2018年12月29日土曜日

人工知能と音楽の未来・梗概と補遺

0.はじめに

以下は、今年(2018年)の3月24日にロームシアター京都で行われた三輪さんとの対談「人工知能と音楽の未来」の梗概と若干の補遺である。対談はロームシアター主催の「「いま」を考えるトークシリーズ」の第4回として企画されたもので、主催者による要約は別に公開される(注)ので、ここでの目的は寧ろ、対談という枠組で、その場の状況に応じて展開された内容の再現というよりは、枠組の持つ様々な制約から避け難く生じた単純化に対して最低限の補正を試み、そこでは主題的に掘り下げることができなかった幾つかの点について目配せをすることにある。
(注)機関誌『ASSEMBLY(アセンブリー)』第二号 [特集]集まりの現在(リンクを踏むと、ロームシアター京都の機関誌「ASSEMBLY(アセンブリー)」の紹介ページに飛びます。pdf版を読むこともできます。対談の要約は、「いま」を考えるトークシリーズ2017年度抄録 に含まれています。)
対談において特に私が留意したことは、予め設定された対談の主題「人工知能と音楽の未来」に対して、三輪さんの活動が示唆するものを明らかにすることであった。そこで対談はまず、1.三輪さんの活動を紹介することから始まり、次いで2.人工知能の歴史を簡単に振り返り、その未来に対する展望の若干を紹介することを本題への導入とした。その上で、3.人工知能と音楽との関わりについて若干の例を挙げ、その中に三輪さんの活動を位置づけた上で、4.主題に対する問題提起を行い、5.議論のためのトピックを提示した上で、6.若干の検討を行うという流れとなった。ここでは1~3までについては当日の資料に基づき簡単な叙述を行うが、4以降については大幅な補足を行った。また、末尾には参考文献リストをつけた。

即ち、4.主題に対する問題提起においては、「AIによる芸術は不可能である」という主張を仮説として掲げ、「聴く」ことと「評価する」ことの違いを糸口にしつつ、その主張の根拠が、現時点でのAIの基本的な動作原理の限界から、芸術作品の制作・演奏・享受のそれぞれにおける創造的なプロセスに必要とされる、これまでにない新しい枠組みを提示することができない点にあることを説明する。

ついで5.議論のためのトピックとして、ジュリアン・ジェインズの二分心仮説を紹介し、音楽と人間との関わりを、人間が物語的な自伝意識を持つようになってから、レイ・カーツワイルのような特異点論者が予想するポスト・ヒューマンに至るまでのエポックという人類史的な大きな展望の下で考えるための素材を提示する。

その上で、6.の議論で扱われるテーマは以下の通りである。

a.AIと意識:AI研究は意識の問題に取り組む端緒にようやく辿り着いたばかりであるが、意識の構造の問題は、音楽と人間との関わりを問う上で避けて通ることができない。

b.AIと性:進化論的な展望では性は複製のためのメカニズムとして重要であり、音楽もまた適応の観点から性との関わりが論じられてきたが、ヒトを含む生物とは異なる物理的基盤を持つAIにおいて性が議論されることはない。

c.AIの異質性:AIと人間との異質性は、物理的基盤の違いや外部性・身体性の欠如に由来する、推論や内部状態の更新における遅延や非同期性の欠如といった、基本的なレベルに及んでいる。この点で有望なのは寧ろ、意識の問題に取り組みつつある構成主義的なロボティクスであり、今日のAIを特徴づける深層学習は基盤技術の一つに過ぎない。

d.「新しさ」の条件:深層学習が「新しさ」や「はじめて」を捉えることができないことを説明するとともに、その限界を見極めるためには、意識についての理解が必要であることを述べる。特に他者との出会いや意識の中断を超えて存続する自己同一性、無意識に対する意識の関係の理解が必要とされる。

e.人間の可塑性:一方で、人間そのものが過去においても変わり、将来においても変わり得るという視点を持つ必要があり、現在の人間についての了解は相対化すべきである。ジェインズの仮説やカーツワイルの予測は、そのためには有効である。

f.「逆シミュレーション音楽」の含意:これまでの議論を踏まえ、「逆シミュレーション音楽」が音楽が成立する条件を明確にし、かつ工学的な構成主義のような手法により、その可能性を探求する実践であることを示す。ポイントは3つあり、1つ目は「ありえたかも知れない」ものへの想像力の行使による「新しさ」の探求、2つ目は、音の系列の生成のみでは「音楽」ではなく、「物語」が介在することで「音楽」が成立するということ、3つ目は「音楽」が人間にとって持つ意味は、「身体性」を介して立ち現れるのであり、日常的な意識からその根拠に遡行するためには身体を介した「修行」が必要であること、である。

g.意識の擁護:意識は自然に対する「反逆」であり、「新しさ」の探求における意識の働きを軽視すべきではない。それは絶えざる修練と試行錯誤を伴う、「日常」との限りない往還の過程であり、意識からの離脱を目的とした行為、更にはそれの自己目的化とは区別されるべきである。神秘主義的な一方向的な離脱や病理的な状態と、芸術の活動を区別するのも意識の働きである。こうした観点からは純粋科学や数学と芸術には共通性がある。

主題の大きさ、三輪さんのこれまでの活動と主題との関わりの深さから、扱うべき論点は当然のように際限なく増殖して止むことがなく、稍もすれば混沌に陥りがちな議論に形を与えて下さった三輪さんと、ロームシアター京都の長野夏織さんに、遅ればせながらこの場を借りて御礼を申し上げる。

1.三輪さんの活動の要約

三輪さんの活動を特徴づけようとすれば、方法論としてアルゴリズミック・コンポジションを用いながら、身体性を音楽の成立にとっての不可欠の契機としてきた点にあるだろう。その展開を時系列に沿って俯瞰するならば、まず、「赤ずきんちゃん伴奏器」「東の唄」といった作品に代表される初期作品を特徴づけるマン・マシン・インタラクションがある。それは後年、「ひとのきえさり」のようなマーチン・リッチズの自動音楽機械との合奏へと流れていく。それと並行して、音楽が制作され、演奏され、享受される文脈の重視が、ノンフィクション作曲(「言葉の影 またはアレルヤ」)や架空の教団のための「新しい時代」シリーズという展開を経て、「…という夢をみた」という由来とともに「ありえたかも知れない音楽」としてアルゴリズミック・コンポジションに基づく音楽を提示していく流れとなり、その両者を統合したものとしてアルス・エレクトロニカでゴールデン・ニカを受賞した「逆シミュレーション音楽」の提唱を位置づけることが可能であろう。

「逆シミュレーション音楽」では「音楽」は3つの契機、即ち、1. 規則による生成:決定的な計算手順(アルゴリズム)、2. 解釈:身体を介したリアリゼーション、3. 命名:作品のタイトル、由来を備えたものとして定義し直され、「蝉の法」「またりさま」といった作品に見られるように、「ありえたかも知れない音楽」を「想像」し、コンピュータ・シミュレーションによって「検証」し、それを演奏者の身体性を必須の媒介として「実現」するといった側面を備えたプロセスの総体として捉えられる。

更に上記に加えて、佐近田展康さんとのユニット「フォルマント兄弟」名義での活動に代表される、フォルマント合成に基づくリアルタイム合成音声による歌唱の試みがある。ここでも唸りや喘ぎといった身体性への着目(「万葉集の一節を主題とする変奏曲、または「海ゆかば」」)、人間の歌手とのインタラクション(ペルゴレージ「スターバト・マーテル」)といった側面は見られるし、フォルマント合成は「言葉の影 またはアレルヤ」やモノローグ・オペラ「新しい時代」や「369」連作でも用いられている。

三輪さんの活動のAIとの接点について先取りして言えば、音楽に対する数理的な発想を指摘することが出来るだろう。他方で、AIとのずれとしては、身体性・実演の重視。祭祀性・儀礼性といった文脈の重視を取り上げることができるだろう。前者は歴史的にはピタゴラスにまで遡ることができるし、後者もまた音楽の起源に関わり、いずれについても今日の音楽に対する一般的な了解を超えて、以下の言葉に集約される音楽の人類史的なスケールでの問い直しに通じる。

「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか?その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?」 (三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)

2.人工知能(AI)の歴史と展望

人工知能研究は20世紀半ば、1956年のダートマス会議にその開始をおくならば、その後約60年近くの歴史を持っており、今日に至るまでのその発展の過程において何度かの興隆期を経て、現在、何度目かの興隆期を迎えていると見ることができよう。その歴史については様々な見方が可能だろうが、ここでは便宜上、以下のように整理しておく。

(1)1970年代前半までが第1次ブームであり、既にこの時期に今日に至るまでの研究領域が出揃っている。例として、知的で汎用的な問題解決のシミュレートを目指した一般問題解決器(GPS:General Problem Solver)、シェーキーのようなロボット、イライザのような対話療法を模した対話システム、SHRDLUのように限定された世界について自然言語を介して操作・問い合わせができる対話システムなどが挙げられよう。ニューラルネットの研究も既に存在し、今日のブレイクスルーに繋がる基本的なアイデアも既に提唱されていたが、パーセプトロンの限界が示されることで、一旦、人工知能の研究は、記号処理に基く論理・推論が主流となる。

(2)1980年代の第2次ブームは、かくして論理・推論の時代であった。日本においても第五世代コンピュータプロジェクト(ICOT)が国家主導で実施され、医療分野等ではエキスパートシステムが実用化された時代であった。だがその一方で、フレーム問題や記号接地(シンボルグラウンディング)問題のように、記号AIの論理主義アプローチの限界が認識されるようになり、それに対してCYCのような「常識」のデータベース化が着手された時期でもあった。

(3)その後AIは「冬の時代」を迎えるが、その中で1990年代には今日につながる確率・学習に関する研究が脚光を浴びるようになる。バックプロパゲーション、ボルツマンマシン、エルマンネットといったアーキテクチャでの問題解決の可能性が示されたことで、ニューラルネットが復活する一方で、論理主義アプローチの限界を超えるために、進化的アプローチ(遺伝アルゴリズム、人工生命)、昆虫型ロボット(包摂アーキテクチャ:Subsumption Architecture)が提唱され、機械学習(強化学習、自己組織化ネットワーク)や複雑系(カオス力学系・フラクタル)の研究が進展して、今日のブームを準備する。

(4)そして今日、2010年代の流行は、大規模データに基づく統計処理によって特徴づけることができるだろう。必ずしも人工知能と結び付けられていた訳ではないが、計算機の能力の飛躍的向上、Webなどによるネットワークの爆発的な成長を背景に、ビッグデータ分析、クラスタ技術、感性や嗜好に対する統計的アプローチなどが活発となり、かつては記号処理に基く論理・推論により解かれていた問題を機械学習や統計的手法で解く試みが行われてきたのだが、そうした中で深層学習が成功を収めることで、一気に人工知能ブームが再来することになった。

例えばAlphaGoは人間にはこなすことのできない程大量の人間の棋譜をサンプルとした深層学習と、これも人間が何世代もかけてやっと実現できるような莫大な回数の自己対戦による強化学習を用いることで、予測を大幅に上回る早さで人間に勝利してしまい大きな衝撃をもたらした。更にAlphaGo Zeroでは自己対戦による強化学習だけでAlphaGoを上回ることが示され、ゲームという閉じた世界ではあるものの、人間の能力の限界に由来するバイアスを含む棋譜に基づくことなく、機械学習を繰り返すことによって機械が人間の能力を超えることができることが示された。

(5)そうした成果や、ロボット工学、脳科学、遺伝子工学、ナノテクノロジーの発展を背景に、今後はAIと人間の共存が大きな問題となると考えられるようになった。例えば、ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』, 2014(邦訳 2017)ではスーパーインテリジェンス(superintelligence)実現のシナリオとコントロール問題(control  problem)が扱われ、人工知能、全脳シミュレーション、脳・コンピュータインタフェース、巨大知(ネットワーク)というスーパーインテリジェンスのシナリオそれぞれに対して、スーパーインテリジェンスの暴走を如何に人間が食い止めることができるかの可能性が議論されている。

レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』,2005(原題:The singularity is near), (邦訳 2007)では、機械が人間を凌駕する時点を「技術的特異点」(Technological Singularity)と呼び、遺伝学工学(Genetics)、ナノテクノロジー(Nano-tech)、ロボット工学(Robotics)の3つの革命が技術的特異点を可能にするとして、未来を予測するといった体裁をとっている。

現実には脳のリバース・エンジニアリングはまだ実現には程遠い状態であり、カーツワイルの「予言」の実現可能性には大きな議論があるものの、近い将来、人間の仕事の一部が機械にとって代わられることは確実と見られており、また、AIの悪用が現実的な問題となるのに応じて、ボストロムが主張は真剣に受け入れられつつあり、AIの適用への倫理的な歯止めが議論されるなど、社会的にも大きなインパクトを持つようになってきている。

3.人工知能と音楽

ここでの主題である「人工知能と音楽の未来」を議論するための準備として、人工知能と音楽との関わりについても過去の歴史と現況を概観しておくべきだろう。

音楽の背後にある数理的秩序は、人工知能との親和性の高さを思わせるが、実際、人工知能と音楽との関わりは決して近年のものではなく、既に第1世代で人工知能の課題として自動作曲への取り組みが為されており、ヒラーの「イリヤック組曲」(1956)のような実例が存在する。同時に、コンピュータの計算能力を背景として、クセナキスに代表されるように、工学的な研究としてではなく、伝統的な作曲技法とは独立に、各時区間における巨視的な音響の特性を統計的に決めていく「確率的音楽」による実作の試みも為された。

第2世代の1980年代になると、アルゴリズミック・コンポジションについても初期の人工知能研究の枠内での実験の成果を超えて作曲の手法として確立し、一例だけ挙げれば、クラーレンス・バルロの「ナイルの一月」のような、ちょっと聞くと、最早自動作曲かどうかの区別がつかないような優れた作品が産みだされるようになる。この時期は三輪さんの活動の初期にあたっているが、当時はようやくパーソナル・コンピュータの普及が始まったばかりの時期であり、計算速度や記憶容量の大きな制約の下で、寧ろそれを逆手にとったような作品が産み出されており、それらは工学的な実験とは一線を画している。

近年の事例としては、再び工学的な研究に戻るが、やはり機械学習を用いた事例を幾つか指摘できるだろう。例えば、DeepBachはJ.S.バッハのコラール編曲を学習してバッハ風の楽曲を自動生成するもので、人間が真作か偽作かの判断に迷うような品質を達成したと報告されている。WaveNetは、従来の学習がMIDIシーケンスのように記号化されたデータを扱っていたのに対して、音声信号を直接扱うことが大きな特徴で、基本的には音声合成技術の研究成果だが、応用例として、ロマン派のピアノ曲を学習してロマン派テイストの作品を自動生成したものがWebで公開されており、その達成レベルを確認できるようになっている。日本国内でも、東京大学の嵯峨山研究室で歌詞を入力すると歌を自動作曲し、合成音声で歌唱するOrpheusが開発されている。

その他、Google Magentaのような機械学習を用いた自動作曲環境が提供されたり、自動的な和声付を行うもの、人間と一緒に自然な合奏を行うことができる自動演奏システム等、適用分野は大きく広がってきている。商業用の音楽では、統計的学習により、想定される聴き手の感性や嗜好にあった音楽を自動生成することも既に実用化されているようであり、従来はコンピュータには苦手と思われてきた、感性や好みのようなものが扱えるようになったかに見える。

だがそれでは音楽作品の創造もまた、囲碁のようなゲームと同様、最早、コンピュータが人間のレベルに迫っており、近い将来人間を凌駕するような作品がAIにより作成されることになるのだろうか?

4.問題提起

この対談では問題提起として「AI芸術は不可能である」という主張を呈示して、その妥当性を検討するという進め方をとった。芸術の定義もさることながら、AIとは何かの定義自体議論の対象となるだろうし、既述の歴史の中においても変遷があった(今や記号処理に基く論理・推論のことをGOFAI(Good Old Fashioned AI)と呼んで区別するのは、そうした変遷を物語るだろう)が、ここでは現時点で話題の中心となっている深層学習等の手法がそのままシンギュラリティに直結するといったような短絡に対して、その限界を示すこと、とりわけ音楽のような芸術作品の創造・演奏・享受の「主体」の位置にAIが来るためには、まだまだ幾つものブレイクスルーが必要とされることを示すこと、そして「逆シミュレーション音楽」をはじめとする三輪さんの活動は、まさにそれを明らかにしているということを主張することを対談の狙いとして設定したのである。

AIが音楽を生み出したり、享受したりすることは基本的に不可能であるといっても、既述のように、すでに現実に自動作曲も、自動演奏もあるではないか?という反論があるかも知れない。三輪さん自身、まさにアルゴリズミック・コンポジションという手法を用いることで自動作曲を実践しているではないか?だが、もし自動作曲が本当に音楽を創造する行為であるとするならば、主語の位置に来るのは三輪さんであってはならない筈ではなかろうか?単なる言葉遣いの問題と看做す向きもあろうが、本当にそれは言葉遣いの問題であって、バッハもどきを生成する機械はバッハが作曲するのと同じことをしているのだろうか?演奏についても行きつくところ同じことになるのだが、ここでは割愛することにして、ではAIが音楽を「聴く」ことができるかという問いならどうであろう?これについても、AIが音楽を「評価する」ことなら既に実現していると言って良いかも知れない。バッハの模倣ができるシステムが可能になっているのであれば、ある基準に従って与えられた作品や演奏に点数付けをして、自動的にランク付けをすることくらいなら決して夢物語ではあるまい。とりわけ演奏の「正確さ」のような基準での評価であれば、人間よりも正確ですらありうるだろう。評価基準は正確さだけではないから、音楽コンクールの審査員がシステムにそっくり置き換わることはない、という意見に対しては、人間の感性にしか捉えられないと思われてきた微妙なニュアンスさえ、機械が捉えることが出来るようになるかも知れず、それが実現すれば、多くの人間が同意するような点数付けを行うシステムは実現するのではなかろうか?

結論を先取りして言えば、こうした議論への反論は色々なレベルで可能なのだが、ごく簡単に言って音楽はそもそも評価するものではなく、体験、共感/感応するものだ、というのが最も端的な反論になるだろう。百歩譲ってコンクールでの順位づけは機械に委ねたとして、音楽はコンクール「のために」存在しているのではなく、作曲や演奏は、点数付けされるために行われるものではない。今日、録音された演奏を点数付けをして、序列化するという行為を音楽を享受する側はいとも簡単にやってみせるし、そうした点数付けに基づいて、ある享受者の嗜好を探り当てることも決して難しくないだろうが、それは結局のところ音楽とは無縁の営みなのだ。「聴く」ことと「評価する」ことの間の違いを無視し、前者を後者に還元する議論は、どこまで行っても音楽に到達できないだろう。

だがそれでは「聴く」ことと「評価する」ことの違いはどこに存するのだろうか?これも現時点でのAIがどのようにして評価を行えるようになるかの全体を考えれば、その違いを指摘することは難しくないだろう。少なくとも現時点においては、AIが統計的学習を行うに際して、学習をするためのサンプルデータは結局のところ人間が用意するのであり、AIが時として人間を凌駕するような性能を発揮するのは、あくまでも人間が用意した枠組みの内側で、人間が設定した尺度の上でのことに過ぎないのである。例えば、膨大な量の古典派の作品を与えて学習を行えば、古典派の作品の模倣を行うことは現時点での技術で十分に可能だろう。その上でモーツァルトの作品を与えれば、他の作曲家とモーツァルトの違いを産み出す特徴を抽出し、その結果に基づいてモーツァルトの模倣をすることも不可能ではないだろう。

例えばペルゴレージ作とされた作品のかなりのものが、今日は偽作であることが知られているし、モーツァルトの場合も交響曲第37番のように、最初はモーツァルトの作品と見做されたが、その後他の作曲家(ここではヨゼフ・ハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンだった)の作品にモーツァルトが加筆しただけ(正確には第1楽章の序奏のみがモーツァルトの手になる)といったような例があるけれど、残された作品を膨大な特徴の集合によって分類する作業は、今や人間よりも機械の方が遥かに信頼できる類の作業となって、その精度はエキスパートを凌ぐ程になっていることは、医療のような他の分野での成功事例から類推できるだろう。だが、そのことはモーツァルトやペルゴレージが傑作を作り上げるプロセスとは別の事柄に属するのである。

明らかなように、モーツァルトが傑作を産み出したプロセスは、残された傑作を事後的に模倣するプロセスとは全く異なるのであって、統計をベースとした機械学習は、結局のところ与えられたサンプルに対する平均的な作品を生成することはできても、前例のない例外的な傑作を生み出すことは原理的にできないのだ。モーツァルトとて、幼少期から数多くの作品に接して、時としてそれらを模倣しつつ、その様式を摂取したであろうが、問題はその先なのであって、作品の創作も演奏も、そして聴取もまた、それが「芸術」であって工学的な研究でないのであれば、統計処理では扱えない「例外」を目がけたものなのだ。そして思わず模倣をしたくなるような新たなフレーム、前例のない新たな規範を産み出すプロセスが、少なくとも現在のAIの学習とは異なったものであるのは確実なことなのである。

第2世代において、AIにおける難問としてフレーム問題が定式化されたが、それは事前に明示的な記述で網羅することのできない開いた世界を相手にした場合に発生するものであり、今日のAIにおいても未解決の問題である。あるデータの集合によって学習された系は、同じ傾向を持つデータについての予測はできても、学習データの中に含まれない出来事が発生して、データの持つ傾向が変わってしまえば適切な答えを返すことはできない。ネットワーク上で対話をすることにより学習をするチャットロボットが、差別的なバイアスのかかった訓練をされた結果、偏見に満ちた受け答えをするという事件が起き、予めバイアスのかかったデータにより訓練されたAIにより、例えば採用にあたり差別的な選考が行われることは既に現実的な危険として問題視されるようになったことから、AIを活用するための倫理的な規範の整備が行われているが、その規範があくまでもAIの開発を行う人間を対象としたものであることから分かる通り、学習が成功する場合には、フレーム問題が顕在化しないように、人間が解くべき問題をうまく設計しているに過ぎない。そういう意味においては今日のAIも、現実の世界の中ではなく、予め動作する環境を限定した上で設計され、決められた環境の中であたかも人間がするような受け答えができるように規則が与えられた記号AIベースのシステムと変わる所がない。そして独創的な作品を作ることは、事前に決められたルールに従った最適化ではなく、事後的にそこから新たなルールが獲得されうるような新しい問題の領域を設定することに寧ろ近いのである。

囲碁はそれまでに人間を凌駕してきたオセロ、チェス・将棋といったゲームと比べて、遥かに大きな解空間を持ち、特に序盤における評価関数を作成することが困難であると考えられてきたが、ゲームである以上は厳密に定義された問題であり、囲碁のプログラムは、囲碁のルールに従ったことしか起こらない閉じた世界を扱えばよい。特にこれまでAIにとって苦手と考えられてきた、形勢判断を明示的な規則にすることが困難とされる序盤においても、学習によって人間を凌駕するような打ち方を習得したことから、一見したところ、人間の感覚とかセンスと呼ばれるものに追いつき凌駕したように見えるが、寧ろそれは、問題が限定されてきちんと定義されたものである限りは、単に人間が自分で説明できないような技能について、膨大なサンプルに基づく学習を行うことで人間を凌駕することが可能となったと考えるべきで、それはバッハを模倣することや、与えられたサンプルの範囲内である嗜好に沿った音楽を自動生成するといったことが可能であるのと同じことである。そしてここまでの内容に基づいて、AIの現時点の達成水準がそのまま、AIが芸術の「主体」たりうると帰結することに対して留保することが、三輪さんが「音楽」を「才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのもの」にとどまるようなものではないと指摘する点に対応することを確認しておこう。

5.トピックの提示

だが、もしそうであるとしたら、音楽を生み出したり、享受したりすることが可能になるための条件は何なのだろうか?実はそれはまさに、三輪さんの言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」という言葉を解きほぐしていくことによって接近可能なものなのだと私は考える。

つまるところそれは、音楽とは人間にとって何か、という問題を考えることに他ならない。音楽の起源は未解決の問題であり様々な説が提唱されてきているが、進化論的な適応の観点からは音楽は扱い難い存在らしく、例えばピンカーは言語との対比の中で、音楽は適応上の機能を持たない「チーズケーキ」の如きものであるという主張をして議論を惹き起こしている。近年大きな進展を見せている脳神経科学においても音楽は厄介な存在で、言語において見られる機能的な局在というのが音楽においては見られず、脳のすべての領域が関わっているといった知見も得られているようだ。直感的にも音楽は、知的な認識の側面を超えて、感情に働きかけ、意識のレベルに留まらず、生理的な反応を惹き起こすとともに、無意識の領域に働きかけるもののように思われる。

そこで対談においては議論のための参照点として、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙 – 意識の誕生と文明の興亡』(原題:The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind, 1976)(邦訳 2005)を取り上げた。この著作において、ジェインズは「二分心」(bicameral mind)仮説を提示していて、いわゆる自伝的、物語的な自己に伴う意識は、西欧においてはたかだか3000年前くらいに発生したものであり、それ以前は右脳からの「神の声」(幻聴)に従う左脳に分かれる「二分心」の精神構造だったと主張している。

なお後述するように、「意識」いう言葉は人により定義がまちまちであることを踏まえ、ここでジェインズが論じる「意識」が、どのようなものであるのかを示すためにジェインズはそれを、以下のように定式化する。
  • 意識は言語に基いており、ほとんどの活動は無意識に行われる
  • 意識は経験の複写ではない
  • 意識は概念に必要ではない
  • 意識は学習に必要ではない
  • 意識は思考に必要ではない
  • 意識は理性に必要ではない
それに対して意識は<空間化><抜粋><アナログの私><比喩の自分><物語化><整合化>によって特徴づけられるとされる。また意識・自己の成立による変化として、ジェインズは情動から感情へ、恐怖から不安へ、恥から罪悪感へ、交尾からセックスへといった変化を指摘している。

ここでの「意識」は覚醒や気づきとしての意識や自己感に伴うそれとは区別され、より高度な水準のものであることに留意する必要がある。エーデルマンの定義に従うならば、「原意識」ではなく、「高次の意識」が問題になっているのだ。単なる外界に対する気づきのような、カンブリア爆発以降の生物であれば備えているようなレベル、あるいは自己の内部状態を情態として感知するループを持つことによって自己感を獲得し、外部知覚と組み合わせて反応することができる中核意識のレベルではなく、過去・未来という時間の意識を持ち、自伝的な自己同一性を持つために必要なレベルの意識が問題となっているのである。

ジェインズの仮説によれば、トロイ戦争があった紀元前1000年くらいの時期には意識がなかったことになり、当然の反応として、「アキレウスやアガメムノンは言葉を話すし、考えてもいれば行動もしているから意識を持っていなかったとは到底考えられない」といった反応が容易に予想できることから、そうした反応に対する予防線として、意識を備えている現在の人間にとっては自分の背中を見るようなもので、意識がない状態を考えるのには困難が伴うけれども、実は、自伝的な自己を可能にする意識がなくても考えたり行動したりできること、例えば経験の複写や学習なら自己感を持つことなしでも可能だし、より高度な概念、思考、理性は言語の獲得を前提としているが、自伝的な同一性なしでも可能なのであり、総じて、意識がないと言っても、心がないわけではなく、異なる心の構造を持っていたということを主張しているのである。

そしてジェインズはこの仮説を、ホメロスの叙事詩における「心」を表す語彙の検討や、考古学的な知見に基づく社会制度や生産システムの変化、文字の使用や宗教の発生といったプロセスと対応付けて説明しており、意識が出現し、「二分心」が崩壊すると「神の声」を聴くことができなくなった(「隠れたる神」)とし、詩(韻文)や歌(音楽)をかつての「二分心」の名残と考えている。また同様に、呪術や催眠、統合失調症のような病理も「二分心」の名残であるとされている。

ジェインズの説は既に提唱されて半世紀が経過しており、その後に得られた知見により補正されるべき点もあろうが、「意識」の定義に纏わる誤解を除いてしまうと無視し難い説得力を持っており、近年でも例えば脳神経科学者のダマシオや哲学者のデネットなど、ジェインズの説への肯定的な言及がなされている。

例えばダマシオにおいては自己および意識の階層として、原自己→中核意識→延長意識→自伝的自己を考えておりそれぞれが人間の脳の部位と対応づけられているが、ジェインズのいう意識は、そのうちの自伝的自己に概ね対応するものと考えられる。また現象学的な時間性との関係では、ジェインズが論じる意識は生物学的な基盤よりは寧ろ、その上で獲得された言語を媒介とした文化的・社会的基盤に基づくものとされ、デリダのグラマトロジー、スティグレールの第三次過去把持、あるいはリクールの物語的自己同一性の水準との対応付けが可能であり、メディア論や物語論との関連を論じることもできよう。或いはまた、精神分析学におけるフロイトの心的装置理論(エス・自我・超自我)との対応を考えることもできよう(ジェインズ自身も言及しているが、例えば岸田秀は、ジェインズの仮説を主題とした対談において、それとは異なった対応づけを行っている)。

だがここでは音楽にフォーカスすることとして、三輪さんの「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」という定義と突き合わせてみるならば、三輪さんの定式化は、今日の状況において共時的に捉えられる構造の、通時的な起源についての仮説といった関係にあることが見て取れる。ジェインズの仮説については別に検証が必要であろうが、その是非はおいて、音楽とは人間にとって何かと問うことが、そのまま人間の心の構造への問いに繋がり、更に、人間の生物学的進化、文化的進化の過程を問うことに繋がるのであり、音楽は、共時的な構造から通時的な過程を垣間見ようとしたときに、まさに鍵鑰をなす位置にあるのだ。

だがそればかりでなく、ジェインズの説においては、古代ギリシャ以来の論理学や意識的で合理的な推論に基づく哲学の発展も、コンピュータに至る科学技術の発展も、かつての<二分心>の崩壊の結果と見なされている点に留意しよう。つまり科学もまた<二分心>の崩壊後に起きた、二分心の崩壊への反応と解釈できるとされるのである。ジェインズ自身が自分の仮説と議論を、そのように再帰的に捉えていることの顰に倣えば、AIと芸術を巡るこの対談そのものもまた同様に<二分心>の崩壊への反応に他ならないだろう。このようにして、ジェインズの仮説をトピックとして提示することにより、AIに芸術が可能かという問いの射程が、深層学習により(場合によっては人間以上に巧みに)既存の楽曲の模倣ができるかといった問題に集約できるようなものでは到底ありえず、人間の芸術の関わり、芸術の起源とその機能の問い直しなしに答えることができないことを示唆することができたと考える。以下ではこうした認識に基づき、特にこの対談の主題を論じるのに不可欠と思われる論点について、若干の議論を行う。

6.議論

a.AIと意識

そもそもAIは定義からしてもアントロポモルフィックなものであり、その探求は絶えず人間の知能とは何かという問い返しに導かれてきた。そしてこれまでの半世紀以上に亘る研究によって明らかになりつつあることの一つは、やや皮肉めくけれども、「知性」のみを取り出すことの抽象性なのだ。

例えば第2世代までのAI研究が、フレーム問題や記号接地(シンボルグラウンディング)問題にぶつかって、身体性や意味を扱うことがAIの実現にとって避けられないという認識を持つようになると、最初はまともにとりあわなかったドレイファスのような現象学者の批判に対して耳を傾けるようになり、一旦は否定されたニューラルネットによる学習や遺伝的アルゴリズムや人工生命のような進化論的アプローチが注目されるようになった。「知性」そのものが、それを支える「意識」と同様に進化上の適応の産物であり、生存競争において種の存続のために選択された戦略の一つであるという認識は、環境世界との相互作用に基づくサブサンプション・アーキテクチャによる昆虫型ロボットのようなボトムアップのアプローチを経て、その限界を見極めることによって、今一度、「意識」の機能や適応上の価値を問い直す段階に辿り着いたと見ることができるだろう。

既に意識を持ち、言語を持ち、社会的なコミュニケーションを行い、外部記憶媒体に蓄積され、個体の経験の限界を超えて継承された知識にアクセス可能な今日の人間が、自分の存立基盤を問うことは困難であり、そのことは「意識」を巡る議論一つとっても明らかである。ミンスキーは「意識」という言葉がいわゆる「スーツケースワード」であるという指摘をしているが、意識の特徴を列挙し、機能を並べただけのアプローチでは、既に出来上がったものの記述から先に進むことは困難であり、現時点の意識を共時的に分析するにしても、通時的な進化の過程が共時的な構造にいわば埋め込まれている脳の構造と機能を手がかりにしたダマシオのような脳神経科学な知見や、やはり現生の生物の共時的な多様性から、意識の発生と高度化の通時的な過程や様々な選択肢を垣間見ることができる進化論的なアプローチを手がかりにしてようやく適切な手掛かりを得ることができる。例を挙げれば、ファインバーグとマラットが『意識の進化的起源』で扱うのは非常に低次の段階の意識、「原意識」や「感覚意識」と呼ばれるものであるし、ジェインズの扱うのは、それよりは高度な意識であるばかりか、単なる自己意識に留まらない、ダマシオのいう「自伝的自己」に対応する「延長意識」を問題にしているのであり、更にその成立は言語の獲得を前提とし、宗教・芸術といった社会的・文化的な進化の過程と密接な関わりを持っているという主張なのである。

ジェインズの仮説が興味深いのは、いわゆる自己感を伴う高度な意識から、更に単なる自己意識と区別される段階として、自らの寿命の有限性を意識し、睡眠などによる意識の中断を超えた自己同一性を保持する自伝的・物語的自己が可能となる延長的な意識を取り出し、かつそれが言語を前提とし、文化的社会的な基盤を持つものである可能性を示唆している点にある。それは他の高度な心性を有する動物との共有が議論されることもある自己認識を出発点とし、こちらはヒト固有と考えられる「心の理論」の獲得による相互主観性の成立、更には自己意識の発生を経て、自伝的記憶を持つに至るまでの意識の発展の過程の最終段階であるが、それに加えてその最終段階の手前、埋葬の習慣の成立や芸術の萌芽が見られる段階に、自伝的自己同一性を備えた意識を持たず、歴史意識のない<二分心>の時期を想定したことにある。その過程の詳細には様々な仮説があり、必ずしもジェインズの仮説は広く受け入れられているとはいえないかも知れないが、音楽に限定してみるならば、その萌芽的な段階から今日に至るまでの歴史ににおいて生じた脱呪術化・脱宗教化・世俗化の果ての、三輪さんの語る「音楽の死」に至るまでの過程を説明する極めて有効な仮説と考えられる。

逆に言えば、今日の我々が自明であると考えている「意識」は決して自明なものではなく、それは上述のように通時的にそうであるのみならず、共時的にもそうなのである。ダマシオの研究は病気や事故により脳のある部位の機能が阻害された症例の研究に基づいて構築されたものであるし、ジェインズが二分心との関連を示唆する統合失調症のような病理、幻覚や憑依、催眠においても「自伝的自己」をともなう意識は自明のものではない。より身近な場面に例をとれば、認知症において「自伝的自己」は解体し崩壊していくが、「中核自己」はその後もしばらくは存続すると考えられる一方で、他方では、既述の催眠や憑依がそうであるように、化学的な方法によってあえて通常の意識を中断し、意識の変性状態に到達することも試みられている。瞑想や座禅について言えば、それはより意図的に通常の意識の水準を遮断して、変性状態を生み出すための方法論であるという見方が可能であろう。そしてジェインズが言うように、音楽もまた、典型的には呪術的・宗教的な儀礼の中で用いられるとき、そうした目的で利用されることがあるのであって、三輪さんの言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」という言葉も、今日における音楽についての一般的な了解を中断して、こうした背景を辿ることによって理解することができるのではなかろうか。

b.AIと性

翻って人間と芸術の問題を考える上では、性の問題を抜きして論じることは考えられないであろう。承知のように、性は生物の定義の一つである複製することができる能力と密接な関わりを持つ。進化論的な観点からいけば、複製にあたりその速度の点では不利である一方で、多様性を確保する観点では有利である。単性生殖は、ある時点で適応した環境が安定している前提であれば、急激に個体数を増やすことを可能にするが、複製の仕組みそのものには多様性をもたらすメカニズムが備わっていないために、環境の変化に対する頑健性については劣っている。結果として、それゆえ複雑な構造を持つ生物はほぼ例外なく有性生殖を行う。生命の多様性は性によってもたらされたと言って良い。

性を持つ高等な生物の場合には、適応上のメリットを性に関連付けて論じることが多いことから、真偽の程は措くとしても、そして既に記したようにピンカーのような主張もあるとはいえ、様々な事象について進化における何らかの適応上のメリットがあると考えるのが大方であり、音楽についてもそうした観点でのメリットが主張されることが多い。そもそもダーウィンが既に、音楽の存在理由をまさにそうした観点におけるメリットから説明している。更に言えば、性的な対象に対する意識の成立にしても、死への意識にしても、ジェインズの言う二分心の崩壊とともに発生した自伝的な自己の発生と期を同じくしており、それはまた、精神分析で論じられるような無意識・抑圧のメカニズムの発生とも関連している。少なくとも今日に至るまでの音楽の機能や意味を考える上では、単に生物学的な適応の問題に留まらず、心理的な意味について論じられているわけで、この点を抜きにして音楽を論じるのは片手落ちとの批判を免れないだろう。

一方、AIが人間の知能に関心を限定する限り、性の問題ははじめから問題になりえない。そしてその点は意識の問題についても同様であり、ロボティックスにおいても性が中心的な問題となることはないように見える。また複製は有限の寿命を持つ個体が死滅することで世代交替を行うことが前提であり、生物個体の有限性の裏面でもある。このように「性」も「死」も生物にとって極めて根本的な側面であるにも関わらず、AIやロボティックスにおいては、それらが主題的に論じられることはない。そうであるならば、音楽が適応上の機能を持つか否かについてのピンカーの主張の是非を問わず、そもそもが問題の土俵の外にある以上、生物学的な基盤を共有しないAIシステムやロボットにとって人間に必要とされるものとしての音楽は、端的に不要であることになるだろう。

c.AIの異質性

このような観点でAIにおける芸術の可能性を考えると、寧ろ際立ってくるのはAIの異質性の側ではなかろうか。AIは地球上に存在する生物と、その物理的基盤を全く共有していない。ニューラルネットは生物の神経回路網のシミュレーションではあるけれど、シリコンチップの上で動作するそれは、生物のそれに比べて極めて高速に動作する。一般に高速性はコンピュータのアドヴァンテージと考えられ、狭義での計算機とのしてのそれは、AIを持ち出すまでも無く、演算の速度と能力に関してごく初期から人間を上回りかつ正確であった。だが、ここではそのアドヴァンテージは逆にAIが少なくとも人間(や人間と同じ進化上の戦略を採用したイルカやカラス、インコのような他の生物)のような「意識」を持つか否かという論点に関しては寧ろ制約になるかも知れない。(実際、ダマシオはシリコンを基盤とするシステムが意識を持つことに対して否定的な見解を述べている。)

推論とその結果による内部状態の書き換え(最も単純にはセル・オートマトンのような系を考えればよい)は生物においては瞬時には行えず、時間的な遅延が伴うのであり、系の内部状態の更新動作そのものもまたゼロではない有限の時間を要するのであって、そこでは更新そのものが非同期に起きると考えるべきなのだ。そうした有限時間での系の変化が、それを無視した場合と異なる論理を持ち、異なる時間発展をすることについては、津田一郎の「ステップ推論」や郡司ペギオー幸夫の「非同期オートマトン」の実験が明らかにしている。更に意識を備えるような系は、単に外界からの情報に基づき、いわば「反射的に」内部の状態を書き換えて反応をするだけではなく、外部からの情報と身体内部の状態に関する情報(情動や感情の起源)との両方に基づいて行動をするのだが、そうした系の内部では局所的に非同期な時間の流れが複数同時に並行していると考えるべきであって、意識はそれらを統合して、整合性を与える役割を果たしていると考えられる。渡辺正峰は、仮想現実の神経回路網での実装として、川人光男の生成モデルに基づく検討を行っているが、これは単に外界からの情報に基づき、内部状態を変えるのではなく、生成モデルを用いて内部状態が正しいかどうかを確認する手続きである。(なお、この生成モデルに近い実装例として、近年、深層学習において注目されているGAN(Generative Adversarial Network)が取り上げられ、ネットワークが多層であり、隠れ層を持つ事が重視されている。)そして意識が受け取るのは、この生成の結果であり、生成モデルが収束するまでに必要とされるだけ遅延が発生するのを、リベットの実験で明らかにされた意識の時間遅れの原因と考えており、興味深い。つまり意識が生じるためには、外部をそのまま直接的にモニタするのでは不十分で、少なくとも生成モデルのような機構に担われた仮想現実システムが必要であること、更には感覚モダリティごとの特性が反映された複数の生成モデルによりマルチモーダルな認知が可能となり、そこにタイミング合わせの機構としてリベットの「主観的時間遡行」のメカニズムが更に加わって、ようやく低次の感覚意識体験が可能になると考えられているのであって、ここでは自己言及的な意識のレベルはそもそも対象外となっていることに注意しよう。

こうした点を踏まえれば、単なる深層学習を行う系の挙動との違いは明らかであろう。そこに「知性」を見るのであれば、寧ろ、意識なしのAIが可能かどうかを、更に言えば、人間の知性とは異なった「知性」の可能性を追求するのでなければならない。逆にAIがそのアントロポモルフィックな定義の下に留まるのであれば、AIに意識を持たせるために必要な条件を見い出す探求において、ジェインズの想定する二分心を持ったAIが可能かどうかという問題が成り立つだろう。(極めてラフな素描ではあるが既に嶋津好生はそうした方向での検討を行っている。)寧ろこうした観点では、深層学習は基盤技術の一つに過ぎず、寧ろそれよりは、身体性を扱うことができ、環境との相互作用に対するカオス力学系的なアプローチが試みられ、構成主義的なシミュレーションによる検証に基づくロボット工学にこそ注目すべきなのではなかろうか。実際、ロボット工学の先端においては知能を作りこむこと、あるいは特定の問題を解く為の学習を行う枠組を人間が設計して用意するのではなく、環境との相互作用の中での知能の創発を目指した試行と検証が行われ、その中で意識を持たせるためのアーキテクチャの検討や意識を持つことの意味を解明するための研究が行われている(例えば土井・藤田・下村(編)『脳、身体性、ロボット』を参照されたい)。そこでは人間が与えたフレームの中で人間を凌駕するようなパフォーマンスを発揮することではなく、フレーム自体を作り出すことが目指されているのだが、私見では人間の「知能」の最大の特徴はまさにその点に存するのである。

フレーム自体を作り出すことは、芸術を考える上で外すことができない創造性の問題とも密接に関わる。創造性はしばしば霊感とかひらめきといった言葉で語られ、ややもすれば神秘化される傾向すらあるが、AIに創造性を持たせられるかを問うことは、そうした神秘化を排除して、問題に対して自然主義的にアプローチする手掛かりになるであろう。そこで重要なのは無意識の役割だが、それは本能ではなく、学習や訓練の結果、自動化された過程と考えることができる。そして私見では、重要なのは無意識の働きよりも寧ろ無意識の働きを受けて意識が果す役割の方である。

d.「新しさ」の条件

ここである系が「新しさ」を捉えるための条件を検討してみよう。まずもって、記憶がなく、都度新しい瞬間のみがある時、実際には「はじめてだ」という感じは起こらない。(ここで思い浮かべるべきは、脳神経科学者が報告する病理的なケースであろう。)つまり「新しさ」は、エピソード記憶の系列からなる自伝的自己があってはじめて可能な経験なのである。だが「はじめて」かどうかということの判定ということであれば、一見したところ単純なパターン・マッチングや距離計算により検出可能に思われるかも知れないし、それは流石に現実を過度に抽象化したが故の錯覚であるというのであれば、事例をひたすら貯めこんで学習を行う機械であれば、ある事象が統計的にみて「慣用的なもの」か「例外的なもの」、稀なケースであるかどうかを判定できるのでは、という疑問が湧くかも知れない。だがそもそも今日の機械学習において、機械に対してどういうデータを学習用に与えるのかを機械を操作する人間が決めているならば、「新しさ」や「はじめて」を決めているのは機械ではなく、学習の環境をナヴィゲートしている人間の側であろう。結局のところ、デネットが『心の進化を解明する』で述べる「理解力なき有能性」は「新しさ」を感じることはない。それは統計的な規則性と、それからの逸脱を検出することはできるが、その逸脱が単なるノイズなのか、「はじめて」経験する「新しい」何かの到来なのかを判定することはできない。結局のところそれは、事後的には「目的因」として仮構されるような或る種の方向性を、学習する系自体が持つ事なしには不可能なのだ。

だがそれではAkphaGOおよびその後継のシステムのように、囲碁という、或る意味では人間の能力を超えるほど広大な空間を持ちながら、結局のところゲームの定義と規則によって定められた、評価について閉じて完全に安定した領域であれば既に実現されたかに見える、自己ナヴィゲーション能力があれば十分かと言えば、それが閉じた空間の中での能力である限りは、ここで言われている「新しさ」や「はじめて」に到達することはやはりないであろう。この点に関連して、『心の進化を解明する』における、アルファ碁その他の実際の「知的」システムそれぞれの達成したものと、デネットのいう「理解力」との距離を測る作業に感じ取れるある種の逡巡の理由を考えることは興味深い。デネットは、いわゆる「強いAI」に対して否定的ではないにも関わらず、クオリアは存在しない(つまり意識はあるが、現象的特性は幻想である)と言い、哲学的ゾンビについては、我々人間もまたゾンビであるという立場をとる。ヘテロ現象学の提唱に見られる一人称的パースペクティブ(ひいては三人称的なそれとの対比)に関する素朴な(それこそフォーク・サイコロジックと言い返したくなる)思い込みもそうだが、彼は、本来は「存在」に対して中立であるべきところで、如何なる理由によってか定かでないが(まさかそういった方が論争上の修辞的な効果の上で優っているからということはあるまいが)、勇ましくも断定を行い、そのことによって、幻想であったり物語であったり、虚構であったり、幽霊であったりするものどもの存在論的地位を認めない。

ここではそれを論証することはかなわないので、示唆するにとどめるが、実はそのことは、一人称的パースペクティブの成立の基盤にある「他者の経験」をデネットが等閑視していることと通じており、そしてそのことが、「知的」システムそれぞれの達成水準についての評価の基準においてデネットが決定的な点を見落とす原因でもあるのだ。「他者の経験」は、ジェインズの「意識」、即ち自伝的自己の成立に生成論的には先行して、「心の理論」を構築して相互主観性を確立する契機であるから、デネットの議論は「意識」の発生論から見れば、「意識」のレベル間の差異を扱うだけの肌理の細かさを欠いているというようにも言えるだろう。この点について言えば、世上、誤解される場合が多いように見受けるが、哲学的ゾンビという問題設定自体をナンセンスだとするヴァレラの神経現象学的視点の方が優っているのである。一見したところ論理的には矛盾しているように見えるヴァレラのような考え方を、そちらの方こそナンセンスとして切り捨てるのは容易いが、そうする者はしばしば、己れの論理が前提とする「意識」概念の規定が持つ素朴さに足をとられて、現実の奥底に隠されているメカニズムを見過ごしてしまう。もっともデネットの奇妙なスタンスに対するだけであれば、ロボット工学者で受動意識仮説を提唱している前野隆司のクリアな断定を持ってくれば十分であろう。消去主義者寄りの立場を自認する彼もまた「意識は幻想だ」というけれども、その先はデネットとは袂を別って「在るというには頼りない幻想のようなものだが、その幻想のようなクオリアは<私>にとって確実に第一人称的に感じられるものだ」と言い切っているのだ。この一見すると常識的と思われる見解の中の「感じられる」ということばにこそ、全てが賭けられていると言っても良いだろう。そもそもが、寧ろ説明すべきは「クオリアが確実に感じられるのは如何にしてか」の方であった筈である。

デネットの立場の素朴さは、彼が「意識」を説明するために用意する道具立てに現れている。彼が具体的に提示するモデルは分散処理的ではあるけれど、そこから意識が立ち上がってくるための具体的なメカニズムを欠いている。そして意識に関する多くの議論がそうであるように、意識を相対化し、意識の背後にあるものを指摘し、あるいは意識を幻想であるとし、その果てには意識そのものを消去することに熱心になるあまり、かくも躍起にならずにはいられない程にまで強固な意識の構造がどのように成立したかについての議論を等閑視し勝ちな傾向にあり、デネットもその弊を逃れていない。必要なのは、具体的な理論(ないし理論に基づくモデル)構築の裏付けを持たない哲学者の貧困な論理などではない。それは、それ自体が間違っているのでなくても、その操作が暗黙裡に前提としているモデルがあまりに単純すぎるあまり―それはこの観点からいけばフォークサイコロジックなものと多くの場合には大きくは異ならない―、一見したところ直観に反するような指摘ができた場合でも、いわば必要条件を浮かび上がらせることがせいぜいで、説明能力のあるモデルを提示するには及ばないのが常であるようだ。そして皮肉なことに、その限界は、意識の背後に辿り着こうとはするものの、そこからの帰り道を考えないという点において、それが自己との差異を強調し、否定しさろうと試みる、あまたある神秘主義や非科学的な主張と、その結果において変わるところがないのだ。唯一の支えは論理的な整合性なのだが、それは批判において力を発揮しえても仮説を構築するには不足している。まさに「新しさ」を欠いているのである。

それでは「新しさ」や「はじめて」についての再定義を可能にするような理論や方法論はないのかといえば、その手掛かりは既に存在しているし、研究も着実に進展している。一例を挙げるならば、カオス理論は、控え目に言っても、予測が可能であるということの意味合いを根本から変えてしまった。決定論的な規則に従って時間発展する系であれば、その挙動は予測可能であり、そこには「新しい」ものはなく、それゆえ、「はじめて」ということもないのだというのは、カオス力学系については当て嵌まらない。そしてこれは単なるアナロジーに過ぎないが、カオスが発見されたのが、天文学における三体問題であったことを思い起こしてみるならば、それぞれが世界の中に埋め込まれたエージェント間の相互作用、出会いや対話が成り立つような場を記述しようとしたときに、古典的な描像によるのではなく、寧ろカオス力学系を用いて記述するのが適切なものであると考える方が自然ではなかろうか。そもそもが知覚や記憶のメカニズムにカオスが関わっている可能性があることがフリーマンや津田等の研究により既に示唆されており、エージェントを単独の系として取り扱う際に既に、その内部の挙動はカオス的であるかもしれないのだ。そしてそうした系については、解析的に調べることができないから、モデルを作ってシミュレーションしてみるという、工学的なアプローチが不可欠なものとなる。

一方で、臨床的な症例研究の着実な積み重ねに加えて、前世紀の現象学やその流れを汲む現象学的精神病理学では利用できなかった―そしてそれ故に、猖獗を極めた行動主義によって検証不可能であることを以て早急に葬り去られたかに見えたのだが―脳の活動を測定する技術、とりわけfMRIやMEGをはじめとする脳画像技術の発達を背景として脳神経科学が発展するにつれ、意識の解明の重要な半面であり、それ故に「解決不能」と見做されたり、論理的な思弁によって「ハード・プロブレム」に祀り上げられたりしてきた意識の主観的側面に関しても、客観的、実証的な視点との橋渡しをする可能性が出てきた。今や、思弁による単純なモデルに基いた思考実験に依拠するチャーマーズやデネットのような哲学者よりも、豊富な事例を持ち、実験により検証を行える脳神経科学者の方が、現象学的な視点の重要性に対して自覚的であるかに見える。随伴現象という概念にミスリードされた哲学者の弄ぶゾンビ―意識ある存在と全く見分けがつかないにも関わらず意識が欠如しているとされる―は論理の見かけの鋭さのみを競い合う不毛な論争の空間を彷徨うばかりで、遠からず実証が可能な問題を形而上学の領域に閉じ込めてしまい、一方ではネーゲルやマッギンのように、意識を神秘化して、それが人工物に実装される可能性に目を閉ざすかと思えば、他方ではチャーチランド夫妻やデネットのように、AIが抱えている問題の所在を見失い、これまた(機能主義を採るか、還元論的な立場を採るかの姿勢の相違に応じて、その内容は異なっても、結局のところ)論理のみの詭弁でしかない短絡により問題を消滅させることで解決したと勘違いして、現状への認識を誤らせるばかりか、やはりこちらもまた、意識を持つ人工物を工学的に構成主義的に実現する試みの障碍になっているようにしか見えない。後者については、かつて第2世代のAIが犯した過ちと同型であるように見える。その一方で、クリックとコッホにより定義された、脳の神経回路網の中に感覚意識経験を生じさせるに十分な最低限の神経活動とメカニズム(NCC)を見出そうとする試みは、まだ端緒についたばかりであるとはいえ着実に進んでおり、有力な仮説も既に幾つか提唱されてきている。ここでの議論にとってはそれらの仮説間の相違を論じるのは煩瑣に過ぎるため、ここではそのうちの幾つかを示すに留めることにするが、エーデルマンの「神経ダーウィニズム」に基づく「ダイナミック・コア仮説」、トノーニの「統合情報理論」、ドゥアンヌの「グローバル・ニューロナル・ワークスペース仮説」、更にはノルトフによる脳神経科学と現象学的な視点を架橋しようとする試み、或はまたソームズ/ターンブルの精神分析学と脳神経科学との間を架橋しようとする試みなど、枚挙に暇がない。

意識の解明を目的とした脳神経科学によって、生物学的な基盤の上に立つ原意識と、文化的・社会的な基盤を持ち、言語の獲得を前提とした高次の意識の区別を踏まえた上で、意識が発生し、高度化するメカニズムが明らかになるにつれ、芸術にとって不可欠な「新しさ」が如何にして可能であるかが解明されるだろうし、同時にジェインズの仮説が捉えようとした通時的な意識の発生の歴史についてもより明確な見通しが得られるようになり、音楽をはじめとする芸術の起源についても明らかになっていくであろう。そしてその時、意識を実装することを目指した工学的な構成主義的アプローチは、現時点の、ではなく来たるべき、意識を備えたAIを主体とした芸術の可能性にようやくアプローチすることができるだろう。そしてその時には、回顧的に、現時点でのAIの異質性が正確に把握され、現時点でのAI芸術の不可能性が理解されるようになるだろう。

e.人間の可塑性

一方では「人間」の側の可塑性にも留意をすべきであろう。繰り返しを厭わずに言えば、ジェインズの仮説は、今日一般的に了解されている意識の様態が、ヒトの進化の歴史の長さから考えればほんの一瞬にも等しい極めて短期間に獲得されたものであること、それが生物学的な進化の制約から離れた文化的な進化の産物であることを示しているのであり、スティグレールやアンディ・クラークがそれぞれ異なったアプローチで独立に示しているように、その起源からテクノロジーを不可欠の要件としており、文字記録をはじめとする外部メディアの補綴によって成立しているメディア論的なものであることに対して、通時的に説明することを試みていると考えることができる。

既に述べたように、音楽においても、嗜好にあった音楽を自動生成することは可能になっており、コマーシャリズムの現場では実用に供されているわけだし、三輪さんが指摘するように、既に一般的な了解として、録音された音響の再生を「音楽」と呼ぶことに違和感はなくなってしまっていて、「音楽」の定義そのものがテクノロジーの浸蝕により少なからず変容してしまっているのである。

こうした認識を未来の方向に向ければ、レイ・カーツワイルのような特異点論者の主張は、それを肯定的に捉えるにせよ、否定的に捉えるにせよ、無視することはできないだろう。今日の技術水準から単純にAIが人間を超えるといったような主張を行うことが余りに短絡的で視界狭窄に陥った議論であることは既に述べてきたことから明らかだと考えられるが、その一方で、ある側面では当初から人間の能力を凌駕しており、その範囲を着実に拡げてきたAI技術が、これまでそうであった以上に、今後の人間のあり方を変えてしまうことは否定できないだろう。だがそれ以上にカーツワイルの議論で今回の対談のテーマ上興味深いのは、シンギュラリティへの過程で「性」が果すと予想される役割の変化である。カーツワイルのポスト・ヒューマンの予測においては、バイオテクノロジーによる器官の置き換えのみならず、DNA修復やアポトーシスのメカニズムを解明して寿命を伸ばす可能性が論じられるとともに、生殖技術の発展により複製が「性」を介さずに可能となることも示唆されている。

カーツワイルの主張する、遺伝子工学とナノテクノロジーとロボット工学による人間そのものの変容は、技術的にはまだまだ未解決な部分が多く、実現の可能性すらたっておらず、確立されたものとは凡そ言い難いにせよ、そこに至るまでに発生するかもしれない失敗の可能性、最悪の場合には破局の到来の可能性をも踏まえた上で、将来に向けての議論をすべきであろうし、カーツワイルの予言が全面的に成就しないまでも「死」が乗り越えられ、「性」の機能が変わるとすれば、それに応じて人間にとって「音楽」の持つ意味合いというのも根本的に変わることになるだろう。既述の通り、これまでも音楽の人間にとっての意味合いは変化してきたが、人間の意識の様態の変化がそうであるように、音楽と人間との関係もまた、現在がその変化の終着点であると考えるべきではなく、今後も人間そのものがポストヒューマンへと変わるにつれて、音楽の持つ意味合いが変わっていきうるのだという視点を持つことは、音楽とは何かを考える上で、現実を相対化する上で意義があるだろう。 

f.「逆シミュレーション音楽」の含意

そして三輪さんの活動を、こうしたパースペクティヴの下に置いたとき、例えば「逆シミュレーション音楽」は、まさに音楽が成立するための条件を取り出し、音楽とは何かを(カントの哲学が批判哲学と呼ばれる意味合いで)批判的に、かつ工学的な構成主義にも比することのできるようなアプローチで実践的に捉えようとする試みと位置づけることができるであろう。

先ず第1のポイントは、「ありえたかも知れない音楽」を構想する想像力により、新たなフレームを産み出すという点に存する。それはありえたかも知れない世界を比喩ではなく、実践的に文字通り制作する(その可能世界論的な基礎づけの一つとして、ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』が挙げられよう)という行為に他ならない。繰り返し述べるように、既に与えられたゲームの規則に従ってゲームに勝つことが問題なのではなく、新たなゲームのルールを作り出すことが問題なのだ。

第2に、作り出されたルールに対して命名がなされ由来が付与される。「…という夢を見た」という枠つきで語られるそれは、文字通りフィクション、物語なのだが、人間が自己のアイデンティティを支えるために自己に関する絶えざる(再)解釈としての物語を必要としている(リクールの解釈学的な循環構造を持つ「物語的自己同一性」)のに対応して、音楽もまた、物語を介して人間(とその集団としての社会)に対して意味を持つのであり、それは単なる音響の継起ではないということが明らかにされる。そしてまた、感性に合った、嗜好を満たす音の系列の自動生成をもって「音楽を創る」ことができたと見做すことの抽象性もまた明らかにされる。

第3に、それは必ず人間によって演奏されなくてはならない。逆シミュレーション音楽を実践する「方法マシン」のような試みは、一見そう見えるように機械的な正確さそのものを目標としているのではない。ポイントは音楽にとって身体的な実践が媒介として不可欠であることを示すこと、更には、音楽が三輪さん自らが規定する「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」たるためには身体的な実践が不可欠であり、しかも瞑想や座禅がそうであるように、意識を遮断し、その働きから自由になるためには明確な方法とともに、それに習熟して身体的な技能とする(まさに文字通り「身につける」)ための訓練が欠かせないことを告げているのである。かくしてそれは、ベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」の実践の試みとなるのである。

g.意識の擁護

私は哲学者のレトリックに対抗するのにロボット工学者の発言をもってし、更にカオス理論を取り上げて、それが「新しさ」「はじめて」という感じを経験することができる系のモデル構築の手掛かりとなりうることに触れ、それが工学的なシミュレーションのようなアプローチでしか(より正確には、それ抜きにはというべきだろうが)アクセスできないことに触れたが、ここでいう工学的アプローチは、必ずしも通常、工学ということでイメージされるものに留まる必要はないだろう。否、一般に音楽を含めた芸術における創作の実践は、広い意味で(ただし決して比喩としてではなく、文字通り)工学的なアプローチではないのか、作品において「世界を構築する」こと、「はじめて」の経験を可能にすることは、まさに工学的な実践に他ならないのではないか?芸術と科学の間の厳然たる区別はあるけれど、その実践には少なからぬ共通点があることは夙に指摘されてきている。そして、芸術や科学の実践を神秘主義とを分ける決定的なポイントは、そこに意識が介在するか否かに存するのではなかろうか。

深層学習の成功は、まさに研究者の意識的なドライブ、何を学習するかの目標の設定にあり、そこに新規性があり、未知の領域を切り開くものであるという方向付けの結果である。意識の弊害というのは確かに色々と指摘されている通りかも知れないが、だからといって二分心の時代に戻ることが解決となるわけではないし、意識の背後にある構造とその活動を解明することは重要だが、それは、単純に意識の頚きを逃れて、無意識の領域を開放し、或いはそこから戻らないこととは別だし、仮にそれらを支えているものに共通点があるとしてもなお、芸術的な活動と病理的な状態を区別することは重要である。宗教的な修行は、しばしば意識からの離脱を目的とするが、それが究極の目的となったとき、宗教は現実に対して有効な力を持ちえず、或いは逆に、時として暴走を惹き起こすことになる。

ジェインズは、二分心が崩壊した後の「意識」には絶えず二分心の時代には直接聞くことのできた神の声、意識が成立するというまさにそのことによって聴こえなくなった「隠れたる神」の声を再び聞くことを望んでいて、それが様々な事象に現れていると述べている。ジェインズはほぼ専らキリスト教に代表される西洋的な一神教についてしか述べてないが、洋の東西を問わず、浄土思想、メシアニズムのような、有限の寿命を持つ個体の運命の自覚に対し、「来世」への希求、いや即身成仏でも、本覚思想でさえも同じだろうが、何が閾を超えると別のより価値のある世界があるという発想、そこに達するために秘儀・奥義があってそれを獲得するために日常性の外に出るという構造は繰り返し現われ、それは時として個体に強制される暴力に転ずることがある。三輪さんの作品では昨年再演された「新しい時代」において仮構された宗教が、デジタルテクノロジーの装いの下でのそうした構造を告発しており、そのことについてはその時に思いつく限りのコメントを記した。そこで書いたことをそのまま繰り返すことはしないが、そうした構造に対して、二分心以降・ポストヒューマン以前の人間の運命に対する抵抗という点では同じであっても、それとは別の種類の「反逆」のあり方がありえるのではないか、そして三輪さんの作品はそうした別の方向性を示唆するものであると私は感じたのだった。

そこに凡てが記された大いなる「書物」など存在せず、あるのはせいぜいのところミームの生存競争によって布置を変えていく情報のモナド的な星座、小さな書物のネットワークに過ぎない。そうした認識の下では、終末論的・黙示録的ビジョンは消え去り(お望みなら、誰かが仕組んだヴァーチャル・リアリティの中で最終的に無害なゲームとして繰り返しプレイすることも可能だろうが、そうした認識はそれを拒絶するだろう)、「昇天」は夢想されたような劇的な形態を帯びることはなく、寧ろ「逆シミュレーション音楽」が要求するように「新しい身体」を目がけた絶えざる「修行」のプロセスに転じるだろう。その「修行」は「悟り」の境地に至ったことを認識し、享受することを目的とするのではなく、寧ろ「修行」がそのまま気付くことのない「悟り」であるようなものだろうと考えたのであった。

井筒俊彦が『意識と本質』で記しているように禅は本質がどこかに実在し、そこに辿り着くことを目的とする立場へのラディカルな懐疑であり、否定であるが、その中にすら、悟りの境地に至ることを目的化する志向が時として働くのに対し、ここでの「修行」と「悟り」の関係に最も近いのは、修証一等の道元的な立場ではないかということもその折に記した。井筒の図式化に則れば、日常的な生活世界における分節から未分節に移行するだけではなく、未分節から、日常的な分節とは異なりはするが、再び分節に戻ってくるのが禅の特徴であり、従って座禅が進むとある段階で体験する幻覚の類を禅は妄想として拒絶するのだが、私見によれば道元の主張はそれに留まるものではない。それは常に日常の分節との間の往還をも孕んでおり、その往還の(寿命が尽きるまでの有限の時間における)限りない運動にこそ、その主張の核心があるのではないかと考える。悟りから日常に戻ってくることで、日常の意味が変容する。道元が座禅を重んじつつも、日常の作法についても極めて厳格であるのは、日常の中で直面する、老いや死、他者との対面に対して身体を通した自覚を重視し、日常的な行為そのものがそのまま修行であるからであろう。そしてこうした往還の運動を継続、反復することを可能にするのは当然ながら、自伝的自己を備えた意識的な存在である。

なおここで「反逆」という言葉を用いるのは、一つには『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの発言を念頭においているのだが、それと同時にダマシオが『自己が心にやってくる』において、まさに自己が心にやってくる画期について述べる直前の部分で、意識ある脳の登場を「不注意な自然の圧制に対する、不完全とはいえ反逆的な対応への道を拓くもの」と捉える発言を踏まえてもいる。ダマシオは以下のように述べている。

「独立した反逆的な心はどのように発達したのだろうか?これは憶測するしかないし、この先のページで説明する内容は素描にすぎず、まともにやれば一章どころか本一冊かけてもとてもおさまりきれない、すさまじく複雑な図式になってしまう。それでも、反逆は突然起こったものではなかった。生命体の内側に属する感じられたイメージは生存の見通しを高め、おそらくはおもしろい光景を作り出していただろうが、それを観察する者はだれもいなかった。心がまず手札として中核自己を加えたときこそが意識の始まったときだったが、目標に近づいてはいるものの、まだ辿り着いてはいなかった。単純な主人公は明らかに有利だった。それは生命制御のニーズと、周辺世界について脳が形成している無数の心的イメージとのしっかりしたつながりを作り出したからだ。行動のガイダンスは最適化された。だが私がここで述べている独立性は、自己が人間条件のもっと総合的な図式を理解し、苦痛と喪失だけでなく、快楽と繁栄と愚行が問題になっていることを生命体が学び、人間の過去と将来について問うべき問題が生じ、想像力が苦悶を減らして損失を最小化し、幸福と華やかさの可能性を増す方向性について示せるようになるまでは浮上できないものだった。その時にこそ、反逆は人間存在を新しい方向に導くようになったのだ。その一部は反抗的な方向で、一部は順応したものだが、いずれも知識を十分に考えることで実現されていた。その知識は最初は神秘的で、後に科学的な知識になったが、いずれも知識にはちがいないのだ。」(『自己が心にやってくる』、山形浩生訳、早川書房、pp.343-4)

ここで更に引用を重ねることは控え、単なる示唆に留めるが、これはまた、ドイッチュの言う「無限の始まり」を見出すための前提条件でもある。ドイッチュが芸術の目的を功利主義的に捉える見方も自己表現とする見方も同時に退け、寧ろ純粋科学や数学との共通性を強調し、その進歩のための絶えざる試行とそれを可能にする技能を重視する点もまた、ここでの議論との接点を持っている。

7.むすび

「逆シミュレーション音楽」の提唱は、今日のAIブームに先行するものだが、それはAIと芸術の関わりという今日の問題に対して恰も事前に用意された予言の如きものであり、「AI芸術は不可能である」ことを裏付けるものとなっている。それは二分心以降・ポスト・ヒューマン以前のエポックにおける音楽と人間との関係をその根本から問い直す試みであると同時に、デュピュイの言う「賢明な破局論」の実践であり、特異点の向こう側としての未来に対する予言でもあると考えられる。ここで音楽は、美の自律性を自明のこととする芸術至上主義からも、心から心へメッセージを伝えるという陳腐なコミュニケーションモデルからも、耳の快楽からも程遠いものである。勿論、音楽が須くそうしたものから背を向けないとならないわけではないが、それでも「他者のためのデザイン」(久保田晃弘)としての「音楽」を考え、更にはAIと人間の共進化の可能性を追求するのであれば、「逆シミュレーション音楽」のようなスタンスは必要不可欠なものではなかろうか。

ここでは「人工知能と音楽の未来」と題された対談で論じられた内容のアウトラインを示すとともに様々な制約から論じることができなかった点を補うことを試みた。扱われる問題の大きさ、関連する領域の幅の広さを考えれば、この小論もまた、単なる問題の素描に過ぎず、多くの点が良くてエスキスか、ほとんどの場合には単なる示唆に留まっていることを認めざるを得ない。だがまずはその全体をおおまかにであれ展望することが三輪さんの活動を理解するために不可欠なこととの判断から、ここでは対談の主題を逸脱しない範囲で、その展望をラフにスケッチすることを優先した。とはいえ関連しつつ、触れることのできなかった話題も多いが、それらを補うこととともに、ここで素描した内容を更により詳細に論じることを今後の課題として、一旦ここで筆を措くことにしたい。(2018/12/29初稿, 30追記, 参考文献を追加, 2019/1/5,12,13追記, 1/18補足)

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