2025年11月18日火曜日

「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」におけるポリフォニーの実現についての分析

 本稿では「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」において、状態遷移規則に従って変化していく状態がどのようにポリフォニーに変換されているかについて分析した結果を報告します。「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」は、2025年10月30日に豊洲シビックセンターホールにて、作品の委嘱者であるヴォクスマーナにより初演された、6人の女声歌手と3人の男声傍観者のための作品です。初演に接した記録については、別稿「「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」初演を聴いて」として公開しているので、そちらをご覧頂ければ幸いです。本稿では、分析の対象である作品の構造について、分析の説明上必要な範囲に限り言及することとさせて頂きます。ここで言及されている内容が作品の全てではなく、その一部に過ぎず、この分析は作品の或る側面に照明を当てることを試みたに過ぎません。作品にはここでは言及しない重要な側面が数多く存在することに留意の上お読み頂き、一見すると禁欲的でシンプルにさえ感じられる作品が繊細で豊かな多様性を含み持つことをお伝えすることができたならば、本稿の目的は達せられたことになります。


1.状態遷移規則について

この作品で用いられている状態遷移規則は、3つの状態(以下、{0,1,2}とします)を持つ3進数の変数7つに対して定められたものです。7つの変数は、作品上演にあたり舞台中央に円陣を作って坐る、指揮者1人と女声歌手6人に割当られます。

状態遷移規則は、三輪さんの多くの作品で用いられている(一例だけ挙げれば、「ごはんのうた」と同様、藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」に基づく作品である「59049年カウンター」もそうです)「蛇居拳算」です。「蛇居拳算」は、相手の値と自分の値が同じであれば同じ状態を保ち、異なれば、相手の状態とも自分とも異なる第3の状態に遷移する規則ですが、ここでは演算の相手となるのは、円周上で時計回りに3つ先の奏者です。演算は時計回りに1ステップずつ行われ、7ステップで1ラウンドとなります。

指揮者を起点にして、円周を時計回りに指揮者(C)の右隣の歌手が最後になるように各奏者(f1~f6)の状態に対応する変数を並べて1行とし、各ステップの演算によって得られた次の状態を1ラウンド分(=7ステップ)並べていくと、例えば以下のような系列が得られます。下線付きボールドが演算主、下線なしボールドが演算相手、斜字は演算結果によって前の状態が更新された後の新しい状態を表します。なお、以下の例の初期状態からの状態遷移系列は、実際に作品で採用されているものです。

[C f1 f2 f3 f4 f5 f6]  = [2 2 1 0 2 1 0](初期状態)→[1 2 1 0 2 1 0] → [1 2 1 0 2 1 0] → 

[1 2 1 0 2 1 0]→[1 2 1 0 2 1 0]  →[1 2 1 0 0 1 0]→[1 2 1 0 0 0 0]→[1 2 1 0 0 0 2]→ …

この演算規則によれば、演算主と演算相手が同じ状態だと値が変わらないため、前後のステップで全体として同じ状態のままである場合があること、変化が起きる場合でも、それは必ずどこか1箇所に限られることがわかります。

一方、この状態遷移系列は、それがそのまま音響的なパターンの系列ではなく、変換規則に従って状態遷移系列に対して旋律ないし行為への対応づけが行われることで音響・行為の実現の仕方が決定されます。以下では、まずは旋律および行為のパターンを示し、続けて変換規則を示します。


2.旋律および行為について

旋律および行為のパターンは4小節からなり、1ステップで1回歌唱・行為が行われます。各奏者の状態は、上述の演算規則により7ステップ=1ラウンドにつき1回だけ変わるので(変わらない場合もありますが)、4小節のパターンが7回繰り返されることになります。女声歌手のパートとして4種類の異なった旋律が、傍観者のパートとして3種類の旋律ないし行為が与えられます。

女声歌手に割当てられる4種類の旋律はそれぞれ異なりますが、その歌詞(藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」の一部、但し比較するとわかる通り、必ずしも詩句そのままではなく一部改変されて用いられます)との対応を示すと以下の通りです。

  • V1:「ひとのきえさり」を節を変えて2回繰り返す
  • V2:「ひらめくうたの/ひつぎねむる/つぶやくものら」
  • V2+:「うみのさくれつ/りくのしょうめつ」
  • V3:「へどろのみずを/うけてのみほせ」

男声傍観者に割当てられる行為ないし旋律は以下の通り。

  • L:スマートフォンでインターネット上で配信されているガザ地区からのライブ映像を視聴
  • P:旋律にのせて1ステップ毎にハミングと「いきものたちすべて」を交互に
  • W:手を叩きながら、ピッチのないささやきで「むかえびたらし/つぶやくものら」


3.変換規則について

状態遷移規則を奏者が歌う旋律や行為に変換する規則は以下の通り極めてシンプルなものです。

  • 女声歌手 f1 ~ f3 の状態と旋律の対応は 0: V3 / 1: V1 / 2: V2+ 
  • 女声歌手 f4 ~ f6 の状態と旋律の対応は 0: V2 / 1: V1 / 2: V2+
  • 男声傍観者3人の旋律・行為と指揮者 Cの状態との対応は 0:L / 1:P / 2:W

男声傍観者3人は常にユニゾンで旋律・行為を行います。一方女声歌手の旋律の割当には偏りがあり、V1およびV2+は6人に割当てられますが、V2とV3はそれぞれ3人にしか割当られませんので、仮に各歌手毎(f1~f6)での各状態(0,1,2)の出現確率が等しいと仮定すれば、V1,V2+はV2,V3の2倍の頻度で歌われることになります。またあるステップにおける各状態(0,1,2)の分布には偏りがあり、例えば1の状態の歌手が一人もいなければV1は歌われませんし、同様に、2の状態の歌手が5人いればV2+は5人によって同時に歌われることになるのに対し、V2,V3は最大でも3人同時にしか歌われないことがわかります。またf1~f3およびf4~f6の各々のいずれか一人が0の状態で、残りの歌手の状態に1,2の両方が含まれれば、4種類の旋律全てが同時に対位法的に重ね合わせられることになります。

このようにして、時としてある旋律が消え、再度出現したり、単一の旋律のユニゾンになったり最大4声のポリフォニーとなったりという変化を繰り返しながら演奏が行われることになると予想されます。また繰り返しになりますが、女声歌手のグループの状態の変化は1ステップにつき演算主の歌手にしか起こりませんから、ポリフォニーは常に少しずつ変化していくことになります。一方男声傍観者の方は、3人が常に同時に指揮者の状態に応じて歌唱・行為を変化させますので、最短で7ステップ=1ラウンド毎に状態が変わる(前と同じ場合もあるので変わらないこともありうる)ことになり、或る種の楽段のようなものを形づくります。


4.分析

作品で採用された初期値に基づく状態遷移系列に対して、上記の変換規則を適用した時に、実際に実現される歌唱・行為がどのようになるかを計算してみました。

状態遷移系列の初期状態および最初の7ステップ=1ラウンドの状態遷移系列は、1.状態遷移規則について で示した通りですが、実際の作品は23ラウンド、171ステップよりなりますので、1ステップ毎に状態に対して変換規則を適用し、実現される旋律・行為に置換していき、各ステップ毎に、男声傍観者のL, P, Wパート、女声歌手のV1, V2, V2+, V3パートが何人によって歌われるかを計算します。

全てのステップについての計算結果をヒートマップにし、また各パートの平均と分散を計算しました。今回の集計、可視化は、状態遷移系列をcsvで用意した後、Colaboratory上でそのファイルを読み込ませて、変換、集計、可視化、保存を行うプログラムを、Geminiに指示をして書かせることにより実施しました。

以下にまずヒートマップを示します。

上記の画像は、縦がステップ、横が各パート(左から右へ男声傍観者3パート、女声歌手4パート)で、そのパートを歌っている人数によるヒートマップです。男声傍観者は常に同時に1つの同じパートを3人で行うので、緑色(3人)か紺色(0人)のいずれかになっています。一方女声歌手の方は、上で簡単に触れたように変換規則に基づく多様性が生じていることが見て取れます。

また各パートの平均・分散は以下のようになりました。

各列の平均: L 0.652174 P 1.173913 W 1.173913 V1 2.260870 V2 0.962733 V2+ 1.894410 V3 0.881988 各列の分散: L 1.540761 P 2.157065 W 2.157065 V1 1.344022 V2 0.711102 V2+ 1.320031 V3 0.554736

男声傍観者については、LとP,Mの間に偏りが生じており、PとMが同じなのに対してLはその凡そ半分の割合でしか生じないことがわかります。一方女声歌手の平均・分散をとれば、大きくV1とV2+、 V2とV3のグループに分かれますが、これは既述の通り、前者は6人全員に、後者は3人ずつに割当られているためです。興味深く思われたのは、V1とV2+が平均や分散は近いのに、ヒートマップから読み取れる実際の歌われ方にはかなりの違いがあることで、V1(ひとのきえさり)はだいたい常に歌われている感じ、V2+(うみのさくれつ/りくのしょうめつ)はメリハリがついていて、特に92ステップから5ステップにわたって5人が歌う箇所(ヒートマップ上では黄色になっている箇所)が出現するのが頂点になっていることが見て取れる点です。

状態遷移と変換規則、および状態遷移の初期状態は作曲者によって選択されたものではありますが、動作は決定性であり、恣意的な変更などの介入は全く行われていないにも関わらず、大変にうまく出来ていることが見て取れます。

状態遷移規則は決定性の動作をしますし、変換規則もそれ自体は非常に単純なものである一方、それだけにそこに仕込まれた偏りは恣意的な感じさえ受けますが、結果として生みだされた旋律と行為の系列は、まさに状態遷移の初期値の選択と変換の偏りの効果により、繊細な変化と多様性に富んだものとなっていることがわかります。

演奏時間として適当な系列長になることといった制限もある中で、恰も神様が微笑んだかのような印象を受ける程で、初演の感想で直観で書いたことが、概ねその通りになっていることにはまず安堵する一方で、事前に予想したレベルを遥かに超えて、「作品」として見事な経過となっており、計算結果が得られた時にはとても感動するとともに驚きを禁じ得ず、ここで分析で得られた結果を公開する次第です。

[謝辞]本分析を実施するにあたり、作品に関する貴重な情報をご教示頂いた作曲者の三輪眞弘さんに感謝致します。

(2025.11.18 初稿, 11.19加筆)

2025年11月4日火曜日

「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」初演を聴いて

2025年10月30日(木) 豊洲シビックセンターホール:「ヴォクスマーナ第54回定期演奏会」


藤井健介:「Sè
lèh II」ヴォーカルアンサンブルのための
北爪道夫:てまりうた――良寛の歌による
三輪眞弘:「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」6人の女声歌手と男声傍観者達のための
 詩:「ひとのきえさり」(藤井貞和「美しい小弓を持って」より
福士則夫:「WAJIMA」for eight voices
(アンコール)伊佐治直:「優雅な犯罪」

指揮:西川竜太
合唱:ヴォクスマーナ


2025年10月30日の「ヴォクスマーナ第54回演奏会」にて三輪さんの「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」の初演に接することができました。以下にその感想を記録しておくことにします。

これは個人的な経緯に過ぎませんが、自らコンサートホールを訪れて三輪さんの作品に接するのは、 2017年12月9日愛知芸術劇場小ホールでの「新しい時代」の再演以来であり、何と8年ぶりということになります。その間には2020年9月19日の「鶏たちのための五芒星」初演をはじめとする『三輪眞弘祭 清められた夜』、2021年2月21日の「人形たちのための五芒星」初演、2022年5月28日~6月19日の「母音廻し、または遠隔音響合成のための五芒星」のライブ・ストリーミングに接していますが、その最後からも3年半近い年月が経過していて、その事実を確認して絶句せざるを得ません。勿論、そうなった最初のきっかけは新型コロナウィルス感染症の蔓延にあり、『三輪眞弘祭』のライブストリーミングも、『配信芸術論』として結実する京都大学人文科学研究所の研究プロジェクトの内容も、そうした状況下における可能性を探り、試みられた「応答」としての側面を有していました。その後、踵を接するようにして生じた個人的事情も加わり、思いもよらぬ長期のブランクを経て、ようやくにして三輪さんの作品の公演に再び立ち会うことが叶ったということで、個人的にはそれだけでも感無量であり、是非ともその記録を残しておきたく感じます。

ちなみにヴォクスマーナの指揮者である西川竜太さんが指揮するコンサートとしては2015年10月12日のクール・ゼフィールの演奏会で「火の鎌鼬」の再演(但し初演に接していない私自身にとっては初めてでしたが)に接して以来ということになります。こちらは何と、もう10年も前の事ですが、このコンサートは色々な意味で印象深いもので、当日会場で経験したことを今尚ありありを思い浮かべることができるが故に、経過した年月の隔たりを確認しても俄かには信じ難い思いがします。前回の感想ではコンサートのプログラムに含まれていた三輪さん以外の作品についても一通り言及しましたが、今回はそれを割愛させて頂き、三輪さんの作品に接した感想についてのみ記すことにさせて頂きたく思います。

実のところ西川さんとヴォクスマーナの歌手の方々の卓越した演奏技術・解釈が可能にする驚く程幅広い表現や、作品に対する献身的な姿勢、演奏における集中は、普通の意味合いにおいては寧ろ他の作品の演奏において、一聴して直ちにわかる仕方で聴き手に感じ取れるものであったと思います。今回のプログラムを構成する他の作品が、その作風や作曲者の音楽観や音に対する姿勢、作品創作の背景において、際立った多様性を持ちつつ、それぞれに声のアンサンブルの多彩なポテンシャルを発揮できるように書かれていたことは、私のように(マーラーの作品におけるそれと能楽の地謡以外は)ヴォーカル・アンサンブルの実演に接することがない者にとっても明らかなことに感じられましたし、この演奏会が所謂「聴き巧者」を納得させる、極めて質の高いコンサートであったことは疑いないことに思えます。そしてそれだけに前回のクール・ゼフィールの公演の時にも況して三輪さんの作品の相貌の特異さが際立っていたように感じられました。またその一方で、これは専ら私個人の側の問題として、他の作品にせよ、それらとは全く違う耳と聴取の姿勢が要求される三輪さんの作品にせよ、大きな聴取上のブランクの後、様々な折り合いをつけながら向き合うことになってしまったが故に、その作品に相応しいかたちで接することが出来なかったという忸怩たる思いがあります。その結果として背景知識のない他の作品の印象を語ることは憚られ、三輪さんの作品に関しても、その作品に相応しい形で語ることは思いもよらず、辛うじて初演に立ち会ったことを証言するためだけに筆を執るというのが偽らざる現実であり、三輪さんの作品に限っても、自分がコンサートホールでそれを極めて不十分な形でしか受け止められなったことを認めざるを得ません。以下の記録がそうした条件付きのものであることを最初に記しつつ、三輪さんの作品についてのみ記すことをお赦し頂きたく思います。

*   *   *

「火の鎌鼬」はそもそも ヴォクスマーナの委嘱作品で2014年の第30回定期演奏会で初演された作品ですが、今回の委嘱新作「ごはんのうた」も、同じ藤井貞和さんの「ひとのきえさり」に基づく、いわば「姉妹作」という捉え方が可能でしょう。そして勿論、三輪さんの多くの作品が持つ「逆シミュレーション音楽」として定式化された特徴、状態遷移規則によって決定論的に作品の時間的構造が決定される点、リアルタイムにその場で都度奏者が「演算」を行い、その結果を音響や行為に変換することを通じて作品が生成される点、或いは通常の西洋音楽の演奏のための訓練された発声法・歌唱法・表現法ではなく、地声で、表現を拒絶して、ダイナミクスの点でも極めて抑制された演奏が行われる点は、三輪さんの作品に親しんでいる聴き手にとって「お馴染み」のものですが、そうした共通性を持ちながら、今回の新作では幾つかの点で従来の作品とは異なる新機軸が試みられているように見受けられます。私見では、その最も主要な点は題名に付せられた「カメルーンの旋律より」という点、つまり、世界でも最も複雑なポリフォニーを持つと言われるらしいカメルーンのピグミー、バカ族の歌を素材として用いており、作品を通してポリフォニーが支配的である点に存します。特に「逆シミュレーション音楽」およびそれに準じるコンセプトに基づく作品を中心に、少なからぬ数の三輪さんの作品が単旋律に基づいていますし、そうでない作品でも、複数の音の重ね合わせとしての和音はあっても、明確に線的でポリフォニックな発想に基づく作品というのはあまり思い浮かびません。勿論例えば「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」は弦楽器のグリサンドのポリフォニーと言えるかも知れませんし、「新しい時代」系列の合唱曲もポリフォニックな作品はありますが、前者は「逆シミュレーション音楽」の派生作品とはいえ、その場で奏者が「演算」を行うという要素は欠いていますし、後者は明確に異なる系列に属する作品です。多様な音響的な層が重ね合わせられる作品としては、これまた「ひとのきえさり」系列の作品である「59049年カウンター」のように三輪さんの作品の中でも重層性・統合性・複雑さの頂点に立つような作品もありますが、複数の異なった旋律パターンが常に線的に重なりつつ状態遷移を行うという点では、今回の作品は異色のものに感じられます。

とはいえ正直に言えば、私が会場で直ちに「これまでと違う」と感じたのは、視覚的にわかりやすい側面、つまり6人の女性歌手と指揮者が中央に積み上げられた鍋を取り囲むように円陣を作り、そこで「演算」が行われる点では共通でも、これまでの多くの作品のように方形ないし五角形の頂点間を奏者が移動するという要素がなく、座ったままポリフォニックな歌唱を続けるという点でした。指揮者が円陣の後ろに座る3人の男性傍観者に対して指示を出して、それに応じて傍観者は、スマートフォンでガザの状況のライブストリーミング映像を見る/手を叩きながら詩句をつぶやく/旋律にのせて詩句を歌う の3種類の動作を切り替えながら繰り返していきます。それに対して円陣の側では各ステップ毎に演算者である女性歌手が胸に手を当てる所作が時計回りに7ステップ一周で繰り返されるのみで、それ以外には動きはありません。ステップ毎にポリフォニーが微妙に変化するのは何となく感じ取れますが、基本的には小声でのポリフォニーが少しずつ変化しつつ連綿と繰り返されているように聴こえます。

「ひとのきえさり」の詩句は7行1連の2連分、14行が歌われますが、比較的聴き取りやすいのは「ひとのきえさり」と「いきものすべて」の2行で、前者は女性合唱のポリフォニー中の旋律の一つとして周期的に出現し、後者は男性傍観者により旋律にのせて歌われるので、相対的にはっきりと聴きとれたということのようです。14行のうちこの2行が比較的明瞭に聴きとれたのは、勿論、そうなるように作曲者が意図したことに間違いなく、それは傍観者がスマホで見るガザの映像、円陣中央に積まれた鍋とともに、この作品が置かれた文脈(「逆シミュレーション音楽」における「命名」の相に相当。これは三輪さんがプログラムノートとして記しているので、お読み頂ければ明白だと思います)を雄弁に物語っているように感じられました。

冒頭に述べた、当日演奏された他の作品と比較した時に際立っている三輪さんの作品の特徴は、コンサートでの演奏というフレームの中にありながら儀礼性を明確に帯びていて、作品の上演は「奉納」であり、聴き手は作品を鑑賞・消費するのではなく「礼拝」に直接関与することなく遠巻きにして立ち会う役割を負わされるという点にあります。公演の進行として、プログラムの2、4、5曲目では前の曲が終わり、奏者が袖に退場して拍手が鳴り止むと、西川さんがマイクを2本持って単独で舞台に出てきて、客席におられる作曲者を呼んで舞台に上がってもらい、プレトークを行うという形式で進められたのですが、20分の休憩を挟んで後半の最初の曲として置かれた三輪さんの作品については、休憩後に客席の照明が落とされ、舞台中央が明るくなってしばし沈黙の時が流れた後、鍋を2つないし1つ下げた奏者が入場し、まず舞台中央に鍋を置いてから自分の位置に座り、最後に指揮者の西川さんが柄杓と鍋とを持って登場して、やはり中央にそれらを置くと、客席に対するお辞儀なしで背中を向けて円陣に加わってそのまま演奏開始となりました。終演後も、座っていた奏者が次々と立ち上がり、舞台中央に積み上げられた鍋の中から自分のものを取り上げて順次退場。その最後となった西川さんも柄杓と鍋を持ち、客席への挨拶をせずに袖に下がり、舞台は開演前の状態に戻りました。

その時私が思い浮かべたのは能舞台でした。舞台奥の鏡板に描かれた松こそないけれど、開演前に無人で、終演後に再び無人の空間に戻った舞台は能舞台そのものに感じられました。能では開演の合図は舞台裏での囃子のお調べであり、その後作り物がある場合にはそれが設置され、囃子方は袖から橋掛かりを渡って、地謡は切戸口から舞台に出て着席し、指揮者に相当する笛の一吹きで開演となり、拍手はありません。終演後はシテがまず橋掛かりを渡って退場し、ワキが後を追うと、地謡が切戸口から退場し、最後に囃子が橋掛かりを渡って退場します。私の拝見する公演の場合、最後の囃子方が橋掛かりを渡って退場するくらいのタイミングで拍手となるのが普通ですが、元々神事であり今尚奉納としての側面を留める能の場合には、元々は拍手はしないものであり、その伝統と近年の「芸術鑑賞」が折り合いをつけたところがそうした拍手の習慣ということになるのだろうと推察します。しかしコンサートホールでの公演にそうしたコンベンションがあろう筈もなく、拍手をしかかっては止める人がちらほら居ながらも、結局、最後まで拍手は起こらずに演奏が終わることになりました。

客席に戸惑いがあったのは確かなのですが、これは色々な文脈を持った人が聞きに来ていることを思えば当然で、能の公演でも時として起きることです。この日の拍手なし、挨拶なしという上演の仕方については当然、三輪さんと西川さんの間で事前の打ち合わせがあってのことで、この作品を休憩の直後に置くというプログラムの組み立ても実に巧みで、総じて「コンサート=奉納」という場の質的な変容という点ではこれまで私が立ち会ってきたどの上演にもまして徹底した達成が違和感なく自然に実現していたと感じました。

冒頭にも述べたように、プログラムの他の作品では技巧の限りを尽くすリアライズを行ったヴォクスマーナの歌手の方々にとっては、通常の歌唱法ではなく、小声で、表現付けを排除したリアライズが求められる三輪さんの作品は、通常とは違った意味での難しさがあったのではないかと思いますが、そうした通常と異なる意図は申し分なく徹底されていたように感じました。例えば男声傍観者の唱法、特に手拍子を伴うささやきの箇所については、手拍子にムラが生じたりするのですが、勿論、一分の隙も無くぴったりと揃えるという指示があればそのようにすることは容易な筈であって、それはそうした行為が、客席にいる聴き手に聴かせるためにではなく、謂わば祭礼の所作の一部として、自分のために行っていると考えれば納得が行くものに思えます。

その一方で、女性歌手の歌唱については、もともとのバカ族のポリフォニーそのものが複雑で豊かなものなのですが、それが「演算」をして次に歌うパターンを決めながらリアライズしているとは思えないような自然さと自在さで、或る意味では余りにスマートに演奏されてしまった故に、バカ族の歌唱が持っていたゆらぎとかムラに由来するふくらみのようなものがなく、また同じ旋律がずっと歌われているように聴こえたとしても実際にはどの旋律を誰に歌うかについては刻々と交替が起きているわけですが、その点についても(私の耳の精度の悪さもあるのでしょうが)その場で聴いている限りではほとんど気づかないなど、パラドクシカルなことにさえなっていたように思います。

西洋音楽の規範では、同一楽器・声部のパートの内部は均質であることが理想であり、誰が演奏しても同じである「べき」なのですが、西洋音楽の外部では必ずしもその限りではない場合もあり得ます。三輪さんの意図が奈辺にあるかはわかりませんが、「儀礼」であるが故に「間違えない」ことは条件として、指摘した点については、結果としてどのようになるかは様々ありえたとして、そこに価値の優劣はないのだろうと推察します。その一方で、女声歌手によるポリフォニーの絶えまない連続性の感じと、そこで生じる微妙な変化のバランスが「演算」結果の写像についての非常に繊細な設計により実現していたのだということは、当然のことながらその場では気づきようがなく、後から教えて頂いて感銘を受けた点なので、以下、少し詳しく触れておきたく思います。

その場で聴いた限りでは、6人居る女声歌手の右側3人と左側3人が組になっているような感じがする以上のことは全くわからなかったというのが正直なところなのですが、実際に行われているのは三輪さんの作品ではお馴染みの「蛇居拳算」という演算で、その結果により定まる自分自身の状態によって次にポリフォニーのどのパートを歌うかが決まります。そして4つある女声の旋律のうち2つは6人居る女声歌手の右側3人と左側3人の両方が、残りの2つは左右のそれぞれの側だけが担当することになっています。従って変数の取る値の出現確率が全員で等しければ、左右両方で歌われる旋律と左右いずれかしか歌えない旋律では出現頻度が異なることになります。その一方でどの旋律を歌うかは各人の状態によって決まるので、同じ値を持つ複数の歌手が同じ旋律を同時に歌うことも生じえます。斯くして全般としては歌う旋律の交替を行いつつ、総じて同じパターンが繰り返されているように聴こえつつも、ある旋律が消えたり、再出現したり、あるいは複数人で同じ旋律が歌われたりという、微妙でかつ複雑な変化が生み出されるようになっているのです。こうした繊細な多様性が事前に設計されているという点は、恐らく間違いなくオリジナルのバカ族のポリフォニーとははっきりと異質なものであり、アルゴリズミック・コンポジションという作曲技法に由来するものであり、三輪さんがタイトルで「カメルーンの旋律より」という言い方をしているのもそうした事情に基づいたものだと思います。

同じことは女性歌手の歌唱におけるピッチについても感じました。これもまたオリジナルのバカ族の歌唱との比較になってしまうのですが、オリジナルの演奏は、恐らくは即興的に自発的に色々な人が歌唱に加わって、時として何かの理由で止めたり、また途中から参加したりといったことが普通に起きているものと想像され、それ故にかピッチに関しても時として不安定であり、正しいピッチに向けての補正がリアルタイムで行われているような感じもあります。それに対して、「演算」規則に従った間違いのないリアライズが求められる三輪さんの作品を、高度な訓練を積んだ高い技術を持った奏者が演奏するというのは、同じ演奏とは言ってもかなり位相の異なるものであるに違いありません。

もっともこのことに関して言えば、聴き手も部外者ではあり得ない筈で、恐らくオリジナルの歌唱では演奏者と聴衆の区別というのは仮にあっても希薄なものなのではないかと想像され、それはまずもって西洋音楽におけるコンサートという制度とははっきりと異質なものです。その一方で「ごはんのうた」において三輪さんは、これも他の幾つかの作品でもそうであるように、舞台上の奏者の中に歌手と傍観者の区別を導入しています。これの意味するところは、祭礼における参加者にヒエラルキーが存在するということで、喩えて言えば、神役なのは女声のみであって、男声傍観者はその神事に立ち会い・補佐するという役割を担っているのだと考えることができるでしょう。(一例を挙げればごく近年まで行われていた宮古島狩俣の祭祀にも同様の二重構造が確認できます。もっともそこでは男役は神女が行う儀礼を見ることさえできないのですが。)これは演奏者と聴き手の二分法を前提とするコンサートという制度に「ありえたかも知れない祭祀」を埋め込むに当たって必要な媒介というように考えることができるでしょう。それ故にか、傍観者の役割というのは流動的な面があり、「火の鎌鼬」での女性傍観者のように単に立ち会って傍観する「演技」を求められることもあれば「59049年カウンター」のように楽器の奏者が「傍観者」としての役割を担う場合もありますが、今回の場合には、既述のようにガザの状況のリアルタイム画像を見るという、文字通りの媒介の役割もある一方で、手拍子とつぶやきというモードと旋律をうたうモードの二種類の形で演奏にも関わるということで、かなり奏者よりの位置づけになっているのが印象的でした。(実は私は、これでは「傍観者」ではないのでは?と思ってしまったのですが、例えば既に参照した宮古島狩俣の神歌としてもっとも著名なニイリが、実は傍観者である男役の歌であることを想起するならば、今回のような配分もまた傍観者として自然なものなのだと思います。)

更に言えば、同じことは指揮者にも言えます。「架空の祭祀」という性格を持つ三輪さんの作品の多くは指揮者を置きません。その一方で「演算」の誤りをチェックし、エラーを検出すると演奏に介入を行う「悪魔」(これは「マクスウェルの魔」を嫌でも思い起こさせます)と呼ばれる役割が置かれることがありますが、今回はそのように明示はされていないものの、強いて言うならば指揮者が「悪魔」の役割を果たしていると考えることができそうです。しかしながら、「ごはんのうた」における指揮者は、6人の女声歌手の円陣に加わって、傍観者に対して行為のパターンの切り替え指示をするだけでなく、(実はこれは後で教えて頂いたのですが)「演算」そのものに参加しており、指揮者の持っている状態が傍観者の行為を決めるという構造になっているのです。女声歌手のポリフォニーの配分規則もそうですが、この指揮者の位置づけもまた、7桁(女声歌手6人+指揮者1人)の3進数上での状態遷移規則というシンプルな原理に基づきつつ、そのうちの指揮者用の1桁を傍観者の行為に割り当てることによって、音楽的なリアライズとしては繊細で多様性に満ちた複雑な変化を可能にする要因の一つになっていると思います。

しかしながら残念なことに、上で説明した繊細で複雑な変化は聴き手を選ぶところがあり、既述の通り、私が当日その場で聴きとることができたのはその豊かさのごく一部に過ぎませんでした。また後から言っても詮方ないことながら、例えば「火の鎌鼬」のような従来の舞台上の動きがある作品を根拠もなくイメージしていたことから、その動きが俯瞰的に見えやすい方が良いかと思って、舞台に向かって左側の後ろから2番目の席にしたのも失敗で、舞台間近の席であれば、「演算」の様子やそれに応じた声部の受け渡しなど、もう少し色々な情報をその場で拾えたかも知れず、折角の機会なのにもったいないことをしたという思いもあります。そしてこれは負け惜しみというわけではなく、「ごはんのうた」のような作品は、エキスパートならぬ普通の聴き手にとっては一度切り聴くだけで理解できるような作品ではなく、バッハのポリフォニー作品のように何度も聴くことでその作品の複雑で巧妙な構造が段々と掴めてくるようになることで、徐々にその繊細な変化が感じ取れるようになるタイプの作品であると感じられました。

三輪さんがこの作品の作曲に用いた7桁の3進数上での状態遷移規則自体は非常にシンプルなものです。しかしそれを音の系列に写像するやり方は無限にあり、恐らくそのほとんどはトリヴィアルな結果にしかならないでしょう。ここで三輪さんが素材として用いたのは、それ自体が世界中で最も複雑なポリフォニーを持つと言われるカメルーンのピグミー、バカ族の旋律でした。それは自体として固有の魅力に満ちたものではあるのですが、三輪さんの音楽は、ちょっと聞いただけの聴感レベルでは「似た」ように聴こえたとししても、似て否なるものであって、三輪さんはそれを素材にして(但し、自作の旋律も加えた上で)、6人の歌手と傍観者のパートにどのように旋律を割り当てるかの写像規則を設計しました。その規則もまた簡単に書き表せるシンプルなものである一方で、それは一見したところ、単純で美しい状態遷移系列の持つ規則性や対称性を恣意的に分解してしまうものにも見えます。7桁のうちの最初の桁(指揮者の桁)が傍観者の歌唱・行為のパターンに、次の3桁が中核の女声によるポリフォニーを構成する4つの旋律のうちの3つを最初の3人にどう割当てるかを、最後の3桁は4つの旋律のうち、2つは最初の3人と共通で残りの1つは最初の3人が歌うことのない旋律を、残りの3人にどう割当てるかを決定します。ここにある不均衡はしかしながら具体的に状態遷移系列に適用されると、一見したところ静的な反復に見えて、実際には多様で繊細な変化をもたらします。無限にあるであろう状態遷移規則によって得られた系列を音に写像する仕方の中で、まさにこの規則を選択することがどのようにして可能になったのかはわかりませんが、その結果が驚くべきものであることはわかります。非常に粗雑な類比ですが、今日であれば生成AIを用いて、単なる道具としてのレベルではなく、独創性とか新規性が問われるような領域で意味ある結果を得るための、試行錯誤の果てに得られるコツのようなものが思い浮かびますが、この類比には限界があることも明らかです。いずれにせよ、結果としてリアライズに際して地声で無表情に、小声で唱えられるポリフォニーは、しかるべき仕方で訓練した上で耳を澄ませる時にこそ、寧ろ受け止めきれないような豊かさを示すように仕組まれているのです。そしてまた、この日の西川さんとヴォクスマーナによる演奏は、恐らくはその豊かさを十全にリアライズしたものであったに違いなく、勿論自分に為し得る限りでその作品と演奏とを受け止めるべく努めたのではありますが、十分に受容するだけのキャパシティもなく、準備もできていなかったことが悔やまれ、三輪さんにも、西川さんをはじめとするヴォクスマーナの皆さんにも申し訳なく感じています。この日のコンサートのプログラムにも過去の委嘱作の再演が含まれていましたので、何時の日か、「ごはんのうた」についても再演の機会が訪れたならば、是非とも再度会場に足を運んで、今度こそはその真価をきちんと受け止めらるように努めたく思います。

*   *   *

数年ぶりに、本当に久しぶりに三輪さんの作品の初演に接したからなのか、三輪さんの作品に接したばかりの時に感じたことをふと思い出しました。三輪さんの使用する規則はシンプルなもので、それによる時間発展の仕方は原理的に限定されたものになります。突飛な喩えですが、例えばマーラーの音楽が持つような時間的な遍歴を持つことはありえません。私は当初、そのことに対して、恐らくは物足りなさを感じて、複雑さに向かう方向性を示唆したことを良く覚えています。しかしながら、例えば「逆シミュレーション音楽」の3つの相に一旦還元された上で再構成された「音楽」は、例えば「またりさま」のようなシンプルなものから、「59049年カウンター」のような人間が一度に受け取ることができる情報量を超えた複雑で多層的なものまで実に幅広いものであることがわかり、私は当初の浅慮に気付くことになりました。そして今回「ごはんのうた」で提示された方向性は、同じ原理に基づきながら、異なる素材と、単純だけれども巧妙極まりない写像規則の組み合わせにより、これまでにない新たなポリフォニーが可能であることを示しています。

私が今回の「ごはんのうた」に接して感じた印象を言い当てようとしてふと思い浮かんだのは、南部陽一郎先生がノーベル賞受賞記念講演の締めくくりに述べた以下のような言葉でした。
「物理学の基本法則は多くの対称性を持っているのに現実世界はなぜこれほど複雑なのか。対称性の自発的破れの原理は、これを理解するための鍵となっています。基本法則は単純ですが、世界は退屈ではない。なんと理想的な組み合わせではありませんか。」
勿論、この言葉を三輪さんの作曲に適用するのは非常に緩いアナロジーの下でしかありえませんが、しかし言いたいことは既に述べた内容からご理解頂けるのではないかと思います。繰り返しを避けずに言えば、私見では「ごはんのうた」の魅力は、一見恣意的に見える状態遷移パターンの旋律パターンへの割当規則にあります。そこにある不均衡が多様性を、複雑さを生み出す源泉になっているように思えるのです。

ただし、ここには重大な違いもまたあることを指摘しておきたいと思います。既に述べたように三輪さんの用いる状態遷移規則自体はシンプルなものであり、摂動をランダムに与えた場合の挙動も含めて、結果として生成された系列を与えて小規模なリカレント・ニューラルネットワークに学習させることによって「擬き」が比較的容易に作れることがわかっています。繰り返して述べてきたように、それを音楽にどのように写像するかには原理的に言って莫大な可能性がありますが、今日の生成AIそのものではなくても、その延長線上では、逆シミュレーション音楽の「設計書」を自動生成するということ自体は恐らく可能になるでしょう。膨大とは言っても有限量の可能性を虱潰しに当たって、「当たり」を見つけるといったような場面であれば、興味深いものをAIが発見する可能性はあるでしょう。しかしながら何が「当たり」であるかは、結局のところ与える必要があるでしょう。そうした価値づけ、方向性は個別の状況の中で生きる存在にとってのみ意味を持つものなのです。そして規則を学習して「擬き」を作ることは出来ても、自分が置かれた個別的な状況への「応答」として、聴いて興味深い仕方でそれを音に変換することは、今のところは人間にしかできないもののように思われます。

それは言い方を変えれば、ユク・ホイが示した「偶然性と再帰性」という2つの原理の組み合わせにおいて、今のところは人間が体現しているようなレベルの実現は容易ではないということでもあります。それ自体が進化の産物である、偶然性と再帰性の巧妙なバランスの上に成り立った人間という有機体が、二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前の「意識の時代」において蓄積した文化的遺産の上で、直感的な仕方で偶然性と再帰性のバランスを見出して実現する新たな作品の創造は、少なくとも今しばらくは人間に固有のものなのではないかと思われます。既に「生成科学」的なアプローチが提唱、実践されつつある自然科学的な領域であればともかく、こと個別的な文脈に応じた倫理的な「応答」が関わる「人文工学」の領域の、更に加えて「言説の空間」内での単なる記号操作レベルに原理的に閉じることのない、身体性や情動を基盤とした他者との共感に根差した「音楽」活動は、それを「逆シミュレーション音楽」における「規則の生成」のレベルのみに相当するに過ぎない音響の操作に矮小化してしまうことなく、「命名」も含めたその3つの相を不可欠の契機として捉える限りにおいて、優れて人間のものに留まり続けるでしょう。それが個別の状況に対する「応答」である限りにおいて、その作品もまた個別的なものである他なく、そしてそれ故にこそ「新しさ」の経験が可能になるのではないでしょうか?如何に大規模なものであっても閉ざされた単一の空間の中に居る限り、「新しさ」はあり得ません。「新しさ」は自分の展望の地平の外にいる他者の裡にしかなく、他者が住まう多元的な世界でしか可能ではないのではないでしょうか?

既に生み出された作品を入力として「擬き」を出力することが如何に巧妙に出来たとして、一体他の誰が、これまでの様々な創作の試みの延長線上に、「ごはんのうた」のような作品を構想し、実際にこのような仕方で実現することができるでしょうか?更にまた、如何に巧妙に楽器を奏し、声を人工的に合成することができたとして、作曲者の指定に応じ、その意味を了解した上で持参した鍋を中央に積み上げ、スマートフォンでガザの映像を眺めつつ「奉納」をすることができるでしょうか?演奏の正確さを数量化して比較評価する仕組みが如何に巧妙になったとして、その作品と演奏とに感動することができるでしょうか?

私が実演から遠ざかって逼塞している間に状況はすっかり変わり、それまでは何時の日か訪れるであろう、或る種の理論的な極限に過ぎなかったシンギュラリティが俄かに現実味を帯びる中、数年ぶりに三輪さんの作品の上演にコンサートホールで接した私が感じたのはそうしたことでした。そして生成AIが表面的には如何に巧妙に音楽について論じることが出来るようになったとて、音楽を「聴き」、それに共感し、感動した経験について語ることについては、これもまた今のところ人間にのみ為し能うことのようです。それ故その聴取が如何に至らないものであったとしても、自分が接した作品と演奏とにこのように「応答」することが、その場で上演に立ち会った人間の義務であるという思いもまた強く、その衝動に従って感想を記し公開する次第です。最後に改めて三輪さん、西川さん、ヴォクスマーナの歌手の方々に感謝の念を表明してこの拙い感想を終えることにしたいと思います。

(2025.11.3執筆, 11.4公開)

2025年11月2日日曜日

情動的自己の生成――現前する感情と憑依する痕跡の統合理論 :第7章

 

第7章 統合:現前する感情と憑依する痕跡

章の概要

本章は、本稿の理論的集大成である。第2章から第6章までの知見を統合し、「情動的自己の生成」という中心テーゼを完成させる。

本稿は当初、前稿「憑依・情動・音楽」の補完として、「現前する感情」の側面を論じることを目的とした。しかし、差延の構造を徹底的に追究すると、現前と非現前の分離は方法論的なものに過ぎず、実際の経験においては両者は不可分であることが明らかになった。

したがって本章では、以下の三つの統合を行う:

  1. 神経科学と現象学の統合:身体的基盤と時間的構造を自由エネルギー原理によって架橋する

  2. 発達と病理の統合:健常な発達系列と病理的破綻を連続的スペクトラムとして理解する

  3. 現前性と亡霊性の最終的統合:差延の徹底により、両者が同一の構造の異なる側面であることを示す

そして最後に、音楽がこの統合的構造を完全に体現する特権的媒介であることを論証する。

7.1 神経科学と現象学の統合:自由エネルギー原理による架橋

7.1.1 二つの記述レベルの並存

本稿は、情動と自己連続性を二つの異なるレベルで記述してきた。

神経科学的記述(第2章):

  • パンクセップの原初情動システム(SEEKING, FEAR, CARE等)

  • ソームズの誤差検出理論

  • ダマシオの感情階層(emotion/feeling、一次/二次感情、自己の三層)

  • 扁桃体、海馬、島皮質、前頭前野の神経回路

現象学的記述(第3章):

  • フッサールの時間意識(原印象-把持-予持)

  • デリダの差延(差異化と遅延)

  • 痕跡の優位性

  • 純粋な現前の不可能性

一見すると、これらは異なる言語で異なる対象を記述しているように見える。しかし、カール・フリストンの**自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)**は、両者を統一的に理解する枠組みを提供する。

7.1.2 自由エネルギー原理の基本構造

FEPの中心的主張は、生命システムが環境の不確実性を最小化するために、予測と誤差の最小化を行うということである(Friston, 2010)。

予測符号化の基本サイクル

  1. 予測生成:内部モデル(過去の経験に基づく)から、「次に何が起こるか」を予測

  2. 感覚入力:環境からの実際の感覚情報

  3. 予測誤差の算出:予測と感覚入力の差分

  4. 誤差の処理

    • (a) 内部モデルを更新する(知覚的学習)

    • (b) 行動して環境を変える(能動的推論)

    • (c) 予測の精度を調整する(注意の配分)

このサイクルにおいて、情動は予測誤差に対する精度調整として機能する。

7.1.3 神経科学的概念の予測符号化的解釈

パンクセップのSEEKING系

SEEKING系(ドーパミン駆動の探索-欲求システム)は、FEPにおける予測生成装置として理解できる。

  • 欠如(空腹、不在)が検出される

  • SEEKING系が「充足対象(おっぱい)があるはず」という予測を生成

  • この予測が高精度で保持される

  • 予測と現実の齟齬(おっぱいがない)が、渇望という情動を生む

前稿で論じた「悪いおっぱい」は、この予測優位の知覚の最初の形態である。対象は物理的に不在だが、SEEKING系の高精度予測が、それを内的に現前化させる。これが情動的亡霊の誕生である。

ソームズの誤差検出

ソームズが「意識=感情=誤差検出」と論じたことは、FEPの情動理論そのものである。

  • 予測と感覚の一致:快、安心(誤差小)

  • 予測の裏切り:不快、不安、驚き(誤差大)

  • 情動は、この誤差を「感じる」こと

重要なのは、誤差が常に過去の予測(痕跡)を参照することである。予測なしには誤差は生じない。したがって、現在の感情(誤差の感覚)は、常に既に過去の痕跡(予測の源泉)を含む。

ダマシオの感情階層

ダマシオの三層構造は、予測の階層性に対応する。

  • 原自己:身体状態の基底的予測モデル(脳幹)

  • 中核自己:対象との相互作用における短期的予測(島皮質)

  • 自伝的自己:長期的・物語的予測モデル(前頭前野-海馬-側頭葉)

自伝的自己は、「私はこういう人間だ」「私の人生はこういう物語だ」という高次予測モデルである。このモデルは過去の痕跡(エピソード記憶)に基づき、未来を予測する。

したがって、自伝的自己は本質的に亡霊的構造――不在の過去に依拠し、未到来の未来を予期する――を持つ。

7.1.4 現象学的概念の予測符号化的解釈

フッサールの時間意識

フッサールの三契機は、予測符号化の時間構造として理解できる。

  • 把持:過去の感覚入力が保持され、予測モデルを形成する

  • 原印象:現在の感覚入力(予測誤差の源泉)

  • 予持:予測(「次にこうなるはず」)

音楽を聴くとき:

  • 把持:直前の音が記憶に保持される(痕跡)

  • 原印象:今鳴っている音を聴く(感覚入力)

  • 予持:次の音を予期する(予測)

この構造において、予持(予測)なしには原印象(現在)は意味を持たない。ドの音が「始まり」なのか「解決」なのかは、予持(その後に何が来るか)によって決まる。

したがって、フッサール的時間意識は、予測符号化の現象学的記述である。

デリダの差延と予測誤差

デリダの差延――意味が差異と遅延を通じて生成される――は、予測符号化における誤差の累積的統合として理解できる。

  • 差異化:予測と感覚の差分(予測誤差)

  • 遅延:誤差が内部モデルに統合されるまでの時間的遅れ

意味は、この誤差の連鎖を通じて生成される。「ド」の意味は、その後の音(ミ、ソ)との差異によって決まる。この差異は、予測(「ドの後はミが来るだろう」)と現実(実際にミが来た)の照合を通じて確定する。

しかし、この確定は常に暫定的であり、更なる音によって遡及的に変更される。最後の音が、それまでのすべての音の意味を変える。これが差延の「遅延」である。

したがって、差延は予測符号化の哲学的一般化である。

痕跡と内部モデル

デリダの「痕跡」概念は、予測符号化における内部モデルそのものである。

内部モデルは、過去の経験の蓄積である。それは現在において直接アクセスできない(不在)が、予測を通じて現在を規定する(現前への作用)。

前稿で論じた「痕跡=情動的痕跡」は、情動評価を通じて形成された内部モデルとして理解できる。扁桃体系が「これは重要だ」と評価した経験が、高精度の予測として保存される。

7.1.5 統合:予測符号化としての情動的自己

以上の分析により、神経科学と現象学は統一的に理解できる。

情動的自己とは、予測符号化のシステムである

  1. 身体的基盤(ダマシオ):脳幹・島皮質による身体状態の予測モデル

  2. 時間構造(フッサール):把持(過去の痕跡)-原印象(現在の感覚)-予持(未来の予測)

  3. 情動的評価(パンクセップ、扁桃体系):予測の精度調整

  4. 差延的生成(デリダ):予測誤差の累積的統合による意味生成

  5. 階層的組織(ダマシオ):低次(身体)から高次(物語)への予測の階層

そして重要なのは、この予測システムが本質的に亡霊的であることだ。

予測は、不在の過去(痕跡)に基づき、未到来の未来を現前化させる。SEEKING系が「おっぱい」を予測するとき、おっぱいは物理的に不在だが、予測として「そこにあるはず」のものとして現前する。これが情動的亡霊である。

したがって、予測符号化は、亡霊認識の神経科学的メカニズムである

7.1.6 音楽:予測符号化の美的形式

音楽は、予測符号化の構造を最も純粋に体験化する。

調性音楽における予測と充足

  • 属和音(G7)は主和音(C)への解決を予測させる

  • この予測が充足されると、快の情動(「解決した」)

  • 予測が裏切られると(転調)、驚きと新たな予測

リズムにおける予測

  • 強拍-弱拍のパターンが予測を生成

  • シンコペーション(予測の裏切り)が緊張を生む

  • 規則的リズムへの回帰が安心をもたらす

メロディにおける差延

  • 各音の意味は、次の音によって遡及的に決まる

  • 最後の音が、全体の意味を確定する(あるいは宙吊りにする)

音楽を聴くことは、予測の生成と充足/裏切りを情動的に体験することである。そして、この予測は過去の音(痕跡)に基づく。したがって、音楽は差延と予測符号化の完全な統合である。

前稿で論じた「音楽の特権的媒介性」は、ここで神経科学的に基礎づけられる。音楽が情動的亡霊性を媒介する理由は、それが予測符号化の美的形式――不在の痕跡から未来を予測し、その充足/裏切りを情動的に経験する――だからである。

7.2 発達と病理の統合:差延的統合の連続的スペクトラム

7.2.1 健常と病理の連続性

第4章で検討した発達系列と、各レベルにおける病理を、差延的統合の程度という連続的スペクトラムとして統合する。

健常と病理は、質的に断絶しているのではない。両者は、予測と誤差の統合がどの程度成功しているかという程度の問題である。

差延的統合の三要素

差延的統合が成功するためには、以下の三要素が必要である:

  1. 時間的余裕:痕跡を想起し、現在と照合し、予測を更新する時間

  2. 精度の適切な配分:予測にも感覚入力にも、過剰でも過小でもない精度を付与

  3. 他者の証言:自己の予測を他者と照合し、間主観的に検証

これらが満たされるとき、健常な自己連続性が維持される。いずれかが欠如すると、病理が生じる。

7.2.2 発達系列における差延的統合の深化

発達系列(レベル0-6)は、差延的統合の段階的複雑化として理解できる。

レベル0-1:原初的予測

  • 脳幹レベルの身体状態予測

  • 時間跨度:数秒

  • マザリーズによる情動的調律=予測の外部的調整

レベル2:部分対象の予測

  • 「空腹→おっぱい」という因果予測

  • 予測の対象化:「悪いおっぱい」という情動的亡霊

  • 時間跨度:数分~数時間

レベル3:共同注意的予測

  • 他者の視線・指差しから対象を予測

  • 予測の間主観的共有:「私たち」の予測

  • 時間跨度:数時間~数日

レベル4:物語的予測

  • 自伝的記憶に基づく長期的予測

  • 「私はこういう人間だ」という自己モデル

  • 時間跨度:数日~数年

レベル5:倫理的予測

  • 社会的規範・他者の期待の内在化

  • 「私はこうすべきだ」という倫理的予測

  • 時間跨度:生涯的

レベル6:文化的予測

  • 世代を超えた継承・未来への責任

  • 「我々は何者か」「何を継承すべきか」

  • 時間跨度:世代的

各レベルで、予測の時間跨度が拡大し、他者との共有の範囲が拡張する。そして、音楽が各レベルで予測の媒介として機能する(マザリーズ、子守唄、童謡、追悼歌、民謡)。

7.2.3 病理における差延的統合の破綻様態

病理は、差延的統合の失敗として統一的に理解できる。

ASD:予測の過小評価(社会的手がかりへの精度不足)

  • 他者の表情・視線・声への予測精度が低い

  • 結果:共同注意の不成立、共有世界の欠如

  • 情動的亡霊が成立しにくい(他者が情動的に重要な痕跡にならない)

  • 介入:情動的調律の強化、予測精度の段階的訓練

BPD:予測の不安定性(部分対象の固着)

  • 瞬間的情動信号への過剰精度、長期的統合の失敗

  • 他者が「全て良い」「全て悪い」に分裂

  • 不安定な亡霊(救済者⇔迫害者の急激な転換)

  • 介入:長期的予測モデルの安定化(DBT)

PTSD:予測の過剰固定(トラウマ記憶への過精度)

  • トラウマ関連予測が過剰に高精度

  • 現在の安全な文脈が無視される(予測優位)

  • 過去の亡霊が現在に侵入(差延の失敗)

  • 介入:予測精度の調整、物語的再統合

解離:予測の同期喪失(痕跡の断片化)

  • 複数の予測系列が統合されない

  • 自己帰属の失敗(「これは私の手か?」)

  • 自己自身の亡霊化

  • 介入:身体的グラウンディング、予測の再同期

統合失調症:予測の暴走(内的発話への過精度)

  • 内的予測が感覚入力を圧倒

  • 幻聴:内的発話への過剰精度付与

  • 妄想:偶然への過剰な意味づけ

  • 敵対的亡霊の侵入

  • 介入:予測精度の薬物的調整、現実検証

AD:予測の更新不全(新規痕跡の統合失敗)

  • 海馬の障害により、新規経験が予測モデルに統合されない

  • 個人的予測モデル(レベル4-5)の崩壊

  • しかし文化的予測モデル(レベル6)は外部補綴により保持

  • 童謡:外部環境が予測を再活性化

  • 介入:外部記憶による補綴、音楽回想療法

7.2.4 病理的マッピングの統合表

病理

差延的統合の破綻様態

予測の異常

亡霊の様態

介入の焦点

ASD

社会的手がかりへの精度不足

予測の過小評価

亡霊が成立しにくい

情動的調律、予測訓練

BPD

瞬間的情動への過精度

予測の不安定性

不安定な亡霊

長期予測の安定化

PTSD

トラウマへの過剰固定

予測の過剰精度

侵入的亡霊

予測精度の調整

解離

予測系列の断片化

予測の同期喪失

自己の亡霊化

予測の再同期

統合失調症

内的予測の暴走

予測優位の知覚

敵対的亡霊

予測精度の薬物的調整

AD

新規予測の統合不全

予測の更新不能

個人的亡霊の喪失、文化的亡霊の保持

外部補綴

この表が示すように、すべての病理は予測符号化の異常として統一的に理解できる。そして、音楽療法は予測の再調整として機能する。

7.2.5 音楽療法の統一的理解

音楽療法が各病理に有効である理由は、音楽が予測符号化の訓練装置だからである。

ASD

  • リズム遊び、掛け合い歌により、社会的予測(他者の行動予測)を訓練

  • マザリーズ的音楽により、情動的調律を促進

PTSD

  • 安全な環境での音楽により、トラウマ予測の精度を徐々に低下

  • リズムによる時間的再構造化(過去と現在の区別)

解離

  • ドラム等の身体的音楽により、身体予測を再活性化

  • リズムによる予測の同期(「今・ここ」への定位)

統合失調症

  • 構造化された音楽活動により、現実的予測の枠組みを提供

  • 集団での音楽により、間主観的予測の検証

AD

  • 童謡により、外部環境が文化的予測を再活性化

  • 他者と歌うことで、社会的文脈が予測を支える

したがって、音楽療法は差延的統合の治療的再構築である。

7.3 現前性と亡霊性の最終的統合:差延の徹底

7.3.1 方法論的区別と存在論的統一

本稿は当初、前稿「憑依・情動・音楽」(亡霊性)を補完するものとして、「現前する感情」に焦点を当てることを目的とした。

しかし、理論的探究を進めると、以下のことが明らかになった:

現前と非現前の区別は、方法論的には有用だが、存在論的には虚構である。フッサールが示したように、現在は常に既に把持(過去)と予持(未来)に浸透されている。デリダが一般化したように、現前は差延を通じてのみ成立する。したがって、現在の感情は既に・常に亡霊性によって憑依されている。

第1章1.2節で述べたように、現前と亡霊の「方法論的区別」は、各側面の機能を明確化するために有用である。しかし、「実際の経験において両者は不可分」である。

7.3.2 現在の感情における亡霊性の内在

具体例で示そう。

喜びの現象学的分析(第3章3.3節):

「今感じている喜び」を分析すると:

  1. 原印象:今の心拍、今の微笑(身体的変化)

  2. 把持:数秒前の喜びが「まだ」保持されている

  3. 予持:「喜びが続くだろう」という予期

  4. 二次把持:過去の類似の喜びの想起(「以前もこの感じを経験した」)

  5. 情動的評価:扁桃体による「これは良いことだ」という評価

この構造において、何が「現前」で何が「亡霊」か?

  • (1)だけが現前?→しかし心拍も微笑も、既に数ミリ秒前の過去である

  • (1)+(2)が現前?→しかし把持は既に痕跡(過去)である

  • (1)+(2)+(3)が現前?→しかし予持は未だ来ない未来の現前化である

実際には、分離不可能である。「今」の喜びは、過去の痕跡(これまでの喜びの経験)と未来の予期(これからも喜びが続くという期待)に完全に浸透されている。

さらに、この喜びが「何についての喜び」かを考えると:

  • 友人との再会の喜び→友人の不在(過去)と再会(現在)の対比が喜びを生む

  • 試験合格の喜び→過去の努力の痕跡と未来の可能性の予期が喜びを構成する

  • 音楽を聴く喜び→過去に聴いた同じ曲の記憶と、今の響きが重なり合う

したがって、喜びそのものが本質的に亡霊的構造を持つ。過去と未来(不在)なしには、現在の喜び(現前)は成立しない。

7.3.3 予測符号化における統一

予測符号化の観点から、この統一はより明確になる。

現在の情動経験は、予測誤差の感覚である

  1. 予測(痕跡に基づく):「喜びが続くはず」

  2. 感覚入力(現在):身体的変化の知覚

  3. 誤差の評価:予測と現実の照合

  4. 情動:誤差の主観的経験

このプロセスにおいて:

  • 予測なしには、感覚入力は意味を持たない(中立的な心拍でしかない)

  • 感覚入力なしには、予測は空虚な期待に留まる

  • 両者の統合が、情動的経験を生成する

したがって、情動は始めから現前と亡霊の統合である。ソームズが「意識=感情=誤差検出」と論じたとき、彼は既にこの統合を指摘していた。誤差は、予測(痕跡)と感覚(現前)の差分である。

7.3.4 音楽における完全な統合

音楽は、この統合を最も完全に体現する。

メロディを聴くとき

  • 今鳴っている音(現前)

  • 直前の音の把持(痕跡)

  • 次の音の予持(予測)

  • 過去に聴いた同じメロディの記憶(二次把持)

  • 全体の調性・リズムの予測(文化的スキーマ)

これらすべてが同時に作動し、「今」の音楽体験を構成する。

さらに、音楽を聴いて情動が喚起されるとき:

  • 音響的現在(音の物理的特性)

  • 身体的現在(鳥肌、心拍の変化)

  • 過去の記憶(「この曲を母と聴いた」)

  • 情動的痕跡(幼少期の安心感)

  • 文化的意味(「これは追悼の歌だ」)

  • 倫理的要請(「死者を忘れてはならない」)

が層をなして重なり合う。

音楽を聴くことは、現前と亡霊の完全な統合を体験することである。

前稿で論じた「音楽の特権的媒介性」は、ここで最終的に基礎づけられる。音楽が情動的亡霊性を媒介する理由は、それが現前と非現前を同時に活性化し、差延の時間構造そのものを体験化するからである。

7.3.5 統合テーゼの定式化

以上の分析により、本稿の中心的主張を以下のように定式化できる:

情動的自己の生成は、現前する身体的変化(emotion)と不在の他者の痕跡(亡霊)が、予測符号化を通じて差延的に統合される過程である。

この統合において:

  • 現前的側面:今・ここの身体状態、感覚入力、原印象

  • 亡霊的側面:過去の痕跡、未来の予測、他者の内在化 は、方法論的には区別できるが、実際の経験においては不可分である。

音楽は、この統合的構造を最も完全に媒介する。なぜなら音楽は:

  • 時間性:差延の時間構造(把持-原印象-予持)を体験化

  • 情動性:扁桃体を直接活性化し、予測精度を調整

  • 身体性と超越性:レベル0(身体)からレベル6(文化)まで貫通

  • 集合性と個別性:個人の記憶と集合的記憶を同時に活性化

するからである。

7.3.6 前稿との理論的接合

本稿と前稿「憑依・情動・音楽」は、以下のように接合される:

前稿の中心的主張

自伝的自己は本質的に亡霊的構造を持つ。不在の他者(過去の他者、死者、未来世代)の痕跡が、情動的に評価され、差延的に統合されることで、自己連続性が成立する。

本稿の中心的主張

情動的自己は、現前する身体的変化と不在の痕跡が予測符号化を通じて統合される過程である。この統合は、神経科学的には予測と誤差の照合、現象学的には差延の時間構造として記述できる。

統合された主張

自己連続性は、現前(身体・感覚・今)と非現前(痕跡・予測・他者)が、情動評価を通じて差延的に統合される過程である。この過程は、神経科学的には予測符号化、現象学的には時間意識、発達心理学的にはレベル0-6の段階的深化、文化的にはレベル6における世代的継承として記述できる。そして、音楽がこの全過程を媒介する特権的装置である。

したがって、前稿と本稿は対立ではなく相補であり、両者を統合することで初めて、情動的自己の生成の全体像が完成する。

7.4 音楽による全層的統合の実証

7.4.1 音楽が貫通する六つの次元

本稿を通じて、音楽が以下の六つの次元すべてを貫通することが示された:

(1) 神経科学的次元(第2章)

パンクセップの原初情動システム

  • 音楽はSEEKING系を活性化(期待と充足)

  • CARE系を刺激(子守唄の鎮静効果)

  • PLAY系を促進(わらべうた、ダンス)

扁桃体系

  • 音楽は言語を介さず扁桃体を直接活性化

  • 情動的記憶の形成と喚起

  • 予測精度の調整

島皮質と前帯状皮質

  • 音楽的快感の統合的表象

  • 身体的共鳴の意識化

(2) 現象学的次元(第3章)

フッサールの時間意識

  • 音楽は把持-原印象-予持の構造そのもの

  • メロディは差延の純粋形式

  • 休符は「意味ある不在」

デリダの差延

  • 音の意味は他の音との差異によって生成

  • 最後の音が全体の意味を遡及的に決定

  • 音楽は差延の体験化

(3) 発達的次元(第4章)

各レベルにおける音楽の機能

  • レベル1:マザリーズ(最初の音楽的他者)

  • レベル2:子守唄(音楽的亡霊の誕生)

  • レベル3:わらべうた(共同注意の音楽化)

  • レベル4:個人的に重要な歌(自伝的記憶のマーカー)

  • レベル5:追悼歌・抵抗歌(倫理的亡霊の媒介)

  • レベル6:童謡・民謡(世代的継承)

(4) 間主観的次元(第5章)

共感の媒介

  • 演奏者と聴衆の情動的共鳴

  • 合唱・合奏における「あいだ」

  • 録音を通じた死者との共感

木村敏の「あいだ」

  • 音楽は「あいだ」に響く

  • 個々の音ではなく、音と音の「あいだ」が意味を持つ

(5) 文化的次元(第6章)

外部記憶としての音楽

  • 情動を時空を超えて保存・再生

  • 世代を超えた継承(童謡、民謡)

  • 集合的アイデンティティの形成(国歌、賛歌)

補綴機能

  • AD患者における童謡記憶の保持

  • 外部環境による予測の再活性化

(6) 倫理的次元(前稿・本章)

亡霊への応答

  • 追悼歌:死者への歓待

  • 抵抗歌:不正義への抗議

  • 継承の歌:未来世代への責任

デリダ的正義

  • 音楽は過去の不正義を記憶する

  • 音楽は未来への倫理的要請を媒介する

7.4.2 童謡における全層的統合の実例

これらすべての次元が同時に作動する実例として、童謡を歌う経験を分析する。

事例:AD患者が「ふるさと」を歌う

神経科学的次元

  • 基底核・小脳:手続き記憶としての歌唱運動

  • 扁桃体:幼少期の情動的記憶の再活性化

  • 島皮質:歌う身体感覚の統合的表象

  • 前頭前野:(部分的に)歌詞の意味の理解

現象学的次元

  • 把持:直前のフレーズが保持される

  • 原印象:今歌っている音

  • 予持:次のフレーズへの予期

  • メロディの差延的展開

発達的次元

  • レベル1:幼少期、母が歌ってくれた記憶(マザリーズの痕跡)

  • レベル3:保育園で友達と歌った記憶(共同注意)

  • レベル4:(崩壊しつつあるが)自分の人生の思い出と結びつく

  • レベル6:日本の文化的記憶、世代を超えた継承

間主観的次元

  • 他の患者や介護者と一緒に歌う(「あいだ」)

  • 作曲者(岡野貞一)との時空を超えた共鳴

  • 歌を教えてくれた母(既に死去)との対話

文化的次元

  • 童謡という外部記憶が、内部記憶(海馬)の崩壊を補綴

  • 共同体(デイケア)が歌を保持し、再活性化

  • 日本的風景・情緒の文化的記憶

倫理的次元

  • 故郷への郷愁(失われた場所への亡霊的応答)

  • 母への想い(死者への歓待)

  • 一時的に回復する自己感覚(亡霊による自己の支持)

この六つの次元が、童謡を歌う「今」の数分間に、同時に重層的に作動している。

そして重要なのは、この統合的経験が一時的に自己感を回復させることである。個人的記憶(レベル4-5)が失われても、文化的亡霊(レベル6)が外部的に保持され、それが身体的・情動的・間主観的次元と統合されることで、「私」が蘇る。

これは、音楽が自己連続性の全層を統合するという本稿の中心的主張の、最も説得的な実証である。

7.4.3 ライブ体験における統合

もう一つの実例として、ライブで音楽を聴く/演奏する経験を分析する。

筆者の先行論文「二分心崩壊以後・シンギュラリティ以前の展望から見たライブの可能性」(前稿第5章5.6節で言及)で論じたように、ライブは「その都度の自己成立の場」である。

ライブ体験の統合的構造

現前的側面

  • 今・ここで鳴っている音(音響的現前)

  • 身体的共鳴(鳥肌、心拍、呼吸)

  • 演奏者の身体的存在(視覚的現前)

  • 聴衆との物理的共在

亡霊的側面

  • 作曲者(しばしば死者)の亡霊

  • 曲に込められた過去の物語(歌詞の主人公、歴史的文脈)

  • 聴衆個々の記憶(「この曲を初めて聴いたとき」)

  • 未来の聴衆(録音・配信を通じて)

間主観的統合

  • 演奏者-聴衆の情動的共鳴

  • 聴衆同士の集合的高揚

  • 「あいだ」における音楽の生成

時間的統合

  • 過去:この曲の歴史、自分の記憶

  • 現在:今鳴っている音

  • 未来:終演後の余韻、将来の想起

文化的統合

  • ジャンル的文脈(クラシック、ジャズ、ロック等)

  • 社会的意味(反戦歌、応援歌、国歌等)

  • 世代的継承(「この曲を次世代に伝えたい」)

ライブ体験において、これらすべてが瞬間的に統合される。そして、この統合された瞬間が、自己の全層を活性化する。

アンコールで全員が合唱するとき:

  • 個人的自己(レベル4):「私はこの曲が好きだ」

  • 社会的自己(レベル5a):「私はこのコミュニティの一員だ」

  • 倫理的自己(レベル5b):(反戦歌なら)「不正義に抗う」

  • 文化的自己(レベル6):「我々はこの文化を継承する」

が同時に経験される。

ライブは、音楽による自己連続性の全層的統合の、最も強烈な実践である。

7.4.4 音楽の存在論的地位

以上の分析により、音楽の存在論的地位が明確になる。

音楽は、単なる「芸術作品」や「娯楽」ではない。それは:

  1. 予測符号化の美的形式:差延と予測の体験化

  2. 情動的亡霊性の媒介装置:不在を現前化する技術

  3. 自己連続性の全層的統合装置:レベル0-6を貫通

  4. 間主観的共鳴の触媒:「あいだ」を生成

  5. 文化的記憶の保存装置:世代を超えた継承

  6. 倫理的応答の媒体:死者への歓待、未来への責任

したがって、音楽は人間存在の根源的構造――時間性、情動性、身体性、間主観性、文化性――を体現する。

ハイデガーが「詩作」を存在の開示と論じたように、音楽もまた存在の開示である。ただし、ハイデガーの言語中心主義を超えて、音楽は言語以前の、より原初的な開示である。

マザリーズが言語獲得以前に機能するように、音楽は人間存在の最も根源的な層――身体的・情動的層――から、最も高次の層――倫理的・文化的層――まで貫通する。

音楽なしには、人間の自己連続性は成立しない。

この主張は誇張ではない。マザリーズなしには乳児の情動的発達は阻害され(レベル1)、子守唄なしには自己鎮静が困難になり(レベル2)、童謡なしには文化的自己が脆弱化する(レベル6)。

音楽は、自己連続性の必要条件である。

7.5 本稿の理論的貢献と限界

7.5.1 理論的貢献

本稿は、以下の五つの理論的貢献を提供した。

(1) 現前性と亡霊性の統合理論

従来、現象学(現前の分析)と亡霊論(非現前の分析)は別個の領域だった。本稿は、予測符号化理論を架橋として、両者を統一的に理解する枠組みを提示した。

現前的情動(emotion)と亡霊的情動(痕跡)は、予測符号化における感覚入力と予測として統一的に記述できる。

(2) 神経科学と現象学の統合

パンクセップ、ソームズ、ダマシオの神経科学的知見と、フッサール、デリダの現象学的分析を、フリストンの自由エネルギー原理によって架橋した。

これにより、主観的経験(現象学)と客観的メカニズム(神経科学)の間の「説明の隔たり」を縮減した。

(3) 発達と病理の統一的理解

健常な発達系列(レベル0-6)と病理的破綻を、差延的統合の程度という連続的スペクトラムとして統合した。

病理は単なる「欠陥」ではなく、差延的統合の特定の失敗様態として理解される。これにより、各病理への介入の焦点が明確化された。

(4) 音楽の存在論的位置づけ

音楽を、単なる芸術ジャンルではなく、自己連続性の全層的統合装置として位置づけた。

音楽が情動的亡霊性を媒介する理由は、それが予測符号化の美的形式であり、差延の時間構造を体験化し、全発達レベルを貫通するからである。

(5) 臨床的示唆の提供

音楽療法を、差延的統合の治療的再構築として理論化した。各病理(ASD、PTSD、解離、統合失調症、AD)における音楽療法の有効性が、予測符号化の調整として統一的に説明できる。

7.5.2 理論的限界と今後の課題

しかし、本稿には以下の限界がある。

(1) 神経科学的詳細の不足

予測符号化と情動系の神経回路の詳細な結合は、まだ十分に解明されていない。特に:

  • 扁桃体がどのように予測精度を調整するか

  • 島皮質における予測と感覚の統合メカニズム

  • 音楽記憶の神経基盤(小脳-基底核-扁桃体-海馬の相互作用)

これらは、今後のfMRI、EEG、TMS研究によって明らかにされる必要がある。

(2) 文化比較研究の欠如

本稿の議論は、主として西洋哲学と日本の発達心理学に基づいている。しかし、音楽と情動の関係は文化固有の側面を持つ。

  • 音階、リズム、和声の文化的多様性

  • 儀礼における音楽の役割の文化差

  • 死者との関係についての文化的信念と音楽

文化人類学、民族音楽学との協働が必要である。

(3) 臨床プロトコルの未開発

本稿は音楽療法の理論的基盤を提供したが、具体的な臨床プロトコルは未開発である。

  • PTSD患者への音楽療法:どのような音楽を、どの段階で、どのように使用するか

  • ASD児への音楽的介入:個別化されたプログラムの設計

  • AD患者への音楽回想療法:選曲の個別化、集団活動の最適化

無作為化比較試験(RCT)による効果検証が必要である。

(4) ポジティブ情動の分析不足

本稿は、欠如・渇望・恐怖といったネガティブ情動に焦点を当てる傾向があった。ポジティブ情動(喜び、愛、感謝)の予測符号化的メカニズムは、より詳細な分析を要する。

  • 喜びは予測の充足だけで説明できるか

  • 愛の予測符号化的構造

  • 感謝という情動の時間的・間主観的構造

(5) 芸術全般への拡張

本稿は音楽に焦点を当てたが、他の芸術(絵画、彫刻、映画、文学)も情動的亡霊性を媒介する。

  • 視覚芸術における予測符号化

  • 物語における時間性と情動

  • 芸術の普遍的構造と音楽の特殊性

これらは今後の課題である。

7.5.3 今後の展開

本稿の理論的枠組みは、以下の方向での更なる展開を要請する。

神経科学的精緻化

  • fMRI研究:音楽聴取時の予測・誤差処理の神経相関

  • EEG研究:音楽的予測の時間的ダイナミクス

  • 臨床研究:各病理における音楽療法の神経メカニズム

発達研究の縦断的追跡

  • 乳児期から成人期までの音楽的経験と自己発達の関係

  • マザリーズへの反応と後の社会性発達の相関

  • 童謡記憶と高齢期の自己連続性

文化比較研究

  • 異なる音楽伝統における情動的亡霊性の媒介様式

  • 儀礼音楽の機能の文化的多様性

  • 世代的継承の文化的パターン

臨床応用の開発

  • 各病理への音楽療法プロトコルの標準化

  • 効果測定の方法論開発

  • 音楽療法士の訓練プログラム

芸術全般への拡張

  • 視覚芸術、文学、映画における情動的亡霊性

  • 芸術の予測符号化理論

  • 美的経験の統一的理解

これらの展開を通じて、本稿の理論的枠組みは、より包括的な情動と芸術の科学へと発展しうる。

7.6 結論:歌い継ぐことの意味

7.6.1 本稿の中心的主張の再確認

本稿は、以下の中心的主張を提示し、論証した:

情動的自己の生成は、現前する身体的変化(emotion)と不在の他者の痕跡(亡霊)が、予測符号化を通じて差延的に統合される過程である。この統合は:

  • 神経科学的には:扁桃体系を介した情動評価、予測と誤差の照合

  • 現象学的には:フッサールの時間意識、デリダの差延

  • 発達的には:レベル0-6における段階的深化

  • 間主観的には:共感、「あいだ」における情動の共有

  • 文化的には:外部記憶による世代的継承

として記述できる。そして、音楽がこの全過程を媒介する特権的装置である。

7.6.2 前稿との統合

本稿と前稿「憑依・情動・音楽」を統合すると、以下の包括的理解が得られる:

自己連続性の統合的理論

自己連続性は、三つの層の統合である:

  1. 身体的連続性:原自己、中核自己(レベル0-1)

    • 神経科学的基盤:脳幹、島皮質

    • 現象学的記述:身体図式、内受容感覚

  2. 物語的連続性:自伝的自己(レベル4-5)

    • 神経科学的基盤:海馬、前頭前野

    • 現象学的記述:時間意識、差延

    • 本稿の主要焦点

  3. 文化的連続性:世代的自己(レベル6)

    • 神経科学的基盤:外部補綴、分散認知

    • 現象学的記述:隔時性、世代性

    • 前稿の主要焦点

これら三層は階層的だが相互浸透する。そして、情動がすべての層を貫通し、音楽がすべての層を統合する

7.6.3 歌うこと、聴くことの存在論的意味

この統合的理解のもと、日常的行為――歌うこと、聴くこと――の存在論的意味が明らかになる。

歌うことは:

  • 身体的行為:呼吸、発声、共鳴という身体的実践

  • 情動的表現:内的情動を外化し、他者と共有

  • 記憶の実践:過去の他者(母、祖先)との対話

  • 予測の生成:メロディの予持、次のフレーズへの予期

  • 文化的継承:世代を超えた歌を現在に再生

  • 倫理的応答:死者への歓待、未来への責任

すべてを同時に行うことである。

聴くことは:

  • 身体的共鳴:音に身体が反応する(鳥肌、心拍)

  • 情動的触発:音楽が情動を直接喚起

  • 記憶の喚起:過去の経験が蘇る

  • 予測の体験:差延の時間構造に参与

  • 他者との共感:演奏者、作曲者、他の聴衆と共鳴

  • 亡霊の歓待:不在の他者を迎え入れる

すべてを同時に経験することである。

したがって、歌い、聴くことは、自己連続性を実践的に構成する行為である。

7.6.4 AD患者の歌――最も深い実証

本稿を通じて繰り返し参照したAD患者の歌は、この理論の最も深い実証である。

個人的記憶(海馬、レベル4-5)が崩壊しても、童謡という文化的記憶(レベル6)が外部的に保持され、それが:

  • 身体的記憶(小脳、基底核)

  • 情動的記憶(扁桃体)

  • 間主観的文脈(他者と一緒に歌う)

  • 文化的文脈(日本の童謡という共有財)

と統合されることで、一時的に「私」が回復する。

これは、自己が頭蓋内に閉じていないこと、自己が他者と文化によって支えられていること、そして音楽がその支持構造の中核であることの、生きた証明である。

前稿で引用したツェランの「投壜通信」の比喩が、ここで最終的な意味を獲得する。

童謡は、何世代も前の誰か(作曲者、最初に歌った人々)が投げた「瓶」である。それは時間の海を漂い、AD患者という「未来の読者」に届く。そして、その患者がそれを歌うとき、患者は:

  • 過去の投壜者に応答し

  • 現在の自己を一時的に回復し

  • (もし周囲に子どもがいれば)未来へと歌を継承する

この三時制の統合が、歌う瞬間に実現される。

7.6.5 終わりに:時は外れている、だから音楽がある

デリダが『マルクスの亡霊たち』の冒頭で引用したシェイクスピアの言葉――「時は外れてしまった(The time is out of joint)」――で、本稿を閉じる。

時間は決して純粋な現前ではない。それは常に「外れて」おり、過去と未来に開かれ、亡霊に憑りつかれている。

しかし、この「外れ」は欠陥ではない。それは人間的時間の本質である。

動物は「今」を生きる。人間は、過去を記憶し、未来を予期し、不在の他者に応答する。この「外れ」が、倫理の可能性であり、文化の基盤であり、自己連続性の条件である。

そして、音楽は、この「外れた時間」を最も美しく、最も深く体験させる。

音楽において:

  • 過去の音はまだ響いている(把持)

  • 未来の音は既に予期されている(予持)

  • 現在の音は、この二つに浸透されている(原印象)

  • 不在の作曲者が現前する(亡霊)

  • 聴衆は時間を超えて共鳴する(間主観性)

音楽は、時が外れているからこそ可能であり、時が外れていることを我々に教える。

我々は、この「外れた時間」の中で、亡霊たちの声に耳を傾け、応答し続ける。

そして、歌うことで、我々自身もまた、未来の誰かにとっての亡霊となる。

童謡を子どもに歌い継ぐとき、我々は:

  • 母の声(過去の亡霊)を再生し

  • 今の子どもと共鳴し

  • 未来の孫が歌う瞬間を予期する

歌い継ぐことは、時間の「外れ」を肯定し、その中で自己と他者と文化をつなぐ、最も根源的な倫理的実践である。

本稿が示したように、この実践は:

  • 神経科学的に基礎づけられ

  • 現象学的に記述され

  • 発達的に深化し

  • 間主観的に共有され

  • 文化的に継承され

  • 倫理的に要請される

音楽なしには、人間は人間でありえない。

歌い継ぐこと、聴き継ぐことで、我々は時間を超えた自己となる。


本稿は、前稿「憑依・情動・音楽――自伝的自己の連続性への亡霊的他者の寄与」および「感情・意識・他者の統合モデル ― 自己連続性と時間意識をめぐって」に基づき、著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4.5との対話を通じて作成されました。

(2025.11.2 公開)