三輪眞弘「感情礼賛」(2008年11月7日初演)「今年の感情礼賛について 《学長の挨拶》」(「三輪眞弘音楽藝術」所収)
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意識は存在しないのか?クオリアは存在しないのか? 意識は存在しない、或いは、クオリアは存在しない、といった言い回しは、 人を驚かし、興味を惹き付けるレトリックとしての意義はあるだろう。 だがそうした主張は、決まってまず、意識なりクオリアなりの定義が曖昧であることを 指摘し、自分なりに意識なりクオリアなりを定義し直し、そして自分の定義した 意識なりクオリアなりが存在しないことを示してみせるといった手順を辿るものだ。 そしてその主張そのものは別段間違っているわけでもない代わりに、人を驚かす ようなものではないことが明らかにされる。そして事実に関する理論としては それは別段どうということもない。厄介なのは、事実に関する認識の変更に 対する誘いが、存在の様態に関する或る種の規範的な価値判断を潜ませて いる点にある。そして冒頭のような挑発的な物言いをするときには、 事実に関する理論上の提起に留まらない志向が潜んでいるもののようである。 要するに、一見すると事実についての問いに見える「意識は存在しないのか? クオリアは存在しないのか?」という問いは、「あなたの心の理論から意識や クオリアを消去せよ」という誘いであり、そしてこのような消去主義的な挙措は、 意識やクオリアが存在するという思いなしが、何か良くないことを惹き起こしていると いう信念に裏打ちされているもののようなのである。であるとすれば、消去主義的な 挙措の意図するところは、思いなしを崩すことにより、その思いなしの由来を露呈させ、 その結果、別のモデルを採用するように誘われるということに存するのであろう。
確かに意識とかクオリアといった言葉の定義は曖昧だろう。そしてそこで定義された 意識なりクオリアなりを消去するのは構わない。だが、そうした消去の効果は 何だろうか?何が残るのか?何のために、自分で定義してみせた範囲の 意識なりクオリアなりを消去するのに、あたかも意識なりクオリアなりで 指し示されたかも知れない全てを消去してしまうかの如きレトリックを弄するのか? その「意図」は何なのか?そして消去の対象としての意識なりクオリアなりを 自分で決めておいて、それを消去することで、目的は達成されたのだろうか? 残ったものは目的に照らして「無害な」ものばかりとなったのだろうか?議論の 都合上都合の良いように敵を定義しておいて、本来の敵を取り逃している ようなことはないのだろうか? もし目的に到達しようとするのであれば、 寧ろ説明されるべきは、どうして意識やクオリアが存在するような思いなしがかくも 強固に成立するのかという「誤解」の由来ではないのか? 手品の如く手並みも鮮やかに消去して、得意満面といったところ なのだろうが、それによって得られた結果、どのような展望が得られるのか?
意識の働く範囲を限定し、意識の働く範囲と心的な機能とを同一視せずに、 前者を後者のごく一部と考え、しかも意識を必ずしも心的な機能に必然的に随伴する ものではない付加的な形態と考えることには異論はないだろう。心的なものは一方では 内側に拡張され、それ自体自律性を有する(つまりある程度は「意識なし」でやっていける)無意識的・習慣的な身体内のシステム領域が含まれることになる。一方では身体を超えて 外へと拡張され、環境との関係そのものに心性を見出そうとする。こうした修正は全く 妥当であって、寧ろ現実の把握の仕方としてより自然であると考えられる。ただし、 それはホワイトヘッドが「具体性の履き違えの誤謬」として指摘した、意識が自ら 作り上げた「イメージ」を一旦括弧入れすることなしには得られない。成否はともかくとして 現象学における「還元」もそうした括弧入れのための方法として企図されたものであったと 捉えることができるだろう。しかしこうした立場の採用と「意識を消去する」という挙措との 間には随分と懸隔があるように感じられるだろう。少なくとも、こうした拡張された心の 理論の採用は、それがそのまま意識の消去を意味するわけではない。拡張された心 というのが、目指すべき、あるべき規範であるのではなく、寧ろ現実の在り様の端的な 了解であるとするならば、躍起になって消去しようとしている意識にまつわる強固な 思いなしの存在そのものもまた事実なのだから、拡張された心の理論の中で、そうした 思いなしの成立が説明可能であるべきなのではないだろうか。そうした思いなしは、 システムの適応のそれなりの結果であり、経済性と合理性を備えている筈であって、 それを消去して事たれりというわけにはいかないのではなかろうか。
さしあたりはまず、自己の心の理論から意識を、クオリアを消去せよ、という誘い自体が 心の働きであり、しかも意識を有するような高度な精神的なシステムの振る舞いなのだ という点に留意しておこう。実際に消去されるのは、意識そのものではなく、 意識についての或る種の模型に過ぎない。そして一体どうすれば良いのかを問うたり、 残ったものが何なのかを確認する営為もまた、意識の働きと呼ぶほかないものであるし、 そこにはある目的に向けてのドライブが存在する以上、そうした営為には或る種の 情動が伴っているのは事実である。そうした消去主義的な挙措そのものが、 こちらもやはり意識と呼ぶほかないものの働きであるとき、その挙措そのものが 我が身に返ってくることはないとたかを括っていられるものだろうか?一体、 消去されたものは何で、残ったものは何なのかをもう一度振り返ってみた方が いいのではなかろうか?
事実問題として、意識は存在しないのか?クオリアは存在しないのか?と問うた時の 答えは、意識やクオリアの定義による。そして大抵の場合、消去主義者の定義は、 非常に限定されたものであることが多く、その帰結を受容したとしても、学習すべき ものを学習でき、否定判断ができ、仮想的な状況を想像でき、抽象的な概念の操作が できるような高度な心性と、そうした高度な心性において生じる様々な情動的な 感じが否定されるわけではないのである。そもそもこうした高度な心性の働きは 事実として確認できるのだから、それらを扱えないような理論は心の理論としては 不充分なものであろう。問題は一見してそのように見えるような、心性の否定や 心の私性の否定ではない。寧ろ逆であって、ようやく高度な心性が科学的な研究の 対象となり、心の理論が精緻化されるに従って、心というものを意識に限定したものでも、 身体の内部に限定したものでもない、開かれたシステムとして考えなくてはならないことが わかりつつあるということなのである。だから、そもそもが、意識なりクオリアなりが存在するか というのを事実問題として設定するということそのものが、適切な挙措とは言えず、 人を欺く側面を孕んでいるのである。理論の平面では意識やクオリアについての 或る理論が事実の説明として妥当かどうかが問われているだけなのだから。
一方で、拡大された心の理論に基づく高度な心性についての認識がどんな ものであるかは、まだ十分に明らかになっているとは言いがたいのではなかろうか。 心に公共性を認めることはできても、心の私性を完全に消去することはできない。 意識についての陳腐な模型を破壊して悦に入ることはできても、意識をそっくり 消去することは、意識を、クオリアを心についての理論から消去せよ、という誘い自体の 自己破壊にしかならない。単純に自らの檻の外に出ることなどできないし、内的なもの、 私的なものを完全に破壊することはできないし、恐らくはすべきでもないのだ。 事実として私性がある以上、それを説明できない理論は不充分であろうし、 自己組織化や自己創発をはじめとする有機体についての理論によって、 私性の起源、意識の起源の説明が可能になりつつある。しかしそれだけではなく、 私性の否定は、自律性を備えた意識的主体間での相互作用によって産み出されて来た これまでの蓄積を否定することでもあり、自らの起こしてきた様々な問題・弊害に 対する責任の放棄に繋がるがゆえ、すべきではないのだ。意識が多くの過ちを為し、 テクノロジーの発達でそれが増幅されるようになり、危機がクリティカルなレベルに 達したという現実に対し、単に意識を否定し、状況をある意味で放置することが 問題の解決になるとは到底思えないし、自分が形成してきた脈絡によって生じる 責任の放棄が許容されるとも思えない。それは自らの全能性の過信の単純な 転倒に過ぎない。必要なのは、自らの能力の及ぶ範囲を認識し、適切に 制御することであり、そのようにして自己のみならず、自己が関係する環境を 形成する他なる私性をも擁護することではないだろうか。
自我の超克やら意識の拡大への誘いというのは別に今に始まった話ではなく、 寧ろ常に叫ばれてきたことであったことを思い起こせば、そして単に意識を融解させて 無意識的なものを噴出させることによっては、単なる選択される部分の変更に 留まり、本来必要であるそうした部分の統合には到達できないことが既に明らかで あるのであってみれば、心についての(恐らくは意識の存在理由に照らして非常に 適合しているに違いない)「当座理論」の一つである、意識やクオリアについての 或る種の見方を否定しようとしたとき、単純に意識を、クオリアを否定するのではなく、 単純に私性を否定するのでもなく、端的に、私的な側面も備えている心的なものが 意識を超え、身体を超えて拡がっていて、公共的な側面もまた備えているというような 統合的な認識を持つことが必要なのであろう。そしてその限りで、寧ろ私的なものの 交換不可能な展望の独自性は、それを受容する側にとっての他性、新しさの 根拠として寧ろ擁護されるべきなのだということになるのではなかろうか。
意識についての問いそのものは近年のものではないが、ここで一瞥したような 近年の文脈においてその問いに向かおうとしたとき、三輪眞弘さんの活動とその 作品は、参照点として極めて重要な位置を占めていると思われる。 非平衡力学、カタストロフィー理論、カオスやフラクタルのような非線形力学系と 関連しつつ生物のような有機体を対象に形成されてきた自己組織化論や サイバネティクスをはじめとする様々なシステム論の発展、動物行動学、脳神経科学、 情報理論、認知科学、ロボット工学や人工知能研究といった分野での探求と 単に時代を同じくするだけでなく、それらと問題意識を共有し、その上での 音楽芸術のあり方を探索し、開拓していくその活動は、音響素材を用いた 単なる認知実験であったり、簡単な検証を伴った思弁ではなく、 しかし芸術をも対象とするそうした分析の一素材としての作品を提供するにも 留まらず、そうした分析を一部とする研究と背景や問題意識を同じくし、 更に芸術活動として自己がおかれた状況に対して意識的であるような 芸術活動である点において稀有である。そこには単純な説明や一面的な解釈を 超えた、拡張され、開かれた心の理論の実践があり、それゆえにその可能性の 射程は同時代においては測り難い側面を備えているに違いない。だが、時代と 場所を近くする人間は、その活動との対話を試みることによって、寧ろ自分の 実践を確認し、方向性を見定めることができるであろう。その活動を受け止めるには、 意識のみに留まらない、だが意識も含めての、拡大された心の全ての領域を 動員する必要があるだろう。
そもそもわれわれは自分がその中に組み込まれているシステムの外に出ることはできないし、 恰も外にいるかのように観察して記述して事たれりとするわけにはいかない。 自分の活動が(活動をしないことも含めて)システムに対して影響を及ぼすのだと いうこと、そうしたシステムの成員として相互に影響を及ぼしあうことでシステムの 状態が決まっていくのだということを踏まえる必要がある。それが世界のごくわずかな 一片にしか影響を及ぼさないような取るに足らないと感じられる類のものであれ、 自分が生み出したものは不可逆的にシステムに組み込まれていく。そして我々は、 意識を備えているが故に、意識がない場合とは異なった世界に住んでいることを 自覚しつつ、自分がコミットする価値に対して自分に可能な仕方で応答をして いかなくてはならないのではなかろうか。意識も含めた、拡大された心の全ての 領域を用いて。三輪さんの活動は、それ自体そうした応答そのものであり、かつまた 更なる応答への誘いであるように私には思われる。
例えば「責任」という概念もまた、意識の私性とそれに関連した「人格」概念と無関係ではない。 今や西欧近代的な「人格」を前提とすることによる矛盾や齟齬が生じつつあるとはいえ、 それを単純に放棄すれば良いというものではなかろう。何か全く別のものに置き換えられるとも 思わないし、それ以上にそうしたいとは思わない。自分の世界における脈絡によって、 ここまである方向で自己形成をしてしまった以上、後戻りは利かないし、私は自分の選択が (あくまでもこうした点に限っては)誤っていたとも思わない。価値論的・倫理的な事柄については、 最後は机の叩きあいになってしまうのかも知れないが、そうであるとしたら、私は相対主義に 退却して高みの見物を決め込むよりは、自分が共感できる立場にコミットメントすることにした。 もう時間はなく、自分の力はあまりに僅かだし、そうした価値に寄与・貢献できる範囲は 知れているだろうけれど、私は自分が価値を認めたものが、自分の死と共に消えてしまうのに 耐えられない。私の生命よりも、そうした価値の方が優越しているのは明らか(それらは それを「ミーム」として捉えようが、そうした見方を拒絶しようが世代を超え、時代を超えて 現実に継承されているのだから)なので、私もまた、(それ自体はこれもまたいずれ擦り切れ、 消滅してしまうとしても)衣を織ることに与りたいと感じているのだ。
あるいは遠い将来、三輪さんが《感情礼賛》において夢見たように、拡大された心は 実際に私性を廃棄することになるのかも知れない。だが21世紀の初頭に生き、 自分の生きている間にはカーツワイルの言う「特異点」が訪れることもないであろう私には、 それは差し当たり関係のないことだし、私が私である間は、自分の私性との、私的な 感情との折り合いをつけていきながら、遅れていても、遠く離れていても応答を続けることに よって自己を保っていかなくてはならないのだ。(2012.12.16)