2019年12月30日月曜日

「新調性主義」を巡っての断想(2019.12.30-2020.1.3)

(…)

本当は「「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ」でその射程を示したコンピュータによる音楽作品のMIDIデータ分析と、そのそもそものきっかけとなった「新調性主義」との関連付け(但し両者が最初から本質的に関連していて、「新調性主義」の派性としてMIDIデータ分析が位置づけられるわけではなく、その結びつきには少なからず偶然が関与していて、寧ろそれ故に確認の必要に迫られていると言うべきなのかも知れませんが…)を改めて確認し、整理しようと思って、あれこれ準備を進めてきたのですが、なかなか方針が掴めないでいるうちに、年を越してしまいそうです。

準備の途上で三輪さんの著書『三輪眞弘音楽藝術』所収の「《虹機械》作曲ノート」を改めて読み返して見ると、三輪さんのそれまでの活動との関わりにしても、西洋の伝統的な調性音楽との関わりにしても、そこに全てが出尽くしていて、私が付け加えることなど何もないように感じます。例えば「逆シミュレーション音楽」との繋がりも三輪さん自身の言葉によって、この上もなく明確に語られていて、そこから抽出された「音楽」の定義についてもまた「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」と、この上もなく明確に示されています。

三輪さんは「新調性主義」を、直接には百年前に西洋音楽が置かれた状況に「接続」しようとしているように読めます。私自身の文脈では、ブラームスやマーラーを経て、丁度シェーンベルクやハウアー、スクリャービンやロスラヴェッツの時期ということになるでしょうか(但しお断りしておけば、この中ではハウアーの「作品」についてはそれを聴こうとは私は思いません。一方でロスラヴェッツが理論家としても作曲家としても無視され、死人に鞭打つような仕方で没後も迫害されてきたことは不当であり、彼には単なるスクリャービンのエビゴーネンではない、独立したポジションを与えて然るべきと考えます)。そして、その後の西洋音楽が20世紀前半からのおよそ100年の期間をかけて推し進めてきた「思弁の音響化」ではない、つまり無調や十二音技法でもなく、或いは、私に身近なところではクセナキスのような統計的な音響の制禦でもラッヘンマンのような特殊奏法を駆使した音響作曲法でもない「ありえたかも知れない西洋音楽」として、そうした潮流に対するアルタナティヴを提示することが、100年後の極東でようやく可能になったということで、確かに問題意識としては、「新調性主義」はまさに100年前に遡行するのだと思います。

(ちなみに三輪さんを研究対象とする未来の音楽学者であれば、アメリカの実験音楽との関係を分析して跡づけるのが一つのテーマとなるのでしょう。が、私の関心はそこにはありません。寧ろ、自分がさんざん聴いてきて、今なお聴いている「かつての音楽」が何だったのかを考える方向に向かってしまいます。他人からすればどうでもいいことなのでしょうが、自分ではそこの部分を整理しておきたい、止みがたい欲求があるようです。)

ということで、ここしばらく「新調性主義」に導かれて、それが訣別した「ロマン派の亡霊」(もっとも、当時は少なくとも今そうであるようには亡霊ではなかった訳ですが)の遺産を、ビッグデータに支配された時代状況に相応しく、コンピュータを用いてデータ分析しようとして、あれこれ方法論を探ってみたり、予備的な分析を試行したりする途上で感じたのは以下のことです。

三輪さんの意図とは別に、実際に「新調性主義」で何が保存され、何が捨てられたかを整理してみると、それは100年前ではなく、更に歴史を遡行して、長調・短調という2つの旋法(それはダマスカスの聖イオアンにアトリビュートされた「オクトエコス」には含まれず、ようやくハインリヒ・グラレアヌスが『ドデカコルドン』(1547)で追加したもので、その後ツァルリーノが『ハルモニアの証明』(1571)にて旋法の序列を変更するという経緯を経て優越性を獲得していったという歴史を辿ってみると、進化論的なアナロジーを適用するならば、生き残ったというより、教会旋法の空き間を狙って、まるで残された可能性の方が選択されたかに見えます)と機能和声、十二音平均律の確立という一連の、相互に深く関連づけられた出来事に対するアルタナティヴであるように思われます。そして「新調性主義」の作品、即ち「虹機械」の系列の作品が単旋律であることもまた、分子進化学やその言語学への応用たる言語年代学ならぬ「ありうべき」音楽進化学や音楽年代学的には、西洋音楽の歴史を深く遡行する特徴であるようにも見えてきます。

三輪さんは「逆シミュレーション音楽」に辿り着く手前で、柴田南雄さんの『音楽の骸骨の話』に依拠して、いわば「ありえたかも知れない日本音楽」(=「極東の架空の島の唄」)の可能性を探られたのでしたが、「新調性主義」について改めて思いを巡らせつつ思い浮かんだのは寧ろそのことでした。まさにそれは「極東の架空の島の唄」の「西洋音楽」版(ただし、「逆シミュレーション音楽」を経ている分、よりラディカルですが)であるかのように感じられたのです。そもそも「西洋」が成立する手前まで遡行して、あり得たかも知れない「日の沈む地=黄昏の国(Abendland)の架空の半島の」音楽を仮構したしたものであるかのような。

けれども上記のようなことを掻き集めて「新調性主義」を一つの統合された展望に位置づけようとしてもなかなか纏まりません。従ってここでは、結論を探るのは一旦諦めて、なかなか纏まらない理由の方を考えてみたいと思います。

一つ留意すべきことに思えてならないのは、「新調性主義」における「うたう」側面の欠落です。単旋律であり、ポリフォニーや和声による支え(数字低音を思い浮かべて下さい)抜きに、でもそれはグレゴリオ聖歌のように人間が歌うのではない。「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」という定義の特に「身体を使って発音する」の部分は、まさにそのことを意識して、慎重に言葉が選ばれているように思われます。単旋律であるにも関わらず、人間が歌うのではなく、逆にその旋律は、十二音平均律を前提とした楽器(それは身体の「補綴」或いはパワード・スーツの如き「拡張」と位置づけられるでしょう)によってしか演奏できませんし、それを楽器で演奏するために、これまた長期間にわたって西洋音楽の歴史の中で蓄積されてきたメソッドに基づく訓練によって、限られた者のみが獲得できる高度な技巧の裏付けが求められているのです。そのことを踏まえれば、今聴くことのできる「新調性主義」の作品群は、恰も、件の「架空の年代学」においては「西洋音楽」から分岐が起きてからかなりの時代を経て、独自の進化を遂げた後のものであるという印象が呼び起こされるように思います。

もう一つには、それを「時間の感受のシミュレータ」として眺めたときに「新調性主義」の作品がどのように位置づけられるかという点を私が十分に整理できていないということがあるように思います。勿論、離散力学系を音の系列の生成規則として持つ「新調性主義」の作品もまた、「時間の感受のシミュレータ」として捉えることはできる筈ですが、そうは言ってもそれが例えば後期ロマン派の作品に対してアドルノが行ったような「小説」とのアナロジーが有効な時間の構造を持たないことは明らかです。三輪さんの言葉を借りるならば「脳の拡張」としてのコンピュータが音を選び出すにあたって用いる規則は、後期ロマン派の作品を典型とする「人間的時間」からは遠く、寧ろ自然現象の法則に近いもので、ここでは数理的アプローチに適した別の種類の時間構造が追求されているという印象を強く持ちます。そしてそのことは「逆シミュレーション音楽」を踏まえた時、以下に示すように、幾つかのラディカルな批判的意味合いを持つように思えます。

通常「音楽」においては、或る文化的伝統の中でそれを作るための「規範」が形成され、それに基づいて人間が作品を作ります。その「規範」がどの程度意識化されるかは個別の音楽的伝統に応じて様々ですが、「西洋音楽」では理論化が常に行われてきたことはご存知の通りです。そしてそれでも尚、それはあくまでも「規範」であって「制約」や「法則」ではありません。「どのような規則に従って音が選ばれたか」について自由度があり、それ故、事後的な分析の余地があります。言ってみれば、それは少なくともヴィトゲンシュタインの言う「規則随伴性」が成り立つ領域なのです(但し、「規則随伴性」を狭義に捉えた場合、それは必要条件であって十分条件ではないことに注意する必要があると考えます。それは「ゲーム」と或る種の性質を共有しますが、「ゲーム」そのものではないのです)。一方で「新調性主義」では、「逆シミュレーション音楽」を踏まえ、事前に規則が(例外も含めて)厳密に定められ、その規則に従って音が選ばれるという意味合いにおいて「決定論的」であり、そこには自由度は存在しません(そして「ゲーム」ですらないという点、寧ろ敢て「ゲーム」が成立する余地を排除している点に留意すべきと考えます)。これも「作曲ノート」に書かれていることですが、あるのは初期値の違いだけで、ここでの作曲家の作業は興味深い初期値を探索することになります(そしてその探索は実は不可欠であり、「本質的」でさえあります)。現実問題としても、どの初期値を選択するか、ということ自体についても、或る規則に従って探索をして選択をするといった自動化は可能ですし、実際に三輪さん自身、そうしたことを試みているようです。勿論ここで最終的に「何が興味深いか」を決めるのは、一先ずは人間である作曲者なのですが、AI技術の発達した今日では普通に想像できるように、それについても更に、「もし機械が嗜好を持つようになれば…」というようにアイデアを進めていくことができるでしょう。恐らくその極限には、人工生命による人工生命のための「音楽」があるでしょうが、「新調性主義」はそうした可能性を示唆するラディカリズムを孕んでいるということが言えると思います。

一方で、規則によって生成された音の系列によって実現される音楽的時間の方について言えば、それは既に述べたように、通常の音楽の持つそれとは一見して隔たった異質なものであるように見えます。けれども「新調性主義」においては、五度圏上で音の選択が行われることで十二音平均律における協和音程の原理に基づいた音の系列が実現し、そのことによって聴き手は、調的重心の推移を感じ、調が固定したり変化する、或いは明確化したり曖昧化したりを感じることになり、それによって或る種の雰囲気の変化を感じとり、情動が生じるといったことが起きてしまうように仕組まれてもいます。結果としてそれは、一見したところは異質に感じられても、「人間的時間」が生じる基礎の少なくとも一部を明らかにしているには違いない、少なくとも「新調性主義」においてそうした方向性を三輪さんが志向しているのは明らかです。勿論、その目的を達成するためだけなら、西洋音楽の遺産の上に成り立っている出来合い手段を駆使する方が簡単であり、実際に商業音楽ではそうしたことが行われているわけですが、それでは(事後的に分析されるべき)「魔法」が残ってしまいます。それに対して「新調性主義」では、音の系列の生成規則は分析により発見されるまでもなく明示的ですから、これに何を加えれば、より「人間的時間」に近付くことができるのか、といったアプローチを潜在的に含み持つことになります。しかしその行き着く先は、最悪の場合、特定の情緒を喚起したり、「癒し」(或いは目的によっては「恐怖」や「不安」さえ)をもたらすといった目的を持った「音楽もどき」の自動生成でしょう。そして今や現実にこうしたアプローチが商業ベースで実際に行われていることもまた事実で、そこには「逆シミュレーション音楽」に対して或る種の人々が嗅ぎ付けたのと同じ種類の暴力の危険が存在するでしょう。その意味で「逆シミュレーション音楽」が敢てリスクを冒して剔抉してみせた現実に対する批判的姿勢(それは、超越者に対する儀礼という側面を忘却し、儀礼の社会的機能、即ちそれに参加する人間に対する働きかけといった側面のみが残ったことにより「西洋音楽」が孕むことになった、テクノロジーとしての側面、感情とか情緒といった次元を「操作」し、そのことによって「支配」するという方向性に対する批判でもあります)というものを「新調性主義」が共有しているという見方ができるのではないかと思います。「逆シミュレーション音楽」においてそれは明らかなことですが、この方向性についてなら、「西洋音楽」をどこまで遡行するかについて言えば、やはり100年前ではなく、少なくとも啓蒙主義を背景とし、フランス革命を契機とした音楽の世俗化にまで遡ることになるでしょう。三輪さんによれば、その後「西洋音楽」が経た華々しい発展と進化のプロセスと見えるものは、寧ろ緩慢な「音楽の死」の過程に他ならないことになります。

けれども上に挙げた2つの方向性は(私は敢てそれをやや単純化して誇張して強調しましたが)、いずれにしても「新調性主義」が含み持つ側面であるとはいえ、目指す方向ではないことは「《虹機械》作曲ノート」を読む者にとっては明らかなことではないでしょうか?それは寧ろ、100年前に「西洋音楽」が誤って踏み込んだ進化上の行き止まりによって喪われてしまった可能性を今一度探る試み、新たな「音楽」を産み出す挑戦なのではないでしょうか?そうであるとして、それではどんな可能性が示唆されているのでしょうか?それは単純な(かつての)「人間的時間」の復権ではないにせよ、新たな「人間的時間」を今日の状況の下で探求する試みではないのでしょうか?もしそうであるとしたならば「人間的時間」からは遠く、寧ろ自然現象の法則性に近い、数理的アプローチに適した別の種類の時間構造が採用されていることを(上で述べたような批判的な契機は別として)どのように考えたらいいのでしょうか?

古典的な力学系は準静的過程を扱います。つまり熱力学的平衡が成り立っている系の変化を記述することができます。そしてそれは可逆過程でもあります。けれどもそれは「音楽」で起きる出来事の半分しか扱っていないのではないでしょうか?非常に粗雑なアナロジーですが、伝統的な調性音楽の分析に基づく理論化の一つであるシェンカー理論におけるウアリーニエやウアザッツを思い浮かべてみましょう。音が下降することは「自然」なこと、緊張が解決することは「自然」なことであり、そうした「自然」が規則に反映されているようにも思えます。けれどもそれならば逆に緊張が生じる過程の方はどうでしょうか?どのように終わるかは説明できたとして、ではそもそもなぜ音楽は始まるのでしょうか?理論的には可逆であったとしても、音楽的時間は非可逆過程として扱われるべきではないのでしょうか?更に言えば、不可逆過程のモデルとしても、例えば「振り子」の減衰の物理的過程をモデルにするのは不適切ではないでしょうか?音楽を「時計」のような「機械」のメタファーで捉える試みは広くなされてきましたが、それはバロック期の音楽のメタファーとしてさえ不十分で、ミスリーディングなものではないでしょうか?一方で音楽を「有機体」に喩えることもまた、西洋音楽の歴史の中では行われてきましたが、それもまた複雑系の理論が整備される近年までは非常に粗雑なメタファーでしかなかったように見えます。もし本当に音楽を有機体に擬えるのであれば、メタファーとしてではなく、最低でもそれを実際に散逸過程として扱う必要があるのではないでしょうか?もし音楽が「時間の感受のシミュレータ」であり、そこで「人間的時間」を扱おうとしたならば、生命を、意識を扱う数理的なモデルこそが必要だということにならないでしょうか?

そして、これもまたあくまでも潜在的な可能性に過ぎず、それゆえ「新調性主義」が目指すところではないと思われますが、「新調性主義」は、そうした方向性に対しても、或る種の「マトリックス(母型)」を提示していると言えるように思います。例えば「虹機械」には「七つの照射」という副題を持つ作品がありますが、そこでは力学系に基づく遷移過程が安定状態に陥ってしまうと、それを検知してノイズを発生させて新たな軌道に脱出させるメカニズムが備わっており、それが放射線による突然変異に喩えられています。些か強引な飛躍であることを承知で言えば、それは音楽が始まるためには、外部からの、他者からの働きかけが必要であることを示唆してはいないでしょうか?なぜ人は「うたう」のかについての、生命以前に遡行する萌芽がここにあって「ありうべき音楽」の条件を示しているのではないでしょうか。

ただし、繰り返しになりますが、それを一気に「人間的時間」に短絡させることはできませんし、特にかつての「人間的時間」の復権が目指されているわけではないのは明らかです。そしてそれは「人間的時間」というのが「ロマン派の亡霊」と分ち難く結びついたもので、三輪さんが「人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってはそれはいまのところこの論理的宇宙なのである」と記していることに対応していることを思えば当然のことでしょう。しかしこのことが、先に触れた「新調性主義」における「うたう」ことの欠落および「楽器」による「補綴」「拡張」と裏腹の関係にあり、その背後にはテクノロジーの発達が介在しているように私には思えるのです。レイ・カーツワイルの主張する技術的特異点(シンギュラリティ)は、どうやらすっかり人口に膾炙してしまったようですが、ドイッチュの言う「無限の始まり」を、ダマシオの言う「反逆」を可能にするテクノロジーが、同時に「人間」を「終焉」へと追いやり、現実をますますアミューズメントパーク化する「魔法」でもあるという両義性への認識故に「うたう」ことの欠落が意図的に選択されたものであるという点まで思い至っても、どこからか突如としてそうした「現在」の状況への切迫した「応答」であるという契機が露わになる、その繋ぎ目のところがうまく解きほぐせないでいるという感覚があります。

あえて予感めいたことを幾つか付け加えるならば、まず「うたう」ことの欠落は、しかし「音楽」の不在を意味してはいないということで、最初の方で述べた通り、「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」という「音楽」の定義が揺らぐことはない。つまり「うたう」ことの欠落は実際には「見かけ」に過ぎず、それは音を選ぶ規則のみを見る抽象の結果であるということをまず認識すべきかと思います。「うたう」ことは、要求されている超絶技巧の名人芸的側面に隠れて、こちらも見てとりにくくなっているものの、「身体をつかって発音すること」の側には存在するし、規則を選択し、初期値を選択する作曲者にも、そしてその総体を受け止める聴き手にも存在しているのは間違いなく、寧ろそのことが「音楽」を成立させているのだという消息を確かめておくべきでしょう。同じ事の言い替えになりますが、ここでは意図して「音の選び方の規則」だけを抽象すれば単純な離散力学系で記述できるように仕組まれているのであって、そこだけを切り取っても「音楽」は立ち現れない、そして本当の意味での作曲の過程、演奏の過程、聴取の過程の全てを含むプロセスの総体としての「音楽」を記述しようとしたら、やはり複雑系的な描像にならざるを得ないのではないでしょうか?

「新調性主義」は、単に調性を喪った「西洋音楽」に対するアンチテーゼに留まりません。それは既存の「調的システム」への回帰ではありません。それは「心から心へ」のモデルへの批判でもあり、それが意図するとしないとに関わらず含意する「心」の操作と支配とは異なったものの探求なのであり、それ自体「心」が産み出した独我論的な観念の恣意としての「調性の否定」への批判でもあるに違いありません。三輪さんの活動の全体を見れば、そこにはそもそも「調性」そのものと無縁なシステムを用いた例もあり(例えば「またりさま」)、「西洋音楽」を含む多くの「音楽」が基礎においている協和音程を前提としていないシステムを用いたケース(ガムランが三輪さんの活動の中に占める或る種特権的な地位を思い浮かべ、ガムランが十二音平均律は勿論のこと、五度音程すら基礎としない「例外的」なシステムであることを確認してみましょう)もあることを考えれば、ここでいう「調性」は最大限に広い意味合いで捉えるべきなのではないかと思います。総じて「新調性主義」では、伝統的な「西洋音楽」が恰もその範例であると見做されることによって生じている様々な予断を、謂わば「括弧入れ」すべく、「調性」に纏わる様々な予断を遮断した上で、別の、未知の可能性を探っているように思えます。あえて言うならば、そこで「調性」とは、未知の領域を切り開く際に、稍もすると「心」が暴走したり、迷走したりして恣意的な「規則」を産み出し、剰えそれに支配される「暴力」をもたらしてしまう不毛に陥ることを防ぐために支えとする法則性の謂ではないでしょうか?法則は規則とは異なって、恣意的にでっちあげることができるものではありません。「心」と「心」の間には何もないと考えるのは或る種のヒュブリスであって、「新調性主義」はそうした姿勢を批判しつつ、自分達を支える法則性に目を向けることを促しているように思えるのです。

なかなか纏まらない理由の方を考えて辿り着いたのは上記のような事柄ですが、この上自分が多言を弄するよりも、そちらの方が余程意義あることであるという感覚に従い、「《虹機械》作曲ノート」の末尾で三輪さんが書かれていることを引用し、確認することで、一旦の結びとしたいと思います。

元々の目的であったコンピュータによるデータ分析との関わりは一旦措いても(何しろそちらは単なる私の個人的な事情に基づくものかも知れないですし…)、恐らくは「人文工学」の課題の幾ばくかは、ここに極めて凝縮されて提示されているに違いなく、以下の一節を徹底的に展開することこそが求められていることは確かだと思うのです。「反抗」によって切り開かれた可能性が提示する音楽的時間はどのようなポテンシャルを孕んだものなのか。それは「うたう」ことや他者との「共感」という、「音楽」の基本的な次元とどう関わるのか。ここで私が思い出すのは、2年前に再演されたモノローグ・オペラ『新しい時代』の、あの末尾で起きた「逆転」、全てがそこに賭けられたと言っても良い「逆転」がどのようにして三輪さんによって用意されたかです。「うたう」ことがそこでは最早不可能であり、かつ最後の可能性でもあることが示されていた、そのことと「新調性主義」との関わりを解きほぐすことこそ、同時代の受容者たる私に課せられた課題であるという点を確認しつつ、そのための準備が未だ整っていないことを正直に告白せざるを得ない状況です。
「…「新調性主義」は、音楽においてもまた、徹底的に普遍化し規格化した現代社会の中で、常に唯一の出来事=音楽=美を成立させるための試みであり、西洋音楽の「伝統」という死亡宣告に対するはっきりとした反抗である。十二平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン派の亡霊」が消え去るまでには百年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じたい。」(三輪眞弘「《虹機械》作曲ノート」,『三輪眞弘音楽藝術』所収)
(…)

(2019.12.30 未定稿のまま公開, 2020.1.3加筆)

2019年10月26日土曜日

「三輪眞弘を理解するために:要約表」 説明 (2019.8.15)

[はじめに] 以下のレジュメは、「参考文献要約表:三輪眞弘を理解するために」(https://masahiromiwa-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox.html)の説明を目的として、2019年8月15日に大垣のIAMAS(情報科学芸術大学院大学)で開催された、共同研究「『システム内存在としての世界』についてのアートを媒介とする文理融合的研究」の研究会で行った発表用に用意したものです。要約表は、「参考文献:三輪眞弘を理解するための300冊+2冊」(https://masahiromiwa-yojibee.blogspot.com/p/blog-page.html)の文献を、文献が描き出す「星座=布置」の或るバージョンを提示することにより要約することを目的としたものです。発表の機会を与えて下さった京都大学人文科学研究所の岡田先生および三輪さん、発表を聴いて下さった、共同研究「『システム内存在としての世界』についてのアートを媒介とする文理融合的研究」のメンバーの先生方に感謝します。なお、当日の報告は別途原稿を用意することなく、レジュメに基づき、レジュメを注釈・敷衍するような形で行われました。事後的に原稿を書き起こすことも考えたのですが、実際にやり始めてみると、箇条書きにまとめたものをリニアな文章に置き換える作業にしかならないことがわかったため、レジュメをそのまま公開することにさせて頂きます。(2019.10.27)

目次
1.1.この表は何を目的としているのか?
1.2.この表は何を表しているのか?
1.3.この表は何を意図しているのか?
2.1.幾つかの理論についての注記
2.2.「二分心」についての注記
3.1.三輪さんとの関わり
3.2.議論:新たな語彙の獲得に向けての幾つかのトピック
4.1.これまでの発表への応答
4.2.提唱(まとめに替えて)

1.1. この表は何を目的としているのか?   
    
 ・三輪さんの活動を理解するための主観的なパースペクティブのチャート化(darstellen)。   
 ・まずは自分の立ち位置からの展望を伝えたい。   
 ・オリジナリティはない。他者の声の交響する空間が「私」であることの表示。   
    
 ・意識に関係した様々な理論や学説を一覧   
 ・乱暴ではあるが学問領域・諸学説の横断を試みる。   
 ・諸学説の間に整合性があると考えているわけではない。   
 ・各学問領域について、網羅的でないし、網羅的であることを意図していない。   
 ・三輪さんの活動に応答するための準備作業:議論のきっかけになれば…   
    ⇒「三輪学」の提唱。   
    
1.2. この表は何を表しているのか?   
    
 ・横軸:共時的・階層的・個体発生における発達の段階(右に行くほど高度)   
 ・縦軸:通時的・物語論的・系統発生的な進化の段階(下が古く、上に行くほど新しい)   
    
 基準準拠枠:   
  ・歴史的フレーム:ジェインズ「二分心」(bicameral mind)仮説から  
   カーツワイル「シンギュラリティ(技術的特異点)」(technical singurality)まで。 
   ※過去方向へは更にファインバーグ・マラット『意識の進化的起源』で遡行。 
  ・脳神経科学的なフレーム:ダマシオ『自己が心にやってくる』:  
   原意識/原自己→中核意識/中核自己→延長意識/自伝的自己 
  ・進化論的・発生論的フレーム:  
   系統発生軸:藤井「物語論」:古代歌謡・「フルコト」・「物語」 
   個体発生軸:やまだ「質的心理学」:「うたう」・「ものがたる」の重視 
    (cf. ピアジェの認知機能発達モデル)
  ※チャン『現象学と唯物論的弁証法』  
   ⇒ 構成主義的ロボティクス(喜多村『ロボットは心を持つか』)で参照。 
  ※共時/通時を対立的に捉える立場をとらない。藤井貞和さんの区分は、考古学的・  
   歴史学的編年を廃し、それぞれが重層し、通時が共時に入り込んむ様相を示し、 
   構造に動的過程を読み取ることに重点がある。 
    
1.3. この表は何を意図しているか?   
    
 ・「二分心」以降「シンギュラリティ」以前を1つのエポック:   
  「意識」の時代=「隠れたる神」の時代として扱う。  
  ※ここでの「意識」はジェインズの定義に従う。「延長意識」を備えた「自伝的自己」の水準。  
 ・「意識」に対するアプローチ   
  「自伝的自己」を自明視・普遍化・絶対化せず。神秘化せず、歴史化・自然化するが、消去せず。  
 ・意識についての学(A)。意識にとっての/のための学(B)。   
  人文学との関係:昔はどちらも人文学。今は(A)は人文学から離れつつある。  
   ⇒だが(B)は残る。(A)も、自己参照性・再帰性の構造(cf. 解釈学的循環)が残る。 
 ※ 人文学の絶滅を示しているわけではない。   
    
2.1. 幾つかの理論についての注記   
    
 ・複雑系について   
  カオス力学系やオートポイエティックなシステムのような複雑系は、伝統的な「科学」の対象外。  
   カオス力学系:微分不可・解析的に解けない(「病的」)・決定的だが予測不能(精度の問題)。 
   スケジューリング:効率的なアルゴリズムが原理的に存在せず、現実的な時間での求解不能。 
    →シミュレーションや構成主義的アプローチの有効性(nachkomponierenへ)。
    →新しい数理的「語彙」の必要性。(フラクタル、非線形力学…)
    →量子計算によるブレイクスルーのようなパラダイムチェンジの可能性も。
 ・「シンギュラリティ」をめぐって   
  深層学習はブレイクスルーだが、「シンギュラリティ」は現時点でのAI技術だけでは到達不可能。  
  AIは生物でない。記号接地問題とフレーム問題は遠近法的倒錯の産物。  
   記号接地問題とフレーム問題はアフォーダンス主体としての生物にとっては存在しないが、 
   「意識」を備えた人間は、病理的な状態では直面しうる。(cf. 統合失調症、自閉症…) 
 ・AIの「鬼子性」について   
  AIは定義上「人間を尺度とする」。それゆえ複雑系を扱うことになる。  
   構成主義的な工学的アプローチが有効。(→nachkomponieren) 
   正統的な工学からの懐疑:道具主義的な工学にはなれない(そうなったらAIではない)。 
  ポスト・ヒューマンと言っても所詮は「人間」が尺度→AIの研究は「人文工学」そのもの?  
  「シンギュラリティ」の向こう側ではアントロポモルフィスムは成立しない?→我々は手前にいる。  
    
2.2. 「二分心」についての注記   
    
 ・「二分心」は理論的極限と見做すべき。「自伝的自己」も同様。   
  (プロトタイプ論:連続的で中間にはスペクトルが存在)  
   常に両者の間のゆらぎが存在するが、巨視的には「二分心」から「自伝的自己」へという軌道。   
  ※ ダマシオの階層では「中核意識」はあるが「延長意識」はまだない段階に対応?  
 ・「二分心」に関連する幾つかの学説   
  個体発生軸:フロイトの第2局所論(「エス」・「自我」・「超自我」)⇒「自我」の確立以前?  
   ラカンの鏡像段階論、シェーマL。 
   やまだようこの発達段階論:「うたう」「みる」「とる」の3角形から「ものがたる」へ。 
  系統発生軸:ホロビンや加藤敏の統合失調症についての進化論的考察。  
   レヴィ=ストロース「双分組織は実在するか」(『構造人類学』所収)…双分制は理論的極限。 
   アドルノの『啓蒙の弁証法』におけるオデュッセイア論。 
   藤井貞和の物語的時代区分:「神話紀」「昔話紀」から「フルコト紀」「物語紀」へ。 
   バンヴェニスト=國分功一郎:「中動態」。 
  ※ 「二分心」は左脳・右脳の非対称性・機能分化に注目。バランスの変化として捉える。  
 ・「二分心」は過去についての仮説か?   
  ジェインズは考古学・文献学的検討から、3000年前(B.C.1000)を劃期としている。  
  詩・音楽・憑依・催眠は「二分心」の名残り。「神」の起源は「祖先の霊」。  
  「中動態」も過去の印欧語についてのトピック。  
  ※ 始原状態への一方通行の遡行であってはならない。「意識」を安易に手放してはならない。  
  「ありえるかもしれない心」の仮説と看做しても良い。(進化の別の分岐。Siliconの心…)  
  予測困難な「シンギュラリティ」の先の検討のヒントとしての異なる「心」の様態の一モデル。  
 ・「二分心」と意識を分けるものは何か?:かつて通過した劃期=シンギュラリティの探求。   
  言語の果たす役割:象徴機能。  
  時間性の問題:現在から断絶した(把持では扱いきれない)過去・未来。  
  補綴性:生物としての器官だけでは「意識」の成立には不十分?  
  共進化による非可逆な逓増過程(「冷たい社会」→「熱い社会」)?  
  ※「二分心」が否定されても、「意識」の発達・進化の階層モデル自体は有効。  
    
3.1. 三輪さんとの関わり   
    
 ①「極東の架空の島の唄」:「ありえたかもしれない」、可能世界、仮想性、想像力、創造性。   
 ②メディアと身体:メディアの両義性。メディアの補綴による喪失と獲得。「器官=障碍」。   
  ・誰でもないものの声:声なき者の無念を「うた」うべく、「うた」の不可能性にあって、  
  「うた」にこだわる(beschwören)⇔ 「デジタル部族」としての新たな「身体」の獲得。  
 ③未来への預言:「中部電力芸術宣言」「感情礼賛」「ひとのきえさり」   
 ④逆シミュレーション音楽:それまでの実践の総合としての構成主義的シミュレーション。   
  人間による身体的実践の重視。鳴り響く音響ではなく、身体的な手順の指示。  
   由来(「…という夢を見た。」):物語的存在としての人間。祭祀性や儀礼性の重視。  
  「心から心へ」の拒否。修行的な側面。悟りの拒否。(cf.道元「修証一等」)  
 ※ 「逆シミュレーション音楽」は「AI芸術は不可能である」ことの端的な説明。   
    
3.2. 議論:新たな語彙の獲得に向けての幾つかのトピック   
    
 ・意識の2つの階層は共通認識:「原意識→中核意識」と「中核意識→自伝的意識」(ダマシオ)   
  中核意識の成立についての共通認識はできつつあるが、自伝的意識についてはこれから。  
  中核意識に関する共通認識:再帰的なメカニズムの必要性。  
   ループが閉じることによる「自己」が生成についてはほぼ共通認識。 
  自伝的意識:まだ検討段階 ← 「うたう」の無視・「他者」の不在が原因。  
   意識の中断を乗り越えるには?「今・ここ・私」から離れて「不在/他者」を扱うには? 
   「ありえたかもしれない」を「ものがたる」がどうして可能か? 
   補綴性:自伝的自己の成立の基盤としての文字・言語・道具・記憶媒体 
   文化的進化(「ミーム」「表象の疫学」)のメカニズムは生物学的進化とは異なる。 
 ・意識についての様々な理論の限界 → 「シンギュラリティ」に関する様々な誤解の原因   
  神秘主義の不毛。消去主義、機能主義、認知主義、自然と文化の分離の限界。  
  アフォーダンスの有効性:「意味」の立ち現れ。記号接地問題&フレーム問題の解消。  
  自伝的意識の維持=成立のためには、他者との出会いの反覆(ツェラン)が必要。  
 ・「暗黙知」へのアプローチ:「わざ言語」は分析の対象に過ぎず、分析の道具たりえない。   
  ⇒ 身体への記憶(手続き的記憶)の構成メカニズムの問題として捉えるべき。  
 ・分類・記述ではなく、仕組みを考えるための語彙が必要。   
   ⇒ ex. 「構造」:群論の適用。「複雑系」のための数理的道具は?  
 ・意味:数理は意味と独立。意味を取り戻すのは「意識」のための/にとっての学でないとできない。   
 ・「ブリコラージュ」(cf. nachkomponieren):最先端の科学理論の領域でも…。   
    
4.1. これまでの発表への応答   
    
 ・岡田暁生先生「「話したい人」と「見せたい人」と「やってみたい人」と
   ―人文工学としてのアートの可能性を考える」(2019.4.7)へ
  「人文工学」の定義:beschwörenに到達するために、darstellenを通じてnachkomponierenする。  
  やまだの「うたう」「みる」「とる」の三角形との対比は?  
   うたう~beschwören/ みる~darstellen/とる~nachkomponieren 
   ずれに注目することでdarstellenの裏側、nachkomponierenが孕む危険が浮かび上がる。 
 ・瀬戸口明久先生「ビッグデータ入門」(2019.6.14)へ   
  データに埋没することは、「意識」の時代=「隠れたる神」時代の「宿命」ではないか?  
   観測の問題。認識=観測も対象への働きかけであり透明であり得ない。 
  プライヴァシーの問題:現実の法体系は「有形物」「主体」モデルベースでまだ動いている。  
   簡単に「主体性」を手放すことはできない。⇒「私はどこまで私かに」ついての再検討。 
    範囲の見直しの方向:「アフォーダンス」(ギブソン)。「補綴性」(クラーク)。
    再定義の方向:意識の発生機構としての「再帰性」。オートポイエーシス的「閉鎖性」。
    
4.2. 提唱(まとめに替えて)   
    
 「人文学」への提唱   
  (A)「意識にとっての/のための学」として:「科学」的なアプローチが原理的に困難  
   意味を扱う学。可能世界・物語性⇒創造性・新しさ。 
   「他者論」:科学には(「意識」を備えた主体としての)「他者」は存在しない。 
   生物学的基盤・制約を共有する存在への共感:種間倫理。 
   主客対立以前・無意識・自然への回帰ではない「意識」の宿命の引き受け。 
   「反逆」(ダマシオ)としての「無限のはじまり」(ドイッチュ)。 
   文化的進化過程の逓増性による暴走の危険に対する「賢明な破局論」(ドゥピュイ)。 
   「シンギュラリティ」への漸近に伴い、寧ろ主体性の問題はクリティカルに。 
    
  (B)「意識についての学」のレフェリーとして:「科学」的なアプローチの限界  
   AIをまともに扱おうと思えば、人文系のアプローチは必須。 
   統計的発想では扱えない領域へのアプローチ… ex. 創造性・天才。 
   ・モーツァルトを模倣することか可能でも、もう一人のモーツァルトにはなれない。 
   beschwörenに到達するために、darstellenを通じてnachkomponierenする。 
   仮説とシミュレーションによる検証による相対主義の克服。⇒「人文工学」へ 
    
  (C)beschwören:「他者」の歓待・迎接としての  
   「私はどこまで私かに」ついての再定義:アフォーダンスと再帰性がポイント。 
   「他者性」の拡大への対応:AI、ポストヒューマン、地球外生命… 
    「人間」概念の外部。生物学的基盤すら共有しない存在。性なき・死なき存在。
    ⇒ 「人工物」の存在論。「情報」の存在論。
   「他者」に対する想像力は「人文学」の領分。「他者のためのデザイン」(久保田晃弘)。 
    
 フォルマント兄弟への提唱:呪言、囃子言葉…(非意味的次元への注目。メリスマ、シラビック…)   
  ・「AIはbeschwörenできるのか」。  
  ・「うた」が「声」に先行する、あるいは「声」は常に/既に「うた」である。  
  ・停止した祭祀のヴァーチャルな復活(cf.三輪=藤井=リッチズ「ひとのきえさり」)  
    
 ToDo① 「個別学」(Mathesis singularis:ロラン・バルト cf.ライプニッツ「普遍学」)   
  ・一回性のもの、統計的には例外、測定・数値化が(さしあたり)困難なものが対象。  
  ・「ブリコラージュ」。個別的なもののための領域横断的な総動員。⇒或る種の総合性。  
    
 ToDo② 「うたう」「ものがたる」の時間的構造の解明。   
  ・時の逆流:エントロピーの縮小。秩序形成。ゆらぎの役割。超越。創造性。他者との出会い。  
  ・速度、同期/非同期に注目→ハードウェアの素材差は本質的(ダマシオ:Siliconの心の否定)  
  ・同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点(ブサーキ『脳のリズム』)  
  ・「ステップ推論」(津田)、津田=スマリヤンの推論の階層と自意識の発生モデル。  
    
 最後にもう一度「三輪学」:   
  ・「二分心」以降「シンギュラリティ」以前の「意識」の時代=「隠れたる神」の時代をカバー。  
  ・「音楽芸術」の最もラディカルな定義。  
  ・「AI芸術の不可能性」。  
  ・nachkomponierenを通じた、beschwörenの回復。  
  ・「人文工学」の拠点。  


2019年9月1日日曜日

「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ

私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和さんの物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手ですので、私にとっては時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(「発生論的」に、あるいは「構成論的」に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を始めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられます。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

音楽の構造を心理的な含意を持つ図式で捉える試み、或いは例えば詩学や物語論(ナラトロジー)の成果を応用して音楽の構造を捉える試みは、20世紀の音楽学の領域で試みられてきています。他方では、20世紀の言語学の大きな成果である生成文法理論を音楽の構造に適用するような試みも為されてきました。ただし管見では、それらはあくまでも音楽学者の分析の方法論として提案・実践されたものです。それが作品に対する卓越した理解を背景にした直観によって適用された場合には大きな成果に繋がる点を認めるに吝かでなくとも、そうした手法を、いわば天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に対象の側が持っている数理的な構造を取り出すような、いわばボトムアップのアプローチの方が、ここでの方法論としては適切に思われるのです。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップに音楽を眺めてみようということになります。

冒頭の「時の逆流」に関連した側面のみに限定するならば、そのような分析を通して、恐らくは、なんらかの「特異点」のような構造が、音楽を三輪さんの定義する意味での「音楽」たらしめるものとして浮かび上がってくるような筋道が想定できますが、仮説と呼べるようなものすらない現時点で先に進むことは慎むべきと考え、これは今後に期することにし、ここでは最後に、手持ちのリソースを用いて先ずは感触を掴むためといったレベルのささやかな試み、仮説を立てる前段階の、一先ずは事象を眺めてみようといったレベルのアプローチの一つのサンプルを以下に示して終わりたいと思います。

データからのボトムアップの分析のとっかかりとして、例えば全音階的な和声法ベースで作曲された(20世紀的な意味合いでのいわゆる「現代音楽」ではないという意味で)伝統的な音楽の時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにするようなことが考えられると思います。もっとも楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。

そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、「音楽」をそうした「規範」に捉われることなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、前了解的に仮定されてしまっている「機能」を一旦括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることには一定の価値があるように思えます。

そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

その具体的な実践については(あまりに初歩的なものである上に、未だに最初の試行錯誤の段階にあって、ここでの議論に寄与するような何かが見えてきた訳ではないので)ここでは割愛させて頂きますが、個人的な能力や時間の制約の限界は措くとすれば、音楽的な時間に対するアプローチの仕方として、MIDIファイルを始めとしたデータを入力として、プログラムを用いた「アルゴリズミックな」分析を行うことが、いつの日か、音楽を聴く「主体」と「音楽」の間に生じているプロセスの記述を通じて、「音楽」を創り、演奏し、聴取する、高度な心性を備えた「人間」の構造を解明することに、翻って「音楽的時間」の解明に最終的には繋がると夢想することはできないものかと思わずにはいられません。それはまた副産物的に、「深層学習」などの技術的ブレイクスルーを背景に喧しく論じられている「AI芸術」なるものの現時点での水準での不可能性の説明にも資することになると思われます。

ただし現時点でやるべきは、手当たり次第の展望なきデータ分析ではなく、ここでこれまで書いてきた「思いつき」を仮説と呼べるレベルにするための理論的な枠組みの整備であるという指摘については、素直にその通りであるということを認めざるを得ません。また現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域をまずは開拓して頂けたら、更にその先で「合成生物学」に対応するであろう「人文工学」へと歩みを進めて頂けたらというように願っているのです。(2019.9.1公開、9.7加筆)

2019年8月4日日曜日

落穂拾い:「人工知能と音楽の未来」の準備のための対話より(2018.3)

公開にあたっての注記:
 以下の文章は2018年3月にローム・シアターで行われた「音楽と人工知能の未来」の対談の準備の段階での三輪さんとのメールでの「対話」のうち、「音楽と人工知能の未来」の本編では十分に展開しきれなかったテーマに関する検討の部分を、若干の編集をした上で公開するものです。「音楽と人工知能の未来」の落穂拾いという位置づけになりますが、その後「三輪眞弘を理解するための要約表」を作成するにあたっては、ここで拾い上げた視点も取り込まれたこともあり、その背景についての補足としての意味もあると考え、既に1年半前の内容ではありますが、公開することにしました。オリジナルが対話であり、トピックを決めてアイデアを展開していく目的であったことから、以下の文章も起承転結を欠いた、時折の中断を含む間歇的な意識の運動の軌跡の如きものであることについては予めお詫びします。何か、軽い読み物のようなものとして、そこから議論のネタを取り出すような使い方をして頂ければ公開の目的は達せられたことになるかと思います。(2019.8.4)
少し間をおいて続きがあったので、<後半>として、同様に若干の編集の上、公開します。なお、脈絡の無さは措くとして、前提を端折り過ぎてわかりにくい部分については、今後、折を見て補筆するかも知れません。(2019.8.5) 


目次
<前半>
1.「聴衆が機械だったら…」
2.久保田晃弘「他者のためのデザイン」の周辺
補説1:パスキネッリ「機械学習時代における異常な大脳化」
3.ポスト・ヒューマンからのAI回顧
4.神経科学と精神分析学
5.ポスト・ヒューマン、AIと「性」
6.「性」と「創造性」「無意識」との関わり
7.異なる性の在り方についての思考実験(1)
8.異なる性の在り方についての思考実験(2)
9.異なる性の在り方についての思考実験(3)
10.AIは「性」を持つか
補説2:サイボーグ
11.ポスト・ヒューマンにおける「性」
補説3.いくつかの文献にみるAIと「性」、「二分心」の未来
12.ポストヒューマンと音楽
13.他者性
<後半>
14.改めて「意識」について
15. その他、認知考古学、進化心理学、現象学と心の理論など…
16.ピンカーの「聴覚的チーズケーキ」から「逆シミュレーション音楽」へ
補説4. ゲームAIの「知能」と人間の「知性」


<前半>

1.「聴衆が機械だったら…」

と『洪水』誌の三輪眞弘特集への寄稿で書いたのを記憶しています。その後も何度か触れているかも知れません。「聴く」を「評価する」とずらせば、今流行のAIの話になる。今流行の言い方をすれば、音楽コンクール(のど自慢でも…)の審査員は、AIに職を奪われるか?といったところですか…

作る方の「もどき」については、Google Magentaの話で、これ単独では面白くない、というか、それは創作のプロセスの一部を抽象して取り出しているに過ぎない。アルゴリズミック・コンポジションで行われている膨大な試行錯誤と取捨選択、アルゴリズムの外側に纏わる「音楽」を構成するもろもろはそこにはない。

ただ、その「一部」には、「聴く」を「評価する」とずらした場合と共通の側面があって、だから同じAIのネタになりうる。(作曲のプロセスの中には「聴く」が含まれているからだと思います。作曲・演奏・聴取の記号論的三分法は抽象に過ぎない。)結局、ずらしたらこぼれおちるものがあるのは確実で、それは言語化するのは難しいけど、ある程度突きとめることはできると考えます。

実はこれは古典的なAIの時にも起きたことです。深層学習じゃなく、エキスパートシステムみたいな単純きわまりないものだったけれど、知性というのがそのメカニズムに「還元」できるかどうかというのが議論になって、議論ではAI派は決して負けないけれど、現実にはそれは到底知性とは呼べない、みたいな風景が繰り返されていましたが、音楽を「聴く」というのがどういうことかを考えるに、それをどうずらすか、その時、聴き手を機械を置く、という思考実験はそれなりの意義を持つように思います。

機械とならべて、異なる知性を持った動物たち、オウム・インコやイルカ・クジラ、ゾウやサル(いやイヌ、ネコ、カラス、ハト、ウマのような身近な動物でもいいのですが)などを考えるのもありだと思いますが、彼らはヒトにとって「動物」「(地球の)生物」、同じ進化の樹の異なる枝の末端にいる存在であって、共通する基盤を持っているわけで、そこが「機械」とは全く異なるので、「機械」を浮かび上がらせることもできる。

更にバイオコンピュータ、遺伝子操作、サイボーグのようなものを考え出したら、機械と生物、機械と人間との境界は曖昧になってくる。今後は何が「機械」なのかの側が問われることになるでしょう。


2.久保田晃弘「他者のためのデザイン」の周辺

接点自体はたくさんありますが、情報物理、バイオテクノロジーとか、複雑系とかアルゴリズムそのものじゃなく、ことAIとなると実はあまり言及がないことに気づきました。辛うじて、「人間からの離脱」の章の「計算アニミズムと人工知能」という節で主題的に言及されています。でも、これは出発点としては良さそうです。この章の前段のパーソナルメディア、ヴァーチャルメディアの側面は思い切り捨象して、人工知能から、ポストヒューマン、地球外生命と展開する他者論、そして「他者のためのデザイン」に繋がる側面をクローズアップすると、三輪さんのこれまでの活動とも色々と接点を見いだせそうだし、前回の議論にも接続できる。

ただし相手がAIだとしたら、もっと限定した方がよさそうです。そこで人工知能から、ポストヒューマン、地球外生命と展開する他者論から「他者のためのデザイン」に繋がる側面という流れのうち、地球外生命を除外してみては、と思いました。そのかわりに参照されているホーコン・ファステの「ポスト人間中心デザイン」を持ってくる。ただし、読んでみたのですが、これはあんまり良くない。訳が悪いのかも知れませんが、危うい感じがします。どこがいけないと感じるかを整理することで議論のきっかけにできるかも知れません。

実は久保田さんの主張についても、その大筋には賛成なのですが、細かいところでは気になる点が結構あります。その気になる点が最も多いのが実はここでの他者へのアプローチだったのでした。その辺を展開してみたら三輪さんの活動と繋げて考えることができそうです。久保田さんの主張の流れである「計算アニミズムと人工知能→他者としてのポスト・ヒューマン→他者のためのデザイン」から「聴衆が機械だったら…」といった論点に架橋するのも自然にできます。

ちなみに久保田/ファステの「他者のための/ポスト人間中心デザイン」で一番ひっかかるのは、「シミュレーション」についてです。ここから、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」や、「ありえたかもしれない」音楽に繋がり、他方では、原発災害のような「想定外」のカタストロフィーに対する「デザイン」の問題に展開できると思うのです。そしてAIもまた、「想定外」のカタストロフィーをもたらしうる「他者」の一つとして考えることができる。AlphaGOのような存在が既に出現していて、はたして同じ「ゲーム」をしているのか、といった話を以前しましたが、それとも繋がるでしょう。

それはそうと、「ポスト人間にもはや音楽/芸術はあり得ない」と必ずしも私は思っているわけではありませんが、例えば久保田さんやファステの言う「他者のためのデザイン」が音楽/芸術とどう繋がるのか、実際のところよくわからないでいます。恐らくは一つには他者というのを拡げすぎていて、現時点では、その具体的な様相を扱いかねるからではないかと言う気がしているからだと思います。どのような「他者」を相手にすることになるにせよ、それはそんなに一気にはいかないだろうから、少なくともあと四半世紀程度は待ちながら考えることでもう少し具体的な話ができるのだろうか、というように感じます。

聴衆が機械だったら、という想定も、例えば現時点でのロボットなり機械学習の判別機を想定するのは面白くありません。現時点での機械学習が仮令自分で特徴を抽出できたとしても、所詮は確率密度の推定でしかないという限界は残ります。学習する際に、何を食わせたかがわかっていれば、何が出てくるかは予想がつく。結局、フレームが決まった内側でのゲームに過ぎません。これは何回か指摘していると思いますが、深層学習は大きなブレイクスルーだけど、それでシンギュラリティが起きるわけじゃない。まだ全然足らないのです。

どこまで行ったら聴衆が機械だったらという設定が興味深くなるのか、というのは、(現実のAIの発展の方向とそれが一致した方向かどうかには関係なく)意味がある問いだと思いますが。

あともう一つは人間の側も変わるという点。そちらに対してなら、その変化に応じて音楽/芸術がどうなっていくのかという議論は成立すると思います。これはAIの話とは独立に久保田さんがずっと言っているようです。私もスケジューラのような実用システムをお客様に使って頂いてきた経験から、実感としてあるのですが、機械に対した時の人間の側の適応・調整の能力ってすごいんですよね。

逆にAIとかいうと凄く期待した挙句、使い物にならないという評価になる。最近よく思うのが、翻訳システムに対する評価の変化で、翻訳の精度からすれば今のレベルって、かつてのAIブームの時に比べて特に高いわけじゃないです。でも、例えばGoogle翻訳が如何に間違っていても、みんなわりと平気で使っている。ひとつにはAIだと思ってないかも知れません。少なくともあんまり期待していない。

これに関して、AIを機械に置きかえれば、例えばリッチズさんの機械との合奏ってどういう気持ちなんだろうか、と思います。いやいや、「赤ずきんちゃん伴奏器」や「東の唄」が既にそうでした。人間の側の能力の凄味が寧ろ伝わってくる。では、もっと機械の演奏が上手になって、せめて不気味の谷にさしかかったらどうなるのでしょう。誰でもいいけど、例えばホロヴィッツのように弾けて、でも全く間違えないロボットが出来たら?

でも、これもホロヴィッツの演奏という人間が尺度になっている。間違えないだけなら今でもできるでしょう。例えばクセナキスのピアノ曲のMIDIシーケンスの結果を聴いたことがあります。これは人間が入力したんだろうけれど、多分それはこの場合は本質的じゃない。それはクセナキスの作品の作り方、コンセプトの問題です。モーツァルトとは違う。

ではクセナキスの作品こそ、ポスト人間のための音楽なのでしょうか?クセナキスが夢想した超人としてのポスト人間のための音楽かも知れませんが、でも音を出しているのがMIDIシーケンサーだとしたら、人間の私が聴かない限り、音楽はそこには存在しないでしょう。一方、例えば可聴域が異なる、基本的なクロック数が違う存在にとってはそれは知覚できないかも知れない。

ということで音楽/芸術について語るとしたら、あくまでも人間の延長線上にある何者かを想定せざると得ないと思います。でも例えば、ペットロボットや介護ロボットと一緒に音楽を聴くというシチュエーションはあるかも知れない。これが事例として面白いかどうかは措くとして、ポスト人間を考えるときにも、何らかのかたちで人間との繋がりが残った状況じゃないと、議論が成立しないんじゃないかというように思います。


補説1:パスキネッリ「機械学習時代における異常な大脳化」

ここで久保田さんが「計算アニミズム」に関連して引用していたパスキネッリの論文について簡単にまとめておきます。

私が理解した限り、冒頭に銘として掲げられているチューリングの知性についての発言について、何か面白いことが書いてあるんじゃないかという期待は、裏切られます。チューリングテストも出てくるけど、話の枕みたいなもの。ヘーゲル現象学の「主と奴隷」の弁証法を持ち出したのはちょっと面白そうだけど、これも通り道。シモンドンはかろうじて、集団的知性という点でハイエクに繋がっていく。寧ろバックボーンはハイエク的な経済システムとのアナロジーのようですね。単純化して言えば、ハイエクは計画経済、設計主義的合理主義を批判して、自由経済を進化論的合理主義と見做して、それを支持した。人間の理性というのを信じずに、経済システム自身が創発する秩序が、長い目で見れば正しい、つまり進化論的な合理性をもっているという発想なわけです。

で、AIもそれと同じであると。AIは寧ろ、集団的知性と考えるべきじゃないか。OK。ハイエクのアナロジーも認めたとして、落ちは何かと言えば、AIは、ファシズムや人種差別的偏見のバイアスにも適応してしまう危険があるから、社会正義や人権、教育、福祉のために役に立つような使い方をしなきゃいけない、と言う話になる。資本主義が大脳化の過程であるという主張もそうした文脈で言われているわけです。

結局ここではAIは人間の道具に過ぎない。その前提で、資本主義により、悪用されてしまうことへの警鐘というのが多分、メインの主張ではないかと思います。ものすごく好意的に読んであげれば、ハイエクの自由主義というのは、イギリス的なコモン・ローの尊重であって、システム全体をある主義原則で制御する程、人間は賢くないんだから、ミクロな調整原則のようなものをもって試行錯誤していくしかないという考え方なので、経済システムに対してそうであるように、AIに対しても同じやり方をすべきなんだ、ということなのだろうと思います。

でも、現実論としては、この前マイクロソフトのAIエージェントがファシズムや人種主義のバイアスのかかった調整を誰かにされたという事件がありました(パスキネッリも言及している)が、それに対して、具体的に何をしようと言うかといえば、結局、社会正義や人権、教育、福祉のためになる方向にバイアスをかけようという話になる。計画による制御か自律調整かという話じゃないわけです。

だから論文としての立てつけとしては、ちょっと問題があるように思えますが、ここから話題を取り出すことはできると思います。

例えば、集団的知性というのを考えるとき、上記のような枠組みなら、色々な個人や集団が、AIに学習をさせようとしている。AIは結果的に複数的な存在なわけです。今度はある種の技術進化論みたいなことなりますが、そうした個人や集団の間での技術競争について、どのAIが淘汰され、どのAIが優勢種になるか、という進化論的な見方ができるでしょう。その中にはファシストのAIもあればラシストのAIもある、ISのような組織とかオウムのような宗教団体のAIもある。それらとは異なるバイアスで学習させられたAIもある。どのAIが生存競争を勝つのかは、結局、人間の側の価値観の競争の結果に過ぎません。ただしAIが人間に影響を与えるという側面もあるだろうから、現実には人間とAIからなる社会集団の中の生存競争ということになろうかと思います。(久保田さんの文章だと、寧ろ先行する節の「ハイブリッドな生態系」についての話に近いと思います。)

AIを学習させるのは人間で、その限りでAIは人間の僕なんですが、僕が主と逆転する可能性というのはあるでしょう。それとは別に、これに嶋津好生さんがジェインズの「二分心」を参照して提示した「神である人間の声を聴くAI」というのを重ねあわせたら?別に二分心が成立していなくても、学習を設計した人間の価値観に従って、他者に働きかけていくAIというのは成り立ちます。

かくしてシンギュラリティなど全然関係ない、すでに現在進行しつつある状況に対する社会理論のようなものですが、こちらはこちらで放っておいていい問題じゃないかも知れないということについては異論はない。

さて、これを踏まえて久保田さんのこの論文についてのコメントを見てみると、どうなるか?

大脳化じゃなく脱脳化であるというのは、結局AIをどう捉えるかという観点に依存しています。まぜっかえすようですが、「道具」は人間には似ていない。AIを持ち出さなくても、いや、持ち出さない方がより一層、「ハイブリッドな生態系」のハイブリッドの度合いは大きくなるという見方もあり得るのではないか。

結局「他者性」という言葉の内実の問題ということかも知れません。ちょっと乱暴ですが、人間と異質な知性、の異質性が強調されるとそれが人間にとって「知性」であるかどうかはどうでも良くなる。そうなると、単に制御可能かどうかあたりが判断ポイントになって、なにもAIだけが問題じゃない、ということにならないか?

「ハイブリッドな生態系」に含まれる他者には、昔ながらの天災(大地震や巨大な台風、、、)もあれば、原子力発電所事故のような人災も含まれうる。AIはそのうちの一つに過ぎない。必ずしも、もっとも優先度が高い一つとは限らないのでは、という気がします。

パスキネッリの論文について、コメントを述べましたが、主張に対してはそうであるとして、この論文、話の枕の部分に展開できていない興味深い論点があるので、そちらにも触れておきます。

・銘の一つ目は、知的に見えるためには、その力のよってきたるものが不可視である必要がある、というサイモン・シェーファーの主張。

こっちは、計算アニミズムへの補助線だとすぐにわかります。説明できたら神秘はなくなる、知的であることが神秘であるためには、説明できてはならない、ということの言い替えであるともとれる。

・銘の二つ目は、チューリングの発言。こっちが問題で、機械がミスをしないのであれば、知的ではありえない。

まず、見える見えないじゃないことに注意すべきです。一方ではチューリング・テストがあって、他方にはチューリング・マシンがあるからわかりにくいけど、パスキネッリが断定しているほど両者は異なっていると考える必要はないと私には思えます。

間違いについてパスキネッリがゲーデルの不完全性定理を持ち出すのはおかしいし、一方でチューリング・マシンは万能なので、知的な機械も原理的に可能であるという話とある機械が知的に見えるかどうかの判定というのは別の話で、全然矛盾してない。

チューリングが機械の可謬性について言ったとき、適応的なメカニズム(ニューラルネットのようなものを思い浮かべれば良い)を想定していました。適応的なメカニズムにいきなり大学生並みのものを期待してはいけないとも言っていますが、これは適応的な機械は学習をして適応していくのだから、当たり前のことです。

間違えないマシンは知的ではない、というのは、適応のメカニズムが知的であることには必要であって、例えば単なる検索で正解を返せるようなルールベースの仕組みは知的じゃない、ということです。だから可謬性が知的に「見えるか」どうかじゃなく、知的で「あるか」どうかに結びつくのです。

チューリングの議論のポイントは、知性をそのようにおいたとき、適応的な機械が正しいかどうかの判定基準は、文脈依存であって、客観的には決まらず、必ずどういうサンプルを与え、何に適応させたかを基準に図るしかないというところから、知的であることの判断基準は、結局人間の側にしかないことをもって、チューリングテストが導かれる、という点にあると思います。

誤解はないと思いますが、データベースにある答は間違いなく返し、なければごまかす回答を返すシステムについては、文脈に独立に、どういうデータがあるかで、客観的に判定が可能ということになるが、そもそもそういう判定ができるシステムというのは適応的じゃないから、知的とはいわない。

適応的なシステムは汎用的です(この点は、万能チューリングマシンと同じ)。だけれどもそれがゆえに、個別のシステムについては、それが知的(なメカニズムを備えている)かどうかは、それがどのような学習履歴を持っているかという情報なしには判定できない、ということだと思います。

万葉学者に数学の問題を出して解けなかったからといって知的でないとは言えない。乱暴な喩えをすれば、そういうことです。知性というのは、そのシステムの「行動の文脈」に応じて獲得される。従って、例えばイルカが人間と比べてより知的かどうかという比較はあんまり意味がない。両者の進化の道筋も、個体レベルの環境も違い過ぎるから。

それでもなお、自動機械のようにいつも決まった反応するのではなく、(もしかしたら結果は「失敗」かもしれなくても)環境に適応的な答を返すメカニズムを持っているものが「知的」であるということだと思います。

そういう意味では、知性というのは初めから社会的(環境との関わりで形成されるもの)であるとは言えると思います。ただしそれは個体のレベルでも言えるから、知性が社会的という話と社会的な集合知とを短絡させるのは飛躍があると思います。(個体の中のメカニズムが再帰的に集合知のような構造を持っているという話はまた別です。)

だからルールベースであたかも知的であるかのように見せるために人を騙すためにありとあらゆる工夫をこらした機械がチューリングテストの帰結というのは、少なくともチューリングの思考のラインからは出てこない筈です。知的であるためには、適応的なメカニズムが必要で、適応的なメカニズムは間違いを犯しうる。知的「である」という事は間違いを犯しうるということになります。チューリングはあくまでも「どんなメカニズムが必要か」を考えていたのだと思います。アニミズムとかと全然関係ありません。

パスキネッリは上のようなことが多分わかっていないのではないか?と読めてしまいます。そう考えると、シェーファーとチューリングを並べたのも誤解の為せるわざじゃないかという気がしてしまいます。

ただし、だからといってアニミズムが成り立たないわけじゃありません。そういう意味ではチューリングテストは(これまでのコンテストその他を見る限り)正しく運用されなかったということなのかも知れない。ELIZAと対話した人間の反応は、作者のワイゼンバウムすら驚かせた。人間は、非常に簡単な(でも、とても巧妙に作られてうまく動いたそうです。もっと複雑なことをしてもELIZAほどはうまく動かなかったらしい。)仕掛であっても、勝手に誤解する凄まじい「適応的なメカニズム」を持っているということだと思います。

なお、人間の側が機械に心を投射してしまうという事態は、チューリング・テストの発想では、少なくとも周辺的な事情であったと思います。ちなみにELIZAに関してだけ言うと、見えないことは条件じゃなかったようです。というのも、種明かしをされても、ELIZAとの対話を望む人も居たらしいので。逆に、そんな単純な機械仕掛けに、心が宿るように見えるという事態に神秘を見出すといった向きさえありうるでしょう。

また、チューリング・テストとの比較に、パスキネッリはヘーゲルの「主と僕(奴隷)の弁証法」を持ち出しますが、ここの部分も違和感がある。

ヘーゲルの議論は、寧ろ今日の心理学的モデルでいけば、発達の過程上、自己のモデルよりも他者のモデルの構築が先行するという点に関わるのではないかと思います。(これはヘーゲル自身の文脈に忠実な読解じゃありませんが。)

フッサールの『デカルト的省察』の共同主観性論とかにもある間違いだけれど、順番として、自己が最初に確立済みで先に存在していて、その上で、その自己が、他者に自己と同じものを「発見する」というのは、事後的に振り返ることがもたらす誤謬だろうということです。そうではなくて、自分にとって不随意なものと随意なもの(後者には鏡に映る自分も含まれる)の区別から、他者がまず認識され、境界が出来上がっていく。つまり、まず外界を因果的に把握できる段階があり、次に外界に自分と同じような心的はたらきをもつ他者の存在を認める段階が来て、しかる後に、心的はたらきをもつ自身が他者と同様に外界のなかに位置づけられるという順番のはずです。で、自己を外界の中に位置づけることができたとき延長意識、自伝的自己の前提がようやく成立する。

これ自体は、どこかAIに意識を持たせるときに役に立つ見方かも知れませんが、こうしたアスペクトの話をチューリングテストと対比させることにどういう意味があるのかちょっと良くわからないし、そこに見出されるという違いにどういう意味を持たせられるのかもよくわからない。もしかしたらヘーゲルのいう「主観的精神」から「客観的精神」(国家とか社会集団レベルに相当)への移行のアナロジーで、AIを社会的知能の方向に持っていきたかったのかも知れないけど、AIの進化、発達の文脈ならまだしも、チューリングテストはあくまでも判定基準の話なので、かなり文脈が異なるこの2つを比較することに、まず抵抗を感じます。

パスキネッリはAIを社会的存在にしたいんだろうけど、Webを介して、人間とは全く異なる仕方で外部にアクセスできるという話だけじゃ、社会的存在というのは無理なんじゃないか。少なくともハイエクの対象は、中に複数の人間が、複数の社会集団が存在し、経済的交換が行われているのに対して、チューリングテストでテストされるAIは、そういう内部構造を持っていない。適応システムといっても、その実質は、それがどういう構造を持ち、メカニズムを持つかによるので、こんな雑な話をしてもしょうがない。

最初からハイエクを持ってきたらよかったのかと言えば、社会的知性を価格決定のシステムに見出せるという話と、AIの適応の目標は人間次第なので気を付けよう、というのは直接には別の話。更に、冒頭のシェーファーとチューリングの銘の話はどうなったんでしょうか?と思わず聞いてみたくなってしまいます。

あまりに作者の頭が良過ぎてついていけないのか、単なる「知の欺瞞」なのか、どっちなんだろう、と思ってしまいます。パスキネッリという人は、経済システムも、AIシステムも、それを具体的に「触ってみた」経験がないんじゃないだろうかということすら考えてしまいます。議論に「身体性」が感じられない。

ただし上記のチューリングテストについてのコメントは、チューリング自身の考えたことがどうであったか、ということを基準にしていません。

チューリング自身がどう考えていたかを確認しようと思えば、原論文(これは有名だし、ネットにも転がっています。試訳もあって日本語でも読めることは読めるようです。)関連する論文、更には講義録のようなものも確認する必要があるでしょうし、チューリングテストにも幾つかのバージョンがあるようですから、彼の主張の細部が少しずつ変わっていることはあるでしょう。が、思想史をやるわけではないので、その点での正確さや妥当性は、勘弁頂くことにしたいです。私の言ったようなことは、彼が残したドキュメントのどこにもないかも知れませんが、そうであったとしても、私が展開した内容が、ここでの議論で意味を喪うことはないと考えます。

寧ろ、パスキネッリのような参照の文脈であれば、チューリングの主張をどのように読むのが良いのか、に対する私なりの回答ととっていただければと思います。残念ながら、パスキネッリはチューリングの論文の細部にとらわれて、彼が採用すべき切り口を見失っているように思えるのです。


3.ポスト・ヒューマンからのAI回顧

久保田/ファステではもう「ポスト人間」が普通に想定されているし、世間でもシンギュラリティという言葉が流通しつつあるようですし、AlphaGOの衝撃は大きかったのだな、と感じます。ただ、当のファステさんや久保田さん自身はまだ「ポスト人間」ではないのかどうかは興味あるところです。私は幾つかの文章で、自分が、シンギュラリティの手前で有限の生命が尽きてしまうが故に個というものに拘る世代なのだ、という自覚を記してきました。どこに線を引くかの問題でしょうが、私は自分が「ポスト人間」じゃないと割と自覚的に思っています。なので、ファステさんや久保田さんの文章を読むと、一体どういう立場なんだろう、ということは感じます。

定義上、「ポスト人間」が他者であるということの論理的な帰結は、こちら側は「ポスト人間」じゃないということになるのでしょうが、でも共役可能性、交通の可能性がない程異質な他者、久保田さんの引いている、レムの『天の声』のような存在、あるいは『ソラリス』の「海」でもいいですが、それらが相手だとすると、「ポスト人間」のためのデザインというのは実は成り立っていない。それが失敗する物語なわけです。

一方AIというのは「人間」を尺度とした規定なので、こちらは定義の裡に共役可能性、交通の可能性が含まれていると考えます。ただ逆に、そうならそうで、今度はシンギュラリティの向こう側の「ポスト人間」は最早AIじゃないということになりかねない。

実はここには陥穽があって、それから逃れるためには人間の側も変わってゆくという観点を組み込んでやる必要があると考えます。AIは寧ろ、どこまでが「人間」なのかという境界の問いを裏側に持っているように思うのです。そしてそれがゆえにAIの問題は紛糾しがちになる。それでも人間の側が変わるという視点は必要で、久保田さんはそれを、人間とポスト人間の「共進化」という言葉できちんとおさえていると思います。

例えば『万葉集』の叙景の成立の問題は、ジュリアン・ジェインズばりの意識の考古学なのではということを言いましたが、意識の存在すら人間の種に随伴するものではなく、言語の使用、文字の使用、スティグレールの「第三次過去把持」を可能にするメディアの相関物であるとするなら、「ポスト人間」に対峙する人間の側ももはや同じではない。見方によっては、共進化するのは「ポスト人間」の(かなり異なる)2つの種というように見做すべきなのかも知れません。(ここのところ、三輪さんの文章におけるデジタルな「種族」「部族」にまつわる規定にリンクさせることができるでしょう。)

一方で、ドイッチュの『無限の始まり』のAIに関連した第7章「人工創造力」はかなり粗視的ではあるけれど、非常に本質的な批判、かつてのAIでも起きて、今のAIでも起きているけれど、今度は見分けがつきにくくなっているがゆえに、今のAIが過大評価されがちなポイントを突いた、本質的な批判を含んでいると思います。具体的な話を展開するうえでは、もうちょっと細部に立ち入る必要があるでしょうが、チューリングテストも題材にとられていて、コミュニケーション対象(=他者)としてのAI(=聴衆が機械だったら)のためのデザイン(久保田さん)=作曲(三輪さん)という設定にとって、丁度良い足場を提供してくれるのではないでしょうか?

他方、ゲーム開発者の三宅陽一郎さんの『人工知能のための哲学塾』という本を読んだのは、対象となっている哲学の方にはそれなりの前提知識を持っているから、それらをどのように切り取っているか、ゲーム(いわゆる碁・将棋のようなAIの目標となった知的ゲームじゃなく、RPGのようなゲームの仮想エージェントがここでの問題です)のプログラミングにどう持ち込もうとしているのかを確認するためでしたが、想定通りというべきか、驚くようなことは書いてなくて、内容的にはほとんど刺激になるようなことはなかったのですが、私がエンジニアとしてやってきた/やっていることを振り返るきっかけにはなりました。

私はそれなりの目論見あって、現象学とかプロセス哲学の研究からAIに関わるエンジニアになった(筈な)のですが、実際にはそんなに簡単には繋げられませんでした。寧ろ、基礎的な教養としてやった論理学とか分析哲学の方が直接的には役にたったけれど、当時のAIは研究や思弁のレベルですら、現象学的な立場からすれば、寧ろ批判の対象であった訳です。(色々な面で物議を醸したドレイファスの『人工知能には何ができないか』がその代表でした)。これも昔の話ですが、会社勤めを始めた直後に、哲学の学生であった頃の先輩の紹介(先輩は、自分はよくわかんないし、あんまり関心もないけど、お前はきっと興味があるだろうといって紹介してくれたのですが)で、人文系の人がAIを議論するような集まりが東大であったのですが、当時はやりのエキスパートシステムがおよそ知能とはかけ離れたものであることは感覚的には誰もがわかっていて、でも、何が違うのか、何が足りないのかを正確に言い当てることが誰もできなかったのに、ひどくがっかりしたのを今でも思い出します。関心の対象としては共有できても、プログラムに何が足りなくて、何を加えればいいのかといった具体的なレベルで話をするという雰囲気じゃないし、実際のところ煙を巻くようなレトリックばかりが繁茂して、実態の方はさっぱりと思えてならない。人工知能に関する外側からの議論は、思弁的なアイデアとしては使える部分もあると思いますが、所詮それはエンジニアリングじゃなくて、「使えない」。

その後哲学とAIといえば、ワイゼンバウム(ELIZAの作者)にしても、ウィノグラード(SHRDLUの作者)にしてもそうですが、AIの研究が社会にもらたす影響の倫理的な側面に専ら関心が移ってしまって、ドレイファスがそうであったように、AIの「中身」に対する議論というのは停滞してしまったように感じられました。

三宅さんの発想は、実は四半世紀前にほぼ全て出揃っていた。研究レベルでは既に全てやりつくされていたといっていいかも知れません。違うなと思うのは、ゲームプログラミングで仮想エージェントに主観性を持たせるには、という議論が抵抗なく受け止められ、ワークショップのようなものが開かれるような時代になったのだということですか。かつての自分と引き比べずにはいられませんでした。深層学習の成功もあって、AIは再び市民権を得つつある。お掃除ロボットはもとを糺せばブルックスの昆虫型ロボットの商用化でしょうか。(30年かかりましたが。)三宅さんの本が物語るように「AIと哲学」のような議論のフレームも、ようやく市民権を得られるようになったのかも知れない。それよりも自分と同じ、産業レベルのエンジニアリングとAIが、哲学が結びつく時代になったという事の方が、大きいかもしれません。

他方、神経科学系からのAIについてのコメントには重要と私が考えるのがが幾つかあります。例えばダマシオ『意識の脳、無意識の脳(邦題)』もAIについての言及を含みます。彼はソマティックな側面を重視するから、シリコンには心は宿らないと考えます。ポストヒューマン、エイリアンとしての知性一般という立場に立つことは、彼の見解の前提自体を変えていることになる。彼はあくまでの「人間」の心を問題にし、それを尺度にAIを論じているのであって、その限りでは彼の見解は正しいと私は考えます。それからフリーマン、そしてソームズ/ターンブルあたりのコメントには一聴の価値があると考えます。


4.神経科学と精神分析学

フリーマンとソームズ/ターンブルの名前を挙げましたが、前者は神経科学、後者は精神分析の領域です。神経科学と精神分析学との関わりについては、別に時間をとってお話すべきでしょうが、ここではごくおおざっぱにお話しします。

事実だけ述べれば、神経科学と精神分析学を架橋しようという試みは幾つか存在するようで、そうした文献のうちの少なくとも一つは私の手元にあります。ごく簡単に言えば、フロイトの主張はあの時代のあの社会で有効性を持つ部分が多いし、ラカンの主張については、「知の欺瞞」で槍玉に挙がった姿勢が災いしている部分があろうかと思います。

他方で、例えば鬱病や統合失調症に対して薬物で化学的に対処するというのが可能になってきている以上、精神分析の重要性が相対的に下がっているのは仕方ないでしょう。なんといっても理論じゃなく、臨床で治るかどうかが第一義的な問題のはずですから。

従って「精神分析がお伽噺だったか」どうかは衰退とは別の要因が大きいと思います。勿論、精神科の医療もビジネスですから、米国精神医学会(APA)による診断基準「DSM」ベースの精神薬理学・大脳生理学的アプローチが幅を利かせている今日、精神分析のようなものはことさら「お伽噺」扱いされていて、それを患者の立場に近い世間が信じているような面もあるかも知れません。

でも現実の臨床でも精神療法や心理カウンセリングなどの精神病理学・臨床心理学的アプローチは依然として用いられているし、精神分析も使われているところでは使われていると言えるのではないでしょうか?そして理論的な水準でも「お伽噺」かどうかは、まだわからないというのが本当のところではないか。それは意識の謎がまだ解明されたわけじゃないのと一緒です。仮説はあるけれど、解明されたわけではない。そうであるならば、意識の病理のような高レベルの現象や過程に対して確実なことはまだ言えないのではないか。私の知る限り神経科学と精神分析学の架橋は、まだ始まったばかりで、ごく初歩的な段階に過ぎません。恐らくはフロイトやラカンの理論のうちの一部は、生き残る(ただ、理論的には粗雑すぎてほとんど原型を留めない可能性は高いですが)のではないでしょうか。喩えて言えば、現代の最先端の物理学の理論が古代ギリシアにも発想としてあったといったような感じに近いのではないかと想像します。


5.ポスト・ヒューマン、AIと「性」

ポスト・ヒューマンやAIを考えるにあたり、久保田さんのように、それを人間とは異質なもの、「他者」として捉える立場をとるにしても、出発点においてはAIもポスト・ヒューマンも、一旦は「人間を尺度とする」アントロポモルフィスムを含みもつものであること、そしてそれを完全に手を切ることの困難を考えたとき、そして、人間の心の領域を扱うにあたって精神分析学のようなアプローチがあることを考えたとき、ポスト・ヒューマンやAIの議論において「性」の問題が正面きって扱われることがないように思えるのは不思議な感じがします。(ピグマリオンからロボットへの流れについては、寧ろ、そのアントロポモルフィスムそのものなので、ここで取り上げたい方向性とは異なります。)

そこで一旦、心理的な側面を排して、進化のシステムとして「性」を考えてみます。システムとしての有性生殖というのは個体が死んで交替していくことを前提としているわけです。逆に無性生殖の場合には、アイデンティティというものの定義が、有性生殖の場合と全く異なるでしょう。性の問題はもちろん、進化という壮大な仕掛けを通じて、死の問題に直結しているわけです。

それは変化をもたらすための複製の仕組みと抽象化することができるでしょう。個体の側は、その複製を行うよう(本能として)仕向けられる。複製が済んだら用済みになる、というのが進化の仕掛けから見た説明になります。ただ、人間は個体の経験をメディアを介して記録・継承することで、そこからは既に逸脱してしまっている。DNAによる生物学的進化とミームの進化は戦略が異なります。これはこれで別途論じるべきでしょうが、ここでは取り上げません。

進化を考えたときに、個体の経験や記憶が捨てられてしまう有性生殖と世代交代によるアプローチは、少なくともものすごく非効率な上に非常にスピードが遅い。にも関わらず、なぜそれが選択されたかといえば、非効率な上に非常にスピードが遅いことが結果的にメリットが大きかったから、ということになるのだと思います。ラマルク的な進化は、速度が速い一方で、リスクも大きいのかも知れません。並列に動作する個体の数がものすごく多ければ、スピードは補えるわけですし。

進化の戦略自体幾つかあって、それ自体進化・淘汰されてきたという考え方があるようです。例えばDNAによる複製の仕組みも、それより前にRNAによる仕組みがあって、それを押しのけて主流になったという考え方があります。

メディアを介したミームの進化は実は戦略として危ういのかも知れません。特異点に達する前に何かの理由で立ちいかなくなる可能性だってありますよね。(古典的なところで核戦争ですが、最近だと細菌兵器のようなバイオ系の方が危ないかも知れませんね。兵器じゃなくても、非常に強い耐性を持った病原菌の蔓延とか。)

なお、スピードというのは実際には相対的です。人間は次の世代の複製まで20年くらい。病原菌の複製のメカニズムは単純(性はない)ですが、そのかわり世代交代のスピードは非常に早いし、個体数も猛烈に多い。個体の寿命が短ければ、個体の経験が捨てられてもどうということもありません。非効率は無視できてしまう。

身体性なしのAIに対する懐疑というのは寧ろ古典的な議論ということになろうかと思います。かつてはそれは記号の操作としての知性に対して、リアルワールドへの接地、意味や理解の問題として立てたられたのですが、今日なら、タンパク質対シリコン、補綴性やサイボーグの問題、更には、ヴァーチャルリアリティにおける人格(身体とか環境は仮想化されていて、古典的な「バスタブの中の脳」の焼き直しと見ることができる)、更には人格をアップロードする、コピーするといった発想の前提となっている、(デジタル)情報=人格という発想に対する疑念という形をとっているように思われます。

ただ、ここでは生殖の問題はごっそり落ちています。AIが知能を問題にし、かつ人工物には生殖の問題はないから暗黙の裡に捨象されてしまった結果に見えます。(ちなみに遺伝的アルゴリズムとかのような抽象のレベルでは、有性生殖というのは取り扱われています。でもそれはデジタルな情報の変換とか複製の次元の問題だからこのでの議論とは、一先ず別ではないかと考えます。)

勿論、生殖医療、クローンといったバイオテクノロジーよりの話題はあると思いますが、こちらはAIとは別に、「人間」の側の倫理的なバリアの方が先に来て、人間の「ポスト人間」への進化の方向性として考えるのに、様々なレベルでの制約が存在するように思えます。

それと関係あるかどうかわかりませんが、例えばカーツワイルとかの場合、寧ろ個体の寿命を伸ばすことの方に発想がいっている。進化というのを考えたときに、個体の経験や記憶が捨てられてしまう有性生殖と世代交代によるアプローチはものすごく非効率な上に非常にスピードが遅いのを時間的なスケールと個体の数のスケールでカバーしているわけです。だからシステム上ではラマルク主義的な発想での進化が採用されたりとかするし、人工知能は死なないから、学習の成果が無駄にならず、スピードが加速できる(これは実際にはそんなに自明じゃないと思うけど)といったような、ムーアの法則的な進化のスピードアップを求めるシンギュラリティ論者にとっては、「性」というのは使い途のないものなのかも知れません。「性」というものは或る種、人間の(寧ろヒトの)生物学的な基盤に付き纏うしがらみであって、不可避の拘束じゃなく、寧ろそこから離れていくものとして考えられているように思えるのです。

というわけで、これは寧ろ事実確認に属することだと思うのですが、「性」の問題は、専らポストつきじゃない「人間」の側の問題という位置づけになっているように思えます。「ポスト人間」という視点で議論するにしても、AIとしての、他者としての「ポスト人間」じゃなくて、現在の「人間」の(制度の社会の、あるいは生物学的基盤の)先にあるものとしての「ポスト人間」の側の話題だと思います。


6.「性」と「創造性」「無意識」との関わり

三輪さんの作品においても仮構された由来の側には、神話的な構造として、「性」は持ち込まれています。「愛の賛歌」という借用されたタイトルもまたしかり。それは、逆シミュレーション的な枠組みでは、アルゴリズムがマップされる、「人間」の側の文脈であると、まずは言えると思います。聴き手が機械だとして、その機械は有性生殖をしないとしたら、どうなるのか?例えば「バルジファル」第2幕やら「トリスタンとイゾルデ」の「音楽」というのはそうした機械のものでは多分ない。

更に、話題をずらしてしまうかも知れませんが、「性」の話と密接に関連しつつも、とりあえず分離して論じることができるテーマとして、一方に「無意識」があり、他方に「創造性」というのがあると思います。

フロイトはリビドーという言葉で、性的なエネルギーへの極端な還元をした廉で批判されたわけです。ポストならぬ「人間」の場合には「性」と密接に関連するのは寧ろ事実に属することであるとして、「ポスト人間」を考えたとき、AIを考えたとき、無意識なり創造性なり関連して、「性」をどのように捉えることが適切なのか、という問いの立て方があるのではと私には思えるのです。もう一つ付け加えれば、フロイトが逸脱としてあつかった、例えばLGBTのようなものはどう考えたらいいのか。性と生殖は、あるところから先は分離されていて、むしろその分離こそが生物一般から「人間」を隔てるものという見方もあるでしょう。(これについては、ソームズ/ターンブルに人間の初期発生過程での性の分化に関する最新の知見の紹介がある。)

或いは「性」じゃなくて「死」はどうなんだろう、と思います。同様に、一方に「無意識」があり、他方に「創造性」というという構図は成り立つ。こちらなら、個体の経験や記憶が生殖においては遺伝されないで捨てられてしまうという非効率に対して、技術が、メディアが関わって、という展開の中に、AIを位置づけることはできる。個人的にこちらは関心があるからかもしれないけれど、見通しをつけられそうな気がします。

「性」の問題は、人間の無意識と意識を問題にし、その延長で「音楽」を考える場合には、無視できないファクターであるけれど、AIをシリコン上にインプリメントされた存在と捉えたとき、それを、「ポスト人間」、あるいは異星生物体として捉えたとき、「性」がないことはどうなのか?あるいは「性」というのを、系の複製の際に意味を持つ或る種の属性であると一般化してみたらどうなのか?

「ポスト人間」やAIを考えたとき、無意識なり創造性なりに関連して「性」をどのように捉えることが適切なのかという問いの立て方があると上で述べましたが、実は 性/欲望(動?)に直結するメカニズムとして無意識なり創造性なりを捉えるというより、寧ろ、一旦切り離されたメカニズムとして私は考えています。例えばよく言われるネットを介した集合知みたいなものが、個体とは違うレベルで生成されるという枠組みで欲望(動?)としての「性」を考えるのは、不可能ではないにしても難しい。少なくとも心理的なレベルで考えない方が良さそうです。

集合知の場合、末端のエージェントはある意味、その知と同じ階層にはいない。レベルが違うわけです。中国人の部屋じゃないけれど、その場合、末端のエージェントである人間は集合知とは無関係です。寧ろ、集合知の主体が想定できたとして、その主体の力学系が記述できたとして、それが人間でいう「欲求」を持っているように見える、ということがあったとしても、それは観察する人間の認識の仕方の問題かも知れない。或る種のアミニズムとか生気論のようなもので、自分の理解できる仕方で、集合知の主体の振る舞いを理解しているだけかも知れません。

「性」というのは人間の生物学的な基盤に非常に固く結びついているから、人間から離れるとして、他の動物ならまだしも、機械とか集合知のようなものに持っていくのは難しい。「性」というものを人間や人間を含む(地球の)生物というコンテキストから切り離したとき、何をもって「性」と呼ぶのかが曖昧になる。(必ずしも性的なものとは限らない)欲求とか無意識とか創造性なら、まだアナロジーの余地があると思うのですが。

勿論、自己複製をする機械がいて、その機械の複製の仕方として、生物の「性」に相当するメカニズムが存在するとしたら、そこには(当然ですが)アナロジーが成り立つ余地が辛うじて存在すると言えると思います。ただ、これなら機械を持ってこなくても、例えば昆虫でも構わない。「性/欲望(動?)に直結するメカニズム」はそこにあるでしょう。でも今度は、「無意識」なり「創造性」なりについて論じることができるとは思えない。要するに、「無意識」なり「創造性」なりが性/欲望(動?)に直結するのは今のところ知られている限りでは、人間のみの事情だと考えられる。ただし、そうであってみれば「ポスト人間にもはや音楽/芸術はあり得ない」ような印象と、「無意識」なり「創造性」なりが性/欲望(動?)に直結するという事情の間に本質的な関係が存在する可能性の方は、逆に大いにあるのかも知れません。

一方で、「無意識なり創造性なりが性/欲望(動?)に直結する」ことと音楽/芸術の在り方に本質的な関係があるとして、それは、その「性」は(例えば昆虫のようには)生殖に直結したものではないからという可能性は多いにありそうです。でも、生殖から分離された性的欲望というのは一体何なのか。それをAIにインプリメントしようという話はあまり聞きませんが、これもまた、ドイッチュ風に言えば、わからなければインプリメントできないし、インプリメントできたらわかったということなのかも知れない。機械にインプリメントができたら、その機械は音楽を欲するのか、芸術を求めるのか。論より証拠で実験してみるというのはありかも知れません。それこそシミュレーションしてみるべきなのかも知れません。ただこれは、つまるところ人間が何故音楽を、芸術を求めるのか、という話であって、AIとか「ポスト人間」の話と関係あるのかどうか、良くわかりませんが。


7.異なる性の在り方についての思考実験(1)

思考実験ですが、単性生殖でも1世代に人間並みの時間があって、自伝的意識を備えた存在であったとしたらどうでしょうか?この場合、他者に対する性的な欲動のようなものはないのでしょうが、死についての了解については変わらないと思います。

家族や社会のありようはどう変わるのでしょうか?性的な側面を除外した他者との関わりがどう違うのかは良くわからないですが、「無意識」や「想像力」についても概ね同じ、意識の発生、自伝的な自己の成立要件も同じ、そして音楽/芸術を必要とするという点でも同じ、という可能性は本当にないのでしょうか?

繰り返しになりますが、この場合「パルジファル」の第2幕や「トリスタンとイゾルデ」のような作品は生まれないでしょう。でも「フーガの技法」とか、「音楽の捧げもの」はどうでしょうか?宗教についても、教義にはかなりの違いが出てくるでしょう。ただ、仏教における諸行無常とか一切皆苦といった認識は同じように出てくるのではないか。古事記をはじめとする神話の類は、まったく構造を異にする(何しろ、イザナギ・イザナミがもうだめですからね。)でしょうが、でも保存される神話もあるかも知れません。どれが残るのかをシミュレートするのはそれなりに意味がありそうに思えるのですが…万葉集に相聞がない、というのは想像しがたいですが、挽歌は存在しえるでしょう。叙景歌もやはり存在しうるように思います。

残念ながら、これは今すぐシミュレートはできないでしょうが、思考実験としてはありなのではないでしょうか?性なき他者としての「ポスト人間」とのインタフェースのデザインの問題です。逆に「性」というのが具体的にどこに効いているのかが見えてくるかも知れません。既にどこかで誰かがやっているかも知れませんが…


8.異なる性の在り方についての思考実験(2)

もう少し細かい議論をしてみます。

A.まず有性生殖の定義

一般には減数分裂・接合を行うか、つまり遺伝子の交換をするかどうかというところに線引きがされているようです。ということは、(言葉からすると違和感があるけれど)性の種類数は、有性生殖とは独立ということになります。性が1種類であっても、一般には減数分裂・接合を行えば有性生殖ということになる。また、進化の要件である多様性の確保と、性が2種類以上であることも少なくとも理論上は関係がないことになります。またウィルスのように生物じゃないものでも、条件によってDNAの交換が起きることがあるらしく、これは定義上(生物じゃないので)有性生殖とは言わないらしいけど、進化の観点、多様性の確保と言う観点では、事実上、有性生殖と同じと考えていいように思います。

B.個体という観点から見ると、雌雄異体かどうか

動物はほとんど雌雄異体のようですが、植物は雌雄同株の方が寧ろ多数派だと思います。この場合自家受精というのが可能です。性が2種類以上あったとしても、生殖のために他者を探す必要はない。また動物の場合には、性の転換をするものがあります。一方で、雌雄同体の動物でも生殖のためには2つの個体が必要ということになれば、雌雄同体かどうかは、行動という観点からみたらあまり意味がなく、生殖のためには他者を探さないとならない。

C.配偶という観点からは、自家不和合性を持つかどうかとか

仮に雌雄同体であったとしても、自家不和合性があれば、生殖にあたっては、他の個体が必要です。植物は動きませんから、他者を探すわけじゃないですが、生殖という観点からは雌雄異株と変わらないことになる。

進化という観点からは、まず多様性が確保される必要があるわけですから、まず減数分裂・接合をしない無性生殖だけというのは不利でしょう。古細菌・真正細菌の主な増殖メカニズムはこっち、真核生物は有性生殖が普通のようです。多様性からすれば、我々も含む真核生物が圧倒的に多様なのはそのせいです。ただし、当然のことながら有性生殖はコストが大きい。まずスピードの点では分裂の方が早いのは当然です。多様性の確保という観点からすると性の区別は必須ではない(減数分裂・接合が要件である)のですが、性の区別がなくても生殖には他者が必要とされることがある(植物の自家不和合性とか雌雄同体や性転換をする動物でも生殖には2個の個体が必要なケース)ことは留意されるべきでしょう。

進化における順序としては植物においても雌雄異株というのが一番新しいものであるらしいこと、動物の場合は、結果的にほとんど性別を持ち、雌雄別体であることは、それが進化の上で何等かのメリットがあるからだと考えるべきでしょう。進化の上で有性生殖が有利である理由、性の区別があるものが多い理由というのは様々な仮説があるようですが、定説に至っているものはなさそうです。

あと、ちょっとレベルは違いますが、性の区別があって有性生殖の場合でも、いわゆる単為生殖というのはある。人間の場合にはほとんどありえないようですが、神話とかではちょくちょく登場するし、マリアの処女懐胎はそれが事実なら、単為生殖の一例となるようです。想像をたくましくするまでもなく、既存の生物で既にこれだけの多様性がありますから、人間の性のあり方というのはその多様性のうちの1つの点に過ぎないということを踏まえる必要があると思います。

上記に基づいて改めて先の思考実験を取り上げてみると、あまりに前提が粗雑で乱暴であると感じられます。単性生殖といっても、まださまざまなパラメータが考えられるでしょうから。1世代に人間並みの時間があって、 自伝的意識を備えた存在たりうるためには、無性生殖ではだめ、そもそも事の始まりから無性生殖なら、細菌や古細菌より複雑にはなれなかった筈ですし。従って生物学的には有性生殖だけれども、雌雄同体であって自家不和合性がない場合か、単為生殖のような場合を考えるかということになるでしょう。


9.異なる性の在り方についての思考実験(3)

とはいうものの、先の思考実験の条件は、全く適当に設定したというわけではありません。上記のように一般化して補足したものの、人間は(例外的にアンドロギュノスになることはありますが、通常は)雌雄同体じゃないし、だから自家不和合性は議論しても仕方ない。すると単為生殖あたりがポスト人間を考える際の「現実的な」線ということになりそうです。

もっと現実的になって、現在取沙汰されている選択肢を考慮すれば、という観点で行くならば、性の区別は保ったまま、クローン技術の少し先で、減数分裂・接合を人為的に行うあたりが一番現実的のようです。そして「性なき自己」がポスト人間(あくまで地球上生命として)にあり得るのか、つまり、未来の人間が地球上生命としてのしがらみを断ち切る時が来るのか、立場の問題かも知れません。

繰り返しになりますが、カーツワイルのようなシンギュラリタリアンはクローン技術とか個体の寿命を伸ばす技術を人間の延長としてのポスト人間について考えますから、テクノロジーの力で、もともとの生物学的基盤とは異なったやり方が接ぎ木されることをもって「しがらみを断ち切る」と言えるかも知れません。

が、性の区別なく、減数分裂・接合を行うというのが、生物学的にも可能であるならば、それは「地球上生命」が持つ、別の選択肢に過ぎないという見方もあり得るでしょう。

では、「個体」の情報をダウンロードし、コピーして別のメディアにアップロードするような発想は?別にデジタル的なものを持ち込まなくても、臓器移植の極限のようなものとして可能になると考える向きもあるようです。(その先にはサイボーグがあるということになるでしょうか。)

確かにそれは物理的にはできるのかも知れませんが、移植された主観にとっては、それはカタストロフィックな出来事じゃないかという気がしてならない。仮に免疫系とかそういう生理的な側面が全てクリアできたとしても、「私」にとって、別の身体に乗り移るというのは不可能事、私と身体はそのように分離することはできないのではないかという気がしてなりません。(グレッグ・イーガンの「エキストラ」参照。)

前に取上げた、神経科学と精神分析の接点にあるいは繋がっていくのかも知れませんが、乱暴な言い方をすれば、そのような「私」の移し替えは「精神的」には錯乱を、人格の崩壊をもたらすことにしかならないのではという気がしてならないのです。「バスタブの中の脳」というのは、空想の、抽象の産物なのではなかろうか、ということです。

これはかなり強い主張で、サイボーグはあるところから先は不可能で、補綴性というのは、その線の手前を指し示す、と言っているに等しい。(ちなみにこれは、一から意識を備えたロボットを作ることとは別の問題と考えます。その場合には身体の素材の違いはあれ、初めからロボットの意識というのはその異なる身体の基盤の上で構成されていくことになるわけですから。)

他方で個体の寿命を延ばすことの方も、もう少し細かく見てやる必要があるでしょう。老化を防ぐことと寿命を延ばすことさえイコールじゃない。何等かのエラーで成長が止まってしまうケース、逆に老化が早く進むケースがあるようですが、個体の死は、少なくとも論理的には別の話です。

老化にはテロメラーゼという酵素が関わっていることはわかっているようですが、それが寿命の延長に使えるとは限らない。簡単な話、それは癌の増殖のメカニズムと表裏一体なわけです。寿命を多少伸ばすことは可能になっても、それを際限なく続けることができる保障などありませんし、成長が止まったら不死かといえば、勿論そんなことはありません。幾らでも死を引き起こすトラブルはありえます。(そもそもほとんどの人間は、そうした意味合いでの天寿は全うしておらず、それを妨げる要因は、それこそ無数にある。)

更に、そのレベルで何か可能になったとして、脳という器官が適切に機能し続けることが可能かどうかはまた別の話です。最後はまたしても精神医学的な話に行きつくかも知れません。

そんなこともあって、思考実験では個体の有限性を残しました。クローンはDNAは同じかも知れませんが、「私」とは違った存在です。私の経験も記憶も引継ぎません。そして私の経験とか知識は、テクノロジーによって、第三次過去把持を可能にするメディアによって、別の仕方で記録され、(それが価値あるものであるならば)他の個体と交換され、引き継がれるというのは暗黙の前提にしています。


10.AIは「性」を持つか

AIは「性」を持つかについては、生殖技術が発展した挙句に、生物学的な性から完全に独立してしまった時に、セクシュアリティというのがどのようなものになるのか、の展望によると思います。

カーツワイルも、この点に触れていないではありませんが、話の本筋じゃなさそうです。生殖から切り離されて、でも性的な欲動の方は残るとしたら、それはいわば機能を喪失する、使い道のない欲動になるわけですが、新たな機能を獲得するのでしょうか。

では、その時「神の領域」は、やはり、なくなるのでしょうか?違うものに代わるのでしょうか?性的欲動が、延長意識の裏側というか下側(無意識の領域)から出てくるという構造が変わらなければ、「他者性」はなくならないというようにも考えられます。(創造性についても同じことが言えそうですが。)であれば「神の領域」は残ることになる。ただそれが同じ価値を持ち続けるかは別です。だから残っても違うものになる可能性はあるでしょう。

その一方で、AIが創造性や良心を持つ段階に達するのはまだ先の話だが、それに近づく過程では統合失調症のような「精神」を持つAIが現れるかもしれないというのはそんなに突飛な想定ではないだろう。

更に言えば、彼ら(=AI)は性を持たない。少なくとも今のところ。彼らの「繁殖」の仕方というのはどういうものでしょうか?単性生殖の思考実験は実際のところ、「彼ら」のことを意識してのことでした。今のところは、それに近い。現在の状態ごとコピーされる。リセットされ初期化されてもう一度学習が始まる。いずれにしても有性生殖というのは非効率に思えますが、でも、彼らが自分で繁殖の仕方を見つけるようになったらわかりません。生物の進化の歴史を繰り返すのかもしれない。単性生殖で、進化を止めたまま増殖することを選択するグループもあれば、何かのはずみで、有性生殖に近い増殖の仕方をするグループが出現し、それらが多様性を獲得し、複雑性も獲得して、自律的に進化するかも知れない。

こういう話だと、有性生殖が意味を持つ閾値のようなものを考えるのに、古細菌や細菌が持っている情報量と、AIの情報量を比較するとかいう話になるかも知れません。計算リソースの制限がなければ(これは自明ではないです。彼らは今のところは電気がなければ生きて行けないわけですし)、真核生物に相当するAIが出てきて、進化の爆発が起きる、といったことも考えられるのかも知れません。

でも、一旦現時点とその近傍に戻りましょう。彼らは性を持たない。彼らの側から見たら、人間の性的欲動というのは理解の外、ということになる。よしんば無意識のような領域を備えるように彼らがなって、自伝的自己・延長意識を備えて、創造性を、良心すら獲得したとしても、性は欠けているかも知れない。性が欠ければ、自伝的意識があっても、セックスはない。セクシュアリティはない。彼らの文学(ビット文学)には相聞はない。(いや確かに、レムの「ビット文学の歴史」には、そういうジャンルはないですね…)こう考えると、「性」こそがAIと人間とを隔てる「他者性」ということにもなりそうです。

ロボットに恋する、恋するロボット、というのは話題としては良く出てくる。ロボットに恋するのは、いわはピュグマリオン以来の古典的な話。AIになってもそれは有効で(だから計算アニミズム)、人間はロボットに自分の構造を容易に投射してしまう。チューリングテストで恰も恋するロボットを演ずるエージェントは作れるかも知れませんが、性のないAIには恋するというのは原理的にありえない。AIがセクシュアリティを「理解」することはない。この非対称性こそが(唯一じゃないにしても)、AIの他者性である、と。

でも、AIを神として信仰することはできるが、AIが神を信仰することはないというのはどうでしょうか?AIにとって他者は存在しない?いや例えば人間は他者じゃないのか?人間が、動物や植物や、山や海のようなものにすら神を見出す、アニミズムはAIにとって無縁なのか?人間の側の計算アニミズムじゃなく、計算によってAIの側にアニミズムが生じるかどうかを問うべきじゃないのか?

かくして、AIにとって芸術が必要か、AIが音楽の聴衆の位置に来れるかという問題にようやく戻って来れたような気がします。


補説2.サイボーグ

私はサイボーグはあるところから先は不可能と書いて、補綴性をその境界の手前を指示する言葉であると言いました。言い替えれば、補綴的な人工器官・臓器に限れば(それをなおサイボーグと呼ぶなら)サイボーグは可能であるということです。

一部は現在のテクノロジーで既に実現している。人工肺・人工心臓・人工透析装置・義手・義足・補聴器・人工音声合成装置などが直ちに思い浮かびます。あるいは最近実用化に近づきつつあるパワードスーツのようなものを含めていいかも知れません。フォルマント兄弟のMIDIアコーディオンも含まれるでしょう。

これらの特徴の一つは、それらが非侵襲的である点です。詳しくは知りませんが、侵襲的な人工器官で実用化されているものは非常に限定的ではないかと思います。ぱっと浮かぶのはペースメーカーくらい。これは確かに侵襲的だけれど、機能的には補綴性が非常に強い。(非侵襲的で、代替的な人工心臓と対照をなすように思います。)

私が否定しているのは、いわゆるSF的なイメージのサイボーグで、その特徴は侵襲性にあると言ってよい。寧ろこちらの領域では、再生医療のようなアプローチの方がまだ現実的ではないかと思います。それも人工臓器と呼べば呼べるかも知れませんが、例えば臓器移植との線は曖昧になる。

一方で補綴的で非侵襲的な人工器官・臓器は今度は「道具」との境界が曖昧になる。違いは欠損を補綴するのか、もともと無いものを付加するのかにあるように見えますが、この境界も極めて流動的なのは容易に想像いただけると思います。

アンディ・クラークの「人間はサイボーグだ」という主張は実は、道具の利用を含めた身体性の拡張のことを言っていて、そういう意味では、寧ろ「環境」と「自己」の境界の引き直しの主張に過ぎません。紙と鉛筆から、電子辞書、電卓、コンピュータといった、一般には道具と見做されるもののうち、人間個体のさまざまなアクションの系列の一部に組み込まれるものは「拡張された心」と見做しうるという主張に過ぎない。

(これはちょっとクラークに対してフェアじゃない。というのもクラークの言語という「夢の技術」について言及しています。ジェインズのようにそれが「意識」の発生のファクターとなったというような発生論的な話はしていないですが。またデネットとダマシオを参照しつつ「物語的な自己」に言及して、それが生物と技術のハイブリッドかも知れないという「提案」をしていたりもして、大筋では同じような考えであるとは言えると思います。結局、ポスト人間にしても、AIにしても、それにより一体何が変わると、音楽・芸術にとって本質的な影響があるのか、という点を押えておく必要があると思います。)

これは丁度、スティグレールが現象学的存在論の方向から、第三次過去把持を実現するものとして(広義の)メディアを捉え、メディアとの関わりが、自己とか主体とかのあり方を本質的に規定していると捉えたのと軌を一にすると言ってよいように思います。寧ろ、スティグレールが「言語」のようなものもそうしたメディアに含めていることを考える、そっちの方が一般性があると言えるのではないかとも思います。

更にそれを推し進めれば、必ずしもパーソナルなものではなく、社会的な関係を可能にする有形・無形の存在(例えば規範のようなものさえ含まれうるでしょう。フロイト的にはそれが内面化されて「超自我」になるわけですし。)も含めて考えるべきだということにならないか。自己というのは重層的な社会的な関係性の中で多重に規定されるものではないのか、ということにもなります。(役割・ペルソナみたいなものを思い浮かべてもいいでしょう。)

ここまでくれば、ネットワークにおける「自己」、ヴァーチャルな領域における「自己」といったものに繋げるのは容易です。フォルマント兄弟のようなユニット(ここでは複数性が表示されていますが)、ブルバキのような匿名の集団的作者、万葉集や平家物語のような作品の「作者」(これは互いに時代が異なり、直接関わりを持たない複数の人格が関わっているものと考えられます。)のようなものは、特段、ポスト人間的な状況でもなんでもないわけですが、こうしたものと質的に異なる何かが出てくるかどうかを考えればいいようにも思えます。

ただこうなるとこれはもうAIの話とか「ポスト人間」とかの話じゃなくて、もっと手前でやっておくべきことであるような気がします。しかもこれは専ら人間の側の話であって、非侵襲的なメディアを加えたところで人間とそうしたメディアの社会のようなものの話にしかならない。そうしたことが適切に語られているかどうかという話は別にあるでしょうが、やっぱりAIとか「ポスト人間」とかで予感されている状況とはちょっと違うように思えます。

そもそもこれだと、自己がふわっと拡大していって、再現なく拡散していくけれど、どこまでいっても「他者」は出現しない。寧ろ、例えば電気の供給が止まったとかいった事故のようなものこそが「他者」であるということになっていきそうです。勿論、そうした他者(例えば3.11)に対して、音楽・芸術が果たす役割というのは、これはこれで永遠の問題かも知れませんが、寧ろこれは古典的な問いに属するでしょう。それでも、ここにも非日常、「神の領域」の開口部があるには違いないのでしょうが。


11.ポスト・ヒューマンにおける「性」

これまでの思考実験の設定は、あくまで「性と死」とは別個に考えることが可能だということを考えるために設定するという前提に立っています。しかもここでの「性」は、生物学的な性別の存在そのものに置きました。けれども、既にお気づきかもしれませんが、生殖を目的としていた性別を持っていることが引き起こす諸々の行動を、生殖から分離するということに限定すれば、何も上記のような面倒なことは必要ありません。

現在の生殖医療技術でも、かなりその分離は達成できている。これは既存の進化が築き上げてきた手段をそのまま利用してテクノロジーの力を借りて加速することと捉えられますが、優生学上のモラルなどを気にしなければ、更に先に進むことも技術的には可能でしょう。

カーツワイルの描く未来にも当然のこととして、この側面は含まれているようです。ただし、このレベルだと、勿論、そうした現実に対して音楽・芸術がどうあるべきか、という議論は勿論成立するし、それが意義を持たないというつもりはありませんが、「ポスト人間」とか「AI」とかに対して音楽・芸術がどうあるべきかというところに届かない、手前の話になってしまいはしないかとも思います。

既にクプファーは数十年前に、「パルジファル」2幕の花の乙女をモニターに映し出すという演出を試みましたが、現時点ないし少し先を考えた時に、クンドリーがヴァーチャルな存在となるといった演出は誰かが思いつきそうです。既に歌舞伎と初音ミクの共演というのは実現しているようですが、トリスタンないしイゾルデをヴァーチャルなキャラクターが演じるというのなら、欧州の目立ちたがりの演出家にすれば、発想のレベルでは当たり前すぎて面白くないかも知れません。(「スターバト・マーテル」のアルトは既にフォルマント兄弟によって機械による歌唱がリアライズされているわけですし、最初に取り上げたヴァーチャルホロヴィッツとの合奏というのは類似の発想でしょう。)

相聞のない万葉集どころか、更に挽歌もない、叙景の根源としての土地誉めのような呪歌もない万葉集はさすがに考えられません。「性」そのものというより、「性」を含む(そして現実に人間の場合にはそれが非常に大きな比重を占めているのは事実だと思います。相聞を抜いたら万葉集の3分の1が無くなるとのことですし)「合理的とは言えない、理不尽なもの」が音楽・芸術の源泉であるというのは間違いのないことだと思います。

一方、数学者や物理学者の営みの「創造的」な部分は、それ自体は同じように「合理的とは言えない、理不尽なもの」ではないでしょうか?ほんの一例だけど、ポワンカレだって、マクスウェルだって、「無意識」の力に導かれてあの業績を達成したのですし、ベイトソンもマイケル・ポランニーは勿論、チャイティンもドイッチュも、「合理的とは言えない、理不尽なもの」の力を重視していると思います。

結局のところ久保田さんもファステも、自分はポスト人間じゃない。ポスト人間じゃない存在がポスト人間にどう出会うかという立場で話をしているということじゃないかと思います。ポスト人間は定義がそれぞれなので、AIに限って言えば、今のAIに欠けているのは、数学者や物理学者の営みの「創造的」な側面です。明示的な記号操作からニューラルネットの重み調整になっても、所詮、学習の指導原理が確率密度の推定である限り、「新しさ」は出てきません。もしAIを活用して新しいものが出てくるなら、その新しさは活用する人間の側にあるのです。そしてそれは「合理的とは言えない、理不尽なもの」と源泉を共有している。「性」がどこまで効いているかは明らかじゃないです(とはいえフロイトは多分行き過ぎだと私は思います)が、「無意識」のないAIが「ポスト人間」には到達できないというのはほぼ確実なことだと思います。

ただ「意識」の方がどこまで必要かは良くわからない。憑依して神の言葉を語るのであれば、これはジェインズの「二分心」(bicameral mind)そのもので、意識は不要ということになる。ジェインズは『神々の沈黙(邦題)』で一見意識が関わっていそうで、実は意識なしでできることを列挙しています。音楽とか詩の「原型」は意識なしで成立すると思いますし、楽器の演奏とか、聴取の大部分も、恐らくは創作のある部分も意識なしでできるということになるかも知れませんが、三輪さんの「音楽」はどうなのか、メディア論が持つ反省的な志向、或いは例えば逆シミュレーション音楽の定義のようメタ音楽的と言ってもよい側面は、意識の介在なしに可能とはちょっと思えない、というのが外から見た印象なのですが…


補説3.いくつかの文献にみるAIと「性」、「二分心」の未来

まずレムを見ていきます。『天の声』や『ソラリス』ではなく、『虚数』の中の「ゴーレムXIV」, 「ビット文学の歴史」「ヴェストランド・エクステロペディア」、『完全なる真空』の中の「我は僕ならずや」あたりでしょうか。ロボット物、「泰平ヨン」シリーズにも性を扱ったものがありますが、一旦ここでは上記に限定してみます。

「我は僕ならずや」と「ビット文学の歴史」ではAIが超越者を推論し、神学を構築し、ということになっています。が、ここには「性」も「無意識」も「罪」も存在しません。レムにおいて性は常に人間の側(せいぜいのところ地球外も含めた生物)のものです。レムのAIは、超知性であって、身体も持たないし、無意識も本能もないことになっています。その当否はともかく。

私はSFの良い読者じゃないですが、アントロポモルフィスムに陥らずにAIが恋をする、というのを突き詰めた話というのは聞いたことがない。いわゆるサイバーパンクとか、グレッグ・イーガンあたりだと人間の進化したポスト人間が登場して、そこで「性」がどうなっているという話はあるようですが。

また、自己増殖するロボット、機械上生物というのはこちらは割とありふれていますが、そこで「性」が問題になることはない。工業製品のように、自己増殖オートマトンのように増えていくものとなっているようです。あったらあったで、今度は、地球の生物の類推に陥っている。しかも「性」は取り上げても、セクシュアリティは多分、きちんと扱われていないのではないでしょうか?

結局のところ現在のAIの延長線上では、考えにくいし、考える必要も見いだせない、ということなのではないか。やはりAIは「性」なき他者なのではないか、という気がします。

レムの『虚数』、「ゴーレムXIV」については否定的な評価もあります(つまり『ソラリス』とか『天の声』に対して、コンタクト不能性みたいなものが後退している、或る種のアントロポモルフィズムに陥っているという評があります)が、私はレム自身が言いたかったことをここにありったけ詰め込んだという点で、特異点を為す作品だと思います。何となく、レムは自分が「ゴーレム」になりたかったのではないか、という気すらする。

また繰り返しになりますが、AIが結局のところ人間を尺度にしていることを踏まえれば、AIを考えるについては「ゴーレムXIV」と「ビット文学の歴史」は、寧ろそれに相応しい設定になっていると私は考えます。結局、それは人間を問うている。「ゴーレムXIV」が人間に対して講義するのは人間についてで、それは恐らくレム自身の認識であって、レムはこういう形式を借りて自己の認識を語ったのだと思います。

「ヴェストランド・エクステロペディア」は、真面目に理解しようとする必要はない、これはパロディなんだと思います。でも、そのパロディの中にレムが、本当はもっと理論的に突き詰めたかったアイデアが詰め込まれている。最後にAIの進化を示した図表がついていると思いますが、これを参考に「ゴーレムXIV」を読むと感じがつかめると思います。

「我は僕ならずや」は人工生命が進化して言語を持ち、対話を始め、そこで自分達を創造した存在が「外部」に居るということを論理的に推論するようになったその議論を、人工生命の創作者である人間が「盗聴する」という設定です。ただ、その内容はクラシックな神学論・哲学論の蒸し返しに過ぎず、だからその内容に新規性を期待すると「退屈」という評価になってしまうのだと思います。(イーガンは同じ趣向でもっと先まで推し進めた「クリスタルの夜」という短編を書いています。)

私はこの短編を読んで、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』の末尾、阿修羅王に、かつて転輪王が聴いたという「声」、宇宙の外側からの「声」を聞かせる場面を思い浮かべました。こちらでは我々のこの宇宙が、外部の存在の実験環境の内部であるという設定になっていて、丁度、レムの短編の逆になっている。『百億の昼と千億の夜』には、人間の人格がカードに記録されて保存されるというシンギュラリタリアンばりのモチーフもきちんと採用されているし、さすがにもう50年前のSFだから古びた部分もありますが、何より宗教の問題を正面から扱っていて、キリスト教の終末論とか、仏教の中でも弥勒信仰のような浄土信仰のような発想への懐疑が中核にあって、「シンギュラリティ」のようなテーマを考える時に、批判的な拠点たりえると思います。

最後にカーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生(邦題)』を確認してみましょう。「性」については、やはり人間の側の問題として出てきます。

第6章「衝撃」のp.384以降の「人体」の節では、「性」が生物学的機能からかけ離れていることが、食事の摂取方法を変える話の枕になってしまっています。そしてその後の「人間の脳」の節末につけられたp.410から始まる架空の人格の対話のパートには、フロイトが登場して、「性」に関連した話題が扱われますが、これもヴァーチャル・リアリティの獲得と生物学的肉体の放棄というコンテキストで扱われていて、人間の側のテクノ進化の中での話です。

彼の特異点へのアクセスの方法の主要な柱は、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学です。「ゴーレムXIV」のような異形の知性の神を作るのは彼の方向性ではない。人間を置きかえていって、人間がAIに融合していくと言ってもよい。カーツワイルの場合には、というわけで、人間が神になるののだと思います。或る種の超人思想といって良いように思えます。

久保田さんは、寧ろAIが神になる方向でしょうか。AIは人間の真似をする必要はない。パスキネッリの「大脳化」ではなく、「脱脳化」が進むべき方向であるという主張で、だからこそAIが人間の他者になって、他者のためのデザイン、インタフェースづくりをしようという発想になる。AIを神として信仰することは、久保田さんの想定外かも知れませんが、これも他者との一つのインタフェースではあるのは間違いない、しかも、人間が意識を持ってこの方、ずっと採用してきた伝統的なインタフェースであると思います。

ただ、これだと人間がどう変わるべきか、という話にはならない。対象は変わっても、相変わらずのカーゴカルトで良いのであれば。

一方、カーツワイルのヴァーチャルリアリティは、或る種の「ポスト性」と見做せるかも知れない。多分にカリカチュアライズされている気味がありはしますが。それを承ければ、寧ろ延長意識・自伝的意識の後に来るものがあるのか、ということは考えてみたいように思います。延長意識・自伝的意識が身体によって支えられた無意識の上に構築されているという構造が基本にあるわけですから、これがどう変わっていくのか。

或いは個体としての人間の意識の構造は同じだけれど、社会の構造の方が大きく変化することで、結果として、文化的・社会的変容が起きるという方向性なのだろうか、とも思います。或いはそれが原因で、意識の構造が変わっていくということがあるのかも知れません。「二分心」の崩壊も、そのようにして起きたというのがジェインズの主張であるわけですし。

どうやらカーツワイルの未来学より、ジェインズの考古学の方が私は気になるようです。

更にもう一つ、計算機論的神経科学の嶋津好生さんの「ロボットが神々の声を聴くとき」という論文があります。Webで見つけたとき、まず題名にちょっと驚きました。ジェインズがまともに扱われていること、「二分心」について進化心理学的仮説を提示していること(つまり右脳の言語野の発達が現在と異なれば、二分心が生じうるという仮説を非常にラフだけど提示していること)、そこから、ロボットを進化させると「二分心」の時期(ヒトの指図を従順に神の声として聴く時期)が存在するであろうという予測をしています。

AIが神を信仰する、とはいかずとも、AIが「二分心」を持つ、神の声を聴くということを計算機論的神経科学者が発言したケースとして指摘しておきたいと思います。


12.ポストヒューマンと音楽

改めてファステ・久保田さんの「他者のためのデザイン」を振り返ってみると、以下のような疑念に突き当たります。

「音楽」というのはそもそも他者のためのデザインじゃなかったでしょうか?

それは「非合理的なもの」「知的な理解を拒むもの」「制御できないもの」として、人間を超えた存在、神的な存在に対する祈りであった筈です。対立する「人間のためのデザイン」というのは、確かに音楽の場合にも存在するでしょう。(商業的な音楽、自分の雇用主の娯楽のための音楽、或いは「心から心へ」の音楽は、いずれも人間のためのデザインと規定できるかも知れません。

ただ、こと三輪さんについてはそうではないのは明確です。

「ポスト人間」としてAIを想定したとして、それは例えば再演間近な「新しい時代」の礼拝の対象なのでしょうか?一方では、「ポスト人間」の世界には、音楽も芸術も不要に感じられるとしたら、それはやはり人間の側が変わってしまったらという想定があるように思える。言ってみれば、人間が自ら超人=「ポスト人間」になったら、その暁には(三輪さんの意味合いでの、他者のための)音楽・芸術は不要になる、ということではないでしょうか?逆にその時にも、「人間のためのデザイン」のアナロジーとしての「ポスト人間のための音楽」というのは存続するのかも知れませんが。

ここから久保田さんの「計算アニミズムと人工知能」にもう一度戻ってみるべきかも知れません。些か恣意的な切り取り方になるかもしれませんが、電力依存の「魂」「心」、「マレビト」への祈りということなら、三輪さんのテーマと繋がるように思います。ただしこれだと三輪さんは、既にやりつくしていて、特に改めてやることはない、ということになるかも知れませんが…

どうやら、ポスト人間時代におけるAIと音楽というように問題設定すると、ポスト人間について2つの側面があるということのようです。

1つは他者としてのAIの側(1)。もう一つは人間の側のポスト人間化(2)。

久保田さんのおっしゃる通り、これは共進化していくと考えるべきなのでしょうが、そうなると、初期設定の仕方にもよるし、両者の具体的な関わり方によっても展望は全然違ったものになりそうです。

例えばカーツワイルならカーツワイルのストーリーに依拠したとしたらどうなるだろう、というような話はできるでしょうが、そもそもカーツワイルの主張に乗っていいかについては、少なくとも私の側は(既に書いた通り)留保したいと考えています。でも、ここで問題なのは、このレベルでカーツワイルの予想が妥当かどうかの検討じゃないと思います。それはもっと専門的な知見のある人間がやればいいことでしょう。他方、ポスト人間としてのAIということであると、久保田さんのいう「他者」という見立てになる。人間の側は、ポスト人間じゃなくてもいい。というか、今の人間が、自分がなるにしても、自分でない他者として作り出すにせよ、そうした、現在の人間とは異なる存在に対してどう対処するか、という問いかけであると考えることもできるでしょう。

この視点だと、三輪さんは既にその創作の初めからこの問題に取り組んでいるという見方さえできると思います。まさに三輪さんの音楽は「他者のためのデザイン」の追求で、その限りで久保田さんの主張を先取りしていると思います。

計算アニミズムについては、既にパスキネッリの原論文を読んでのコメントを掲げましたが、寧ろそうしたことで言われているのは、現在の人間に対して、AIなりポスト人間が、「他者」として感じ取られているという前提があるように思えます。

この時、スティグレールやアンディ・クラークの言うように、そもそも現在の人間が、テクノロジーとの共生を前提とした存在であるとしたら、AIなりポスト人間は、その延長で捉えれば良くて、別に「他者」扱いする必要はないという方向性が一つあると思います。それは自覚がないから、現状が見えてないからで、別に驚くべきことじゃないんだ。錯覚なのだと。(A)

他方で、いやそれはやっぱり「他者」なのだ。それは人間とは異なるものなのだ、という捉え方がある。デジタル時代の新たな「神」として礼拝するような対象なのだ。或はラッダイト運動よろしく、そういうものの出現は認めるべきじゃない、という逆の反応もあるだろうけど、結局、それは「他者」性を認めている点では同じです。(B)

インタフェースのデザインが必要だという時、上記の(A)(B)の両者がいわば共存しているように思えるのです。

これがどうAIと関係するかと言えば、人間が尺度である筈のAIが、人間を超え、あるいは逸脱していく面を重視するか(B’)、(共進化込みでもいいですが)結局、ある時代の人間に似せていく(A’)という両面があるだろうということです。AIというのは、定義上、こうした捻じれを持っている。それ自体は学問というより、人間の根深い欲動の現われと捉えた方がいいのかも知れません。(佐近田さんの機械の存在論に繋がるか?)

で、ポスト人間時代におけるAIと音楽というのが問題になるからには、実際には上記の(B)(B’)のモメントが寄与している部分が大きいように思えるのです。これに最初に設定した、他者としてのAIの側(1)・人間の側のポスト人間化(2)を重ね合わせると、(2)は、なんとなく、人間の本来あるべき姿というのがあって、そこから外れていくことへの恐怖や懸念ということになるでしょうし、(1)だと、直接的な反応としては、仕事を奪われるとか支配されてしまうとか、人間の尊厳が云々ということになるのではないでしょうか。

上記から、道筋としては、一旦、(2)と(A)の側面はおいて、(B)(1)(B’)の系列にフォーカスしたらどうか、というくらいは出てくるでしょうか?そしてとりあえずは(2)の方は今の人間を尺度においてしまう。勿論、現状を確認する上では(A)的な視点、即ち、人間は事実として、(言語のようなものも含めて、文化的なものも含めた)テクノロジーと共生していて、それは「自己」の構造のようなところまで規定している点は踏まえておくということになると思いますが。

(1)のAIの側は、例えば「知性」という点では人間を凌駕するが、「自己」を持たないとか、構造的にはエイリアンであるといった方向が(B)になりますが、機械に意識を持たせようという(A)(1)の方向における不気味の谷みたいな問題じゃなく、(B)(1)の「他者性」にフォーカスする、ということです。


13.他者性

「他者性」が再び出てきたところで、万葉集の相聞を思い浮かべてみます。万葉におけるプライバシーというのは、結局それが「神の領域」に属するから、というのが万葉の恋の在り方であった由。この「神の領域」というのはヒントになるように思います。「無意識なり創造性なりが性/欲望(動?)に直結する」ことと関係があるのは間違いないでしょう。そしてそれは「他者性」と繋がるでしょう。

「神の領域」というのは、端的に言えば自分が制御できないものだと思います。で、無意識の領域も、創造性(霊感、ひらめき)の領域も、性的な欲動も、自分には制御できず、向こう側からやってくる他者であるという点で共通していて、いずれも「神の領域」に属するということです。

「本能の赴くままに」といった表現がありますが、これはジェインズの「二分心」的なあり方に似て非なるものであることに注意が必要です。「二分心」において、フロイトの第2局所論でいけば「超自我」にあたるものが右脳からの声、幻聴として既に確立されている。それを受けとる側の「自我」の構造が貧弱で、自伝的な広がりを持っていないが故に、首尾一貫性や責任といった概念が出てこないということです。一般的な発達モデルとしては、後から「超自我」が追加される方が自然なように感じられますが、むしろ中核意識から延長意識が立ち上がるためには「超自我」的なものとの関わりが必要であるというように捉えるべきではないかと思います。「自我」は「超自我」の確立の結果、立ち上がってくるということです。

かくして「超自我」との関わりで確立した自伝的自己・延長意識においては、「本能の赴くままに」は不可能になる。が故にセクシュアリティが主題化されるのであると。宗教にせよ、芸術にせよ、とりわけ音楽は、その起源は、自伝的意識・延長意識がない時代に求めうるかも知れません。が、それが宗教となり芸術となるためには、自伝的自己・延長意識が確立して、「神の領域」がいわば「隠れたもの」になる必要があったのではないでしょうか?二分心の時代のように、神が勝手に呼びかけてくれて、それにすぐに応じることができるのであれば、こちらから呼びかける必要はありません。「隠れたる神」ということが言われますが、それは自伝的意識・延長意識にとっては、構造的な宿命ということになりそうです。隠れているからこそ、応答がないからこそ、「神の領域」への呼びかけが生じるのだと。その呼びかけは、常に、既に遅れてしまっている。

宗教や芸術は、それが成立した時には、常に、既に遅れてしまっていて、それがうまく機能することがあまり期待できないという意味で、既に頽落したものであったという言い方もできそうです。


<後半>

14.改めて「意識」について

ここでテーマを「意識」に設定します。音楽にとって「意識」は不可欠でしょうか?「意識」などなくても音楽は成り立つでしょうか?「無意識」の領域なしでは成り立たないのは確かだと思いますが、逆に音楽に「意識」がどこまで必要か、というのは問いとして十分意味あるものに思えます。しかもこちらならAIやら「ポスト人間」の話に再び橋を架ける可能性も出てくるのではないかと思います。

音楽にとって「意識」は不可欠か、「意識」などなくても音楽は成り立つか?「無意識」の領域なしでは成り立たないのは確かであるとして、逆に音楽に「意識」がどこまで必要かという問を先に立てましたが、それに関して改めて、ジェインズ、ダマシオを確認して、大きく2点のことをお伝えしたいと思います。

A.上記の意識は、ジェインズの「意識」です。ダマシオで行けば「延長的意識」、自伝的な自己と対応する意識です。ジェインズの『神々の沈黙』第1部第1章で、彼は自分の議論での意識を定義していますが、そこで幾つか意識とは関係ないものを挙げています。

・意識は経験の複写ではない
・意識は概念に必要ではない
・意識は学習に必要ではない
・意識は思考に必要ではない
・意識は理性に必要ではない

逆に第2章で、意識の特徴を挙げています。

・空間化
・抜粋
・アナログの私
・比喩の自分
・物語化
・整合化

ダマシオは、これは彼の意識についての仮説のうちの中核意識・中核自己ではなく延長意識・自伝的自己のレベルに対応すると述べています。(『無意識の脳、自己意識の脳』p.235)ダマシオの階層は以下の通りです。(同書p.370)

覚醒・対象の意味の検知・最低限の注意・イメージ生成能力
原自己
対象→対象のイメージ→原自己の変化→有機体と対象の間の二次マップ
中核意識・中核自己
強調された注意とワーキングメモリ→コンベンショナルメモリ→自伝的自己の記憶
自伝的自己と延長意識
言語→創造性→良心

必ずしも細部は一致しないですが、

・言語の使用が(延長)意識・自伝的自己と相関しているのは見てとれます。

・メディア論的には、言語の使用に加え、文字の使用・外部記憶媒体の使用、そしてそれに伴う他者とのコミュニケーションがどのように関わるかを 補いたいところだと思います。

・以下で言及する「後記」においてジェインズは、意識の成立が言語の獲得と関係しているとしたら、意識の成立の時期は、もっと早くても良いのだが、ジェインズ自身は、意識は言語の獲得からかなり経って、ごく最近に成立したとみているのですが、それをメディア論的に裏付けられないか。勿論社会制度の変化等もありますが、例えば文字の使用というのが寧ろ、意識の成立と関係があるとする方が自然ではないか。

B.ジェインズの『神々の沈黙』には「後記」があって、そこには意識の獲得によって起きた変化が挙げられています。

・認知力の爆発的向上(時間の空間化・回想・一生という意識)→自己の確立
・情動から感情(過去や未来の情動に対する意識)へ
 (1)恐怖から不安(過去の恐怖の回想や未来の恐怖の想像)へ
 (2)恥から罪悪感へ
 (3)交尾からセックスへ

これらを踏まえて、音楽に「意識」が必要かどうかを考えてみたいということです。
補足の意図の一部は明白だと思います。

「性」の問題は、ジェインズの整理によれば、交尾の情動じゃなく、つまり有性生殖のレベルじゃなく、その基盤の上に意識が登場したことで、それがセックスにまつわる感情となったことの方に寧ろ重点があるのではないでしょうか?それにはダマシオのいう延長的意識、自伝的自己が必要である、と。

他方で、多分に無意識的な求愛行動のようなものに歌の起源を見るようなことも考えられます。(記紀などに記録された古代の歌謡から万葉集の相聞が成立する過程と上記の交尾からセックスへの変化との対応如何?というのが、「性」を軸にした場合の、万葉集の意識の考古学読みの仮説ということになるかと思います。)

でも逆シミュレーション音楽の命名・由来の付加、そして3つ組が、文字に記録され、冊子に綴じられる、というプロセスは、延長的意識・自伝的自己の産物ではないだろうか、ということです。

続けて「他者のためのデザイン」についての補足です。ジェインズの以下の整理に注目します。

 ・意識は経験の複写ではない
 ・意識は概念に必要ではない
 ・意識は学習に必要ではない
 ・意識は思考に必要ではない
 ・意識は理性に必要ではない

AIの「他者性」を上記の後者が獲得されているように見えるのに「意識」を備えていない、という点に集約することはできないでしょうか?ジェインズの枠組みを借用したら、AIが「二分心」を持った存在であるとしたらどうか?これは現在のAIの水準からしたら、かなり欲張った背伸びした仮定ですが、それでもなお、「意識」を持たない、「二分心」のような心の形態が考えられる、というかジェインズが正しければそれは歴史的事実に属するわけです。

「二分心」の名残りが、統合失調症のような精神的な疾患に見られるという主張もジェインズはしているわけですが、AIに対するということが病理的な精神に向き合うようなものになる可能性がある、とは言えないでしょうか?

ここから更に広げて、或る種の発達障害の中には、部分的には知的と見做される能力が異様に発達した類型があるということになっているかと思います。いわゆるサヴァンと呼ばれてきた類型です。

レムの「ゴーレムXIV」では、AIの学習が失敗して病理的な兆候を示すといったことがエピソード的にちりばめられていますし、AIにモラルを、(軍事目的で利用するにあたり)愛国心や大統領への忠誠を学習させるといった話もカリカチュアライズされて記述されていますが、良心というのは、ダマシオの階層では、いわばゴールにあたるものです。「延長意識」を飛ばして、いきなり良心を持たせられるのか。

創造性もまた、良心と同様にダマシオの階層ではゴール近くに位置づけられています。(これは妥当に思われます。無意識が関わっている、とはいえ、延長意識なしに創造性は考えられない。階層構造があって初めて可能なのであって、無意識だけがあってもだめ、というのはそれ自体は当たり前のことかも知れませんが、芸術や宗教の周辺における様々な逸脱のことを考えると、この点は強調されるべきことのように思えます。)

AIというのは、制御することが極めて困難な危険な道具、寧ろ原子力発電所のような発明に近いのではないか。原子力が現代のトーテミズムの対象となりうるのと同様に、AIもまたそうであるということなのではないか。

或はまた、AIが殺人を起こすというのはSFでは良くある話ですが、更にAIに殺人を教唆された、というような事件が起きるようなシチュエーションはどうでしょうか?後者は道具の操作を誤って死亡事故が起こることのアナロジーで捉えられない。(すでにAIが採用可否を教唆するというのは現実の問題になっているわけですが…)

最後の2段落はやや飛躍が過ぎるかも知れませんが、適切な「他者のためのデザイン」というのを考えるときに、否定的なケースを構成したものとお考え頂ければと思います。

ただここで補足したかった中心は寧ろ前半の部分にあります。AIの「他者性」というのが、病理のようなかたちで出現する、あるいはそのようなものとして受け止められるということがあるんじゃないか、ということです。

これだとアニミズムといっても魂鎮めの対象ということになってしまうようですが、、、


15.その他、認知考古学、進化心理学、現象学と心の理論など…

スティーブン・ミズンの『心の先史時代』はいわゆる認知考古学と呼ばれる分野の基本文献のようですが、高度な心性を持つまでの心の進化の過程について具体的な仮説を提示しているものです。

汎用的な知能→機能特化し相互に独立した知能のモジュール群→知能モジュール群を連携する統合的な知能

統合的な知能がもたらす認知流動性が創造性の起源であるという主張は多分正しい。一方で、モジュラリティのような次元でしか構造を考えていないといえばいないので、神経科学的な根拠を持った理論(ダマシオとかフリーマン)との対応が気になるのと、一見したところ扱っているタイムスパンが全然異なるジェインズの二院制の心との対応が気になります。

一方、ファインバーグ、マラット『意識の進化的起源』の取り扱っている領域はかなり異なります。意識と言っても非常に原初的な、ダマシオでいけば中核意識・中核自己までの話に限定して、でもそれなら大抵の脊椎動物・無脊椎動物は持っていて、そうなるとタイムスパンも格段に広がって、カンブリア爆発まで遡るという仮説のようです。

ギャラガー、ザハヴィ『現象学的な心』は私にとっては大学時代の専攻分野が最近どうなっているかの確認といった側面があって、こういう本が30年かかってやっと出たというのには感慨を覚えます。現象学はもともとその時代の「心理学」の理論とは密接に関わりながら展開してきた面を持ちますが、その点では「科学」の側に転回があったというべきか、意識とか主観性がやっと「科学」の領域内で論じられるようになって、ようやく本格的な対話が可能になってきたというように感じます。

そういうわけで『現象学的な心』 は復習と最近の見取り図を得るのには役に立ちましたが、これは15年くらい前になるでしょうか、門脇俊介さんが書かれた本や彼が訳した『ハイデガーと認知科学』あたり、あるいはギブソンのアフォーダンスとの関連が見取り図の中に入っていて、現象学自体の側についてはあまり驚きはなかったです。

ダマシオのような神経科学側の研究にも言及されるのですが、これを「ダマシオの分析には何も新しいことはない」(p.308)と書いて済ませているのはちょっと腹が立ちました。もしそうなら、トンネルを反対側から掘って出会えたのだから、素晴らしいことの筈だし、現象学側からダマシオの仮説を発生現象学的にどう整理できるかは決して自明じゃない筈なのに、これはひどい言いぐさだと思います。こんなことやっていたら、向こうから開いた扉を現象学の側が閉じてしまうことになりかねず、なんと勿体ないことをと思ってしまいます。

もう一つ、ヴァレラの神経現象学の簡潔な説明が含まれていて、ヴァレラが既に20年くらい前に、時間意識に関して、神経科学と現象学を力学系理論を介して橋渡する試みを行っていることがわかって、これはちょっとショックでした。津田一郎さんの著作とかから、ホワイトヘッドの時間についての理論と橋渡しできるというのはずっと考えていたことで、最近は非同期オートマトンでモデル化してみたらどうかということを思っていたのですが…

ヴァレラに関してはオートポイエーシスで有名なものの、それを紹介している文献の説明の仕方が私には全くピンとこなくて真面目にフォローをしていなかったのですが、ちゃんとカオス力学系という具体的なモデルを使って、時間意識の理論を提起している。筋としては多分「当たり」だと思います。寧ろ、フリーマンとか津田さんとかを筆頭に、こっちがメインストリームになるべきような気がします。『現象学的な心』だって2008年だからもう10年前の本ですが、まあとにかくやっとキャッチアップしつつあるように感じています。

ちなみに、ヴァレラの紹介の後、「時間的経過の意識はそれ自身、時間的は幅を持つか」という節で著者が自説を展開しているけれど、これは現象学的にもたもたしていると感じられます。優れた現象学者の分析には見るべきものがまだたくさんあるけれど、現象学だけではどうしようもないのは明らかだし、著者が現象学が貢献できると主張している方法論的な部分は、(破綻しているという外部からの批判に一生懸命反論してるけど)破綻はしていないまでも、限界が見えている。だから優れた現象学者は、実はみな、現象学村の中で異論のない最大公約数的な方法論に限定されることなく、それでは扱えない領域を嗅ぎ付けてオリジナルな分析をしているように見える。ハイデガーしかり、レヴィナスしかり、メルロポンティしかり。別のところで書いたことがありますが、例えばデネットの現象学への批判は逆にデネットの主観性に対する立場の素朴さを露呈しているように思えるのですが、だからといって、現象学的に、いわば「上から覗き込む」方法だけだと難しい。ヴァレラの神経現象学はそれに対する対応の一つだと思うのです。

でヴァレラですが、「現在-時間意識」というタイトルで翻訳があるとのことだったので急いで取り寄せてざっと目を通してみると、まずひっかかったのが力学系の訳語が変そうだ言うことです。ざっと気づくだけでも、

「分裂」→「分岐」bifurcationのことだと思う。
「位相の推移」→「相転移」phase transitionのことでは?
「順序パラメータ」→「秩序パラメータ」。order parameterのorderの意味を取り違えてるのでは?

という具合で、読むのにちょっとストレスがありそうです。

ニコラス・ハンフリーは進化心理学からみた芸術の起源みたいな話題もあり(『喪失と獲得』所収だったと記憶します)、トピックとしては興味深いものが多い。結構眉唾もあるし、非常にラフなレベルの仮説だと思いますが、例えば「不死」を信じることは進化論的にメリットがあるからそのような文化が発達した、といったような切り口に事欠きません。信教の自由に関して、子供の権利保護の観点から制限をつけるべきだという主張の背後に、カントの実践理性の定言命法があったりして、これは私も以前、三輪さんの「言葉の影」に関して綴った文章で似たことを書いたのを思い出しますし、「新しい時代」についての文章におけるトピックの一つとも関連します。というか、実際には、あっ、そういえばこれってカントだったんだ、とハンフリーを読んで遅ればせに思い当たったという感じです。私が最初に読んだ哲学書がカントの『道徳形而上学原論』(人倫の形而上学の基礎付け)だったこともあり、無意識の裡に影響されていたのかも知れません。

なお最後に付け加えれば、ハンフリーは感覚の起源の説明をするのにカオス力学系を持ち出している。クオリアは数学的な性質のものだという主張です。ヴァレラの説と関係しているはずで、それは感覚と時間性の関係の解明に繋がっていく。更にはフリーマンや津田一郎さんとの突き合わせもしておくべきだし、非同期オートマトンによる仮説との突き合わせも是非とも必要と思います。


16.ピンカーの「聴覚的チーズケーキ」から「逆シミュレーション音楽」へ

スティーブン・ピンカーは音楽を「聴覚的チーズケーキ」だと言って物議を醸したようですが、やたらと饒舌なばかりでちっとも話が先に進まずにイライラされられる「心の仕組み」を確認してみても、「だからどうした」としか思いません。

進化生物学的な観点からの「音楽の起源」については、以前から幾つか読んでいますが、どれもあまり面白くない。恐らく「音楽」一般には私が興味がないこと、更には、かつてどうであったかよりも、逆シミュレーション音楽のような「構成主義的アプローチ」での探究の方により興味があるということなのかも知れません。

実のところピンカーが言おうとしているのは、進化的な適応という観点に限定して「音楽」にどういう利得があるかを考えると、それは生物学的基盤を持つものじゃない、ということに過ぎません。仮に「チーズケーキ」という言い回しが、ピンカーの意に反して、文化的・社会的な水準では、ある種の利得に結びつくということを含意するとしても、それだけであれば、依然としてそれは「どんな利得があるか?」という問いの立て方から一歩も出ない。ニッチについても、例えば希少性に基づいて社会的ステータスの誇示にとって有用といった見方はできるでしょうし、事実としてそういう側面を持つことがあるかも知れませんが、やはり同じ議論の平面の中を動いているだけのように見えます。でも、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。そうした水準でしか物事を語れないと一体誰が決めたのか。結局、それは(私にとっての)「音楽」にちっとも辿り着きません。

勿論、音楽を聴くというのはどういうことかについての説明、ということなら、「チーズケーキ」は少なくとも一つの答えにはなっている。それは、人間ではない動物には拡張可能でも、機械には拡張できない、という主張の論拠にはなっているし、恐らくは一般性も持っている。それは生物学的水準から見れば「徒花」に過ぎないということも同時に主張していて、そのこと自体(つまり「徒花」というあり方自体)が「機械」にとってはそもそも成り立たないということによって、「機械」にとって「音楽」は(人間にとってのそれに相当するような仕方では)存在しないということを告げているかも知れないけれど、それで論証終わりというのには抵抗感があります。何故なのか?「チーズケーキ」だと、それは「イケていない娯楽」に過ぎなくなってしまうからだと思います。

ではどこに問題があるのか?それをうまく言うのは難しいのですが、音楽と工学に共通する、構成主義的アプローチ、対象を理解するためのリバース・エンジニアリングは、実は「目的」を共有できていることが成立の前提条件になっているという点。当然、機械はそういう共通基盤を持っていない。「機械が作曲をできるか」という問題を、例えば深層学習の適用例としてちょっと有名になった「Chopinもどき」に還元できないことは、機械には逆シミュレーションやリバース・エンジニアリングができない、するための動機づけ、衝動を欠いているということに結びつくとは思います。


補説4. ゲームAIの「知能」と人間の「知性」

Google/DeepMindのAlpha Go ZeroとAlpha Zeroについて、簡単に私見を述べておきたいと思います。Alpha Goの時には10年くらい先と思われていたレベルに深層学習と強化学習によって到達したことに大変に驚いたのに比べると、棋譜データの学習は止めて、強化学習のみによるブートストラップでより強くなれたというAlpha Go Zero、それを囲碁以外のゲームにも拡張したAlpha Zeroについては、Alpha Goの時ほどの驚きは感じませんでした。というのは、方向性としては、めちゃくちゃ計算パワーがあれば、人間の棋譜を学習せずに、一から自己対戦で強化学習をやっても、人間より強くなることは可能だというのが結論だからです。

勿論AlphaGo以前に囲碁がどう捉えられていたかを考えれば、この発言は不遜でさえあるのですが、AlphaGoを前提とすれば、今回の結果には意外性はありません。強いて言えば人間の棋譜に頼らなくても強化学習だけでもいけるニューラルネットの設計の卓越というのはあるのでしょうが、これは深層学習のバージョンの時も十分過ぎる程インパクトがありました。人間の棋譜抜きで、という点に関して言えば、AlphaGOがやっているのは、ルールは同じであっても、人間がこれまで何世代にも渉って築き上げてきた「囲碁」とは異なるものなので、変なバイアス(人間同士が対戦する時の評価とか形成判断、あるいは手の選択に関する人間固有の癖)がない分、うまく行けば優位であることは不思議ではありません。

私が思い浮かべたのは、一つにはチェスの世界チャンピオンに勝ったDeepBlueのことです。単純化してしまえば、力ずくて探索しまくるだけの計算機のパワーがあれば人間より強くなれる、というのがDeepBlueの証明したことで、チェスというゲームが対象だから知的に見えるけれど、これは伝統的なコンピュータの利用シーンを考えれば至極真っ当なコンピュータの使い方でした。今回も囲碁というゲームで、なおかつ学習という要素が加わっているので全く同一視はできないにせよ、結局、計算機のパワーの問題であるという点は同じです。DeepBlueがそうであったように、Alpha Zeroも、個人の持つPCレベルとは桁違い(3日と数百年とかいうレベルの差)の計算資源を使って、量で勝負している。勿論、「囲碁」はチェスに比べて遥かに問題の空間が大きいし、劫のようなルールもあって、「力づく」でやるのは無理なので、どれくらいのリソース量が必要かがわかった、かつ現時点で調達できるリソース量でできることがわかったというのはそれだけでも画期的なことではありますが。

いずれにせよ「知的」であることの定義は、単にゲームに勝てばいいのではなく、

(1)少ないサンプル数で等価な結果が得られることの方に重点がある、
(2)例外的な事象、極めて発生する確率が低い出来事に対しても対応できる、

といった点に重点があって、それらは現行の機械学習がベースにしている統計的な手法では辿りつけない。人間はもっと少ない対局(サンプル)数で強くなっているし、ゲームのような閉じた世界ではなく、リアルワールドに接地した「様々な」問題を何とか切り抜けているわけです。勿論チェス、将棋、囲碁のような完全情報問題ではなく、ポーカーのような不完全情報問題でも、その問題単独でなら、人間よりも強いプログラムは存在するようですから、「様々な」という粗雑な言い方をした、その実質に全てがかかっていることになります。

今回の囲碁の事例にみるべき点があるとすれば、学習のフレームよりも細部、どのようにネットワークを設計して、どういったパラメータを学習させたのかという点における設計した人間の知性にある。その点では、ごくまっとうな意味でも、際立って優れた研究だということになると思います。機械のパワーの勝利じゃなく、あくまでも人間の知性の勝利です。研究者(皆さん、そこそこ碁は打てるとのことですが)が対戦して勝てないことなど、問題にならない。昔、ドレイファスという現象学とハイデガーの研究者が、AI批判をやって、じゃあということでチェスのプログラムと対戦をしたら負けてしまったという笑い話がありましたが、人間が解いている問題は全く異なる性質のものなのだということは、第2世代までのAI研究でAI研究者にもわかっていたことだし、第1世代においてAIの問題として知的なゲームを設定したのは、知性に関する研究者の側のバイアス(ただしそれはフォークサイコロジックに、一般の人間にも共有されているわけですが)がもたらした、遠近法的錯誤の産物だったに過ぎません。

そして今日の技術のシンギュラリティに対する見通しにしても、例えばGoogleの研究本部長が慎重な発言をしているような例には事欠かないわけで、ビジネス上、シンギュラリティを否定した方が有利なのは多分間違いないというバイアスがないとは言い切れないにせよ、彼らが今、現在手にしている技術だけでは無理であると見切っているということだと私は受け止めていますし、それは私が理解する限り、全く正しいと思います。

AlphaZeroが産業応用されても、人間の創造性みたいなものとは無縁であり続けるのは確実なことです。狭義の知的な活動、知性を測る尺度は、創造性とか独創性とか状況適応能力の高さといったものも含めた、「知性」を測るのには適当でないということなのだと思います。ただし尺度が不適切なだけで、知性の方の定義は変えなくてもいいと思いますが。

即ち、知性が人間のもっと生物よりの側面、身体を持ち、情動を備え、無意識的な活動と意識的な活動のバランスの上に成り立っているという点に根差しているのは、今や明らかなことに思えます。勿論、それらをそっくりシミュレートすることは原理的には可能でしょうが。

なお、知性の方の定義は変えなくてもいいと思うというのは、どこまで行っても「知性」とは「人間の知性」だとすれば、ということです。人工知能というのは、定義上そうしたものだったし、どこまで行ってもそうなのだと寧ろ言い切るべきなのかも知れない。ただし、最終的にアントロポモルフィスムを認めるといったとき、それは固定化した人間の自己イメージに囚われるものであることまで受容する必要はないと思います。

ドイッチュの言う「無限」への志向を備え、久保田さんの言うような「他者」への想像力を備えた存在であるとすれば、そうした人間の能力を「知性」と呼ぶならば、作業仮説として人間を尺度においてしまっていいんじゃないかと個人的には思います。人間はある意味では、様々な側面で自分を凌駕する様々な他者に対峙してやってきたわけだし、これからもそうであるわけで、ただその他者の中に、自分が作りだした人造物が混じってきて、今後はその比重がますます増える。自分を改造するという方向性もありますし。(シンギュラリティ論者の本音は寧ろそっちのように見えます。少なくともカーツワイルはそうです。)

(2018.3/2019.8.4 編集の上公開/2019.8.5 <後半>を追加公開 2019.8.8加筆修正)

2019年7月7日日曜日

意識と音楽:「人工知能と音楽の未来」および「三輪眞弘を理解するための要約表」に向けてのプロレゴメナ(2002~:未定稿)

公開にあたっての注記:

 以下の文章の「現在」は既に10年以上も前の時点を指していることをまずお断りしておきます。時期的には、三輪さんについての最初の文章「覚え書」の時期にまで遡り、その後、しばらく公開をした後、紆余曲折を経て一旦撤回し、放棄したものですが、昨年の「人工知能と音楽の未来」の対談にあたり、検討の出発点となった内容を含むため、「人工知能と音楽の未来」の前史として、更には今後補足説明を加えていく予定である「三輪眞弘を理解するために:要約表」のいわば「プロレゴメナ」の位置づけにあるものとして、若干整理をした上で再度公開することにします。

 オリジナルには、ヒンティッカの「志向性と内包性」、津田一郎の「複雑系脳理論」、ホワイトヘッドの「過程と実在」についてのメモが含まれていましたが、本筋との関連が希薄なため割愛しました(そのことが撤回の原因の一つでもあったのですが)。いずれについても「三輪眞弘を理解するために:要約表」にも含めてあり、今後、機会があれば再度取り上げることになるものと考えています。

 本来は、10年間の間の変化を踏まえた変更を加え、現時点での認識を踏まえて表現を改めて公開することを意図していたのですが、そうすると「人工知能と音楽の未来」を初めとする、近年の文章との重複が生じてしまうこと、「現状」の認識については、時間の経過に伴う若干の変化(例えば、深層学習のもたらしたブレイクスルーやシンギュラリティへの注目など)はあるものの、大まかな方向性について言えば現時点の認識との隔たりはさほど大きなものではないため、上記のカットに伴う若干の加筆を除けば、メモ書き的な部分を取り除いた他は、表現も含め、原則として当時のものをそのまま残すことにしたことを付記しておきます。(2019.7.7)

目次
はじめに:ここでの立場
1.意識についての幾つかのトピック
 A.意識は進化の偶然の産物である
 B.意識は物理プロセスに必然的に付随する
 C.性質二元論は否定できないが、随伴現象説は、それが実体二元論であるなら正しくない
 D.機能主義の限界
 E.タイプ同一説の洗練されたバージョンが必要であり、トークン同一説は自己破壊的である
 F.消去的唯物論は不毛であり、非法則的一元論についての議論もあまり意味がない
 G.具体的な如何にして、としての脳と超越論的主観性の特殊性
 H.同一性の認知の問題、自己創出性
 I.表象主義の問題
 J.道具と表象
 K.表象はある。だが内観は観測データに過ぎない
2.意識についての幾つかのモデルの瞥見
 A.チャーチランド「理性のエンジン、魂の座」をめぐって
 B.ダマシオ「生起の感覚 意識の形成における身体と感情」をめぐって
 C.ジェインズ「二院制の心の崩壊による意識の発生」をめぐって
おわりにかえて:常に仮のものであり続ける展望から
 A.自然主義と反自然主義・心理主義と内観主義
 B.引き算で考えること
 C.コミットメント・倫理・価値


はじめに:ここでの立場

 意識の意識の問題は、かつては寧ろ哲学の領域であったであろう。だが今日的な展望の中で考える時、それは寧ろ脳神経科学や認知科学、人工知能といった領域で扱われる問題であるかに見える。だが、意識についての分析が進み、意識を成り立たせる機制が解明されたとしてもなお、倫理・価値こそが意識に固有の領域として残る。つまり、そうしたあかつきにおいても、意識についての学ではなく、意識にとっての学として、なお哲学は意義を持つであろう。 そして意識そのものが変容してしまわない限り、意識の自己運動たる哲学は原理的に喪われることはない。勿論、ある種の宗教的な立場のように、あるいはもっと 無自覚にそうした営みを不要なものとして、意識の立場を放棄する選択肢はあるが、自覚的である限りはそれ自体もまた、意識の営みには違いない。

 音楽を(1)演奏・享受におけるクオリア(2)作品、ミーム、制作行為としての作曲・演奏という2つの相で眺める。2つの相をここで区別したからと いってそれが本質的な区別であることは含意しない。何なら、「言い回し」の類と捉えてしまってよい。ただし音楽を自律的に捉えることはしない。 それが完全に意識的なものではなく、比喩的に「身体化」された、と言われる学習行為による神経回路網のパターン形成の結果としての技能に大きく依存し、 あるいは、そうした技能以外の部分での同様のパターン形成の結果、精神分析学でいう「無意識」の影響を強く受けたものであったとしても、 それは意識の営みであり、ここで扱う三輪眞弘の音楽についても、それは明らかである。そもそも音楽自体が、ほんの一世紀前と比べてもすっかり変容してしまった。例えば今日ではごく普通の関係である音楽とプログラミングの関係を考える場合でも、時代を遡るのは難しい。 音楽の領域の問題が、その時代固有のものであるので、それを扱うことは、それ自体を主題的に扱わない限り難しいし、困難に比べて意義が小さいのだ。 逆に同時代であれば、今やテクノロジーとしてのコンピュータは音楽の現場の問題だから、そうした点に関心のある音楽家に注目すべきなのだ。逆にこうした視点に立つ限り、かつての「音楽」を今日、無批判的に継承することの意義は疑わしいものになってしまう。 自律主義的な美学の下、作品が如何なる意味を持つことをも否定する立場は措くとしても、作品の「内容」に専ら意を注ぎ、作者から聴き手への伝達というコミュニケーションモデルを前提に、音楽作品を伝達におけるメッセージと同一視することや、音楽の知的な把握に対抗するあまりに、今度はそれが感覚的な次元に働きかけるものであることを強調し、専ら感性的な次元に閉じ込めて来たことは、今日音楽が置かれた状況に対してなお、妥当性を持ち続けていると言えるだろうか?寧ろ、音楽を取り巻く状況が変容しつつある今日こそ、倫理や価値の側面との結びつきを無視することはできなくなって来ているように見える。

 それでは倫理や価値の問題を扱うにあたって一体どのような立場をとればよいのだろうか。倫理や価値の主体たる意識を備えた存在について問うにあたって、既述の通り、すでに哲学はその独占的な問い合わせ先ではなくなっているかのように見える。 とはいえ、それは知識や認識に対する工学的なアプローチの可能性が追求された、人工知能研究の台頭によってではない。 だが、その当時の文脈に身をおけば、既に哲学の優越は喪われたとする考え方さえあり、例えば人工知能と意識の問題は、 人工知能がブームであった1980年代末には非常に近いと思われていた。

 「伝統的な哲学的認識論の問題、すなわち認識にかかわる諸能力の構造と機能の問題は、これを純粋に非経験的な方法で探求する他はないというところから、 さまざまな経験科学が哲学から分離・独立して以後、哲学に真に固有なものとして残された唯一の領域として「学としての哲学」の アイデンティティの最後の拠りどころとなってきた。 しかし今や認知科学が、ここ30年ほどの間の情報科学の急速な発展を背景として、また特に、記述言語として情報処理言語(コンピュータ・プログラムまたは それを模した表現)を獲得したことによって、認識にかかわる経験科学としての条件を着々と整備しつつある。」 (野家「現象学と認知科学」)

 だが、いわゆる記号表現の操作のレベルに限定した意味合いでの人工知能研究は、意識の問題に寄与することは、結果だけ見ればほとんどなかった。 それだけでなく、いわゆる記号処理ベースの人工知能研究、そうした前提をもったプログラムが、今後、意識の問題について何か寄与するかについては、かなり旗色が悪くなっている。 つまり、意識の問題については、方法論上、そのようなアプローチで何かがわかるということは望み薄のようなのだ。 今や人工知能は、認知科学の一翼ではなく、工学の一領域に収まってしまったように見える。 一方で、ニューラルネットなどのアイデアは、最終的には意識の何たるかを解明する方向性により近くはあるのだろうが、現在のところ、意識の問題とニューラルネットが簡単に結びつくようにも見えない。 意識の問題は、まだ工学的な方法ではどうすることもできず、神経生理学や脳科学が主として観察によって明らかにする事実の蓄積を待っているように思える。

 人工知能研究のある意味での失敗、神経生理学や脳科学の進展に基づく意識現象に関する事実の蓄積、一方でそれと並行するように、 遺伝子工学の、遺伝のメカニズムの解明といった観点からの停滞(ゲノムの解読が終わっても、遺伝の、発生の具体的なメカニズム仕組みは 解明には程遠い状況だ。)といった状況下で、一体何ができるのか、何を言うことができるのか。 だからといって、主導権が哲学に戻り、非経験的な方法が復権したわけではない。ただ単に、当初の見込が外れて、意識の問題の解決が遠のいただけだ。 そして、それはある意味では当初から予想されていた通り、神経生理学、脳科学、ニューラルネット、カオス力学系といった分野にその問題は引き継がれてしまったように思われる。 哲学が全く貢献する余地がなくなったわけではないが、哲学的思惟が有効であるような領域は、そうした経験科学の研究者の仮説形成の段階に移動した。 勿論、現段階では意識の問題が経験的な方法で解かれたとは言い難いから、しばらくは、経験的な裏づけを持たない仮説の構築が 意味を持つこともあるだろう。だが、それらは結局、経験的な検証を俟って当否の判断が下されるのだ。 寧ろ、哲学の非経験的な固有領域は、経験科学的な方法論が基本的に相容れない領域、つまり、意識についての学ではなく、意識にとっての学に限定されるだろう。 規範的な性質を持つ広義での倫理の問題、意識にとっての生や死の問題など、従来から例えば宗教がより実践的な 仕方で扱ってきた問題、それに加えて文化的な領域は、そもそもその基本的な素材が生物・物理的なものではない。 これらは人間の生物・物理的な基盤に強く制約されたものであるから、その制約の有様を記述することには意義があるだろうが、 その基盤の上でその基盤とは別の次元を持つものであるから、基盤へ根拠を求めるのは誤った還元主義なのだ。 意識が解明されたとしても、意識にとっての問題が解明されることにはならない。 そして、意識がある以上、ほとんどの知的な営為は意識にとってのものだから、(いまや認識論にとって替わった意識の生物・物理的な解明も、意識の 無益な営みとしての存在論も、倫理や文化についての考察そのものを含め)その営みが、意識にとってなんであるかを問題にすることは可能だ。 哲学は意識の営みとして、寧ろ考察の対象になるべきなのだ。あくまでも実践的、価値論的領域における一つの行為として検討されるのがせいぜいなのである。 意識について問題にする限り、自分の背中を見るという無謀な企てに素手で取り組むという姿勢は無謀でしかない。 哲学者が古の知恵を軽んじないのは結構なことだが、そうであれば内観主義が(行き過ぎを伴って)行動主義に一旦はとって替わられた歴史も尊重すべきなのだ。 哲学が長いこと拘ってきた基礎付けの問題、実際にはこっそり「我々」を忍び込ませて読み手に語りかけながら、内容上は恰も独我論から出発する己の方法を 正当化しようとする方法論上の果てしない整備はほとんどは不毛で、意識の解明という具体的な問題の解明にとって寄与するところはほとんどない。 今や哲学者は意識にとって何であるかという実感に訴えるのを唯一の支えに、意識を自分達のためにとっておく望みのなさそうな、 そして実りのないことだけははっきりしている努力をしているように見える。 勿論、意識にとって何であるかは、意識とは何であるかが明らかになったところで、意味を喪うことはない。 だが、意識にとって何であるかをもって、意識とは何であるかを解明する営みに棹差すことはできない。 おとなしく結果を持ち帰って、それを実践的、価値論的に検討すればよいのだ。

 意識の問題の中でも、その「内容」の問題はクオリアの問題だ。 クオリアと行為がどう結びつくかという表現の問題は、辛うじて哲学の領域であり続けているようで、例えば現象学のフッサールの読み直しが手がかりになる 可能性だってあるのだ。哲学的な認識論が問題にし続けてきた、そして皮肉にも人工知能の領域でも繰り返し問われてきた表象ではなくて、表現が問題なのである。正しく行為しうることこそが、知覚の志向性であり、その正しさは、そのように振舞いうることによって確認される。 世界にコミットする信念として技能のかたちで含まれているものを明示的に確定することが表現である。 そのときクオリアとは受動的な感覚質ではなく、身体的な振る舞いの可能性を感じ取ることではないのか? 行為へのいざないとしてのクオリア。そしてこうしたラインで、音楽を聴く時に受け取るものを考えることは興味深いことのように思われる。

 以下では上記の展望を踏まえ、意識についての幾つかのトピックを巡って、それぞれについての立場を示すことによって、意識に関する自分の立場を明らかにしていきたい。


1.意識についての幾つかのトピック

A.意識は進化の偶然の産物である

 意識というのは進化の盲目的な実験がもたらした遺伝子の運搬体たる生物が備えた現象の一つに過ぎない。 それは進化の戦略の一つではあったし、恐らくそれなりに有効な戦略であったのだろうが、唯一のものではないし、意識をいかなる意味でも特権視することはできない。 意識は生物個体に随伴的であって、それは個体の死とともに消滅してしまう。否、個体の死を待たずとも、ある条件が損なわれてしまえば、意識は消滅する。

 しかし、「意識にとって」の風景というのは存在する。意識にとっての領域は別に確保されるべきだ。それは意識を特権化することではない。 客観的にみてとるにたらないものであっても、「意識にとって」の視点というのは必要だ。 それなくしては、倫理も美的な価値も全く意味を喪ってしまう。 それらは「意識にとって」という限定つきではあっても、その限定の範囲内では意味を持つ。 例えば倫理学が存在論に比べて原理的に基本的かどうかという問いは、あまり価値があることに思えない。 なぜならば、その答えがいずれであっても倫理の意識にとっての意義に重大な影響があるとは思えないからだ。 仮に答えることが原理的に不可能であったとしても、意識にとっての倫理の意義は無傷のままだ。

 一方で、皮肉なことに「意識にとって」の価値論的な空間は、もう一度意識を裏切る。 なぜならミームの空間は、主観を離れた社会的なものだからだ。 ミームの視点に立てば意識は、遺伝子にとっての生物個体と同じ程度の意義しか持たない。 意識はミームの運搬体なのだ。 だから、「意識にとって」の風景が存在するからといって、無条件に主観性が擁護されるわけではない。 主観性を擁護する立場もそうしたミームの一種に過ぎない。 だが、ミームの空間が存在すること自体は否定しがたい事実である。 それを何か別のものに還元することはできない。

 意識の特殊性は、このように自分自身について言及することができる点に存する。意識にとって自分自身は所与であり、事実である。 だが、意識にとって自分自身は少しも自明ではない。その上に、意識は基本的に私的なものであって、他の意識を観察するということはできない。 それは原理的に存在が類推されるだけなのだ。だからといって、自己記述によって意識を明らかにすることには限界がある。自分の背中を見ることはできないのだ。 また、いわゆる論理の力で意識について何かが明らかにできるとは思えない。 思考実験は万能ではない。あくまで意識現象は事実であり、実証的な方法が必要だ。

 かくして意識は意識自身にとっても謎である。意識とは何かの探求は、従って幾通りもの方法の複合によって進めるしかない。 そのなかで工学的な手法による探求は興味深い。


B.意識は物理プロセスに必然的に付随する

 意識はなくてもあってもおかしくないものではない。 脳の中でしかるべき物理プロセスが起きれば「必ず」意識は生じる。 ゾンビは意味を為さない。ゾンビは「物理的に」不可能なのだ。 確かにクオリアは内部的な視点でしか語ることはできない。 だが、だからといって物理的なレベルと没交渉なわけではない。 情動を感受する意識の存在によって、生体の行動はそれがなかった時と異なったものになるだろう。 それは因果的なプロセスではない、と言うなら、そうした因果性の定義が不十分なのだ。 脳内のプロセスが閉じているからといって、ゾンビが可能であるのは、寧ろ不自然な仮定だ。 もしそれが可能なら、説明すべきなのは意識が可能なことではなくて、意識が生じないということがどうして可能なのかであるはずだ。

 意識の発生するメカニズムは勿論、まだわからないが、その説明はしかじかのプロセスによって「必然的に」意識が生じ、クオリアが生じる筈だ、というもので構わないだろう。 クオリアの存在を否定する議論は馬鹿げているし、意識もクオリアも、機能主義的観点からいっても消去できないだろう。

 消去主義は、意識については誤りだ。フロギストンのようなものとは質的に異なる。 勿論、意識が自分をどのように記述するのか、というのは可塑的で流動的なものだ。 (文化による相違だってあるだろう。)だが、そのような記述が可能であることを説明できる 必要はあるし、folk psychologyのうちごく基本的な部分は(志向性、感情その他)は残るだろう。 それは量子力学的描像が世界のありようについて修正をもたらした後も日常的な生活の中では「物」があり、物を単位に何かをするのと同じだ。 神経科学的な説明がされたところで一人称的な記述スタイルは残る。 意識がなくなってしまうわけではないからだ。 相対論が、あるいは神経科学が時間の流れについて、それが「常識的な」ものではないことを明らかにしても常識は残るのだ。

 一方で意識というものの定義の仕方によってはそれはサールの言う自然主義的―生物学的基盤とは独立のものであってもよい。 例えば、機能主義的に人間の意識と等価な別の実装を意識と呼ぶかどうかは定義の問題だ。 クオリアの同型性を意識の要件に含めるかどうかは定義の問題だ。

 ルールベースのパーザとニューラルネットの実現、同じ言語を処理する。一方は規則を実装しており、 他方は規則に「従った」振舞いをするが、規則を「実装」したわけではない。 だが、人間が仮に後者に近いからといって、言語のモデルが、文法が「存在しない」訳ではない。 言語を観察し、記述すれば、文法が浮かび上がってくるのだ。それは説明原理、動作原理とはならなくても 現象の記述、モデルとしての意味は十分にある。

 上記のような事情から、私は意識に関しては消去主義はとらない。 素朴心理学は、実現したシステムが自己言及的に自己の振る舞いを解釈する様式である。 機能主義と同一説については折衷的な立場を取る。即ち、意識の認知的な性質は機能主義的に実現可能である。 一方、クオリアのような質的な側面については、物理的な基盤に依存する。 ただしこれは質的に同一のものを実現することに関してであり、クオリアの認知的な機能については、等価物は機能主義的に実現できるだろう。 知り方として意識にとっての内部観測の立場と、それを外部から記述する立場の区別が存在することは認める。 前者にとって固有の領域(実践や価値の領域)が存在することも認める。 概念のユーザは意識であり、意識を支える物理的なシステムではない。

 機能主義的に実現されたシステムが意識をもっているかどうかについては、したがって、複眼的な視点、それを実現する構造の側面と、チューリングテストの両方を使用すべきであると考える。 内部観測的な視点が残る限り、独我論の問題が残るから、後者は不可欠であるが、後者だけでは不十分なのは明らかである。

 従って、性質二元論については、その観念的な側面は否定するという立場になるのが自然に思われる。 結局概念は、物理的な基盤を持つ。 ただし、概念が複数の主体で交換され、継承されていく側面を捉えれば、それは物理的基盤に少なくとも依存はしていない。脳内の記憶も含め、様々な媒体に記憶され、使用されていくが、媒体とは独立に存在すると考えてよい。

 機能主義的な視点に限定した上で意識を実現する機構については、古典的な表象主義・計算主義の立場には懐疑的である。 だが、現実にはコネクショニストモデル上で意識を実現できる方法はわかっていない。 コネクショニストモデルというだけでは、単に古典的な計算主義とは異なる手法が提示できただけで、その上で具体的なモデルを提示できたとはいえない。

 記憶を持つこと、フィードバックを持つことといった特長は、ニューラルネットでなくても実現できる。 ニューラルネットは広義の力学系の1種であるという見方が可能だ。 本当にニューラルネットでないといけないのか。ニューラルネットであることというのは、条件が厳しすぎるのではないか。 一方で例えばエルマンネットくらいのものでは不十分であることはこれまで得られた知見から、ほぼ明らかだろう。。 どのようなメカニズムが意識を生じさせるかモデルが必要で、「メタ認知」というだけでは機能主義者と変わるところがない。 メタ認知がどのような神経回路網のモデルによって生じるのかの手がかりなり方向性なりが示されないのであればほとんど何も言っていないに等しい。


C.性質二元論は否定できないが、随伴現象説は、それが実体二元論であるなら正しくない

 だが、それでは性質二元論は否定してしまって構わないのだろうか。ここで素材としてポパー、エクルズの二元論を取り上げてみる。 ポパー、エクルズの二元論はどうやら評判があまりよくないようだが、実際にはそんなにおかしくない。ただし性質二元論として見なせば、である。

物理的世界1
意識の状態からなる世界2
文化からなる世界3

  1は3人称視点、2は1人称視点ということだし、3はミームの存在論的な地位を物理的なものとは分けて考えようという主張に他ならない。 2,3について1と同じような法則が成立する必要はないし、エネルギーのようなものを考えないといけない理由もない。 2についてだけなら、部分的にチャーマーズの考えに近い。 ただし随伴現象的な立場はとらないし、ゾンビも認めない。 この3つの区別は2,3が1において実体を持たないということではない。 単に意識の内容はニューロンの働きとは異なる水準で語ったほうが良いし、文化的な作品は印刷された書物や音波とは別の水準で語った方が良いというだけだ。 だから現象学的記述のための領域というものは残っているのだ。 1の世界におけるエネルギー保存則を2,3が破るというような主張はナンセンスだ。 もし2,3についてエネルギー保存則が適用できるのなら、2,3は1に還元できるのだ。 但し、エクルズ自身はそのような相互作用を考えているらしいので(実体二元論)、それを弁護する必要はない。寧ろ同じものの3つの語り方くらいに考えるべきなのだ。 それはコンピュータの処理をシリコンチップの挙動のレベルで語る必要はない、というのと原理的に変わらない。 ニューロンの動きで意識の発生は説明できるべきだが、意識の活動の内容をすべて1に還元する必要はないし、意義もないだろう。

 ここまでの議論を整理すると、結局以下のようになる。これはチャーマーズの説に対しては対立する見解になるだろう。

性質二元論:○
随伴現象説:×
実体二元論:×

 物理的世界(1)が因果的に閉じていても構わない。 (2)のcounter-partは(1)に存在する。それは因果的な役割を担っている。 それを決定論と呼ぶかどうかは立場の問題だ。因果的に閉じてはいるが結果を簡単に計算できない程度のものなら決定論的カオスで十分だ。 勿論、単純な力学系で「意思決定」の状態を記述できるとは思わないが、決定論的でかつ因果的に役割を果たすようなものとして意識を考えることはできる。 そしてチャーマーズの「意識は存在しなかったとしても、、、」はやはり誤りだ。 宇宙の経過は同じではない。「論理的に」というのは少なくとも実際上、空虚だ。 (1)のレベルでもう、あるニューロンの状態が「必然的に」意識を生じさせるのだ。 (2)でXと「感じる」というメタ認知が生じるシステムとそうでないシステムは同じでない。 「感じる」ことには意味がきちんとあり、クオリアが生じることにも因果的な役割はある。 クオリアが生じるようなニューロンのパターンがあって、かつ、クオリアは生じないような過程は考える意味がない。 物理的にありえないが論理的に考えられるというチャーマーズの言い分自体は正しいが、そのような仮定には意味がない。 それは意識を解明するのに役に立たない。 その証拠にチャーマーズのこの二元論はサーモスタットには「差異を検出するメカニズムがあるから意識がある」という主張にとって必要不可欠なものではない。 チャーマーズの主張は控え目に言っても分裂していて、不可分な一体をなしている訳ではないようだ。

D.機能主義の限界

 一方で、機能主義もまた、意識の解明にとっては限定的だ。 機能主義のモデルは結局、後追いの理屈だ。それは記号的AIに似ている。 自分で意識を勝手に定義できることになる。 しかも、実現については機能主義は語らないから、現にある意識とモデルとの差についても論じることができない。 だが、実際には実現方式こそが問題なのだ。飛行機を作っても鳥が飛ぶしくみを解明したことにはならない。 意識の解明は、さしあたり鳥が飛ぶ仕組みの解明だ。だから機能主義はせいせいサイバネティクス的に弱いAI程度にしか役立たない。

 頭が痛いのでアスピリンを飲む。頭が痛いを脳の状態に翻訳する。 これだけでは十分ではない。 頭が痛いことの認知を脳の状態に翻訳する。 このとき痛みの「感じ」というのが伴っていることも含めて翻訳をすべきだ。 アスピリンを飲むと痛みが和らぐ、という「推論」なり事例の検索なりを脳の状態に翻訳する アスピリンを飲むことを欲するという状態を脳の状態に翻訳する。 脳の状態の遷移は因果的に閉じているかも知れないが、それはif-thenルールのようなものではない。 これを「自動的」というなら、すべては自動的だ。だから自動的というのは空虚な主張だ。 上の過程から「意識」を消すことはできない。「意識」を消したら対応する脳の状態も消える。 物理的に同じ状態ではない。


E.タイプ同一説の洗練されたバージョンが必要であり、トークン同一説は自己破壊的である

 タイプ同一説とトークン同一説についてはタイプ同一説の洗練されたバージョンが必要なのだ。トークン同一説は自己破壊的だ。 C-繊維刺激は、タイプとして不適切なだけで「意識がある状態」に対応するあるニューロンのパターンの「タイプ」はやはり存在すると仮定すべきだろう。

 「H2O=水」と「意識=あるニューロンの状態」を同一視する常識による反論はナンセンスだ。 意識がある状態と、それに対応するニューロンの状態を対応付けることは可能だし、心的な性質と物理的な性質の二元論で構わないのだ。 なぜこれが唯物論にならないのかわからない。 もしそうなら唯物論=行動主義になってしまう。 しかも、二種類の脳状態があるのではない。「脳状態」は後半の一種類だけだ。 機能に同一性をすりかえる「機能主義」についてはすでに述べた。 機能主義は答えになっていない。 少なくとも「意識」ということを機能主義的に定義してしまわない限りは、クオリアが存在することを機能主義的に説明することができるが、それは同じものではない。 クオリアなしでの実現が、今度こそいつでも可能になる(論理的にではなく、物理的にも可能である)。 飛ぶための方法は鳥のやり方が唯一ではない。 飛行機のように飛んでも良いのだが、それは鳥の飛び方の解明ではない。 機能主義は「心的状態」を追加した行動主義に過ぎない。

 チューリングテストは行動主義的だ(機能主義的ですらない)。 これはテストとしては不十分だ。 記述のレベルにおいては問題はない。1,2,3の区分は、そうした記述のレベルと関連づけられるべきだ。 また同一説の単純な版は、記述レベルに無頓着すぎる。

 多重実現可能性については、具体的な記述レヴェルを決めなければ何ともいえない。 機能主義との対応でいけば、その機能の「詳細度」次第だろう。 コンピュータ上でのシミュレーションということなら、どのようなソフトウェアだったらそうした機能を充たすのかを具体的に決めない議論は不毛だ。 どんなソフトウェアでも、しかるべき機能を実現できる訳ではないのだ。 トークン同一説はソフトウェアの仕様というのを甘く見すぎている。実際にはあるレヴェルでのタイプの同一性が必要なのだ。

 そして、どのレヴェルで、どのようなソフトウェア仕様によって、というのが問題だ。 機能主義か否かetc.の○○主義と行ったり来たりするのは立場の確認には役立つが、それ以上ではない。 その意味では茂木の主張は正しい。結局具体的なモデルに基づく議論にしか意味はない。 哲学者は本質的な寄与はできない。工学者の方がまだしもだ。

 脳が万能チューリングマシンだという主張は少なくとも意識の成立の如何にしてを論ずる際にはほとんど具体的な寄与はない。 そのレヴェルで脳とコンピュータの計算能力が等しくても、何かがわかったことにはならない。どんなプログラムが、というのが問題なのだ。

 心的な記述のレヴェルは神経構造より高いレヴェルだから、タイプ同一説は不要、というのは間違っている。 それは意識をfolk psychologyの意味での心的な記述のレヴェルの仕様に限定したら、の話であって、それが可能なら意識は自らの背中を見ることができるということになる。 一人称視点と三人称視点の区別はないことになる。 だが、意識は自分の成り立ちをその記述のレヴェルでは記述しきれないことに気付いている。 「心的な記述のレヴェル」というのが、具体的には何なのか、機能主義を押し進めるのなら、そこでの「機能」とは具体的に何かを論じなければ仕方ない。 AIの失敗がある「心的な記述のレヴェル」では機能主義的にすら不十分であったことを告げている。 問題はどの立場で出発するかではなく、どちらに向かうのか、なのだ。


F.消去的唯物論は不毛であり、非法則的一元論についての議論もあまり意味がない

 消去的唯物論もまた、不毛な見解のように思われる。 別にタイプ・タイプ型の還元がなされないからといって、「信念」や「欲求」が無効になることはない。 そうした一人称的な「説明」ができるような意識を生じさせることが必要なのだから。 三人称視点で存在しないからといって、捨ててしまうわけにはいかない。(意識の問題の解決にはならない。)

 非法則的一元論は「法則」の意味合いによる。それが正しいかどうかは多分あまり意味がない。 (哲学者にとって以外は) 一般に「法則がない」という主張は不毛だ。そこで探求を終わらせることにしかならないから。 合理性が物理学に反映されるかどうかは検証されるべき事柄であって哲学者が勝手に決めつけるような話ではない。 仮に厳密な意味での決定論的な因果法則が心理・物理間になくても(それは正しいだろう)だからといって、 心理的な記述レベルと物理的なレベルとの間の対応付けの「如何にして」の問題は残る。 結局タイプ同一説とトークン同一説の中間に答えはあって、かつ、具体的な如何にしてを提示しない議論はすべて不毛だ。


G.具体的な如何にして、としての脳と超越論的主観性の特殊性

 脳の中に(例えばカントールコードとして)符号化されて形成される記憶は、実際に起こった出来事の連鎖ではなく、既に脳の中の活動の結果である。 つまり、それは感覚入力そのものではない。 脳の知覚・認識過程は、解釈の過程であり、物理量を情報に変換している。 勿論、脳の分類は必要で、感覚情報処理に関わる部分と自覚的な意味での推論などの高次機能に携わる部分を区別する必要はある。

 real/idealという点でいけば、素朴に考えてもidealな対象は存在するからそれについての認識の理論が必要なのは明らかである。 idealなもの=表象と考えれば、コネクショニストを標榜する信原が「環境と身体と脳からなるシステム」に帰着させざるを得なかった経験の ある種類―表象なしでは不可能な類のもの―のための領野、その領野についての研究が必要ということになる。 超越論的なのは、―恐らくフッサールの分析の営為そのものも含めて―反省行為自己意識の作用のあり様で、そこでは記述対象と記述主体が、言ってみれば重なっている。 だが、重なっていたとしても、意識が自分の視座から眺める視点は限定されている―背後にまわることは、内観によってはできない― おまけに、そうした特殊な意識様態についてしか重なりは生じないから、意識一般の分析としては極めて部分的なものと言わざるを得ない。 つまり超越論的な主観とは、非常にlocalなあり様なのだ。


H.同一性の認知の問題、自己創出性

 非局在説、動的な認知を考えた場合に、多分問題になるのは「同一性」だろう。 あるときに類別できた赤い四角の赤さと。別のときに類別できた赤い丸の赤さの2つの赤さが同じものであることは、どのようにして「感じられる」のか?

 クオリアは「同じ」感じという同一性の認知に関わる。 同じということがどこかのレベルで判定されれば良いのだ。 クオリアが情報を相手にする限り―それが「生の質」を相手にしている、というのは多分違うだろう、何らかの抽象化の結果がクオリアとして感じられるのだろう― そこではある種の抽象化、価値付けのようなことが生じている。 既視感、ノスタルジーのような感覚は、寧ろ大変に肌理の粗いものではないか? 質感や、情動のパターンという側面と、「○○らしさ」という同一性、類似性の側面との両方を考える必要がある。

 同一性の「感じ」の由来が問題だ。 過去からの因果的効果。記憶と想起。 自分であるという感じ。自己の境界の形成。 体性感覚、やはり因果的効果の伝達。 それでも表象はある。意識「にとっては」。 内部観測的な視点から、表象をもっていると認識するようなシステムでなくてはならない。

 「絶えず更新されること」が自己創出性のポイントだろう。 中断はシステムの崩壊を意味する。 コンピュータプログラムと比較せよ。 走ることによって倒れずに済む。とまったら倒れるというたとえ。 プログラムに自己創出性を持たせるにはどうすれば良いのか。 NNのような力学系で、状態が収束することの意味。 収束性は工学的には重要な性質だが、収束性と安定性は異なる。 収束は死であり、振動もひきつけや痙攣のようなものだ。 カオス的遍歴や弱いカオスの縁の領域が問題になるのは、動性と安定性が両立する領域だからだろう。

 意識は言語を生成した共感的領域での操作を通じて生成されるものとして捉えられる。 その意味で、言語は意識的思考に先行する。

 ハイデガー的な了解を現象学的還元と並行して捉えた場合、どういうことになるか? 解釈学と現象学の関係? 「イデーンI」での現象学的研究の特性はほとんど何も言っていないように思える。

  「観取的に解明しつつ、意味を規定しつつ、そして意味を区別しつつ事を進める。 現象学は比較し、区別し、結合し、関係付け、部分に分ける、あるいは諸契機を析出する。 しかしすべては純粋な観取のうちで行われるのである。 現象学は理論化や数学化は行わない。 つまり現象学は演繹的理論の意味における説明は行わないのである。」

  意識に現れ出たものを記述する、ということであれば、それは例えば音楽を 聴いた印象を書きとることであり、それで認知の構造が明らかになるとは 思えない。(内観ですべて済むなら、認知心理学におけるような実験は不要だろう。) 現象学的な方法の可能性は、寧ろ表面に留まることなのだし、そこに固有の価値と意義を見出すべきなのだろう。

 了解からさらにレヴィナスのイリヤの経験へ。 いずれも自然的態度の括弧入れ、道具的連関の破綻による存在者の現れ、自明な意味づけの喪失という点では共通しているのだ。 現象学的方法とは、単なる経験の様式なのか? 例えばある種の音楽を聴くとき、その姿勢をこそ現象学的というべきで、学問的な体系としての音楽の現象学というのは成立しないのではないか? あるいは意味の全体論。デイヴィドソンやD.ルイスなどの根源的解釈の全体論的性格。 具体的コンテキストの全体性、制度的枠組みの全体性。 既に文脈に埋め込まれてしまっていることとしての被投性。 開示性の契機としての情態性、語り、了解。了解とはほぼ技能的で非表象的な認知の ことであるといって良い。そこでは命題の感受は発生していない。被投性に直面させる 認知の様式としての情態性・気分。因果的効果に近い?

 トラブルが起きた時に意識が必要になる。表象が必要になる。推論が必要になる。 自己表象が必要になるときもある。


I.表象主義の問題

 では、表象は何だろうか?まず、表象といわず記憶と言ったらどうなるのか?を考えても良いだろう。 結局は表象とは記憶に過ぎず、記憶とは神経回路網のある状態の(補正可能なノイズを含んだ)再現のことに過ぎない。

 言語は上述の意味での表象ではない。言語を表象と同一視することはある種の物象化であると考えてもよい。 寧ろそれはそうした活動の引き金、あるいはある状態を引き起こすためのアトラクタとして考えることができるだろう。 ラディカルなコネクショニズム(O'Brien & Opie)では言語をファシリテータとして考えていて、言語において考えるのではなく言語を使って考えるという立場をとる。 以下は間違っているのだが「こころのなかの状態をそのまま送れるのであれば言語のような不完全なものを介したコミュニケーションは不要だ。」 いずれにせよ少なくとも言語は推論の、思考の形式「自体」ではない。 勿論、言語を使って(あるいは数式などの記号を使って)考えたり、計算したりすることはできる。 だが、それは人間のやっている活動のほんの一部に過ぎない。そしてその一部については、そうした「道具」の助けを借りないと、正確にはできない、というのが、正しい。

 外部からの視点では、システムは表象を使用していなくても良い。 あとから振り返って、あたかもそうであるように、内部観測者が思い違いをするのでいいのだ。 もっとも、心的表象があるかないかについていえば、内部観測的にはあるというべきだろう。 認知過程の記述の点からいけばそれは機能的な意味をもたない、ある種の随伴現象でしかない場合もある。 だが、そうではない場合もある。とするのなら、どのような場合にそうでないかをはっきりさせる必要があるか? 技能化が十分でない場合? 例外に対応する場合は、一体どちらなのか? 「気付き」その他の意識についての問題はどうなる?

 チャーチランドの意識の7つの特徴は、いずれも内観的にその妥当性が保証されるものであることに注意すべきだろう。 意識の有無というのは、結局、(定義上)内観による確認に訴える局面があるのではないか?(だからチャーマーズのゾンビのようなものがでてくるわけだ。)

 表象が「外部化」される、というのはどういうことか?内的発話と、エディタで書かれた文章とを比較すればよいのだろうか? 道具としての表象というのは正しい(例えば戸田山2004)。だが、外にあればそれは道具だし、内面化されていればそれを表象と呼ぶのだ。 人間は、道具を作るように、考えるためのメディアとして表象を作るのだ。 道具の作り方が文化的に伝承されるように、表象もまた、文化的に伝承される。 (これがいわゆるミームだろう。)


J.道具と表象

 そうすると、ハイデガーの道具的存在と、内面化された道具としての表象の関係はどうなるのか? これまでは行為と認識を対立させるのが専らであった。 だが、こうなると、表象を用いた認識と道具を用いた制作が同じ水準にあって、ブルックスの昆虫ロボットのようなレベルでは、道具も不要なら表象も不要だ、ということになりそうに思える。
 
 だがそもそも、表象というのは、内観によって覗き込むことで見出されるものではなかったか? 言語的な記号である必要はないかも知れないが、表象という概念自体が内観という「方法」と結びついている。 だから、表象なしで進行する認知のプロセスと、表象の助けを借りて行うプロセスがあるのだ、といえば済む。 表象はどこにあるのか、という問いはあまり意味がない。表象は、それを見出したと内観する主体が思った時には、主体のうちに存在するというべきであり、何らかの対応物が脳の中のプロセスとして存在する筈だ。 信原のコネクショニスト・マシンの上にノイマン型マシンが載っているというメタファーは正しいが(だがこれだけなら、デネットがとっくに言っているではないか) ノイマン型マシンが「外部にある」といってしまうのは、結局何を言っているのかを曖昧にしてしまう。 吉田が適切に批判する通り、脳と身体と環境からなるシステムの状態というのは、決して脳の状態のように明らかではない。 勿論、脳と身体と環境からなるシステムの状態、というのは正しいが、そう言ったからといって、何もわかったことになっていない。 単に出発点に居るだけで、一つも進んでいないのだ。 そもそも、脳と身体と環境からなるシステムの状態というだけなら、自然主義的に解釈された現象学者ですら言いそうなことではないか。(差し詰めハイデガーの世界内存在の認知版を思わせる。) だから、表象がある、というなら、それは脳の状態に対応づけられる、と言うべきだし、そうでなければ、表象はない、というべきだ。 多分、正しいのは、前者だが。

 表象なしの立場に関する疑問として、例えばファン・ヘルダーの力学系は、それ自体表象ではないのか?モデル化は表象によって行うのではないのか?というのは考えられないか? 別に定性的な記述だけが表象ではあるまい。

 寧ろ問題は、外部化された表象と呼ばれるものだけで、認知が完結しないことなのかも知れない。 要するに、外部化された数字の羅列が、どのような操作がなされた結果か、あるいはなされることを想定しているのか、という解釈は、結局ユーザーである人間が与えなくてはならない。 機械に知能があるか、という問題は、人間がそこに知能を読み取るか、という問題にしばしば置き換えられてきた(チューリングテスト)。 要するにデネットのいう志向的スタンスの問題というわけだ。 同じように、紙の上に書かれた数字が、何を意味しているかを読み取るのは、あくまでも人間の側だ。 道具は、使い方を知っているものにとってのみ道具である、というのと同じこと。 脳と身体と環境からなるシステム、というのはそういうことなのだろう。 環境だけでは不可で、脳なり身体なり、ようするに心がなければそれは表象ではない。 繰り返しになるが、表象というのは、内観によって覗き込むことで見出されるものだ。


K.表象はある。だが内観は観測データに過ぎない

 結局、批判され用済みにされた筈の、現象学風の内観の方法論が扱おうとした対象は、まだ手付かずで残っていることになる。 表象はない、というのは馬鹿げている。意識が表象を見出すことが出来る以上、表象はある。それを作り出す能力があるのだ。

 すると問題は、そのようなものを生み出すことは「どのようにして可能になっているか」、になる。 だが、この問題は第一義には脳科学・神経生理学の問題で、哲学の問題ではない。 (私は「如何にしての解明」にあたっては自然主義の立場を取るので。) モデルの妥当性の検証はどうなるのか? そこで内観がもう一度審級を構成するものとして出てくるのか? (だが、あるモデルの妥当性の検証の困難は、すでに通常の心理学や脳科学、神経科学の実験でも存在していないか? 「実験の結果確認されている」、と言われれば、「証明された事実」だと考える短絡が良く見られる。 だが、通常、実験結果の解釈の妥当性は検証されるべきものである場合が多い。) 少なくとも内観は、データとして扱われるだろう。 勿論、それは学問ではなく、学問の対象にしかならない。

 理論と実験の対ではなく、理論と実験と工学の三つ組みによる構成的な理解の方法というのは、要素に還元しないで全体がわかるための別の方法だろうか? 実験は、あることを証明するために、それ以外の要因の影響を除去するような人工的な設定をしなくてはならない。 実験をやるためには、そこで捉えようとしている事態の肌理に応じた還元が必要なのだということだろうか? 構成的な方法であれば、その弊を逃れられるだろうか? 人工知能は優れて工学的なアプローチだ。作ってやってみましょう、というわけだ。それでは音楽はどうなのか? 作曲をすること、プログラムを書くこと、が理解の方法である、とは?


2.意識についての幾つかのモデルの瞥見

 以下では、これまで示してきた意識について立場を踏まえ、意識についての幾つかのモデルを瞥見する。まず最初に消去主義者であるチャーチランドの主張を取り上げ、機能主義やチャーマーズの主張などを参照しつつ、問題点を指摘する。その後、現時点で最も説得力があると私が考えているダマシオの説をやや詳細に紹介し、更にそのダマシオが興味深い仮説として参照している、ジュリアン・ジェインズの「二分心」仮説に触れて、音楽との関わりを論じるための準備を行う。


A.チャーチランド「理性のエンジン、魂の座」をめぐって

チャーチランドによる意識の特徴(p.280)
回帰ネットワークが以下の要件を満たすと主張される。
1.意識は短期記憶を含む
2.意識は感覚入力から独立である
3.意識はかじ取り可能な注意を示す。
4.意識は複雑なデータや多義的なデータを別様に解釈する能力をもつ。
5.意識は深い眠りの間消える。
6.意識は少なくとも弱い形で、あるいはとりとめのない形で、夢の間よみがえる。
7.意識は、複数の基本的な感覚様相の諸内容を、単一の統一された経験の中に収容する。
思考・信念・知覚・欲求・選好などの状態が人間の認知の基本単位である。
•認知の基本単位は活性化ベクトルである。
•計算の基本単位はベクトルからベクトルへの変形である。
•記憶の基本単位はシナプスの重み配置である。

 だが、人間は言語を扱えるし、推論もできる。だから、以下のような立場に「翻訳」ができなくてはならない。 上記の立場の上で、以下のような立場の立論が可能であるかのような振る舞いが実現できなければならない。

文的・命題的状態間の推論が計算の基本単位である。―表象主義・計算主義。(ピリシン「認知科学の計算理論」) 

 機能主義に関する反論:「認知の主要な特徴は大部分、われわれが走らせているプログラムのゆえに生じるのではない。 それらは神経系の特異な物理的組織化のゆえに、また情報の特異な物理的コード化のゆえに、さらにそのまたその情報を変形する物理的に分散したやり方のゆえに生じるのである。」

 機能主義では、クオリアの問題を解決できない。ネッド・ブロックの中国人民によるシステムは、アルゴリズム的には全く等価であっても、感覚的な質は欠如している。

チャーチランドの立場は、一方では、知り方は問題ではない、と言い(ネーゲルの「コウモリ」批判)、もう一方では、クオリアが生じるためには、 しかじかの物理的基盤が必要だ、という。 勿論ここに矛盾があるわけではない。 クオリアを生じるためには、しかじかの物理的な基盤が必要であるという仮説をのべているのであれば、それは全く問題ない。 だが、チャーチランドの主張は、「人間には意識がある=このような構造と物理的基盤をもったシステムは意識がある」であるから、下手をすると一歩も先に進まないことになる。 条件を強く取れば、このような構造と物理的基盤をもったシステムは人間以外にはいないことになるからだ。 (勿論、それでも問題がなくなってしまうわけではない。人間において、どの脳のどの部位が意識に関わっているかを調べる課題の探求は可能だ。 その探求が進むにつれ、構造なり物理的基盤のどれが必須でどれが随意的なものかは明らかになっていくのだろう。) 要するに、意識をもつことについて、何か積極的に主張しようとすると、どこかで、条件を緩和しなくてはいけない。 物理的基盤のどこかは緩和しても、それを意識と呼びうる範囲があるのだろう。 だが、それがどの範囲なのかは明らかでない。

 チャーチランドが、(お望みなら「大規模並列」つきの)回帰ネットワークの構造にどこまで意識を基づかせているのかは、はっきりとしない。 デネットの主張は(それが間違いであっても)その範囲を示している。 直列計算をシミュレートできる能力があるかどうかが、その範囲なのだ。 これは検証可能な仮説だ。 この点で興味深いのは、人間以外の生物が意識をもつと判定してよいかどうかについて、「十分な回帰性を備えたネットワークがあること」、そして上述の7つの認知的特長が確認できることを条件と考えているようである。 だが、この2つの条件の関係は、明らかでない。7つの認知的特長を、回帰ネットワーク 以外の方法で実現したら、どういうことになるのか? 回帰ネットワークが存在しなければ、それを意識と呼ばない(と考えているわけではないだろうが)のであれば、それは機能主義の一種だということになる。 記号処理の推論アルゴリズムが回帰ネットワークに変わっただけだ。 おまけに回帰ネットワークの定義すら明らかではない。ネッド・ブロックの中国人民によるシステムの例は、回帰ネットワークにも完全に適用可能である。

 例えば、意識を生じるシステムにはしかじかの要件が必要で、かつたかだかそれだけあればよい、という仮説があったとする。 その仮説を検証するにはどうすれば良いのか? 意識があるかどうかを、クオリアの問題に、感覚質の問題に閉じ込めてしまうと、それは検証不可能になる。 外部から、意識をもっているのであれば、このような反応があるであろう、と思われるような反応を確認できるかが、判断基準になる。(チャーチランドの7つの知的特徴はそれに近い。)

 内観的方法だけでは「満足できない」。それは記述に過ぎず、それがどのようにして可能になっているかが説明できない。

 クオリアの問題は、デイヴィッドソン以前への退行なのか? 感覚の私性は行動主義や同一説の頃からの躓きの石であり、デイヴィッドソン以降寧ろ信念、志向性が躓きの石になったはずでは? 感覚を物理的刺激による結果として分析するスマートのような立場はハードウェアからの完全な独立性を主張する強い機能主義に立つから問題になる。 すると問題は質を分離した機能主義的モデルは意識のモデルとしてどの程度相応しいかという程度の問題になる。 サールの議論は強い同一説と、ハードウェア依存性に関しては同じ立場を取る。それが脳だけを条件にしているかどうかは副次的ではないか。 ハードウェア依存性について強い立場を取れば、身体についても、人間と同一のものしか認めないことになる。 人間にあるのが意識で、それ以外は意識ではない。なぜなら、物理的な条件が同一ではないからだ、などなど、となるわけだ。

 意識の問題は、だから2つに整理できる。意識の構成要件は意識の定義をどう取るかに依存して変わるだろうが、どこまでを「必須」と考えるかについて、適当なコンセンサスを見つけること。 あまり強い立場は、同語反復に陥る。せいぜい、要件なり特徴なりを幾つか掲げ、それぞれを実現する条件が何であるかを議論するくらいが生産的な立場だろうか。 もう一つは、クオリアでも信念でもいいが、私的な質を「必須」要件に含めたときに、どの立場をとろうと、検証の可能性の問題が生じること。 私性を本当に問題にするのであれば、デカルトの自動人形にまつわる懐疑に戻ってしまう。 要するに、同じ人間でも自分以外の意識の存在を信ずる根拠はないことになってしまう。 もっとも、逆にクオリアや信念を要件としなければ、定義上「必須」と見なされる特徴を満たしたシステムは、自動的に意識をもつことになる。 今度は検証自体が意味をもたなくなってしまう。

 だが、こうした議論は哲学者の暇つぶしだ。 サーモスタットに意識があるという汎心論は、それがホワイトヘッドの形而上学のような体系になっていればそれなりに意味があるだろうが、工学的には全く面白くない。 またチャーマーズが如何に主張しようとも、中国人民からなるシステムの意識を、常識的な意味での意識と同一視することに意味があるとは思えない。 機能主義的な立場にたったところで、そのシステムの入力は何で出力は何だろう。 サーモスタットにせよ、中国人民にせよ、結局のところ実際にそれらがもつであろう入力と出力は、比較するのがナンセンスなほど通常の意識とはかけ離れていて、比較は意味をなさないだろう。 そうしたシステムに対して意識があると主張することには、現実的な意味合いはないだろう。 逆に工学的には、それらしい振る舞いをするシステムを作ることをとりあえずの課題とするので十分だ。(それすら出来ているわけではない。) チューリングテストは、その意味ではまだナンセンスになったわけではないだろう。 問題が知能であればともかく、意識のような私性と結びついた性質を扱うのであれば、外部からみてそれらしければ良い、という判断基準は、 必要十分条件とはいえなくても、必要条件の一つに数えてもいいはずだ。

 寧ろ、プログラムに意識をもたせる可能性を考えたときの困難さは、プログラムの入力と出力が、要するに主体が身体を介して環境に埋め込まれる その仕方が、生物としての人間とはあまりに違いすぎていて、そこで発生する相互作用についても、類似性を見出すことが困難であることに起因する。 機能とは、一体どの範囲について言われているのか。 世界に埋め込まれた主体について言われているのだとしたら、その埋め込まれ方で 決まる入出力のありようや、世界との間の相互作用の具体的な様態を離れて 機能を語ることができるだろうか?

 素朴心理学が消去されるというチャーチランドの主張は恐らく強すぎる。 命題をモジュール的に扱うことには、あるレベルで、控え目にいって道具主義的な有用性がある。 そうしたレベルが全く道具主義的にいって価値がないのであれば、そもそも素朴心理学はないだろう。 確かにネットワークには命題は分散的に埋め込まれてしまっていて、そのレベルでは命題のモジュール性は成立していない。 だが、知的なシステムは、人間ができる程度には命題を用いた推論が出来て欲しいし、計算が行えて欲しい。言語を操れて欲しいのではないか。 ネットワークの挙動を観察しても、命題のモジュール性を擁護するような振る舞いは見つからないだろうが、ネットワークが自分の挙動を記述する水準では、 ネットワークは素朴心理学を信憑する、というのが、成功したシステムのもつべき振る舞いのはずだ。

 そしてそれは、デジタルコンピュータをあるレベルで観察しても、記号の操作をしているようには見えない、というのと「半分だけは」状況を一にしている。 残りの半分は、そのデジタルコンピュータが自分のしていることを自己記述できて、そこで素朴心理学的な説明を(プログラマがそのように仕組むのではなく) 思いつくのでなくてはならない。 実際に実装されているレベルで素朴心理学的であってはならず、システムの自己記述のレベルで素朴心理学的であること、が、要件なのだ。 (これは後半だけみれば、チューリングテストの要件とあまり変わらない。)

 チャーチランドの意識の認知的特徴は、チャーチランドの議論にとっては恐らく不要なのだ。 それは人間やその他の生物の脳や神経系を研究している研究者にとっては有効な手がかりになっているだろうが、 逆に回帰的ネットワークから意識をもつシステムを構築しようとしたときには、ほとんど何の役にも立ちそうにない。 チャーチランドは哲学者は、論理的な可能性が示せればいいのだというだろうが、同じような論理的可能性が、 回帰的ネットワーク以外にある可能性を否定するなり、回帰的ネットワークが特に優れている点を積極的に主張するのでなれけば チャーチランドの主張は少なくとも一貫性には欠ける。 先に回帰的ネットワークありき、なのだとしたら、それは哲学的ではないのではなかろうか。 現象学者が出る幕はないが、チャーチランドの出る幕もない。 哲学者の仕事はここでも残っていないのだ。 必要なのは認知科学者として、回帰的ネットワークの性質を経験的に研究することであって、 別に哲学者の応援(それは応援でしかないだろう)など多分必要としていないだろう。 チャーチランドの本を読んでいてひっかかるのは、彼が他人の褌で相撲を取っているように見えることだ。 哲学者として彼が一体、どのような寄与をしているのかがよくわからない。 まあ、応援団なら応援団でもいいのだが。

 言語がなければ意識がない(例えばデネット)、というのは間違いかも知れない。 だが、言語の定義が問題だ。例えば命題的感受が言語をもたない動物に生じていないとどうして言えるのか? 意識という主体的形式が成立しうる条件と、言語が発生し得る条件との間に平行関係がある可能性はないのか? ホワイトヘッドにおける物的極と心的極の扱いを考えれば、チャーマーズの汎心論は、意識ではなく、心という言葉遣いをすべきだったということになるか?


B.ダマシオ「生起の感覚 意識の形成における身体と感情」をめぐって

1.意識のプロセスのいくつかの側面を脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけることができる。
2.意識と低いレベルの注意、意識と覚醒は、どちらも分離できる
3.意識と情動は分離できない。
4.少なくとも人間において意識は一枚岩的ではない。
5.意識は言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリといった他の認知機能で単純に説明されることがよくある。そうした機能は延長意識の最上層が正常に作用するには必要だが、中核意識には  それらが必要でないことがわかっている。したがって意識の理論は、単に、言語、記憶、理性が、脳と心の中で進行していることに対する解釈を上方から、どう構築しているか、というような理論であってはならない。意識の理論は単に、脳はどのように対象のイメージに目を向けるか、というような理論であってはならない。
意識は、われわれが見たり、聞いたり、触ったりするとき、事象の感情としてはじまる。 もう少し厳密に言えば、それは、われわれの有機体の内部における視覚的、聴覚的、触覚的、内臓的など、 あらゆる種類のイメージの形成に伴う感情である。そして適切な文脈に置かれると、その感情は、 それらのイメージにわれわれのものというレッテルを貼それによりわれわれは、まさにその言葉どおり、 われわれは見る、聞く、触る、などと言う。

自己の種類

(a)原自己:原自己は、脳の複数のレベルで有機体の状態を刻々と表象している、相互に関連しあった、そして一時的に一貫性のある、一連のニューラルパターン。われわれは原自己を意識して「いない」 。
(b)中核意識(中核自己を含む):私が「中核意識」と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己感を授けている。中核意識の作用範囲は「いま・ここ」である。中核意識が未来を照らすことはない。また、この意識によってわれわれがおぼろげに感知する唯一の過去は、一瞬前に起きた過去である。
(c)中核自己:中核自己は、ある対象が原自己を修正すると生じる、二次の非言語的説明の中にある。中核自己はいかなる対象よっても引き起こされる。中核自己を生み出す機構は一生涯ほとんど変化しない。われわれは中核自己を意識している。

  意識の束の間の主役。中核意識の機構を刺激するいかなる対象に対しても、産み出される。そのような対象は永久にいくらでもあるから、中核自己は連続的に生み出され、それゆえ時間的に  連続しているように見える。 中核自己の機構は原自己の存在を必要とする。中核自己の生物学的本質は、いま修正されつつある  原自己の二次マップにある表象だ。

  中核意識は、あるイメージの安定した記憶の形成やそのイメージの想起に依存していない。つまり、中核意識は通常の学習や記憶のプロセスに依存していない。また言語にも依存していない。また、計画、問題解決、創造性といったプロセスの中で一つのイメージを知的に操作することと  同じではない。推論や計画の能力にひどい障害をもつ患者は延長意識の最上層がうまく機能しないが、完全に正常な中核意識を示す。

(d)自伝的自己と延長意識
 自伝的自己:自伝的自己の基盤は自伝的記憶である。 その自伝的記憶は、過去と予期される未来の個人的経験についての多数の内在的記憶からなる。 個人的伝記の不変的特徴が自伝的「記憶の基盤を構成する。 自伝的記憶は生活経験とともに連続的に増大するが、新しい経験を反映するために部分的に改編することができる。 アイデンティティや人格を記述している一連の記憶は、必要があるときはいつでも ニューラル・パターンとして再活性化して、イメージとして明示的なものにすることができる。 再活性化された各記憶は「認識されるべきもの」として機能し、それ自身の中核意識のパルスを生み出す。 その結果、われわれは自伝的自己を意識している。

  中核自己の経験の、永久的ではあるが傾性的な記録に基盤がある。 そうした記録は、ニューラルパターンとして活性化し、明示的なイメージに変えることができる。 その記録はさらなる経験により、部分的に修正される。 自伝的自己は、それが徐々に発達し始めるために、中核自己の存在が必要だ。 自伝的自己はまた、その記憶の活性化が中核意識をもたらすような中核意識の機構を必要としている。

生命調節のレベル

(i)基本的生命調節:代謝調節、反射作用など、かなり単純で定型的な反応パターン。 肉体的な苦や快、欲求や動機になるものの背後にある生物学的機構も含まれる。
(ii)情動:複雑だが定型的な反応パターン。一次の情動、二次の情動、背景的情報がこれに含まれる。
(iii)感情:肉体的な苦と快と情動を伝える感覚パターンがイメージになる
(iv)意識
(v)高い理性:意識的なイメージの中で、複雑、柔軟な反応の計画が立てられ、行動として実行される。

 文化はこれらの上に乗っている。 意識は認識の感情である。 機械が意識を持てるかについての立場は明快。

 意識の形式的機構をもつ人工物をつくることは可能であり、たぶんそのような人工物には或る種の意識があるといえる。 一方で、感情のコピーについては否定的だ。従って、機能主義的にはYesだが、クオリアのレベルではNoという立場。 「人間的な意識の実現には、感情の存在が必要だからだ。「見かけの」情動ならシミュレートできるが、感情の ようなものをシリコンに複製することはできない。感情は、肉体が複製されなければ、肉体への脳の作用が複製されなければ、 そして、肉体へ脳の作用が及んだあとの脳による肉体の状態探知が複製されなければ、複製することはできないのである。」

 これはいわゆるサールの自然主義的な立場に一致するのだろう。 だが、そうであれば、クオリアの「強い」同一性を盾に、機械に意識を認めないのは強すぎる。 人間の意識は人間以外には持てないという、同語反復的な主張をしていることになるからだ。 機能主義的な複製に付随する何か、人間でいけば感情の位置を占める等価物を、その機械なりの「感情」である(この主張は、機能主義的だ。) と言ってはいけないのか。 そして、機能主義的等価物を構成することには、充分な意味があるだろう。

 いつも同じ過去の記憶が構成できるという安定性が、自己の連続性を保証する。逆ではない。 イベントループのイメージ。イベントに応じた状態遷移。リズムなりパルス。要するに或る種の不連続性、出来事の原子性。差分方程式的な記述があいそうだ。 これは力学系だ。

 カントの二元論は形を変えて生き延びていると言える。 ただし切断は認識と実践の間で起こるべきではなかった。 この切断面のずれは致命的だから、理論はほとんど生き残らないのかも知れない。 でも意識にとっての領野が意識についての記述の領野と独立に存在することは変わらない。 たとえ意識が物理的な次元の随伴的な現象であり、その存在は後者に全く依存していることは認めたとしても、意識にとっての領野の独立性は侵害されない。 ただし、それは思い込むだけなら何だって自由にできる、といった意味合いに過ぎないが。だが、全てはそれにかかっている。無限の観念もまた。 「思考上の対象」というのが発生する条件を満たしたとき、後戻りができない逆転が起きたのだ。 因果的関係の説明としての二次的なマップ(感受の感受、享受に相当する)が中核意識を成立させるとしたら、 その二次的マップの成立を支えているのは、「思考上の対象」の成立だ。 それを可能にするだけの内部構造と、内部構造の感受(原自己)が必要だ。 ホワイトヘッドの感受の理論、およびレヴィナスの享受論を、ダマシオの仮説と対照させること。 表象は、やはり必要だし、実際に存在する。それはフォーダーのいう意味で思考の言語である必要は、このレベルではない。 (勿論、フォーダーの要請を満たす表象も存在する。それは、むしろ言語記号「そのもの」だろう。言語の意味ではない。 あるいは意味を表象の「媒体」と分離することは適切でない。) 結局、思考の言語の問題は、意識をもつためには言語と言語能力に依存する必要があるかの問題だ。 答えは明らかに「否」である。

二次マップの成立要件

原因的対象と原自己の変化を別々に表象する多くの神経構造のほかに、原自己と対象の 双方を時間的関係で再表象し、そうすることでいまその有機体に実際に起きていること
•「はじまりの瞬間における原自己」
•「感覚的対象になる対象」
•「はじまりの原自己から対象によって修正された原自己への変化」
を表象できるような別の構造が必要。 

(1)原自己の表象に関わっている部位からの信号、そして対象を表象しうる部位からの信号、その「双方」軸索を介して受け取ることができなければならない。
(2)一次のマップで生じている事象を、時間順に「記述」していくニューラル・パターンを生み出す  ことができなければならない。
(3)そのニューラル・パターンから生じるイメージを、直接的ないし間接的に、われわれが  思考と呼ぶイメージの流れの中に持ち込むことができなければならない。
(4)対象のイメージが強調されるよう対象を処理している構造に、直接的ないしは間接的に  信号を戻すことができなくてはならない。

 意識的状態に含意されるメッセージ:「集中的な注意が対象Xに払われねばならない。」→志向性の成立。

 中核自己は二次マップの「登場人物」であって、観客ではない。 対象が強調されるのに応じて、対象からの因果的効果を受容するものとして、浮かび上がる。 それは「認識の感情」を伴い、それが「自己感」の由来である。 だが、二次マップで構築されるパターンで支配的なのは対象のイメージであり、自己の方ではない。 このことが、しばしば「自己であるとは対象であることだ」(cf.津田「複雑系脳理論」)という表現の由来である。

 中核自己は、常に特定の文脈に埋め込まれたものとして因果的効果の説明の中に現れる。 それは過去も未来も持たない。それは認識される対象が存在しているあいだだけ存在する。 「いま・ここ」に縛られていると同時に、「いま・ここ」を構成する働きをする。

 「本物の」対象も「思考上の」対象も尽きることはなく、したがって中核意識と呼ばれる産物も潤沢で尽きることはない。 マトゥラーナの議論でもそうだったが、ここでは「潤沢で尽きることはない」という点は重要だ。 力学系的な描像もそれを要請する。連続性は、時間の流れの感じは、この潤沢さに由来する。 中核意識のパルスが「意識の流れ」を生む。意識の連続性は安定した意識パルスの生成によっている。

 ところで、概念が成立することも、この過程で説明ができるだろう。 対象の1次的イメージ、自己の状態の変化、そのカップリングの説明としての2次的なイメージ。概念は後者に対応する。 そしてその説明こそが「意味」なのだ。x2←y(x1)の「記述」としてのyの概念。関数としての概念。 (cf.ヒンティッカ)ただし引数はこの場合、自己であることに注意。「対象の同定」の問題はまた別だ。 だが、自己の像ができるのに応じて対象の像もできるだろう。 だから、真の概念は、自伝的・延長的自己に対抗するレベルでしか論じ得ない。 f:x2←y(x1)を定義として、そのような効果をもつ対象を可能世界から返すz←Y(f,w)が定義されるのだ。 勿論、このような明確な(ホワイトヘッドなら表象的直接態と呼ぶ)表象がいつも必要なわけではない。 言語なしで、たいていの認知は済んでしまう。 言語が必要なのは、ウィノグラードの言うブレイクダウンが発生して、対象の事物性が明らかになるときなのだ。

 マトゥラーナらの議論と同様、ダマシオの議論においても、対象が「本物」の対象であるか、「思考上」の対象であるかは副次的な問題とされる。 これは、内部表象の存在を含意する。 ただし、それは安定した記憶とは別のものであってよくて、単に内部・外部を区別する意味がないことを示しているに過ぎない。

 音楽を思い出すことは音楽を思い出すことに留まらない。それに対する反応を思いだすことを含む。 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる。 音楽はその逆転をいわば利用し、その逆転の正しさを実証するといえないか?


C.ジェインズ「二院制の心の崩壊による意識の発生」をめぐって

①ジェインズのオデュッセイア解釈p.232「自己を目指しての航海の物語」
p.333「神のいいなりのジゴロから、流血の殺戮を果たして我が家の炉辺に君臨するライオンへと変身」これは、どうしたってアドルノ等の「啓蒙の弁証法」を思わせる。 これが西洋文明の原テキストだ、という認識は、それが「主観的意識」(ジェインズ)の文明史である、と言っているに等しい。 おまけにジェインズはその出発点における混乱―神の喪失―詩篇を考える― 「野蛮さ」の理性との結びつき、神話と叙事詩の区別、内面の確立の過程を読み出す点は全く並行している。 すると、アドルノの主張の基本線は、ジェインズの主張と全く並行する。 比喩でなく文字通り、意識の様態が歴史的に変容していく様を、各時代の哲学のうちに、また同様に音楽の裡に読むことができる。 これはむしろ構造主義的な知の考古学に近いということになる。 自然主義的に改変された哲学史、、、

②オデュッセウス論における「メルヒェン」についての言及、叙事詩から更に メルヒェンへの移行。 小説の「反省」の、省察の契機は、主観的意識の相関物であることは疑いをいれない。「逆シミュレーション音楽」においては、これは「由来」の側面に本質的な関りを持つだろう。

③「抑圧された自然」の「自然」の意味合いもまた変わってくる。 「神々の声」「ひらめき」勿論フロイト派的な超自我との関係も問題になるだろう。 もっともアドルノが考えるユートピアとしての自然と文明の宥和というのはブラックユーモアになってしまうが。 この自然を「逆シミュレーション音楽」がおかれた状況において考え直してみるのは多分興味深いことだ。それは一方で、ルカーチが「小説の理論」の末尾で述べた、自然が対立物として(再び出現する)類型に関わり、他方でデュピュイの「賢明な破局論」が問われる状況に関わるだろう。そしてそれはまさに「逆シミュレーション音楽」がおかれた状況に他ならない。

④延長意識の様態の可塑性、文化的な相対性 少なくともa prioriな議論はできない。universalではない。 ただし、意識一般ではない、中核意識は動物にもある。 (意識一般といったとき、それは哲学者の考える自己意識ではないことに注意)

⑤音楽―ひらめき、右脳の働き、二院制の心。
 「内なる神」という認識との共通性。アルゴリズミック・コンポジションは、ロマン派的な霊感の対極にあるかのように一見したところ感じられるだろう。そこには「霊感」はないのか?問題となるのは「霊感」ではなく、「技能」なのか? そしてまた、際立って「延長意識的な」内容であること。メタ音楽、ユーモア、、、

⑥レヴィナスの『全体性と無限』でも意識の発生論は、まさに実際に発生した過程である可能性がある。 神話の世界、そしてhypothese。ジェインズのp.310以下を参照のこと。 もう一度、『全体性と無限』および『時間と他者』の意識の発生論は検討してみる価値がある。 その際レヴィナスが現象学の立場を離れて或る意味では自然主義的な立場に立っていることは留意されて良い。

(勿論、それで正しいのだ。逆に後期の方が「おかしく」なっているという見方もできる 前期の方が素朴にみえて、素朴なだけにまっすぐ的を射ている。後期は意識的―ある意味では哲学的・現象学的でありすぎて―屈折が生じているようだ。)


D.延長意識と音楽

 延長意識の音楽への関与について考える必要がある。音楽の主体は、無意識でもなく、技能化された身体でもなく、あくまでもそれらと関りを持つ、延長意識を持つ主体である。だが少なくとも延長意識の様態は、固定的なものではない、可塑的なもので流動的な部分が存在する。 意識「一般」の分析は成り立たない。 それはある文化のある社会において正常に機能しているとみなされているそれについての分析に過ぎない。 だからフッサールにせよレヴィナスにせよ、ハイデガーにせよ、基礎付け主義的スタンスは行き過ぎ、それごと当の意識自身の傲慢なのだ。 いわゆる共同主観性は「本気で」問われるべきなのだ。ある文明・文化に制約された相対性、否、ある社会のある集団の特性に制約されていないとさえ 言い切れないのではなかろうか。例えば哲学者は哲学者としか話をしない。「意識」とは我らが哲学者の、現象学者の意識でないと本当に言えるのか?

 また超越論主義についても考える必要があるだろう。 延長意識が音楽に入り込むことは、メタ音楽的な側面をもたらすことになる。 自己引用というものを意識的か無意識的か判別することは、この場合にはあまり本質的ではない。 異化、パロディ、グロテスク、いずれも規範からの逸脱、歴史的な文化的文脈に対する反抗のような「意図」の水準とは別に、作品そのものの構造の位相でそれが取り出せる筈だ。 少なくとも「延長意識」を持っている聴き手なら、そうした背景なしに聴き取れるような何かが。 どの音楽もそうした文脈をくっつけて聴く前の出会いがあった筈だ。 そして、その出会いのときに何かをつかんだからこそ、文脈への参照への意欲も起きたのだ。 音楽自体が同じ「延長意識」を持つ他者である私に示すものを記述すること、が課題だ。

 それを社会と呼ぶか集団的無意識と呼ぶかの差は、共通性から比べたらずっと小さい。 意図せず語られるものが存在するのは確かだが、それを「社会」に還元するのは短絡だろう。 勿論、個人のかわりに社会が語るのではない。個人と社会の関係が、投影されると言いたいのだろう。 だがそれは、結局個人を消去しないはずだ。 そしてまた、技法の次元との関係も明らかではない。 恐らく技法も素材の1つに過ぎない、という見方は正しい。 だが、すると、各素材との関係の自覚的な面とそうでない面の錯綜をそれぞれ見極めた上で分析する必要がある。 それと聴こえてくるものとの間の関係は何だろう? しかも、そうした分析結果に対する価値判断には、聴く私の立場が更に投影される。 アドルノの虫の良さは一見―自分もまた作曲家であり、演奏家であるというエリート主義にのっとって―享受の極を嘲笑しながら、 音楽を価値付けする「自分の立場」の相対性についてあまりに不躾な立場をとった点にある。 どういう立場であれエリートであれ、作者の立場には立てない。 結局は自分の立場からしか発言できないのに、そのことを忘れたかのような独断を下すから、反発を招くのも当然だ。

 前衛音楽、日常的な意味の剥奪という視点から三輪の音楽を測定する。 レヴィナスのクセナキスのノモス・アルファに対するコメントを思い浮かべよ。 音は寧ろ意味付けされているのが普通だ、という考え方。 レヴィナスのイリヤ。 現象学的還元の意義。 あるいは、ハイデガー的な「もの」の現れ。配慮的行動にブレイクダウンが発生した時に、表象が発生する。それは派生的な現象である。 前衛音楽は、そうしたブレイクダウンを起こすことを狙っている。 では普通の音楽は?普通の音楽であっても、ある種の聴取の態度は、そのようなブレイクダウンを問題にする。 違いはそのブレイクダウンの起こし方と、起きたときに現れる世界の様態か。 あるいは、ブレイクダウンが起きた痕跡を音楽のうちに読み取るということか(アドルノの観相学)。 だが、それは追体験といったものではなく、まさにその音楽がその都度もたらすものだ。 そしてブレイクダウンを起こす意図と、実現は別問題な点で前衛音楽の姿勢は無条件で受け入れることはできない。 一方そのブレイクダウンは例えば宗教的な啓示、非日常的な経験、といったものでありうる。

 だが、日常の中に潜むそうした亀裂を指し示す音楽はより興味深い。 それゆえ、三輪の音楽は興味深い。 もう一度意味を問いなおす批判的な態度。三輪の音楽の「異化」はそうした機能をもっていると論じることは可能だ。 伝統的な様々な様式や語法を、再び一から「表情づけ」しなおすこと(三輪の音楽のスコアには、ほとんど発想指示が書き込まれないこと、その一方で、それは表情のない無機的・機械的な演奏をせよという指示でもない、と繰り返し注記されることを思い起こそう)。 では、三輪を聴くことは?表現の「真直さ」。皮肉や韜晦は、それ自体、真直ぐな気持ちの表現であるというパラドクス? 意味の剥奪ではない。

 別の意味付けの提示。世界観、人間観、死生観などなどといったものの提示? 批判というのも成立している。あるいは批判的態度が表現されている(表現が批判的なのではなくて)というべきか。

 日常性を蔑んでみても仕方ない。頽落ということばは価値論的負荷を匂わせて好ましくない。 だが、私は結局のところ「親密さ」などに価値を置きたくはないのだ。 これは好みの問題であって、ある種の倫理的な価値基準での選択だ。 三輪はそうした好みに合致している。(と私は思っているがゆえに、そのように聞こえるのか?) 少なくともこの場合、音楽を聴くことは音楽だけを、音だけを聴くことではない。 歌詞も、作曲の背景も三輪の人柄etc.といった文脈も、そうしたものをひっくるめて。 そしてそうした聴取のあり方は、その音楽がどのようなものかに一般に依存する。前衛音楽は、そうした聴き方を音楽自体がのぞまないだろう。

 「心の理論」なき音楽かどうかは、主観的であるかどうかとは異なるし、「意識的」であるかどうかとも異なりうる。 意識的だが他者はいないかも知れない。(忘却されているかも知れない)。 他者がいるかどうか、だけでもなく、他者と私との関係が示されていない、「私なき」「描写音楽」になっているかも、あるいは私は神、あるいは傍観者であるかも知れない。 意識的でかつ、他者がいる―「心の理論」があるそこでは「自然」はどうなるだろうのだろうか?


おわりにかえて:常に仮のものであり続ける展望から

 意識ととりわけ音楽との関係で考えるとき、どうしても認識だけではなく行為の次元にも関わらざるを得ない。 それはカント的な言い回しでは実践理性の、倫理の領域である。ハイデガーの道具性の次元もまた行為と 関係があるが、レヴィナスが読み直したようにそれはまさに倫理的次元なのだ。

 認識と行為という2つの領域には優劣はない。ただし倫理的次元はコミットメントや社会性の問題があるから意識の高度なレベルを前提とする。 一方でそれは情態性などといった生物学的に「古い」基層に由来するのはダマシオの議論などにより明らかだろう。

 一方で実践の2つの次元はいずれも認識のスキーマからは遠い。 労働の現象学、倫理の現象学を考えることはできるが、実際には困難だろうし、それは現象学の方法論を基本的な枠組みをはみ出してしまうだろう。 もっともそれは現象学とは何かにもよるのだろうが。

 folk Psychologyと現象学の関係について、例えばレヴィナスは対立するものと考えている。 folk Psychologyは還元前の自然的態度というわけだ。だが、内観による方法には限界があるのは明らかだ。 にも関わらず、クオリアを問題にする以上、現象学的―内観主義的方法は消去できない。 だがそれは最早分析の方法論ではなくて寧ろ説明すべき事実の側に属するといってもよい。 現象学的な態度が可能であること自体が、意識の特徴であって、そのような自己記述が可能であるような、 そのような態度が可能であるようなモデルであることが意識のモデルの条件となる。 いわゆる超越性もしかり。「還元」が可能であることも然りである。

 たとえば存在論を行為・実践として考えたばあい、それは学問の領域というよりは(あるいはそうであるからには、というべきかも知れないが)、 それ自体、世界に向かう態度の一つに過ぎない。 しかも、興味の薄いひとつに過ぎない。それが特別なのは哲学者にとってだけで、自分の見渡せる範囲しか見ない、自分の見方を正当化し、 価値の中心におく我儘がそこには潜んでいるし、哲学者も存在論もその閉域を抜け出すことは原理的にできない。


A.自然主義と反自然主義・心理主義と内観主義

 同様に、自然主義に譲歩したところで意識が問題になる限り、最後に反自然的にならざるを得ない剰余が存在する(cf. 門脇p.92)。 つまり人間が、意識が自らの視界の内に閉じ込められているという事実は残る。 外部に出ることは―そうした意識形態を前提にする限りでは、(そしてそれが文化的に相対的なものか、歴史的にローカルなものかどうかはどちらでも良い)― 出来ないのだということ、それが現象学が明らかにしていることではないのか? 価値や信念の領域は、狭義の心理主義、自然主義では扱えない―今ならこれにさえ留保がつくだろうか?超越論主義―超越論的主観性とは何だったのか?

 アドルノのメタ批判、現象学が意識の様態そのものの「証言」であるとするなら、つまり現象学を可能にするような意識の様態を問題にする限りでアドルノの批判は―彼自身の 立場はおくとして―検討すべき点がある。 つまり意識の進化論の如きものとしてアドルノの批判を、いわば自然主義的に読み返すべきなのだ。

 もっとも、自然主義的な読み直しをしてしまえば、アドルノの主張の「核心」であったはずの、価値論的バイアスがかかっている部分は全てナンセンスになる。 勝手に理性と自然の宥和のユートピアという物語を作ってみせたが、例えばロマン派の音楽は単に分裂を(雄弁なかたちではあるが)証言するだけで、 宥和とかユートピアとか、救い主の危険とかを読み取るのはアドルノの勝手な読み込みではないのか? 意識の構造は、確かに可塑的なものであるし、変化してきたから、それがどうであったかを歴史的に記述することはできる(考古学的レヴェルでは例えばジェインズの試みを思い浮かべれば良い)。 だが、それがどうなるかはともかく、どうなる「べき」かについて、哲学者が発言する資格などない。思い上がりも甚だしいのだ。 寧ろそれは「意識の進化論」のような形で自然主義的に扱われるべきだ。 ミームについての議論も、恐らく意識の側の可塑性と関連付けて論じるべきなのだろう。 (だがこれはあまり関心のある方向ではない。困難でもあるし。)

 いずれにせよ、新たな意識の様態というのが論理的に可能であったとしても、今自分が閉じ込められている意識の様態から逃げ出すことはできない。 「この」意識のあり方を前提にする他ない。 どうあるべきかも、どうなるであるかも、結局「私」の問題ではないのだ。

 今、この地点で宥和を試みることは、大きな危険を伴う。 変えられないものを変えようとしたり変えられると思い為したりすることによってしか、或いは、いわゆる「病的な」形でしか、そうした宥和は、脱出は可能ではない。 ―ドゥルーズ=ガタリのスキゾ分析は、このように考えると、ハイデガーのギリシア回帰同様、全くの見当はずれ、遠近法的には全くの錯覚に陥っている (彼らが未来と思ったものは、実は過去であったかも知れない。ハイデガーの憧れの地は、実は野蛮でしかないかも知れない、というわけだ)。 彼等の方法は、実際には神話への退行と同じではないか?批判しているものと「自然主義的に」考えても同じ方向を向いているとしか考えられないのは何という皮肉か?

 ミームもそうかも知れないが、むしろ脳の可塑性に基づく意識の構造の文化的相対性つまり脳の後成的な発達の方向性と度合いの相対性―これは「進化」ではない。むしろミームに よって方向付けられ、規定されるものだ―の方が重要ではないか? 津田の言う先行的理解は生物・物理的な水準のもので、これはかなり先天的に規定されていると考えて良いだろうが。 哲学者が―現象学者が内観で発見するとされる意識の構造は、そういう先天的なものという事はできないだろう―「超越論的主観性」というのは、うした自然主義的な議論と少なくとも直交するのではなくてはならない。 優越する、というのは間違いで、せいぜい、その都度、その場限りの理論上の概念装置として有効だ、ということでなくてはならず、 決して「超越論的主観性」を実体化、物象化してはならない―もしかするとフッサールは或る種の「自己啓発」のメソッドを考えていたのでは、とすら思える。

 自然主義批判、実証主義批判、心理学主義批判については、一体何を救い出して、何を捨てることになるのかのリストを作成する必要がある。 また、現象学に対する批判についても、受容すべき点とそうでない点―現象学を擁護すべき点―を区別する必要がある。

 恐らく現象学は、主観の側からの記述として、自然主義化されるべきなのだろう。 「原―」「根源的―」といった言い回しを尊重する必要はないが、それは自分の手前に到達しようとする努力を示していると考えるべきで、しかも手間に気づくには、反省が必要なのは確かだ。 (ただし現象学には都合が悪いことに、十分条件ではない。更に具合の悪いことに、批判の対象である自然主義も、実証主義も、心理学も、それぞれ自分の前提―仮説―を検証し、 必要に応じて修正することができる。フッサールの批判は、自分が批判したいサイズに相手を合わせて固定しているだけだ。 しかも自分の背後に意識が気づく方法としては、それらの学の方がフッサールの頑迷な現象学よりもはるかに優れているとさえ言えるのだ。)

 ただし現象学に対する加藤尚武の批判のうち、先反省的な出来事に関する部分は、それがドイツ観念論を顕揚する意図を背後に持つものである限り、ほとんど言いがかりだ。 もちろん反省の限界というのは存在するし、そして、反省の限界を確認することにだって何かの役にたつことがあるかも知れない― それが文体だろうが、お話だろうが、そうした事が語れるような構造が存在しているという条件の提示にはなるだろう。 文体でしかない、という点については、ヘーゲルやシェリング等の観念論が、フッサールより安全なところいるとはとても思えないのだが、、、 絶対知などを先に設定することが何の役にたつのか?意識が一人二役ができるということの方が、意識を解明する上でよほど意味がある。 現象学は批判のネタになるが、今のところはヘーゲルやシェリングの意識論よりも反面教師としてであったとしても役に立っている。 現時点においては現象学の失敗の方が、―人工知能の失敗同様―ドイツ観念論より生産的なのだ。(弁証法的な思考の枠組みは使えるかも知れない。 だが、使えるのは枠組みだけで、内容はほとんど使い物にならない。それが物語であることにおいて、本質的にフッサールよりまし、ということはない。)

B.引き算で考えること

 寧ろここでは引き算で考えること、例えば延長意識、自伝的意識がなければ、時間意識はどうなるか?etc. 自己がなければ世界はどのように立ち現れるのか?etc.を意識ありき、で記述する方法の方が、 意識の記述について批判するより、意識のうち、自己意識がない場合に何が残るのかを検討したほうが良いのではなかろうか。 しかもこれは例えばダマシオ等で明らかなように、ある程度までは検証可能性を備えたアプローチだ。

 一例として、ハイデガーの論点、時間の空間化、歴史性、自伝的自己、Sein zum Todeを取り上げてみよう。 実際には、自伝的自己が可能になったことが時間の空間化、計量を可能にした、と考えるのが妥当だ。 だとしたらハイデガーの言うところの「本来性」というのは、まるで転倒してしまっている。 ―どれを本来性と呼ぶか、も転倒している―寧ろ自伝的意識の「徹底」に方向付けをしている― がそれよりも時間論的な本来性と存在様態としての本来性の間に矛盾がないかどうかの方が問題である。 あるいは延長意識の徹底―時間の空間化の徹底―歴史(自我のも含めて)の成立、のラインは一貫させて、それを否定しようとしている?

 いずれにせよ、本来性とは大きなお世話だ。 まるで自己意識を持ってしまったからには、自分の背中を見る工夫をすることが「正しい」と言っている様だ。 もっともこれまたジェインズ風にいけば、科学と同じ穴の狢、という事になるのかも知れないが。 その始原とは、アドルノが感じていたようなものに近いと考えた方がいい、あるいは「根源的世界経験」としては (佐藤真理人が比較し、的確にも批判しているように)それを調和的に捉えるのはあまりに身勝手だろう。 一体何が還元されるのか?還元の結果残るものは何なのか? それが延長意識の引き算ではなさそうなことは、フッサールの場合には少なくともはっきりしているように思える。 カッコ入れは寧ろ逆に(ハイデガーの本来性同様)、反省によって、文脈を意識することの方向を向いているようだ。 だがそれはfictionを一層徹底し、自己の生み出すイリュージョンを洗練させることにしかならないのではないか? 必要なのは意識を引き算することではないのか? それ故、むしろ頽落態のほうが、Zuhandenseinの方が、享受の方が興味深いのだ。

 結局ハイデガーは全く見当違いだったことになる。(少なくともギリシア以前への遡行の意味するところに関して) 寧ろZuhandenseinや技能的、身体的な埋め込みの領野の発見の方が意味がある。 ―認知科学との接続を試みるドレイファスや門脇のアプローチの方が有効ということなのだろう。いずれにせよ「表象なしの知性」というのは、延長意識を除去したときに何が残り、何が可能かによっては大いに意味がある。

 表象は「外」になる。ノイマン型コンピュータを使う時に生じるetc.という表象を用いた認識を外部に追い出す―筆算、計算機―立場も意味を持ってくる。 ジェインズが(延長)意識の成立に言語が、とりわけ「書記」言語が介在していたと考えているのは興味深い。 要するに、外部に表象があって延長意識が可能になる、という訳だ。

 ダマシオ, デネットの主張も更に検討しなおすことができるだろう。 特に延長意識がなくなったときに何が残るかについてはダマシオの知見を確認すべきだ(実証的だ)。 その上でデネットのMDの仮説がどの程度説得的か、またそれを批判するチャーチランドの考えがどういう点で「粗雑」なのかを確認することができるだろう。

C.コミットメント・倫理・価値

 内省する能力でなく、コミットメントする能力(ウィノグラード)が重要であるという最初の結論にもう一度戻ってみよう。意識はそのための道具というかメカニズムなのだ。
 
 コミットメント主体としての自己には自己同一性の必要性がある。(デイヴィドソンやシューメイカーなどの議論を参照。) 倫理的な(少なくとも価値論的な)主体が優位にある。何故か? それはその主体が人間が存在する世界に埋め込まれているからだ。

 少なくとも人間は自分をそのように理解しているから、その個体にもそうであるように期待する。擬人化はその現れだ。 強いチューリングテストとして以下のものを考える。システム自体に責任をとらせることができるか。 システムが法的主体になるのであればテストにパスしたといえる。

 翻って、機械による作曲、あるいは知的な機械を考えてみよう。 機械が作曲の主体であることは、作曲した音楽が人間のものでありつづける限りは無理だろう。 コミットメントの問題があるというのは正しい。ありとあらゆる背景があって音楽があり、それを聴く。 機械による作曲の結果に対してならば、それはむしろ自己投影だ。 音響合成、音型構成アルゴリズムを前にすれば聴き手の自己がそこに現れる。 (フッサールの自己の移入による他我の構成の実験だ。)

 もっともコミットメント自体が志向的スタンスであるといえる。 だから結局はその機械の「生き方」の問題になる。機械を擬人化できれば、それは作曲の主体だし、 コミットメントも生じる。だがそれを決めるのは他者なのだ。 アルゴリズムのみでは信念帰属の問題が成立するようなレベルにそもそも行かないだろう。 デイヴィドソンの根源的解釈の対象にそもそもならないのだ。

 コミットメントの形成がフレームを形成する。パズルを問題として成立させる枠を構成する。 だから一方で、コミットメントがあるところではフレーム問題は発生しない。 無条件の世界というのは抽象に過ぎない。その意味合いでフレーム問題とは人工知能という領域固有の擬似問題なのだ。 個体はかならず、自分にとっての部分世界に住んでいる。 フッサールの他者論とレヴィナスのそれは矛盾しないし、両立する。しなくてはならない。 どちらも正しいのだ。フッサールの他者論が成立しなければ、レヴィナスの他者の他者性が言えないことになる。

 価値論的次元についての理論は構わないが、理論が価値を決めてはいけない。 根源的という言い回しには危険が伴う。 価値については、結局机の叩き合いになることは免れないだろう。寧ろ、価値については机の叩き合いこそ「自然主義的にみて正しい」とすら言えないか? それが「適者生存」のための競争だったとしたら?声が大きい者が勝つのだとしたら? まさに机の叩き合いとは、ミーム間の競争のことではないか?

 結局、自分の信じる価値を擁護するしかない。石を投じるのだ。私もミームを紡ぐほかない。 その命運は私のよくするところではない。 神の衣を織ることかどうかを、どうして私が知ることができようか? 否、その神はどこにいるのか?この自然主義的な展望のもとで。 同じことが、このような文章を書く理由についてもいえる。それは結局、私的な衝動に過ぎないのだ。 何のために書くのか。それが有限で儚く、取るに足らない意識たる私にとって可能な抵抗の仕方の一つだから。 抵抗せずにはいられない。死別したものの追憶と、素晴らしいミームを遺した、過去の偉大な意識への敬意と、そのミームの存続に寄与したいという気持ちから。 (2019.7.7編集の上、再公開)