2006年8月28日月曜日

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」を聴いて

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」(世界初演)
小松一彦指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
2006年8月27日サントリーホール

今回のコンサートに行く前に、前作にあたる「弦楽六重奏のための 369 Harmonia II」―その初演に立ち会うことは残念ながら出来なかった―の 作曲者自身によるプログラムノートを読んだ私の心の中には、その文章の以下の部分がひっかかっていた。

    「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。 そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか? もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」 (三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)

上の発言は私にとって非常に刺激的で重要なもので、実はこの新作初演に先立って、それに関して思ったことをまとめかかったほどなのだが、 この文章は演奏を聴いての印象を書き留めることが主旨だから、この点に主題的に立ち入るのは、弦楽六重奏版「369 Harmonia II」と併せて 作品についてトータルに考えることと併せ、稿を改めて行うことにしたい。
だが、それでもなお、上の発言に関連した幾つかの点が演奏を聴く際の背景になっていたのは事実なので、演奏を聴いての印象を書く前に、 まずそれについて簡単にまとめておきたい。

私にとってコンサートホールはおよそ身近な存在とはいえない。ほぼコンサートという場での演奏を前提に書かれた音楽ばかりを専ら 聴いているにも関わらず、である。一方、三輪の音楽は、もともとコンサートホールの制度から自由なものであった。 そもそも今回の新作の委嘱のきっかけとなった第14回芥川作曲賞受賞作「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」が初めての オーケストラ曲らしい。すでに以前から作曲者の問題意識にあり、また「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」においても 明示的に問題にしていたように、そもそもモダン・オーケストラによるコンサートという形態はロマン派の時代に成立した制度である。 ようするに私にとっては三輪が問題にしている側の音楽の方が、はるかに馴染みの深いものには違いない。だが、にも関わらず、 まさにそのために書かれた音楽を聴いているというのに、コンサートホールは決して私にとって居心地のよい場所ではない。 無論、音響的な側面で、実演に接する意味は大きいから、特に既知の作品を聴きにいく場合にはほとんどそれのみを目当てに 行くわけだが、それでも抵抗感は大きい。

その理由をここでときほぐすことはできないのだが、上の発言はそのポイントを衝いているように私には感じられた。 と言っても、全面的に我が意を得たりと思ったのではなく、どちらかといえば、いわば自分の中の蟠りを背後から言い当てられたような 気分になったのである。
所詮は消費者に過ぎない聴き手にとって、音楽は結局娯楽に過ぎないには違いない。だが、私個人は、それを単なる娯楽だとは 些かも感じていない。(「イケテナイ」という指摘の方については認めたとしても。)音楽にたち現れる自我と世界(や社会)との関係や、 意識のありよう(危うさや希薄化も含めて)に関心があって、そういった音楽を良く聴くが、一方で音楽が作者からのメッセージで あるという考えには共感できず、メッセージの送り手としての自我や、作者の意図のようなものにはまるで懐疑的である。
にも関わらず、だからといってそれを「儀式」と定義するのにも抵抗があるのである。 そもそも音楽の代理宗教化だって、典型的なロマン派的現象ではないか、というわけだ。勿論、そうした事態をひっくるめて問題提起 されているに違いなく、ロマン主義の時代において、既に宗教の社会における位置づけが変わり、それとともに宗教を含む社会的な 制度と音楽との間の関係もまた変容し、それゆえに音楽が自律的な価値を持たざるを得なくなったあげく、 娯楽としての消費財になるのを拒絶する選択が、しばしば自分を崇拝の手段とも対象ともする誇大妄想に陥ったという経緯を踏まえた上で、 今日における可能性を具体的に提示する試みであれば、これは是非実演に立ち会いたいと思ったのである。
従って、立ち会うといっても、それは聴き手である私にとっても切実な問題であるからには、高みの見物を決め込むというわけにはいかない。 コンサートホールで音楽を聴くことが自分にとってどういうことなのか、あるいはまた、個人的には恐らく根強い疑念を持っている「儀礼性」について、 コンサートホールでどのような経験ができるかを確認しよう、ということで、まさに問題となっているコンサートホールに向かったのである。

結果はどうだったかを先回りして言えば、熱心なコンサートゴーアーでもない人間が、オーケストラという制度を自明の前提とは 考えない作曲家の新作を聴きに行くという状況は、作品を聴くにあたって決してマイナスではなかったようだ。 演奏は、いわゆる普通のオーケストラ曲とは言いがたい新作の初演とは思えない立派なものだったと思う。 コンサートホールで実演を聴くのがこれほど新鮮で刺激的な経験だったことはあまりない。そして、もし再演される機会があれば、 もう一度コンサートホールに足を運んでもいい、というように感じられた。
以下、まずは印象を備忘のために整理しておきたい。あくまでも一度きりの聴取という限定された経験の記録であるし、 専門の音楽家ではない単なる享受者である故の誤解や、勝手な思い込みもあるに違いない。だが、これだけの刺激を受けたことに 対する素直な反応として、感想をまとめずにはいられない。是非再演を期待したい、という意思表示も込めて、印象を書き留めて おきたい。

「儀礼性」についていえば、最終的にそれを受け入れるかどうかは別として、とにかくコンサートホールでの経験には、常には見る影もなく すっかり退化してしまっているものの、どこかに「儀式的な」側面が存在すること、そしてそれが、「思想や激情や繊細な感覚の揺らめき」の 表現手段としての音楽を拒絶することで、顕わになったように感じられたということが、私にはとても印象的だった。
しかも、それは基本的にロマン主義的な姿勢といえる「思想や激情や繊細な感覚の揺らめき」の表現を拒絶する一方で、代理宗教・擬似宗教と しての音楽という、これまた際立ってロマン派的な在り様をそこに感じ取ったということではない。目的とされる救済が音楽の表現内容であり、 それでいて表現媒体である音楽自体が救済の手段、あるいは音楽そのものが啓示であるといった自己中毒を感じることはなかった。 それでいて、いわゆる「メタ音楽」的なあからさまな制度批判の批評性が持つ、怜悧さとひきかえの不毛さを感じることもなかったのである。 そしてそれにはアルゴリズミックな作曲方法が寄与しているように思われた。
私は以前に、三輪のアプローチに含まれる擬似カルト的な方向性の危うさとそれに対する自分の拒絶反応を書き記したことがあるが、 今回の演奏に関して言えば、音楽そのものからはそうした危うさは感じられなかった。寧ろ、コンサートという制度をうまく利用して、 意図したことを実現しているように思えた。こう書くと何でもないことのようだが、これは実際には大変に稀有なことだと思う。

私は1階席のやや前よりの席から聴いたので、指揮者を中心に、六角形に配置されたヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの合奏体の配置による 音の空間的なやりとりを音響として充分に聴き取れたわけではないが、そのかわり視覚的な効果、特に六角形の頂点の位置におかれた コントラバスの動きを見ることができたのは面白かった。 このコントラバスパートは、「浄夜」の編成による弦楽六重奏版の前作には当然存在しないのだが、このパートの追加は、 当否はおくとしても、作品に別の次元を加えていたように感じられた。
配置に関して言えば、中心に向いて円環を構成するように奏者が配置されるのは如何にも儀礼に相応しい。要するに聴衆に対して 演奏をしているのではないのだ。聴き手は盆踊りを遠巻きに眺めるような具合にそれを取り囲むようにして、演奏を眺め、聴くことになる。 もっとも舞台両翼とパイプオルガン側の席は売られていなかったので、本当に取り囲んでいたわけではないが。 一方で、奏者の背中、楽器の裏側から音を聴くことになるので、もともと空間的な効果よりは寧ろ視覚的な側面が勝っていて、 音響的にははっきり分離せずに中央で渦をまいて湧き出す音の塊を聴くような具合になる。
オートマトン的な作曲法で気になっていた点の一つとして、時間方向の構成の問題がある。「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」では ラヴェルのボレロの趣向を借り、かつ、三分音という微分音程の利用による音程の混乱によるエントロピーの増大という、 いわゆる「バグ」を逆手にとってパターンの反復の単調さを支えるという巧みさを披露したが、今回はそういうTour de forceはなく、 続けて演奏される「蛇」「虹」の2ブロック構造と、その内部でのコントラバスパートの音量の漸増、そしてコーダにあたる部分での急激な減衰で 区切りをつけていたように聴こえた。

曲はコントラバスの音のやりとりから始まるが、間もなく始まるフォルテでフラジオレットとトレモロを奏するヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの 合奏の独特の響きの運動に紛れて、コントラバスの響きはほとんど聞こえなくなってしまう。時折、フラジオレットのグリサンドを 弾いているのが視覚的にわかるのだが、最初のうちは、それと聴き取るのは難しい。それが、曲が進むに従って音量が増大して、少しずつ 浮び上がってくるのが印象的だった。(正確に言えば、フラジオレットのグリサンド自体の音量が変化するわけではない。バルトーク・ ピチカートの斉奏を挟みながら、通常の奏法、スル・ポンティチェロ―概ねフォルテで弾かれる―といった奏法がグリサンドと併せて 使用される。浮び上がってくる効果はそうした奏法の交代や、グリサンドのパターンの頻度によって得られているようだ。)
とはいえ、漸増の効果はすぐにそれと気づくような時区間では感じ取れないように巧妙に設定されていて、それゆえ音楽の運動が 静止しているのかそれとも微妙に進んでいるのか丁度区別がつかないくらいになっており、これもまた効果的だったと思う。いってみれば、 追加されたコントラバスの蛇の時間性が、非時間的な虹の運動に影を落としているような感じで、これは私には大層好ましく感じられた。 もっとも、残念ながら「369 Harmonia II」の実演にはまだ接していないので、比較しての印象ではないのだが。
弦楽六重奏のための「369 Harmonia II」では2部に分かたれていたらしい、「蛇」と「虹」の部分は、弦楽合奏版ではアッタッカで 演奏され、しかも「虹」の部分は圧縮されていたようだ。(後で楽譜を取り寄せて確認したところでは、小節数にしておよそ3分の1ほどの 長さのようだ。)演奏時間は20分くらいだろうか、もう少し聴いていたい、という気持ちにもなったのだが、長くないのは勿論のこと、 短か過ぎるということもない感じで、うまく設定されていたように思えた。
鮮やかなのは終曲直前、休止しているパートの奏者がヴォカリーズ(とはいえ発声は、これまた西洋音楽のそれではない)が 導入されるところで、ちょっと聴くと弦楽合奏の音響の効果と見分けがつかないように設計されていて、とても印象的だった。 伝統的な西洋音楽でも特に中音の弦楽器の音色があたかも人の声のように聴こえることはしばしば経験されることだが、 それを音響分析の結果に基づいて意図的に利用しているわけで、「虹の技法」のフラジオレットとトレモロのブレンドによる 独特の響きとともに、鮮明な効果をあげていたように感じられた。
多くの場合、伝統的な仕方ではない人声の導入は苦笑を引き起こしたり、居心地の悪さを感じさせることになるのだが、 ここでは背後にある設計上の合理性によってそれが回避されていたように感じられたのは、必ずしも勝手な思い込みではないだろうと思う。

もう一つ、そんなにはっきりとしてはないものの実は私も色彩と音の共感覚を持っているし、鮮やかな色が流動する音響つきの夢をみたことも あるので、純正律に基づく「虹」の色彩的な効果にも期待していたのだが、私の聴き方が良くなかったのかもしれないが、これは些か期待外れ。
もっとも弦楽合奏になると(それこそチェリビダッケのような場合を除くと)、弦楽六重奏で期待できるようなピッチの正確さは期待する方が 無理だろう。通常はロマン派を基準にエンハーモニックをばりばり弾きこなせるように修練を積まれたプロフェッショナルの方々が、 恐らく短期間のリハーサルで演奏をされるわけなので、いってみれば正確さの定義自体が異なっているのだから。
その一方で、「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」の三分音が、プロの演奏家が習得した技能をいわば逆手にとって、予期せぬ響きを 生み出していたことを思えば、こうした事態をどのように考えるのかは興味深い。「別の」身体性を獲得するために恐らくは必要と されるであろう「修行」に対して、タブラ・ラサではありえないどころか、モダンなオーケストラを支える高度な技能が妨げになりうる、 ということなのだろうか。ロマン主義に目標を定めた本来の主旨から考えれば時代錯誤になってしまうが、寧ろピリオド楽器の団体で 演奏したらどうだろう、などと余計なことも想像してしまう。
一方で、合奏という形態に関していえば、必ずしも各パート1本の弦楽六重奏の方が「本来の響き」がする、 というわけでもないように思える。楽器を重ねたときの音色は、その楽器をソロで弾いたときのものとは別の、固有の価値を持つものと 考えるべきだろう。ヴォカリーズにしてもまた然りに違いない。そもそも純粋な響きが欲しければコンピュータを用いて フォルマント合成をやればいい。(実際、加算合成に対する三輪の関心は初期から続いているもので、シンセサイザーを用いたサイン波 合成により作品を構成する「部分音クラヴィア」(1986)のような試みも存在するのである。またすでにそこで高次倍音の平均律からの逸脱に よる音響効果や、あたかも人声を模擬するような効果も試みられていることを忘れるべきではないだろう。)だがそもそも独奏の、あるいは 合奏の弦楽器の「音色」を成り立たせている雑音的な内部構造の豊かさは、人間が楽器を弾くことによってしか得られないものだし、 人の声についてもまた然りだろう。そして、弦楽合奏に人の声が加わったときのあの独特の響きは、そうした細部なしには得られないものに違いない。 ここでは人間が不完全な模倣をするのではないのだ。背後にはフォルマント合成の技術による根拠づけがあるに違いないが、 もし私が勘違いをしているのでなければ、技術自体が目的となってしまう転倒はここでは回避されていて、三輪のテクノロジーに対するアプローチの独特さと、 その効果を感じることができたように思える。
と同時に、演奏不可能な特殊なことを要求されているわけではないとはいえ、ある意味では職業的なスタンダードとは異なった方向を 目指すという「修行」のような試みに対応し、まだ存在しない音楽を誕生させるプロの演奏家の方々の技量と柔軟性と姿勢に対して、 率直に感心してしまった。

繰り返しになるが、こうした興味深い作品がこれが初演とは思えない充実した指揮・演奏によってリアライズされるのを聴けたのは素晴らしい 経験だったと思う。うまくは言えないのだが「うまくいっている」感じがして、とても好感の持てる演奏会だった。 何より、こと私に関して言えば、作曲者のことばの通り「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を 想起させるための儀式のようなもの」「そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」 としてその音楽をきくことができたことに、率直に言って感激した。そのことばに些かのひっかかりを感じていただけになおさらだったのだと思う。
勿論、自分の中の疑問がすべて消えてしまったというわけではないのだが、作品の力に説得され、何かを受け取ったような、そして、それをきっかけに 何かが見えてきそうな感じがする、非常に勇気付けられる経験だった。こうした経験が出来たことに対し、作曲者、演奏家の方々に感謝したいと 思う。それに対して自分に何ができるわけでもないが、受け取った何かをこれから吟味し、自分なりに咀嚼していく作業をこれからやっていこうと 考えている。無論のこと、最後まですべてが透明になると考えるのは誤りだろうし、経験の質を損なうことになってしまうに違いない。 理解できずに、感じ取ったものが沈殿する部分こそが大事なのだ、ということを忘れてはならないだろうが。(2006.08.28,29作成,9.6加筆)

[文中敬称略]

2006年3月29日水曜日

覚え書


私は同時代の音楽に対して格別の関心があるわけではなく、熱心にその可能性を渉猟しようという熱意の持ち合わせも 時間的な余裕もないのだが、その中で三輪眞弘の音楽は例外に属する。私にとって本当の意味で「同時代的」といえる 現在進行形の試みとして、(私は音楽家ではないが、にも関わらず)自分自身の問題意識をそこに投影することができ、 その姿勢に共感し、あるいはまたそのアプローチのある部分に反発を覚えるといった点で際立ってアクチュアルな存在なのだ。 だから、ここに書く内容も現在進行形のものであり、自分の考えの進展や立場の変化に応じてそれは変わっていく可能性も あるだろうが、現時点での同時代の聴き手の反応の記録として書き留めておきたいと思う。いわゆる現代音楽については、 音楽の享受者に過ぎない人間が何かを書くのは難しい。ましてや同時進行の試みについて書くのは暴挙かも知れないが、 ここではどちらかといえば自分の整理のために書くことにする。

三輪の音楽の私の受容の仕方で、他の作曲家(現代作曲家の作品も含めて)とはっきりと異なる点は、三輪の音楽の場合には、結果としての面白さが 常に保証されているわけではないことが気にならないこと、にも関わらず、結果としての面白さが(少なくともうまくいっていると私には思える一部の作品 に限って言えば確実に)存在すること、そして同時に、その面白さのゆえんが一体どこにあるのかがよくわからないことだ。

三輪眞弘は世上、コンピュータ音楽の作曲家ということになっているし、私の関心を支える一つがその点なのだが、 もう少し言うと、私が興味があるのは、そのコンピュータに対するスタンスの特異さによるものが大きい。 実は、私はコンピュータ音楽というジャンル自体にはほとんど興味がない。コンピュータの作曲への関わりは 多くの場合、音響分析や合成の道具として使ったり、他のメディアとの融合をするための編集ツールとして 使ったりする方向性のようだが、そちらの方向には全く関心がないからである。 私が興味を持つ方向性は、コンピュータに音楽作品の構造を計算させる方向、あるいは一歩進んで、 コンピュータ自身に作曲をさせるようなアルゴリズムを与える方向である。

コンピュータを作品の構造を決定するために使用した作曲家といえば、まずクセナキスが思い浮かぶ。 だが、クセナキスには人間の認識の限界の意識や、別種の知性の予感のようなものがあったものの、 コンピュータにその知性を感じ取っていたわけではないようだ。 新たな認識の可能性はあくまでも人間が切り開くものであり、コンピュータは高級な計算尺に過ぎず、基本的に道具であった。 しかもそれは作曲の過程のある一部を補助する役割を果たしているに過ぎず、作品の制作の本質的な部分で コンピュータの側からの作用があったようには思えない。クセナキスの音楽を特徴付ける、あの己の制御できない暴力に 抗おうとする意志は、むしろコンピュータを用いないで書かれた作品や部分によりはっきりと感じ取れるのは興味深い。 コンピュータが計算して発生させた音響を聴いては捨てる彼の作曲の仕方もまた、結局、クセナキスが優れた作曲家で あったのは、コンピュータを用いた作曲のプロセスにあるのではなく、テクノロジーに対する姿勢にあるのでもなく、彼の「外」への 感受性の鋭さと深さによることを裏付けているように思われる。

結局のところ、私にとっての現時点での三輪の音楽の魅力は、まず第一にアルゴリズムの適用される局面へのこだわりにある。 スペクトル楽派的な音響分析や合成は、音楽の垂直次元の方法論でしかなかったし、音響合成の方法が 生み出される作品を規定してしまうといった弊害を産んだのに対して、あるいはクセナキスの方法論の多くが、 音楽の(時間外構造ということばが端的に示すように)おおまかな構造を規定するだけで、細部については 直感的な選択によって音が選び取られていたのに対して、ここでの方法論はもっとトータルで、徹底的なもので、 それゆえ最も可能性のあるコンピュータへの接し方であると思う。
だが、アルゴリズミックな作曲法はそれ自体で結果の面白さを保障するわけではない。方法論としては興味深くても、 結果としての音楽はどうしようもなくつまらない、という例は前衛的な姿勢がとられている限りではめずらしいことではない。 しかしながら(残念ながらすべてというわけにはいかないが)、幾つかの作品では、単にアプローチが興味深いだけでなく、 音楽として興味深いものになっているように思える。その理由は現時点では判然としないが、その具体的な実現方法には 必ずしも首肯できないものが含まれているにしても、コンピュータを用いることを必須の要素として含んだアルゴリズミックな 作曲法と人間とのかかわりをはっきりと意識している点、音楽が生み出され演奏され、 享受される環境に対して批判的な意識をもっている点が、 その音楽に独特のユーモアを伴った魅力を与えているのは間違いないように感じられる。

例えば初期作品BQMOVM1E(1986)で用いられたスタックを持ったオートマトンによる音楽のマクロな構成の決定は興味深い。 ミクロな構造は主題の転回や反行などによる模倣により作られる。 あとは、変奏や装飾、拡大や縮小か?何があればいいのか? フーガはオートマトンだというクセナキスのことばが思い出される。一方で、主題自体を乱数で生成するのではなくて、 主題のみ外部から、ようするに人間が与えたらどうなるのか、という問いが反射的に浮かぶ。 もともと人間がやる即興演奏もそういったやり方だった。主題を与えられると即興演奏をするプログラム。 確かにアルゴリズミックな作曲の結果を人間が演奏することには意味がないかも知れない。 (もっとも後の「逆シミュレーション音楽」ではそれが実行に移されてしまう。私にとってはそれは或る種の退行に感じられる。) それに対する三輪のその時点での答えはインタラクティヴなシステムということになる。 人間の伴奏をする、あるいは人間と合奏するシステム。そして、それは「東の唄」(1992)のような充実した作品を生み出すことになる。

だが、そこで解決したのは音楽の技術を保有する側である作曲者と演奏者の間の問題に過ぎないともいえる。 現代音楽では作曲と演奏の境はしばしば曖昧になる。作曲家も演奏者も、誠実に音楽とは何か、音楽が何の役に立つのかを 常に問いかけ、自分の途を切り開いていく。その一方で、例えばワークショップでは聴き手は常にお客さんだ。 聴き手は取り残されてしまう。創作の秘密、演奏の秘訣が明かされることがあっても、それはいわば芸談の類に過ぎない。 演奏を聴くのも、芸談を聞くのも所詮消費には違いない。 勿論、それでは聴き手=作り手であるような集団作曲の方法論が解決になるのかといえば、当然そんなことはありえない。 もしそうならば、ここにコンピュータという他者が介在する必要などないだろう。(「逆シミュレーション音楽」 では実際に、コンピュータの他者性は、アルゴリズムを準備する作曲者の背後に隠れてしまうように見える。 例えば有限の型の選択と組み合わせにより、盆踊りの振り付けを考えることとの違いはどこにあるのだろう? アルゴリズムの生み出すパターンの複雑さが「推奨」されるが、所詮はそれは定められた軌道の中をうろつくだけなのだ。 そしてそこでの間違いの価値は、西欧的なオーケストラパートでのそれと何ら変わるところはない。装いと裏腹に、 「逆シミュレーション音楽」において一体何が本当に変わったのかは、検証すべき事柄であるように思われる。)

勿論、比喩ではなくて(あるいはデネットのいうところの「志向的スタンス」としてでなく)コンピュータと対話したり、 共同作業するのは依然として無理だろうが、コンピュータを道具として、あるいは操作の対象としてみるのではなく、 自分が埋め込まれた環境の一部、自分と同じく環境の中で相互作用をするエージェント、他者として、 原理的には恐らく自分と交換可能なものとして意識するような姿勢は可能だし、ある対談で三輪自身にとって コンピュータがそのように捉えられていることが確認できる発言があるのは興味を引く。
コンピュータは作曲の過程に積極的に関与する。例えばプログラムを与えて即興演奏を行わせることは興味深いが、 それ以上に、そこでコンピュータから出てくるものを作曲の過程にフィードバックする、しかも単にそこに限界を見て、 使い方を制限するようなかたちではなく、その可能性の境界を行き来するような接し方ができるのであれば、一層興味深いだろう。 そして、三輪はそうした方向性の実践においてユニークであるし、しかもそこでこそ最も成功しているように思われるのである。

もっとも、コンピュータに即興演奏させる、といえば聞こえはいいが、実際にはコマンドとして送られるキューをきっかけに 音響をサンプリングし、それをあらかじめ作成されたアルゴリズムに従って変換するに過ぎない。予測の不可能性が 乱数によって与えられるのであるとしたら、それはチャンスオペレーションによって音楽の過程を決めていくことを 人間がやるのと、実際に起きている事態においては大きくは違わないという見方もできる。

だが、にも関わらず、作曲においても、またおそらくは演奏においても、「志向的スタンス」の違いはとるにたらないわけではないだろう。 コンピュータを道具と見なさない姿勢は、現実にコンピュータが達成できている水準を考えれば、ある意味では 理想主義的な、ロマンティックと言っても良いような姿勢とも言えるが、そうしたスタンスを維持しつつ、 結果を継続的に発信しつづけること、しかも単なる実験ではなく、作品の制作において聴き手の興味を ひくような結果を出すことは容易なことではないに違いない。 またそれだけではなく、アルゴリズム、方法の重視を前提にすることにより、人間への視点が相対化されている点にも注目すべきだろう。 それは人間と機械の境界をあいまいにしてみたり、人形やロボットと人間を交換可能なものと考える立場に繋がっているに違いない。 勿論、それはコンピュータを人間と同一視するということを意味しない。道具としてではなく、環境に存在するエージェントとして捉えることで、 道具としてみた場合には単なるバグに過ぎないものが、逆に人間である自分の成り立ちを、その特殊性を浮び上がらせるのだ。

例えば、アルゴリズムを重視したコンピュータによる作曲ををどんどん徹底していくと、人間は消えてしまう。自律的な作曲プログラム(それは最低限、 アルゴリズムそのものを生成できるものである必要があるだろうが)ができた暁には、プログラムの作者は、もはや作曲の主体ではないだろう。 一体、作曲された成果物の著作権は、プログラムの作者に帰属するのか、それともプログラムに人格を認めるべきなのかといった問題が出るだろう。 実際にはそれはSFでしかなく、現実には製作者のアイデンティティは寧ろ、仮に消したいと思ったところで消えるものでもない。

だがSFを承知でその世界に足を踏み込んでみたところで、製作者も含めた、人間の問題は依然として残っているのだ。 とりあえず音楽とは、まずは人間のものなのだ。 人間が消えていなくなった無人の地に自動作曲するシステムが誰に対するのでもなく音楽を生成し続けるのではないだろう。 なぜ音楽を作るのか、という問いをコンピュータが持つことはとりあえずはなさそうに思えるが、それでもなお、 レムが「虚数」や「ゴーレムXIV」で描いたような状況を フィクションの中でなく実際の制作活動の延長で考えることができるというのは、それだけでも興味をひかずにはおかない。

そしてこの点で、私は三輪が日本人であることを強く感じる。 その音楽で日本民謡が使われているから、あるいは謡が使われている(「Dithyrambe」)から日本的なのではない。 「東の唄」が、柴田南雄の日本音楽の分析に示唆をうけて、その基本的な構造を決定されていることは、音楽に日本的な 色彩を与えはするだろう。だが、それは素材の決定という水準での選択に過ぎない。 ヨーロッパの音楽にモードとして東洋的な味付けをすることは、もう既にやり尽くされている。

それよりも、出自は西欧的な方法論を扱うその手つきに、コンピュータを自分の創作の環境に存在するエージェントとして見做せる態度に、 あるいはコンピュータを介して身体性を考えるという「志向的スタンス」に、三輪のスタンスの独自性が現れているように思える。 それはイメージされたものとしてではなく、いわゆるドクサのレベルでの西欧と日本との間のずれを結果として浮び上がらせているし、 同時にそれは、現状では避け難いそうした志向的スタンスの破綻を逆手にとって、人間とコンピュータの間の齟齬を表現にもたらすことに 成功しているようだ。そのスタンスはその音楽にどことなくユーモラスな雰囲気を醸し出しているように感じられる。そして 恐らく、西欧の(例えばドイツの)音楽家は、このようにコンピュータと人間との間を、そして人間と人形や機械との間を 融通無碍に往還することはできないに違いない。それは例えば人工知能や知的なロボットの問題に対する姿勢に見られる 西欧的な発想と日本人の発想の違いとも通じるものがあるような気がする。

繰り返しになるが、「志向的スタンス」といい、アルゴリズムへのこだわりといい、それらはそれ自体で結果を保証するものではない。 前衛の或る種の立場では、新しいコンセプトを打ち出すことそのものに価値があるのであって、結果は二の次なのだ、という考え方も あるかも知れない。そうした考え方も含めて、こうした方法への拘り自体はいわゆるモダニズムの延長であり、その姿勢自体は 際立って西欧的なものといえる。私は結果についての責任はとらないようなスタンスに対しては一般的には懐疑的なのだが、恐らくそれは 聴き手として結果だけを受け取るスタンスが身についてしまっているからだろう。そしてここでは、その問題意識への同調が、例外的に そうした懐疑をせき止めてしまうようなのだ。
勿論、音楽家でない人間が、どうして問題意識を共有しているなどと言いうるのかと問われれば、勝手な思い込みに過ぎないのかも 知れないが、コンピュータを環境の中の他者として捉えることで起きる問題については、音楽家でない私にとっても充分に自分自身の 問題でありうるという個人的な事情もあって、ここでは寧ろ結果はともかく、方法としての一貫性や見通しといったレベルの問題でも、 充分に興味深いものだし、そうした方法への拘りが寧ろ好ましいもののように思われる。

方法への固執は、恐らく東洋の智慧では用心深く回避されるはずのもので、「怒れる若者」が、ドイツで居場所を見つけることができた ことと通底するだろう。それは日本で活動する今、寧ろある種の不器用さともとれるような徹底ぶりで、 色々な前衛手法を手際よくとりいれる結局のところ「和魂洋才」的な融通無碍さとの距離は大きい。 そしてその点が三輪の音楽が大きな共感を呼ぶ魅力の源泉の一つであるのは間違いがないと思う。

そもそも考えを文章にすること、方法を一つ作り上げることは、実際にはそんなに簡単なことではない。 自分の考えを方法としてまとめる自体、実際にはとても困難だ。(三輪自身も正直にそのように語っている)。 なぜなら、方法というのは、それが制作で有効である以上、決して固定的なものではなく、それまでの営為とその時の状況にあわせて作らなければ 利用に耐えるようなものにはならないからだ。 たいていの人間は、自分の考えに筋道をつけて一貫させるということをやりもせずに、他人の立場の揚げ足をとる。 方法を批判することは多分たやすい。批判はいつも簡単なのだ。 批判することの方がはるかにたやすいし、生産的な批判はむしろ稀かも知れない。 ある方法はある立場に立っているのに対し、批判はそれ以外のどんな立場からでも可能だからだ。 方法を捨てること、方法を作ること自体を批判することは、一度は方法を作り上げた人間にしかできない。 方法を作った経験がないものに、方法を蔑む資格はない。 倫理的にもないというのは勿論だが、それだけではなく多分実際問題として批判することは不可能だろう。 かつまた、方法を捨てることは、それ自体一つの賭けだ。方法を作り上げることは環境の中に埋め込まれて生きている生物に相応しい。 それを捨てることが単なる不作為に陥る陥穽を避けることは、徹底して方法を作ることに意識的であった人間にしかできないだろう。 それは捨てるというよりかは、方法であることに無意識になる、忘れてしまう、ということに近いかも知れない。 だから、まず自分のやっていることを批判的に検討し、意味を吟味して、方法として言語化し、それを実践するその妥協のない姿勢に共感を覚える。

だが同時に、そのことが作品がどこで完結するかを見えにくくし、それゆえ作品が常に未完成の、実験途上の感じを与えているのかも知れない。 初期の試みのとりあえずの到達点と見なされている「東の唄」でさえ、固定され、確定し、完成された作品であるという印象は希薄だ。創作時期を問わず、 どの作品の録音も、どことなく一時的に定着された試行といった感じが強い。ここではコンセプトや方法、問題意識が現実よりも先に行っていて、 まるで現時点では埋め難い溝が、いずれ解決されるのを待っているかのようなのだ。(実際には、溝が埋まるかどうか自体確かなことではないのだが。) 疑いなく充実した作品でありながら(何と言っても面白いといえばこれくらい面白い音楽はない)、伝統的な意味合いでの確定した 作品の概念との間にずれがあるような感じがある。あるいはそれが「逆シミュレーション音楽」のような展開にどこかで繋がっているのかもしれない。 実際に「逆シミュレーション音楽」において、作曲する行為や作曲の主体の地位についての考察は行われていて、決して、こうした問題が 棚上げにされているわけではない。ただし、それを実際に実現されている水準に限定したら、共同制作の問題等といった、ある意味ではありきたりの レベルに戻ってしまうし、私見では、その試みの興味深さにも関わらず、得られた結果としては、「東の唄」以降、日本に移ってからの試みは、残念ながら 成功しているとは言い難いように思える。

例えば「SendMail」(1995)のアイデアは魅力的だ。私は思わずレムの「天の声」を思い浮かべた。或る種の誤読。ある別種の器官と(従って)文化を持つ生物が 人間が書いたメールをある時発見したとする。勿論、メールのメッセージが何に使われたのかはわからない。 そこで使われている言語の体系の知識がないだけでない。メールの内容の背景となる生物学的・文化的知識がない。音楽でないものと音楽との間に 写像を定義するという点では似た発想を持つ「兄弟deピザ注文」(2003)であればピザとは何かわからないし、注文するということがどういうことかが分からない。 その情報を彼らの器官の文化で辛うじて意味のある形態に解読すると、それは或る種の音響の系列に翻訳される、などなどといった連想が起こる。 この場合には、結果としての音響が「美しい」かどうかなどといった価値判断の基準は意味を持たない。そして、それはそれでこの場合については 構わないように思える。猿がシェークスピアをタイプする偶然を期待する必要などありはしないだろう。

だが、これをパフォーマンスとして人間が演じることは、それを眺めることには一体どういう意味があるのか?音を人間が演奏することによってメールを出したり、 鍵盤を押すことでピザを注文することに成功するかどうかに興味が集中してしまうのは、後の「逆シミュレーション音楽」にも見られる (そこではアルゴリズムを人間が間違いなく実行するかどうかが問題視される)転倒だが、 この転倒に私は或る種の不気味さを感じる。 その不気味さこそが意図されたものであるとしたら、それでも良いのだが、後述する擬似カルト的な環境の設定といい、 批判が批判される当の対象に転化してしまいそうな危うさを私は感じてしまうのである。 転倒が意図されたものであったとしても、それが予期せぬ方向に受容されるのを認めるのは方法に固執する立場からすれば一貫しない。 少なくともここでは方法に、結果についてのコミットメントが生じている筈なのだ。

そうした危うさは、「逆シミュレーション音楽」にもあると思われる。 方法論上は「逆シミュレーション音楽」は一つの到達点であり、同時にブレイクスルーであったには違いないだろうが、 それとてあくまで、自律的に音楽を生成する主体が人間ではないという点があればこそであって、 架空の伝承を作り出し、集団で決められたアルゴリズムを人間が間違いなく実行するプロセスが表面に出るのは、 人間の身体性が変容してしまっている現実を浮び上がらせる批判的な意図があったとしても、 そうした意図を超える結果を招来しそうな危険があるように思える。 架空の伝統はレムの「ビット文学の歴史」のような方向性と比べると、そうしたフィクションを支えている生物学的・文化的な蓄積を 指し示すという過去への志向において、一見したところボルヘス的に見える。 実際にはそうした伝統の仮構自体が目的ではないところには共感できるものの、私見では、架空の伝統は寧ろ、 (繰り返しになるが、レム的に)架空の生物あるいはそれに類するもの(人形でもロボットでも良い)のものである方がより 興味深かったのではないか。 それとは別に人間、不正確で間違いを起こしやすいシステムとしての人間が、そのような方法論とどう関わるのか、 という論点があってもいいとは思うが、「逆シュミレーション」が、たかだか人間の営みの出発点なり原点なりを指し示して、 結局、神話を反復するだけのものに縮退するのはあまりにもったいない。 作曲する主体にとってコンピュータがそうであるように、人間の犯すエラーを、二度と同じことができないが故に、 間違えない(実際にはコンピュータは規則に従っているわけではない)し、違ったことができないコンピュータが 抜け出せない軌道にゆらぎをもたらすものとして、アフォーダンスを引き起こすものと して捉えるような視点があるべきだと思うし、それは寧ろ、コンピュータのアルゴリズムの徹底によってしか可能ではないのでは ないかというような気がしてならない。 身体性は対象として扱うべきものではなく、その中で動き回る場であるべきだ。 身体性を主題化すれば、それは身体を通した操作の方法論化に帰着する。そこには立ち止まるべき閾などありはしない。

同様に、それがパロディであっても、擬似的なものであってもカルト的なものへの傾斜には私は疑問を感じる。 同じことの繰り返しになるが、結局のところパロディは一定の模倣を、ミメーシスを伴う。 要するに、片足を突っ込まなければパロディにはなりえない。 だから、ここでは誠実さは危険と引き換えになっていて、一歩間違えればミイラ取りがミイラになりかねない。

ネットワーク上で永遠に音楽を生成しつづける作曲主体としてのコンピュータというのは、擬似カルト的な装いを取り払ってしまえば、 私にとっても幻惑的なものに違いない。 (またしても、だが、レムの「天の声」のあのニュートリノによるメッセージを思わせる。) だが、ここではそのアルゴリズムは単純なものであってはならない。 単に同じ音楽が二度と流れないだけでは恐らく不十分なのだ。 コンピュータが作曲の主体であるというスタンスをより徹底させること、結局のところ、アルゴリズムを洗練させ、 人間との間の関係のあり方を更新させていくべきなのではないか。例えばシステムが自分をどんどん 書き換えていくような方向にいかなければ、このアイデアの魅力は薄れてしまわないだろうか。

クセナキスがそうであるように、方法を作り上げ、信じて何かを作り上げるのは、その方法が厳密であればあるほど、 ロマンティックで夢見がちな行為になる。 それはある意味ではとても首尾一貫した態度であるとも言えるし、行為に対して、常にそれを批判し相対化する視線を持ち、 方法を作り上げると同時に懐疑することで相対化してしまう姿勢(それは東洋の智慧に通じるものがあるかも知れないが)よりも、 個人的にどこかでより共感する部分があるのは否定しがたいのだが、 私見では、逆シミュレーションにおける架空の伝統による人間の再編入や、カルトのパロディの方向ではなく、コンピュータと人間との (現状での不完全さを受け容れた上での)対話や、それを推し進めるための方法の徹底、 アルゴリズムを単純化して誰にでもできるようにすることでもなく、アルゴリズムをコンピュータが選び、あるいは作成できるように するような方向こそ、結果としての音楽を豊かにし、そして音楽と人間との関係自体を豊かにするのではないかと思えてならない。

だが、こうした疑問は部分的なものに過ぎないし、そもそもこうした反応を自分の中に生じさせた音楽はこれまでになかった。 三輪の姿勢の特異さ、ユニークな試みは常に刺激的だし、今後も目を離すことはできそうにない。 ここに記した感想も、現時点での自分の考えに過ぎない。見落としている点もあるだろうし、今後考えは変わって行くかもしれない。 いずれにせよ、今後もこうした架空の問いかけをし、自分の考えを確かめていく対象として、三輪眞弘の音楽は 自分にとって特別な位置を占めているのである。(2006.3.29初稿、4.30改稿, 5.10加筆修正, 2008.9.17修正)

[追記]その後、著書「コンピュータエイジの音楽理論」を入手し、読む機会を得たが、上記の内容については変更の必要を感じない。 寧ろ、共感を新たにする部分が大きかった。例えばクセナキスについての言及や、コンピュータ音楽のカテゴライズについてなど、 自分が感じていたことがそんなに見当外れでもなさそうなことが確認でき、正直なところ、ほっとした部分もある。 この著作が書かれてから既に10年以上が経過しているが、その10年の距離にしても、他の作曲家の生きた時空との 距離に比べれば遥かに身近なものに感じられる。私は芸術とは縁のないことを職業としてはいるが、10年前も今も、隣とは いかなくても、すぐ近くにいることは確かなことであるし、「今まで門外漢には口をはさむ余地などまったくなかった近隣分野の達人が、 自分とひじょうに似た問題を抱えている状況に出くわすことが起きてきたのである」(同書p.118)という言葉を、己のこととして 実感することができる。今のところは(そして恐らく今後も)専ら、刺激を受け取るだけの一方通行に過ぎないのではあるけれど。(2007.2.18)

[文中敬称略]