2026年9月11日金曜日

コラム:《虹機械》から見えてくる「五度圏」のもう一つの顔——数式なしで読む三輪眞弘の新調性主義

 前稿「「音の重心」というアイデア——数式なしで五度圏分析を理解する」では、「音の重心」という考え方を使って、音の集まりを五度圏の上に置き、そこから「今、音楽がどちらの方向を向いているのか」を眺める方法を紹介しました。

五度圏の上に音を置いてみると、音がある方向に偏っているときには、そこに「重心」が生まれます。反対に、音が円周上に均等に広がっていると、互いの力が打ち消し合って、重心は中央に集まります。

この考え方を交響曲の時間的な展開に適用すると、調性を「ハ長調、ニ短調」といった名前だけで追うのとは少し違った風景が見えてきます。音楽がどの方向へ進み、どこにとどまり、どのように動き回っているのかを、五度圏上の軌跡として見ることができるからです。

では、この方法を、三輪眞弘の《虹機械》に適用すると何が見えるのでしょうか。

《虹機械》を五度圏に乗せてみる

《虹機械》の2作品、「虹機械 はじまりのうた」Hamamatsuと「虹機械 公案-001」Koan-001は、通常の交響曲とはかなり違った仕組みで作られています。

どちらも4/4拍子の16分音符による単旋律で、音楽は、直前に鳴った音を入力として次の音を決める「状態遷移機械」から生み出されます。

ここでは、オーケストラのように複数の音が同時に鳴っているわけではありません。それでも、一定数の音をひとまとめにして「この時間帯にはどんな音が現れていたか」を見ることはできます。

そこで、4音、8音、16音、つまり1拍、半小節、1小節という3つの大きさの「窓」を用意し、それぞれの窓に現れたピッチクラスを五度圏に置いてみました。

すると、興味深いことが分かりました。

細かく見ると、とても「凝集」している

4音単位、8音単位で見ると、《虹機械》の音は五度圏上の狭い範囲に強く集まります。

つまり、一つ一つの短い時間帯だけを取り出してみれば、音楽はかなりはっきりした方向性を持っています。

ところが、その重心が作品全体を通して同じ場所にとどまっているわけではありません。

局所的には非常によくまとまっているのに、全体としては一つの調の周辺にじっと滞在するわけではない。

これは、西欧の機能和声を中心とする交響曲コーパスと比較すると、かなり特徴的な性質です。

西欧の伝統的な調性音楽では、ある瞬間に音が五度圏上の近い場所に集まっていることと、作品全体がその調的中心にある程度とどまることが、しばしば結びついています。

ところが《虹機械》では、

「その瞬間にはまとまっている」ことと、「作品全体としてそこにとどまる」ことが切り離されている。

ここに、まず一つの《虹機械》らしさが見えてきます。

ところが、1小節単位にすると「普通」に見えてしまう

さらに面白いことが起こります。

4音、8音と細かく見ていると、《虹機械》は五度圏上でかなり突出しています。ところが16音、つまり1小節単位までまとめてしまうと、その重心の大きさは、西欧交響曲コーパスの範囲内に入ってきます。

五度圏上の重心だけを見れば、

「《虹機械》は、細かいところでは特殊だが、ある程度まとめて見ると、それほど特殊ではない」

という結論にもなりそうです。

実際、PCAという複数の指標をまとめて眺める方法でも、1小節単位にした《虹機械》はコーパスの範囲内に収まります。

しかし、ここで一つの問題が生じます。

重心の大きさが普通だからといって、その中身まで普通だとは限らないのではないか。

この疑問が、次の分析につながります。

「重心の大きさ」だけでは、中身が分からない

前稿で説明したように、五度圏は音を観察するための「一つの円」です。

実は、ピッチクラスのDFTには、この五度圏に対応するものだけでなく、全部で6種類の異なる「円」があります。

半音のまとまりを見る円、三全音を見る円、長3度を見る円、短3度を見る円、完全5度を見る円、そして全音音階的なまとまりを見る円です。

それぞれは、異なる「音の風味」を検出する装置だと考えることができます。

五度圏は、そのうちの一つにすぎません。


そこで、《虹機械》について、五度圏だけではなく、この6つの円すべてを調べてみました。

すると、先ほどの「一見すると普通」という印象が大きく変わります。

《虹機械》では、五度圏に力が集中している

6つの円をそれぞれ調べると、《虹機械》では、他の円に比べて「五度圏の円」が極端に強く反応します。

ここで重要なのは、五度圏が強いことそのものではありません。

実は、今回比較した55楽章の西欧交響曲コーパスでも、もっとも強いモードが五度圏になる楽章はかなりあります。

つまり、

「五度圏が一番強い」だけなら、《虹機械》だけの特徴ではありません。

違うのは、その集中の度合いです。

西欧交響曲コーパスでは、いくつかの「風味検出器」の間にある程度エネルギーが分散しています。

ところが《虹機械》では、6つの検出器のうち、五度圏に対応するものへ非常に強く偏ります。

これは、先ほどの「重心の大きさ」とは違う情報です。

五度圏重心の大きさが「どれくらい偏っているか」を教えるのに対して、6つのモードを比べることで、

「その偏りは、いったい何によって生じているのか」

を見ることができるからです。

「普通の大きさ」の中に「極端な偏り」が隠れている

ここで、《虹機械》について最も興味深い二重性が現れます。

1小節単位で見ると、五度圏上の重心の大きさは西欧交響曲コーパスの範囲内です。

ところが、ここで一つ重要なことが分かります。

16音、つまり1小節程度の単位で見ると、《虹機械》の五度圏重心の大きさは、西欧交響曲コーパスの範囲の中に入ってきます。重心の大きさだけを見れば、もはやそれほど特殊には見えません。

しかし、ここで「重心の大きさ」を作っている中身まで見てみると、様子はまったく違います。

12音の構造を6つの異なる周期・対称性に分けて調べると、《虹機械》では、6つのモードのうち五度圏に対応するf5への集中が、16音窓でむしろ強くなっていることが分かります。

つまり、

重心の大きさは16音で「普通」になる。
しかし、その「普通の大きさ」を作っている構造を見ると、むしろf5への偏りは強くなる。

という、一見すると逆説的な現象が起きています。

これは、五度圏上の重心だけを見ていたのでは分からない特徴です。重心は「どれくらい一方向にまとまっているか」を教えてくれますが、DFTはさらに一歩進んで、そのまとまりが、どのような構造によって生じているのかを教えてくれるのです。

そして、音そのものを見ると理由が見えてくる

では、なぜ《虹機械》では五度圏への集中がこれほど強いのでしょうか。

ここで、重心の計算から一度離れて、実際に鳴っている音と音の間の関係を直接調べてみます。

すると非常に明快な特徴が現れます。

隣り合う音の約56~61%が、完全4度または完全5度の関係になっています。

次に多いのが同じ音、あるいはオクターブ違いの同音反復で、それが約22~27%です。それ以外の音程は、いずれも一桁台の割合にとどまります。

つまり、《虹機械》の音の動きは、かなり極端に、

「同じ音にとどまる」
または
「完全5度の方向へ動く」

という二つの動きに集中しています。

さらに、完全5度には上向きと下向きの二方向がありますが、実際のデータでは、その二方向の遷移がほぼ拮抗しています。

これは、少なくとも《虹機械》全体の遷移をまとめて見る限り、完全5度方向に一方向だけの強い偏りがあるわけではないことを示しています。

ただし、ここから直ちに「五度圏上を行ったり来たりしている」と結論することはできません。細かな往復運動を重ねながら、より長い時間スケールでは一方向に進んでいる可能性もあるからです。

したがって、この段階で言えるのは、五度圏方向の強い構造的偏りは存在する一方、その方向性は単純な一方向運動としては現れていない、というところまでです。

実際に「往復運動」なのか、それとも長期的な方向性を持つ軌道なのかを確かめるには、音程遷移だけでなく、五度圏上の重心軌道を時間順に追跡する必要があります。

「虹」は、五度圏の上に何を描いているのか

ここで、《虹機械》という作品の構成原理について、少し違った見方ができるようになります。

一見すると、この音楽は、特定の調に安定しているわけでもなく、伝統的な意味での和声進行を積み重ねているわけでもありません。

しかし、それは「無秩序」なのではありません。

むしろ逆です。

非常に強い規則性があります。

その規則性は、伝統的な機能和声のように、

「この和音は次にどこへ進み、どの調へ解決するのか」

という形で現れるのではありません。

そうではなく、

「音と音との距離として、完全5度という関係を徹底的に選び続ける」

という形で現れています。

その結果として、五度圏という円の上には強い偏りが生まれます。

つまり、《虹機械》における五度圏的な性質は、和音を分析した結果として偶然見つかったものというより、

音を生成する仕組みそのものが五度圏的な性質を持っている

と考える方が自然なのです。

「新調性主義」を別の角度から見る

三輪眞弘は《虹機械》を「新調性主義」と呼んでいます。

この言葉を、単純に「伝統的な調性を新しくしたもの」と理解する必要はないのかもしれません。

今回の分析から見えてくるのは、調性を支えている「中心」の作り方そのものが違う可能性です。

伝統的な機能和声では、複数の和音や音階、対称性の異なる音の集まりが相互に関係しながら、ある調的中心を形成します。

一方、《虹機械》では、そうした複雑な和声的ネットワークを構築する代わりに、完全5度という一つの関係を極端なまでに純化することで、別の種類の秩序が生まれています。

そこでは、「どこか一つの調に帰る」ということよりも、

五度という関係そのものが、音楽を組織する原理になる。

この意味で、《虹機械》の「調性」は、特定の調に音が集まっている状態というより、音と音の関係を組織する幾何学的な規則として現れている、と考えることができます。

五度圏だけでは見えないものを見る

今回の《虹機械》の分析から得られる教訓は、三輪作品だけに限らないと思います。

五度圏重心は、音楽の調的な方向性を非常に分かりやすく可視化してくれます。

しかし、それはあくまで一つの観測窓です。

五度圏で重心が中央に集まったとき、それだけを見て、

「調性が弱い」
「無調的である」
「中心がない」

と判断するのは早すぎます。

その背後には、増三和音、減七の和音、全音音階、あるいは別の対称性が強く存在しているかもしれません。

逆に、五度圏の重心がある程度の大きさを持っていても、その重心が何によって生じているのかを調べなければ、その音楽の組織原理までは分かりません。

だからこそ、

「どこに重心があるか」

だけでなく、

「その重心は、どのような音の組織によって生まれているのか」

を見る必要があります。

《虹機械》は、この二つを区別することの重要性を、とても鮮明に示してくれる作品でした。

重心から「生成原理」へ

五度圏重心分析を出発点にすると、最初は「この音楽はどちらを向いているのか」という問いから始まります。

しかし、分析を一段深くすると、問いは変わってきます。

なぜ、そちらを向いているのか。

さらに6つの対称性を調べ、実際の音程の動きを調べると、

その方向性を生み出している規則は何なのか。

という問いに進むことができます。

《虹機械》では、その答えとして、完全5度を中心とした非常に単純な音程関係が浮かび上がりました。

局所的には音が五度圏上に強く集まり、全体としては一つの調に固定されない。

そして、より大きな時間単位で見ると、五度圏重心そのものは「普通」に見えるのに、その背後では6つの対称性のうち五度圏に対応するものだけが極端に強くなっている。

この二重性こそが、今回の分析で見えてきた《虹機械》の姿です。

「普通に見える重心」の中に、「極端に特殊な生成原理」が隠れている。

音の重心を見ることは、単に調性を測るための方法ではありません。

それは、音楽の表面に現れる「方向」から、その背後にある「組織の仕方」へと問いを進めるための、一つの入口にもなり得るのです。


本稿はClaude Sonnet 5およびChatGPT 5.6 lunaとの会話を通じて作成されました。

(2026.9.11 公開)

2026年9月10日木曜日

五度圏重心分析の方法論的基礎 第6部:データの信頼性と限界

 

第6部:データの信頼性と限界

6.1 MIDI出典管理と信頼性差

MIDIデータの制作経路に起因する信頼性の問題、およびそれに対する対策(前後幅を持たせたサンプリング、複数ソースの比較による採用データの選定)については、第2部6節で詳述した。要点のみ再掲すると、本研究のコーパスは作曲家ごとに信頼性の水準が異なり(マーラーは加藤隆太郎氏コレクションにより高水準、ペッテションも信頼できる単一ソース、ブルックナーはソースによって信頼性に差があり、シベリウスは部分的クロスバリデーション済み)、この非一様性は作曲家間比較を行う際の留保事項として常に意識される必要がある。特にショスタコーヴィチ(n=2)のような小標本の作曲家については、個別の傾向を安易に一般化しないよう注意を要する。

6.2 非原点における偶発的衝突の可能性

第1部1.4節で導出した通り、五度圏重心(f5係数)の原点への収束は、回転対称性を持つ和音について理論的に保証された必然である。しかし、原点以外の点においても、和音の構成が厳密に一致する——すなわち異なる和音が同一の重心座標を持つ——事態が理論上排除できないことが、検証の過程で明らかになった。

具体的には、12ピッチクラスの全ての空でない部分集合(4095通り)を網羅的に計算した結果、重心が一致する点(4桁丸め後)は1705点存在し、そのうち49点で異なる同時発音数の和音が同一の重心を共有していた。ただし、この49点はいずれも、少なくとも一方が6音以上の密集和音(hexachord以上)であることを条件としている。実務上想定される同時発音数の範囲(2〜5音程度、大半の調的〜後期ロマン派音楽をカバーする範囲)に限定すると、この種の衝突は原点においてのみ生じ、それ以外の点では生じないことが確認されている。

この事実は、密集した同時発音(6音以上)を伴う作品——後期ペッテションの厚いオーケストレーションや、マーラーの大規模な総奏部分など——については、原点以外の点についても、重心の一致が複数の異なる和声内容に由来する可能性を完全には排除できないことを意味する。現状の分析では、この種の非原点衝突について、原点で実施したような体系的なpc集合細分化(レポートI第2.3節)は行っていない。今後、同時発音数6以上の頻度が高い楽章・区間を対象に、同様の細分化検証を行う余地がある。

6.3 方法論的限界のまとめ

以上の各部で述べてきた内容を踏まえ、本研究全体が抱える方法論的限界を以下にまとめる。

分析単位の粒度に起因する限界:9指標体系は楽章・作品単位の集計統計量であり、軌道の時間発展そのもの(どの小節で、どの方向に、どれだけ急激に重心が動いたか)を保持しない。これにより、カタストロフィー理論が本来対象とするような、楽章内部の急激な転換点の検出(第4部4.2節)は、現行の指標体系では直接には行えない。

理論的解釈枠組みの性格:FEP三層構造、カスプカタストロフィーモデル、「交響曲的主体」類型(第4部)は、いずれも証明された事実ではなく、本研究が採用する作業仮説としての解釈的枠組みである。これらの枠組みが提供する説明力は、定量指標との整合性という形で検証可能ではあるが、対立仮説を排除する意味での反証可能性を十分に備えているとは言い切れない点には留意が必要である。

比較対象の選択:Krumhansl-Schmuckler、Chewのスパイラル・アレイに対する五度圏重心の優位性(第5部)は、本研究の目的(複数作曲家を横断する理論負荷最小の軌道追跡)に照らした相対的な優位性であり、これら既存手法が全ての目的において劣るという主張ではない。特にK-S型の手法は、本研究が意図的に避けた「機能和声的な調性推定」を必要とする分析には、依然として有効でありうる。

コーパスの代表性:8作曲家・55楽章というコーパスは、19世紀後半から20世紀にかけての交響曲的伝統の一部を代表するに過ぎず、より広い時代・地域・様式への一般化には慎重を要する。

6.4 今後の課題

以下の課題は、現行の分析設計の延長線上にありながら、追加のデータ処理・分析手法の導入を要するため、今後の検討課題として位置づける。

カタストロフィー的不連続点の時系列検出:第4部4.2節で述べた限界に対応する課題として、和声的緊張度・テクスチュア密度・Tonal_Focus等の小節単位時系列に対し、変化点検出アルゴリズム(PELT法またはベイズ的変化点検出)を適用し、不連続点(潜在的カタストロフィー点)の数・強度・分布を定量化することが考えられる。これにより、例えばマーラー第6交響曲終楽章(少数の大きな不連続点によるfold型カタストロフィーが予測される)と第9交響曲第1楽章(多数の小さな不連続点の反復によるcusp型の連鎖が予測される)のような、fold型・cusp型の形式的区別を定量的に検証できる可能性がある。

ソナタ形式における自己相似性の計量:提示部と再現部の対応区間について、動的時間伸縮法(DTW)またはピッチクラスベクトルのコサイン類似度を用いた類似度計量により、「形式の緩さ」(再現部が提示部からどれだけ変容しているか)を定量化する課題。

調的推定の時系列変化率:Krumhansl-Kesslerのキープロファイルを小節単位で適用した調性推定の時系列を別途生成し、その変化率(フレーム間距離の分布)および調的曖昧性スコア(主要調との相関が全体的に低い区間の割合)を、既存の五度圏重心軌道と比較検証する課題。これは第5部で述べたK-S不採用の理由(カテゴリカルな出力形式が調的曖昧さを表現しにくいこと)を踏まえつつ、両手法を補完的に併用する可能性を探るものである。

非原点における密集和音衝突の系統的検証:6.2節で述べた限界に対応し、同時発音数6以上が高頻度で出現する楽章・作曲家(後期ペッテション、マーラーの総奏部等)を対象に、原点細分化と同様の手法でpc集合の系統的な照合を行う課題。

レポートIが挙げる今後の課題:方向性指標・原点細分化指標に関する今後の課題(ブルックナー第9番の質的断絶の検証、マーラーにおける楽章類型パターンの検討、DSCHコーパスの拡張、新旧指標体系対応関係の精査、DFT係数への理論的拡張)については、レポートI第7章に詳述されているため、本稿では重複を避け参照に留める。

(2026.9.10 公開)

五度圏重心分析の方法論的基礎 第5部:比較対象・代替手法・方法選択の根拠(2026.10.6 更新)

 

第5部:比較対象・代替手法・方法選択の根拠

五度圏重心という設計は、理論的な比較検討のみから最初に選ばれたものではなく、実際に他のアプローチを試みたうえで、それぞれに固有の理由で退けた結果として採用されたものである。本稿ではその経緯と根拠を記録するとともに、同じくDFTに基づく既存研究(Wavescapes)との異同を整理する。なお、5.1節で参照する検証はマーラー単独コーパス(全50楽章)の段階で実施されたものであり、第2部で述べた現行の8作曲家・55楽章フルコーパスとは異なる、研究の初期段階のコーパスである点に注意されたい。

5.1 Krumhansl-Schmuckler不採用の理由

クラムハンスル=シュムックラー(K-S)の調的階層モデルによる調性推定を、初期段階でマーラー全10交響曲+《大地の歌》の全50楽章(現行の8作曲家・55楽章フルコーパスとは異なる、当初のマーラー単独コーパス)に対して実際に行い、結果を公開した(「MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの『調的階層』を用いた調性推定と和音のラベリング」)。この方法は各時点について24の調(長調12・短調12)それぞれに対する尤度を与える。ここで得られる出力は24次元の尤度ベクトルであり、これをそのまま一本の連続的な軌道として扱うことはできない。最尤の調を選んで時系列を構成することは可能だが、これは複数の調に対する尤度が拮抗している「調的に曖昧な」瞬間について、その曖昧さの度合いを消去して単一のラベルを強制的に割り当てることを意味する。本研究が捉えようとする調的溶解——複数の調的可能性の間で重心が定まらなくなっていく過程——を、K-Sのカテゴリカルな出力形式は原理的に表現しにくい。

5.2 Chew Spiral Array不採用の理由

三度関係(長三度・短三度の隣接性)を五度関係と同時に組み込む、Chewのスパイラル・アレイのようなモデルも検討した。三度関係がロマン派の和声、とりわけマーラーにおいて重要な役割を果たすことは認識しているが、この方向は採用しなかった。三度関係を空間の構成要素として明示的に組み込むことは、それ自体が「三度関係は音楽的に重要である」という音楽理論的主張を空間の定義に埋め込むことになり、機能和声とは異なるが、それによく似た理論的バイアスを持ち込むことになると判断したためである。本研究が最終的に目指すのは、マーラー後期からペッテションに至るまでを同一の枠組みで扱うことであり、古典的な三度堆積の和声語法自体が前提として成立しにくい書法(ペッテション)に対しては、三度関係を軸の一つとして組み込んだ空間は適合しない危険がある。

五度圏重心は、この2つの試行を経たうえで採用された、単一の関係軸のみを用いる最も単純な幾何学的写像である。この単純さは、より精緻な方法を知らなかった結果ではなく、複数作曲家を横断する連続的な調的溶解の軌道を、理論負荷を最小化した形で追跡するという目的に照らして、消去法的に選択された設計である。

5.3 Wavescapesとの関係

Viaccoz, Harasim, Moss & Rohrmeier (2022)による”Wavescapes: A visual hierarchical analysis of tonality using the discrete Fourier transform”(Musicae Scientiae, 27(2), 390–427)は、本研究と同じくLewin–Quinn–Amiotの系譜にあるDFT基盤のピッチクラス集合分析を用いるが、問いの立て方が本質的に異なる。

同論文は、既存のkeyscape(Sapp 2001, 2005)——楽曲の任意の入れ子区間について最良適合する長短調を推定し、三角形状に色分けして可視化する手法——が、Krumhansl-Schmuckler型の調推定アルゴリズムに依存するために拡張的調性(後期ロマン派以降の作品)には適用困難であるという問題意識から出発する。これは本稿5.1節で述べたK-S不採用の理由と同型の問題意識であり、リストの《ファウスト交響曲》冒頭のkeyscapeが「ヘ短調→嬰ハ短調→イ短調」という、実際の和声内容(増三和音ベースの構造)と乖離した調推定を返す例(同論文Figure 2)は、本研究のコーパスが抱える問題と直接対応する外部証拠として参照できる。

Wavescapesはこの問題を、keyscapeの階層的な三角形表示という形式は保持したまま、色分けの基準を「K-S調推定」から「DFT係数(f1〜f6)の位相・大きさ」に置き換えることで解決する。すなわち、楽曲のあらゆる入れ子区間(1小節から全曲まで)についてピッチクラスベクトルのDFTを計算し、位相を色相に、正規化された大きさを不透明度に写像することで、どの階層(時間スケール)でどのフーリエ成分(=どの和声的性質)が支配的かを、決定論的かつ連続的に可視化する。

方法論上の異同:本研究とWavescapesは、DFTという共通の数学的基盤に立ちながら、以下の点で設計思想を異にする。


本研究

Wavescapes

サンプリング

拍頭ごとの点サンプリング(時間軸に沿った離散点列)

曲を任意の長さの区間に分割し、あらゆる入れ子区間を網羅的に評価

捉える対象

五度圏上の軌道(時間発展・力学系的視点)

ある時間範囲における階層的構造(どの時間スケールでどの和声的性質が支配的か)

統計量

Avg_r・SD_r・PCA等、軌道の集約統計量

位相→色相、大きさ→不透明度への写像による視覚的表現

出力の性質

定量的指標+クラスタリング(統計的検定が可能)

決定論的な可視化(解釈は分析者に委ねられる)

対象とする係数

f5(五度圏)中心、原点収束の分析での和音種の内訳の参照とf1〜f6の集中度比較を併用

f1〜f6全てを対象とし、作品ごとに最も特徴的な係数を選択

Wavescapesは「この曲のどの階層(1小節か、楽章全体か)でどの和声的性質が優勢か」を問う静的・階層的分析であり、本研究は「この曲の調的重心が時間とともにどう動くか」を問う動的・軌道的分析である。両者は同じDFT基盤を共有しつつ、問いの次元が異なる相補的な関係にある。第2部で述べたFEPの三層構造(特に層2:状態空間における行動パターン)は本質的に軌道・力学系志向であり、本研究が階層的分割ではなく時系列軌道を分析単位として選んだことは、この理論的立場と整合的である。

Wavescapesからの示唆:Wavescapes論文のFigure 6(和音・音階の種類ごとの正規化された大きさの一覧表)は、本研究が独自に確認した対称和音の分類(増三和音・減七・全音音階・三全音ダイアド等がf5で原点に収束する現象、第1部1.3節)を、より広い和音種のカタログとして裏付ける独立した確認になっている。また同論文が典拠とするClough & Douthett (1991) “Maximally Even Sets”(Journal of Music Theory)は、本稿が「回転対称性を持つ和音」と呼んできた概念に対する、確立された音楽理論上の呼称(最大均等分割集合)を与えるものであり、第1部の参照文献として追加する価値がある。

参照文献:Viaccoz, C., Harasim, D., Moss, F. C., & Rohrmeier, M. (2022). Wavescapes: A visual hierarchical analysis of tonality using the discrete Fourier transform. Musicae Scientiae, 27(2), 390–427. Clough, J., & Douthett, J. (1991). Maximally even sets. Journal of Music Theory, 35(1), 93–173. Sapp, C. S. (2005). Visual hierarchical key analysis. Computers in Entertainment, 3(4).

(2026.9.10 公開、10.6 更新)

五度圏重心分析の方法論的基礎 第4部:理論的解釈枠組み

 

第4部:理論的解釈枠組み

第1部が五度圏重心分析の数理的正当性を、第2・3部がその具体的な運用設計を扱ったのに対し、本稿は、そこから得られる定量的指標を音楽学的・哲学的にどう読み替えるかという、解釈の理論的枠組みを扱う。ここで導入される自由エネルギー原理(FEP)・カスプカタストロフィーモデル・「交響曲的主体」類型は、いずれも作業仮説としての解釈的枠組みであり、証明された事実ではない。本稿はその要点のみを述べ、詳細な理論的展開・実証的検討は、末尾に挙げる別稿に委ねる。

4.1 自由エネルギー原理(FEP)三層構造の応用

本研究では、MIDIデータから算出される定量的指標を解釈するにあたり、自由エネルギー原理における三層構造——生成モデルの安定性(層1)、状態空間における行動パターン(層2)、感覚入力の複雑性(層3)——を援用する。この枠組みは、調的な指標が捉えている現象を、単なる音響的特徴の記述としてではなく、音楽的主体が世界(音空間)をどのように予測し、その予測をどこまで維持できているかという観点から読み替えることを可能にする。

この読み替えが可能になるのは、五度圏上の重心が、ある瞬間に「どの調的仮説が最も支持されているか」を近似的に表現していると見なせるためである。ある瞬間に鳴っている音の集合が五度圏の特定の領域に強く偏っていること(重心の半径rが大きいこと)は、その瞬間、特定の調的領域を中心とする一つの調的仮説——言い換えれば一つの生成モデル——が、他の可能性を排して優勢に立っていることに対応する。逆に重心が中心(r0)に近づくということは、単一の調的仮説では説明のつかない、複数の調的可能性が拮抗している状態、すなわち生成モデルが特定の仮説にコミットできず、予測の確信度(精度)が低下している状態に対応すると読み替えられる。

同様に、この重心が時間とともにどれだけ・どのように移動するかという軌道の性質は、その生成モデルが自らの仮説をどれだけ、どのように更新し続けているかに対応する。重心の移動が小さく緩やかであれば、既存の調的仮説の範囲内での微修正(局所的な予測誤差の解消)と見なせるが、重心が大きく、あるいは繰り返し遠方へ跳躍するのであれば、それはより根本的な仮説の書き換え——精度の低い予測を維持するコストが、仮説そのものを放棄し新たな生成モデルへ乗り換えるコストを上回った結果としての転換——に相当すると解釈できる。

このように、五度圏上の重心とその軌道という幾何学的に定義された量は、それ自体としては単なる音響的事実の要約にすぎない。しかし、これを「ある行為主体が、自らの置かれた音空間について抱く予測とその確信度が、時間とともにどのように維持され、あるいは崩れていくか」を表す代理指標として読み替えることで、初めてFEPという理論的語彙で意味づけることが可能になる。第3部で述べた9指標のFEP三層構造への割り当て(層1:Avg_r・SD_r・Tonal_Focus、層2:Avg_Step・Step_Rate_100・Spatial_Dispersion、層3:PC_Density・Texture_Volatility・Harmonic_Coverage)は、この読み替えを指標設計に反映したものである。

なお、この読み替えの妥当性そのものは証明された事実ではなく、本研究が採用する解釈的枠組み(作業仮説)である点には留意されたい。この枠組みの哲学的基礎(変分自由エネルギー・精度付与・階層的生成モデル等の詳細)については、別稿「自由エネルギー原理による老化と後期様式の統合的理解に向けて」第1.3節・第2章を参照されたい。

4.2 カスプカタストロフィーモデル

本研究の指標が捉える調的変化のうち、連続的な微修正では説明のつかない急激な質的転換(例:ペッテション第9〜10番付近でのAvg_r・Rbar_fullの同時崩壊)については、カタストロフィー理論、とりわけカスプモデルによる不連続的転換として記述する。

ここで重要なのは、カタストロフィー理論を、音楽的時間の進行そのものを説明する因果的図式として用いるのではなく、聴取主体(あるいは分析者)の推論が破綻する形式的条件を記述する道具として位置づけることである。すなわち、楽曲中に検出される不連続点は、生物学的・心理学的な意味での「崩壊」を直接指示するものではなく、生成モデルが特定の仮説にコミットし続けるコストが、仮説を放棄し新たな生成モデルへ移行するコストを上回った——という形式的条件が満たされた地点として解釈される。この位置づけの詳細な理論的正当化(fold型カタストロフィーとcusp型カタストロフィーの区別、非出来事的な「老化過程」と出来事的な「老いの意識」の形式的区別を含む)は、別稿「老いの意識の形式」第3〜4章に委ねる。

現時点で、本研究の定量指標(楽章・作品単位の集計統計量)は、このカタストロフィー的な不連続点を楽章内部の時間発展として直接検出する設計にはなっていない。この点は本研究の限界であり、今後の課題として第6部(データの信頼性と限界)で改めて述べる。

4.3 「交響曲的主体」類型

本研究が対象とする作曲家群は、FEP的な主体の存在様式に関する類型論に基づき、それぞれ異なる型として位置づけられる。以下は、既存9指標のPCAスコア(8作曲家・45楽章)を用いた計量的照合と一定程度整合的な、解釈上の類型の一覧であり、詳細な数値的根拠と解釈は別稿「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式——調性構造のPCA分析によるFEP的解釈」を参照されたい。

作曲家

類型

要点

Haydn・Mozart

規範的生成モデルの極

高いAvg_r・高いTonal_Focus・高いHarmonic_Coverageにより、階層的生成モデルが安定して機能する参照点

Brahms

主体が問題化されない安定形

「健全な動物型主体」としての安定——FEP的脱構築が問題化される以前の位相の計量的参照点

Bruckner

前主体的力学系(多孔質的自己)

高いAvg_rを維持しつつ、後期に向けてTonal_Focusが低下し空間的拡張(Spatial_Dispersion)が進む——「解決」ではなく「持続的な場の維持」

Mahler

裂開する動物型FEP主体

全作曲家中最大のPC1散布幅——境界の外在化(初期)、緩衝された自己の確立(中期)、声による一時的較正(第8番)、過剰化・破綻(後期)という時系列的軌跡

Sibelius

環境内在的・植物型主体

非線形的・非目的論的な展開。動物型主体(戦略的行為による誤差解消)とは構造的に異なる、誤差を形態変化として吸収する植物型主体

Shostakovich

外部化された主体

Brucknerとは異なる経路でPC2正値に至る——境界の性質そのものが異なる質的差異

Pettersson

損傷した主体の持続

後期(第9〜10番以降)での調的求心力の構造的崩壊とその後の部分的回復——「損傷」を抱えたまま持続する主体

これらの類型は、9指標PCAという単一の計量的基盤の上に構築されている点で、本研究の拡張指標群(レポートI・第1部で扱う方向性指標・原点細分化指標)による今後の再検討・精緻化の対象となりうる。特にPettersson・Sibelius《タピオラ》における原点収束の機構的差異(減七和音への収斂 対 全音音階性)は、「損傷した主体」「植物型主体」というそれぞれの類型を、より高い解像度で特徴づける材料になると考えられる。

4.4 本稿の理論的深化を委ねる別稿

本節で要約した理論的枠組みの詳細な展開は、以下の別稿に委ねる。


(2026.9.10 公開)

五度圏重心分析の方法論的基礎 第3部:指標体系

 

第3部:指標体系

本稿は、小節ごとの重心座標という一次データ(軌道)から、実際に算出・使用している指標群の定義と、それぞれの採否の根拠を記述する。第1部で述べた数理的基盤(五度圏重心のDFT的位置づけ)、第2部で述べた分析設計(サンプリング単位・コーパス構成)を前提とし、その上でどのような統計量を、どのような理論的動機に基づいて構成したかを扱う。

3.1 基本9指標の定義と相互関係

各分析単位(楽章または作品)について、以下の9つの指標を算出する。これらはいずれも、小節ごとの重心座標という一次データ(軌道)を、平均・標準偏差・角度差の平均といった形に要約した二次的な統計量である。これらは軌道の「形状の特徴」を数値化したものであり、軌道そのもの——すなわち、どの小節で、どの方向に、どれだけ急激に重心が動いたかという時間発展の具体的な経路——を保持していない。

ここで選択された9つの統計量は、軌道の要約統計量として一般的なもの(平均・分散・変化量の平均等)を機械的に採用したものではなく、自由エネルギー原理(FEP)の三層構造という理論的な問いに対応させる形で、各層に最低3つずつ、意味の異なる統計量を配置している。

層1:生成モデルの安定性(その曲は、自らの調的仮説にどれだけ確信を持ち続けているか)

  • Avg_r(平均重心半径):全小節を通じた重心半径の平均。生成モデルが平均してどれだけ強くコミットした予測(=特定の調的領域)を維持しているかの、いわば「デフォルトの確信度」に対応する。

  • SD_r(重心半径の標準偏差):Avg_rが曲内でどれだけ揺れ動くか。同じAvg_rでも、終始一定の精度水準を保ちながら予測を維持する曲と、精度を動的に上下させながら予測誤差に対する感受性を能動的に再調整する曲とは、FEP的には全く異なる主体のあり方を意味する。SD_rはこの精度変動の大きさそのものを測る。

  • Tonal_Focus(調的集中度):実装上の定義は、五度圏平面(xy座標)を10×10のグリッドに分割した2次元ヒストグラムにおいて、最も出現頻度の高いビンが全サンプル中に占める比率(最大ビン占有率)である。したがって厳密には、Tonal_Focusは「原点近傍への集中度」そのものを測る指標ではなく、軌道上で重心が最も頻繁に訪れる局所領域への集中度を測る指標である。多くの調性音楽では、重心が最も頻繁に滞在する領域は主調に対応する非原点の一点になるため、この局所集中は経験的に「調的な収束」と対応するが、両者が概念として同一ではない点には注意を要する。層1の中では、Avg_r・SD_rが軌道全体にわたる平均的な水準とその変動を捉えるのに対し、Tonal_Focusはこれらとは独立に、軌道が特定の一領域にどれだけ偏って滞留するかという、空間的な集中の程度を捉える指標として機能する。

層2:状態空間における行動パターン(重心はどう動き回るか)

  • Avg_Step(平均ステップ幅):隣接小節間の重心移動角度の平均。FEP的には、一歩ごとにどれだけ予測を更新しているかに対応する。値が大きいほど、調的な文脈の書き換えが頻繁であることを意味する。

  • Step_Rate_100(100小節あたりステップ量):Avg_Stepの曲長正規化版。作品によって長さが数倍異なる場合、正規化を行わないと総移動量が単に曲の長さに比例してしまい、作品固有の「動きの烈しさ」ではなく単なる長さの効果を測ることになる。この正規化は、作品間比較を可能にするための必須の設計である。

  • Spatial_Dispersion(空間分散度):重心が実際に訪れた領域の広がり(分散)。Avg_Stepとは独立の情報である。転調の歩幅(Avg_Step)が同程度であっても、五度圏上の特定領域を集中的に往復する動きと、広域にわたって分散しながら移動する動きとでは、Spatial_Dispersionの値は大きく異なる。FEP的には、前者は同一の調的仮説の周辺で予測誤差を局所的に微修正し続ける状態に、後者は生成モデルそのものが想定する調的仮説の範囲が広く、より根本的な書き換え(遠い調的領域への探索的飛躍)が生じやすい状態に対応すると解釈できる。

層3:感覚入力の複雑性(拍頭で実際に何が鳴っているか)

  • PC_Density(ピッチクラス密度):拍頭で同時に鳴っているピッチクラス数の平均。瞬間ごとの感覚入力そのものの複雑さを表す、最も直接的な指標である。

  • Texture_Volatility(テクスチュア揺らぎ):PC_Densityが小節ごとにどれだけ変動するか。同じ平均密度でも、常に一定の厚みで鳴り続ける曲と、薄い瞬間と厚い瞬間が激しく交代する曲とでは、感覚入力として与えられる「驚き」の量が異なる。これはPC_Densityの平均だけでは失われる情報である。

  • Harmonic_Coverage(和声被覆率):楽曲全体を通じて、三和音以上の有効和声が成立している小節の比率(=有効小節数/全小節数)。PC_Densityが「ある拍頭で何声部鳴っているか」という瞬間の密度を測るのに対し、Harmonic_Coverageは「そのような有効な和声が楽曲全体の何割の時間にわたって途切れずに存在しているか」という被覆の持続性を測る。FEP的には、生成モデルへの感覚入力が供給され続けている時間的割合に対応する。

まとめると、9指標は「平均・分散・広がり」という統計的操作を無差別に適用したものではなく、各層について「平均的な水準」「その水準の一貫性」「探索・変動の広がり」という異なる情報を最低限セットで揃えるという設計方針のもとに選ばれている。これにより、同じ平均値を持つ2曲でも、変動の仕方や探索範囲の違いによって、PCA空間上では異なる位置に配置されうるという分解能が確保されている。

3.2 9指標体系の冗長性・寄与度に関する検証

9指標のうち、寄与度が低い、ないし他指標と冗長な指標が存在しないかを検証するため、全拍サンプリングとの比較で得られたローディングの角度安定性・他指標との相関・PCA構造への寄与という3つの診断軸により、SD_r・Spatial_Dispersion・PC_Density・Texture_Volatilityの4指標を除外候補の初期スクリーニング対象として抽出した。

初期スクリーニングの結果:ローディングベクトルの角度(PC1軸寄りかPC2軸寄りか)が分析条件間でどれだけ安定しているかを見ると、Spatial_Dispersionが最も不安定であり(角度の標準偏差36.9°、PC1との相関の符号が分析条件によって反転する)、SD_rがこれに次いだ(22.3°)。一方、他の8指標との相関を見ると、SD_rはAvg_r(|r|=0.74〜0.80)・Tonal_Focus(|r|=0.61〜0.74)・Avg_Step/Step_Rate_100(|r|=0.56〜0.62)と高く相関しており、基本指標と情報が重複している可能性が示唆された。対照的にSpatial_Dispersionは他のどの指標とも弱い相関(|r|0.52)しか持たず、冗長性ではなく信号の弱さが問題である可能性が高いと判断された。

ブートストラップ安定性分析による追加検証:しかし、この結論はPC1・PC2という2次元へ射影した後の構造にのみ基づくものである。指標の除外がPCAによる射影を経る前の段階で分類結果そのものにどの程度影響するかを確認するため、標準化された9指標(または候補指標を除いた8指標)を直接クラスタリングに用いる検証を追加で行った。全50楽章データを用い、各候補指標を除いた8指標セットについて、基本の9指標セットと同一の手順(200回のリサンプリングによるブートストラップ安定性分析)でk=3の安定性を再計算したところ、以下の結果を得た。

除外した指標

k=3平均ARI

frac(ARI>0.75)

baselineとの差

(baseline・9指標)

0.699

52%

—

SD_r

0.608

18%

−0.091(最も悪化)

Spatial_Dispersion

0.675

43%

−0.024(やや悪化)

Texture_Volatility

0.733

54%

+0.034(微改善)

PC_Density

0.745

63%

+0.046(改善)

SD_rを除いた場合にk=3の安定性が最も大きく悪化することが明らかになった。9指標によるk=3クラスタリングとSD_r除外後の8指標によるk=3クラスタリングを直接比較すると、両者の一致度はARI=0.784にとどまり、全50楽章中4楽章が異なるクラスタへ再配置された。

結論:PCA的な冗長性とクラスタリング上の寄与度は必ずしも一致しない。SD_rは、PC1・PC2という2次元の連続的構造に対しては他指標と重複した情報しか提供していないように見えたが、9次元(8次元)空間全体を用いる離散的なクラスタリング構造に対しては、無視できない固有の寄与を果たしていることが判明した。これは、相関の高さのみに基づいて指標の冗長性を判断することの危うさを示す一例であり、この検証結果自体は「相関構造に基づく指標の一見した冗長性」と「クラスタリングという離散的な分類課題における実際の寄与度」とが乖離しうるという方法論的知見として、それ自体価値を持つと判断する。以上より、現行の9指標セットをそのまま維持する。

3.3 採用しなかった指標:Winding_Rate_100

9指標とは別に、Winding_Rate_100(五度圏上での回転方向を考慮した累積移動量)という指標も試作したが、複数楽章を連結した際に楽章境界での人為的な接続が値を歪めやすいという性質があるため、9指標体系には含めていない。

この除外判断は、拍頭サンプリングと全拍サンプリングの比較検証によっても独立に裏付けられている。他の9指標のPC1・PC2相関がいずれも高水準(0.8〜0.99)を維持したのに対し、Winding_Rate_100の相関は全楽章分析で0.500、全曲分析で0.564にとどまり、主要楽章分析に至っては−0.305と符号そのものが逆転した。これは、この指標がサンプリング単位の変更に対して極めて脆弱であることを独立に裏付けており、9指標から除外した判断の妥当性を補強するものである。

3.4 方向性指標群・原点細分化指標群

基本9指標体系を拡張する形で開発された、方向性・滞留性・原点細分化に関わる指標群(Anisotropy_Ratio、Rbar_full、Attractor_Number、Origin_PCSet_Ratio、Exact_Triadic_Ratio等、計16指標)については、その開発経緯(3段階の探索プロセス)・数学的背景・検証手続きを、別稿「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編(レポートI)」に詳述している。この16指標は基本9指標を置き換えるものではなく、両者は同一の一次データ(小節ごとの重心座標)に対する異なる要約統計量として並立する拡張体系である。9指標は軌道の基礎的な記述(水準・変動・広がり、および3.1節で述べたFEP三層構造への対応)を担う基盤体系として維持され、16指標はこれに、9指標では捉えられない別の幾何学的情報——重心が原点からどの方向に偏っているか(方向性)、特定の領域にどれだけ滞留するか(滞留性)、原点収束の内実がどの対称和音に由来するか(原点細分化)——を追加する。レポートI第2章は新指標群の開発経緯を、第3章はその妥当性・新規性・限界の検証方法論(新旧指標体系の整合性検証を含む)を扱っており、本稿と合わせて参照されたい。特に、新指標群のうち原点収束現象に関わる部分(レポートI第2.3節)の数理的基盤——なぜ回転対称性を持つ和音が必然的に原点に収束するか——については、本稿とは独立した基礎文書である「五度圏重心分析の方法論的基礎」第1部で、Lewin–Quinnの移調対称性定理に基づく完全な演繹的説明を与えている。

なお、レポートI第3.1〜3.4節で示されている通り、新指標群のうち複数(特に第1段階の異方性・方向集中指標群)は、基本のPC1・PC2(9指標体系のPCA平面)に対して高い相関を示すものが多く、真に新規の情報を持つのはOrigin_PCSet_Ratioを中心とする一部の指標に限られることが確認されている。この点も含めた詳細な検証結果は、レポートI第3章を参照されたい。

3.5 概念的独立性と経験的相関の区別という視座

新指標の検証にあたり、ある新指標が基本軸と強い相関を示した場合であっても、それは「その指標が測定する概念そのものが基本指標と同一である」ことを意味しない、という区別を方法論上の前提として採用している。たとえば方向集中度(Rbar_full)と調的集中度(Tonal_Focus)は、数学的には独立に振る舞いうる量である(半径方向に凝集しつつ全方位に均等に散らばる、あるいはその逆の組み合わせも原理上ありうる)。したがって、経験的に強い相関が観察されたこと自体が、両者が概念上偶然一致しているのではなく実質的な音楽的規則性を反映している可能性がある、という解釈上の余地を残す形で報告する方針を取っている。この視座は、3.2節で確認した「PCA的な冗長性とクラスタリング上の寄与度の乖離」という知見とも整合的であり、単一の統計的基準だけで指標の要否を機械的に判定することの危うさに対する、本研究全体を貫く一貫した警戒である。

(2026.9.10 公開)