2021年7月3日土曜日

ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ(2021.7.15更新)

ドイッチュが『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか』 熊谷 玲美, 田沢 恭子, 松井 信彦, インターシフト, 2013)の中で展開している持続可能性批判について、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)の所説に対する批判的検討の足掛かりとすべく、現時点で私に見えている限りの風景を以下に簡単に記述してみたい。ここでの目的は「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という視点から持続可能性がどのようなものとして捉えられうるのかについての検討に着手する準備作業として大雑把な見取り図を描き出すことにあり、結果として稍々単純化し過ぎもあるだろうが、そうした点を振り返って確認し、「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という視点からの検討に繋げていく作業については後日を期することにしたい。

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大まかに言えば、成長を加速することに対して肯定的である点において、ドイッチュは『ポスト・ヒューマン誕生』の著者である特異点論者カーツワイルと意見を同じくし、『人新世の資本論』とは対立的だと言いうるだろう。だが持続化可能性というトピックの扱いについて言えば、両者の立場は明確に異なる。

カーツワイルは持続可能性のような議論を主題として取り上げることはないように見える。『ポストヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』 井上健(訳), NHK出版, 2007)に限って言えば、その最後の章「GNRの密接にもつれあった期待と危険」の更に末尾の部分に、「さまざまな批判とその反論」という節が設けられており、カーツワイルの主張への様々な批判に対するカーツワイルの反論が記されているが、その中で辛うじて、マルサスの『人口論』的な立場からの批判において「指数関数的成長を維持するための資源が必ず枯渇する」からカーツワイルの主張は実現不可能だ、という批判があるくらいであって、それに対するカーツワイルの返答はあっけらかんとしたものだし、それ以外にも貧富の格差からの批判というのが別に立てられれているが、こちらに対する批判もそっけないもので(というか、指数関数的成長が貧富の差を解決すると言っているので、批判する側からしたら実質的には答になっていないと受け止められるだろう)、そもそもカーツワイルは自分がいる資本主義の空間の中にしか興味がなく、その中がこのまま加速を続けるとどうなるかをひたすら追求するばかりで、『人新世の資本論』の中では分かち難く結びついている資源の枯渇と貧富の差の問題が独立に論じられていることからも窺えるように、両者は差し当たり全く相容れない立場のように見える。

もっとも、それらに先行して「さまざまな生存上のリスク」という節があるように、人類の生存の危機、文明の滅亡の可能性について全く無視しているわけではなく、特に技術発展がもたらした現時点でのリスクとして、毒性の強いウィルスによるバイオテロのような可能性について触れているのは、目下の新型コロナウィルス感染症の蔓延を思えばその着眼には鋭いものがあるが、これについてのカーツワイルの処方箋は、それ自体GNR革命の一部であるナノボットをベースにした技術に他ならないのである。

更に言えば「予防原則」についても(当然ながら批判的にだが)言及しており、リスクに対して無視を決め込んでいるわけではないが、結局のところ技術の進展による未来の変容、特異点への到達は「不可避」であるというカーツワイルの主張が揺らぐことはない。これは『人新世の「資本論」』で展開される「脱成長」のための選択肢を考えれば興味深い点であるが、カーツワイルが生存上のリスクについての節を閉じるのは、「テクノロジーの全体主義的な放棄」の可能性について述べながらなのであり、それは「進歩という考え自体を放棄する世界的な全体主義システムによるしかない。」(p.551)いうかたちで「脱成長」について言及していると見ることもできよう。だが、この可能性に対するカーツワイルの答もまたあっけらかんとしていて、知識の分散化による民主化が全体主義を防ぐだろうといったようなものなのだ。勿論、カーツワイルのシンプルで思い切りのよい論の運びは、見かけ以上に深い直観に根差したものであろうし、端倪すべからざるものがあるとはいえ、持続可能性そのものについての検討が十分に為されているとは言い難い。とどのつまりは、カーツワイルにとって技術の進展を妨げるものは端的に打ち克つべき敵であるようだし、結局のところそうした敵も最終的には技術の進展を妨げることはできないとする彼の立場からすれば、そもそも持続可能性についての是非を議論する余地はなさそうである。

それに対して、ドイッチュの持続可能性批判というのはちょっと捻ってあるように見える。簡単に言うと、持続可能性のような発想に陥ると結局持続不可能になってしまう、だから持続可能性のような発想は止めて、技術革新に突き進むべきだ、というように受け取れるのである。一見したところこちらもまた(ドイッチュ自身の言う「楽観主義」ではなく語の通常の意味での)楽天的な技術信仰で、同じ持続可能性という発想を批判するにしても、「脱成長」をするなら、資本主義と折り合いをつけようとすような中途半端はだめで、コミュニズムじゃないと追い付かないという『人新世の資本論』のような主張とは反対に、問題に対して変に先回りしようとすると却ってひどいことになるから、そっちの方向は同じ穴の狢だと考えているようなので、直接「脱成長」を論じてはいないものの「脱成長」などを考えても結局は行き詰る、と言っているように見えるのである。

カーツワイルとは違って、ドイッチュは『人新世の「資本論」』が提起するような類の問題を見ないのではなく、問題を見た上で、正解は持続可能性とか脱成長の側にはないのだと主張しているようだ。かなり勇ましくて、大丈夫かな?という懸念を感じることはあるかも知れないが「未来に対して責任がある」というハンス・ヨナス的な責任の原理と無縁ではないし、実際に未来に対する責任を放棄しているようには見えない。寧ろ、「未来に対して責任をとろうとしたら、出てくる問題を一つ一つ個別に撃破し続けるしかない。そしてそれを続けるなら富の蓄積はあった方がいいし、技術はできる限り研ぎ澄ましておくべきだ」と言っているのである。技術の力、知の力を過信したドン・キホーテと見る立場もあるだろうが、私には、ドイッチュの姿勢は或る意味で常識的で、かつ寧ろプラグマティックに感じられる側面を持っているように思えるし、全面的に賛成するわけではないにしても、ドイッチュの見解のうち、未来というものをどう捉えてどう対処すればいいのかという点に関しては傾聴すべきものがあると感じる。

一つにはドイッチュは未来が予測して先回りできるほど現実は甘くないと思っている。未来予測はたいていうまくいかない、当たらない。だからいい加減な仮説に乗ってネジを逆向きに巻こうとするような話には眉に唾を付けて聞くべきだと言っているのではないか?そして、本当に予測できないことは原理上事前に何とかすることはできないというのは(当然だが)事実である。そしてドイッチュは、予測できないことが起きる可能性を無視していない。もし起きたら、その時に持っているありとあらゆる手段(差し当たりお金と技術)を用いて頑張るしかないだろう、つまるところ「アイデアの力」が重要だと言っているのであって、これは或る意味では随分と醒めた発想だと私には感じられるのである。そして重要な点は、そうした「アイデアの力」によってドライブされる科学の進歩そのものが未来の予測を困難にしているという点である。

その「アイデアの力」を引き出し、それを実現し、最大限に加速してきた社会システムは資本主義的なシステムであり、『人新世の資本論』が批判して、そこからの脱却を目指す当のものではないのかという問いに対しては、それを肯ぜさるを得ないだろう。だがそもそも散逸系としての生命システム自体が動き続けなければ維持できないという点で、宿命的に、『人新世の「資本論」』が規定する「資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である」(p.132)という意味合いにおいて資本主義的と言わざるを得ないのではなかろうか。社会システムとて同様で、完全な閉鎖系というのは現実にはあり得ず、従って完全な自給自足な社会というのは幻想であり、永久機関のようなものに過ぎず、原理的に不可能なのではなかろうか。勿論、持続可能性についてよりましな仕方というのはありえるだろうが、本質的には逃げられないのではないか。そこの部分をわかっていないか、わかっていて無視ないし軽視しているように見えるような議論、本当は答がないかもしれないのに、これはだめ、あれはだめと言いながら、これでもあれでもない「何か」が恰も現実に可能であるかのような言い方をする類の議論は極めて疑わしいと言わざるを得まい。『人新世の「資本論」』が唱導するところの「脱成長コミュニズム」は、もどき、即ちそれの失敗例であれば、過去において幾らでも現実に存在したであろうが、既に山のように存在した筈のそれらが皆行き詰り、事実に即して判断する限りでは持続可能だった例が全くなさそうであると言わざるを得ないのは一体何故なのだろうか?それが突然、今、これから実現可能になるというのは如何なる根拠によってなのか?

ドイッチュの主張については、そういう意味での疑念はない。彼の静的社会に対する批判は大筋において妥当だと思うし、ここではそれを行うだけの余裕がはなけれども、それをもって「脱成長コミュニズム」に対して疑念を提示することだってできるであろう。確かにそれは結局、資本主義を一先ずは肯定しているのであろう。だがドイッチュの主張の目指すところは資本主義そのものの肯定ではない(当たり前だが)。その一方で技術の重視について言えば、現実に、環境問題のあるものが技術的に解決されてきたことを無視すべきではないだろう(20世紀後半の日本に生を享けた者であれば、例示に事欠かないであろう)。勿論、かつての旧ソ連の自然改造みたいなのもあるし、現在進行形の事象としてもまた、中国大陸を始めとして、そこかしこにおいて、自分達のやったことに対するネガティブな結果を嫌という程思い知ることになるのであろう。だが、技術は滅びを加速するためだけに存在するのではない。これはほとんど確信をもって言えるが、もし将来、環境問題が或る程度ましなレベルになることが「現実に」あるとすれば、それは資本主義的な社会が産み出した技術の力によるものであることは間違いないだろう。それが頭の中の空想とか言論空間でのバーチャルな議論ではなく、現実を問題にしているのであれば、「脱成長コミュニズム」とどっちに賭けますかと問われた時の答は、私については決まっている。

他方、だからといって「内部」を維持するためのエネルギー源たる「外部」の搾取の問題はどうなるのだ、という指摘に対して回答が不要になるわけではないのも明らかなことである。現実に「外部」はどうなるのかというのは余りに大きな問で、それに対して答えるだけの準備が私にはないことを認めざるを得ないけれども、ドイッチュの主張の先で「外部」がどうなっているのかについて、私が見つけた(と思っている)手がかりを示唆することなら現時点においても可能かも知れない。なお、こういうと恰も、技術をとるか「脱成長コミュニズム」をとるかの二者択一以外の可能性、つまり「脱成長コミュニズム」の中で技術も進歩させるという可能性を予め排除しているととられるかも知れない。実際、『人新世の資本論』では技術の進歩が否定されているわけではなく、寧ろ狙うところは「いいとこ取り」であるように見える。しかしながら問題は、その「いいとこ取り」が可能であることを示す立証責任は、専ら「脱成長コミュニズム」の側にあるということで、この点についての『人新世の資本論』の言及は具体性に乏しく、カーツワイルの知識の分散化による民主化が全体主義を防ぐといった主張レベルの図式的なものさえ見えてこないのは、専ら読み手の能力の問題なのだろうか?図式的に提示された選択肢は現実的な実現可能性の点からみれば、著しい不均衡を持っていて、単純にそのうちのどれを選んだらよいかという議論は、既に現実から乖離しているように感じられるし、その点を措いたとしても、科学技術の進歩が問題を悪化させてきた一方で、ある時点での「見かけの問題」をその後の技術の進歩が解決して来なかったわけではなく、それが批判の対象となっている選択肢においても現実に起きてきたという認識にたって現に作動している力学系を制御していくやり方ではなく、ゲームチェンジャーの如きものとして「脱成長コミュニズム」をそうした現実に対置させる抽象性が、説得力を削いでいるように感じられるのである。

ところでドイッチュは『無限の始まり』の中で、持続可能性について論じた第17章とは別のところでも政治や社会体制の話もしており、特に第9章 楽観主義において、文明の滅亡についても第17章とは別の切り口で語っている。ドイッチュがカール・ポパーに依拠しているのは前著『世界の究極理論は存在するか』以来のことだが、可謬主義は科学者としてドイッチュにとっては基本原則なのだと思われる。それを踏まえた第9章末尾での「盲目的な楽観主義」と「盲目的な悲観主義」の定義は極めて興味深く、それ以上に、ドイッチュの言う「楽観主義」の定義(「いかなる悪も知識が不十分なために生じる」(p.304))は興味深い。まだ整理できているわけではないが、前者については『ありえないことが現実になるとき』のドゥピュイの「賢明な破局論」における予防原則批判と突き合わせてみる必要があるだろう。後者について言えば、またしても大まかな言い方になるが、ドイッチュの発想はつまるところ「知は力なり」なのだろう。だが物理学者ということもあって、これまた第9章末尾のまとめにおける「富」の定義(「起こすことのできる物理的変成のレパートリー」(ibid.))が経済学的な議論の水準を逸脱した面白い切り口を提示してくれているように、「力」という言葉もまた社会的な議論の水準における「権力」に尽きるものではなく、敢えて言うならばポスト・ニーチェ的とでも言うべき、自己再帰性を持った階層の間を谺し続けるような読み方を迫るものではなかろうか。

最後に、今のところ単なるレトリックのレベルに過ぎないが、その実それに留まらない展開の可能性を含む論点を指摘して終わりにしたい。それはドイッチュがまさに『無限の始まり』について語っているということそのものである。「無限」には「外部」に通じる回路が存在する。一方で、無限というのを現実とは無縁の、抽象物として捉えることは間違っている。カオスとかフラクタルといった複雑系は、無限と密接に関わりを持っている。(或いはまた、無限集合が如何に奇妙な振る舞いをするかを思い浮かべて頂いてもいいかも知れない。)そして世の中は実は古典的な力学や幾何学で説明がつく単純なものよりも、カオスとかフラクタルのような構造を持つもののほうが「普通」なのだということは強調されて良いだろう。科学は自分が持っている道具で説明できる範囲でしか説明をしない。道具が物の見方を規定してしまうのだ。勿論それでかなりの範囲の事柄が説明できるわけだが、だからといってカオスとかフラクタルは病的で例外的かといえばそんなことはなく、寧ろ、それらありふれた構造であって、だから心の構造とかを考える際にカオスとかフラクタルを用いるのは、寧ろ自然なことだと私には思える。(この点で私は津田一郎さんの感覚に共感している。世の中はカオスで充ちている、特に「人間」を尺度とした場合には、身近なところでは寧ろ、カオスとかフラクタルの方が当たり前の構造なのではなかろうか。)

勿論、具体的なある生物に、ある人間に固有のスケールというのがあって、そこから自由になることはできないのだが、にも関わらず、そうした制約を超えて人間が「無限」を発見できたという事実は残る。そしてそれは「二分心以降、シンギュラリティ以前」の「考える葦」たる人間にしかできないのだ。インコでも「ゼロ」の認識ができていることは実験によって示されているが、恐らく「無限」という概念は持ちえないのではないか?「人新世」に対して「二分心以降・シンギュラリティ以前」という劃期を立て、自伝的自己を備え、自己意識を持ち、という心の構造の不可逆的な変化がそれなしでは不可能であった「反逆」を可能にしたという『自己が心にやってくる』の第11章におけるダマシオの主張を思い起こしてみよう。その「反逆」の可能性は、「無限」概念の獲得と少なくとも構造的に連関があるのではなかろうか?「無限」に辿り着き、自分がそこから出てきた基盤の制約に対する「反逆」が可能になったことで、ハンス・ヨナスの言う「未来に向けての責任」を論じることができるようになり、ドュピュイの「賢明な破局論」が可能になったのであり、「二分心以降・シンギュラリティ以前」の種族たる「人間」以外の地球上の生物にはそんなことはできないのだ。

当然想定されるように「反逆」は両義的で、一方では、言われるところの資本主義を加速させ、他方では、抑制することができるのであろう。「脱成長」は後者であり、一般化して言えばこれまた或る種のホメオスタシス的なものの実現、動的で不平衡な系における或る種の準安定状態の実現の問題なのだろう。だが近年の知見によれば、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている(フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結である)。人間の脳は、予測機械、シミュレータなのであって、運動もまた予測なのだ。それを思えば、社会的な水準においてもまた、単なる持続可能性ではなく、単に「生き延びる」だけではなく、世界をシミュレートしつつ「生き方を学ぶ」必要があるのではないか。そしてそれは、或る種の情報については「価値を絶えず増やしていく終わりなき運動」を許容することによってしか実現できないのではないかというように思えてならない。そしてそれを思えば、ドイッチュが『無限の始まり』において展開した持続可能性批判には、様々な水準で、様々な方向に深く掘り下げるべきものを含んでいるように思えてならないのである。

ドイッチュの考えは所詮は科学者の或る意味で能天気な科学信仰なのかも知れず、或る種の啓蒙主義の評価やらポパーへの依拠ともども、例えばフランクフルト学派のような立場からすれば余りにナイーブな主張として反論されるのかも知れない。そして恐らく、控え目に言ってもその反論の一部は『人新世の資本論』の主張を補完することになるのだろう。或いはまた『無限の始まり』の別の箇所で展開される芸術に関する見解のナイーブさとの共犯関係を指摘する向きもあるだろう。けれどももしそうだとしても、とりわけ「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の後半部分がクローズアップされる今日の状況において、その目指すところは「人文工学」が精緻化すべき領域なのではないかというように思うのである。特に後者については、一見したところ局所的で派生的な問題に見えるかも知れないが、芸術の扱い、特にその「価値」については、それを「無限の始まり」の重要な契機として扱うドイッチュよりも、寧ろ『人新世の資本論』の方が、そのナイーブさが明らかであり、尚且つそのことが「脱成長コミュニズム」の抽象性に根本の部分で繋がっており、決して周辺的な側面ではないように思われる。ということで芸術の価値をどのように捉えるかという問題は、『人新世の資本論』でも正面から取り上げられておらず、ドイッチュも取り逃している問題の構造の急所に関わっていて、その検討を通して両者の議論の抽象性を指摘し、問題の空間の内部の布置を変え、結果として一見したところ両立不能に見える両者の主張を調停するのではなく、或る仕方で組み合わることによって新たな通路を発見することに繋がる可能性を秘めているというのが現時点での見通しということになる。(2021.7.3初稿, 7.7加筆, 7.15加筆修正)

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[後記]上記のメモは、2021新書大賞を受賞した話題作、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)を読んでの感想を起点とした持続可能性をめぐるメールのやりとりの一部が元となっていて、持続可能性をめぐる論点の整理の一つとしてブログでの公開を薦めて頂いたことから記事化したものです。遅ればせながら、メールでのやりとりをさせて頂くことで上記のような論点を引き出して下さり、ブログ記事として公開するきっかけを作って下さった京都大学人文科学研究所の岡田暁生先生と三輪眞弘さんへ御礼申し上げるとともに、記事執筆・公開の経緯を記載させて頂きます。また上記記事のいわば前段をなす部分のうち、特に本ブログの主旨に即した部分を別途「落穂拾い」として公開する予定です。(2022.1.1追記)