2014年2月16日日曜日

「ひとのきえさり」日本初演を聴いて

「ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読」
KNMベルリン
2014年2月11日アサヒ・アートスクエア:「ハイブリッド・ミュージック」東京公演

「ハイブリッド・ミュージック」は、マーティン・リッチズのミュージック・マシンと人間の奏者の「合奏」という編成による 新作委嘱作品を中心(というのも1曲だけ、トム・ジョンソンの「24個のパーカッション・インスタレーションのために」のみは、 1995年に書かれたという点と人間の奏者は介在しないという点のいずれにおいても例外なので)としたプログラムの演奏会企画であり、 既にドイツでは昨年の11月8日にエッセンにてコンサートが行われている。 プログラムには企画のディレクターの1人である三輪さんの新作「ひとのきえさり」の初演が含まれており、日本公演は、その 日本初演ということになる。日本公演は名古屋(2月9日)と東京(2月11日)の2回で、そのうち東京公演に立ち会うことができた。

昨年来多忙を極め、例年参加することにしている催しも、極僅かな例外を除くと殆ど何も参加できなかった故、久しぶりのコンサートで あり、今回についても、そもそも行ける判断がついたのが1月末であったが、同じく盛況であったらしい名古屋公演同様、 東京公演も、開演時にはみぞれがちらつく天候の中、立ち見も出る程の盛況であり、また作品・演奏ともに非常に充実した企画であった。 主催者はじめ、企画・制作・演奏・技術のスタッフの方々に敬意を表しておきたい。色々なことを感じ、考えさせられたのではあるが、 残念ながら時間的な余裕がない状況は続いており、既にこの文章を書いている時点で1週間弱が経過しようとしている。そこで ここでは「ひとのきえさり」を中心に、ごく簡単に感想を記録しておくことにする。

全体として、ミュージック・マシンに対する日本とドイツの基本的な姿勢の違いのようなものが 感じられたのはとにかく印象的だった。いわゆるアコースティックでない電子楽器の利用はライヴ・エレクトロニクスも含めて 今や当たり前だし、その経験が逆流するように、例えばラッヘンマンの「楽器によるミュージック・コンクレート」に代表されるような 特殊奏法による音色の拡大もいわば既成事実であり、前提となっているような状況においては、マーチン・リッチズの制作した ミュージック・マシンをどう扱うかの基本的な発想自体がクローズアップされるようだ。

三輪さんの「ひとのきえさり」では、機械はいわば「最後の人」の代補、「礼拝」の対象、或る種のトーテムめいたものであるという 物語の枠が設定されているが、足立智美さんの「あんたトノはなし方のならい方」における「あんた」とはトーキング・マシンのことであり、 ここでは人間と機械との(ロシア・アヴァンギャルド張りの)身振り言語を介しての往還可能性がいわば「前提」となっている。

一方、トム・ジョンソンの作品がインスタレーションの一部を構成するものとしての音響の次元の構成と割り切って、空間的な移動の 効果を含めた音響の構成の提示に徹しているのに対し、ドイツの作曲家の新作2作品は、個別の作品の違いを超えて、 あくまでも通常の楽器と一緒に演奏=操作される音響・音声発生装置としてミュージック・マシンを扱っているように感じられた。 つまりそれはきっかけを与えれば後は勝手に音を発しはするものの、結局人間の操作する道具であり、結果として生じる音響も、 他の楽器の音と或る意味では同等なのであり、細部はいざ知らず、それ自体の演奏者としての自律性は、少なくとも表には 出てこない印象を受けた。ここでは機械を操作する人間が演奏者と協同する(いわゆる対比的な扱いを受けて、あるいはアイロニーを 込めて「協奏」するように設計されている場合も含めて)のであって、勿論、機械が合奏に加わる場所では、指揮者も含めた人間の 演奏者は否応無く機械に「合わせ」ざるを得ないのだが、それも例えば歌劇やバレエのピットのように ごく自然に行われていて、例えば三輪さんが「永遠の光、、、」でCDプレーヤーをあえて用いて浮かび上がらせたような状況は 浮かび上がって来ない。勿論、そうした状況について作曲者が無自覚であるということはないだろうし、人間と機械の関係を 対立的に扱うにしても、その具体的な様相は決して画一的なものではないし、各作品毎の差異というのも あるのだが、初演を一度聴いたきりだと、その点について主題的に扱うのは困難であり、ここではそうした大まかな共通性の 指摘に留めたい。或る程度の時間的な広がりを確保し、アイロニーも遊びの要素も含めて、その中を徹底的に隅々まで作曲し 尽した感じがあるのは、如何にもドイツ的というべきか。(プログラムにはもう1曲、イギリスの作曲家ショーン・トザーの 作品が含まれていて、これはフルート・プレイングマシーンとフルート奏者の「合奏」で演奏された。)

それを民族性の相違のようなもので説明してしまっていいものか、とは思うのだが、私が共感するのは三輪さんや足立さんの 機械に対するスタンスであるのは間違いない。そして恐らくその点と決して無関係ではないと思うのだが、三輪さんにあっては 「子音パイプ」と名付けられた、調律されてはいるけれど、それで膝を叩くことで音を出す筒の利用、足立さんの場合には身振りを 含めた身体的な所作と声の利用と、いわば限定された素材を介在させることによって人間と機械との距離を浮かび上がらせるとともに、 マーチン・リッチズの、こちらはこちらで手作り感があってローテクな趣のある機械の肌触りのようなものに触れることに 成功しているように感じられた点も印象的である。会場の聴衆にはドイツ人も少なからず混じっていたようだが、一体どのような 感想を抱いたのか、聞いてみたい気もする。

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「ひとのきえさり」は、藤井貞和さんの7音7行で1連の7連からなる詩をシンギング・マシンが朗読することを中核とする作品である。 編成はピッチを持った母音を発声できる機械であるシンギング・マシン、Esの超低音のみを出すことができるアイントン、フルート、 オーボエ、クラリネット、バス・クラリネット、トロンボーンの管楽5重奏、「子音パイプ」という調律された音高を持つ7本の パイプを交換しながら膝で叩いて音を出す4人の奏者からなる。配置は、舞台中央に輪になった管楽5重奏に対し、シンギング・マシンを 囲むように輪になった4人の「子音パイプ」奏者の背後にアイントンが置かれるというもの。奏者は9人だが、音楽機械の操作をする マーチン・リッチズもまた、パフォーマンスの中で重要な役割を果たす。

作品の構成は、タイトルに示される通り、序奏と朗読の2つの部分に分かれている。序奏は管楽5重奏によって演奏されるが、 その脇で、無声でピッチだけを取り続けるシンギングマシンのピッチの変化に合わせてパイプを交換する奏者が交替で パイプでリズムを刻んでいく。序奏が済むと管楽5重奏は退場してしまい、今度は有声でピッチを持った母音を発声する シンギングマシンによる「朗読」が、シンギングマシンを囲む奏者が、7音一サイクルのパターンを、パイプを交換しながら 反復して演奏することにより、機械の「朗読」を「伴奏」する中で行われる。全体を通してアイントンの超低音の唸りが 基底の響きをなす。

「子音パイプ」の奏者はこれも周期的に、タイトルを交替で囁くが、「朗読」が進んでいくうち伴奏のパターンが尽きると、こちらもまた 退場してしまう。タイトルの通りの「ひとのきえさり」の後、残されたシンギングマシンの「朗読」は続けられるが、 それも終わりに辿り着くとアイントンの唸りも止み、静寂の中にマーチン・リッチズが現れて、まずはシンギングマシンに一礼し、 その後舞台中央で客席に向かって一礼して終曲となる。

自らがディレクターをつとめる「ハイブリッド・ミュージック」というタイトルの催しに相応しく、この作品はこれまでの三輪さんの 創作の様々な側面が複合的に組み合わされているように思われる。全体は「逆シミュレーション音楽」の規定に従って創られている。 カバーストーリーは、「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」でも登場したギヤック族が登場し、「子音パイプ」を交換しながら、 規則に従ったパターンを反復していくのは、「村松ギヤ」や「またりさま」と同様の「逆シミュレーション音楽」における 「架空の儀礼」の一部を為している。 マーチン・リッチズの音楽機械と人間との合奏は、かつて東大で演奏されたThinking Machine(思考する機械)と箜篌による 「逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」を思い出させる。七色に塗り分けられた七本の「子音パイプ」は、 それがパイプであるという点で、「算命楽」でのレイン・スティック、「村松ギヤ」のザーメン棒を思い起こさせる一方で、 7色の虹の色から「369」や「虹の技法」といった新調性主義系列の作品にも繋がっていく。正確には同じ編成ではないが、 管楽5重奏ということでは、架空木管五重奏のための「BQMOVM1E」を、序奏と朗読という2部形式は、前奏曲とリートという 2部からなる「夢のガラクタ市」のことを思い出ささずにはいないだろう。

そればかりではない。声調言語ならぬ、ピッチが子音に対応するという音声体系を持つ架空の民族の歌を、ピッチを持った 母音のみが発声できる機械に歌わせるのは、フォルマント兄弟名義での音声キーボード・音声アコーディオンによる歌唱の試み との直接的な関連を持っているだろう。かくしてこの作品は、三輪さんのこれまでの活動の「ハイブリッド」であり、或る意味での 総合となっていると考えられる。

しかしこの作品において最も意表をつき、インパクトがあるのは、タイトルの通り、文字通り人が消え去っていき、機械のみが 残るというプロセスが作曲されているという点であろう。三輪さんの作品の中には、既に上で触れた「369」や「虹の技法」の 系列の作品、あるいはそれに先行する「言葉の影、またはアレルヤ」のように、作品の終わり近くになって、楽器を 演奏している奏者に発声をさせるものがある。だが、この作品は管楽5重奏の奏者も、4人の「子音パイプ」奏者も、最初こそ 発声をしながら演奏をするが、じきに舞台を去ってしまい、残るのは機械の声だけなのだ。東日本大震災の後に作曲され、 初演された「永遠の光、、、」もまた「虹の技法」同様、新調性主義の系列の作品だが、この作品すら、前半で打楽器奏者と 指揮者がラジカセで再生されるオーケストラのシミュレーションと「合奏」するのを沈黙して楽器を演奏しないオーケストラ 奏者がひたすら聴き続けた後、後半にはオーケストラが自ら演奏を行うのに対し、ここでは誰もいなくなった後に機械による 朗読だけが残るという或る種の逆転が生じている。カバーストーリーに重ね合わせれば、 それはギヤック民族の絶滅を象徴しているのだろうが、そうしたプロセスが更に何を意味しているのかについて、 聴き手は様々に考えることができるだろうし、そのように誘われているのだろう。これまた近年、特にフォルマント兄弟名義での 活動で追求されている問題系の一つである「幽霊性」との関連を考えることもできるだろう。

だが、それらとは別に、会場で「ひとのきえさり」に立ち会った私が感じたのは、そこで見たもののどこまでが「夢」の内容 なのかが曖昧になってゆく感覚であり、「音楽」そのものの「きえさり」に立ち会ってしまったかのような感覚であり、 人間が消滅した後、もともとは人間のためのものであった何かを、誰に聞かせるためでもなく、電力が枯渇するまで永遠に 機械が反復し続けるという状況の持つ生々しさであった。実際には私は子音とピッチの対応規則を事前に教わっているわけでもなく、 だから初めから朗読の意味を聴きとっていたわけでは決してないけれど、それでもなお何かが損なわれ、喪われていく過程、 「逆シミュレーション」によって辛うじてまだ成立していた何かが解体する風景の予感の如きものを感じずにはいられなかった。 と同時に、機械が止まり、アイントンの基底の響きが止み、沈黙が支配する中で、黙り込んでしまった機械に対して一礼し、 最後に聴衆に向いて(だが、それは本当は聴衆に向けられたものではないのではないか?)一礼した、機械の作者の挙措の 意味を図りかねていた。それはカバーストーリーに書き込まれていた夢の続きなのか、夢の外側なのか、それに立ち会っている 私は一体、どこにいるのか。

もちろんそれは、コンサートの中での出来事であり、拍手とともに奏者が現れ、三輪さんが呼び出され、皆が退場して 拍手が止めば、休憩時間となって、私はコンサートという制度の中にいる自分を見出すことになる。コンサートが終われば 帰途を急ぎ、翌日の仕事の準備をしなくてはならなかった。だがその一方で、「ひとのきえさり」が展開して見せた ヴァーチャルな時空は自分の内側に確固たる場を占めてしまい、リアリティに対して作用を及ぼしつつあることに気付かざるを得ない。 残念ながら私の能力の限界のせいで、一回聴いただけでは作品の全てが把握できたわけではなく、これ以上、書き留めるに 値する何かを持っているわけではない。しかも基本的にはウニカートな音楽機械を必要とし、「子音パイプ」という 「特殊楽器」の奏法の習得を奏者に強いるこの作品の再演の至難さは容易に想像できる。けれど、そうであれば尚更、 その作品から受けた印象という点では圧倒的な経験であったことは、それがたとえ自分のためだけで あったとしても、記録に留めておきたい。少なくとも私にとってのそれは、コンサートでの音楽作品の演奏と いうよりは、寧ろ「夢の中」におけるような儀礼に近い質を持っていたこととともに。(2014.2.16初稿)

2014年2月2日日曜日

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」で用いられている制約プログラミングについて

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」
2013.2.24 大垣、ソフトピアジャパン:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」総括報告・シンポジウム
2014.2.22 大垣、ソフトピアジャパン: フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、久保田晃弘、福田貴成、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」(新しい時空間における表現研究)
日本学術振興会科学研究費補助金研究・基礎研究(C)研究課題番号23520175

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2014.2.22の総括報告における発表用スライドは以下からダウンロードできます。

2013.2.23の中間報告での発表用スライド・補足資料は以下からダウンロードできます。

なお中間報告に先立って書かれた本ブログの記事として以下があります。

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1.はじめに

1.1.「和音平均化旋律・運指法計画」の背景

2012年7月に発表されたMIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱のための「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」は、 従来のMIDIキーボードにおいて、旋律を受け持つ右手に対して、音素生成を担当する左手で演奏するキーボードに対する音素の 割当の規格である「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」に相当する役割をMIDIアコーディオンの左手で演奏するボタンで実現する ための規格であった。それは基本的に日本語のモーラをボタンに割り当てる発想のもので、概ね五十音表をボタンにマップしたものだが、 ボタン数の制約などから、濁音、半濁音、拗音については複数のボタンを押すことで実現するものだったが、その後、母音と子音の 組み合わせをボタンに割り付けることにより、原理的に(というのは、サンプルした音素はあくまでも日本語のものであるからだが) 他の言語にも拡張することが可能となる、より汎用性の高い国際規格も発表されている。

1.2.「和音平均化アルゴリズム」における「運指法」の特殊性

一方、右手が担当するキーボードについては、キーボード演奏によって微分音程を含む旋律の「歌唱」を実現するために、 「和音平均化アルゴリズム」が提唱されている。これは複数のキーを同時に押すことで、和音ではなく、同時に押し下げしたキーの ピッチの平均のピッチが生成されるものであり、常に生成されるのは単旋律となるかわりに、半音以下の1/2半音、1/3半音等の生成を 可能にする。その一方で、同一のピッチを実現するキーの組み合わせは複数考えられるので、演奏にあたっては、どの組み合わせを 用いるかを決める必要がある。このことは一方で、複数の候補の中から運指が容易なものを選択することを可能とするが、他方では、 通常、実現すべき和声と1対1対応の関係にあるキーの組み合わせに対して適切な運指を決定すれば良いところを、実現すべきピッチに 対して1対多の関係にあるキーの組み合わせ候補群から、運指を考慮しつつ適切なキーの組み合わせを選択し、更に、それに対して 原理的には複数可能な運指の候補群から適切なものを求める必要があり、通常の楽曲の運指決定よりも複雑な問題に対応しなくては ならない。キーの組み合わせの選択問題と、選ばれた複数のキーを同時に押さえる運指の選択問題の両方を解くことは 単なる運指の決定に比べて遥かに広い探索空間を相手にした作業となるため、手作業で行うのは非常に手間のかかる作業となっている。

そこで「和音平均化アルゴリズム」による微分音程旋律の運指をコンピュータによって決定する手法を独自に開発する必要性が 出てくる。この課題の解決の手法は色々なものが考えられるだろうが、そのうちの一つが制約プログラミングと呼ばれる手法を 用いたキーの組み合わせと運指を候補の中から探索するプログラムを作成し、実現すべき微分音程を含むピッチの系列を プログラムに与えて実行し、キーの組み合わせと運指の系列を自動的に求めることである。

1.3.本稿の目的と制限

ここでは技術的な正確さは或る程度犠牲にして、制約プログラミングで上記問題を解くためのアプローチの概要を説明するとともに、 制約プログラミングそのものについても若干の説明をすることにする。ただし情報処理技術としての制約プログラミングの紹介や 音楽以外の領域への適用事例については既に多数存在する著作に譲ることにする。

また、(上記の催しの際にも指摘した通り、) 制約プログラミングのコンピュータ音楽に対する寄与については、例えば Curtis Roads, "The Computer Music Tutorial", MIT Press, 1996 (邦訳:「コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート」, 訳・監修:青柳龍也, 小坂直敏, 平田圭二, 堀内靖雄, 訳:後藤真孝, 引地孝史, 平野砂峰旅, 松島俊明, 東京電機大学出版局, 2001)のような書籍に要を得た記述があり、参考文献の 紹介もされている(第2章「音楽システムのプログラミング」の「プログラミング言語について」の節、p.p.65-66、および第18章 「アルゴリズム作曲システム」の「決定的プロセスと確率的プロセス」p.689のAmesの「制約下の探索」による対位法の旋律生成の 事例、更に第19章「アルゴリズム作曲の表現と技法」の「生成・検査法」の節の p.740以降、だが特に「制約」の節p.p.743-6は、 まさに制約プログラミングをテーマとした節であり、Levitt の調性的協和に関する制約モデルを例とした紹介や、 Courtot 1992, Ebcioglu 1992への言及が為されている)。

従って、ここでは概説的な紹介はそうした紹介に対する補足をするに留め、フォルマント兄弟や三輪さんの活動に 対してどのような位置づけを占めているのかを素描することにしたい。

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2.制約プログラミングとその周辺

2.1.制約プログラミングの定義

制約プログラミングとは何か、という問いに対する答えは、制約プログラミングに関わる人の立場により様々だろうが、 ここでは、それは問題を解くための手法であり、(a)問題を変数の集合と、その変数間に存在する制約の集合として定式化する モデルリング手法と(b)問題空間が持ちうる状態の中から、制約を充足する状態を求めるために、制約を有効に使って効率的に 解を求める手法を備えたものであるとする。プログラミングパラダイムの観点から見た場合の特徴は、問題の宣言的な記述と 求解アルゴリズムの分離であり、記述のためのシンタクスが処理系毎に定められ、処理系が備えている汎用のソルバーを使って 問題を解くことになる。通常のプログラミングにおいては、データ構造の宣言とともに、問題を解くためのアルゴリズムを 記述することがプログラミングの中心であるのと比較して、かなり違ったパラダイムであり、アルゴリズムを明示的に 与えようとすると条件の分岐が多くなりすぎて、事実上解くプログラムの記述が困難な問題を解くためのものと考えることができる。 更には、確率を導入する拡張は可能であるものの、基本となるモデル上では制約は決定的であると見做される。(条件付制約下での 制約充足解を求めるためには、非決定的な探索が必須となるが、条件つきの制約自体は静的に決定的に宣言可能である。)

2.2.数理計画法

実際には、上記の定義は非常に広くて、「制約」の記述形式の制限や「探索」の方法を限定しなければ、狭義での制約プログラミングでは ないものも包含してしまう。例えば問題を連立方程式や連立不等式の組で表現した時の様々な求解アルゴリズムはそれらの中に 含まれてしまうことになるだろう。それらの中で特に、目的関数の値を最適化する変数の組を求める手法は数理計画法と 呼ばれる領域を形作っており、連続変数に対する制約なしの非線形最適化手法であるニュートン法や同じく連続変数に対する 一次連立不等式の制約つきの一次式の最適化手法である線形計画法なども含まれることになる。

線形計画法の求解アルゴリズムとしては非常に長い産業応用の歴史を持つダンツィヒによる単体法や、ひと頃特許騒動で 有名になったカーマーカー法を含む内点法などが有名であるが、これらは汎用の求解アルゴリズムであり、問題を 定義した制約不等式をマトリクス表示した入力を読み取り、目的関数を最適化する変数の値の組をベクトルとして出力する ソルバーが提供されている。これらのアルゴリズムは問題の複雑さに比して高速であり、制約条件を用いて解の存在領域を狭めていき、 効率的に最適解に辿り着くことができるため、大規模な実用的な問題への数多くの適用事例を持っている。

一方で変数の一部を 整数値に制限した混合整数計画問題、凡ての変数を整数に制限した全整数計画も定式化可能であるが、これらは 連続変数における単体法や内点法のような高速なアルゴリズムがなく、分枝限定法、分枝切除法のような枝刈り手法を 用いた探索をすることになるため、線形計画問題に比べて実用的な時間で解ける規模は制限される。その中で、変数を [0,1]のいずれかをとる離散変数(0-1変数と呼ばれることが多い)に限定した上で専用の効率的なアルゴリズムを 用いる、0-1整数計画問題の研究も行われている。

2.3.論理プログラミング

他方で、人工知能研究との関わりで人口に膾炙するようになったProlog言語処理系を代表とする、論理プログラミングと 呼ばれる手法があるが、これは記号論理学における述語論理体系に基づくもので、非常に制限されたシンタクスの論理式 (ホーン節と呼ばれる標準形)で問題を宣言的に記述し、論理式の集合が真になるように宣言中に含まれる変数に値を 付けることにより問題を解くことを実現するものであり、求解にあたっては処理系に組み込まれたバックトラックを 用いた汎用の探索機構を用いる。対象となっている問題領域の違いはあるが、こちらも処理系がソルバーの役割をしており、 解を解く部分をプログラミングする必要がないという点では共通している。

この仕組みは形式的に非常にエレガントであり、非常に汎用的な定理の自動証明システムなのだが、問題の規模が大きくなると バックトラックに頼る探索はすぐに組み合わせ爆発を起こして、実用的な時間での求解が困難になることがしばしばであるため、 実用的なシステムにおいては、問題に合わせて探索空間の枝刈りをする処理を明示的にプログラムしてやる必要がある場合が ほとんどである。既述のように論理プログラミングは人工知能研究に関連が深く、日本でも過去、第5世代コンピュータの 開発プロジェクトなどを通じ、基礎、応用の両方にわたる多くの研究がなされたし、優れたProlog処理系が開発されている。

2.4.制約プログラミング

上述のような手法と区別されるものとして制約プログラミングを狭く捉えた場合、制約プログラミングの特徴は以下のような 点に存するであろう。(a)変数は離散的であるが、真偽の二値を持つ論理変数だけではなく、 有限の領域を持つ領域変数を持つことが多い。(b)制約のシンタクスも論理プログラミングや数理計画法に比べてより柔軟で、 論理的な制約もあれば、算術的な制約もあるし、より高水準の組み合わせ論的な制約(例えばある値の出現回数の制約など)も 可能である場合が多い。(c)制約を充足する変数の値の組を求めることが求解であり、ある目的関数の値の、制約条件下での 最適化のための手法ではない。

制約プログラミングにおける求解アルゴリズムとしては、論理プログラミング同様、バックトラック機構を用いた探索が 一般的だが、制約を用いた自動的な枝刈りの機構を備えており、制約条件によっては効率的な求解が可能である。 しかし組み合わせ爆発の問題の一般的な回避ができるわけではないので、 実用システムでは探索の制御を明示的にプログラムすることが多い。

また、制約毎に充足確率を持った確率的制約プログラミング、制約の充足に優先度を持たせたり、制約を階層化するアプローチ、 あるいは集合に対する制約を扱う演算領域の拡張など、モデルの拡張の提案も多い。一方で制約のシンタクスには形式的な 制限があるわけではなく、どのような制約を扱えるかは処理系に依存しており、上記の手法に比べて形式的に融通が利く一方で、 理論的な解析が困難であるといった研究上の難しさがある。

2.5.SAT

上述の数理計画法における0-1整数計画問題における0-1変数は、真偽の2値を持つ論理変数と等価であるが、 制約プログラミングにおいても変数を0-1の2値変数に制限し、制約式のシンタクスにも制限を加えた上で 高速な汎用アルゴリズムを与えるSATと呼ばれる手法の研究が近年急速に進展している。

高速なSATソルバーの提供が行われるようになってきており、通常の離散有限の領域変数とそれらの間の制約として モデル化した問題をSATに変換し、SATソルバーで解いた後、結果を逆変換して元の問題に戻してやるといった 解き方も可能になっているが、変換にかかるコストが大きいことや、通常の有限領域の変数上の制約として 定義された原問題に対して変換後のSATの問題が極めて大規模になる傾向にあることから、実用上は適用可能な シーンが限定されることも現時点では少なくない。しかし他方で問題の形式が制限されて理論的な解析がしやすいことから、 今後も改善が行われていくものと考えられる。制約充足問題における相転移現象の研究が行われているのも この領域であり、近年注目を浴び、急速に研究が進展している分野である。

2.6.諸手法間の関係

上記の幾つかの手法は、問題を記述する変数の性質や制約式の形式に関する制約が異なってはいるが、いずれも 問題を宣言的に定義し、汎用の求解アルゴリズムを実装したソルバーを提供して、アルゴリズムを明示的に書くのが 困難な問題を解くための手法である点は共通しており、実際に研究において相互に影響を与え合っている。 制約充足問題の汎用ソルバーの中に、上記の様々な手法による複数のソルバーを備え、問題によってソルバーを 使い分けることができるようにする試みも日本国内で既に研究成果がある。

実用的な問題解決の場面でも特に問題が大規模な場合に、幾つかの手法を組み合わせて用いることしばしば行われている。 一般に問題の形式が特に具体的に特定の構造を持つ場合には、それ専用のアルゴリズムを開発すれば良く、 汎用的で遅い方法に拘る必要はない。特に既知のアルゴリズムが知られている形式に現実の問題を帰着させることが できる場合には、既知のアルゴリズムを用いれば良い。いずれの場合でもアルゴリズムの計算量への配慮は必要であり、 規模によって適用可否を見極めて、適切な解法を選択する必要がある。

数論の分野に例を求めると、例えば2つの整数の最大公約数を求めるアルゴリズムであればユークリッドの互除法という O(logN)の高速なアルゴリズムが知られているが、素因数分解は計算複雑性理論上困難な問題であるとされており、 総当りで2から順に√nまでの素数で割っていくという単純な方法では、数が少し大きくなると計算時間が 爆発して実用的ではなくなる(この性質に依拠するのが現在、公開鍵暗号として一般的なRSA暗号である)。 そのため大きな数に対しては、ポラード・ロー法、連分数法、楕円曲線法、各種の篩法など、様々な アルゴリズムが提案されていて、目的に応じてそれらの特徴を見極めて利用することになるだろう。 (例えばポラード・ロー法はフロイドの循環検出法に基づく擬似乱数を用いる確率的なアルゴリズムであり、 実行時間と素因数発見確率がトレードオフの関係にあることが知られていて、対象となる数が素数の場合には 常に失敗することが保証されているが、合成数であっても失敗する場合があることに注意しなくてはならない。)

2.7.量子コンピュータ

一方で、量子コンピュータを用いれば、現在事実上求めることが難しい大きさであっても、遥かに少ない計算回数で 素因数分解を行うことができることが1994年にショアにより示されている。量子コンピュータの研究領域の一つは、 従来、解く事が困難であった問題を少ない計算量で求める手法の研究であり、初期の成果として、探索問題に対する ドイチュとジョサの解法があるのも良く知られている。

量子コンピュータは状態を重ね合わせて持つことができるという量子の性質を用いているのだが、それが候補の状態を 保持できる領域変数の(ごく粗いものではあるけれど)アナロジーになっていて、非常に興味深い。ただしこちらは状態の 重ね合わせを単なるビット列で持つに過ぎないからアナロジーは極めて肌理の粗いものに過ぎないのだが、それでもなお、 量子コンピュータが実用化されることになれば、量子制約プログラミングというのが成り立つのではないかと考えることは できるだろう。例えばセス・ロイドの著作(Seth Lloyd, "Programming the Universe : A Quantum Computer Scientist Takes on the Cosmos", 2006, 邦訳:「宇宙をプログラムする宇宙-いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?」, 水谷淳訳, 早川書房, 2007) を読んで、そういう印象を抱いたことがある。

2.8.制約プログラミング適用にあたっての留意点

制約プログラミングを用いて個別の問題を解くことに話を限定した場合でも、隣接、関連する他の分野においてと同様に、 一つの問題に対する具体的なモデル化や求解のアプローチには多様な可能性がある。また、解かなくてはならない 現実の問題の持つ性質や求解にかけられる時間や求解の目的(例えば充足解の存在の証明か、全ての充足解の列挙か、 好ましい性質をもった充足解を手早く見つけることか、等)や求解のための時間の制限、あるいはメモリのサイズ等の 条件に応じて、変数のモデルを作り、解の探索の制御をしてやる必要がある。問題を分割して一部のみに制約プログラミングを 適用することが必要なケースもあるだろう。

従って、現実の問題を制約プログラミングを用いて解く場合には、 問題を表現する変数を定め、問題の持つ制約条件を変数間の制約として記述するモデリングの作業と、問題を解く求解 アルゴリズムに対して、実用的な時間で必要な答えを得るための探索の制御を決める作業が重要であるということになる。

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3.制約プログラミングの運指決定問題への適用

3.1.一般の運指決定問題の場合

今回の問題である「和声平均化旋律」における運指の自動決定は、それでは制約プログラミングに適した問題なのかと言えば、 恐らく答えはYesであろうと考えられる。まず一般に運指というのは、(今回は適用される楽器がアコーディオンで あることから)例えば対象を右手の5本の指に限定したとして、楽譜に記載された音を5本のどの指に割り当てるかを 決める問題である。親指から小指までの指に1から5の番号を付与すると、記譜された音毎に1~5の数のどれかを 割り当てる問題として形式化するのは直感的にできるだろう。そして、(例外がないことはないが)1本の指では 1つのキーしか押せないとか、指が広げられる音程の幅の条件、同時にキーを複数の指で押し下げる際の制約、 時間方向の変化に対して、演奏可能なように指を割り当てる必要がある、といった様々な条件を、楽音毎の割当られる 指番号の変数間の制約として記述してやればいいことになる。これは典型的な離散的組み合わせ問題であり、 しかも有限整数領域の領域変数と変数間の制約によって記述できるから、一般に運指の問題は、上述の狭義での 制約プログラミングに適した問題であると、まずは言っていいように思われる。

3.2.「和声平均化旋律」における運指決定問題の場合

更に「和声平均化旋律」における運指への適用を考えると、既に述べたように、「和声平均化アルゴリズム」では、 一つのピッチを実現するためのキーの割当の候補が複数ある点が、通常の運指の問題と異なる部分である。 つまり例えばMIDIコードの60のピッチを実現するための手段は、60のピッチのキー一つを押し下げること以外にも、 59のキーと61のキーを同時に押し下げるなど、複数の選択肢が存在しうるのである。従って実現されるピッチをではなく、 ピッチを実現するために使用するキーの組み合わせと押し下げ・解放のタイミングを記譜したものが楽譜であるとするならば、 「和声平均化アルゴリズム」を用いて或る一つの旋律を実現する場合、楽譜そのものが複数存在しうることになる。

3.3.楽器の特性と運指の制約

これは鍵盤楽器では通常はありえないことであるが、例えばヴァイオリンでは、ある単一の音を4本ある弦のどれを用いて 出すかについてはG線でしか出せない低音と、E線でしか出せない高音を除けば一般に選択肢が存在するから、 寧ろそちらを思い浮かべればいいのかも知れない。ただしヴァイオリンの場合には弦によって音色の特性が異なるから、 逆にどの弦を用いて演奏するかが予め指定されていることがありうるのに対し、「和声平均化旋律」の場合にはそうした ことはないから、同一ピッチの実現に対して複数存在するキーの組み合わせの候補の選択は、純粋に運指のし易さの 観点から選択すれば良いことになる。

一方で鍵盤楽器であっても、ピアノのようにキーを押し下げ続けなくても打鍵の残響の効果が残る打楽器的な楽器もあれば、 オルガンやアコーディオンのように、指を離せば音が出なくなる楽器もある。 更に「和声平均化アルゴリズム」を用いる場合には、複数の指によって或るピッチを生成する際に、或る指が遅れたり、 或る指だけ早く離してしまえば、そこで音程の変化が生じてしまうことになるから、記譜された音の持続を正確に実現できる ような運指を選択する必要がある。

また音程の跳躍に対応するポジションの移動は、記譜上は記載されていなくても音と音の間に極小幅の休止が存在していることを 前提としているが、「和声平均化旋律」が演奏対象として典型的に 想定している楽曲は、音程の変化や揺らぎを含み持つ長大なフレーズを、途中ほとんと息継ぎなしで一息に歌う必要があり、 その区間内の音の変化は、いわば(弦楽器であればポルタメント奏法によって)連続的に変化するように補間されていると 見做さなくてはならないから、その区間内では全ての指が同時に離れる瞬間を生じさせることなく、ポジションの 移動が必要な大きな音程変化に対しては、親指を潜らせることによって実現する必要がある。

更に一般には、同じピッチを 実現するキーの組み合わせが複数あるとき、同時に使うキーの数は少ない方が、複数使う場合には、ピッチ幅が狭い方が 演奏の困難さが低くなると考えられるが、例えば同一音が持続している区間に1/3半音の「うなり」が入るような場合、 「うなり」を実現する運指を考えたときに、あえて半音を2つのキーで実現して、もう一つのキーを追加して1/3半音の 変化を実現した方が人間にとって自然な運指になるといったような条件もある。

これらの条件が、1つのキーを複数の指で押すことはないといった自明の制約、1本の指では同時に1つの キーしか押さないといった基本的な制約、親指以外の指どうしが交差することを禁じる制約、親指を潜らせる ポジション移動時には、親指のみがキーに割り当たるといった制約に加えて、指を広げられる幅や指を潜らせるときの 幅といった、奏者の身体的な条件にも依存するパラメトリックな条件ともに運指の制約条件となる。

3.4.前処理としてのピッチの離散化による規格化

一方で、連続的な音高の変化を、弦楽器のようなグリサンド、ポルタメントによって自然に実現するのではなく、 離散化された音高しか持たないキーボードで実現する場合、「和声平均化アルゴリズム」を用いて微分音程を 実現する場合であっても、連続的なピッチの規格化による離散化のプロセスが、いわば前処理として必要になる。

例えば同時に押し下げする指の数を3つまでに限定した条件下では、「和声平均化アルゴリズム」の下で 実現可能な微分音程は1/3半音,1/2半音に限定される。従って、実現されるピッチの系列は、半音、1/3半音, 1/2半音の微分音程を用いた系列に離散化してピッチを規格化する必要が出てくる。

3.5.時間方向の離散化(量子化)の問題

上記以外にも、制約プログラミングで解を求めることができるようなモデルに現実の問題を適用するにあたって 問題になることはある。例えば、サンプリングした歌唱を解析してピッチの系列を求め、それに対する運指を 自動決定する問題を考えてみよう。

キーボードでの演奏を前提にしている以上、既述の通りのピッチの離散化・ 規格化も必要だが、時間方向の量子化もまた必要になる。1ミリ秒毎のピッチ変化をサンプリングしたデータが 与えられたとして、このピッチ変化を忠実に楽譜化しても早すぎて人間には演奏不可能である。そこで人間が 演奏可能な単位にまで、時間軸の変化を量子化してやる必要がある。

このとき単純に区間内のピッチの算術平均を その区間の代表ピッチとして計算してしまうと、もともと区間内に含まれていた極小値・極大値といったピークを 平滑化してしまう。特に同じ音高がしばらく持続している最中に、1/3半音程度の「うなり」が挟まっている場合にも 算術平均をしてしまえば、「うなり」は制約プログラミングで運指を決める以前の段階で喪われてしまい、 そもそも入力データの中には存在しないことになってしまう。

3.6.実際に構築したモデルの概要

そこで今回は、与えられた10ミリ秒単位のサンプリング結果を入力として受け取り、演奏可能な区間(概ねMM.4分音符=60で 32分音符相当)で量子化し、1/2半音、1/3半音までを許容する前提でピッチを離散化して規格化された入力ピッチの系列を計算し、 このピッチを実現する区間内の算術平均を取るのではなく、極値を取って区間の代表値とすることにした( 極値が複数あれば、再び、今度は極値間の算術平均をとる)。ピッチの規格化にあたっては、同じ音高が(概ね4分音符 1つ程度)しばらく持続している区間については、1/3半音として規格化する幅を広めにとって、変化の乏しい区間には 「うなり」を取り入れられるようにした。

その結果求まったピッチに対して、一般に複数存在するそのピッチを実現するキーの組み合わせ候補の中から、 既述の運指の制約を充足するようなキーの組を選ぶわけだが、これについても同じ音高が(概ね4分音符 1つ程度)しばらく持続している区間については、「うなり」の演奏に配慮して、半音を2つのキーの組み合わせで 実現することとし、その他の区間では、特に音程変化が激しく、親指を潜らせることによるポジション変更に 配慮して、半音はキー1つ、2つの候補のいずれかを選択できるようにし、1/2半音、1/3半音ともども、指を拡げる 幅の最大値の範囲内で可能な全てのキーの組み合わせを候補として、3.3.に記載したような制約の下で条件を充足する 運指を探索させることにした。モデル上、運指の探索はサンプルされた音の系列が持っている時間の方向に対して 対称性を持っているので、時系列に対して順方向、が逆方向の探索を行わせることができる。これが認知的に妥当か どうかは別に議論があるだろうが、J.S.バッハの対位法的作品においては作品自体が逆行、反行、蟹行等の対称性を 備えている場合があり、一般に楽譜を後ろから逆向きに演奏することがないからといって、必ずしも運指の決定自体が 音楽の流れの方向に対して非可逆的であるとする根拠はないとは言いうるように思われる。

3.7.求解実験の概要

上記のように構築したモデルに基づき、C言語でプログラムを作成した。制約処理系としては、日本国内で開発され、無償で 利用できるC言語ライブラリとして提供されている(株)NTTデータセキスイシステムズのiZを用いた。検証は フォルマント兄弟より提供された約40秒の持続を持つ山唄のサンプリング結果を入力として実施した。 最初に求まった制約充足解を結果として採用することにし、規格化・量子化などの条件を変えて幾つかの問題を 解かせた。各問題における制約のhardnessにより計算時間は様々だが、概ねIntel Celeron 1.4GHz、RAM896MのPC上で、 数秒以内に答えを得ることができている。(例を含む詳細な結果は、研究成果報告等で別途なされるので、そちらを参照されたい。)

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4.成果と今後の展開

4.1.成果

上述の通り、「和音平均化アルゴリズム」における運指の決定を自動的に行うために、制約プログラミングを 適当できるかどうかの検討および検証を行い、短期間で現実の課題に対する運指案を自動作成することができた。 制約プログラミングの長所として、問題の直感的なモデリングが比較的容易で、かつ求解をするプログラムの プロトタイピングが短時間で書け、比較的短期間のうちに必要最低限の制約を実装して、実データを用いた検証が 開始できるという手軽さがある。今回も基本的なプログラムの完成までに2日、その後、不足していた制約の 追加を数回繰り返し、都度検証を行った。本問題の解決手法として制約プログラミングが 有効であることは示すことができたのではないかと考えている。

4.2.課題

一方残された課題も多い。これまでは制約条件の抽出については明確な方法論によることなく、経験的に 思いつく条件を追加しては改良する手法で進めてきたが、現時点で一定レベルの解が得られるようになったことを 踏まえ、制約条件や解の探索の手法について、より自然な解が得られるように改善を継続するためには、 運指の制約条件について体系的に整理をし、ルールを詳細化していく必要がある。

他方で、規格化・量子化の後の運指を決める制約充足解を求めるプロセスのみに限定しても、特に短時間に ピッチの大きな変動が起きて、手のポジションの移動が生じる部分については、親指を潜らせる運指を許容して 制約非充足になることを回避しているが、問題によっては探索が効率的に行なえずに現実的な時間(例えば 数秒)で解が求まらない場合もある。これは現時点では探索戦略が、時間に対して正順・逆順といった単純な ものであることが原因と思われる。人間が運指を決めるときも、(特に本件のように、人間の生理に必ずしも 従わない、いわゆる「ピアニスティック」でない音の並びの場合には)運指が困難な場所を試行錯誤的に検出して、 そこから解いていくようなやり方を採っているもの思われるため、そうした点に配慮した上で、更なる探索戦略の 改良が必要である。

4.3.確率的手法との組み合わせの可能性

今回取り上げた運指決定問題についても、制約プログラミングのような決定的な手法だけでなく、 統計的な手法を用いることが可能だろう。もっとも、上でも述べたことだが、制約プログラミングと統計的な手法は 相容れないものであるわけではない。例えば制約プログラミングで制約充足解を探索する際に、より好ましい候補を 優先的に選択するために、ピッチの遷移仮定毎に運指の候補の選好度を統計的な手法で求めておき、それを用いて 探索をするといったような手法も考えられる。また、長いピッチの系列の運指を決める際には、運指上の制約が大きな 部分から先に決めていくことで効率的な探索を行うことができるが、そうした求解の困難さについても統計的な 手法との組み合わせによって評価を行えるようにすることが考えられる。

更にはモデル化プロセスにおいて決定的な手法の持つ、全てを明確にルール化して記述しなくてはならないという 実用上の問題を、統計的手法を用いて解決していく方向性(その延長線上に、機械学習の適用等も含まれる) もまた、その必要に応じて検討すべきだろう。

4.4.他の問題への適用可能性

"The Computer Music Tutorial"にも紹介されていることだが、制約プログラミングのコンピュータ音楽に対する 貢献は、今回適用を試みた運指の分野よりも、主としてアルゴリズミック・コンポジションの領域で和声法、対位法、 音楽の文法(従来、楽式論で扱われていた形式にたいする工学的なアプローチ)などを中心になされていることがわかる。 今後は、運指決定について更に改善を加えていくのは勿論だが、アルゴリズミック・コンポジションの他の領域への 制約プログラミングの適用を検討していくことも方向性の一つではないかと考える。

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5.関連する諸領域の概観

本稿においては制約プログラミングを「和音平均化アルゴリズム」による微分音程旋律の運指をコンピュータによって 決定する手法の基盤として用いた事例を紹介した。だが制約プログラミングを包含する制約充足のパラダイムは コンピュータ音楽に対してプログラミングの手法を提供するに留まらない。

以下では制約プログラミング、あるいはより一般に制約充足のパラダイムが関連する他の領域のうち、フォルマント兄弟や三輪さんの活動に 対する関連を持つと思われるものを幾つか指摘することで、非常にラフではあるが議論のための見取り図を提示することとする。

(A)デイヴィッド・K・ルイスの「根元的解釈」

例えば、分析哲学の領域において 可能世界意味論の形而上学的解釈の非常に強い版である様相実在論=多重世界説を唱えたデイヴィッド・K・ルイスは、 一方で「根元的解釈」を制約充足問題と特徴づけ、志向性の帰属は物理的事実といくつかの帰属原理という制約に対する最適解問題である としている。制約充足のアプローチを認識論的な場面に適用するならば、世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を 候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、物理的事実を条件づけている制約を充足するように 変数の値を確定していくプロセスをモデルとして提示していると考えることができる。ルイスはまた、「反事実的条件法」 (Devid K. Lewis, "Counterfactuals", 1973, 邦訳:吉満昭弘訳, 勁草書房, 2007)に見られるように、 ヴァーチャリティに関する理論的枠組みとして、可能世界の集合、および集合の集合を割り当てる圏域体系を用いている。

なお様相実在論における可能世界という形而上学的な道具立てと、例えば量子論の多重世界とは区別されるべきであり、 両者は混同されるべきではない。前者においては現実世界と因果的に全く独立しており、現実世界で 成立しているヒューム的スーパーヴィニエンスは現実世界とその近傍の類似性をもつ可能世界に関する局所的で偶然的な原理 に過ぎず、物理法則が成り立たないような可能世界があっても構わない。だが寧ろそれゆえに、「音楽芸術」のような、人間の想像力が 及ぶ限りのヴァーチャリティに深く関わるものを扱おうとしたときに参照可能な理論的枠組みとしては有効であろう。他方、理論物理学に おいても物理法則がどこまで普遍的なものであるかに関する議論があり、別段、別の世界を持ち出さずとも、この世界の始まりには、 現在成り立っていた物理法則が成立していなかったという理論が提唱されていることにも留意しておくべきだろう。

(B)ジャン=ピエール・デュピュイの「賢明な破局論」

ルイスの反実仮想性に関する議論を導きに、過去から未来へと推移する「歴史の時間」に対して、「投企の時間」の形而上学の可能性を 示し、因果的な連鎖の推移する時間に対する逆流として、可能態としての破局の予測を位置づけるジャン=ピエール・デュピュイの試み がある。彼は従来確率論やゲーム理論の枠組みで構築されてきたリスクの理論を補強することによって原子力発電所の事故などのリスクに 対する倫理的思慮の基盤として援用することを目指す「賢明な破局論」を構想している。(Jean-Pierre Dupuy, "Quand l'impossible est certain : pour un catastrophisme éclairé", 2002, 邦訳「ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて」, 桑田光平・本田貴久訳, 筑摩書房, 2012)

(C)フッサール現象学の可能世界意味論による解釈(ヒンティッカ)

可能世界意味論は、例えばヒンティッカによって為されたフッサール現象学の志向性理論の可能世界意味論による解釈( 「志向性と内包性」(Jaakko Hintikka, "Intentionality and Intensionality", 1975)を参照せよ)などを通じて、 現象学的な枠組みとの関連付けを試みることが可能である。 特にヒンティッカがフッサール現象学における志向性を内包性の観点から捉え、概念が志向的であるのは、それがさまざまな 可能的な事態ないし出来事を同時に考慮することを含むとして可能世界意味論による志向性の論理学の構築を試みている点、 とりわけその中では、対象の「超越」が我々の信念と両立可能な可能世界の多様性、 すなわちその対象が要素となっている可能世界の多様性の無尽蔵さと関連づけられている点は注目されて良い。更に言えば、 ヒンティッカが上掲論文中で芸術的創造に関する節を設け、芸術的創造行為をもその対象としていること、しかも芸術的 創造を従来の「目的論的」な解釈の反例としてあげ、志向性概念の目的論的説明を代替するものとして可能世界意味論を 提示している点は、ここでの文脈において重要な意味を持つ。

(D)プロセス形而上学(ホワイトヘッド)における「生成の自己超越」

世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、 物理的事実を条件づけている制約を充足するように変数の値を確定していくプロセスは、ホワイトヘッドのプロセス形而上学に おいては「生成の自己超越」のプロセスに相当するから、ホワイトヘッドのプロセス形而上学における抱握(Prehension)の理論を 制約充足のプロセスとして読み直す可能性が示唆されるだろう。

遠藤弘は「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」(2000)において、 ホワイトヘッドの形而上学と場の量子論の関係を論じており、波動関数による存在確率の波の収縮を生起が自己を 超越するときに起きるものとしているが、多重世界説については、それが観測問題に関わる限りにおいて、一つの観察者たる 主体が多くのホワイトヘッドにおける「半影」を思い描くものと捉えるとすれば、「半影」(penumbra)の部分を次の生起がどれだけ 取り入れるかによるとしている。ここで「半影」とは与件の周辺につきまとう実現されなかった「永遠的客体」(Eternal Object)のことであり、 過去の生起と潜勢態とがコントラストをなして、次の感受のための誘因(lure)として機能するものである。フッサール現象学的な 意味合いでの対象の超越はわれわれの信念と両立可能な可能世界の多様性、すなわちその対象が要素となっている可能世界の 多様性の無尽蔵さであるが、これは与件の周辺につきまとう実現されなかった永遠的客体である「半影」に対応している。

ホワイトヘッドのプロセス形而上学の枠組みは極めて一般的なものであり、その図式は非常にミクロな事象を扱ったものである 点には留意すべき(従って「自己超越」という言葉を、人間化して理解するのは一旦は留保すべき)であるが、その一方で、 人間のような、高度な意識を持つ結合体(nexus)におけるマクロな事象の水準との連続性もまた存在する。自己組織化過程に おける上位の階層での新しい法則性の創発があるとはいえ、自己再帰的なアナロジーが成立する部分もまたあるのである。 (ここで量子論やエントロピーの保存則に関する「観測」についての議論が、意識的存在者である人間による観測から、「機械」による測定を 経由して、ミクロレベルでの観測の対応物に辿り着いていることを想起されたい。)そしてその限りにおいて、そうしたマクロな秩序の、 しかも歴史的・偶然的な産物に過ぎない「人間」であるわれわれの経験は、自己超越により可能世界の集合を制限することはできる (というか、制限してしまう)が、他方で超越的対象のそうした「半影」を取り込んでしまう程度に応じて、主体の思い描く像は 多重世界とならざるを得ないのである。

一方、主体が複数あったときに、その主体の歴史的経路(historical routes)を積分すると、その値は各主体に 分散してしまうという意味でのモナド論的とでもいうべき存在論的水準での多重世界というのを考えることもできる。 そして、デイヴィッド・K・ルイスの様相実在論との関わりではこちらの方が一層興味深い(例えば可能世界の因果的独立性を、 同時に存在する主体の相対論的な意味での因果的独立性から導くことができる)。だがこの点を主題的に扱うのは 本論の射程を離れることになるので、ここでは示唆に留めざるを得ない。

(E)量子論における「多重世界説」

そしてまた、上のような議論を踏まえてみると、量子における複数の状態の重ね合わせによって多重世界=「半影」が 成り立っており、観測とは周囲の環境が量子系の情報を得ることで量子の波動性を破壊するプロセスに他ならず、 量子論的な重ね合わせの状態から古典的な確定した状態へと自己超越するプロセスであると記述できる。 であれば、まさに2.7.において言及したセス・ロイドの著作に出てくる量子コンピューティングと、制約プログラミングの モデルとの間に感じ取れたアナロジーも見かけほど突飛なものではなく、寧ろ従来のコンピュータではなく、 量子コンピュータこそが制約充足パラダイムがより十全なかたちで実現できる基盤であると考えることも可能なように思われる。

*   *   *

6.おわりに

6.1.人間のための、だが人間の自己超越としての「音楽」

音楽だけが、というわけではないが、少なくとも音楽は優れて人間のためのものである。それは三輪さんのように、 コンピュータのようなメディアを獲得して後に、アルゴリズミック・コンポジションという、一旦あたかも 最も人間から離れた地点で音楽を思惟する人が、逆シミュレーション音楽という、もしかしたら今日、音楽が そうでしかありえない地点を、ぎりぎりまで抽象したかたちによって作品を産み出しつづけるその成果によって、 それまでになかったような説得力のある仕方で証されたことである。

そうした地点から、かつての音楽、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない 音楽作品とその演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に 属する人間が作曲し、記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に 終わった作曲を、別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、 自分のできる仕方(それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、 そうした人間の営みによって、音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、 そうした自分という或る種の制限、檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも 関わらず、その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて未知の 知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、私のようなちっぽけな 人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。

勿論、それは常に生じるわけではなく、ごく限られた作品のごく限られた演奏であるのだが、その狭さが私という 個体のフィルターの限界によるものであることはほぼ疑いないことであるのに対し、その強さは私の容量を常に 圧倒的に超えてしまっていることが感じ取れる。 それはまさにカントが「判断力批判」において、あるいはヘーゲルが「美学」において「崇高さ」に割り当てた性質と 極めて類似した何かを備えているようなのだ。そこには「人間」のための音楽が、「人間」を介して、「人間」を 超越していく、と同時に「人間」もまた自己超越していくという逆説を見出すことができるだろう。

6.2.数理の世界と「計算する宇宙」

その一方でもちろん人間は、数理の世界の風景に圧倒されることもできるし、そこにも美を感じ取ることができる。 否、人間達の社会よりも寧ろ、数理の世界の中でより一層自由に動き回ることができるように自分のことを 感じる人間にとって、共感覚者が数字に色を見たりするのとさほど違わないメカニズムによって、 抽象的な空間の起伏を感じ、道なき道を見えない手によって導かれ、次の角を曲がったときに遭遇する 何かを予感し、慄くこともあれば、慰めを感じることすらできる。

想像力、あるいはカントにおいては構想力と訳されることもある 能力によって、多様な選択肢の中から新しいタイプの出来事を出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、 ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた物理学的、化学的、生物学的、 社会学的過程を支える数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が 生成しうるような仮想的な場を用意することが作曲であるとするならば、それは制約プログラミングのパラダイムによる 問題解決とのアナロジーが成立するプロセスであるという感覚から私は逃れることができない。そのアナロジーを支えるのは、 そうした人間の営みそのものが、複雑な世界を創ることのできる「計算する宇宙」の一部であるという事実に根ざしており、 そしてそれらの作製のプロセスを捉えるフレームとしての制約充足のパラダイムなのではないか。

6.3.アルゴリズミック・コンポジションと制約プログラミングとの並行性

そうした展望を踏まえた上で言えば、「和声平均化アルゴリズム」による運指の自動計算という問題に対する 技術的な解決手段としても勿論制約プログラミングは有効だが、それ以上に、音楽と制約プログラミングを用いた 問題解決に、より本質的な並行性があることを感じずにはいられない。

制約プログラミングに基づいて自動計算された運指に従い人間が演奏をすることと、アルゴリズミック・ コンポジションによる作品を人間が演奏することとの間には、 前者が人間の身体の構造上の生じる条件を制約として、それを充足する運指を計算しているのに対し、後者は 「逆シミュレーション音楽」が鮮やかに証しているように、「計算する宇宙」の数理的な秩序に対して「由来」を 与えることにより、誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙(ただしその宇宙は 「計算する宇宙」そのものである)を想起させるための儀式たることを目指しているという差異を 捨象すれば、形式的な水準での違いはないと言って良い。(そして制約プログラミングによる問題解決の 他の場面での適用、要員配置計画、設備利用計画etc.との違いもない。)

勿論、その差異にこそ「音楽」の意義が賭けられているのであるが、「音楽」もまた「人間」の尺度から 自由ではないことを無視してはならない。それは「計算する宇宙」の数理的秩序の、人間の尺度における 反映であり、「計算する宇宙」そのものの一部である「人間」という領域における自己再帰的な実現なのである。

制約プログラミングによる問題解決をしていて強く感じるのは、問題解決のための現実を抽象化して作成されたモデル自体は モデル化の出発点であった現実からの意味づけを離れてしまえば単なる数理的な構造に過ぎず、だからそれは他の問題を 解く事にも利用しうるものであり、モデルが何を意味するかは、それを利用する人間の側が付与するものに過ぎない、 ということである。

その一方で、計算というプロセスは、それがこの宇宙で生起する限り、完全に抽象的なものではない。計算もまた、 物理的プロセスに他ならず、シミュレーションは或る意味で、シミュレートされる対象である現実と類似した構造を備えた、 並行した、別のもう一つの現実である。裏返せば、対象となっている現実もまた、シミュレーションと並行した 計算であると見做すことができるだろう。当然のことであるが、チャールズ・ベネットが言うように、 そもそも計算機もまた物理法則に従わざるを得ないし、計算の原則は人間が勝手に選べるわけではないのである。 (ちなみにドイチュが量子コンピュータを発想したのは、この発言をきっかけであり、またドイチュは量子論の多重世界説に 関心を持っていたとのことだ。)

このように考えたとき、制約充足による問題の解決とアルゴリズミック・コンポジションによる作曲という行為の間の並行性は 一層明確なものとなる。両者はともに、デュピュイの言う「投企の時間」性を備えたものである。それらはいずれも人間の 「自己超越」と関わっているのであり、それは論理学的な意味で偶然的な、ある歴史的文脈の産物に過ぎない「人間」概念 自体の(自己)更新にさえ関わりうるのである。

常には芸術とは縁遠く、 産業応用の場面において用いられる制約プログラミングさえ、それを用いた各種計画の自動作成の開発においては、 人間の計画立案者の感性に寄り添うことがしばしば求められる。しかし現実には、完全に人間の計画立案者の代替と なることはない。その差異には人間の犯すミスをすることがないという実用上のメリットの側面もあるが、 研究目的であればともかく、実務上開発されるシステムでは人間の臨機応援さには所詮は及ばないという側面もある。 しかし、特に興味深いのは、そのいずれでもなく、完全に制約充足解でありながら、人間には思いつかないような 解を機械が求めることがしばしば起こるという点である。人間の感性に寄り添いつつ、人間の計画作成プロセスを 一旦機械に置き換える作業の過程において、人間のやっていること(計画作成の対象となる作業と計画作成作業自体の両方)を、 暗黙の裡に排除して「やっていないこと」をも含めて、程度の差はあれ浮かび上がらせてしまうことになり、その結果が (機械が作成した計画に従って計画対象となる業務が遂行されるという意味と、開発において獲られた知見に基づいて対象となる業務の プロセスを改善するという意味の両方において)現実のプロセスにフィードバックされるという事態が起きるのである。 一般には産業応用のプロセスでは目的論的な発想が強く求められ、制約プログラミングを用いて開発されるシミュレータ、 スケジューラは道具としての性格を持つものと規定されてしまいがちだが、実際のプロセスを振り返ってみると、 それは必ずしも目標の設定と達成といった図式に収まりきらない側面を持っており、しかも逸脱する部分こそが 本質的な寄与を為すこともしばしば起きるのである。

そしてこうしたことは、ヒンティッカの述べる通り、「芸術的創造活動」においてはより一層本質的な側面となる。 実際、「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」という、題材それ自体は工学的でもありうる可能性を 持ちながら、あえて美学的なアプローチを試みたフォルマント兄弟の今回のプロジェクトでも並行的な事態が生じているのを、 協力していく過程で私は間近に経験することができたので、これについては節を改めて証言をしておきたい。

6.4.兄弟式MIDIアコーディオンはヒューマン・インタフェースなのか?

それは事後的に見れば、冒頭に述べた「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」の「国際化」規格の成立プロセスのでのことであった。 実は「国際化」も、少なくとも当初はそれ自体が目的ではなかったと記憶しているし、結果においてもそれは単なる「国際化」には 留まらなかった。 その背景についてはフォルマント兄弟自身から説明があることと思われるので詳細は割愛するが、当初の五十音表に沿った、 或る意味ではわかりやすく、操作上も1モーラ1ボタンで済ますことができるインタフェースから出発して、 1モーラにつき2つのボタンを必要とするという演奏技術上の困難さと引き換えに、子音単独の発声や中間母音の発声を 可能とすることで、結果的に日本語の歌詞をピッチつきで「歌う」ためのインタフェースから逸脱し、寧ろ人間が生物学的に 備えており、発声・歌唱に用いている器官の代補をする補綴器官を、生得的な器官を操るのとは全く異なった仕方で操る ためのインタフェースとでも呼べるものが獲得されたのである。つまり「国際化」規格は、同じ「MIDIアコーディオンによる 合成音声の発話及び歌唱のインタフェース」でありながら、その内実や射程において全く異なるものであり、 MIDIアコーディオンの存在自体を道具としての「楽器」から、或る種の「器官」の延長へと変えてしまったと言いうるように 思われる。従って私見では明らかに、兄弟式MIDIアコーディオンは単なるヒューマン・インタフェースではないのである。

それはもともとは、最初のインタフェースにおける、常にモーラ単位で音声を合成することに起因する 「不自然さ」(子音から母音へのわたりが制御できないなど)などの技術上の問題の解決の選択肢の一つであった。 だが、或る種の精度向上が意図されていたのだとしても、規格化され、平均化された歌唱を目指すというよりは、 「自然さ」を背後で支えている「音楽」における規格化しがたい部分を捉えようとするフォルマント兄弟の一貫した 志向に拠るものであり、「和音平均化アルゴリズム」が微細な音程のゆらぎを実現するための手段として考案されたのと 軌を一にするものであることに注意すべきだろう。

そしてそれは意図せずして、「歌」と叫びや囁き、唸りや喘ぎといった感情表現との連続性を浮かび上がらせることになり、 「歌」における「言語」に先立つ領域を照らすものとなった。しかもここでは生得的な固有の器官ではなく、本質的に 固有性を持ち得ない、「誰のものでもない」声が身体性や人格・個性といったものと不可分のものであると見做されるであろう 「表現」を行っているのである。私にはこうした「事実」を述べるのが精一杯で、到底そのポテンシャルを汲みつくすことなど できないが、別のところでも述べたように、この試みが単なる補綴性すら超えて「ありえたかも知れない未聞の種族の 音楽を仮構すること」へと通じ、その射程は美学的な側面に留まらず、倫理的・存在論的な次元にまで及ぶであろう点と、 こうした展望がまさに自動音声合成による歌唱を追及する試みの中でこそ可能になった点は強調しておきたい。

そのことは、一見現実から 遊離した無力な存在に見做される「音楽」が、しかもその中でも一見したところ人間的な感情から最も遠いところにあるかに 見えるアルゴリズミック・コンポジションによる「逆シミュレーション音楽」や自動音声合成による歌唱を追及する試みが、 まさに最も人間的と見做されるであろう「音楽」を、あえて「機械」を経由させることによって、「音楽」自体に留まらず、 「音楽」を含めた現実に対する批判的なポテンシャルを獲ていることを確認させることであった。 そうした迂回路を経たシミュレーションによって生じるヴァーチャリティから、危機的な状況にある現実に対抗し、 現実を変化させるリアルな力を汲み取っているのである。更に、そうした作業を可能にするのと同じ「想像力=構想力」が 危機的な状況における倫理的思慮の基盤であることがフォルマント兄弟の活動や三輪さんの活動から強く示唆されるのである。

6.5.むすびにかえて

安易なアナロジーは欺瞞的な結果をしばしばもたらすが故に慎重であるべきだろうが、セス・ロイドのように 宇宙を情報処理機械と見做す発想に基づくならば、制約充足のパラダイムの持つ展望は非常に大きなものがあるように思われる。 そしてそうした枠組みの中で改めて人間について考え直すことこそ、メディアに取り囲まれ、浸食されてかつての 定義から異なったものへと変容しつつある今日の人間、あるいは三輪さんが「感情礼賛」において「夢に見た」ような、 あるいはレイ・カーツワイルのような技術的特異点論者が特異点の後に予見するポスト・ヒューマンの世界(Ray Kurzweil, "The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology", 2005, 邦訳:「ポスト・ヒューマン誕生: コンピューターが人類の知性を超えるとき」, 井上健監訳他, NHK出版, 2007)を意識した上で、現在における「人間」と音楽との 関係を問い直すことに挑んでいるフォルマント兄弟や三輪さんの試みに応答することであると私は考える。

以上のようなことから、より広く、フォルマント兄弟や三輪さんが取り組むべき 課題と捉えておられる事象を記述するためのフレームとして、あるいはフォルマント兄弟や三輪さんの活動も含めて、 音楽に纏わる過程の全体を眺める際のフレームとして、更には制約プログラミングによる問題解決という行為自体をも アナロジカルに捉えるためのフレームとして、制約充足のパラダイムの適用可能性を探っていくことは意義のあること ではないかと思われるのである。(2014.2.2初稿, 2.9, 11改訂, 2.11公開, 2.14, 2.19加筆・修正)

[謝辞]

本研究への協力の機会を作っていただくのみならず、モデルの構築・改善にあたっての助言、検証にあたっての 実データの提供や結果の検証や音声化などを通して支援して下さったフォルマント兄弟に感謝します。