2023年2月26日日曜日

落穂拾い:『人新世の「資本論」』における芸術の価値についてー「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」余録(2021.6-7, 2023.2.23-24,26追記)

 公開にあたっての注記:以下の文章は2021年7月に本ブログに公開した記事「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」の内容の謂わば前段に相当し、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)を読んだ感想についてのメールの中で上記記事では主題的に取り上げていない背景をなす部分のうち、三輪さんの唱えられている「人文工学」について触れた箇所や「芸術」特に「音楽」について言及した箇所について、再編集をした上で公開するものです。『人新世の「資本論」』の感想としては、それを批判的に論じるだけの予備知識の持ち合わせがなく、ナイーブなもので、到底専門的な議論に堪えるものではありませんが、その点は予めご了承頂いた上で、上記の記事の補遺ないし補足として読んでいただき、三輪さんの活動への理解を深めるきっかけとなれば幸いです。メールでのやりとりをさせて頂くことで上記のような論点を引き出して下さった京都大学人文科学研究所の岡田暁生先生と三輪眞弘さんへ御礼申し上げます。(2022.1.1-2)

[追記]本ブログの姉妹ブログとなるマーラーに関するアーカイブに、備忘:mathesis singularisとしての「マーラー学」?―アドルノのモノグラフを手掛かりにして―という記事を追記したが、この中で本稿の末尾で展望した「音楽をはじめとする芸術の価値の扱いに然るべき修正を施すことによって「価値」概念自体の組み換えを行うこと」についての若干の補足を行ったので、この文章との繋がりを確保するための若干の編集をした上で、末尾に追加させて頂きます。その上で、私にとってマーラーに関するブログに集積されたアーカイブが「マーラー学」というmathesis singularisであるのと同様、このブログのアーカイブもまた「三輪学」と命名でき、やはりmathesis singularisであることを申し添えさせて頂きたく思います。(2023.2.23,26)

更に近作『五芒星』三部作を巡っての議論の中から、本稿に関連すると思われる幾つかのトピックについて三輪さんにメールで書き送った内容を、同様に加筆・再編集の上で末尾に更に追加しました。「落穂拾い」本文と同様、三輪さんの活動への理解を深めるきっかけとなれば幸いです。こちらも同様に、メールでのやりとりをさせて頂くことで様々な論点を引き出して下さった三輪眞弘さんへ重ねて御礼申し上げます。なお、『五芒星』三部作に関しては、以下の記事をご覧いただければ幸いです。

(2023.2.24,26)

***

『人新世の「資本論」』を何とか読了しました。読みなれない分野でもあり、あっちこっちひっかかりながら読んだので、酷く時間がかかりました。やりとりからご察しのことと思いますが、私はマルクスにきちんと向き合ったことがありません。従って以下のコメントも『人新世の「資本論」』が前提としているマルクスの本来の文脈を踏まえたものにはなり得ず、到底専門的な議論に堪えるものではない、ナイーブな感想となってしまう点については、予めご容赦頂く他ありません。とはいえ三輪さんの活動や三輪さんの唱えられている「人文工学」に関わる点も多々あり、以前自分が書き留めた一連の文章で扱っている事柄に通じるものを感じた部分もありますので、以下それについて書かせて頂きます。

私は「意識」とか「自己」の構造と挙動と、その構造を産み出すものとしての他者とか外部との関わりに関心があって、どこかで「個人の心」が関わらないような議論には最後のところで関心が持てないので、『人新世の「資本論」』の内容についても、音楽をはじめとする芸術とか学問における他者との関わりの在り方と、その結果としての「個人の心」の在り方の問題を重ねてみようとしてしまいます。と同時に『人新世の「資本論」』の問題提起に対し、三輪さんの活動や三輪さんの提唱されている「人文工学」がどのような応答を為しうるかということについても考えてみることになります。その結果として、些か恣意的ではありますが、以下の2つの操作を行った上で『人新世の「資本論」』に接することになりました。一つは「価値」が論じられているところで、学術的、芸術的な活動の価値への適用を考えること、もう一つは「人新世」を「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という劃期に対応づけてみることです。

脱物質化社会というのは神話に過ぎないという『人新世の「資本論」』の主張は首肯できます。情報には必ずメディアという物質的基盤が付き纏うので、そこから自由になれるというは幻想に過ぎない。それは、情報の定義がエントロピーと密接に関わることを考えれば当たり前ですが、それでもなお、例えば三輪さんが「中部電力芸術宣言」で問題提起したような、精神的文化の物質的基盤の存在を指摘することは意義あることと思います。

その一方で『人新世の「資本論」』のような議論の文脈だと、「精神労働」と呼ばれるものの中にあまりに多様なものが含まれてしまう。(『人新世の「資本論」』そのものだって含まれる筈でしょう。)更にSDGsのような文脈ではそれらが一旦はCO2排出量のような一元的な量の尺度に還元されてしまうこと。仕方ないことだとは思いますが、でもひっかかりを感じることは避け難い。

就中、「資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である」(『人新世の「資本論」』, p.132)というくだりにぶつかった時に、私にとっての問題が見えてきたように感じました。ここでの「価値」には学術的・芸術的な価値も含まれるのではないか?という問いが浮かびます。価値の情報論的読み替えは、上述のように脱物質化社会・認知資本主義が批判のスコープに入っているので(同書, p.96)問題ない筈です。

『人新世の「資本論」』の後書きでフクヤマの「歴史の終わり」やポストモダンの「大きな物語」の失効への言及があって、そのタイトルはいみじくも「歴史を終わらせないために」となっていますが、では「脱成長」の「物語=歴史」とはどういうものか?私自身、小声であっても別の「物語」を紡ぐ必要があるし、それをかき消されないように継承していく必要があって、そのために「芸術」は欠かせないし「人文工学」は有効ではないかと思ってきたわけですが、それとここでの「脱成長」の「物語」とはどのように関わりを持つものなのか?そもそも「歴史を終わらせないために」別の「物語」を紡ぐという発想は、究極の根拠を問えば、これもまた結局のところ資本主義的な発想に過ぎないのでは?という問いを立てることができると思います。それが芸術なら、これは芸術資本主義なのではないかということです。裏返して言えば、音楽をはじめとする芸術における「脱成長」というのはどういうことか?という問いを立てることになるでしょう。勿論それは『人新世の「資本論」』の主題ではないですが、だからといって揚げ足取りという訳ではなく、寧ろ「脱成長」の方向性を考える上での急所の一つではないかと考えているので、以下、その点についての覚えを記しておきたく思います。

言う迄もないことですが、芸術における「脱成長」と言ってもそれは、もちろん「ロハス」なフィーリングの音楽を、みたいな水準の話をしたいわけではないです。シェーンベルクが多分間違いなく主観的には信じていた「進歩」というのが相対化されて、いわゆるポストモダン的な状況というのが音楽史においても指摘されるようですが、その当否は措くとして、ポストモダン的状況が即「脱成長」であるというようには到底思えない。一方で「ロハス」そのものの方が新自由主義的なものと結託するという指摘は『人新世の資本論』にも出てきます。つまるところそれが「消費におけるファッション」に過ぎないからだという訳で、この指摘自体には私も異論はありません。

ただ、では「脱成長コミュニズム」における音楽がどんなものでありそうかについて『人新世の「資本論」』の中で手がかりを求めても、見つけることはできないようです。例えば、p.272の「自由の国」というマルクスに由来するらしいコンセプトの具体性のなさ…「物質的欲求から自由になること」で始まる「集団的で文化的な活動の領域」…いえ、その直前、p.265から始まる「GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」」という節で描写される「ラディカルな潤沢さ」の回復の結果のイメージは「物質主義的ではない活動への余裕」が生まれ「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会」の増大、「ギターを弾いたり、絵を描いたり。読書する余裕も生まれる」…総じて「コミュニティの社会的・文化的エネルギーは増大していく。」(p.267)という描写には、寒々しさを覚えないでしょうか?それっぽっちのことでいいなら、「脱成長コミュニズム」が否定する他の代替案でも実現できるのではないか、否、こういうイメージ自体、実は資本主義自体が作り出したイメージに方向づけされていて、あまりにナイーブなものではないか?それが「脱物質化社会というのは神話に過ぎないという」という認識と端的に矛盾しているのではないかという疑問をとりあえず措いたとしても、文化が物質的なものから独立であるというのは余りにお目出たい認識ではないか?そうでないからこそ、メディアに介入することで文化的なもの、精神的なものを支配し、操作することが可能であるという現実との格闘が繰り広げられているというのに…

私はこの部分を読んで寧ろ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章で、大審問官によって語りだされる個人の自由な決定から解放された社会のイメージを思い浮かべました。
「そう、われわれは彼らを働かさせるけれど、仕事から解放された自由な時間には彼らの生活を、歌あり、合唱あり、あどけない踊りありという子供の遊戯のようなものにしてやるつもりだ。」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、原卓也訳、新潮文庫)
勿論『人新世の「資本論」』はこのイメージを否定するでしょう。それはファシズムか毛沢東主義か、いずれにせよ自分が否定している選択肢の提供するものだと。でも『人新世の資本論』が描き出す自由は、大審問官の物語る「自由な決定」の自由よりは、「自由な時間」の自由に近づいているのではないでしょうか?ファシズムや毛沢東主義のそれと区別をつけることができるのでしょうか?

結局『人新世の「資本論」』にも、それが援用する限りでのマルクス自身にも欠けているように見えるのは、市場における「価値」(資本主義が追求するもの)でも「使用価値」でもない「価値」の領域に対する認識ではないかと思います。「使用価値」という概念の肌理の粗さが、精神的な領域について、文化について語ることを困難にしている。これは最近、文化とか芸術について「進化論的な効用」に結びつけて論じようとする或る種の還元主義と似た構造を持っているように思えます。そこで「音楽」は、種の存続に寄与するか、或いは「パンケーキ」(スティーブン・ピンカー)のような、進化論的な価値を持たないもののいずれかになってしまう。こちらでは「使用価値」が「進化論的な効用」に置き換えられているだけで構造は同じではないでしょうか?

結局、如何にそれが脆くて頼りないものだとしても「個人の心」の領域の存在を扱いえないことに社会学的な議論の本質的な限界があるのではないでしょうか?他方において、資本主義を産み出した当事者たる「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」の人間の心の構造を扱わない議論にそれに対する別のモデルなど提示できる筈がないとも思います。

そこで「持続可能性」の問題を「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」の「人間」の存在様態という自分の土俵に持ってきたとき、自伝的自己を備え、自己意識を持ち、ということが、それなしでは不可能であった「反逆」を可能にしたという『自己が心にやってくる』におけるダマシオの主張をどのようにカップリングさせるかが問われているように思います。そもそも「反逆」が可能になったことで、ハンス・ヨナスの言う「未来に向けての責任」を論じることができるようになり、ドゥピュイの「賢明な破局論」が可能になったわけで、「人間」以外の地球上の生物にはそんなことはできません。

当然想定されるようにダマシオのいうところの「反逆」は両義的で、一方では、言われるところの資本主義を加速させ、他方では、抑制することができる。「脱成長」は「生き延びる」ための戦略という位置づけのようですから後者なんだろうとは思います。だけれども、単に「生き延びる」だけではなく「生き方を学ぶ」必要があるのではないか。そしてそれは、或る種の情報については「価値を絶えず増やしていく終わりなき運動」を許容することによってしか実現できないのではないかというように思います。(ここでの「生き方を学ぶ」は、p.321で出てくる「ブエン・ビビール」(良く生きる)とは似て非なるもので、事実としては、膵臓癌で亡くなったデリダの最後のテキストの題名に由来するものです。そういえば、デリダもマルクスの読み直しをしていますが、デリダ的な「生き方を学ぶ」とここでの「良く生きる」の間の違いを考えることは有効なのではという気がします。)

そしてそのように考えた時、「音楽」をはじめとする「芸術」が「反逆」とセットであるというのは自明ではなく、色々な面で積極的に擁護すべき事柄であるように感じます。そしてその点は「交換価値」は勿論、「使用価値」でも捉えきれない「価値」を見出すことと不可分に感じられます。

百歩譲って『人新世の「資本論」』における「ラディカルな潤沢さ」が「人間の内面」を蔑ろにしているわけではなく、音楽を楽しむことを、一見したところ交換価値に囚われない個人の内面の「自由」として考えようとしていると受け止めたところで、以下の三輪さんの言葉にある、「一方的で趣味的な」音楽の定義、多分に既に「交換価値」に汚染されているに違いない音楽の捉え方を『人新世の「資本論」』における文化なり音楽なりについての語り口に感じてしまうということです。
「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。 そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」
 (三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)
ここで三輪さんは反語的に、アイロニーとして言っているにも関わらず、『人新世の「資本論」』における音楽をはじめとする芸術や文化の扱いは、「現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」という状況の傍証のようなものになってしまっている、ということでしょうか。芸術や文化は『人新世の資本論』の主要なテーマではないですが、でも、まさにその点にこそ『人新世の「資本論」』の限界が潜んでいるように思えるのです。

それにしても『人新世の「資本論」』での議論を、「芸術ーエートスー無意識」の次元を「資本主義空間ー言語空間ー意識の次元」と対比させて、前者をもって後者に対抗するような三輪さんの考え方に包摂し、芸術を「無意識のエクササイズ」と捉えるベイトソンの見方と接続することが可能であれば、その限りで擁護可能であるという主張はどうでしょうか?

私見ではそもそもベイトソン的な区分というのは「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の人間の心を前提としていると思います。二分心と言語との関係は錯綜としていますが、二分心自体が言語を前提としている点を認めるにしても、少なくとも物語を語る自己は二分心崩壊以降のものだし、比喩の使用などジェインズが持ち出す特徴は須らく言語が前提となっています。芸術ーエートスー無意識の次元が担わされることになった役割である「隠れたる神」への呼びかけもまた、「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の人間の心の構造そのものに起因します。

私は、音楽をはじめとする芸術を専ら無意識の側に配分させる発想には違和感を感じる一方で、資本主義空間が、意識の次元だけで行われているとも思いませんが、その点はひとまず措くとして、上記の「資本主義空間ー言語空間ー意識の次元」と「芸術ーエートスー無意識」との二分法に従った上で言うならば、前者の暴走に対して、後者はそれを抑制し、ホメオスタシスを実現するために不可欠なものであると言えると思いますし、それこそがベイトソンの「無意識のエクササイズ」が言わんとすることだと思います。「脱成長コミュニズム」における「芸術」の役割についての疑念は既に記した通りですし、それが交換価値/使用価値という二分法と密接に関わることも上で指摘した通りですが、その限りにおいて「脱成長コミュニズム」よりも、ベイトソン的な無意識のエクササイズの方が、資本主義空間に対する抵抗の拠点としては実効的ではないかという見方も可能ではないかと思います。

ちょっと断定的な言い方をすることをお許し頂くならば、問題はスピードを落とすことでは多分ない。スピードは落とせない。「脱成長コミュニズム」が独自のスピードを主張しても、「資本主義」の側は止まりません。ドイッチュのいう通り、全体主義的な体制が支配でもしない限り、スピードを落とすことはできない。もしスピードを変えたければ「資本主義」の外に出てはいけないのではないか?「資本主義」に外から対抗するのではなく、「資本主義」の社会の持つスピードを、別の向きに変えていくという発想によってしか、現実的な対処はできないのではないか?そしてその「別の向き」を示すことが、「人文工学」の、「人文工学」の中核に位置づけられる芸術の役割なのではないか?というように思えるのです。

芸術が資本主義的な世界において「不要不急」とされているのは、それは資本主義の側の一方的な「芸術」の定義によるものです。それこそ使用価値と交換価値の二分法でしか「芸術」を捉えようとしないからではないでしょうか?そしてこの点では、生憎なことに「脱成長コミュニズム」と資本主義は、同盟を結び、共同戦線を構築しているように私には見えます。

現実には、コロナ禍でコンサートは延期されたり中止されたりする一方で、オリンピックはその圧倒的な使用価値と交換価値故に、決して中止されることはないというのが、我々に突き付けられている状況です。「脱成長コミュニズム」だって、恐らく芸術を、持続可能性にとっては「無駄」であるとか、CO2削減に役に立たないどころか、その発生を促すとかいう理屈で、コンサートを延期・中止するのではないか?という疑いが頭をもたげてくるのを止めることができません。そしてそれが資本の拡大なのか、持続可能性なのかは措いて、そのような「価値」を基準に据えてコンサートの延期や中止を判断するという発想に対して「人文工学」はベイトソンとともに異議申し立てをすべきではないかということが私の言いたいことです。

「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」のエポックにおいて単純に「資本主義空間ー言語空間ー意識」の次元を否定し、「芸術ーエートスー無意識」の次元を称揚することが必要なのではなく、後者の力で前者を「調律する」ことが必要なんだと思います。それは「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」がより良く生きるために必須のことなのではないか?そして、持続可能性ということについえ言えば、その「調律」がうまくいけば、持続可能性の問題は、別の仕方で、結果的に解消されるのではないかと思います。『人新世の「資本論」』の目的とすることは、「脱成長コミュニズム」によってよりも、資本主義のスピードの内側で、ドイッチュの言うように寧ろ或る種の価値についてはスピードを加速することによって実現できる。というより、そのようにしか実現できないのではないかと私には思えます。

言葉の上だけのレトリックに見えるかも知れませんが、「人文工学」も「芸術」も決して不要不急ではない。勿論、目指すべきは「人文工学」なり「芸術」なりが使用価値と交換価値を獲得することではありません。そうではなくて、別の価値があることを示すことが目指されるべきであって、それは見たところ、「人文工学」「芸術」そのものにしかできないように私には思えます。どんなに言葉だけの議論、理屈上の話に聞こえたとしても、筋道はそれ以外にあり得ない、というように私には思えるのです。もし端的に、使用価値と交換価値以外の価値が現実にないのだというのであれば、そうした認識の閉域こそが資本主義が構築し、恰も必然であるかの如く見せかけているものなのではないでしょうか?それでは、その外に出ることは端的に言って不可能なのでしょうか?その外に出ることなく外部を知ることは不可能なのでしょうか?実際には、カントの言う「理性の宿命」に突き動かされ、その都度乗り越え不可能な認識の限界と思えた制約を超え、認識の領域を拡大することの繰り返しによって我々はここまで到達したのではないでしょうか?それはどのようにして可能になったのでしょうか?

これまた虫の良い御伽噺に聞こえるかも知れませんが、上記のような筋道を辿ったならば、レトリカルに聞こえるかも知れませんが、要するに「持続可能性」を直接に目的としているもので現実に力を持つのは、実質的に言って、ドイッチュの想定するようなスピードアップしてパワーアップしたテクノロジー「だけ」で、だけれども、そうしたテクノロジーの発展それ自体を促進するという側面から言っても、「人文工学」と「芸術」を拠り所とする「価値」が共有されることが必要だと考えます。(まさにAIとかウィルスのような生物兵器、遺伝子改変技術について懸念されているように、テクノロジーは幾らでも悪用されるリスクがあります。だけれども悪用に対抗するのもまた、それに勝るテクノロジーに拠ってでしかなく、テクノロジーの進化を放棄することは対抗の手段とはなり得ないのではないでしょうか?)

最後に、これも余りにナイーブに思われるかも知れませんが、では「人文工学」と「芸術」を拠り所とする「価値」とは何か、ということについて、私が今時点で持っている想定をお伝えしておくと、それは、まさに人間が意識を持ち、自己を獲得し、「反逆」に成功するのに欠かせなかった生物種としての特徴です。それが「文化」を可能にし、心的構造およびその派生物としての言語のようなメディア自体とそれにより可能になった「文化」の更なる共進化を可能にした特徴。

それが「資本主義」という怪物の暴走にもまたどこかで繋がっていて、啓蒙が容易く野蛮に陥るという人間の愚行の歴史に目を背けるべきではないという点は強調し過ぎてもし過ぎることはない(なので、ドイッチュに対してフランクフルト学派を持ってくる必要もまた、あると考えたわけ)ですが、その上で、でもそこに依拠すべきと思うのは、ホモサピエンスの高度な「模倣」と「共感」の能力、それに加えて、意識と自己を備えた心の構造が可能にした、「外部」を思考し「無限」を思考する能力、そしてそれらの複合の結果としての想像力と創造性、最後に「未来」と「他者」に対する「責任」を担う能力です。これもまた無力な抽象論かも知れませんが、少なくとも理路としては間違っていないと思います。様々な愚行を重ねつつ、でも「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」のエポックをここまで来れたのは、時として具体的な状況においてはそれが無力であると感じられるにしても、それがあるからではないかと思います。そして、それを「価値」として拠り所にできるのは「人文工学」と「芸術」を措いてない、と私は思います。そしてここで、無意識の次元が果たす役割の大きさにも留意すべきでしょう。何よりまず、「模倣」と 「共感」の能力は、無意識の領域に関わりますし、想像力と創造性は、構造的な要請として意識を必要条件として持ちますが、これらもまた主として無意識の領域の働きです。そして最後に「未来」と「他者」に対する「責任」を担う能力は、当然「人間」的主体が担うべき能力ですが、「模倣」と 「共感」といった社会的能力抜きでは不可能だし、「外部」と「無限」へのフィーリングとしての想像力と創造性なしでも不可能、つまるところ、無意識の領域の働きが決定的な役割を果たすのです。

繰り返しになりますが、動物行動学とか、ヘンリックが『文化がヒトを進化させた』で論じているような、社会的動物としての人間の特性を考えた時、放っておけば「脱成長コミュニズム」に収束することは期待できないし、それらが暴走することによって『人新世の「資本論」』が「脱成長コミュニズム」に対立させる残り3つの選択肢であるファシズム、毛沢東主義、野蛮にいとも簡単に陥ってきたというのが人類の歴史じゃないのかという指摘が当を得ていることは認めざるを得ません。その一方で、共感し、模倣し、協力するというのは、ヒトという生物が備えている際立った特徴であり、他の霊長類との違いであるということも、今や事実として考えていいのではというように思います。(そしてこのことこそが『文化がヒトを進化させた』でのヘンリックの主張です。)自伝的自己を備え、自己意識を持ったことで、それなしには不可能な、現在の延長ではない「未来」を予測し、「賢明な破局論」を構想できるようになった点があればこそ、ファシズムと毛沢東主義と野蛮の3つを回避した時の唯一の選択肢が「脱成長コミュニズム」であるという前提に立つならば、その実現可能性は、低いけれどもゼロではなくなったのだということが言えるだろうと思います。

その一方で「人新世」という展望には「二分心崩壊以降シンギュラリティ以前」の展望には存在する「隠れたる神」という観点が抜け落ちているように思うのです。「脱成長コミュニズム」は、啓蒙思想がフランス革命がそれを実現すると夢想した無神論的な協同主義的ユートピアのように「外部」を持たないものではないか?資本主義が自らの存続のために作り出し、強化している内部と外部の境界がなくなったとして、「脱成長コミュニズム」は疎外された外部なきユートピアなのでしょうか?そこでの「音楽」は「社会主義リアリズム」的な、「脱成長コミュニズム」を強化するものなのでしょうか?(プラトン以来の、社会体制に奉仕し、それを強化するプロパガンダとしての音楽ですね。)

そうした点で私が思い浮かべたのは、またしてもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で展開される議論でした。そこでは資本主義と社会主義の軸だけでなく、有神論と無神論の軸も扱われる、というより後者がより本質的だと考えられています。ここでの文脈に引き付ければ「脱成長コミュニズム」は、神なしで成立するのか?ということです。結局のところ「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」と捉えないと、「脱成長コミュニズム」を構成する「人間の心」の問題を取り逃してしまうのではないでしょうか?そしてそれは「音楽」なり「芸術」なりが成り立つ契機のもっとも根本的なところを取り逃しているのではないかでしょうか?今や「神」という言葉があまりに使い古されたものであるというならば、「外部」「無限」「未来」「他者」という言葉で言い換えてもいいでしょう。いずれにせよそれらを思考する能力、思考するだけでなく、共感する能力、そしてそれらの複合の結果としての想像力と創造性によって可能になる「責任」を担う能力こそ、「人文工学」と「芸術」がそれに依拠し、同時に擁護すべきものであると私には思えるのです。

ここまで『人新世の「資本論」』とそこで主張されている「脱成長コミュニズム」について疑問を書き連ねて来ましたが、実を言えば『人新世の「資本論」』のモチベーションの部分に関しては共感できる部分が多々あります。「資本主義」が良いとか、よりましだと思っているわけでもありません。そして勿論、現状のままでいいと思っているわけではなく、寧ろ身近なレベルでは、「大衆にはパンとオリンピックと株価とSNSさえ与えときゃいい」式の21世紀資本主義の跳梁跋扈に、その反知性主義的な愚行の連続に対して、勘弁して欲しいと思っているのが現実です。ただ『人新世の「資本論」』が示している限りでの「脱成長コミュニズム」には対案としてのリアリティに欠けているように思えてならないのです。そしてその原因の少なくとも一つに、そこにおける音楽をはじめとする芸術の価値の扱いが関わっており、なおかつそのことがその前提となっている価値概念自体の制限と、いわば共犯関係にあるように感じられたのが、この文章を記すきっかけとなったのでした。

とりわけ今やシンギュラリティを目前にし、その特異点の向こう側では「ひとのきえさり」とともに「音楽」もまた今と同じものではありえないのだとしたら、その時に、二分法の狭間でいわば幽霊的に存在していて(「二分心崩壊以降」の「隠れたる神」という構造を考えれば、それは構造的に幽霊的にしか存在しえないのかも知れませんが)、ここで救い出そうとしている「価値」がどうなってしまうのかという点こそが「人文工学」の焦点になるように私には思えます。「人文工学」がその課題を引き受けることによって、逆説的ではありますが、『人新世の「資本論」』の主張する「脱成長コミュニズム」が実現する必要条件の一つがようやくクリアされるのではないか、もし仮に『人新世の「資本論」』の主張する「脱成長コミュニズム」を実現しようとしたならば、その議論における音楽をはじめとする芸術の価値の扱いに然るべき修正を施すことによって「価値」概念自体の組み換えを行うことが必要なのではないか、というのが現時点での私の展望ということになるかと思います。
(2021.6.26~7.8のメールの内容に基づき再構成。2022.1.1初稿公開, 1.2加筆訂正)

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 それではそのような「価値」概念自体の組み換えは如何にして可能になるのでしょうか?ここではロラン・バルトの作者と作品の関係についての再検討がその入り口の一つになり、更に彼が遺著『明るい部屋』で提起して実践したmathesis singularisがそのための方法となり得るのではないかということについて、極めてラフな仕方ではありますが若干の素描を試みたく思います。

 作者と作品の関係について、例えばマーラー自身の音楽が「自伝的」であるようには三輪さんの音楽は「自伝的」とは言われないでしょうが、その一方で三輪さんには「ノンフィクション作曲」であると規定された作品が存在します。ではそこでの作者と作品の関係についてどう考えたらいいでしょうか?更にはマーラーの音楽が「ありえたかも知れない世界の構築」としての「時間の感受のシミュレーション」である点に対応して、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」を始めとした多くの作品が「…という夢を見た」という枠組みを持つ点はどうでしょうか?人とその作品は、両者が分かち難く結びついているマーラーの場合ですら、バルトの批判した作者と作品との間にある心理学的な関係とは全く無縁であるように、三輪さんの場合には心理的な関係が明示的な仕方で一旦切断されていることは明らかです。そしてそのことは更に三輪さんが、既に引用した「369 Harmonia II」のプログラムノートにおいて音楽を「才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのもの」「では決してな」く、「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」と考えていることに繋がっていくように思われます。

 その関係は、そもそも生産ー演奏ー消費という記号論的三分法が暗黙裡に前提として疑わない、「ものを生産する」こと、それを「使用」したり「交換」したりすることを範例とするパラダイムでは捉えられないものなのであって、mathesis singularisは一見そう見えたとしても、単に生産の側から消費の側に重点を移し、後者により多くの自由度を付与しただけのものではないでしょう。バルトの『明るい部屋』における「喪の体験」もそうしたパラダイムから逃れでるものの一つであるでしょうが、それは「喪の体験」だけで尽くされるものではなく、ここでの「ノンフィクション作曲」という姿勢、或いは「…という夢を見た」という枠組みもまた、そうしたパラダイムから逃れ出るための方法だったのではないでしょうか?

 しかし、そもそも単に使用価値とか交換価値では捉えきれない独自の価値ということであれば、商品の物神的性格に関して指摘される物象化に伴って現象するファンタズマゴリーもまたそうではなかったでしょうか? バルトの方は記号論的分析によって「神話作用」を告発し、アドルノは『ワグナー試論』において、ワグナーの楽劇がファンタズマゴリーに他ならないことを指摘して見せたのではなかったでしょうか?

 ファンダズマゴリーについてはベンヤミンがパサージュ論で定式化したものが有名で、アドルノの上記の議論もその線に沿ったものですが、そもそもファンタズマゴリーは『資本論』の商品の物神的性格について論じた箇所、物象化について述べたところ(『資本論』第1巻第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」)で、使用価値とか交換価値とは別に物そのものが人々の欲望を掻き立てるという現象を指し示すのに導入した言葉であったことを思い起こすならば、ファンタズマゴリーに注目することは『人新世の「資本論」』への応答というここでの文脈にも合致したものに思えます。『資本論』が交換価値の分析を資本主義的生産様式の基本として捉えたこと自体、既にベンヤミンの時代には商品がとる幻想的形態とそれに対するフェティッシュな関係が支配的となりつつあったことを踏まえれば、既に時代に即したものではなかった可能性すらある訳で、所謂「消費社会」の成立後、21世紀になって書かれた『人新世の「資本論」』がそれを取り上げないことが不思議に思えてきさえします。

 そうした状況に対して、更に技術的特異点(シンギュラリティ)が具体的なものとして議論されるようになった今日の状況を踏まえつつ、ディズニーランドこそがファンタズマゴリーの現代的形態の典型的事例であることを三輪眞弘さんは指摘しています。

「確認しよう・・ディズニー映画からディズニーランドが生み出されたように、現代社会は「あの世」から多大な影響を受け、20世紀「この世」は「テーマパーク」のようになった。つまり、不道徳なものは除いた上で、このテーマパークの中では誰もが、もはや人間ではなく、平等で笑顔で楽しく清潔な「お客様」でなくてはならない。それはアニメ映画のような幼児的世界の模倣である。」(三輪眞弘「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」より一部を引用, 初出はF/Tジャーナル創刊号)

だがだからといって、使用価値とか交換価値では捉えきれない独自の価値が問題であることは確かなのであって、その価値がファンタズマゴリー的なものとは異なるための条件なり、それを見分けるための徴候なりを突き止めることが求められているのではなかったでしょうか?そしてpunctumこそがその徴候であり、「喪の体験」こそがそうした実例の一つなのであり、mathesis singularisは使用価値とか交換価値でもなく、さりとてファンタズマゴリー的なものとは異なる価値を擁護するための方法なのではないでしょうか。

 とはいえその擁護がますます困難になっていることにも留意する必要があるでしょう。上に引用した三輪さんの文章での「あの世」という言葉の用法が物語っているように、全てを特徴量に還元し、徹底的に数量化し、特殊性を統計分布上の外れ値として除外する統計処理が支える緻密なマーケティングと、感性的なものを制御し、現実の拡張や仮想的なものとの融合さえ実現しつつあるテクノロジーの圧倒的な力に浸蝕され、パトス的なものすら制御され回収されかねず、punctumが拠り立つべき地盤がどこにあるかすら危うくなってきている中で、ファンタズマゴリーはしっかりと使用価値と交換価値の回路に回収され、管理と支配の道具となっている現実に加えて、更にはシンギュラリティの向こう側では、「あの世」すらかつてのようではなくなり、「喪の体験」すら徹底的な変容を受けたり、ことによったら消滅したりする可能性さえあります。

 そうした展望を踏まえるならば、具体的な相に関わる部分については再解釈が必要になってくることになるでしょう。それは本稿のもともとの目的を大きく逸脱する作業となるため、後日を期することにさせて頂きたく思いますが、一言だけ見通しについて付言するならば、使用価値でも交換価値でもない価値の領域というのは、三輪さんの実践する「音楽藝術」と「人文学」とが関わる領域であると同時に芸術の姿を借りた「ファンタズマゴリー」の支配によって浸蝕されつつある領域であり、感情までが支配され、制御され、搾取される危険に対して、尚も「音楽藝術」と「人文学」は批判力を有するものであることを示すことがmathesis singularisの役割である、というのがラフなスケッチになるでしょうか。

 mathesis singularisは「喪の体験」を含めた「対象」なり「出来事」なりとの異なった関り方に依拠し、かつそうした異なった関わり方自体を対象としたものなのです。ここでは示唆に留めるしかありませんが、元々のバルトの文脈においてもまた、そこには特定の、個別の「他者」との関りが存在していたこと、否、そればかりがその関りにこそ全てが賭けられ、それ故に「写真のノエマ」たる「それは-かつて-あった」が特別なパトスを偶然に帯びることになったという消息が思い起こされます(「写真論」として『明るい部屋』を読もうとする場合には逆向きに、「それは-かつて-あった」の方がより基本的なものであるかの如くに受け止められがちですが、決して向きは逆ではありません。)。寧ろここではmathesis singularisによって、(mathesis universalisにおいてのように)「他者」を客観的な分析対象とするのではなく、「他者」として迎接し、歓待することが前提となっており、そうした「他者」ーpunctumをもたらす存在ーへの応答こそがmathesis singularisを成立させる必須の契機なのではないかと私には思われてならないのです。(2023.2.23,26追記)

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 「他者」を客観的な分析対象とするのではなく、「他者」として迎接し、歓待することとしてまず思い浮かぶのは「他者」との「対話」です。しかもそれは何かの目的を達成する手段としての対話であってはならない。それでは「他者」として迎接し、歓待することにはならないからです。ハイデガーの『存在と時間』においてはDas Mannの頽落態としての「おしゃべり」という劣化した様態が取り上げられますが、「おしゃべり」はとりとめなく、何かを達成する手段ではない替わりに、ここでいう「他者」の迎接・歓待でもありません。寧ろそれはメディアの発達した今日なら、単なる時間つぶしのためにテレビのチャンネルを次々と切り替えてみたり、スマートフォンでSNSを眺めたりといった行為に近いものとして捉えられているのだろうと思います。一方でそうではない、リアルな「他者」との「対話」、何かを目的としない「対話のための対話」こそが人間にとって存在論的に基礎的な様態であることを無視することはできないでしょう。例えば、これは最近そうした認識が一般的になってきたように思いますが、認知症の進行を抑えるのに「おしゃべり」が有効であるのは、ほぼ事実といってよいようです。更にまた、「オープンダイアローグ」と呼ばれるもともとは急性期の統合失調症をメインのターゲットとする療法は、治療を目的としない対話を重視するという点で興味深く思われます。もちろん、どちらの場合でもそれですべてうまくいくわけでもないし、薬によって生理学的に症状を緩和することが有効な場合もあるとは思いますが、これは教育とかでもそうだと思うのですが、何かの目的のためではなく、かえって自己目的化した方が、副作用的に「目的」を達成しやすいというパラドクスは非常に重要だと思いますし、「対話のための対話」というのは、「オープンダイアローグ」の提唱者であるセイックラ/アーンキルの著書のタイトルが『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』であることからも示唆されているように、それが「他者」の迎接・歓待であるから「有効」なのだと思います。そして「自己」を維持するために対話を続ける必要があるのだとしたら、それは別の水準で生命維持が論じられるのとほぼ同じ水準で論じられるべきなのではないでしょうか。「オープンダイアローグ」は当初のターゲットである統合失調症のみならず他の症例に対しても実践され成果を収めているようですし、認知症に適用されて成功した事例というのがあるかについては現時点では寡聞にしてわかりませんが、少なくとも「他者との対話」が「自伝的自己」の維持に必要であるという点では共通しているのは、偶然ではなく、やはり「自伝的自己」というものの成り立ちに由来するのでは、という気がしています。

 更に興味深いのは、セイックラの「オープンダイアローグ」の変種としてアーンキルが提唱している「未来を思い出す」対話です。私はこれを、私が私なりに「未来完了的」な様態ということで考えてきたこと(例えば、マーラーのブログで公開している「マーラーの音楽の「未来完了性」について」および「マーラーの音楽の時間性についてのメモ」をご覧ください。)に関連づけてみたいと考えていますが、ここでの関連では、未来を思い出す」というのは「音楽芸術」の定義でもある点が指摘できるでしょう。まず最初に、そもそも音楽作品を作ること自体が「未来を思い出す」ことに密接に関わります。これはドゥピュイが『ありえないことが現実にあるとき』において未来からの時間の逆流について、ベルクソンを参照しながら述べた点に関わります。更に作られた音楽作品の経験もまた「未来を思い出す」ことに関わります。これら2つは水準が異なり、厳密にきちんと区別すべきでしょうが、なぜ論理的には区別されるべきものに見える2つのレベルのいずれもが「未来を思い出す」に関わるのでしょうか?多分その理由は「音楽」を「作る」ことが、記号論的三分法における作曲・演奏・聴取の区別における最初の相だけに関わるのではなく、その全ての相に関わるから、つまり演奏・聴取の契機がない限り音楽が「作られる」プロセスは完結しないという点と関わると思います。そして当然これは、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」の3つの相にも関わる、というよりそこから導かれることであるとも言えると思います。

 一方「対話のための対話」という自己目的性という側面を「音楽芸術」がもともと備えていることは自明に思われます。なので「オープンダイアローグ」と突き合わせることで問われるのは、その側面ではなく、寧ろ対話におけるような多声性が、基本的な個人的で孤立したものである筈の音楽作品の制作における多声性をどう考えるかという点だと思います。勿論、「音楽」を作ることが、記号論的三分法における作曲・演奏・聴取の区別における最初の相だけに関わるのではなく、その全ての相に関わるならば、全体としての創作は個人的で孤立したものではそもそもないことになるわけで、問題はこちらではない。作るにしても聴くにしても、あるいはオーケストラの一員として演奏する際でも、「ひとりで」やるという側面がなくてはならない、そこに個がきちんとあってこそ「対話」が、ポリフォニーが可能になるという点をどう扱うかの方が大事な問題に思えるのです。

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 ところで、ロラン・バルトの『明るい部屋』を取り上げ、「写真のノエマ」たる「それは-かつて-あった」を手掛かりに「声」についての考察を試みた文章として、フォルマント兄弟による『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』に触れないわけにはいかないでしょう。今でも公開している当時の記事で、私はその文章に対する当惑と懐疑を綴ったが故に、未だに私個人にとっては或る種身構えてしまう面がありますが、10年越しに改めて接して確認できたことは、私の当時の疑念について今ならもう少し平明に語れるだろうと思う一方で、そこで気になっていた点が勘違いだったり、おかしかったりしたわけではなく、現時点でも基本的には訂正や撤回の必要性は感じないというのが一つ。(一方で、別のところで何度か述べているように、「逆シミュレーション音楽」については、はっきりと、以前の私には理解の至らなかった部分があったと明確に認めることに躊躇いを感じません。そして、現時点での私の理解は、この文章でこれまで言及してきた内容に反映されているばかりか、そのコアを成しているとさえ思います。)その一方で当時もやもやしていた「死者なき亡霊」の位置づけ(もう一つ言えば、こちらは三輪さんのタームである「あの世」の位置づけ)については、その後の三輪さんと佐近田さんの活動によって、特に近作『五芒星』三部作の実践によって私にはようやく明確なパースペクティブの中で捉えられるようになったと感じます。勿論、厳密を期するということになれば、今回の『五芒星』三部作の間の差異を通して「死者なき亡霊」という概念を、それに見合った肌理の細かさを備えた精緻なものにして行く作業をすべきなのかも知れませんが、それはここではなく別にやるべき大きな課題であり後日を期したく思います。同じことは「あの世」についても言えて、上で触れた「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」における「あの世」と「この世」に限って言うならば、「システム内存在」たる「私」には「この世」と「あの世」しかないと一旦はいうべきであるにも関わらず、そのいずれでもない「あの世」(というのも、それは「この世」ではない限りにおいて、やはり「あの世」の一種という他ないし、かつてはこちらこそが「あの世」と呼ばれていた筈だから)、「死者なき亡霊」ならぬ「死者=亡霊」の領分が存在することが示唆されているように思われ、12年前のもやもやが間違っていたわけではなかったことが明らかになりつつあるように思います。

 「…6つのパースペクティブ」では「死者なき亡霊」に関して、「ナイーブな存在論を破砕する」「特異な存在のあり方をあえて「亡霊的」」と呼んでいるけれど、本当に「亡霊的」なのは、メディアが生み出す「あの世」に棲む「死者なき亡霊」などではありません。勿論、存在論はメディアが生み出す「あの世」に棲む「死者なき亡霊」を扱えない程にナイーブなのかも知れませんが、それは話の本筋ではありません。なのに「…6つのパースペクティブ」では「死者なき亡霊」のみが語られ、その「ナイーブな存在論を破砕するこれほど特異な存在のあり方」が強調されるものだから、戸惑ってしまったということです。敢えて言えば、本当に「存在論的」に救出が必要なのは「死者」そのものじゃないのか?ということです。もちろん、メディア論としてはメディアが生み出す「死者なき亡霊」を指摘するのは正しいし、それを議論するのも正しいし、それがメディア論の文脈で評価されるのも正当だし、何よりそれは決して軽視すべき相手ではないというのは承知の上で、三輪さんは、常に・既に、それとは異なるものの方に価値をおいているということが既に明らかであると私には映っていたのが、戸惑いの理由だったということになるでしょうか。

 別の種類の「死者=亡霊」が、寧ろ「この世」のすぐ隣の領域にいる。それは寧ろ、かつては寧ろ身近であったに違いないのに、メディアが生み出した「死者なき亡霊」の跳梁跋扈のせいで寧ろ忘れ去られつつあるもので、それこそがかつても今も「芸術」がそれを目がけている対象なのだということです。もう一つ言うと、この「死者なき亡霊」と「死者=亡霊」の区別は、「私」の側の家畜化(これは近年、人間の文化的進化についての文脈で言われている意味合いを込めて捉えるべきで、それは単純な批判の対象ではなく、寧ろ人間が今日のようになるための構造的な条件であった点を軽視してはなりませんが)とそれに対する「対話」とポリフォニーとを可能にする条件としての「個」との差異と構造的に対応するのだと思います。

 生物学的・文化的にインプリメントされてしまっている半ば自動的なメカニズムの方は変えられないのに対して、人間はテクノロジーの力によって「現実」の方を組み替えて、自分を騙すことができるようになってしまったのに、しばしばそれに気づかないどころか、気づいていたとして、寧ろ進んで騙されすらすること、だけれども背後に、恰ももはや存在しないかのようにさえ言われもする不可視の辺土が厳然として開けていること、そしてそれはかつて「芸術」がそこから発した領域であって、それらはもともと亡霊的なのに、更にもう一度亡霊化されて、でも人間が消え去るまでは、実はそれに常に憑依されているのだということを、これまた恰も無かったことの如く思いなしてはならない。端的に言えば、「亡霊」に2種類あること、2種類を同じように「亡霊」と呼ぶこと自体は正当で間違いではないけれど、にも関わらず、両者の違いに対して意識的であることこそが問題であるということを見過ごしてはならない。「死者なき亡霊」を生じさせ、剰え「死者なき亡霊」だけが存在して、それ以外に「あの世」はないという閉域に人を閉じ込めてしまうテクノロジーの支配を逃れることなどできないし、その限りで『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』の指摘は正当であるにも関わらず、それがそのまま「死者=亡霊」の忘却を寧ろ助長しかねないことへの苛立ちが、かつての私の批判の根底にあったのだと思います。これもまた最早昔話ですが、ICCで「フォルマント兄弟のお化け屋敷」というプレゼンテーションがあって、私はそれに対してもかなりネガティブな発言をしたのでしたが、思えばそこでの私の「拒絶」はあのプレゼンテーションが、それ自体は間違っていないとしても、寧ろ2つの亡霊を混同することを助長しているように感じられたのが原因だったのだと今になって思います。もし、メディアの生み出す亡霊に「ほんものの」(という言い方を敢えてします)亡霊を回収して、その「他者」としての力を無害化してしまったら、まさにメディアの思う壺、ということになる。何しろ文字通り「死者なき亡霊」こそはディズニーランドに代表される「ファンタズマゴリー」の主役達に他ならないのです。生物学的にハードコードされた器官だってメディアの一種でその間に区別はないというのは理論的には正しいのでしょうが、そういう言い方をすることは、この場合には本当は擁護したいものを抹殺しようとする側に加担することになるのを感じて、反発したのだと思います。それは歓待すべき「他者」たる「死者=亡霊」の「厄払い」とならざるをえず、そこでは「他者」の歓待も、「対話」も不可能になってしまいます。「ファンタズマゴリー」はしっかりと使用価値と交換価値の回路に回収され、管理と支配の道具となっている現実の最中で、そこからの脱出の可能性を自ら閉ざしてしまうことになります。結果として「デジタル・ミュージック」におけるパースペクティブは、図らずも「音楽藝術」の終焉だけを指示していることになってしまうのです。そこには形而上学の終焉、近代の終焉、歴史の終焉としてのポストモダン的状況について蔓延った、論理の誤った適用による単純化に起因する誤解と同型の構造が見出せるように思います。一見したところ「出口なし」に見えてしまうというわけです。

 だからといってテクノロジーの力から目を背け、それを拒絶することのみが可能な戦略ではないことを、三輪さんのその後の活動は身をもって示してきたのではないかと私には感じられます。かつて「逆シミュレーション音楽」がゴールデン・ニカ賞を受賞した時の審査員講評で、審査員の中から「三輪の方法は、ほとんどファシズムに見られるような 制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの概念を持ち出してきた」という意見が出たと述べられていたことが思い起こされますが、「逆シミュレーション音楽」は、一見そう見えたとしても、コンピュータに人間が支配され、管理されるディストピアの戯画などではありません。(そうであるならばそれは、「…という夢を見た」という枠組みでの多様性の装いの元で単に「ファンタズマゴリー」を一つ追加するだけに終始するに過ぎないことになるでしょう。)そうではなくて、それはその定義によって「音楽藝術」の成立条件を構成論的な仕方で厳密に記述するとともに、実践によって、テクノロジーの力から目を背けることなく、その只中で、それが覆い隠そうとしている「他者」を如何にして歓待し、「対話」を行うことができるのかの可能性をシミュレートしているものなのだと私には思えるのです。それは『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』で参照されているスティグレールの議論を引き継いで、シンギュラリティ(技術的特異点)を見据えつつ、「宇宙技芸」の再発明のための隘路を行こうとするユク・ホイの試みに比することができるような壮挙なのだと私は考えています。更に付け加えれば、「死者なき亡霊」と「死者=亡霊」との区別に関して、前者が「清潔な」と三輪さんによって形容されている点を踏まえて、藤原辰史先生の『分解の哲学』に架橋することも可能でしょう。「ファンタズマゴリー」の主人公たる「死者なき亡霊」とは異なって、「死者=亡霊」はまさに「腐敗」し「分解」される存在に関わるのであって、この差異に注目することはそれ自体ラディカルな批判力を有するものと感じられます。勿論、ここでは極めて断片的な仕方で、幾つかのキーワードを辿るような仕方でその輪郭を辿ったに過ぎず、そのことをきちんと論じることをこの場で果たすことは到底できないことですが、既に述べた通り、三輪さんの実践する「音楽藝術」と「人文学」とが、芸術の姿を借りた「ファンタズマゴリー」の支配によって浸蝕され、感情までが支配され、制御され、搾取される危険に対して尚も批判力を有するものであることを示すことが、mathesis singularisとしての「三輪学」の役割である限り、少しでもその役割を果たすべく、後日を期してこの追記を終わりたく思います。(2022.9.18,10.8,10.16の三輪さん宛メールの内容に基づき再構成。2023.2.24,26追記)