2007年11月28日水曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」再訪記(2)

マーチン・リッチズ/三輪眞弘 Thinking Machineについて
2007年11月26日東京大学駒場博物館

[はじめに]

以下の文章をお読みになる方に、予想される誤解を未然に防ぐべく、幾つかお断りをしておきたい。本来ならこんな前書きをつける くらいなら、誤解がないように本文の改訂をすべきかも知れないのだが、今回については、今のところ本文は初稿のままの形態を 残しておくことにした。

(1)まず、タイトルではリッチズ/三輪の共同制作と書いておきながら、本文中では、専ら作者がリッチズであるかのような書き方になっている点。
共同制作であることは、パンフレットにも謳われており、三輪さんのWebページでもそのように紹介されている。だがその一方で、会場に 備え付けのFAQが記載された資料は、リッチズの署名しかなく、三輪さんは専らアイデアの提供者として紹介されている。また、この作品は 他のリッチズの作品と一緒に展示されているのである。私が以下に記した反応が、FAQやその他のリッチズの作品という文脈の影響を 強く受けていることを否定するつもりはない。そして、その前提の上で、私はThinking Machineを第一義的にはリッチズの音楽機械作品と 受け取ったのである。例えば以下の記述のうちどれだけがThinking Machine固有のものかを改めて考えると、その点が一層明確になる。 つまり、以下の印象はThinking Machine固有のものというよりは、他の作品も含めた全体的な印象と言っても良いのだ。本文でも書いたが、 それは「何ものにも奉仕しない」ように見えて、でも少しも匿名ではない。リッチズの署名がされているように感じられたのである。

(2)リッチズと三輪さんに対して私が持っている情報の量には圧倒的な不均衡が存在する点。
私はリッチズについて、上述した以上の文脈は一切持っていない。三輪さんについては、一定量の情報を持っていて、誤解を 含んでいるにせよ、自分なりの了解が存在する。この情報量の不均衡が以下の記述に反映するのは避け難く、ことThinking Machineに 話を限定すれば、どうしても違和感の原因を、リッチズの側に投影してしまうことになっているのは否定し難い。
だが、裏を返せば、そこに投影があったとしても、それは結局、リッチズの他の作品やFAQでの彼の言葉に強く条件づけされたものであり、 上記のように、それをリッチズの作品の感想と考える限りでは、以下の内容について基本的に修正する必要性は感じていない。

(3)ということは、三輪さんの側から、しかも共作者としての三輪さんの側からの展望は、また異なったものである筈だという点。
実は私は以下の文章を書いた時、全く不当なことに、この視点を全く欠いていた。この点については三輪さんにお詫びしなくてはならないと 感じている。ヴィジョンを持つものにとって、それが具体化されることの持つ意味、自分のコンセプトが実際に動くのを見ること、しかも、 他の人の作品に、自分のアイデアが埋め込まれて実現されることの意義を見失ってはならなかった。それは、もっと平凡なものしか つくることができない私のような人間でも、そしてその対象が遥かにつまらないものでも、我が事になれば感じるのは間違いない筈のことなのに、 そうした想像力が私には欠如していたのだ。三輪さんにとっては、このプロジェクトはその点をもって「成功」と呼べるものだったということを 反省の念とともに、ここに補っておきたい。(2007.11.30補記)


三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れるべく東京大学駒場博物館を再訪したおり、併せて「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の 展示を見てきた。展示の中では、何といっても今回の目玉のマーチン・リッチズの「考える機械」(Thinking Machine)がお目当てだったのだが、 会場のスタッフの方に実演もしていただき、興味深い経験ができたので、これを中心にその感想をまとめたい。

最初に三輪さんのWebサイトで、「考える機械」(Thinking Machine)という命名を知った時に私が反射的に思い浮かべたのは、 「人工知能」の生みの親の一人であるマーヴィン・ミンスキーが創立した超並列コンピュータの会社名だった。 今はすっかり「人工知能」という言葉もアウラを喪ってしまったが、 コンピュータの黎明期には、コンピュータそのものが「電子頭脳」と呼ばれた時代だってあったし、「人工知能」華やかなりし頃は、 コンピュータが「人間のように考える」ことが近い将来に可能であるかの如き幻想がふりまかれたこともあったようだ。 日本では、最近亡くなられた淵一博さんを中心とした「新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)」が組織され、 「第五世代コンピュータ」の研究・開発が国家プロジェクトとして行われた。 人工知能研究は世間的には失敗した、あるいは控えめに言っても行き詰ったと思われているようだが、そうした判断の適否は おくとしても、コンピュータのハードウェアが凄まじい勢いで高機能化した一方で、「考える機械」の方は逃げ水のように捉え難いもので あり続けているのは確かなようだ。人工知能研究が世間的には退潮していくのと入れ替わるように、脳科学、神経科学の成果が 世間を賑わすようになり、ちょっとした「脳」ブームといった様相さえ呈したのは記憶に新しい。そして、その一方で―これは相対的には 日本固有の現象ではないかと思うのだが―「アイボ」「アシモ」あたりから始まって、「ロボット」がちょっとしたブームで、ロボット同士の 競技会の類が数多く催されてきたし、あるいは今現在でも、ロボットの博覧会が行われていたりもする。

だが会場の展示内容は、上記のような私の連想とはさしあたっては無関係で、それは西洋における自動演奏機械の歴史と、 自動演奏機械にまつわる思考の伝統を辿るというものだった。ピタゴラス派の天球の音楽から、アタナシウス・キルヒャーの ような新プラトン主義的な音楽観を経て、20世紀初頭のプレイヤーズ・ピアノに至るまでの流れが概観できるようになっている。

そしてそれと「背中合わせ」のように、マーチン・リッチズの音楽機械が、ダダ(デュシャン)や未来派(ルッソロ)に縁取られて 並べられている。「考える機械」(Thinking Machine)はそのうちの一つである。「背中合わせ」というのは、私にはリッチズの 音楽機械と他の展示との間に何となく乖離したものを感じたからだ。勿論、その間の連続性を主張するのは容易だし、 それを認めるに吝かではないのだが、何となく後付けで2つのアイデアを無理やり同居させたような感覚は拭い難い。 別にそれがいけないというわけではなく、考え方によっては共通のテーマのもと、少し違ったテイストの企画を2つ見れて お得だと言えないこともないのだが。

その異質感を私はまだ端的に言語化できないのだが、その由来については何となく思い当たることがないこともない。 まず、リッチズの機械は、実用性とか、それによって可能になる音響の一般的な意味での音楽的な価値とは無縁のものであろうとしているように思える。 一方でそれは、古の音楽機械、あるいは例えば音楽時計が持っていたコスミックな、より大きな秩序への情熱とも無縁のようだ。 音楽時計は時を告げるという役割があって、その機能こそが大きな秩序への通路なのだし、プレイヤーズ・ピアノはその機構自体は 「汎用的」に出来ている。あるいはまた、自動化というのはテクノロジーの追求といった側面があって、別に人工知能を持ち出さずとも、 とりわけ今日の音楽は、私個人にとっては中心的ではあっても、全体のなかではほんの一部を占めるに過ぎない伝統的な音楽を除けば、 まさにテクノロジーの上に成り立っているのだ。現代音楽でも、最先端のライヴ・エレクトロニクス技術を用いた作品が作られるかと 思えば、今やPC上で作曲や編曲、そして視覚的なメディアとの融合が可能な時代になっており、先日の自動ピアノのコンサートでも そうした作品の一つが演奏された。リッチズの機械は―実際には、コンピュータの支援を受けて動いているのだが、それでも「本体」の 動作機構自体をとれば―単に「ローテク」なだけではなく、「決められたこと」のみをやるようにできている。後述のように、それが オートマトンで、実際に生成される音の系列は見かけほど単純ではないにしても、そのアルゴリズム自体はいわばハード・コードされているし、 一方で生物が備えているような可塑性を全く欠いている。

一方でリッチズの作品は(自動楽器であることをおけばパーチを連想する人がいても おかしくないだろうが)、この世に一つしかないものだし、何かの役割を与えられているわけではない。 博物館でも美術館でもいいが、そこに置かれ観賞されるために作られていて、しかも別に存在する音楽作品を再生する媒体ではなく、 それ自体が作品たることを主張している。勿論、実現される音響について全く無頓着ではないのはわかるが、実現される音響に接すれば、 例えばそれをオルゴール替りに使う人はいないだろう。例えば音が鳴る間隔の長さは、ベルを鳴らすボールが転がる軌道の長さと傾斜、 それからベルを鳴らしたボールに再び位置エネルギーを与えるべく持ち上げる車輪の回転速度に規定されるが、それはまさに設計による 選択の産物の筈である。意図された退屈さ。あるいは観賞する人間を選別しようとするかのような、 愛想の悪さ。それはコンサートホールで演奏される作品が無意識のうちに備えてしまう、あのどことなくキャッチーな傾向から身を 離そうとしているかのようだ。さりとてそれが、人間を超えた秩序を志向しているというわけでもなさそうなのである。

私にはどちらかと言えば、現代美術にしばしば見られる、音の出るオブジェの類に近いように思える。 概ね木で作られたそれは、精巧にできているけれど、それだけにかえって繊細で、頼りなげでエフェメールなものにすら感じられる。 「美術品」に相応しく、Don't touchと注意書きがされ、見る人から隔離され、会場のスタッフの人のみが操作することを許された存在。 触れたら壊れてしまうのだろうか?―少なくとも頑健性は考慮されていないのだろう。操作には熟練が必要なのだろうか?― この作品に限定していえばそういうことはないだろう。でも、ウニカートな機械に熟練が必要だとしたら、何とコストのかかることか、、、。

永遠の秩序とは逆の、ヴァニタスすら思わせるような、目的を持たない機械。 野外で風雨にさらされることは想定されていないだろう、湿度や温度の変動に対する耐性はどうだろう、 どの程度の精度で作られているのかわからないが、「うまく動かない」こともありそうだし、 「楽器」「機械」としての耐用年数はどれくらいか、ウニカートであるゆえ、故障したらどうなるのか、などということの方が気になる。 初期値を与えたら永遠に動き続けるというのはプラトン主義的な理念の世界のことで、現実には機械は 人間のケアなしに動き続けることはないのである。それともDon't touchを、実は西欧の伝統において特別な意味を 持つ、あの「我に触れるな(Noli me tangere)」のように読み替えろとでも言うのか?

そしてこれは多分瑣末なことではない。「機械仕掛け」「自動」は勿論偽りではないが、だが、それは事態全体の半面にしか過ぎないように思われるのだ。 リッチズがわざわざ手作りの機械に拘る意図の所在は私の容喙するところではないが、こんなところで「手作りの良さ」を主張されても当惑するだけだし、 一方で、実はテクノロジー批判が秘められているのだとしても、それが作品に対して感じた疎遠な印象を救うことにはならない。 さらにまた、音楽時計もプレイヤーズ・ピアノも、恐らく制作コスト、耐用年数、故障率、維持管理コストなどなどといった尺度を適用することが できるし、また適切な対象だ。否、自動演奏機械だけではない。人間が演奏する楽器とてそういう点では変わるところはないだろう。 だが多分、リッチズの機械はそうした尺度からは自由なのだ。そしてその理由はといえば、それはこの機械が何ものにも奉仕しないから ではないか?

そしてそれは、いわゆる「ロボット」であろうとしているわけでもない。別に動物や人間のようなかたちをしているものだけがロボットではなく、 実際には工場のラインにはたくさんの産業用ロボットが活躍しているわけだが、仮にリッチズの機械が「オートマトン=自動人形」の実装の一形態で あったとしても、人がそれを「ロボット」と呼ぶための何かが、リッチズの演奏機械には決定的に欠けているのだ。 (何にも奉仕しない、という属性から、あるいは人はアシモフのロボット三原則を思い浮かべるかもしれない。あるいはロボットという言葉の 由来であるチャペックのチェコ語の原義に思いを致すかもしれない。そう、そういう意味合いにおいても、確かにこれはロボットではないのだろう。)

もっとも、こうした視点はそもそも「機械じかけの音楽」をテーマとしたこの展示にはお門違いなのだろう。音楽絡みということなら、 トヨタに頼んでトランペットを吹くロボットくらい連れてくるかと思ったのだが、このプロジェクトの関心はそちらにはないらしい。 まあ、歴史については「西欧の」という範囲限定があるらしいので、まずもって日本のロボットはそもそも対象外なのだろうが。 そしてこの点はリッチズの作品とその他の展示の対象に共通することかも知れないが、ここでは機械とは人間とは異なるもの、 端的に人間とは異なるものなのだ。しかもそれは例えば鳥のような人間とは異なる「被造物」とも違って、あくまでも人工物なのだ。

まるで出来上がったものよりも、そのようなものを設計し、組み立てることの方が大事であるかのように。 確かに完成した作品は、視覚的にも聴覚的にも観賞できるものになっているかも知れない。だが、機械がそのように動くことは 設計や製造の延長線にあって、それが「人の手を離れる」ことはない。設計したものは意図どおりに動かなくてはならないし、 精巧な仕掛けは、それを観賞する人を作り手、作者に送り返す。これはこれで「自動」であるかも知れないが、「自律」と呼ぶのは 躊躇われる。あるいは「自律」という言葉の捉え方に深い溝のようなものがある、というべきかも知れない。

私見では、マーチン・リッチズの楽器製作そのものは結局のところ「考える」というメタファーとはあまり関係がない。 「考える機械」(Thinking Machine)の命名者はどうやら三輪さんのようで、アルゴリズムも三輪さんの「蛇居拳算」で、 それを使うことを提案したのも三輪さんのようだ。命名に対する三輪さんの説明、要するにこれが「再生装置」ではなく、 「生成器」であるというのは間違いではないけれど、そういう意味では「考える機械」(Thinking Machine)という名称は、 リッチズの機械の独占物ではありえないだろう。「またりさま人形」がまず思い浮かぶし、例えば手順派による 逆シミュレーション音楽の実演は、その全体が「考える機械」(Thinking Machine)ではないのか?(どうでもいいが、 これはどことなく、意識のアポリアの問題ではお馴染みの、中国人によるニューロンのシミュレーションの思考実験を思わせる。) 勿論、逆シミュレーション音楽に「知性」を感じるのは無理な話で、その点では結論だけ見ればリッチズの機械と変わるところはないのだが、 いわば分散・協調型のシステムである「またりさま」に比べて、リッチズの作品は孤独で、どことなく自閉的な印象を覚える。 ひとりジャンケンみたいなもので、何が面白いの?という感じが付き纏うのである。いっそのこと音楽時計のような「再生装置」で、 素晴らしい音楽でも奏でれば、もっと長時間人の足を止めることもできるだろうが、リッチズの機械の奏でる「音楽」とは、 ずばり「機械のたてる音」なのだ。

機械のたてる音、機械化された工場がかつて持ちえたインパクトについては、未来派などの潮流や、有名なところでは例えば ラヴェルの「ボレロ」などにその痕跡が記録されているが、それとて端的な音響に対する驚きではなく、 機械の「正確さ」「自律性」を可能にするテクノロジーのアウラあってのものだったに違いない。 一方、リッチズの機械の方はと言えば、例えば水車小屋のたてる音、あるいはきっかけを与えると暫くは慣性で動き続ける 様々な機械やおもちゃの類の立てる音と大きく違うところはないように思われる。

勿論、三輪さんの意図が全くの無になることは無いけれど、でもこのレベルでは、結局は状態の数と遷移規則の 種類の問題に過ぎないし、ゆらぎのようなものを肯定的に捉えるにしても、それがこの機械固有のものなわけではないだろう。 二人とも「考える機械」という命名は大袈裟だと書いているが、何か意図したのだが及ばずに名前負けしたというよりは、根本的に ずれている感じがしてならないのである。それは共同制作という形態にまつわる問題なのかも知れないが、丁度、展示の コンセプトが分裂しているように、ここでもリッチズの機械への三輪さんのアイデアの接木は、あまりしっくりいっていない感じがして ならないのだ。例えば、リッチズの機械を、同じアルゴリズムを用いている三輪さんの「逆シミュレーション音楽」のあるヴァージョンと 比較してみるのは興味深い。ここで何が用いられ、何が無視されているか、その選択が何を意味するかを考えてみるべきなのだろう。 アルゴリズミックな方法論を採用することがアプリオリに結果を保証するものではないのは勿論、異なる土壌に移植された コンセプトは、最早同じ価値を持ちえない。三輪さんのコンセプトが孕んでいる毒の部分はここでは解毒されているように見えるが、 それとて歓迎すべきことなのかは疑問だ。洗い桶の水もろとも赤子を流してしまうことにはなっていないのだろうか。独身者の機械? そもそもこれは一体これはまだ「音楽」なのか?これは人間が聴くものなのか?

要するに、三輪さんのWebページの予告を見て私はもの凄く期待をしていたので、率直に言ってひどく拍子抜けしてしまったのだ。 勿論マーチン・リッチズの楽器には価値がない、と言いたいのではない。彼の取り組みに意義を見出す人がいるであろうことは 想像できるのだが、残念ながら私はあんまり興味を持てなかったというだけのことだ。あるいはまた、まさに私が抵抗を感じたその 理由が、別の人にとっては賞賛の理由そのものであるような事態だって考えられる。(実際、この文章を読んだある人は、 「これは、実は反語的に賞賛になっているという読み方もできる」と言ったほどである。)面白くないのか?―しばらくは機械が動くさまを 眺め、間歇的に鳴らされるチューブラー・ベルの音を聴いていたけど、それだけ。でも、お前はそれを見て色々と考えただろう、 それだけ刺激的な作品なんじゃないか、と言われるかも知れないが、率直に言ってあまり「楽しめなかった」のである。展示会 全体としての企画は非常に興味深いものだったけれど、リッチズの音楽機械について言えば、私にとってはそれが何か新しい発見を もたらすようなものではなかったし、温故知新にも、何かに対する相対的・批判的な認識への手がかりになることもなかった。 もっと端的に言えば、それが三輪さんとの共同作業の結果、「考える機械」(Thinking Machine)と名づけられなければ、 興味をひくことはなかったし、ネガティブであれポジティブであれ、あれこれ考えを巡らす対象にはならなかった。 限られた時間を思えば、それは素通りしてしまう多くの事象の側に分類されてしまっただろうと思う。

それにしてもこの違和感の原因は何だろう、と改めて思う。別にそれが、一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなもので あることが原因なわけではない。「機械じかけの音楽」に関心がないわけでもない。だが、何か決定的な齟齬があって、 「普通の音楽」、人間が作り、人間が演奏し、そして人間が聴く音楽、そこで使われる楽器の場合に比較して、なお 一層極端なかたちでその齟齬が現れているように感じられる。

上にも書いたのだけれど、これは「音楽」なのか?というのが最も端的な違和感の表明なのかもしれない。 そしてリッチズの作品とその他の展示の間に感じた懸隔もまた、この点に由来しているのではなかろうか。 実際にはそちらの方が中途半端なのだ、という批判はあるかも知れないが、それはさておき、古代以来の「機械じかけの音楽」に対する情熱には、 聴くことに対する人間の欲望が伴っていたように思える。たとえピタゴラス派の天球の音楽が、通常の聴覚では聴き取れないものとされていたとしても、である。 一方で、人間の限界を超えた何ものかに対する憧れというのもあって、その両者は論理的には相容れないものでありながら、 不可分であるかのようにいつも同居していたのだと思う。私見では、例えばクセナキスの音楽も、三輪さんの音楽も、 そうした背反を備えていて、だけれども、それがその営みを「音楽」にしていたのではないかと思う。

ではリッチズの音楽機械はどうなのか?意地悪な言い方をすれば、それは聴く人間の欲望に対しては無頓着だし、 人間の限界を超えるのではなく、その手前に閉じこもろうとしているように感じられた、ということだろう。そして、その両方の契機を 欠いたそれに、私は「音楽」を見出せないのだろう。 言うまでもなく、これは私個人の感じ方で、私がこういったからと言って、リッチズの作品が無価値だということにならないのは 勿論のことである。客観的な立場からの批評は別の問題であって、それはそうした資格と能力のある人の意見を聴けば良いのだ。 あるいはまた、主観的に「面白い」「素晴らしい」と感じる人がいても全く不思議ではない。 だが、私自身としては、客観的にそれが「間違い」であったとしても、そうした印象を偽ることはできない。 とてもがっかりしたのだけれども仕方ない。

ついでに言えば、別にそうした反感が、リッチズの作品が一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなものであることが 原因なわけではないことは、先日の自動ピアノコンサートでの経験と照らし合わせてみれば明らかなことのように思われる。 先日の自動ピアノコンサートでは、最新鋭のテクノロジーに支えられたマルチメディア作品―それは、示唆的なことに 「絶対音楽」「絶対イメージ」と命名されていた―がトラブルのために充分にリアライズできなかったが、私にはそうしたトラブルへの 頑健性のようなものも作品の一部に思われた。実際にはこれはひどく不当な態度というべきで、いわゆる「芸術」の世界での 価値観や事情は異なるのだろうと思いつつも、思わず私が普段生きている社会集団でのスタンダードを投影してしまったのである。 それにしても「絶対音楽」「絶対イメージ」って何なのだろう。作品を思い起こし、反芻しても杳として答が得られそうにはない。 そしてリッチズの機械に対しても、思わずそのようなスタンスを持ってしまったのだと思う。あるいはこれもまた一種の「絶対音楽」 なのだろうか?「絶対音楽機械」?なにものにも奉仕しないがゆえに、トラブルに対してアプリオリに無辜な存在?

もっと言えば、これに1200時間かけたというのを読んで絶句してしまった。しかもたった半年で1200時間。一日8時間として 150日である。180日のうち150日。自分の時間をお金に替えて日々の糧を得ることに汲々としている私のような人間にとって、 それはもはや想像の限界を超えている。同じ時間を与えられたって、どうせ私に何かできる訳ではないのだから、 これが不当な感じ方であることは自覚しているけれど、それにしても1200時間は凄い。しかも半年間にそれだけの 時間を投入できるなんて。見る人が見れば、「さすが1200時間かけただけのことはある」「やはり時間をかけなければ 素晴らしい作品は生まれないのだ」ということになるのだろうが、私には溜息しか出ない。強いて言えば、そうした時間の 使い方は、作品がそれに見合った金額で買い取られる保証があるとか、何らかのサポートなしには不可能だろう。 思えばこの展示も、自動ピアノのコンサートも無料なのだ。にも関わらず、受益者である個人に対してカンパを募ったり、 スポンサーを公募したりという話は、寡聞にして聞かない。もっとも、パンフレットを見れば、きちんとスポンサーや協賛企業が 記載されている。つまりそうした仕組みは、享受者とは別のところできちんと整備されているということなのだろう。 コンサートこそ盛況だったけれど、訪問する人間のまばらなこと、自分がそのうちの一人であることを思えば、受益者の 最たるものであろう自分に何かを言う権利などないのかも知れないが。

そして私としては、こうしたサポートを行う仕組みの方に寧ろ賛嘆の念を覚えるのである。リッチズがその半年で、自分の 思うような作品の創作に打ち込めたのだとしたら、それは無条件で素晴らしいことではないか。リッチズのあの機械、 人もまばらな博物館の中で、ときおり人が訪れる間だけ、スタッフの手によって初期値を与えられては間歇的にベルの 音をたてるあの機械は、その中に1200時間もの時間を閉じ込めているのだ。しかもそれは、いかなるものへの奉仕も求められず、 隔離されて慎重に管理され、なおかつ維持・管理コストや故障率といった尺度から自由な機械なのだ。 改めて「アート」の世界、それを支える社会的・経済的なメカニズムが自分とどんなに疎遠なものかを痛感せずにはいられない。 同じ時代と場所を共有しながら、それは何と自分からは遠く感じられることか、、、(2007.11.28初稿, 11.29, 12.12加筆・修正)

*   *   *

[付記]

最後にもう何点か、本文で書けなかったことを補足しておきたい。

(1)色々書いたが、結局、リッチズの機械はちゃんと動いている。「動いてなんぼ」「納期遵守」という観点から言えば、 リッチズの作業は非の打ち所がないことを確認しておきたい。頑健性にしても同じ事で、では私が普段生きている社会集団で それらがきちんと達成できているかを顧みれば、上に書いた言葉は自分に降りかかってくるものになるのは明らかなのである。 自戒の念をこめて追記しておきたいと思う。

(2)Thinking Machineの帰属や存在理由というのは、だが、いずれにしても問題として残るように思われる。例えば私は、こんなことを 考えた。この展示が終わったら一体「考える機械」はどうなってしまうのか?そもそも、それは存在し続けるのか、どこに置かれるのか? 上ではあたかも、それでもそれが「利用」され続けることが前提であるが如くに書いたが、本当はその点は全く自明ではない。 実は既に決まっているのかもしれないが、是非、機械の行く末を知りたいものだと思う。プログラムは保管という点では有利だが、 早晩、ハードウェアの互換性や移植の問題に直面する。その一方で、有体物たる機械は、上述した利用を継続する上での 保守・維持管理の問題もあるし、それが使われなくても、それはそれで保管の問題に突き当たる筈だ。

(3)そしてここで、[はじめに]で言及した問題に戻る。この機械は一体誰のものなのだろう。「Thinking Machineの帰属」と書いたのは、 だから、誰が作ったか、誰のために作ったか、誰が所有するのか、といった幾つかの側面をひっくるめてのことである。 勿論、そこには委嘱、共同制作といった仕組みの問題も含まれる。これも最初に述べた「匿名性」の問題もある。 なんなら知的財産権や所有権といったレベルの存在を思い起こしてもいいのだ。(ちなみに、良く知られているように、 プログラムの世界では、これは非常にクリティカルな問題である。だが芸術作品だって決して例外ではない筈だ。それどころか 第一義的に「機能」や「新規性」ではなく「個性」や「独創性」が重視される世界には、独特の困難があるだろう。)
実は、別のところにも既に何度か書いているように、「誰のためのものでもない機械」という考えは、私にとっても魅惑的なものなのである。 だが現実には、人間なしに「音楽」が存在し得ないといった議論よりも遥かに手前の水準で、既にそれは御伽噺に過ぎない。 コンピュータネットワーク上のソフトウェアの方が、手作りの巨大な機械に比べたら、まだ可能性が高いのではないかという気がする。 そういう意味では、上に書いた「何にも奉仕しない」というのすら、ある意味で既に作品の土俵に乗った言い方なのである。
そうしてみると、実は私が今回の展示で感じたのは、そのことに対する幻滅だったのかも知れない。(2007.11.30追記)

2007年11月26日月曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」再訪記(1)

三輪眞弘/入鹿山剛堂 Nomadische Harmonie (interactive installation)に触れて
2007年11月26日東京大学駒場博物館

東京大学駒場博物館で開催されている「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の記念コンサートとして10月31日に 行われた自動ピアノ演奏会については、その感想を既に書いたが、その際、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品については、 インタラクティヴ・インスタレーションという性質上、再訪の上、自分で実際に触れてみたいと書いた。偶々、予定していた アポイントメントが突然キャンセルになって、空白の時間が出来て休暇をとった午後、東京大学駒場博物館を再訪して、 「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の展示を見るととともに、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れてきたので、 その感想をまとめたい。展示の中での今回の目玉である「思考する機械」(Thinking Machine)を中心とした感想は 稿を改めるとして、ここではまず、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品について。

なお、最初にお断りしておくが、この稿を書くにあたっての素材は、作者の注文通りピアノの鍵盤を色々な仕方で叩いた 経験と、会場にあった作品についての簡単な説明のみである。つまり具体的なアルゴリズムの知識があるわけではないし、 背景知識もない。触ってみて作者に聞いてみたいことは結構あるけれど、残念ながら聞く機会はないし、それ以前に、他の感想が そうであるように、まずは先入観なしの印象を書き留めるのが目的であると考えている。背景知識の欠如についてもう少し補足すると、 私はプログラムの開発経験はあるけれど、MAX/MSPに触ったことはないし、楽理の方は更に怪しい。ピアノも弾いて楽しめるレベルには 程遠いし、音楽的な訓練を受けているわけではないので、音を聴いてぱっと和声を言い当てる、といったこともできない。 何故こんなことを書くかといえば、そういう知識さえあれば私がやった作業はもっと簡単なものだったろうし、より突っ込んだ 楽しみ方ができただろうと思うからであり、その一方で、以下の記述もまた、そうした専門知識を前提とすれば、ひどくまどろっこしい ものに感じられるに違いないことが容易に想像できるからである。また、知識がある人なら犯さない類の勘違いを している可能性も大いにある。間違いはできるだけ直していきたいが、それがなくなったところで所詮は、 (年甲斐も無く)好奇心旺盛な素人の体験談に過ぎない。従ってそういうものとして受け取っていただけるように予めお願いしたい。

実は当初、その前の3連休を使っての再訪を予定していたのだが、聞けば駒場祭とのこと、まあ、博物館自体の 混雑はまた別かも知れないが、キャンパスは人で溢れているに違いないし、博物館だって普段に比べて混んでいることが 容易に予想されて断念し、このままだと再訪は叶わないものと半ば諦めていたら、ふとした偶然で時間ができてしまった。 学園祭翌日の平日の午後、博物館は、私にとっては幸いなことに空いていて、主として1階で行われていた展示もゆっくり 見れたし、作品にも時間をかけて触れることができた。間歇的にやってくる他の見学者の方々に遠慮して席を外しては、 階下の展示を見て、空いた頃を見計らって、作品に触れられるピアノに戻る、というのを何回か繰り返したので、 或いは、博物館のスタッフの方には変な奴と思われたかも知れない。基本的にはご迷惑はおかけしていないと思うが、 多少、作品のインタラクションを試すためにあれこれ鍵盤を叩いたので、普段は立たないようなタイプの「騒音」を立てて しまったかも知れない。

端的に言ってこれはとても面白かった。とはいってもその面白さの大半は、音のインタラクションに由来している。 自動ピアノコンサートの感想でも触れたとおり、音に同期してディスプレイには、鳴っている音に連動して色の帯が 表示され、今鳴っている音の強さが帯の長さで、その音が属している(とシステムに判定された)調性が色で表示される ようになっている。絶対的な音高は反映されないし、アタック(スタカート、レガート)なども反映されない。 だが、システムは強度にもアタックにも、音高にも持続にも反応する。調性と色の割当は相対的には意味づけがされている。ただし それは絶対的なものではないようだ。(もっとも共感覚の個人差はかなり大きいようなので、こちらは無理だろう。) だけれども、調的に離れた音群が並存する環境になると、画面は虹のようにカラフルになるし、調的に収束すると、 概ね2色くらいにまで色彩のパターンも減る。少し慣れれば、画面上に虹を出したり、水色を基調にしたり、 マゼンダを基調にしたりといったことができるようになるので、これはこれで面白いが、それ以上のものではない。 音から聴き取れる共感覚に由来する色彩感とは基本的に別のものだし、繰り返しになるが、システムのインタラクションの 次元の一部を抜き出したに過ぎない。システムの状態の一部を示すグラフに過ぎず、せいぜいがインタラクションの実験の 結果を確認するインタフェース・ツールくらいの役割しか果たさない。聴覚的に得られる経験の方がずっとずっと豊かなのである。 画面を見ずに返ってくる音に聴き入った方が、はるかに色彩的に感じられるという印象は、自動ピアノ演奏会の時と変わらない。

なお調的とはいっても、西欧の古典的な和声のシステムに依拠しているわけではないようで、どちらかというと 旋法的な音の集合への帰属が基本になっているように感じられた。最も端的には一つだけ音を叩いて どのような音のパターンが返されるかを見てみれば良くて、この結果はほとんど規則的に感じられた。 また、システムがサンプリングするのは単一の音であり、和音を弾くことには意味がない。この点も システムが伝統和声に従っているのではないことと関係がありそうである。

ある音の調的な帰属の計算は隣接する2音、つまり今鳴っている音と直前になっている音との関係で決まっているので、 同じ音を叩いても、常に画面に同じ色が出るわけではない。(ただしオクターブ以上の解離のある2音連続の効果は 試すのを忘れた。)その一方で、目標となっている集合内に含まれると予想される幾つかの音を、順番に注意して選択的に叩けば、 収束を妨げることはない。ただし収束を加速させることができるかどうかまではわからなかった。 いずれにせよ、慣れてくればある程度までは、どの音が返ってくるか、自分の介入が収束を攪乱するか否かくらいの予測がつくようになる。 画面に虹を出そうと思えば、システムが選択しようとする旋法の外の音を選択すれば良い。あるいはシステムが 収束しつつある音集合の外に逸脱するように誘導するような音を継続的に順次選択していけば良いわけである。例えば 白鍵のうちの幾つかの音のみで構成される旋法に安定するようにさんざん仕向けておいてから、急に楔を 打ち込むように黒鍵での割り込みを繰り返すと、簡単に収束が起きずに、しばらくはいわば複旋法でのパターン生成が続く。 メシアン的なカレイドスコープみたいな音響効果が得られてけっこうまばゆいのだが、伝統的な和声に慣れた人が聴くと、 カオティックに響いたかも知れない。(もし、うるさいと思われた方がいらしたらすいませんでした。) でも勿論それはランダムなクラスターではなく、従って、確固とした色彩を音に感じることができる。

アタック、強度、持続への反応は面白くて、うまく叩いてやるとかなり複雑なリズムパターンを生成することも できるし、特殊なアタックや極端な強度の対比の効果は、それに対する最初のシステムの反応が、後続する音の系列に 減衰しながらも影響を残すので、これも生成される音を多様にする効果がある。 左ペダルはリセットのためにリザーブされているようだったが、右ペダルの人間の操作がサンプルとして 入力されていたかはわからなかった。もっと正確に言えば、多分サンプルにはなっているのだけれど、 その一方で、人がペダルを踏まなくてもシステムの側が勝手にペダルを踏む場面があったように 思えたので、あまり自信がないのと、ペダルを踏む操作が衝突すると楽器を壊してしまう 危険を感じたので、あんまり試せなかったのである。(ペダルを踏んではいけません、とは書いてなかったけれど、 これって、作者の側からするとフレーム問題の類に属する行為なのかも知れない。 ちなみにさすがに内部奏法をやってみようとは思わなかったが。)

ピアノが2台あるわけではなく、トリガーとなる人間の打鍵とそれへの反応が1台のピアノの鍵盤上に 並存するので、間歇的に、しかもシステムに遠慮して鍵盤を選ばないと、打鍵の衝突が起きるのは ご愛嬌である。しかも、システムは連弾を弾くような音域のとり方をするのではなく、どちらかといえば、 人間が叩いた鍵盤の隣接音を中心に反応を返すので、本格的な連弾をするのはなかなか難しそうだ。 もっとも、このシステムはどちらかといえば初期値を与えてもらって、そこからあるアルゴリズムに従って 音の系列を生成するような造りになっているので、上述の和声的な同時的な打鍵に対する制限は 勿論のこととして、そもそも人間がまとまった旋律を弾くこともまた、あまり想定されていないかも知れない。

そういう意味で面白かったのが、短二度や三全音のトリルとか比較的早い速度の半音階を 入力として与えることで、特に半音階については、短二度は互いに素であると思われるので、結果は色彩の散乱になる。 (はじめは伝統和声に従ったアルペジオを試したのだが、これはリアクションとしてはあまり面白い結果にならなかったと 記憶している。) また全音音階も興味深い効果が得られたように思える。その延長線でメシアンのM.T.L.も試して みればよかったかも知れないがこれは試さなかった。

システムは時間的に隣接する2音間の関係によって調的な帰属を計算しているはずだし、一音叩けばシステムは 勝手に自分も音を鳴らし始めるので、上述のような音の系列を人間が与えるといっても、厳密には 音の系列の間にはシステムが鳴らす音が混じることになる。だが、システムはもともとある音の 集合に収束するように傾きを与えられているし、その点に限定すれば絶対的な音高は関係がない ようなので(要するに上述のオクターブ以上の解離は意味がなく、オクターブの剰余類が演算の元になっている ように感じられる)、多少の攪乱は生じるが概ねは短時間に連続して入力する音の集合が全く無視されてしまうと いうことはないような印象を受けた。

そしてふと思いついて最後に試してみたのが、もともと旋法によって書かれている旋律を弾いてみることで、 これはやってみるとわかるのだが、システムの生成する音響と衝突することがほとんどないように感じられた。 例えば「君が代」がその例で、うまく弾くとまるでシステムが一人で弾いているように装わせることも 可能ではないかとさえ感じられた。というわけで最後は「君が代」を「合奏して」おしまいにした。 (偶然かどうかわからないが、タイミング良く階下から人が上がってきて、スタッフの方が注意しに来たのかと 勘違いして、一瞬びびった。)

実はこの作品、作成されたのは随分前のことで、1996年に奈良で開催された人工生命学会ALIFE Vで 発表されたものとのこと。2002年2月には、テレビの「題名のない音楽会」でも取り上げらたらしい。 言われてみればなるほどという気もするし、ここに「東の唄」などの「極東の架空の島の唄」の系列の作品の こだまと、逆シミュレーション音楽を予告する徴候の両方を見てとることができるような気もする。

発表時の反応を知る由も無いのだが、実際にインタラクションを試した限りでは、これは音楽作品として、 実に良く出来たものだと思う。(研究上の価値については、その方面のサーベイをやったことがなく、 ごく一般的な知識しかないので、私には判断できない。)

ひとつには鍵盤を叩く人間には、色々な関心をもった、色々な人間がいるわけで、 どのようなレベルの入力を想定するかについては様々な選択肢が存在するのだが、ここでは 丁度このような展示に相応しいように、最も単純な入力に対しても、それなりの反応を返すように できている。それだけでなく、必ずしもアルゴリズムの知識がなくてもシステムの癖がわかってくれば、 ある程度はその反応を人間が予測することができるし、簡単な「合奏」も不可能ではない。 しばらくいじっていると、私のような訓練を受けていない人間でもそれなりの「コツ」が掴めてくるのだ。 逆に言えば、音楽のプロにとってはあんまり面白くないだろうし、ピアノをバリバリ弾ける人にとっては 腕の振るいようがなく、発想の転換を迫られるもので、寧ろ苦痛に感じるかも知れないが、 私くらい能力がないと丁度良い按配なのかも知れない。

調的な収束についても、いわゆる急降下を行うわけではないようだ。恐らく人間の側の入力が収束に対して 攪乱するような働きをした場合への頑健性を考慮した結果だと思うが、Nomadischeの命名の通り、 収束は、ふらふらした軌道を描きながらのもので、逸脱に対しても反応ができるようになっているし、 最後の段階になっても、完全に安定してしまうわけではないようだ。喩えてみれば、ひねればまた 沸騰するように、ゆらぎが残った準安定状態のようなところに留まるようになっているようなのである。

そしてそうしたことの結果が、自動ピアノ演奏会の感想でも述べた、自動ピアノのリアクションの側に 感じられた身体性なのではないか。それはどちらかといえば虚像と言うべきなのだろうが、虚像であろうが なんだろうが、そのような感覚が生じた事実は残る。上で「君が代」で「合奏した」という言い方をしたが、 それは比喩であると同時に、実感そのものでもあるのだ。

一般的にインタラクションのあるシステムの設計は難しいものだ。それはシステムの状態だけではなく、 人の反応という得体の知れないものを相手にしなくてはならないからだ。一見すると「良心的な」 使い方しかしそうになく、だからそのようなリスクがなさそうに見える業務システムの設計においてすら、 少し複雑なものになれば、設計者の想定外の事が起きるのはほとんど不可避である。

その一方で、人間の適応力というのは実に優れていて、最初は使いにくく感じられるシステムも、 しばらくすると人間の方がシステムの挙動に合わせて自分の行動や意思決定を調整してしまう。経験を フィードバックして、機械の挙動を読んで先回りしてパラメータの制御・微調整をすることも稀でないどころか、 ごく普通のことだ。(例えば工場でのプラントの制御、製造用の各種の機械や工具の取り扱いなどを 考えれば良い。「熟練」というのは、そうした調整のための経験の蓄積のことを言うのである。 もっともこのこと自体は、例えば音楽における楽器の演奏だって基本的には同じだろうと思うが。) それはかなり複雑な意思決定支援システムでもそうで、それゆえ、現実にはそのような人間の調整能力を 見込んで、人間が歩み寄りやすいような挙動をするようにシステムの側の設計を行うといった ことが頻繁に生じる。学術的に優れた解を出すのが目的であれば別だが、実用のシステムに 要求されるのは、寧ろそうしたインタラクションによって得られる適切な均衡であり、逆にその均衡点を 事前に適切に設計して、その通りになるようにシステムを作ることは、これはこれで大変に難しいものである。

もっとも上述のような状況を、今回のインスタレーションを含めた三輪さんの作品に単純に類比するのは 無理があるだろう。「自動販売機に身体性を感じることはない」と書いたが、上述のシステムにおいても、 別に利用するユーザーはシステムに身体性を見出しているわけではない。そればかりか、均衡点を 見誤れば、人間がシステムに合わせて無理を強いられる、使い勝手の悪いものになってしまうのであって、 そこで起きているのは寧ろ人間の機械化である。要するに身体性の仮構は、それとはまた一つ別の 問題なのだ。

だがこの作品においては、三輪さんの作品はそうした弊を免れていると私には感じられる。 もっとも、どこがどう違うのかを現時点で分析的に述べることは私にはできない。それは三輪さんの 作曲家としての能力と、修練の賜物、これもまた「熟練」によって可能になっているのだと 想像してみるくらいのことしかできそうにない。そもそも、こうした感覚はあるところから先は 分析不可能なものだ。要するに実際に自分で触ってみて各人が感じ取るしかない類のものなのであると思う。 もっとも感性情報処理や、「勘」や「読み」の分析だって行われているのだから、そうした専門の方のお考えは また別かも知れないが。いずれにせよ、私の分析能力には限界があるので、そういう意味で直接作品に触る機会を 得られたことは非常に幸運だった。

勿論、興味は尽きることはなく、できればもう少し、システムのつくりについての詳しい説明や、 こうしたインタラクティブ・システムの可能性や現時点での限界などについて、作曲家の視点からの お話を伺ってみたいものだと思う。 繰り返しになるが、この作品はもう10年も前のものなのだ。個別の技術的な視点はおくとしても、 例えば現時点での展望はどのように変わり、あるいは変わらないのか、 任意時点でのユーザの介入を受け付けるこの作品と、分散・協調型ではあるが、 初期値が与えられれば基本的に外乱は想定しない「逆シミュレーション音楽」とを比較して どうなのかなど、聞いてみたいことはたくさんあるのだ。(2007.11.28初稿, 11.29加筆, 12.12修正)

2007年11月4日日曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」を聴いて

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」
2007年10月31日東京大学駒場博物館

三輪眞弘/入鹿山剛堂、ヒンデミット、トッホ、ナンカロウ、ゴチェフスキ、古川聖、山本純ノ介/土佐尚子の作品

自動ピアノというものの存在を初めて認識したのは、私の場合、マーラーがヴェルテ・ミニョンに残した幾つかの演奏記録によってだった。 1911年に没したマーラーは、時代を代表する指揮者であったにも関わらず、残念ながら指揮者としての演奏記録がない。 それゆえ1905年11月に記録されたピアノロールは貴重なもので、書簡や写真といった媒体以外でマーラーその人を知る資料と なっている。
またラヴェルについても自作自演のピアノロールが幾つか存在する。ラヴェルの場合、自作を指揮した録音もそうだが、 ラヴェル名義であっても実演は別人というケースがあるようだが、それでも自作自演と思われるものも幾つかあって、 こちらもまたCDで聴くことができる。
要するに、私にとってはピアノロールは記録媒体としてまず立ち現れた。不完全であっても、マーラーやラヴェルといった「伝説の人物」の 身体の記憶を封じ込めた魔法の筒なのだ。もっともマーラーもラヴェルも、勿論それなりにピアノを弾くことはできたが、ピアニストは 少なくとも本業ではなかった。更に言えば、ピアノロールによる再生をその場で聴いたことがあるわけではなく、そうした再生がCDに 収録されたものを介して、マーラーに、ラヴェルに接している(と錯覚している)のである。一体、本当に彼らの身体の痕跡をそこに 見つけることができるのだろうか、という疑問が起きて当然だが、それでも聴く私は、そこに何か取替えの利かない、ハエッケイタスを 読み取ろうとしてしまう。

今回報告する自動ピアノ演奏会での自動ピアノのあり方は、上記のようなものとは全く異なる。一つには、まず自動演奏の メカニズムの問題があって、今日の自動ピアノはピアノロールとは異なった再生システムを備えている。そして何より演奏された曲は、 はじめから自動ピアノのために書かれていて、だから再生される音は、誰かの身体の痕跡なのではない。かつての音楽時計、 或いはもっと身近なところでは、オルゴールのもの凄く高級なものと思えばよいのかも知れない。
当日演奏された曲のうち、ヒンデミットとトッホの作品は、まさに上記のヴェルテ・ミニョンのために作曲・編曲された作品。 素人が聴いた分には「自動ピアノのための」という側面は控え目なもので、ある部分で辛うじて、それが人間が2本の手で 弾くことができなさそうな感じがするといったレベル。勿論、それと作品自体の出来・不出来は別の問題である。
それに比べれば、ナンカロウの作品(Study21:Canon X)は、シンプルなアイデアだけれども、明らかに人間の弾くための音楽とは 異なった質感を備えている。例えばリゲティのエチュードは、これをもう一度人間の弾く音楽の側に折り返したのだったか。 普段聴きなれていないせいもあってか、着想の卓抜さと、出来上がった音響の面白さは群を抜いているとは思うが、 何となく所在ない感じに捉われる。可能性の開拓という点でナンカロウの独創性はずば抜けているとは思っても、 そしてそれが、自動ピアノという媒体にこだわったもの―つまり、今日では幾らでも存在する、より多様なパラメータを操作 することが可能な自動演奏のための媒体で置き換えたら意味を喪ってしまうような類のもの―であることが何となく感じ取れはしても、 何か腑に落ちないものが残る感じは否み難い。勿論、それはナンカロウの限界なのではなく、聴き手である私の限界なのだが、 さりとてナンカロウが意図的にそうした「腑に落ちなさ」を狙ったとも思えず、どことなく齟齬が存在しているのが気になってしまう。

ゴチェフスキ、古川の作品は(一緒に扱うことの是非はあるかも知れないが)、ナンカロウの作品が持っているような意味合いで 自動ピアノというメディアに拘束された作品には思えなかった。要するにシンセサイザーでも何でも、別の媒体でやっても いいのではという感じがした。実現される音響は全く異なるのだが、それでも聴いた印象は驚くほど似通っている。 作品の構造の元となったアイデア―ゴチェフスキ作品の場合には、無理数同士の比とのこと(私には今ひとつぴんと来なかったが)、 古川作品の場合にはフラクタルやカオス、セル・オートマトンという私にとっては馴染み深い素材―を、どのように音響にマップするかに ついて膨大な選択肢が考えられ、寧ろそちらの方が作品の実質を支配するくらいに思えるし、そこが音響と音楽とを分ける のではないかと思うのだが、その点について明確な印象が持てなかった点が共通しているのだと思う。 いずれも実験色を強く感じたが、恐らく意図としてもそうなのだろう。

プログラム上、最後に置かれた山本/土佐作品と、最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、どちらも映像と連動した作品で、 プログラムの構成は凝ったものと感じられた。もっとも最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、インタラクティヴな作品だという こともあり、催しの開始前にゴチェフスキさんがピアノの鍵盤を叩き、「演奏」を行っているのを、それが最初の作品だと 気づかずに聴いていて、プログラムが始まったら、三輪さんがコンセプトを説明して終わってしまうという、ちょっと意想外の 展開だったので、充分なコメントができない。日を改めて、再度博物館を訪れ、実際に自分で鍵盤を叩いてみて、 改めて感想を書きたいと思う。
最後の山本/土佐作品の方はといえば、機器の設定のトラブルによる演奏のやり直しや、途中、映像が映らなくなるという 事故の印象の方が大きかった。勿論それは作者にとって不本意なことであったに違いないが、こういうトラブルは、 マルチメディア作品を、普通の音楽と同じように「一発勝負」で演奏するという状況ならではのもので、参加者としては なかなか興味深いものがあった。会場で設定を担当された方、会場にいらした作者の方々にはお気の毒なこと だったと思うが。
クラシック音楽のコンサートなら、演奏中弦楽器で弦が切れたりするのが一番近いだろうか、とか、 以前聴いた川島素晴さん企画の近藤譲作品の演奏会で、よりによって委嘱新作の初演でエレキ・ギターの設定が おかしくて、アンコール代わりにもう一度初演をやり直すというハプニングが起きたことなどを思い浮かべた。 その際に印象的だったのは、―それは歌曲だったのだが―、二度の演奏で最も聴感が違ったのが人間の声だったということだ。 個人的な好みで行けば、太田真紀さんの強い表出性を持った声の印象は、最初の演奏の方がより強烈で、演奏の 一回性というのを強く感じたものだった。全体としてこの近藤作品の演奏会の質はずば抜けていて、しばらくCDの演奏が つまらなく思えたくらいで、近藤作品にとって演奏する人間の関係性―それは勿論、身体を介したものである―というのが如何に 本質的であるかを認識しもした。今回の自動ピアノのコンサートが基本的に演奏者の身体性の不在が前提であることを考えると、 ハプニング一つとってもなかなか興味深いものがある。(聴き手は気楽なものだ、とお叱りを受けそうだが、、、)

全体で約一時間程度、企画者であるゴチェフスキさんの流暢な日本語による司会・解説と、三輪さん、ゴチェフスキさん、古川さん、山本さんの 簡単な自作解説がついた非常に充実した企画で、これが無料というのは信じ難い。まずはこのような企画に対して賛意を表したいと思う。 会場は駒場博物館の2階の一室、展示スペースに椅子を並べてのものだったが、入場者の制限を行わなかったこともあり、 坐りきれないほど来場者が多く、会場の担当の方が椅子を持ってきては追加してという作業を繰り返し、なかなか開演しなかった。 しかも三輪さんがどんどん押し寄せる来場者に席を譲り続けておられて、なかなか坐る椅子が決まらないので、見ていて はらはらしてしまった。そしてその待ち時間の間、ゴチェフスキさんと三輪さんのアルゴリズムのインタラクションが行われていたわけである。

ということで、本来の主旨の筈の三輪さんの作品についてのきちんとしたレポートは別の機会に譲ろうと思うが、それでも、 幾つか印象に残ったことはある。

上記のような事情で、それが三輪さんの作品とは気づかずに聴いていたのだが、私の美術的なセンスの欠如も手伝ってか、 音響と同期した画像の動きについては、あまりに説明的に感じられて率直にいって退屈に感じられた一方で、音響的には、 ちょっと不思議な感覚に捉われたのをはっきりと覚えている。画像についていえば、調的な遷移があるのであれば、 スクリャービンやメシアンではないが、そうした調的な遷移と色彩の遷移の共感覚のようなものが感じられれば面白いと 思ったのだが、私の共感覚がずれているのか、そのような側面は画像からは感じられず、かえってそうした移ろいを感受することの 妨げに感じられてしまった。単なる私の感性の欠如かも知れないが。、目を瞑って聴いた方が面白かったように記憶している。
一方、音から受け取った不思議な感覚というのは、この曲に限って、自動ピアノのリアクションの側に身体性の ようなものを感じられたということである。それがインタラクションという仕掛けによる虚像なのか、あるいは別の何かに由来するものかは わからない。だが、虚像であったとしたら、それはそれで興味深い。機械に身体性を見出す「志向的スタンス」が聴いている 私の裡に生じていた、三輪さんのコンセプトがそのように仕向けたということだから。
他の作品では―ヒンデミットやトッホでさえ―、そのような身体性は感じられなかったし、上述したナンカロウ作品で感じた齟齬、 腑に落ちなさというのは、恐らくはこの点に関係しているのではと思う。一方でインタラクションが身体性の仮構を無条件で 保証するとも思えない。例えば通常、自動販売機に身体性を感じることはないだろう。いずれにせよこうした視点は、 三輪さんの「逆シミュレーション音楽」の、否、それよりはるか以前の「赤ずきんちゃん伴奏器」以来の一貫したテーマでもあるわけで、 いわば「ブラインドテスト」でそれが感じられたのは、非常に興味深いことに思われた。

繰り返しになるが、この点については是非、博物館を再訪し、自分の耳と身体で確かめたいと思う。そしてまた、その印象を 別途レポートしたい。(2007.11.4初稿, 公開)