残骸にすぎない。 一方で、記譜法が伝承のされ方を 定めてしまうという側面も無視することはできないし、いわゆる伝統と呼ばれているもの自体が、その伝統の担い手自身の手によって 変化させられていく例は枚挙に暇がないだろう。すぐに思い浮かぶのはほとんど伝承が途絶えてしまった平曲の奏法が、絶滅寸前の 言語のようにほとんど個人的な語法と区別がつかなくなってしまっているケース、あるいはかつては非常に複雑な節回しを持っていた 観世流の謡が、時代の推移に伴い簡素化されたとされているケースである。否、五線譜による記譜による伝統の「破壊」は 寧ろ、西欧の周縁部分の方がずっと徹底的であったろう。一方で、前述のハーバの例だけではなく、録音機器を携えて民謡の採集を 行ったバルトークがしばしば自己の作品において行ったように、微分音程の実現やノイズの発生、(日本での拍子木のそれのような )打拍の加速、あるいは均等な拍の分割ではなく、加法的な拍子のシステムを取り入れることにより五線譜の記譜法を拡張する 試みもあったし、逆に人口に膾炙したところではウィンナ・ワルツの拍の取り方のように演奏の伝統のようなかたちで、記譜されていない 側面が継承されるような場合を思い浮かべることもできる。

こうした具体的な事例は幾らでも拡張は可能だし、現代音楽の周辺におけるその後の音律システムの拡大について述べることも できるだろうが、そうしたことをここで続けることには意味はなかろう。ここで重要なのは、一つには拡張されたものであっても記譜法には 限界があって取りこぼされるものがあるということ、もう一つには、その一方で記譜法が伝承のあり方を決定し、更には「音楽そのもの」 と見做されているもの自体の可能性を規定してしまっている側面があるということだ。ベルナール・スティグレールが第三次過去把持と して定式化した、人間の身体にとって外部的なテクノロジーによる補綴的な記憶を、非本来的で不純なものと見做すべきではなく、 生物の「環境」がその生物が備えている知覚器官の検出できる帯域と解像度によって定まるのと同じように、或る種の器官の延長として 捉えるべきなのだ。

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そうした視点に立ったとき、フォルマント兄弟の「和音平均化アルゴリズム」もまた、一方では微分音程の記譜と演奏が一般的な 12音平均律のMIDIキーボード上で可能になったという点をもって、従来不可能であった12音平均律から逸脱するような節回しを 記述し、演奏することが可能になったことに新たな可能性を見出すこともできるだろうが、その方向性での可能性の拡大は、 所詮は程度の問題に過ぎないという点をおいたとしても、それ自体が西欧的な確定的に音高や持続を記述する発想の圏内にあって、 その発想自体が決して自明のものでも絶対的なものでもないことに留意する必要があろう。

だが、実際には「和音平均化アルゴリズム」がリアルタイム合成音声歌唱システムの一部であることを踏まえれば、その全体としての 射程は、単に非西欧的な伝統音楽の新たな可能性に留まらないものを含んでいるのではなかろうか。勿論方法が実現を担保する ことはありえないから、これをもって何か新たな伝統が実質的に確立されたと見做すことはできないにせよ、新しい方法が持つ潜在的な 可能性を測ることは可能だし、今後の展開を図る上でも意味のないことでもあるまい。

そうして見たときに「和音平均化アルゴリズム」が持つ特性は、従来の楽器を用い、従来の記譜法を用いながら、それが従来の 記譜法とは異なって、実現される音響の記述ではなく、音響を実現するための手段の記述になっているという点であろう。 従来の記譜法では(移調楽器などの例外はあるものの)一般にはその両者を区別する必要がなく、奏法の指示であると同時に 実現される音響の記述でもあったものが、ここでは完全に両者が分離されている点が重要である。そしてその結果として、同じ楽譜が 示している音楽は、従来の場合と「和音平均化アルゴリズム」の場合とでは全く異なっているのである。例えば「和音平均化アルゴリズム」を 知らない人間が、「和音平均化アルゴリズム」を前提に記譜された楽譜を読んで、普通の楽器で演奏したときのことを考えて見れば良い。 一方で、彼に普通の楽器ではなく「和音平均化アルゴリズム」に基づくMIDIキーボードを渡して、記譜されたとおりに演奏させれば、 微分音程を含む単旋律に音素ラベルがついた節付けされた歌詞付の歌が得られることになることにも注意しよう。つまり指の動かし方に ついては基本的には異なるところはないのだが、同じ操作によって全く別の結果が得られるという点が問題なのだ。右手と左手を総動員 しても得られるのは単旋律を歌う合成音声なのである。全く同じ身体の動きが全く異なる音響を得るための手段となるわけである。

しかしながら、そうした事態もまた、結果として微分音程を含む歌を歌うことが問題なのであれば、それは実現手段としてはすこぶる 迂遠であるというほかないだろう。要するに、そのためにわざわざ鍵盤楽器の奏法を身につけるまでもなく、自分の声で歌う方がよほど簡単だし、 それならば別の記譜法上の拡張を行えば良いのだということになってしまうだろう。つまりそれは、人間が生物として備えている 発声器官を用いずに、それとは別の「器官」を用いて歌唱をリアルタイムに行うための方法であるという点を前提としているのである。 逆に、これは既に述べたことではあるが、単に合成音声による微分音程を含む歌詞付の歌の演奏をすれば良いのであったとしても、 「和音平均化アルゴリズム」に基づくMIDIキーボードによる演奏の技法の取得の意義は自明なことではないことを改めて思い起こそう。 繰り返しになるが、人間がリアルタイムに演奏することで、自分の発声器官を介さずに「歌唱」が可能になるような手段を提供するという点にこそ、 ここでの試みの意義が存するのである。しかも「和音平均化アルゴリズム」を前提にすれば、伝統的な音楽を演奏するための技術を 全く異なった音高と発声の実現のために用いることになるわけで、いわば新たに獲得された発声器官である「和音平均化アルゴリズム」と 「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」に基づくMIDIキーボードを用いて、従来の身体技法を媒介にして、歌を歌うという 可能性がここでは試されているのだ。もともと生物としての人間に備わった発声器官による歌唱に替わる、或いはそれを補綴する 手段が提供されていると考えることができる。

歌唱ではなく、言語コミュニケーションのケースでならば、理論物理学者である ホーキングのケースをはじめとして、補綴性の意義を実証する例には事欠かないだろうし、人声による歌唱ですら、マイクによる 増幅、エコーの付加、場合によっては不正確なピッチを補正してしまった音響をスピーカーに送るといったことが行われているのであれば、 あるいはプロの歌手の公開演奏でいわゆる「口パク」がしばしば行われる現実を考えれば、フォルマント兄弟の試みが、 単に歌唱という領域に留まらず、より一般的にテクノロジーに囲繞され、技術的な補綴性がもともとの生物としての身体と最早不可分の ものにさえなりつつある人間(とはいえそれは現在、地球上に居る人間の全体に不用意に拡張すべきではなかろうが)の「現実」を 浮かび上がらせる試みであるというように考えることはできるだろう。

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そしてそうした射程を考慮に入れたときに、フォルマント兄弟が音声合成をするための方式として、現在商用においては主流となっている 連結合成方式ではなく、規則合成方式を採用している点が新たな意味を帯びてくるだろう。それは端的に、規則合成方式には 「元の人声」がない、という点にあると考えられる。(もっともごく一般的なサンプルは保持するのだろうが、これは「オリジナル」ではなく、 単に「素材」というふうに見做すべきだろう。)言い換えれば、生物学的な意味での、あるいはかつての「人間」とは異なった「人間以外」が 「しゃべる」ことを実現することを目的として、物理的な構造には中立の音響合成の可能性を考えれば、規則合成の方がコンセプチュアルには 筋が通っていると言えるのではなかろうか。そこでは発声器官の物理的な同一性は前提とされない。勿論、人間とのコミュニケーションが 可能となるためには、使用される周波数帯が人間の可聴域と一致している必要があるだろうが。(ちなみにこの程度の差異で良ければ、別に 地球外生命体を想定する必要などなく、人間と全く異なった発声器官で人間の声の模倣をすることができるオウムやインコの類、あるいは、 人間の可聴域外で複雑なコミュニケーションをしていることを推測させる状況証拠に事欠かないイルカやクジラの類を思い浮かべればよい。)

「フレディーの墓」において試みられたように、実在した人間の声を模倣するのであれば、あるいは「フレディーに日本語の歌を歌わせる」という フィクションを実現するためだけならば、更にそのオリジナル自体が機械を介して、何某かの変調を受けた形で聴き手に知覚されるような 環境にあったことを思えば、寧ろサンプリングによる連結合成の方が発想として自然である。逆にこの場合には、規則合成を方法として用いることが 「模倣」の忠実さや「不気味の壁」の問題といった系列の議論にその試みを位置づけてしまうことになるのではなかろうか。 勿論、そうした方向性にもそれ自体が持つ固有の意義がないとは思わないが、ここでの問題は、コンセプチュアルな側面と(恐らくは一定程度、 事実上の所与として制約になっている)技術的な選択の間の齟齬に微かな違和感が感じ取られてしまうことが避けがたいということなのである。 その一方で、「和音平均化アルゴリズム」の適用シーンにおける「高音キン」の方は、(こちらは権利上は「初音ミク」に寧ろ勝って) 規則合成方式に相応しいと言えるのではないか。

更に言えば、「和音平均化アルゴリズム」に基づく作品である「せんだいドドンパ節」では、17音平均律のシステムが採用されていることに 注意すべきである。それはオクターブを単に12ではない別の数で分割するというに留まらない。17音平均律は、12音平均律同様に五度圏を 構成できるため、内部構造を持った別のシステムの構築が行えるという点で、単なる音律の細分化に留まらないのである。 従ってここには、それが一見したところ「記録」し、「保存」し、「継承」しようとしているかに見える日本の伝統的な芸能と見た目は類似した、だが 異なった発想による新たなシステムに基づく音楽の伝統の構築を目指す志向があるように私には思われる。

だが、更にリアルタイム性が、まさに人間の演奏が介在するという点が加わった場合には、一体何が起きていると理解すれば良いのだろうか。 ここでは規則合成による、人間であるかどうかもわからない「誰でもない声」がそれを歌うことができるわけだから、それが人間が演奏する ものだとしても、もう一つの発声器官を持ったことにはなるのだ。そしてそれは、ホーキングの例が示すように、「補綴性」と隣り合わせでもあり、 したがって生物学的な人間とは別の身体を持った「種族」が歌うということができる。それは三輪さんが言う「コンピュータ語族」の歌に 相応しくはないだろうか。そしてそうした状況が一般化した暁には、それは最早「民族音楽」を超えて、別の種族のための歌ということに なるのではなかろうか。従って、フォルマント兄弟の試みの射程を端的に要約すれば、それは「ありえたかも知れない未聞の種族の音楽を 仮構すること」ということになるのではなかろうか。今のところはそれはまだ、新たな可能性のシミュレーションのレベルに留まっているとはいえ、 今日の状況を踏まえれば当然構想されるべきでありながら、未だに構想されたことのない、まさに現在の状況に相応しい試みであると 私には思われるのである。

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だがしかし、それでは「高音キン」と演奏する(例えば岡野さんの)「私」は一体どういう関係にあるのか?という問いが今度は頭を擡げてくることになる。 そして例えばそれは、「自分の声を聴く」ことの「おぞましさ」とどう関わっているのだろうか?「私」はテクノロジーを介さなければ、他者が聴くようには 自分の声を聴くことはできない。自分の背中を見るためには、「鏡」が、三輪さんがイェリネクの「光のない」に因んで書いたテキストにも 出現する「鏡」がなくてはならない。ここでは虚像と実像の反転は回避しがたいように思える。こうした状況の中で、フォルマント兄弟が開発した テクノロジーによって獲得された「声」は、寧ろ、誰のものでもない/誰でもないものの「声」ではないか?それを私がリアルタイムに「発した」として、 それは「私の」「もう一つの声」なのか?それは「オリジナルの」、「本物の」「私の」声の代補、補綴なのか?まずもって、フォルマント兄弟の アプローチは、そんな「オリジナル」などありはしないということを浮かび上がらせる批判的な機能を果たしているのは間違いないだろう。 だが、ここでは単にそうした状況が分析されるに留まらない。実際に「私」は別の声を文字通り「手にした」のだから。そこで私が歌う歌は、 一体、どのような歌なのか?それは「自分探し」の果てにイニシエーションを経て見出される「本物の自分」の「歌」なのだろうか?

その答えは「はい」でもあり「いいえ」でもあるだろう。 そもそも「私」とは一体誰のことなのか?「私」の「声」など始めからなかったのではないだろうか?「私」とは他者達の 声が反響し、合成される場を名指す名辞に過ぎず、しかもそこでは最早、他者達の声は溶け合ってしまい分離することはできない。 サンプルであれば判別できる筈の(だからこそ、模倣するためには、「本当らしさ」を演出するためには、性別や年齢等に応じた サンプルを用意して、連結合成を行う方が容易いのだが)性別や年齢もわからない、もしかしたら(というのも、現時点では フォルマント兄弟の試みは日本語の音素の範囲に限定されているからだが、それは規則合成方式を取る場合には原理的な 制約ではない)国籍すらわからない、否、そもそもそれは最早「人間」ではないかも知れない、誰のものでもない/誰でもないもの の声ではなかったろうか。だとしたらもう一度、フォルマント兄弟の試みこそ、今日の状況を正しく見極め、その上でその中における 「私」の「声」のための可能性を拓くものなのだろう。 そしてそれは、三輪さんが自ら規定する音楽芸術の規定、すなわち「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの 合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、 そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」に相応しい試みではなかろうか。 (2013.2.17初稿公開, 18,19加筆・訂正)