2009年12月26日土曜日

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」新作発表・演奏会について(「新作都々逸」の感想)

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」
新作発表・演奏会「声と機械」
2009年12月20日東京大学駒場キャンパス18号館ホール

研究報告・プレゼンテーション:フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)
コメンテーター:嵯峨山茂樹
演奏会:フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)「新作都々逸」(キーボード:岡野勇仁、三弦:田中悠美子)

「機械じかけの音楽」は日本学術振興会科学研究費補助金プロジェクト「音楽文化における機械の役割‐その歴史・現状に関する多面的分析と展望」(研究代表:ヘルマン・ゴチェフスキ)が 主催する展示・演奏会・シンポジウムであり、2007年12月には東京大学駒場キャンパスにて駒場博物館での展示と併せた催しがあり、その感想を記したことがある。今回の催しはプロジェクトの 最後の企画ということで、三輪さんの提案に基づきマーチン・リッチズが製作したThinking Machineの展示、ここで報告しようとしている演奏会、そして演奏会に続けて行われたシンポジウムで 構成されていた。前回は博物館の展示があったせいかキャンパス内外での事前告知があったようだが、今回は私の見聞きする限りではそうしたことは為されなかったようだ。もっとも、にも関わらず演奏会を 訪れた人数は企画サイドも含めて約60人程度であり、前回と同程度であったから、その限りではコスト・パフォーマンスを考えれば最適化が図られていたということなのかも知れない。裏返せば、前回も今回も、 例えば三輪さんのWebページの告知でそれを知って訪れた人間(例えば私)を除けば、いわゆる「口コミ」で集まった人々のための催しに事実上なっていたということでもある。学術的な活動の一環と して見れば、寧ろこうした一般公開の催しがあること自体、評価さるべきスタンスなのかも知れないが、何となく、Thinking Machineと作品発表(前回は三輪さんの、今回はフォルマント兄弟名義で 三輪さん・佐近田さん共作の)があればこそ、という感も無きにしも非ずで、プロジェクトの「業績」(この言葉は、会場でようやく入手できた今回の企画のパンフレットで用いられていたのをここで借りて いるのだが)として他に一体何があるのか、外部の人間には分かりづらくなっているのは否み難い。もっともこれは決して批判ではなく、目に見えない成果を見せることの難しさを、分野も立場も 異なるけれども常日頃我が事として感じている人間であるためか、大きなお世話かも知れないが、ここでもまた感じたというに過ぎない。プロジェクト全体の評価は然るべき文脈で為されるべきであって、 私如きが能く容喙する如きものではないのだから。いずれにしても本来は外部への公開などせずに研究成果をまとめてよしとする選択肢もある中、このような公開の催しを企画され、実行されたことに 対して、ここで敬意を表しておきたい。なお、個人的なスケジュールの都合で、当日の企画のうち最後のシンポジウムは参加できなかったので、ここではフォルマント兄弟の新作発表・演奏会のみに ついて記すことになる。

時間は14:00から16:00までで、最初に今年のArs Electronicaで Honorary Mentionを受賞した 「フレディーの墓/インターナショナル」の演奏、その後フォルマント兄弟、 主としてプロジェクト後期のメンバーである佐近田さんによる報告があり、その中で「兄弟deピザ注文」の映像も紹介された。 その後、工学的なアプローチから音声・音響処理、音楽情報処理など広範な分野で研究をされている嵯峨山先生のコメントがあり、ステージの設定の準備時間のための10分間の休憩の後、 最後に「新作都々逸」の演奏といった順序で行われた。ほぼ予定通りのスケジュールで進んだが、個人的には、嵯峨山先生のコメントはそれを展開して討議すべき 内容を多々含んでいたように思われ、時間の制約のためにそれが為されなかったことが残念に思われた。今回のプロジェクトのテーマからは逸脱してしまうのかも知れないが、私個人の展望から すれば、必要でありながら困難さゆえに充分にはなされていない対話が成立する条件が備わっている場と感じられただけに一層そうした感じを強くする。一昨年のシンポジウムの時も感じたことだが、 予め場が一方通行にしかならないように設定されているような気がしてならない。後半のシンポジウムは聴いていないので断定は慎むべきだろうが、そこで予告されているパネリストはすべて音楽学者であり、 前回のシンポジウムでは存在した作曲の現場と音楽学という対比すら欠いている。個人的にはパネリストの先生は、マーラーの音楽に関する研究や論説などを通して私のような市井の愛好家ですら 名前を良く知っている方々で、 だからテーマがテーマなら聞き逃せないのだけれど、マーラーならともかく、今回のテーマ「音楽文化における機械の役割」を考えるにあたって、音楽を美学的、社会学的な視点で分析・研究する方向から のみの知見で充分とは思われない。 音楽がテクノロジーに囲繞され、侵食されているというのは通時的には別段、現在だけの事象ではないのだろうが、それでも現在の状況の固有性というのはあるに違いないし、リアルタイムの創造の現場からの成果が プロジェクトの中で生まれているのであれば、それを扱うのには音楽が置かれている状況を外から眺める視点の介入と、それに対する音楽や音楽学の立場からの反応こそ私のような外部の人間には不可欠と 感じられてならないのである。そんなことをしたら議論が発散してしまってシンポジウムの場が有益なものとなりえないという反論に対しては、前回のシンポジウムのコヒーレンスを辛うじて維持していたのは他ならぬ Thinking Machineであり、Thinking Machineを軸とした様々な立場からの見解の交錯こそが興味深いもので、立場を同じくするはずの音楽学者の議論の方が寧ろ発散気味であったように私には 感じられたという事例をもって応えたい。今回のコメント中で嵯峨山先生はThinking Machineについてのコメントもされており、それは寧ろ前回のシンポジウムの場におかれていれば、と感じられ、 今回のような一方通行のコメントで終わってしまうことが残念に思われた。 最初に書いたように、作曲や制作の成果物はアピールしやすいから、 ややもするとアリバイみたいなことになりかねない。研究は研究として、公開の場ではいっそのことThinking Machineなり、フォルマント兄弟の新作なりに的を絞って、そのかわりじっくりと多角的に分析した 方がインパクトはあったのではないかという気がする。時間の都合もあって止むを得ない部分もあると思うけれども、せめてコメントに対するフォルマント兄弟の応答を聞きたかった。恐らくはフォルマント兄弟自身に とっては、嵯峨山先生のコメントのチュートリアル的な側面は既知の事実であったに違いないが、テクノロジーの到達点からの展望にフォルマント兄弟が採用している技術を定位する作業自体は無意味ではないし、 とりわけ「現場」の事情を身をもって経験しているわけではない人々(恐らくその場にもいたであろうと推量される)に対しては必要なことであったのではないかと私には思われる。その一方で、アートの立場と自己の立場を 峻別されて話をされた嵯峨山先生の姿勢がアートとテクノロジーの擦れ違いを象徴していたという見方も出来ようが、それは無いものねだりなのではないかという感じも否みがたい。仮にアートを抜きにしたとして、 テクノロジーはテクノロジーでそれが社会的・倫理的な側面に与えるインパクトについての責任に思いを致していくのは、人工知能研究の歴史で生じたそうしたリアクションの例(イライザの 開発者であるワイゼンバウムや、SHRDLUの開発者であるウィノグラードを思い浮かべていただければ良い)からも窺うことができるだろう。こう言ったからといってアートの持つ力を些かも軽視しているわけではなく、 この点ではヘーゲル的な同一性に対して主観的直接性を擁護しようとしたキルケゴールにおける3段階の序列に異議を唱え、美的意識を擁護したアドルノの立場が最も共感できると感じているのだし、 フォルマント兄弟の活動は狭義での美的なものには囚われていないのであってみれば、寧ろここにこそ可能性があると考えているのだが。

「フレディーの墓/インターナショナル」はこれまでYouTubeなどを通じ、編集された作品を再生する形態で接することができたのだが、今回はそれとは異なって、岡野さんがキーボードを演奏することに よりリアルタイムで音声合成を行う形態でのリアリゼーションであった。フォルマント兄弟名義の活動の最も際立った特徴の一つがリアルタイム性(お望みなら現前性と言い換えて、「声と現象」の デリダなどへの補助線を引いても構わないが)であり、キーボードに日本語の音素をマップする規格(「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」)といった、見方によっては特許出願が似つかわしいような 「発明」も、そうしたリアルタイム性の要請を「発明の母」をしている。鍵盤の右手の音域にピッチ、左手の音域に音素というように別々の機能を与えるのは、例えば中世のオルガンにおける音栓分割にも通じる 現場の知恵的な工夫で、私は奇妙なレトロ感を抱いたが、そもそもがフォルマント合成自体、嵯峨山先生も指摘されていたように、現在の工学的な音声合成技術ではほとんど用いられないことを 考えれば、フォルマント兄弟の活動自体が意図的であるかを問わず、アナクロニー(デリダがお好きな方はこれをレヴィナスの用語法に絡めた上で、更に「差延」に関連づけても結構)を孕んでいると考えられる。 これは実用的な技術が最先端の技術と一致しないといった、私が職業としている領域でしばしば起きる事態とは必ずしも同じではない。寧ろ(嵯峨山先生は、両者に共通性があることを示唆されていたと 記憶するが)Thinking Machineにも通じる、実用的な観点(安定性や操作・調整・保守等の容易性など)とは異なった理由に基づく、意図的な素材(としての技術:ここでは「素材」をアドルノ的に拡大された 意味合いで用いる)の選択と感じられたのである。 「フレディーの墓/インターナショナル」で合成された音声が、「実物」とどれくらい類似しているかを評価することが私にはできないことは別のところに書いたが、それをおいても、いわば「お化粧」を 施された編集済みバージョンとは異なって、リアルタイムに合成された音声には、特に子音の調音や音のわたりなどに機械特有のぎこちなさが否応なく感じられ、それもレトロ感の増幅に寄与しているのは間違いない。 寧ろ私にはそれは、現時点では積極的に「機械らしさ」の記号となっているようにすら感じられるのである。無視してはならないのは、技術的には(リアルタイムという条件をおいてもなお)より「自然な」合成音声による 歌唱の実現が可能に違いないという現実であり、その中に、フォルマント兄弟の試みをどう位置づけるかが問題なのではないのかと私には思われてならない。

だが、こうした姿勢は少なくとも、フォルマント兄弟が 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブという「論考」(以下「論考」と略する)で要請しているような姿勢でないことは確かだろう。だが、それを言い出せば、リアルタイム演奏での音声合成による、 その場にはいない人間の音声の模倣のパフォーマンス自体(私には岡野さんがキーボードを弾き、まるで聴き取ってもらえないことを恐れる最近の「官製」の日本の伝統芸能のようにスクリーンに映し出された 歌詞とともに国際音声字母が単調に表示されるのが見える)が、「随伴性」「事後性」とどう関係するのかは自明なこととは言えまい。 勿論、作曲やパフォーマンスがそれを産み出す母体となったコンセプトとぴったり一致する必要はないし、 寧ろ、そうであれば退屈な技術プレゼンテーションになってしまうだろうが、この催しが研究成果の発表であるという立場をとれば、私にはそこには混乱があるように思われてならない。仮に、既に作者の視点は 「論考」の時点から移動していて、ここでは「死体なき幽霊」は最早どうでも良いのであればそれでもいいが、であればそれを明示しなければ、作品としてはともかくも、研究発表としては一貫しないのではないか。 「論考」は当日、会場で配布されたが、前世紀のある時期に流行し、ミームが蔓延ったフランス現代思想への参照を持ったこの文章、それ自体は興味深い内容を持つ文章と、これまたそれ自体は興味深い、 その場で行われたフォルマント合成技術に基づく、リアルタイム音声合成によるパフォーマンスの整合を主張するのであれば、 それがどこまで達成されたかを測定する作業は別途なされなくてはならないのではないか、というのが私の率直な印象である。(上のように書いたからといって論考もまたレトロな装いを持っていると 言いたい訳でもない。引用文献の一つ、2006年に書かれた「象徴の貧困<1> ハイパーインドストリアル時代」の著者、ベルナール・スティグレールは、その場に「現前」していたようでもあるし、、、) ついでに言えば、「ご一緒に」というテロップが会場の笑いを誘っていたが、その一方でそう指示されて一緒に歌う人はいなかったけれど、このことはどう受け止めたものか。まさに過去のある時期には 皆が一緒に歌っていたらしい「インターナショナル」を今、フレディーの声を模した合成音声にリアルタイムに歌わせることは、「論考」で言われる2つの身体=死体の亡霊化と、あるいは「歴史=物語」の亡霊化と どう関わっているのだろう。論考には「われわれの《現在=現前》を亡霊化しようとする企て」という言い回しがあるが、端的に言って、その場で起きたことは、「論考」のパースペクティブとはかなり異なった 事態ではなかっただろうか。

このように書けば随分と否定的な評価を下しているように受け止められるかも知れないが、フォルマント兄弟名義のパフォーマンスそのものは、まさにそれが「音楽」とどう関わるかという点も含めて、 極めて刺激的な試みであり、問いを投げかけ、挑発することについては申し分ない力を備えている。例えば「兄弟deピザ注文」について三輪さんは、音楽に付随して、史上初の経済活動を 行ったとコメントし、会場の笑いを誘ったが、一方でその笑いは至極正当であると同時に、他方でそれをフモールをもって指し示すことができる芸術(という制度‐というのも、ここでは美的なものという カテゴリや超越は問題になっておらず、どういう社会的コンテクストで行われているかという点に関与の重心があるように思われるので)の力を用いて、 契約行為の前提となる法的な人格がここでは問いに付されているという点で、笑って済ますことができない側面を含んでいる。技能の習得に関連して政治的なものに言及していた点も同様である。 だが「フレディーの墓/インターナショナル」において、フォルマント兄弟の活動における作曲と思索は整合しているだろうか。哲学的・美学的・音楽的・技術的という4つの側面(私はまたもや、会場にあった パンフレットに記載されたプロフィールの文章を参照しているのだが)の関係はどうなっているのか。「死体なき幽霊」を問題にするなら、ここで「録楽」ではなくライブ・パフォーマンスにおける音声合成であるのは 何故なのか。あるいは技術的には、フォルマント合成に拘らずに、より完全なフェイクを捏造することにしなかったのは何故なのか。私には率直に言ってよくわからないのである。音声合成の研究者なら逆に、 現時点での音声合成技術ではまだまだ到底「チューリング・テスト」(の音声版)にパスしないことを認めるだろう。それ故日常的な場面で使われる合成音声は録音接続方式を採用するのが実用的な解決 であったりするわけだ。そのアナロジーでいけば「死体なき幽霊」などとんでもない、それなら別の技術的手段があるだろう、ということになってしまいそうなのだが、、、誤解のないように重ねて補足すれば、 これはパフォーマンスとしての出来とは独立の問題であり、寧ろ私は、別のものが提起されているように捉えたということである。

そのような意味合いにおいて、最後に行われた「新作都々逸」はパフォーマンスとして非常に成功していたと感じられた。舞台には畳が敷かれ、都々逸のお稽古風景が上演されるのだが、如何にも伝統芸能の お稽古に相応しい恰好の岡野さん自身が「お弟子」なのではなく、彼が演奏するキーボードが発する合成音声が「お弟子」なのである。(ちなみに私はこれを見て、2007年のシンポジウムで演奏された 「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」でも、三輪さんは同じようなことを意図していたのではないか、文字通り、その場でThinking Machineと 西さんの合奏を実現したかったに違いないと確信した。)キーボードは都々逸を呻るだけではない。お師匠である 田中さんの言葉に対して、受け応えもするのである。(もっとも単語は「はい」一語きりだが。)技術的には17音平均律とそれに対応したキー配置(同時にキーを押すことでその半音の間に存在する 17平均律の音階中の音程が生成されるという規則を含む)によって、邦楽に見られる西欧音楽とは異なる音程や 奏法の実現を試みたもので、17音平均律にしても、邦楽の音程についても、それぞれ独立には研究されてはいても、その両者をこのように結びつけた例は寡聞にして私は知らない。 そうした着想の巧みさとともに、ここではパフォーマンスにおけるリアルタイム性を 利用して、わざわざ「下手な弟子」という設定にしてみたり、「デジタル」という言葉を用いた些か(作曲者の立場からすれば)自虐的な科白のやりとりなどの工夫もあって、 テクニカルな限界がアーティスティックにはうまくクリアされていて、非常に面白い実演になっていた感じられた。 こうなってしまえば字幕も気にはならないけれど、皮肉にも都々逸の節回しの方が日本語の歌詞にとって自然なためか、あるいは掛け言葉の妙といった側面に重点が 置かれ、正確な字義通りの意味を把握することが第一義的なわけではないためか、日本語訳で歌われた「インターナショナル」よりも寧ろこちらの方が聴き取りやすく感じられた程であり、試みとしては充分に 成功したように思われた。勿論、この成功には演奏者の技量が大きく寄与しているのは間違いなく、キーボードを弾くことにおいては訓練された身体を備えてはいても、キーを抑えたり離したりする身体の動きに 割付られた機能が異なり、結果として音響的な実現は普段とは異なるという条件にも関わらず、見事に都々逸らしきものを生成させることに成功していた岡野さんもそうだし、都々逸に三味線をつけること だけではなく、その合間に義太夫節などの語りや手を交え、弟子に突っ込む科白もこなすことによってパフォーマンスを成立させた田中さんもそうであり、パフォーマンス全体としてみた場合、三輪さんの 最近の主張である「新調性主義」の作品演奏と同様、演奏者の技量を引き出し、それを利用することに成功していたと思う。

勿論、こうした私個人の印象を普遍的、一般的なものであると主張するつもりは全くない。寧ろ逆に、私が感じたのは、「フレディーの墓/インターナショナル」といい、「新作都々逸」といい、 こうしたリアルタイム音声合成を中心としたパフォーマンスが如何に聴き手に文脈を要求するかということだった。別のところに書いたように、フレディーを知らず、その声を知らない人間、あるいはまた「インターナショナル」 という歌の持つコンテキストから切り離された人間にとって、「フレディーの墓/インターナショナル」が期待した効果を得るのは困難ではなかろうか。また私は都々逸こそ知らないが、義太夫節や能楽には比較的 馴染みが深く、田中さんが途中で義太夫節の有名なサワリを語ったのに反応する程度には文脈があり、更には自分でやったことはなくても伝統芸能のお稽古の様子を見聞きして知っていることが、 「新作都々逸」のパフォーマンスを楽しめた大きな理由であることは間違いないだろう。私は音声合成や音声認識の専門家ではないけれど、その方面の研究者が身近にいたこともあって基本的な 技術背景の知識は若干持っており、だから嵯峨山先生のお話にもついていけないことはないというのも文脈の一つだろうし、レヴィナスの研究を3年ほどやったこともあって、周辺のフランス現代思想について、 かなり皮相ではあるけれど知識がないこともないというのもそうだろう。「兄弟deピザ注文」が面白いのは、ピザを注文するという(ロジャー・シャンク風に言えば)「スクリプト」を共有しているからだし、それだけでなく それが食物の購買という商行為の一環であることを共有する文化的・生物学的基盤があればこそなのだ。そして、こうした幾層もの連なりのどこにでも「機械」は顔を出しうるのだ。ただしどこに現れるかによって その相貌は異なってくるだろうが。

というわけで今回の催しも私にとっては非常に刺激的、挑発的なものであったけれど、残念ながら興味深く思われた点は必ずしも作者の注文通りではないように思う。その場で思いついたことを思い出すままに 書けば、例えば17音平均律では都々逸のような歌の要素が強いものはできても、義太夫節のような語りの要素が強いものは一層の困難が伴うのではないか、ということがある。能の謡でもいわゆるツヨ吟は 困難なのではないか。お仕舞を舞うロボットというのは魅力的だが、実現は難しいだろう。むしろ12音平均律により、「人間離れした」均質な発声に価値がおかれる西欧音楽の方が取り組み易いのではなかろうか。 また、「録楽」の問題については、既に触れたようにリアルタイムでの生成とはベクトルは合致しないだろうが、ではリアルタイム合成で聴く「それ」は一体何なのかという問題まで無効になるわけではないだろう。 「新作都々逸」のパフォーマンスが示している状況において弟子なのはやはり岡野さんであり、リアルタイム音声合成鍵盤という「新しい楽器」の習得のための訓練をしているのだと考えてしまえばいいように思われる。 だが、本当にそれでおしまいなのだろうか。そもそも伝統的な西欧音楽においても人間の声は独特の、ある種特権的な地位を占めていた。それは「主体に最も近い」「最もエモーショナル」といった規定と 対応したものだろう。ではその「新しい楽器」、別の器官を介し、別の身体を通じて発せされるそれは、まだ「声」なのだろうか。聴き手にとっては?奏者にとっては?それは「誰の」声なのか?あるいはまた、 「エモーション」の根拠は、音楽にあるのか、それともそれが「誰かの」声であるという状況によるのか?例えば留守番電話の応答用に録音された音声の主が最早この世の人ではなくなった場合を考えよ。 あるいは自分がどんな声をしているかを知ることが困難で、録音された自分の声は自分が発していると思っている声とは全く異なることを考えよ。そもそも録音された自分の声は、本当に自分の声と言えるのか? 自分の声をそのように聴くこと、時間の遅れと、空間のずれを伴って、あたかも他者であるかのように自分の声を聴くことは、テクノロジー無しには不可能だ。現前性とその神話を問題にするなら、 寧ろこちらを問題にすべきではないのか?(実際、「フレディーの墓/インターナショナル」に関連した別の対談で、三輪さんはこのことに触れた発言をしているのだ。)

こうした問いは幾らでも続けることができそうだ。残念ながら、こうした問いの全てが自分にとって等しく重要というわけではないけれど、これだけ多くの問題提起が為される経験は他にないし、それぞれが一見したところ整然とした問いになっていなくても、各々が少しずつ自分の関心の領域のそこかしこに影を落としているのは間違いなく、寧ろそれらを結びつけるのは受け手たる自分の側の課題だろう。 意図してのことかどうかはおくとして、フォルマント兄弟の活動は、すでに「論考」とは別の地点に進んでいて、別のパーステクティブを提示しているように私には思われる。 それゆえ今後のフォルマント兄弟の活動にも引き続き注目していきたいと思う。私は恐らくフォルマント兄弟の「良い」リスナーではないのだろうが、そういう私にすら、 フォルマント兄弟の提示するパースペクティブはかくも興味深いものなのである。 (2009.12.26初稿, 12.31加筆修正)

2009年11月14日土曜日

「夢のガラクタ市」システム改訂版初演を聴いて

篠崎史子 ハープの個展XI ハープとエレクトロニクスの作品を集めて
2009年11月10日 サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

三輪眞弘:「夢のガラクタ市」前奏曲とリート(1990/2009)システム改訂版 Trödelmarkt der Träume - Vorspiel und Lied -
ハープ:篠崎史子、エレクトロニクス:有馬純寿

「夢のガラクタ市」が作曲されてからもう20年近い時間が経過しているけれど、この作品はCD「赤ずきんちゃん伴奏器」に収録されているから、私はこれをこれまで 専ら「録楽」として聴いてきた。それが再演されるということで、会社から直接、今にも雨が降り出しそうな気配の空気の中、サントリーホールに向かう。大ホールの公演と 重なっていて、30分前にならなければ扉が開かないホールの前の空間はごったがえしている。あわてて、かつて(やはり20年程前のことだ)そこに職場があった森ビルの中に 避難するが、中の様子も変わってしまっていて、開場時間を確かめずに移動して、やや早めについてしまったことを些か後悔する。この前サントリーホールに来たのは 何時のことだったか、仕事で近くまで来ることはちょくちょくあるのだが、などと考えているうちに開場となり、これは初めての小ホールに席を確保(自由席だったので)して少しほっとする。

ハープ奏者の篠崎さんの個展形式のコンサートは11回目、しかも篠崎さんは三輪さんのハープのための「すべての時間」の初演者(第8回の2001年10月19日東京文化会館 での個展で初演)なのだが、コンサートが苦手な私が実演に接するのは初めてである。今回はハープとエレクトロニクスの作品を集めてということで、 いわゆる「現代音楽」のコンサートということになるのだろう。エレクトロニクスは有馬純寿さんが担当されていて、これは伝統的な意味での「楽器」ではなく、 従って「演奏者」ではないのだろうが、実質的には2人の協同作業であった。 プログラムはすべて作曲者の異なる6曲から構成され、休憩を挟んだ前半が前世紀の作品、後半が2つの委嘱新作初演を含んだ最近の作品が年代順に排列されて いて、「夢のガラクタ市」は前半の最後であった。

6月に聴いた「虹機械第2番」を含む井上郷子さんのコンサートもそうであったように、今回もまた奏者の篠崎さんの技量の高さと作品に対する姿勢に瞠目する一方で、 ハープとエレクトロニクスの作品ということで集められた6曲のそれぞれの実質のあまりの違いの大きさに再び驚かされた。繰り返しになるが、 「メディア」といい「エレクトロニクス」といい、伝統的な意味での個別の「楽器」でないのは勿論のことだが、それだけに一層、技術的な利用の可能性の巨大さに対峙するには とてつもない想像力、構想力を要求されるように思われる。人間の奏者が介在しない作品であっても、聴き手である人間との間の関係が問題になるが、ここでは 人間の奏者と、人間が演奏するハープという楽器との間の関係をも引き受けなければならない。勿論、立場はそれぞれで、ハープという楽器を変容させて別の楽器を 作り出そうとする行きかたもあれば、音に対する様々な操作の可能性の拡張をある意味では素直に使いきろうとする立場もあるだろう。こうした状況下で、奏者は伝統的な 作品の演奏では遭遇しないような立場(自分の場所が実は存在していない、という状況も含めて)に置かれることになるのだが、2つの委嘱新作が含まれるにも関わらず、 自分の位置を的確に把握し、作品の持つ可能性をリアライズしていく篠崎さんの演奏には圧倒的なものがあった。勿論、演奏者がどのように感じ、考えて作品に向かって いるのか、演奏をしている最中に何が起きているのかを聴き手が直接知ることはできず、リアライズされた「音楽」を通して想像するしかない。けれども、演奏者と作品との 関係が聴き手に影響を及ぼすのは確かなことで、とりわけCD等の媒体に記録された「録楽」ではなく、実演に接する場合には、そうしたことが一層はっきりと感じ取れるようだ。 一般には聴き手は作品を外部から眺めることになっていると考えられているのかも知れないが、その構造は絶対的・必然的なものではない。稀ではあるが、聴き手もまた 作品が構築する世界の中の項として位置づけられているように感じられる瞬間というのがないわけではないのだ。「夢のガラクタ市」を聴いて私が感じたのは、まさにそうした 感覚だったように思える。

そうした感覚の由来について考えてみるに、それは人間の奏者間の合奏を聴くのとも異なるし、ハープの音を音響的に外から加工・変形したりするのとも異なる。 多重録音で同一の奏者が擬似的な「合奏」を行うのとも異なる。テープに録音された音を聴きながら、それに反応して奏者が楽器を鳴らすのでもないようだ。 その一方で、確定的な記譜に従っているのか、即興なのかといった軸に単純に添っているわけでもなさそうだ。勿論、コンピュータによる自動演奏が無条件にそれを 担保するわけではないのは明らかだが、少なくともここではエレクトロニクス技術によってそれが実現されているのは確実なことだろう。実現された音響だけが問題なのではない、 というのは三輪さんの作品の常ではあるが、逆シミュレーション音楽より以前のこの作品においても明確であり、左右のスピーカーから、ハープの音が聴こえてくることが、 音響の空間的な配置といった効果の次元ではなく、そこにファンタスマとして奏者(の幻影)を浮かび上がらせる点がユニークなのだ。それは能のような伝統芸能の定められた楽器の奏法や シテの所作が状況に応じて様々な意味を帯び、例えば微かに上向いた能面によって仮構された視線の先に、あるいは差し伸べられた指の先に対象が浮かび上がるのに寧ろ近い。

ハープ奏者が歌い始めると、聴き手はそれがエレクトロニクス技術を駆使した「現代音楽」であることなど忘れてしまう。歌詞は未だ書かれてはいない伝承を予告するし、 ハープはまるで箜篌やアングルハープの如き、復元楽器のようだ。三輪さんにはハープや琴など、撥弦楽器の奏者のための作品の系列があるが、この「夢のガラクタ市」は そうした作品の原点に位置しているという見方もできるだろう。確かにまだここでは、コマンドを発して音響の構造を操作するのはハープ奏者であり、実際は独り舞台では ないかという見方もできるかも知れない。だが、少なくとも聴き手であった私にとっては、そのような還元主義的な言い方は自分が経験した「音楽」の実質を損なってしまうものでしかない。 恐らくある一線があって、臨界を超えると手前では奏者の影に過ぎなかったはずのものと奏者の間に相互作用が実際に生じるのではないだろうか。勿論それは虚構との対話なのだが、 そこで起きた相互作用自体は虚構ではない。実際、ハープや琴といった楽器は、古来神のお告げを聴くのに用いられた呪術的な性質を帯びたもので、とりわけ 前奏曲が終わってリートが始まると、そうした印象が一層強まるのを感じずにはいられない。近年の三輪さんは例えば「新調性主義」の文脈で、中世におけるような音楽のあり方に 言及されることが多いが、「夢のガラクタ市」は既にそうした志向を強く備えていた作品であると私には感じられた。ハープのソロのコンサートは初めてなのに既視感がある理由を 探ってみると、何のことはない、アングルハープや箜篌といった復元楽器の演奏には既に接しているからなのであった。

私がこの公演に対して関心を抱いていた理由の一つが、この公演がこれまたある種の復元、すなわちシステム改訂版の初演であることであった。以前別のところにも書いたが、コンピュータ技術の進展の スピードは非常に速く、作品をインプリメントした環境が最早利用不可能になるといった事態が比較的短期間のうちに発生しうる。まさにこの作品の場合がそれにあたり、 20年前に用いた環境から、現在利用できる環境への移植作業が作曲者によって為されたのだが、こうした事態はソフトウェアの世界ではごく当たり前であっても、 音楽作品のあり方としてはまだまだ普通ではないだろう。私にとってとりわけ興味深いのは、移植が必要であるという事態もさることながら、移植が可能であること、そして その移植可能性はアルゴリズムの同一性に依拠しているに違いないということである。もし結果として実現された音響の同一性だけが欲しければ結果を録音したメディアが保存され、それが 再生可能であれば作品自体が保存されたといいうるだろうし、翻って普通の音楽であれば、記譜法が伝承され、解読可能な状態で楽譜があれば、あるいは記譜法は なくても口伝があれば、それが作品の保存と同義ということになっているはずだ(そのことの当否はここでは論じない)。勿論その前提として、奏者である人間が変わらずに 存在し、楽器とその奏法が廃れずに伝承されているという環境があるのだが。ここでは作品の再演の定義自体が移動しているのは明らかで、そういった点でも三輪さんの作品は 異色の存在といいうるのはなかろうか。それが本当に同一であるかは措くとして(否、実際には「同一」であるわけがないが)数百年の昔の「音楽」が今でも継承されているかと 思えば、ほんの数十年前の作品でももはや復元が困難ものがあるに違いない。余計な心配かも知れないが、今回改訂された「夢のガラクタ市」以外の初期の作品は どのような状況にあるのだろうか。あるいは数十年後、もう一度今回の移植のターゲット環境が最早利用できなくなる事態が再現したら、、、

実は「夢のガラクタ市」について書くのは、私にとって非常に難しい。その理由は私はこの作品が特に好きだからなのだと思う。人は愛するものについて語り損なうと言われるが、 まさにそれが私の場合、この作品について当て嵌まりそうなのである。私はそれまでCDで「録楽」として聴いていてさえ、しばしばこの作品を聴いていて涙が出そうになることがあった。 そして実演で、コンサート会場でもそれが起きてしまった。ハープを弾きながら歌われる歌、異国の言葉で歌われる歌は、けれどもしんしんと心に響き、染み透って来る。自分が「世の成り行き」の中で 忘れかかった何かに引き戻されるような、不思議な懐かしさを伴ったような感覚に捉われる。もしかしたらそれは、エレクトロニクスの力を借りずとも、ハープの演奏と歌に よってだけでも可能なのかも知れない。けれども、ここではコンサートホールの空間に一瞬だけ別の時間と空間が浮かび上がるきっかけを与える魔法の道具となったハープと、 エレクトロニクスによってこれまた仮想的に喚起された2番目、3番目の奏者の幻影が、もう一つ別の世界を成立させ、その世界の中に奏者である篠崎さんを位置づけ、 聴き手である我々を位置づけるのだ。メディアがもたらす「夢」を語るのなら、こうした状況について語るべきなのではないか。勿論それは原理的には悪夢にも転じうるものだし、 その一方では音楽作品がそもそも仮象に過ぎない以上、「夢」でしかありえないのかも知れない(あるいはむしろ「夢」にとどまるべきなのかも知れない)が、そうした「夢」を 見る能力こそが必要なものなのだ。それが「音楽」である以上、「音」の向こうに何が見えて(聴こえて)くるかが問題なのだと思えてならない。それがたとえ夢であっても、幽霊であったとしても。 私には今回の演奏の解釈について云々する資格も能力もないが、私が「夢のガラクタ市」に聴き取りたいと感じていたものは、確かに聴き取れたと思う。そして演奏が終わって拍手が 起き、休憩に入ってしばらくしても、音楽によって引き込まれたモードから抜け出せずにいた。結果として休憩後の音楽の「聴こえ方」がかなり変容してしまったように感じられる。 あるいは休憩の時点で会場を後にすべきだったのかも知れないとも思う。

そうしたわけで、三輪さんの作品の中でもとりわけこの作品について客観的に語ることは私にはできないから、ここではこの作品の移植が成功し、見事に再演されたことに 対するお祝いの気持ちとともに、この作品に実演で接することができたことについて、篠崎さん、有馬さんと、三輪さんに感謝の言葉を述べるだけにしたいが、 最後に一つだけ「すべての時間」の再演も機会があれば是非聴いてみたいと思ったことを聴き手の小さな「夢」として書き添えておきたい。 2001年の初演の際の出来事を「洪水」の三輪眞弘特集号に寄稿された文章の中で木戸敏郎さんが触れておられたが、そこで言及されていた石井真木さんの 批判的なコメントに対して私は一応論理的には納得すると同時に、微妙な、だがはっきりとした違和感が残るのを感じずにはいられなかった。 そして今回の「夢のガラクタ市」の篠崎さんの演奏に接して、実際に自分の耳で確認せずにはいられない気持ちになっている。 能うことならば、木戸さんの復元楽器(各種のアングルハープ)や琴など、「神の楽器」たちのために書かれた音楽の中にそれを位置づけてみたいし、 他方で最近の「新調性主義」の枠組みにハープを位置づけたらどうなるだろうという関心もあって興味は尽きない。(2009.11.14初稿)

2009年6月13日土曜日

フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」をめぐって

フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)「フレディーの墓/インターナショナル」
Prix Ars Electronica 2009 のHonorary Mention (Digital Musics部門) 受賞

2007年の逆シミュレーション音楽のゴールデン・ニカ受賞、昨年のマーチン・リッチズとの共同制作であるThinking Machineの入賞に続き、 今年は佐近田展康さんとのユニットであるフォルマント兄弟名義の「フレディーの墓/インターナショナル」の入賞の報に接して、三輪さんの活動に 格別の関心を抱いてきた人間として慶賀にたえない。「フレディーの墓/インターナショナル」はWebで公開されているので、早速作品に接し、 更にその後で作品の「由来」(と逆シミュレーション音楽なら呼ばれるだろう説明)である"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ" を読んだ。以下はその感想というよりは、「フレディーの墓/インターナショナル」を巡って私におきた出来事の報告である。

というのも、今回のケースでは私が抱いた印象などより私が置かれた状況を記述することの方が「フレディーの墓/インターナショナル」について多くを物語っている ように感じられるからである。要するに私が意図せず「誤読」をし、後で「由来」を読んでそれを認識したのだが、どうすることもできなかったし、 どうしようという気も起きなかったその状況そのものが寧ろ興味深いものに思えたのである。端的に言って、私はこの作品を受け取る「資格」を欠いていた。 だから作品そのものや作品の価値について語るのは、その資格のある人に委ねたい。けれどもそこで私に起きたことは「フレディーの墓/インターナショナル」と いう作品にとって、まるまる無意味というわけでもなさそうなのだ。私は意識せずに(人工知能における「フレーム問題」で用いられる意味での) 「フレーム」の外にいて、その結果ウィノグラード風に言えば「ブレイクダウン」が生じたと見なすことができるように思える。私のできることは、意図せずして 問いを変形させて送り返すことでしかない。だがそれは勿論、私にとってはアクチュアルな問題であり、それゆえ私は(私ですら、と言うべきか、、、) 「フレディーの墓/インターナショナル」から多くのものを受け取ったと感じている。是非、(多分ほとんどがそうだと思うのだが)「資格ある」一人でも多くの 方々に「フレディーの墓/インターナショナル」に接していただきたいと思う。

*   *   *

「フレディーの墓/インターナショナル」は、音声合成により生成された声が「インターナショナル」という歌を日本語で歌うという作品である。だから 「インターナショナル」の方は少なくとも表面上はそれが何であるかについて疑問の余地はないといって良い。とはいうものの、実際には私はそれがどんな歌か 「事前に」きちんと聴いたことがなかったし、誰かが歌うのに立ち会った記憶は残っていない。その歌の持つ「文脈」の方も「知識」として知るのみで、 「記憶」はない。従って歌詞もまた、字幕を見て生まれて初めて確認するも同然で、実感を伴わないこと夥しいものの、どうやら「あのかつて有名だった」歌で あるらしいということはできる。

ではフレディーとは一体何者で、これが何故彼の墓なのか。墓という題名を持つ音楽としては恐らくラヴェルの「クープランの墓」が有名だろうし、ラヴェルは 三輪さんの音楽で度々、色々なかたちで参照される存在だから、それが「クープランの墓」を意識した「命名」であるという推測は自然なものだろう。 実際ヴィデオの最後にクープランの墓のあのラヴェル自らの手になるらしい楽譜表紙が映し出されてこの作品は終わる。実は「墓」Tombeauというのは 西欧音楽における作品ジャンルの一種であり、人口に膾炙しているのが特に現代日本では専らこの作品であるがゆえに、このタイトルをラヴェルの 独創になるものと見なす向きがあるが、少なくとも文脈上はこれは脈々と書かれ続けてきた作品の系列に連なっているのだ。だとしたら、フォルマント兄弟の ものはどうなのか。

ラヴェルの「クープランの墓」についてはしかし、もう一つの側面、つまりこれが第一次世界大戦にて前線で命を落とした友人に捧げられているという側面もまた 忘れてはならないだろう。ラヴェル自身も生きて前線から還らない可能性を念頭にかの「トリオ」を書き上げて、そうした友人達と行動を共にすることを 望んだ。徴兵されたわけでもないのに希望して貨物自動車の運転手になり、赤痢にかかって前線を去って、、、という経緯は今更ここで繰り返すまでも あるまい。そのラヴェルが一方で、ドイツ音楽を禁止する作曲者たちの声明文に対して断固とした拒絶の手紙を送っていることも、ここに記しておくべきだろうか。 喪の作業は優れて「人間」の、控え目にいっても「生ける者」の営みであると言えるだろう。では、「インターナショナル」をコンピュータで合成された音声に 「歌わせる」ことがどうして「墓」たりえるのだろうか。

既に"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ"を読まれた方は、何をうだうだ言っているのだとお感じかも知れない。あるいは「フレディーの墓/ インターナショナル」を既にご存知の方の中にも、「そんなの聴けばすぐにわかるじゃないか」とお考えの方がいらっしゃるに違いない。実際、この作品は 「あの」フレディー、ロックバンド「クィーン」の「彼」の声のシミュレーションによって、しかも日本語で「インターナショナル」を歌わせるという試みなのであれば、 フレディーが誰であるかは明らかな「はず」だったのだ。事実、作曲者(達)もそのように「由来」の中で書いているわけだし。それは「架空の歴史」を いわば捏造する試みであり、一般にメディアに記録された音楽=「録楽」が過去の事実の痕跡、不完全で色褪せたコピーであるのに対し、これは まさに「逆シミュレーション音楽」の提唱者ならではの極めて興味深い試行なのである。SendMail(これは三輪さんの単独作だが)や「兄弟deピザ注文」の ような作品をこれまで発表してきたフォルマント兄弟ならではの「声」と「メディア」に関する独創的なアイデアに満ちた試みだと私も結局は納得することになるが、 それはもう少し後でのことだ。

*   *   *

とはいえ私にとって、フォルマント兄弟名義の試みは三輪さんの活動の中でも最も「わかりづらい」部分であることは認めなくてはならない。「わかりづらい」のは コンセプトの方ではなく(それはいつも極めて平明なものだと思う)、それにより実現されたものを自分がどのように受け止めればいいのか、自分の側の モードが決めにくいという意味でのわかりづらさだ。例えば私はそこにいわゆる「美的なもの」(それを私は例えばラッヘンマンやクセナキスの「音楽」にさえ 見出すことができるし、三輪さんの「音楽」でも例えば「新調性主義」の系列の作品になら確実に見出すことができる、というかそういうスタンスをとることが できるのだが)を見出すことができないけれど、「だからどうした、それが何か問題あるのか」と言われてしまえば、そうした意見への反論は難しい。 その一方で、それではこれは「芸術」よりは何か「実験」に近いものと考えればいいのかとも思うのだが、そしてSendMailや「兄弟deピザ注文」には確かに そうした見方を許容する側面があるものの、今回の「フレディーの墓/インターナショナル」では明らかに視点の移動が行われていて、端的に一つの「作品」、 少なくとも「音楽」のミメーシス(定義上、あらかじめ「録楽」であるそれは三輪さんの定義では「音楽」そのものではありえないので)であろうとしているかにも見える。

もっとも音楽活動を聴き手の聴取や聴取後の反応まで含めたプロセスと見なせば、これはこれで壮大な(何しろWebで公開されているのだから 原理的には全世界規模である)実験、あるいはもっと言えば「チューリングテスト」のようなテストなのかも知れないと私には思える。 思い切り勘繰って考えれば、フォルマント兄弟の真意は聴き手がどのような反応を示すかを聞き取りして 集計・分析することにあるのではないか、実はArs Electronicaへのエントリさえも、サンプル数を増やすための戦略の一部なのではないかなどと想像を 逞しくすることも出来よう。要するにフォルマント兄弟の活動は狭義の「作品」の制作ではなく、聴き手や評価者を含めた一連のプロセスを起動する試み なのだと考えればいいのかも知れない。これはだから「コンセプチュアル・アート」ではないし、「インタラクティブ・アート」に一層近いのだろうが、それともまた 異なる。寧ろ或る種の社会的な「運動」に近いのかも知れない。この作品が言及している「共産主義運動」のように。あるいはまた宗教的な、もしくは 代理宗教的なそれのように。そのあり方そのものが非常にユニークで、これもまたThinking Machineがそうであるように、作曲者も聴き手もその部品の一部であるような ウニカートな「機械」なのだ、と言えるのかも知れない。(ただしここには「超越性」がない、と私は小声で言ってみたい気がしている。だが、この点に ついては後で稿を改めてまた触れる機会があるだろう。)

実際、「チューリングテスト」との比較は見かけよりも奥行きがあるようだ。「チューリングテスト」では、相手がコンピュータであるか人間であるかを判定する 「メディア」として、言語記号のリアルタイムなやり取り、しかも音声ではなく文字によるやり取りが想定されていた。これをテスト考案当時のテクノロジーの 制約のせいとするのは明らかに言いすぎで、もしそれを言うなら「人工知能」という研究分野が「記号主義」の立場をとったことに対してはその制約はどう 関係していたのかが問題にされなくては片手落ちだろう。チューリングがそのような「メディア」を選択してテストを定義したのは、チューリングが「知性」を どう考えていたか「そのもの」であるといってよいのではないか。一方、フォルマント兄弟はここで文字ではなく「声」を、言語記号ではなく「歌」を、リアルタイム性に対して 媒体への記録の問題を提起しているのである。だがこの点について主題的に論じるのは別の機会に譲ることにして、ここでは聴き手の一人である私の 「事例」の報告に戻りたい。なお以下では"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ"を「由来」と言い換えさせていただくことをお許しいただきたい。

*   *   *

フォルマント兄弟は「由来」の中で、随伴性と事後性を人間の痕跡たる「声」の特性として挙げている。だがそれはそもそも何の「音」(あえてまずは 「声」とすら呼ばないで置こう)なのか。それは何に随伴し、何の事後なのか。そこにあったはずの「事実」とは、それ自体一体どのようなものなのか。 それを聴き手たる私が直接体験したのか、それとも同時代には生きていたが、伝聞によって知っただけなのか、あるいはまた、それは本当に過去の 事象であって私が直接体験する手段は最早なく、知識として「それがかつてあった」ことを知っているだけなのか。どうやらフォルマント兄弟は、フレディーが 何者かはいわゆる「公知の事実」であると考えていたようだが、それは些かも自明ではないのではないか。50年後、半世紀の年月を経た後このヴィデオを 見た人間は一体そこに何を聴き出すのだろうか。

要するに、あの「フレディー」を音声合成によって再現するという、恐らくは技術的に最も困難であったに違いない点が、私見ではこの作品の最大の アキレス腱であり、致命的な弱点に転化するように思えるのだ。いや半世紀も待つことはない。そもそもあの「フレディー」の「声」を知らない人間、私のような人間が 聴いた場合には、作者の意図はまともに機能することができないのである。更に悪いことには私は「声」を知らないどころか、あの「フレディー」そのものを知らなかった。 だから「声」の主が誰であるかを知らなかったし、「フレディー」と「声」とを結びつけることすら頼りない推論の糸によってしか行えず、「由来」を読むまでは 別の可能性すら考えていたのである。言ってみれば私はゲームのルールを知らず、「フレーム」の外に居たし、今なお居続けている。「由来」を読んで、いわば 「種明かし」をされたところで随伴性も事後性もあったものではない。先にヴィデオを視聴した私にとって、それは単なる合成音声による歌に過ぎなかったし、 それを後から訂正することは「もはや不可能」なのである。勿論「死者なき幽霊」は現われなかった。少なくともこのケースでは実験は失敗したのである。 ただしそれは「ゲーム」の「ルール」を知らない人間である私が被験者であったがためであり、だからサンプルにならないとして除外しても良いのかも知れないが。

一方の「インターナショナル」については既述の通り、私の場合にはこちらも徹底的にコノテーションというのが欠如した状態にあった。そして私にとってその歌詞は 何の共感も呼ばないし、その一方で「知識」として知っているだけの負の側面は、単純にその音楽自体への関心を阻害するばかりだ。残念ながら、私は 自発的にもう一度あの曲を聴く気にはならない。もしそうした「記憶」を問題にするなら、例えばの話、私ならショスタコーヴィチの作品を聴くだろう。 勿論私はショスタコーヴィチについては(あくまで相対的にだが)遙かに大量の文脈を既に持っているから、比較自体が不当だという謗りを受けそうだが、 それ以前に、ショスタコーヴィチの作品そのものが持つ力によって、自分が実際に体験したわけではない「記憶」の伝達が可能であるという少なくとも 「感じ」を起こすことが可能になっている。それが思い込みであるかどうかは今は問わないが、それが「虚像」に過ぎなくても、何かが私の裡に起きた事実は なくならないのである。残念ながらこの点ではコンピュータを用いた音声合成による「インターナショナル」を同列に論じる気には私にはなれないというのが偽らざる気持ちだ。

だが、そんなことは想定済みではなかったのだろうか。「インターナショナル」が一時期、パンデミックと呼ぶのが適切な強大な伝播力を持ちながら、あっという間に 忘れ去られたという認識が「由来」にも書かれている。まるで三葉虫やアンモナイトのように、あるいは恐竜のように、或る地質学的年代に爆発的な勢力拡大をして その後、同じように急速に絶滅してしまった生物と類比的に、こちらは或る文化史的年代に爆発的な流行と衰滅を起こした「ミーム」としてそれを捉えることが できるのかも知れない。化石や考古学的発見の偽造・捏造の例は多いし、美術史や音楽史を紐解けば、悪意のないものも、あるものも含めてパスティッシュや 贋作の記録を辿ることもできよう。それでは「死者なき幽霊」による歴史の捏造というのは、そうした胡散臭い事例と一体どう違うのか。もうお気づきのことと思うが、 これは逆シミュレーション音楽における「由来」や架空のカルトと構造的には非常に類似している。だとしたら、私のような事例における失敗も含め、全ては計算済みで、 批判的機能を強調するためにわざと「インターナショナル」を選び、テクノロジーによる記憶の捏造を「演出」したと捉えるべきなのだろうか。それは例えば しばしばおきる「歴史的録音」の偽造への警鐘なのだろうか。要するに、これは非常に手の込んだものではあるが最終的には芝居であって、しかもその機能は 啓蒙的かつ教育的なものであることが意図されているのだろうか。これはいわば「ソーカル事件」の「録楽」版(ただしこちらはあらかじめ「由来」によって種明かしは されているのだが)を狙っているのだろうか。

そうなのかも知れない。だが、私はそうした見方にはどこと無く居心地の悪さを、違和感を抱いている。例えば「記憶」を、世代を超えて甦り続ける「幽霊」を 問題にするのであれば、特性上もう一方の端点にある「ミーム」、流行のロングテールの末端にある、流行の程度はとるに足らない、限られたものではあるけれど 時間方向に対しては極めて「しぶとい」伝播力を備えているような「音楽」こそ適切な範例ではないかという気がしてならないし、三輪さんの活動の凄みは、総じて 「音楽」の持つ両義性、時に暴力に転化しうる危険な力を撓めてしまうことなく示すことにあったはずだと思う。ここでは「録楽」におけるテクノロジーの力が「悪夢」を 見させる可能性があることが問題なのだとすれば、「フレディーの墓/インターナショナル」はその端緒を示すものに過ぎず、今後の展開に注目すべきなのかも知れない。 実際、「録楽」における「幽霊」の問題についてはまだまだ検討したいことは尽きないのだが、それはまた稿を改めることにして、ここでは最後に私が犯した もう一つの勘違いを報告することで、「フレディーの墓/インターナショナル」の問題系の別の方向への展開の可能性に触れてみたい。

*   *   *

「フレディーって誰だ」と疑問に思った私はしばらく考えて、これまた人工知能研究の黎明期のある事実を思い浮かべたのだった。1967年に エディンバラ大学に人工知能・知覚学部というのが創設された。創設には視覚研究で著名なリチャード・グレゴリーが関わっているのだが、 彼等がそこで研究したのは、認知ロボット研究のいわば先駆けとでも言うべきものであり、そこで初めて、単なる入出力を持つだけの、いわば行動主義的な パラダイムとは異なった、内的モデルを備えたロボットが作成されたのである。その後の人工知能の歴史を知るものにとっては、今や過去の歴史の 一齣になってしまったかのようなこの事実に遠近法的な歪みを感じるかも知れない。その後人工知能研究における「記号主義」 「表象主義」に対する批判がなされ、ブルックスの昆虫型ロボットのような「内的モデル」を持たないロボット研究が主流となり、「表象」に 替わるモデルとして、まずはニューラルネットが、さらにはそれを理論上包含するようなものとして「力学系」によるモデル化が提唱され、 といった経過を辿ったのだから。今や内的モデルを備えた認知ロボットの時代は終わってしまったかのようですらある。(私は個人的には 必ずしもそうは思っていないのだが。)

だとしたらかつて研究された内的モデルを備えた認知ロボットの「墓」こそ、現在には相応しいのではないかと私には思えたのだ。 彼の名は「フレディー」。だから「フレディーの墓」とはロボットの墓であり、定義上、それは自己撞着を起こしている。ロボットが対象の「喪」の作業には どこか倒錯したものがないだろうか。だが、これには実は伏線があるのだ。私は昨年秋の「虹機械」(今やそれは第1番と呼ぶのが適当だろうが)の初演時に、 開演前にスピーカから流れていた西陽子さんの演奏する「蝉の法」の「録音」を聴きながら、奇妙な感覚に囚われていた。そのことは既に書いたのでここでは 繰り返さないが、その時に「自動演奏機械が演奏したものを録音したらそこには幽霊が現われるだろうか」という疑問を持ち、感想にもそれを書き付けたのだった。 であれば私にとって「フレディー」は言ってみればはじめからロボットでなくてはならなかったというわけである。

私は間違っていたのだろうか。勿論そうだ。だが、全くの見当外れというわけでもなさそうだとも思っている。なぜなら、事実上、私は 上記の疑問に対する答えをこのようにして受け取ったのだから。「フレディーの墓/インターナショナル」は文字通り、「自動演奏機械が演奏したものを録音したら そこには幽霊が現われるだろうか」という問いそのものとはいえなくても、その問いを巡っての実践ではないか。 (「問いそのものではない」というのは、厳密には音声は合成されたものであっても、演奏自体は「自動」ではないという点に注意されるべきかも知れないし、 わざわざ演奏をする映像が収められていることが、「死者なき幽霊」の出現にどう関わるか、あるいは関わらないかを問題にすることもできるかも知れないからである。 だが残念ながら「予選落ち」した私はそれを論じるための出発点に立てていないので、この点についての追求は断念せざるを得ない。)

勿論「フレディーの墓/インターナショナル」の持つ射程は私の問いなど問題にならないほど大きなものだろう。 そして何より私は「ゲーム」に、「テスト」に参加する資格すら持てなかったのだ。だがそれでもなお、 同時代に生きるものとして、自分が疑問に感じていることの答えをこのようなかたちで提示されることは何にも替え難い喜びだし、 それがPrix Ars Electronica 2009 のHonorary Mention (Digital Musics部門) を受賞したとあれば、その喜びは弥増す。だから 最後にあらためて、フォルマント兄弟に心からのお祝いと、同時代に生きる人間に対するアクチュアルな発信を続けてくださっていることへの 感謝の言葉を述べてこの奇妙な報告を終え、一旦の結びとしたい。おめでとうございます。これからの活動にも期待しています。 (2009.6.13初稿、6.14加筆, 6.15加筆修正)

2009年6月7日日曜日

虹機械第2番「七つの照射」再演を聴いて

MUSIC DOCUMENTS 09 #4 あたらしいメディアが見せてくれる夢(企画:nothing but music)
2009年6月6日門仲天井ホール

三輪眞弘:虹機械第2番「七つの照射」(2008)Rainbow Machine #2 'Seven Radiations' ピアノ:井上郷子

虹機械第2番「七つの照射」の初演は今年(2009年)の1月24日に既に行われているのだが、残念ながら都合がつかず聴きに行くことができなかった。 井上郷子さんの演奏で再演されるという情報を得たものの行けるかどうかの判断がつかず、当日の朝予約をして門前仲町に向かう。土曜日で 翌日を気にする必要はないとはいえ夜のコンサートはつらいし、これは個人的な事情だが、私の在所からは門前仲町は遠い。前日までに蓄積した 疲労もあってめげそうになりつつ、とにかく今度は行ける状況にあるのだから行っておいた方がいいだろうと自分を説得して予約を試みると、何とか 予約ができる。この演奏会の企画者である伊藤さんやホールの代表である黒崎さんにはお手数をおかけしてしまった。この場を借りてまずは御礼を 申し上げたい。

門仲天井ホールは50席程のホールだが、演奏会は超満員の盛況だった。当日券の学生さんが次々と現れ、それにホールの方が丁寧に対応され、 補助席を用意されるのでなかなか始まらない。三輪さんは客席の不足を慮って「関係者だから」ということで席を立たれてしまわれた。東大駒場博物館の 自動ピアノのコンサートの時もやはりそうだったことを思い出す。自分が関係者のセミナーや講演のときには当然そうするよな、とは思いながら、些かの 戸惑いを覚えずにはいられない。こういう状況(ウィノグラードのいう「ブレイクダウン」の一種と見做すことができよう)での反応に、 自分が「部外者」であることが顔を出すのだ。満員の盛況は結構なことだが、会場を埋める人のうち私のような「部外者」が一体何人いるだろうか、 という疑問が頭を掠める。アトホームな雰囲気は好ましいけれど、いつも感じるあの閉塞感がここにもないとは言えない。私が属する社会集団のそれに 比べれば、ルーズという他ない時間に対する感覚も、「郷に入っては郷に従え」とは思いつつも馴れることがどうしてもできない。平日には幾つもの プロセスを並列で処理しなくてはならず、状況によっては分刻みで時間をやりくりしつつ生きている人間にとっては、全く異質の時間の流れなのだ。

ほっとするだろうと思うかも知れないがそれは見当違いで、コンサートホールではそうした時間の流れに従うことをいわば強制される。美術と違って音楽の場合、 途中で逃げ出すこともできないから、いらいらしたり苦痛を感じたりする場合も少なくない。「そんなら来るな」と言われそうだが、実は私自身も全く 同感で、何を好きこのんで只でも限定された自分の時間をこうした「苦行」に費やすのか、馬鹿馬鹿しいからもう行くのをよそうかと度々思うのだが、 あいにく自分が探しているものはそこにしかないのだから、何とか折り合いをつけるしかないのだ。このコンサートも終演は21時20分頃、でも、この「業界」では そんなことを気にしてはいけないのだろう。私はかなり極端な朝型人間で、自分の属する社会集団の中でも苦痛を感じることがままあるのだが、この「業界」では 決してやっていけないだろうな、と思う。

(ちなみにこう書いたからといって、コンサートの運営や会場のスタッフの方の対応、そして客席の雰囲気に不満があったわけでは全くない。寧ろ、 そうした意味ではとても好感の持てるコンサートであったことを強調しておきたい。こうした場が存在することは色々な意味で非常に貴重なことだと思う。 上でも触れたように、特に会場を運営される方々の熱意には頭が下がる思いがしたし、こうした催しにこれだけの人間が集い、熱心に演奏に耳を傾ける こともまた意義あることであると思う。誤解がないようにこの点については敢えて繰り返しを厭わず書き留めておきたい。)

*   *   *

何故上記のようなことを延々書くかといえば、それが素直な自分の反応だからというのもあるが、寧ろそれより以下の感想の前提を明らかにするためである。 客観的には成功であったに違いないこのコンサートを、だが私は率直に言ってあまり楽しめなかった。演奏は間違いなく素晴らしいもので、特に三輪さんの 作品と最後のリュック・フェラーリの作品のリアリゼーションは圧倒的だったのだけれども、にも関わらず、恐らくはコンサートの企画の方向性が、私の志向と 異なったものであったがために、三輪さんの作品以外については、(そのリュック・フェラーリの作品も含めて)演奏の卓越が作品に対する理解にちっとも 繋がっていかないという不思議な経験をすることになった。これは明らかに私個人の問題で、コンサートの質の問題ではないだろう。要するに、本来なら このコンサートを聴くべきでない人間が紛れ込み、貴重な席を一つ占領してしまっていたのだ。それを思えば三輪さんの作品の演奏がその締めくくりとなった 前半で帰ればよかったのかもしれない。だがそれはそれでその場にいらした作曲家の方々やコンサートの企画者に礼を失することになっただろうし、初めて 接する作品の場合、結果は事後的にしか知ることはできないのだから仕方ない。こういう受け止め方をする人間もいたというサンプルとして、とにかく簡単に コンサート全体についての印象をまず書いておきたい。

コンサートは「あたらしいメディアが見せてくれる夢」と題され、コンピュータ、映像、パフォーマンスや録音された、あるいは電子的に合成された音響が ピアノやクラリネットと組み合わされる作品が前半3曲、後半3曲演奏された。だがまずもって私には、どこが「あたらしい」のかがわからない作品がほとんど だったと言わざるをえない。技術的なディティールというのは「部外者」にはわからないから、そうしたディティールには今日のテクノロジーなしには実現できない「あたらしい」 何かがあったのかも知れないが、だとしたら件のタイトルは「部外者」のためのものではないのだろう。私はどちらかといえばアナクロ人間だが、その私ですら デジャ・ヴュやデジャ・アンタンデュを感じずにはいられなかったし、ピアノやクラリネットとの組み合わせ方が新鮮であったり、人間の声の変調とパフォーマンスの 重ね合わせによって結果として「あたらしい」何かが現れているようには感じられなかった。生の楽器の音とスピーカから出てくる音は全く異質なもので、 両者を「音楽的」に組み合わせるのは至難なことであるし、異なるメディアを組み合わせたり、特に相互作用させたとき、一方が他方のもつ内容の次元の 縮退した残滓以上のものを得るのはこれまた至難なことだと素人的には思えるのだが、そういう点でも何か肩透かしを食わされたような気分になった。 画像と楽音のリアルタイムインタラクションはコンピュータ・ハードウェアの高速化がなければ不可能なのだろうが、それは「音楽」の素材なり前提であって、 「音楽」そのものの如何なる担保にもなりえないし、表層的で極めて肌理の粗いものにしか見えないアナロジーは音楽の実質を些かも保証しない。 勿論、説明なり解説なりがどこかで停止するのは構わない。特に私個人としては別に新規性などに価値はおいていないから、別に「あたらしく」なくてもいい。 その先に「音楽」の豊かな実質があれば、そして今、ここでそれを聴く「アクチュアリティ」を感じ取ることができれば良いのだが、きっと私の側に素地が欠如しているのだろう、 私にはそれが聞き取れない。何というか、きっとあるに違いない作曲者の側の「必然性」とか切実さ(勿論、それは情緒的なものである必要は無く、 技術的なものであっても構わないのだが)が、ちっともこちらに伝わってこないもどかしさを感じ続け、自分がその場に相応しくない人間である気がしてきて、 最後にはかなり惨めな気分になってしまった。

例えば最後に演奏されたリュック・フェラーリの作品は1991年のものだから、最先端のテクノロジーの利用などといった意味での「あたらしさ」を期待するのは 見当違いかも知れないが、カーゲルのインタビューと恐らくはそのドイツ語通訳(こちらは女声)を編集したテープにあわせるピアノの演奏の間合いの良さと 音楽性の高さには圧倒されたものの、作品の意図は私には理解できない。編集されてはいてもカーゲルの話している内容は大したことはなく容易に 聴き取ることができるから、聴き手にその内容が理解できてしまうことは意図されているのだろうが、意味がわかってしまうことによって私は寧ろ当惑を感じてしまった。 (ただし私の語学力の限界で、フランス語に比べるとドイツ語の方は多少怪しいが。)その内容に私は特に関心もないし、カーゲルの主張に別段 共感もしない。もっとも私はカーゲルの「音楽」の方もおよそ関心がないし、如何にもヨーロッパにありがちなそらぞらしいインタビューと恐らくは「黄昏の国」の ある時代のコンテクストではそれなりに意味をもっていたに違いない、だが私にとっては不毛としか聞えないカーゲルの音楽とが「さもありなん」という感じで呼応しているのを いわば「事後的に」確認させられたのにはうんざりさせられたが。 だがここで致命的なのは、カーゲルの方はそれとして、フェラーリの作品自体の方も、なぜそんなことをするのかの意図が一向に見えてこなかったことである。 カーゲルを茶化す意図があったとも思えないし、まさか「井上郷子さんのピアノが素晴らしかった」という感想を引き出すことが狙いではないだろうから、 私には(カーゲルを聴く資格がないのは勿論)、リュック・フェラーリを聴く資格などないのだろう。そういう意味では三輪さんの作品を除く他の4作品についても同様で、 私はそれらを評価する資格がないと思われるので、ここではこれ以上書かない。端的に言って改めて自分が如何にメディア音痴か、アナクロ人間であるかを 痛感させられた。

*   *   *

三輪さんの作品は、基本的には昨年の2008年1月に発表された「新調性主義」に基づく作品で、コンピュータが初期値に従って生成した音の連なりが描く 軌道を予め記譜しておき、それを人間が演奏していくというタイプの作品の2つ目ということになる。1作目の「虹機械」はデュオのための作品で、 一方が他方の外部に立ち、相手の系の軌道を逸脱させる外乱となる趣向が含まれていたが、第2番はピアノソロのための作品であり、 外乱は系がアトラクタに収束したときに演奏者が「さっ」という掛け声を掛けることによって与えられる。いわばそれがノイズとなって軌道はアトラクタから脱出し、 再び遍歴を繰り返すのである。音の系列は伝統的な様式であればトッカータのような無窮動であり、ピアニストには或る種の超絶技巧が要求される。

上記のような作曲法が行われている故に、音の系列自体に作曲者の恣意が入り込む余地はない。だが、どのような初期値を与えるか、あるいはまた、掛け声を どのようなタイミングで入れることでどのように軌道をリセットするかについては、作曲者の選択が働いていることに注意すべきであろう。かつて12音技法が提唱された ときには「機械的」な作曲法であるという批判があったそうだが(もしかしたら今でもあるだろうか)、それがナンセンスであるのと少なくとも類比的には、 アルゴリズミック・コンポジションが「機械的」であるというのもあたっていない。伝統的な音楽で旋律を書く時、次にどの音を選ぶかに作曲者の恣意が働くことで 「個性」が現われるのと構造的には変わることはないのだ。サルにタイプを叩かせるといつかは偶然シェイクスピアの詩行を打ち出すことがあるだろう、という 有名な議論があるが、初期値の選択そのものをランダムに与えるのであれば、それとのアナロジーが成り立つことになるものの、実際にはそうではない。

更に加えて、そうして選択された音の軌道を人間のピアニストが弾くという「行為」が加わる。シンセサイザーによる自動再生でもないし、楽器だけアコースティクに してプレイヤーズ・ピアノに「演奏」させるのでもない。そして結果として、井上郷子さんの弾き出す音楽は、実に、端的に美しかった。確かに離散力学系の 与える軌道は、フレーズの再帰的な組み合わせによって巨視的な構造を得るような音楽とは全く異なった構造を持つことが多いだろう。だが、それを人間が 弾くとき、必ずしも恣意的に「解釈」を、「表情付け」をしなくても奏者の身体性がそこに析出する。音の粒は決して完全に均質にはならないし、その時間方向の 発展も時計のような単調さには決して陥らない。「機械のような正確さ」という比喩があるが、そのような比喩が相応しいと思われるような演奏でも、およそそれが 「音楽」である限り、実際に聴くことができるのは人間の身体の運動に他ならないし、実のところ「正確」ではあっても「機械的」ではないのだろう。 井上郷子さんの演奏はそうした三輪さんの意図を充分にリアライズしたものであったと私には感じられた。前回の「虹機械」の第1作の初演時にもそう感じたのだが、 ここで聴くことができる実現された音楽の豊かさは「新調性主義」の枠組みによって可能になっていて、その意味では前回に引き続き、今回もまた、優れた実演に よってその方向性の正しさが再び確認されたといってよいと思う。ただし、繰り返しになるが方法が無条件で結果を担保することはない。我々は作曲家が コンピュータに計算させることによって発見し、定着した音の連なりを、演奏者の身体を通じて受け取るのだ。作曲者が介入するポイントは伝統的な西欧音楽とは 異なったものであるし、演奏者もいわゆる感情表現をする余地こそないが、外部から想像する以上に、この作曲法の内部の空間の広がりは大きいに違いない。 それは「逆シミュレーション音楽」におけるような架空の音楽の伝統をまるまる一つ引き受けてしまう程度の大きさは備えていそうである。単旋律であることが 広がりを制限するように感じられるかも知れないが、原理的にはそれは本質的な制限ではないだろう。拡張するとしたらどちらの方向に向かうのが興味深いかは、 数学者が定理の証明を求めて彷徨うときと同じような嗅覚を必要とされるだろうが、裏返して言えば、ありあまる程の自由度がそこにはあるのだ。勿論、拡張が 必須なわけでもあるまい。まだ開拓すべき領域はそこかしこにあるに違いない。一体第3作はどのようなものになるのだろうか、興味は尽きない。否、そうした文脈を 持たない人が聴いたとしても素晴らしいと感じることができ、なおかつその豊かさと複雑さの背後にシンプルな法則性が存在するを感知できるような、そんな作品であり 演奏であったに違いないし、そのことが何よりも重要なことに思える。実現した作品がコンセプトを超えて端的に聴き手の心を捉えることに成功したとき、 そのコンセプト自体もまた成功したといいうるのだとしたら、「新調性主義」は成功しているといえるのではなかろうか。

*   *   *

企画者で司会・進行役もされた伊藤さんの発案で、三輪さんの曲の演奏が終わった前半の終了後に引き続き、既に物故したリュック・フェラーリを除く5人の 作曲家に対して演奏の順番に伊藤さんがインタビューをするコーナーがあったので、三輪さんとの質疑の内容を、記憶している限りでここに書きとめておくことにする。 客席のかなりを占めていた学生さんを意識してか、伊藤さんの質問はどちらかといえば基本的なものだったが、結果的に三輪さんの作品におけるメディアの扱いの 「あたらしさ」、あるいはより正確には特異性とでも言うべきもの(なぜなら、それは寧ろ或る種のアナクロニズムを含んでいるかも知れないから)浮き上がらせる ことには成功していたように思える。

最初は三輪さんの作品におけるコンピュータの利用のされ方についてであった。他の曲とは異なり、三輪さんの場合には作曲のプロセスで利用され、 最終的な作品は人間だけが弾くものになることが確認される。伊藤さんから、類似例としてコンピュータによる作曲の先駆事例である「イリヤック組曲」が引き合いに出され、 三輪さんがコンピュータの使い方としては寧ろ今日的ではないという答えをされていたのが印象的であった。ついで人間が演奏することの意義が強調され、 同じ音の並びをシンセサイザーで自動再生するのと人間がピアノで弾くのとではプロセスとして全く異なるという発言があり、コンピュータによる作曲という 共通性がある一方で、決定的な違いがあることが浮き彫りにされた。ついでコンピュータを用いることの狙いとして19世紀のロマン派的な音楽観を一旦断ち切ることが 目的なのではという伊藤さんの問いがあり、そうした狙いに関してジョン・ケージの活動が例として挙げられたのに対し、三輪さんはケージのアプローチとの共通性が 部分的に存在することは認めつつも、寧ろ中世における音楽のあり方への親近性を述べ、それこそが「メディアが見せてくれる夢」であるとして話を 締めくくられていた。

上記の最後の発言は、このコンサートが「あたらしいメディアが見せてくれる夢」であることを思えば、幾分か逆説的な響きを持っているだろう。発達し、変容する メディアを用いる結果が、こちらは「あたらしさ」の追求ではなく、それどころか文字通りに受け取れば遠い過去への回帰であるという意味においてそうだし、 その場ではそちらには話が展開しなかったが、その夢がいつでも「悪夢」に転化する危険と裏腹であるという点を三輪さんが意識していることは、これまでの 活動から明らかだと思われるからである。あえて言葉尻を捉えて言えば「見せてくれる」という言い回しには、伊藤さんはそのようにはおっしゃっていなかったが、 或る種の二面性があるということになるのかも知れない。一方ではそれはメディアを所与とし、自分が既に埋め込まれてしまっているメディアとの関係に 意識的であることなく、単純に作曲上の選択肢として、可能性として捉えるという無自覚な受動性を意味し、他方ではそうした「受動性」に既に陥っていて、 メディアの介入なしに夢見ることが事実上不可能になっているという状況認識を物語っているかも知れないからである。もっとも後者であれば、いっそ端的に 「見させられる悪夢」とでも言うべきなのではないかと私には感じられるが。私は年齢不相応に、しかもコンピュータを扱うことを職業としているくせに、 アナクロのメディア音痴かも知れないが、あるいはむしろそうであるがゆえにメディアと人間との関わりについて肯定的な展望を抱く気になど到底なれない。 一方ではマルチメディア・アート編集ツールのプレゼンテーションなど見たくないし、さりとてメディアを濫用しただけにしか見えない、一方的な コミュニケーション不全のパフォーマンスの押し売りもごめんである。(これまたパフォーマンス自体はしっかりとしたものだったと思うが、作品そのものの 聴衆とのコミュニケーションへの姿勢の方に疑問を感じずにはいられない。一体これのどこが「面白い」のか私にはわからない。例えば作曲者自身が 意味不明の音声を振りまきながら街中や地下鉄の駅を駆け巡り、息を切らしてビルの階段を昇り降りするこのパフォーマンスをするのであれば、それが 「あたらしいメディアが見せてくれる夢」とどう関係あるかや、今、ここでのアクチュアリティはおくとしても、もう少し別の見方ができたかも知れないが、、、) いずれに対しても私のような「部外者」はそうしたところに閉塞の、もっと言えば自閉かあるいは自足の徴候を読み取り、疎外感を感じることになる。 別にそれは珍しいことではなく、見慣れた状況であるとすら言えるのだが、だからといって「時間を損した」感じが無くなるわけではないのだ。 音楽は他人の時間を強奪する暴力を持っていることに音楽家は無頓着なのではないかとさえ感じてしまう。

否、もしかしたら(多分確実に)、そうした見方は「部外者」のものであって、もう一度「それなら来るな」と言われるのを覚悟すべきなのだろう。 私は音楽家ではなく、三輪さんがインタビューのなかで、その場では批判的なニュアンスで言及されていた「効率優先」(が少なくとも建前であり、実際に 最終審級でもある)の世界で生活の資を得ている。そこに無自覚に住まっているとは自分では思ってはいないが、無意識の裡に環境の影響は 受けてしまうものだ。「時間を損した」などという言い方は、そうした環境に染まった貧乏性の現われであるとして嘲笑されるのが落ちなのかも知れない。 ヘーゲル的な「世の成り行き」に流され、心が貧しくなった私には何も見えていない、聴けていないのかも知れない。だが、そんな私にだって関心の方向性はあるし、 だからこそ、こうしたコンサートに出かけていくのだ。メディアとの関わりを通して見えてくる人間のあり方、そこで自明性を剥ぎ取られ、問いに付されている人格とか個性とか、 そうしたものの行方は私にとって他人事ではないし、アクチュアリティを帯びたものである。そして現実に、そうした「世の成り行き」の只中においてメディアは「ブレイクスルー」を 惹き起こす「媒体」であって、メディアを介して見えてくるものがあることは確実であり、そういう意味では「あたらしいメディアが見せてくれる夢」に関しては、 いわば同床異夢なのかも知れない。そしてその多様な様相を示すことにこのコンサートの意義はあって、あとは聴き手がそれぞれに選択をすれば 良いのだろう。そうであってみれば結局のところ、三輪さん以外の他の作品については、私にはそれを聴く資格がないのだから、その価値がわかる人に判断を委ねたい。 私は上述のような主観的な印象を正直に書き付けるに留め、自分の無知と無能を対象に転嫁する愚だけは避けたいと思う。 それにしてもこのコンサートという制度、もう少し何とかならないものだろうか。これがメディア・アートの展示であれば黙って立ち去れば良いものを、 それができないばかりに潜在的な聴き手を逃しているのは確かなことなのだが。

ともあれ私に関して言えば、虹機械第2番「七つの照射」の素晴らしい実演を聴くことができたことをもってこのコンサートに足を運んだ意義は十二分にあった。 そしてそのことをもって満足すべきなのだろうと思う。(2009.6.7初稿, 6.8加筆)