2015年10月26日月曜日

「火の鎌鼬」再演を聴いて

2015年10月12日 JTアートホールアフィニス:「男声合唱団クール・ゼフィール第9回演奏会」

湯浅譲二:男声合唱のための「芭蕉の俳句による四季」
三輪眞弘:女声傍観者達と5人の男声歌手のための「火の鎌鼬」

 (藤井貞和「ひとのきえさり」より)
鈴木治行:「Hexagon」for 6 male singers
松平頼暁:A Person has let the "Kerry" out of the bottle

 (男声合唱+女声合唱版・初演、詩:松井茂)

指揮:西川竜太
男声合唱:男声合唱団「クール・ゼフィール」
女声合唱(賛助出演):女声合唱団「暁」


10月12日の「男声合唱団クール・ゼフィール第9回演奏会」にて三輪さんの「火の鎌鼬」の再演に接した。 その後多忙と体調不良のために、しばらく時間が経ってしまったが、以下に感想を記録しておくことにしたい。 「火の鎌鼬」の初演は昨年2014年の3月30日に東京文化会館にて、この作品の委嘱者である ヴォクスマーナの第30回定期演奏会で行われたが、それには立ち会うことができなかったため、 私が「火の鎌鼬」に接するのは、このクール・ゼフィールによる再演が初めてである。 それゆえ従って両方の演奏の間の差異や初演後の作品改訂の有無等については詳らかにしない。

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「火の鎌鼬」は、藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」に基く点において、まさに「ひとのきえさり」という タイトルを持つ作品と共通の素材を持ち、その一方で作品の構成規則として「蛇居拳算」を用い、その演算結果に 基いてサミュエル・ベケットのQUADから「引用」された舞台上の移動経路上を移動する 「蛇居拳舞楽」の規則に基いている点では、「みんなの好きな給食のおまんじゅう」や「59049年カウンター」と共通しているが、 特に「59049年カウンター」は、藤井さんの同じ詩に基いてもいるから、とりわけても「火の鎌鼬」は、 「59049年カウンター」とは姉妹作のような位置づけを占めていると言えるだろう。そこで以下の記述に あたっては、藤井さんの詩を含め、先行作と共通する部分のうち、自分が先行作に接した際の記録として 別に記述が存在する内容の繰り返しは避け、あくまでも「火の鎌鼬」自体についての感想に限定することにしたい。

他方で、一緒に演奏された他の作品は、それぞれ著名な作曲家の手になるものであるけれど、 私にとってはその作曲者の作品にほぼ初めて接するといって良いという条件であるが故、 作品についても演奏についてもいわゆる「批評」が可能であるような立場にないのはいつものことであるが、 今回は「火の鎌鼬」に接するにあたり、あるいは演奏の後でその経験を反芻するにあたり、 相前後して他の作品に接したことが少なからず影響したという事実があるので、 私が「火の鎌鼬」をどう受け止めたかを浮かび上がらせる限りにおいて、他の作品についても言及することにする。 繰り返しになるが、これは演奏会評ではありえない。それを求める方は、会場に必ずやおられたであろう、 それをするに相応しい方に尋ねるべきである。 同じコンサートで演奏されたそれらの作品は、今回、私個人については、或る種の「魔法の鏡」として、 三輪さんの作品の、とりわけても「人間の声」というものの現代における消息に関するポジションを浮かび上がらせる 機能を果したように思えるのだが、それはあくまでも私固有の経験であり、それは如何なる意味でも 客観性はなく、一般化もできないものであることを強調しておきたい。

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この日の演奏会で最初に演奏されたのは、湯浅譲二さんの「芭蕉の俳句による四季」。 フィンランドの合唱団のために、芭蕉の句を詞とする作品において英語と日本語の併用するという作曲者の選択においては、 その視線は明らかに彼の地の演奏者と聴衆に向けられているのだろう。 だが、日本語のみならず英語にしたところで、フィンランド人にとってはどちらも外国語であるには違いない。 (とはいえ、彼の地においては、そもそも公用語の範囲にかぎっても、スウェーデン語、 フィン語という複数の言語が存在するのだが。)それは逆の立場(つまり例えばフィン語によって書かれた詩を、 英訳と併用するかたちで日本人に提示された場合)を考えれば直ちにわかることだ。 一方で「四季」の移ろいはフィンランドと日本では全く異なるものであろうし、 昨今、欧米でも「俳句」が盛んのようだが、それが日本の俳句とは「文化的記憶」を必ずしも共有しないし、 する必要もないのと同様、たとえ「翻訳」である事が意図されていたとしても、英語の詞と芭蕉の句が映し出す風景にも少なからぬ隔たりがあるだろう。結果として、 せいぜいが芭蕉の句の素材に基くヴァリアントでしかありないここでの英語の詞と芭蕉の句との距離感、 それら両方を素材とする「音楽」の三者の関係は、作曲者がノートで記している「文化の記憶」の幾許かを、 無意識の裡に継承している筈の私にとって全く想定外のものと化してしまうことも生じうるのであろう。 しかも今回はその作品を日本人の合唱団が、日本で、恐らくはほとんどが日本人の聴衆を前に歌うのである。 そこで浮かび上がる「四季」は一体どういうものであったろうか?

敢て単純化を惧れずに言えば、結果的に私が痛切に感じたのは、寧ろ同じ日本人における「文化の記憶」 の間にあるずれの方だったのだろう。私の記憶の裡には、例えば「松島に於て芭蕉翁を読む」を書いた透谷が居て、 芭蕉も透谷も訪れたらしい百草園(芭蕉の方は句碑が存在する)が存在するのだが、そうした私の内なる風景において、 そこに連なっているように自分では感じているものの居場所を、上演された音楽の裡には遂に見つけることはできなかった。 ここで透谷にとっては「翻訳」の問題があったことは勿論だが、それ以前に「日本語」そのものが、更には 芭蕉という「文化の記憶」をどう継承するかという点が、のっぴきならぬ大きな問題であったことを 思い出してみてもいいだろう。それは例えば「人生に相渉るとは何の謂ぞ」における芭蕉の句の、一見すると 独りよがりな解釈一つとっても明らかなことだ。 要するに上演された作品との間に「文化の記憶」の相対化の存在についての地平の共通性が ないわけではないけれど、そして疑いのない作品の質の高さにも関わらず、そこで「音楽化」された筈の風景は、 私には自分にとってはひどく疎遠なものに留まり続けたのである。その場にいて音響は間違いなく知覚されては いるけれど、自分が立っている地点からは焦点をどうしても合わせることができず、何が起きているのか わからないもどかしさを感じずにはいられず、ひどく惨めな思いをすることになった。

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三輪さんの作品の後、休憩を挟んで演奏されたのは鈴木治行さんの「Hexagon」。図形楽譜を用い、時間的推移も 含めて不確定でゲーム的な作品。技術的な細部においてどのような工夫がされているのか、一聴しただけでは わからないが、技術的な危うさのようなものはなく、寧ろ既に開拓された領域における良くこなれた作品と 感じられる。プレトークで次回再演に触れ、音響的な実現は全く異なったものになる、との説明があったが、 それも含めて、慎重に過度の逸脱が起きないように管理された空間の中を動き回るのであれば、 都度の演奏を奏者が楽しむことはできようが、仮に熱心な聴き手が再演を聴いたとしても、聴き手にとっては都度、 或る断面が提示されるだけになることは避け難く、しかも大枠はじきに見慣れたものとなるに違いない。

作曲者の嗜好は素材となる音響の選択あたりにあるのであろうが、 伝統的には非音楽的とされるような種類のものも含まれ、更には音楽の進行の謂わば「外側」にある筈の、 持続時間に関する指示が音響的な素材として取り込まれている点も含めて、これもまた既に開拓済みの 領域の中からの選択に見えてしまうし、勿論身体性への配慮も周到になされてはいて、リアルなゲームの進行に 立ち会うスリルにも事欠かないが、それらは人が発するものであっても(「ゲーム」なのだから当然だが)、 結局のところ、中性化された音響素材としてしか受け止めようがない。 それは外部を持たず、一見自在に見えながら、実際には既知の(恐らくは「音楽」というラベルの貼られた) 閉域の中を動き回る。ゲームの自律性、自発性、自在さ、意味づけからの自由はそうした閉域があってのものなのだ。

そして私個人はといえば、そうした閉域が全く自明のものには感じられないし、あくまでも個人的な 価値判断に過ぎないが、如何に知的に洗練されたものであるにしても、そうした場での(「現代音楽」という 名の)ゲームに感心こそすれ、それを己の糧をすることはない。かくして私はそのゲームの成行きを、 (もしかしたらそれもそのように意図されたように、注文通りに)お客様として外から眺めるしかない。 いっそのこと、聴衆もまた外から、「あと何秒」という掛け声とともにゲームに乱入して作品を撹乱するなり 中断してみたら、というようなことが頭をよぎる。けれどもそうしたことは予め大枠として定められた自由度の中には 存在しないから、起きることはないのだ。かくして作品が産み出す時間経過は、私にとっては外的なものでしかない。 そこでの音楽的経験の時間は、如何に巧妙に計算され、意外性とスリルに事欠かなくても、 例えばディズニーランドのようなテーマパークのそれが提供するものに似る。そのことに対する自覚の有無に依らず、 コンサートは知的で洗練されてはいても所詮は高級な娯楽に過ぎない。

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この日のプログラムの掉尾を飾ったのは松平頼暁さんが松井茂さんの詩に基いて作曲した 「A Person has let the "Kerry" out of the bottle」。30分近い演奏時間を要する大作である。 ただしその長大さは、ロマン派の音楽におけるような音楽的事件の経過の波乱万丈によるものでは勿論ない。 ある変換規則に基く9種類の「感情」の出現順序がパターン数4の巡回となるという点が、マクロな時間の経過を 規定している。プレトークで語られていたところによれば、如何に感情なしで書くかを試みてきたところに、 感情とは無縁の詩を素材にすることになったので、上述のように感情を盛り込んでみたとのこと。

だが上述のように決定される巨視的図式は極めて静的なもので、如何なる音楽的時間も産み出さない。 9つあるとされる「感情」のうちの1つがあてがわれる孤立した音響事象が9つ併置されることが更に 4度反復されるだけでしかない。確かに時計で計測すれば時間は経過するのだが、 まさに順序の交換が可能であることからわかるように、そこには時間の流れを構成する契機が欠落しているのだ。 (勿論それはまさにそのように意図されている筈で、逆にそうでなければ、 恐らくは作者の意図に反する結果ということになるのだろうが。) しかも各ブロックにあてがわれる「感情」は、勿論全く恣意的な記号というわけではないが、 実際には「感情」を喚起する音響的身振り・仮面の類に過ぎず、それは例えば、典型的にはロマン派音楽を 聴くときに喚起される感情とは全く無縁のものである。同じことはもともと感情がないとされる詩の扱いについても言える。 原因なく結果としての反応だけが恣意的にあてがわれることで、それは感情が感情であるためには何が必要であるかを、 その不在によって寧ろ逆説的に示唆しているかのようだ。そう、ごく単純に「外部」がここには欠落しているのだ。

結果としてここで聴き手が受け取るものは、いわば感情表現の抜け殻のようなものであり、それに対峙するのは高度に知的な 作業とならざるを得ない。もしかしたら奏者はそうでもないのかも知れないが、途中で退出することも許されず、 30分近くにわたり繰り返して持続する音響的イヴェントに対峙するのは大変な集中力と忍耐を必要とされるように思われ、 体調万全とは言い難い当日の私にとっては完全に自分の能力を超えた作業となってしまったことを認めなくてはならない。

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それでは三輪さんの作品はどうだったのか?まずその過程は状態遷移のアルゴリズムによって厳密に決定されていて、 偶然性が入り込む余地はない。その力学的軌道は人間の心理や感情とは無関係なものであるけれども、その規則が 内在的なものであるが故に、そこに一定の音楽的時間の生じる余地がある。一方で男声合唱に委ねられた音響は、 それぞれ異なった仕方で、何れも極めて禁欲的な他の作品と比べても尚、極めて限定されたもので、藤井貞和さんの詩 「ひとのきえさり」に含まれる「火の鎌鼬」という一節を都度規則によって定められた音高で発声するだけである。 ここで取り上げられた藤井さんの詩の一節「火の鎌鼬」はh/n/k/m/x=0/t/chという総て異なる子音で構成されているが、 実はそれは「ひとのきえさり」全編にわたって貫かれている規則であり、そうした制約の下にありながらその全編は、 ナンセンスに陥るどころか、 プログラムノートに藤井さん自身が記したような架空の民族の叙事詩たり得ていることを考えれば、 その創作は或る種のtour de forceと呼ぶ他ない超絶的なものであることがわかるが、三輪さんの音楽においては その7つ(だからそれは日本語のそれと完全に等しいわけではなく、架空の言語の それと見做されるべきである)の子音音素は男声合唱の発声のピッチと、彼らが持つ、 音高を持ったプラスチックのパイプのそれに大まかに対応づけられているのである。 状態遷移の過程はその音素の分配の変化のプロセスでもあり、ここでは作曲者により慎重に選択された初期値 (というのも初期値の取り方によってその軌道は音楽的に興味深いものにもなり得るが、ほとんどの場合には そうではないであろうから)から開始され、 状態遷移の果てにその配置が初期状態に戻った時が作品の終りということになる。 更に状態遷移の過程は、既述の通り、サミュエル・ベケットのQUADから「引用」された舞台上の移動経路上を移動する 規則である「蛇居拳舞楽」により舞台上で身体的な動作として可視化されている。

実は上記のような消息は、この作品のみの情報に基くのではなく、冒頭で既に触れた、この作品とマトリクス (母型)を共有する他の三輪さんの作品群を俯瞰した時に窺えるものであり、この作品はそうしたツィクルスの中の 「抜粋曲」の如き位置づけを持っているのだが、それら一連の作品全てに共通するのは、作品の上演が (これまた具体的に想像するならば「架空の」ということになるだろうが)儀礼としての性格を持っている点であろう。 儀礼性は中世ヨーロッパの聖歌や能のような日本の伝統芸能に見られるように、実際には寧ろ音楽の持つ普遍的な性格で あるかも知れないにも関わらず、今日の日本における現代音楽のコンサートの中では際立った異質性を放つことになる。 技術的な側面では共通する部分が無いわけではない、この日のプログラムの他の作品との最大の違いは 何といってもこの点にあるだろう。儀礼性が意図されている点は、舞台への奏者の入場の仕方の工夫により、 通常のコンサートでは「しきたり」である筈の開演前の拍手をするタイミングを排除してしまっている点からも 明確に窺える。恐らくはルール通りに間違いなく遂行されることが、美学的・芸術的な観点よりも優越する (ただし後者が全く無視されるわけでは勿論ない)点も儀礼としての性格に起因する。ちなみに合唱が声だけではなく身体的な所作をも行うことは、その歴史を起源まで遡行すれば何ら特異なことでもなければ、外的な「付け加え」でもない。まず古代ギリシアの例えばホメロスやギリシア悲劇におけるコロスのことが思い浮かぶし、キリスト教典礼においても合唱隊が独立して分離する以前は、司祭達が合唱者を兼ねたこと(なお、この点は能楽における地謡の分離の過程を思わせる)は、今なおChorが教会の内陣を意味することからも窺える。合唱についてもそうだが、音楽も語源となる古代ギリシアまで遡ればどうなるかについてては別のところで論じたので、ここでは繰り返さないけれど、三輪さんの試みがその儀礼的な位置づけと併せ、音楽や合唱というものの起源を思い起こさせるものであることは指摘しておきたい。

ただしこの作品固有の側面も勿論あるわけで、ここではその中でも恐らくは最も目立つ点に違いない、 「女声の傍観者達」の役割に言及しておくべきだろう。彼女達は仮想的な「儀礼」の「傍観者」なのだが、 その基本的な「役割」は、定められたタイミングで起立して「火の鎌鼬」(および各パイプの組み合わせによる アナグラムである「町の火、大火」、「火の玉近い」)と囁くことにより儀礼に参加する 以外は、「蛇居拳舞楽」の規則に従って行われるパイプの交換が行われると拍手を行うという点に存する。 それ以外にも、恐らくは儀礼の規則が書かれたノートを見て、隣と雑談したり、儀礼の所作に対して指差しながら コメントしあうといった「演技」も為されるが、それらは拍手と相俟って、「傍観者」性を強調するかのようだ。 私は思わず、文楽公演の開幕前の三番叟におけるお辞儀を自分達に対するものと勘違いして拍手をする観客の ことを思い浮かべてしまった。それが儀礼であれば拍手は寧ろ場違いなものであるいうのは、だが、 日本の伝統だけではない。西欧の伝統においても、ミサ音楽やレクイエムの音楽の上演が典礼として行われる場合には 勿論拍手はしない。それは観客に対する見世物やディズニーランドのショーとは異なって、超越者に対する 「奉納」であるからだ。勿論、ここでの「儀礼」は仮想的なものであり、所詮はコンサートの一部に過ぎないから、 ここで演奏後に拍手をすることが場違いになるわけではない。だが、その拍手の意味するものは、 作品の中で「傍観者」によって示されてしまっているのである。(「火の鎌鼬」初演の際に、実際にこのような 「傍観者」そのものの態度を示した聴衆が客席にいたらしいが、だとしたらそれは大きな皮肉という他ない気がする。)

合唱のコンサートのプログラムには相応しくないと感じる人が居てもおかしくない、音響的な側面の 禁欲性について言えば、私はこの作品とは異なる系列(「新調性主義」)に属する三輪さんの作品 「永遠の光、、、」を思い浮かべずにはいられなかった。そこでの問題は祈りの不可能性ということであったが、 最早かつてのように祈りの歌を感情を篭めて歌うことが不可能性であるという認識が、この「火の鎌鼬」においても 前提となっているように思えたのである。(なおかつそれは、「新しい時代」の系列の作品において、 架空のカルト教団の信徒歌曲として書かれた作品が人間によって朗々と歌われるのと対照的である。) そもそも「火の鎌鼬」とは、「永遠の光、、、」の伝統においてはDies iraeの事に他ならないだろう。 「59049年カウンター」が1000年に一度の大震災と、その結果発生した原発災害を記憶するために 書かれたのと同様に、この「火の鎌鼬」も、架空ではあるが、既に絶滅した民族の滅亡を記憶するための 儀礼であるのだとしたら、その民族の言語の構造に寄り添った「音楽」が、このような姿となることは、 寧ろ自然なことではなかろうか。

上記のように、この作品においては、架空の民族の「文化の記憶」の継承という形をとって、 出来事の記憶の継承が如何にして可能となり、そこで「音楽」がどのように可能となっていくかを 示しているのだが、ここでの「音楽」は、自然法則のような秩序に支配されていて、個人的な 感情や心理の表現といった側面は排除されている。だが、しばしば三輪さんの作品の上演に接すると、 一見逆説的に見えるが、こうした儀礼の中から、他ならぬ「音楽」を通じて、 その儀礼に参画する人間の奥底に秘められた感情が浮かび上がってくるような印象を覚えることがある。 「火の鎌鼬」においては、上述の「傍観者」の介在もあって、それ自体が困難であるという現実が 強く示唆されているように感じられたが、それでもなお、「蛇居拳舞楽」の規則に基いて展開する儀礼の中から、 何かが湧き上がってくるような感覚を覚えたこともまた確かである。それが具体的に何なのかを 言語化することは困難だが、まさにそうした言語化困難な何かを可能にするのが「音楽」の力であり、 危険でもあるのだろう。プラトンが既にその危険に感づいていた一方で、 ベイトソンはその力を20世紀以降を生きる人間のために必要なものと考えていたようだ。 このコンサートにおいて私が強く感じたのは、そこにおいて「感情」というものが極めて 重要な役割を果すということであり、自分の中にある、自分固有のものである「感情」と 上演された作品が本質的な接点を持てたのは、三輪さんの作品においてのみであったということである。

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3連休の最終日の午後、霞ヶ関から外務省の脇を通って虎ノ門の会場に向ったせいもあって、 一層閑散とした感のある都心のホールに集まったのは、作曲者や作詞者を除けば、室内楽用ホールの 多くはない座席をようやくまばらに埋めるだけの恐らくは3桁には達しない、一部の熱心な聴衆のみ、 親密な雰囲気のあるコンサートであった。必ずしも身構えてではなくても、現代音楽の先端の実験を 受け止めるには充分とは言えない体調であった私にとっては、合唱という、接してきた期間からすれば、 個人的には寧ろ他の媒体と比較しても長く、かつ実践にもわずかながら関わったことのある媒体を用いて、どんなことが行われているのかを垣間見る良い機会では あったものの、上述した内容から明らかなように、個々の作品についてその意義を充分に受け止めることが できなかったことを正直に告白せざるを得ない。

その後、体調の恢復を俟つうちに多忙に紛れて感想を纏めるのが遅れたが、ようやく筆を執るきっかけを 与えてくれたのが、「人間の声」の扱いに関しては、このコンサートで演奏された作品それぞれから等しく対極にあると 見做されるであろう合唱曲、ヴェルディのRequiemの末尾、Libera me, Domine...の演奏記録に偶然に 接したことであったことは、恐らく偶然ではないのだろうと思う。 おそらくそこには1ヶ月前に聴いた、フォルマント兄弟によるMIDIアコーディオンによる リアルタイム合成人工音声のアルトと人声のソプラノが歌ったペルゴレージのStabat Materの演奏の 遠いエコーが存在しているに違いない。「音楽の死」の後産み出されたこのコンサートホール向け「宗教音楽」については、 ペルゴレージの作品が既にそうであったのと同様に、ハンス・フォン・ビューローの有名な声明を始めとした 「宗教性」に纏わる非難がついて回っている。だが私はあの「ドイツ・レクイエム」を書いたブラームス が、「音楽」の死を最も意識的に生きた人であったに違いないブラームスが、 同時代人としてこの作品についてどう言ったかを知っている。

幼少の時に無心に接して後、クラシック音楽を聴くことに関しては先輩にあたる多くの人々から異口同音に そうした批判が語られるのを黙って受け止めるしかなかった子供は、だが今(そう、意識の構造が科学的に 解明され、感情についてもようやく解明の緒についた今)、こう呟きたくなるのを堪えることができない。 そういう批判はすべて「感情」について、人間の心の内部と外部の関わりについて、そしてそれらと 「宗教的経験」との関連について、そして「音楽」とそれらの関わりについて、 意識自身が産み出し続けている虚構に捉われているのではないか? 勿論、今、ここでヴェルディのRequiemのような作品を作るのが最早不可能であることは明らかだ。 そしてその点に関して私は、三輪さんのLux aeternaを思い浮かべる。 逆説的な仕方ではあるけれど150年後のレクイエムは、そのようにしかありえないのだ。 そしてまた、Stabat Materは今やあのように歌唱されるべきだし、 今、Dies iraeを書けば、(傍観者の態度も含め)「火の鎌鼬」のような姿でしかありえないのではなかろうか? であればLibera meはどんなものになるのだろうか?テクノロジーに侵食され、ポスト・ヒューマンに到る特異点の、 意識という構造自体の消滅、内面性の消滅の少し前で、だがそれを待つことなく、内面に閉じ込められ、 個別の死に向き合わなくてはならない意識にとってのLibera meは?

勿論こうした反応は、その日の体調という偶発的な要因のみならず、洋の東西は問わず、どちらかと言えば保守的な耳を持つ 私の個人的な事情によるものであることは間違いないことであって、最初に述べたように、ここで演奏された作品と、 このコンサートにおける演奏や解釈については、それを語る資格のある他の方の評価に委ねる外なく、 私としては、音楽を聴く楽しみという点では(2ヶ月前の、同じ現代音楽の、室内管弦楽のコンサートと 比較をすれば殆ど言語を絶すると言う他ないのだが)、それを享受するというには程遠いものになってしまったものの、とりわけても「人間の声」というものの現代における消息に関する 三輪さんのポジションを確認できただけでも収穫があったと考えるべきなのであろう。 寧ろ、個人的にはまだ実演に接していない「みんなが好きな給食のおまんじゅう」のような関連作も含め、 マトリクス(母型)を共有する他の三輪作品と併せ、そしてあわよくば現在において可能なLibera meとともに、 もう一度「火の鎌鼬」の上演に接してみたいということを強く感じた演奏会であった。 (2015.10.25初稿。10.26指摘を受けて修正の上、公開。10.29,11.1加筆)

2015年9月22日火曜日

サラマンカホールでフォルマント兄弟編曲によるペルゴレージ「悲しみの聖母」を聴く

G.B.ペルゴレージ「悲しみの聖母」第1曲(ソプラノ・アルト重唱・オルガン伴奏)

MIDIアコーディオン歌唱:岡野勇仁(アルト:中音マリア)
ソプラノ:さかいれいしう
オルガン:今村初子
編曲:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)

三輪眞弘:独唱曲「訪れよ、わが友よ」&「新しい時代」


ソプラノ:さかいれいしう
オルガン:今村初子

「電子音響音楽祭」(フェスティバル・ディレクター:三輪眞弘)
"テクノロジーと「作曲」の未来", JSSA/JSEMスペシャルコンサート
2015年9月12日
サラマンカホール(岐阜)


9月11日~13日の3日間、岐阜で開催された「電子音響音楽祭」の中で、12日の夜にサラマンカホールにて行われた コンサートにて、フォルマント兄弟が人間のソプラノとMIDIアコーディオンによる人工音声のアルトのために 「編曲」したペルゴレージ「悲しみの聖母」と三輪さんのモノローグ・オペラ「新しい時代」からの抜粋曲である 「訪れよ、わが友よ」および「新しい時代」の演奏に立ち会った感想を以下に記しておきたい。 なおMIDIアコーディオンによるペルゴレージ「悲しみの聖母」に関しては、2015年3月12日に愛知県芸術劇場小ホールにて 行われた初演の映像記録をYoutubeで視聴した折に別に詳述しているので、そこに記載した内容は繰り返さない。

ちなみに同曲の演奏はこれが3度目であり、伺ったところによれば、MIDIアコーディオンのソフトウェアは 2度目の京都大学での演奏の折にバージョン・アップされており、今回がそのバージョンでの2度目の演奏とのこと。 私個人としては京都大学での演奏は聴いていないので、バージョン・アップ後の演奏は初めてということになる。 また、今回の演奏は、サラマンカホールというクラシック音楽用のコンサートホールでの演奏であること、 サラマンカホールに備え付けられたパイプオルガンを伴奏に用いている点が、これまでの2度のピアノ伴奏による 演奏とは大きく異なっていた。

更に言えば、プログラムにおいて続けて、「悲しみの聖母」のソプラノを担当したさかいれいしうさんの歌唱により、 モノローグ・オペラ「新しい時代」からの抜粋曲が演奏された点も見逃せない。 7月12日(偶然にも3度の演奏は全て12日に行われていることになる)に京都大学で行われた演奏は、 三輪さんの講演に付加されたプレゼンテーションの体裁を採っていたが、その講演のタイトルは、 「新しい宗教音楽 - 電気文明における芸術の可能性」であったことを想起されたい。 「新しい時代」は、もう15年も前の作品ではあるけれど、インターネット上に流れる謎の旋律を神からの メッセージだと信じる仮想のカルト教団という設定を持っていたから、こちらはキリスト教の伝統の中、 300年近く前のイタリアで、修道院の委嘱により書かれた紛れもない「宗教音楽」である「悲しみの聖母」を リアルタイム人工音声に歌唱させるという企てと併せ、まさに「新しい宗教音楽」の実践を巡っての プログラム構成が「電子音響音楽祭」という枠組みの中で為されていたことになる。

尚、"テクノロジーと「作曲」の未来"というタイトルを持つコンサートでは、上記以外にも電子音楽作品が 幾つか演奏されたが、そちらについてはいつも通り、個別の作品についてのコメントは控え、その資格のある方々に 委ねることにしたい。

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とは言え、コンサート全体に対して感じたことを一つだけ、敢て記しておくとするならば、それはクラシック 音楽用のコンサートホールで電子音響を用いることの難しさということになろうか。 もっともこれは、電子音響音楽祭という場には凡そ相応しからぬアナクロニックな嗜好を持つ私個人の側の 限界によるものである可能性があることを直ちに附記しておく必要があろう。

私が電子音楽の「実演」をまとめて聴いた経験は極めて貧しく、以前に一度だけ、日仏学院で、 これはそのために専用に設えられた空間で聴いたのであったが、今回経験した クラシックのホールに響く電子音響は、一言で言えば「幽霊的」とでも呼ぶ他無い所在無さを帯びていたように思える。 このコンサートに限定して言えば、ホールの大きさや形状、とりわけてもクラシックのホールの中でも 豊かな部類に属するであろう残響のようなホールの特性を考えると、明らかに大きすぎると感じられた電子音響の音量の せいもあってか、ホールの中に氾濫する音は、だけれどもホール自体が鳴るという感じよりは、異質な容器の中で 所在なく、空間を無造作に占拠しているようで、ホールとは異質の別の空間が穿たれて、そこで響いている現場に 立ち会っているかのような違和感を感じずにはいられなかった。それは仮想的な空間がホールの中に仮構され、 不可視の領域から音が響いてくる(目を閉じて視覚情報を遮断すれば、別の空間に居るように錯覚するかのような) 経験ともはっきりと異なるものであった。恐らくそれは、ほとんどの作品がその場で奏者によって演奏される楽器との 組合せという条件に由来する部分が大きいのではないかと思う。

ただし上の印象を抱いたからと言って私は、クラシック音楽用のホールで電子音響を鳴らすこと自体が無理だと結論づけようとしている訳では全くない。数えるほどしかない私の貧しい聴経験の中でさえ、 例えばサントリーホールで聴いた幾つかのコンサートでの電子音響は、全く違和感なくその場で演奏された アコースティック楽器の音響とのバランスを実現していた。他方でいわゆる電子楽器がクラシック音楽のホールに 響くことに対する違和感というのは(少なくとも私の場合には)最早すっかりなくなってしまっている訳だから、 違和の原因は、その場での音響バランスというエンジニアリングの問題であるか、さもなくば個別の作品に 起因するかのいずれかではないかと考えざるを得ない。(後者の例として、今回鮮明に想起したのは、 ラッヘンマンのAccantoの実演を聴いた時のことで、恐らくこの場合には意図的にそう仕組まれていたかも知れないとはいえ、 また作曲された時代からの隔たりのせいもあるだろうとは思ったものの、スピーカから再生される音響の 違和感は強烈なものであった。)

繰り返しになるが、いずれの作品も作曲者がその場に立ち会っていたようであり、曲によっては音響操作そのものを 作曲者がしていたようだから、単に私の慣れない耳が作曲者の狙い通りの聴取に到達できなかったに過ぎないとも思う。 素材としてみればあまりに(時として放恣なまでに過剰に、とさえ私には感じられた)豊富で多様な音響が ホールに馴染むことなく押し寄せてくる経験は、だが考えてみれば、日常接している、(これもしばしば耐え難く 感じられる)都市での音響の氾濫に近い性質のものなのかも知れず、要するに、それは私の側のアナクロニズムを 証言しているだけかも知れない訳だし。

だが、多くの作品においてその場で演奏される楽器と電子音響とが併置されていたことを考えれば、 単に電子音響に対する慣れの問題であるとも言い難いようにも思えるのである。ホールを問題にしてみたが、 ホールだって楽器の一部、控えめに言っても延長であるということはできるだろうから、問題は 寧ろ、その場で演奏する行為と、その場での調整の余地が若干残されているかも 知れないとはいえ、とりわけ時間方向に対しては事前に収録されたものを再生する他ない電子音響(従って それは電子的であるという点では共通でも、「楽器」とは区別されると私には感じられる)とを併置することに 纏わる困難に起因するようにも思われるのである。

これは「悲しみの聖母」の文脈に引き付けて言えば、 MIDIアコーディオンを岡野さんが演奏することにより、リアルタイムに「中音マリア」という「声格」が 生成され、「彼女」がさかいれいしうさんと文字通り「重唱」を行い、それをオルガンが伴奏するのを聴くのとは 根本的に異質な経験なのであり、事前に打ち込まれた設定に従って歌声を再生することでしかない ヴォーカロイドに合せて(従ってカラオケの逆を行っているということになろうか)器楽が伴奏のふりをする ことに相当するのかも知れない。ちなみに「訪れよ、わが友よ」と「新しい時代」の旋律との関係の方は、 少なくともサンプリングされた旋律が再生にされる部分については同じではないかと言われるかも知れないが、 これもまた、全く違うといわざるを得ない。何故ならば、ここでのソプラノの歌唱と旋律との関係が通常の 歌唱と伴奏の関係にはないということは明らかだからだ。(それは勿論、聴けばわかることではあるが、この場合にはこれらが抜粋された「新しい時代」の文脈に照らせば、そのことに疑問の余地はないだろう。)逆に他の曲では、あまりに律儀に奏者と電子音響との 「合奏」が企図されていたことが違和感の原因であったと考えることもできるだろうか?

いや、そうした事に拘る姿勢自体が最早アナクロニズムで、クラシック音楽の外側では、 今や「カラオケ」が通常なのだという現実はあるのだろうけれど、少なくともこの「電子音響音楽祭」 という催しが、サラマンカホールというホールで行われるというフレーム自体が、電子音楽の作曲に対する 「注文」であったという見方を採るならば、 そうした「注文」の「含意」はあっさり素通りされてしまったのではなかろうか? (ちなみに私は、このコンサートに先行するシンポジウムのサブタイトルの「鵜飼と芸術」が、 その「含意」と密接に関連しているのだと受け止めた。鵜飼とは例えば芸能における人形遣いのことかも知れず、 それがまさに岡野さんがMIDIアコーディオンで行ったことではないか?) 勿論、個別のホールの特性を計算して電子音楽を作るのというのは原理的な 矛盾を孕んでいそうだから、無いものねだりなのかも知れない(だがこれとて、クセナキスの初期のパヴィリオンや特定の場所でのインスタレーションとして企図された電子音楽の例が思い浮かぶ)が、こうした価値判断が前提としてしまっている であろうアナクロニズムを承知で言えば、ホールが「本来の」響きを発していると感じられたのは、 私がここで感想を記す作品が演奏されている瞬間に(全てではなかったけれど)ほぼ限られていたということを、 主観的な事実として記録しておきたい。

*   *   *

勿論そうした音響バランスや音場の問題は、 電子音響がリアルタイムに楽器奏者によって演奏される場合にも存在するわけであり、 ペルゴレージ「悲しみの聖母」の演奏においても、恐らくは限られたリハーサルの時間の制限の中で、 もしかしたら可能であった代替案をあれこれ試行する余裕がなかったのではと、 思わず想像を巡らせた点がなかったわけではない。 今回の「悲しみの聖母」の演奏は、シューボックス形式のホールの正面のバルコニーに備え付けられた オルガンのコンソールの脇にソプラノとアルトが立って歌唱するやり方をとったのだったが、 結果として、オルガン伴奏と声楽パートとの音響バランス、MIDIアコーディオンと人声とのバランスについては、 残念ながら、必ずしも理想的なものとは言い難かったように感じられたのである。 のみならず視覚的にも、バルコニーは客席から遠く、MIDIアコーディオンが「歌う」というパフォーマンスとしての 効果が制限されてしまったきらいもあるかも知れない。

にも関わらず、サラマンカホールでの今回の「悲しみの聖母」の演奏には、これまでの2度の演奏では決して望めなかった 幾つかの決定的な優位性があったと私は考えている。一つはオリジナルのペルゴレージの作品が想定しているであろう アコースティックにより近いであろう特性を備えた空間での演奏であったこと、 もう一つは、時代的にも明確にギャップがあり、 社会学的にも別のコノテーションを持ってしまっているピアノ伴奏ではなく、 これまたオリジナルの作品と様式的に齟齬のないオルガンによる伴奏であったことにより、 オリジナルの作品にとっては理想的な条件での演奏になり、 その結果として、フォルマント兄弟の意図したMIDIアコーディオンによるリアルタイム生成の人工音声による 「宗教音楽」の歌唱の効果が一層明確に感じ取れたように思われるのである。

リアルタイム音声合成の「国際規格」によるラテン語音声の生成の明瞭さというような評価基準を置くならば、 より音響的にデッドな空間で、ピアノのような人声との分離が容易な音色を持つ楽器の伴奏によった前2回の演奏の方が、 聴き手にはより聴き取り易かったかも知れない。だが、オルガン伴奏でもそうだし、更に弦楽合奏が加わる場合もそうだが、 重唱パートの旋律線をしばしばなぞる伴奏が声と溶け合うのは、オリジナルの作品が寧ろ目指している姿であろうし、 とりわけても時として伴奏さえ人声に聴こえかねないペルゴレージのこの作品の演奏として 申し分ないものであったと私には思われるし、奉納と祈祷のための「宗教音楽」としての演奏としては、 ほぼ理想的な条件であったと考えられる。

のみならず、演奏自体も素晴らしいものであった。岡野さんのMIDIアコーディオンのアルトパートは、日本語にはない 子音の連続(今回の場合には、"Juxta"の部分で最大3つ(-kst-)連続する)の実現といった技術的な水準の 困難を感じさせることなく、その歌唱の表現の雄弁さは、れいしうさんのソプラノに比べても最早遜色の 無いレベルに到達しているように感じられたし、さかいれいしうさんの歌唱の表現の深みは、事後的に比較してしまえば 寧ろその後の「訪れよ、わが友よ」でより明瞭に発揮されたと言うべきだろうが、この作品に相応しい歌唱であったと思う。 オルガンの音栓の選択も自然なもので、何よりも合奏として素晴らしく、第1曲のみで終ってしまうのが 惜しまれる程であった。実際のところ、私は音楽に聴き入ってしまい、 もともと全12曲(最後に所謂アーメン・フーガが付く)からなるこの作品にあっては1曲目にあたる 今回の演奏が終ったところで「ああ2曲目以降はないのか」と思った程なのである。 (個人的な希望を記しておけば、終曲となる第12曲、第1曲と同じへ短調によるQuando corpus morieturは、 その歌詞(以後、fac, ut animae donetur / Paradisi gloriaと続く)を考えると、 MIDIアコーディオンによる「誰でもない声」による歌唱のインパクトは一層大きく、 しかもテンポもゆったりとしているので、技術的にも実現可能ではないかと思える。 急速であっても歌詞がAmenだけであるが故に、こちらも技術的に恐らく実現可能と思われる 最後のアーメン・フーガと併せ、是非、今後演奏されて欲しいと思っている。)

「電子音響音楽祭」という文脈に置かれると明らかに異質な、人によっては骨董品的な古色蒼然さと 感じられたかもしれない300年近くも前の作品だけれども、恐らくは今尚(そしてこれからも)、 最初に聴いた瞬間に聴き手の心を捉える力を喪わない、時代を超えた価値を備えたこの作品を聴いて、 私同様に、もっと聴いていたいと思った聴き手は少なからずいたのではないかと思う。 MIDIアコーディオンによるフォルマント兄弟の 編曲が西欧の音楽自体の死を悼むという側面を備えていることはプログラムノートにも書かれている 通りだが、数百年も前の異国の異なる宗教的伝統の中で書かれた作品が、このような形で再演され、 少なからぬ聴き手の心を未だ捉えてしまう力を備えていること自体が(これはクラシック音楽として 受容されている分には素通りされてしまいがちだが)十分に挑発的なことだし、 その声の一部は機械による「誰のものでもない声」であるにも関わらず、ここに「音楽」を、更には もしかしたら「祈り」さえ聴きとってしまうことに危うさを感じる人が居てもおかしくはなかろう。 更に言えば、 この「悲しみの聖母」の演奏が始まった途端にホール自体が呼吸を取り戻したような感覚に捉われたのであれば、 フォルマント兄弟の意図は、今回の試みに関しては技術的にも十分な支えを得て、成功したと言えるのではなかろうか。

実を言えば私は、ペルゴレージの「悲しみの聖母」は これまで専ら、録音と楽譜を通してのみ接してきていて、実演に接するのはこれが初めてなのであったが、 最初に接した実演のアルトパートがリアルタイム合成の人声であるというのは、遠からず300年になろうとする この作品の受容史上、際立った出来事なのかも知れない。そしてその程度は、録音でこの作品に接することに慣れ、 やろうと思えばヴォーカロイドにこの曲を歌わせることだって可能になってしまっている現在の人間ではなく、 寧ろ、例えばペルゴレージ自身にとって、寧ろ大きなものでありえたかも知れないのではなかろうか。 テクノロジーが可能にした電子音響の無限に見える可能性のプレゼンテーションの只中に穿たれたこの試みは、 テクノロジーの「音楽」に対する全く別の関わり方を提示することによって、「電子音響音楽祭」が 成立する基盤を指し示しているかのようにさえ感じられた。

*   *   *

そうした或る種パラドクシカルとも言える状況は、さかいれいしうさんがバルコニーから客席の手前の舞台に降りて、 最初は無伴奏で歌い始める「訪れよ、わが友よ」で一層増幅されることになる。この作品は、それだけをとれば 「電子音響音楽祭」としてはルール違反であるということになろう。(ペルゴレージの「悲しみの聖母」が 普通に人間のソプラノとアルトとオルガン伴奏によって歌われた状況を考えてみればよい。)実際にはその後、最初は オルガンによって奏される「新しい時代」が、ほどなくサンプリングされた音響に基く再生に切り替わり、 更に進むにつれて音響的に変調が施され、最後はサイン波になってしまうという点で、 辛うじて「電子音楽」たりえているのだが、 にも関わらず、最もショッキングなのは、れいしうさんによる「訪れよ、わが友よ」を聴いた途端に、 更にホールが表情を変え、その本来の姿を顕したかのように思えた点であった。擬似カルト宗教のための 作品であるにも関わらず、あたかもそれが演奏されるために用意されたかの如くホールが響くのは、 圧倒的であると同時に、「音楽」の、わけても「宗教音楽」の持つ危うさ、但しここでの宗教は非常に広義にとって、 例えば、三輪さんが「万葉集の一節に基く変奏曲」で取り上げた「海ゆかば」のような作品にも通じるような 危うさを認識させられる経験であった。

このことは、三輪さん自らがフェスティバル・ディレクターを務めている「電子音響音楽祭」を、 こうしたアコースティックを備えたホールで開催することの内在的な批判となってしまい、 意義自体を問いに付してしまうような側面すら備えていると考える人がいるかも知れない。 (私はそこに、寧ろ「音楽とは何か」という問いかけのラディカリズムを読み取る立場に与したいと考えているが。) だが私にとって一層興味深く思われたのは、事後的に種明かしされた「新しい時代」の仕掛けに関して、 勿論、5音目以降オルガン自体が鳴っているのではないことには聴いている最中に、最初は幽かな違和感とともに、 しばらくしてからそうと気づいたとしても、だからといってその後の音響が (少なくとも他の作品におけるようには)「幽霊的」に響いたようには必ずしも感じられなかったという点である。 これは或る種の騙し絵的な馴化の効果ということになるのかも知れないが、恐らく演奏を聴いた人は、 最大限批判的に聴いたとして、仮想であるとはいえ(或は、仮想であるにも関わらず)カルト宗教の 「宗教音楽」がこのホールで斯くも自然に響き、人の心を捉えてしまい得ることの危うさを 強く感じとったのではなかろうか?

思えば、既にプラトンは音楽のそうした性格をその危険性も含めて正確に捉えていたし、 かつてペルゴレージの「悲しみの聖母」もまた、その様式が過度に甘美であり「宗教音楽」に相応しくないと 批判されたのであった。同様に、「新しい時代」が発表された当時は、 オウム真理教の記憶がまだ生々しい時期であり、擬似カルト的な装いはミイラ取りがミイラになるのでは という懸念を生じさせるような危うさを孕んでいたのであった。

かつて書かれた伝統的な「宗教音楽」が人間とMIDIアコーディオン演奏によってリアルタイムに合成される 「誰でもない声」で演奏され、仮想のカルト宗教という外枠を備えた「非電子音楽」(「教義」の方は電力と テクノロジーに全面的に依存しているにも関わらず、そこだけとれば「非電力芸術」ですらある)を 提示することで垣間見ることができたのは、「音楽」そのものが、「電子音響」の利用に代表されるような、 狭義においてテクノロジーに依存することが明白になる遥か以前から、根源的にテクノロジカルであることの 具体的な開示、つまり、音楽がもしかしたら初めから備えていたかも知れない、人間の感覚や身体に 働きかけて「魔法をかける」という呪術的な側面が持つ、根源的な暴力性であり、音楽はその起源から、 知覚を介して意識の奥底にある無意識のレベルに容易に浸透しうる、いわば「魔法をかける道具」として、 原初からテクノロジカルなものであるという事実ではないか。そしてそれは、一例を挙げれば、アンディ・クラークが (少なくとも言語を持つようになって以来の)人間を「サイボーグ」であると捉えるような見方や、 こちらはフォルマント兄弟が以前より参照しているベルナール・スティグレールの時間論における 技術の介在といった主題に通じるものがあるだろう。

勿論、「電子音響音楽祭」という枠組みの中に、電子的な技術によって開かれる可能性を追求する方向性が 含まれることは構わない。だが、既にそうした電子的な環境に組み込まれて、結線され、埋め込まれている訳ではなくても、 「人間」が権利上のみならず、実質的にもサイボーグ化しつつあると見做す方が寧ろ適切かもしれないような現実の中で、 だが同時に、ある時期には「阿片」の如きものであると言われた「宗教」的なものが、 不要なものとして消滅していくどころか、その正当性はおくとして、少なくとも「宗教」の装いの下に、夥しい暴力が ますます猛威を振るうかに見える現実の中において、「音楽」とは何かを 問おうとするならば、技術的な可能性の追及の一方で、フォルマント兄弟の活動や、三輪さんの活動の方向性は 不可欠のものに感じられるのである。

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そしてその上で、今此処で議論を進めることは残念ながらできないが、再びフォルマント兄弟によるペルゴレージの 「悲しみの聖母」の今回の演奏に立ち戻って、そのテクノロジカルな側面 (必ずしも電子的なそれに限定されない)に注目したとき、分析すべきものが膨大に含まれているように思われる。

例えば、「悲しみの聖母」の演奏に用いられた3種類の演奏媒体(メディア)=「楽器」を改めて見直してみよう。 サラマンカホールに据え付けられたオルガン(名称が「器官」という意味を持つ点、様々な音色を生成可能な 点に留意されたい)とポータブルなリアルタイム人工音声「器官」であるMIDIアコーディオン、 そして楽器としての人間の声というメディアの対比というのは、これだけを独立して取り上げるに足る テーマであろう。残念ながらここでは考察そのものを行うための予備的な分析の準備を行うだけの時間的余裕さえ無く、 後日を期して備忘のために幾つか気づいた点を書き留めておくことで良しとせざるを得ない。

1.まずはオルガン。近年の多くのオルガンとは異なって、サラマンカホールのオルガンは電子的な制御を全く行わず、 完全にメカニックに動作するよう構築されているのである(但し、パイプへの送風については、 さすがに人力というわけにはいかず、電力を用いているとのこと)。 つまり他のMIDIインタフェースを備えたオルガンであれば原理的には可能な筈なのだが、このオルガンに関しては、 リアルタイム人工音声合成エンジンを「プラグイン」し、歌唱させることができないのである。 ちなみにMIDIキーボードの規格における右手・左手の所謂「スプリテッィング」について言えば、 「音栓分割」という形態で寧ろ古いオルガンには共通の発想が見られるのだが、このサラマンカホールの オルガンの3段の鍵盤の内、一段は古いスペインの様式のオルガンのコピーであり、音栓分割も取り入れられている。 更にオルガンというのは建築の一部として据え付けられ、それゆえ1台1台全く異なるという点でも特異な楽器である。

2.次いでMIDIアコーディオンの方はと言えば、これはアコースティックなアコーディオンとは全く異なった 物理的機構を備えた電子楽器であり、例えば蛇腹の開閉は、実際に空気を送ることによって音量を 調節するわけではない。それを逆用して、フォルマント兄弟のインプリメントでは、蛇腹の開閉のみを行うと、 楽器が「呼吸」するように設定されている。一方この楽器は量産される工業製品であるが故に、 製造中止になり、部品交換できなくなり、残存する楽器が故障して動かなくなれば、 楽器自体が「絶滅」してしまうという危険に晒されている。楽器としての寿命は、修理をしながら 使うことができるアコースティックの楽器に比べて寧ろ短いかも知れないのだ。こうした側面は 「電子音楽」が抱えている機種依存性の問題に寧ろ繋がっていくものだろう。

3.最後に人間の声について言えば、同じさかいれいしうさんが「訪れよ、わが友よ」を歌っても、 初演以来、既に15年の歳月が経過があるのであれば両者は決して同じものではありえない。 また、比較が可能な「訪れよ、わが友よ」において明らかなように、ソプラノの歌唱についても はっきりと感じ取れることだが、必ずしも声に限定されず、MIDIアコーディオンの演奏、 オルガンの演奏についても同様に言えることとして、人間が演奏する前提に立つ限り、 習熟や奏法の継承の問題が存在するのは当然の事であろう。 特にMIDIアコーディオンによるリアルタイム人工音声合成は、 通常のアコーディオン演奏とは全く異なった困難さを備えていて、今のところは岡野さんの アクロバティックとさえ形容できるような名人芸に支えられているのである。それゆえ伝統芸能のように、 「岡野勇人」がMIDIアコーディオンによるリアルタイム人工音声合成の奏者の「名跡」となることを 想像することもまた、決して突飛なことではないだろう。

上記のような3種の演奏媒体それぞれの特性に加えて、更に、演奏の前提として、 汎用性の高いMIDIインタフェースを前提とした「規格」があり、更にそれに基く自動音声合成エンジンの 個別の実装がある。実装に関して言えば、最初に述べた通り、今回の演奏は、 少なくとも一度のバージョンアップを経たものである。 しかもそのバージョンアップは、奏者の演奏技術の向上との相互作用と無縁でいることはできない。 これは楽器のメカニックが奏法の発達と所謂「共進化」を行っていくプロセスと同じであり、潜在的には、 それが更に「作品」として定着された「編曲」自体にフィードバックされる可能性すらあることに留意すべきだろう。

そしてその上に「作品」が成立する。記譜法のシステム、奏法、歌唱法の伝承を前提として、譜面に固定されることにより、 再演可能な「作品」というものが存在する。「音楽」を再現するための指示としての記譜法というのは 決して「作品」にとって外部的なものではなく、寧ろ記譜法は「作品」とは何かを端的に定義してしまうものであり、 記譜されたものの外に「作品」が存在する訳ではない。より正確には、世代を超えた継承を考えれば、 作品「本体」についての説明、注意書き、「由来」としてのカバー・ストーリーや、音響を生成する為の アルゴリズムの記述も含めて、記録・記譜されたものが全てなのだ。 現代であれば演奏を録音・録画した記録が伝承の補助にはなりうるが、 一部の「電子音楽」を除けば、それはあくまでも或る実現の記録に過ぎず、 「作品」はあくまでも演奏のための指示書として存在すると言えるだろう。 (ここでは継承を前提としない即興演奏はとりあえず考慮の外に置くことにする。)

それは再現にあたり、演奏会場に応じてオルガンが変わり、ある製品が製造中止になった結果、使用するMIDIアコーディオンがMIDI規格を持つ別の製品に変わり、プラグインされるソフトウェアについても別の音声合成エンジンに変わり、さらには3つの演奏媒体それぞれの奏者が変わる可能性を前提としている(もちろん、そうでない可能性を原理的に否定するものはないし、しばしば特定の奏者を想定して「作品」が作られるという経緯と相容れない訳でもない)。 それらはあたかも「作品」の規定の外側にあるかのようだが、一方で、それが「音楽」として成立し、 聴き手を感動させることに関しては、そうした外部が持つ、アナログ的なその都度の演奏行為に依存しているし、 演奏による上演なしで「音楽」が成立しているわけでは決してない。「指示」自体は意識を持つ演奏主体が 読み取るものだが、実際の上演の過程は、演奏のみならず聴取も含め、ほとんどが無意識的なプロセスであり、 それは意識よりも寧ろ無意識の層にこそ働きかけるものであり、それなくしては「音楽」は成立しないのだ。 だから指示書としての「作品」は「音楽」が成立するための制約条件の記述ではあっても、それ自体は「音楽」ではない。 一方で、「作品」はそれを支える様々なレベルのテクノロジーと全く独立に「理念」として存在する何かでもない。 こうした条件のもとで「音楽」はベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」たりえているのではなかろうか。

このような様々なテクノロジカルなファクターとその間の関係は決して自明なものではないのだが、そうした関係を自明の所与として「忘却」し、自分が生きる時代のテクノロジーが提供する手段を、あたかも無色透明かつ自明な「道具」として 利用して事足れりとしてしまうことがしばしば起きる。だがフォルマント兄弟の活動、三輪さんの活動は、 関係を自明なものとせずにその具体的様相を浮かび上がらせることによって「音楽」が成立する条件を探求しているということが できるように思われるのである。勿論、そうした態度は、だからといって単なる認知実験に還元されてしまう訳でもない。 寧ろ上述の「忘却」が認知実験の変わるところのない技術的なプレゼンテーションと通じることはあっても、、ことフォルマント兄弟の活動、三輪さんの活動に おいてもとりわけ今回のケースについては、それは「新しい宗教音楽」足りえていたし、ベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」たりえていた。そして、ここではごく簡単で断片的な素描をしたに過ぎないが、 それでも上記のような3種類の演奏媒体(メディア)=「楽器」それぞれの状況を考えれば、 今回の演奏の持つ一回性の重みを感じずにはいられず、それだけに一層、その一回限りの「無意識のエクササイズ」と しての成功を感じつつ、その演奏に聴き手として立ち会えたことの幸運を思わずにはいられないのである。

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以上をもって、極めて不完全ではあるが、"テクノロジーと「作曲」の未来"と題されたコンサートで演奏された フォルマント兄弟および三輪さんの作品の演奏についての感想としたい。実を言えば、「電子音響音楽祭」の イヴェントとしては、上述の内容は、コンサートで演奏された他の曲よりも寧ろ、(「鵜飼と芸術」に関連して 既に触れたが)コンサート前に聴講できたリチャード・バレットさんと足立智美さんをゲストとしたシンポジウム で取り上げられた幾つかのテーマと響き合うものがより多くあったように思う。 (司会は上記のコンサートでも進行役と作曲者へのインタビューをされた沼野雄司さんで、三輪さんも参加された。) 残念ながら時間の制約から、翌日13日の夜のリチャード・バレットさんと足立智美さんのコンサートは 聴けなかったし、シンポジウムそのものについても、それを正面から評価するだけの持ち合わせが私にはないことを 認めざるを得ないが、その中で取り上げられた幾つかのテーマについては、上記の感想に関連付けて展開させることが 可能と考えている。実際、当初は感想の中に含める予定であったのだが、残念ながらこちらもまた、 時間的な制約から現時点では断念せざるを得なくなってしまった。 いずれ上記の備忘を取り上げて、更に考察を進める機会があれば、その際にシンポジウムでの発言についても是非とも言及したいと考えている。(2015.9.22初稿公開, 23,24加筆修正)

2015年8月29日土曜日

「万葉集の一節を主題とする変奏曲」再演を聴いて

サントリーサマーフェスティバル2015
TRANSMUSIC特別公演
2015年8月26日サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

西村朗<ヴィシュヌの臍>ピアノと室内オーケストラのための(2010)
ピアノ:碇山典子
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

中川俊郎「室内交響曲第1番」(2011/2015)[改訂初演]
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

伊左治直「南海の始まりへの旅」(2012/2015)[改訂初演]
ギター:鈴木大介
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

野平一郎「網目模様」アルト・サクソフォンと室内管弦楽のための(2013)
アルト・サクソフォン:井上麻子
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

三輪眞弘「万葉集の一節を主題とする変奏曲、または"海ゆかば"」MIDIアコーディオンと管弦合奏のための(2014)
MIDIアコーディオン・MIDIキーボード:岡野勇人
東京シンフォニエッタ


昨年11月に大阪で初演を聴いた三輪さんの「万葉集の一節を主題とする変奏曲」が再演されるということで、 仕事のやりくりをつけてサントリーホールに向かう。プログラムは上記の通りで、これは西村さんの企画になる これまで5年間のシリーズの委嘱作を一堂に会して演奏するというコンサートである。委嘱の際のいわば「注文」として、 「内包曲」というのを設定した作品を作るという条件がつけられ、初演の演奏会では、委嘱作自体と併せて 「内包曲」の演奏も行われ、更に「内包曲」楽譜は会場で聴き手に配布されるというのが 共通のフレームであったとの由、その総集編とでも言うべきこの日のコンサートでは5曲の内包曲を綴じた楽譜が配布され、 更に開演前に「内包曲」の演奏が行われるという構成であった。

「内包曲」と作品本体の関係は様々だが、いずれにしても、それを最初に演奏するというのは、言葉による説明なしに、 後ほど演奏される作品についての情報を事前に提示することになるのは確かであり、それは作品本体だけを聴くのとは 異なる質の経験をもたらすことになる。聴き手がどのように受け止めるにせよ、それは聴取のための文脈、地平を 形成してしまい、作品本体を聴くときに、質的には様々ではあっても、アドルノが「パルジファル」前奏曲について 言ったような未来完了的な聴取をもたらすことになるのが、このことの具体的な様相については、後ほど、この文章で 対象とする三輪さんの作品については触れることになるだろう。

まず最初に書き留めておきたいことは、このコンサートが、作品の質といい、演奏の質といい、ちょっと他に 比較すべき経験が思いつかないくらい質の高いものだったということである。並んでいる作曲者の名前を見れば 寧ろそうなって当然と、人によっては言うのかも知れないが、一つ一つの作品は、鳴り響く音のイメージが夫々 ユニークでかつ明確であり、しかもそのイメージを正確に現実の音響に定着させる技術があることが単なる聴き手にも はっきりと感じられるような充実した作品ばかりで、更にそれがこれまた非常に見通しの良い野平さんの解釈と、 東京シンフォニエッタの高度な技術によって リアライズされるのを目の当たりするのは圧倒的な経験だったと言って良い。経験豊かな聴き手であれば、 この日のコンサートについて幾らでも言葉を尽して、その素晴らしさを書き連ねることができるだろうが、 私個人に関してはその資格がないことははっきりしており、また、それに相応しい方々が数多居られるわけなので、 夫々の作品について曖昧な印象を並べることは断念し、以下では自分にとっても二度目となった、 三輪さんの作品についてのみ自分の印象や反応を記録することにする。また、作品自体に関して 初演時に記載した点については、特に今回の印象を書き留めるために必要でない限りは繰り返さない。

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まず最初に、プレコンサートでの「内包曲」の演奏について。 実は三輪さんの作品に関して言えば、作品本体が3部構成になっていて、その第1部が管弦楽奏者の入場に先行して 行われる、通常のモードのアコーディオンによる信時潔の「海ゆかば」の演奏、第2部がMIDIアコーディオンと 管弦合奏による変奏曲本体で、第3部はMIDIキーボードがサンプリングされた「海ゆかば」のカラオケに合せて 「内包曲」を演奏する、という構造を持っているので、プレコンサートでの「内包曲」の演奏は、そうした 構造を更に外から包むような位置づけになる。

岡野さんはプレコンサートでの「内包曲」の演奏を、配布された譜面の通りに通常のピアノで演奏したのだが、 この選択自体が極めて戦略的なものであるのは、配布された楽譜の説明を読めば明らかであろう。 本来この譜面は、MIDIキーボードで、日本語音声による歌唱に変換されるべく書かれているのである。 左手は音素を生成するためのいわば「ボタン」としてキーボードを使っているだけだし、右手もまた、 本来微分音程を12音平均律楽器で可能にするための和音平均化アルゴリズムに基いて、和音を構成する音の 番号の総加平均の音を出すために書かれているのであるから、それを普通のピアノで弾くのは、いわば 楽器の演奏モードの選択エラーを意図的にやっているようなもので、「正しい」モードで演奏されたものとは 懸け離れた音響が実現されることになる。

実際には、これは後で演奏される作品本体の第3部で、今後はMIDIキーボードにより最初は「正しく」 「歌唱」が始まるものの、途中からは、このプレコンサート同様のモードに切り替わっていくことの いわば予告のようなものになっているのである。勿論、プレコンサートでの音を意識的に覚えていて、 それの再現を確認せよと聴き手に謎かけをしている訳ではなく、 作品本体では聴き手に対して表面的には隠されている仕掛を、この日のコンサートのプログラムの構成を 利用して、種明かししてみせたものと受け止めるべきであろう。仮にそれに意識的には気づかなくても、 知覚の或るレベル(概ね閾域下)での印象の沈殿が、(他の作品の聴取を途中に挟んで、2時間近くもの時間の隔たりは あるのだが)第3部の聴取に無意識的に影響しないとは言い切れまい。

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この日のコンサートにおいて作品本体についてまず強く印象に残った点は、それまで演奏された4作品において、 それぞれ方向性を異にしながらも、楽器の特性を存分に使いきった精緻を極めたオーケストレーションが、 非常に高い精度でリアライズされていくのを聴いてきた耳にとってはなお一層、この曲における管弦楽パートが 如何に伝統的な意味合いでの「合奏」に背を向けたものであるかが、視覚的にも音響的にも一層鮮明に感じ取れたことであろうか。

まず、岡野さんが(まるで舞台のセッティングの続きのように)一人で舞台に入ってきて、MIDIアコーディオンを 試し弾きするかのように、舞台上に座り込んで「海ゆかば」を普通に弾き始めると、それがもう第1部の開始である。 演奏中に管弦楽奏者が入場して席に着き、その後登場すべき指揮者もおらず、舞台上でのチューニングもないから、 開演前の拍手をする場所がないのだが、恐らくこれは意図的にそのように仕組まれており、この作品が、 通常のコンサートにおける作品の演奏・享受ではなく、或る種の儀礼の実現とそれへの立会いという性格を 担うべく意図されていることに照応していると考えるべきだろう。

連想されるのは能の上演で、終演後には拍手をする人もいないことはない能楽も、開演前の拍手は存在しない。 というのも、最初にチューニングにあたるお調べが(ただしこちらはいわば舞台裏で)始まり、それが 開演の合図となり、その後囃子方が橋掛かりを通って、地謡が切り戸口から、それぞれ舞台に入って所定の位置につくと、 直ちに笛が演奏を開始してしまうから、こちらも拍手をすることは想定されていないのである。 アコーディオンがお調べよろしく「海ゆかば」を舞台上で座ったまま弾くのは、オーケストラのコンサートではチューニングを 舞台上でするという慣習に対応しているから、構造上の変換による対応はより一層明確なものと思われる。

更に能楽とのアナロジーを続ければ、三輪さんの作品において能管(笛)の役割を果すのは、「打楽器」風鈴である。 能管はピッチが厳密に定められておらず、寧ろ打楽器的にリズムとテンポを決める、いわばアンサンブルリーダーの 役割を果すのだが、こちらでは文字通り打楽器に属するが、西欧音楽の伝統中では「非楽音」と見做されるであろう 風鈴を、但し厳密にピッチを指定して(E)用いることで、管弦楽奏者の「非合奏」の先導役としての位置づけを 与えていると考えられる。そして風鈴を団扇であおいで音を出すのは、能管の一声がそうであるように、 招魂の儀式でなくて何だろうか。実演におけるその効果は視覚的にも鮮烈なものがあるが、 実際にその音に呼び寄せられたようにして岡野さんのMIDIアコーディオンが響きを発して 第2部が始まるのである。MIDIアコーディオンが能におけるシテの「幽霊」としての役割を担っているのは 最早明らかなことだろう。

一方、管弦楽奏者は全体として、サーバにより制御され、WiFi接続の 無線LANで譜面台に載せられた端末に配信されるテンポに従って、定められた音のパルスを刻むことしか許されていない。 (譜面上は弦楽奏者は弓を使うことを禁止されていて、初演時にはその通りに演奏されたのだが、今回は弓を使った 演奏が行われたように記憶していて、記憶違いか、はたまた何か事情があってのことか判然とせず、混乱していたのだが、 リハーサルにて今回は弓を使うことにしたとのことご指摘を頂いたので、ご指摘への謝意とともに、その旨付記しておくことにする。) 指揮者は不在だが、かといって室内オーケストラでしばしばあるようにお互いの間を計り、 聴き合うことで自律的にアンサンブルを形成するのではない。奏者に配信されるテンポがあえて揃わないように、 速度と入るタイミングがメトロノームサーバーにより指定されていて、丁度リゲティがポエム・サンフォニックでやってみたような 異なるパルスの組合せによる効果を、あえて人間が実現するように求められているのである。 ポエム・サンフォニックを例に出したが、音響的な結果だけなら、奏者ではなく、サーバーとLANで接続された 端末そのものが、メトロノームよろしく自ら音を出すようにすれば事足りるわけで、だからここでの狙いは、 実現される音響の側にあるのではなく、その音響が生成するプロセスの側にあることは明らかだ。 序でに言えば、非合奏の側面は、舞台上で奏者がランダムな方向を向いてバラバラに配置されることによって、 視覚的にも強調されている。

そうした管弦(非)合奏の中を、MIDIアコーディオンが、最初は通常のアコーディオンの音を発し、 しばらくすると突然、音声を発するモードに切り替わって(「屍」「死なめ」が繰り返される)、 何度かのモードの交替を経て、その後は「海ゆかば」の歌詞である万葉集所収の大伴家持の長歌の一部、 「海ゆかば水漬く屍/山ゆかば草生す屍/大君の辺にこそ死なめ/顧みはせじ」の歌唱となる。 勿論歌唱とはいうものの、途中で囁きや喘ぎが混じり、最後は叫びに達するというそれは、 今度は人間がやるヴォイス・パフォーマンスを思い起こさせるが、それを音響的に実現するのは、 岡野さん自身の声ではなく、岡野さんが演奏するMIDIアコーディオンによってなのであり、 フォルマント合成によってリアルタイムに生成されるその声は、サンプリングに基づく ヴォーカロイドとは異なって、誰の声でもない=誰でもないものの声なのである。

その後第2部は、家持の歌の引用に続いて、ある特攻隊員の辞世の歌である、 「悠久の/大義に生きん/みたて我れ/みことかしこみ/大空に征く」を、まずはアコーディオンが呟き、その末尾で 風鈴の響きを奏者が風鈴をつかんで止めることで、シテの幽霊が舞台から去ったことが告げられると、 後は管弦楽奏者が、今度は楽器ではなく、自分の声で囁き、そのまま最初に述べた第3部のMIDIキーボードによる 「海ゆかば」の演奏に繋がってゆくのである。囁きと書いたが、音素は非常に明晰に調音される(この点は、 初演時よりも更に徹底されていたように感じられた)ので、 事前に何を読み上げているのかわからなくても、上記の歌に含まれる単語の幾つかは認識できるであろう。

一方第3部の「海ゆかば」の「カラオケ」は恐らく1941年に録音され、実際に大本営発表のラジオ放送の イントロに用いられたと言われるレコード録音をベースにしたものであろうが、これもまた、恰もそうした文脈の 想起を求めるかのように変調が施され、恰もラジオから聴こえてくる伴奏に合せてMIDIキーボードが、 「海ゆかば」を口ずさむかのような効果を持つ。それは第1部のアコーディオンによる演奏の再現だが、 寧ろ、第3部にいたって本来の提示がようやく行われるような、未来完了的な時間構造を感じさせるもので、 ただしそれが徐々にモードエラーを起こし、最後には第0部とでも言うべき、プレコンサートで演奏されたような 「舞台裏の仕掛」を露呈して終るのは、最初に述べた通りである。 初演の時はほとんど最後の節に至ってそのエラーが起きて、圧倒的な驚きを惹き起こしていたが、今回の再演では、 もっと早くから切替が徐々に進むように変えられていて、プレコンサートでの演奏との呼応が図られているように 思われた。

*   *   *

今回の再演においては、プレコンサートでの「内包曲」の演奏も含めて、パフォーマンスとしての構成が 明確に為されていて、何が起きているのかを感じとることができるようになっているように感じられた。 それ故ここで変奏が、通常の意味での音楽的素材、つまり旋律なりベースラインと和声の進行のそれではなく、 実は題名が注意深くそう告げているように家持の歌詞の歌唱に関する、テクノロジカルな変換プロセスにおける (意図的なミステイクも含めた)それであることも明確になったように感じられる。 一見すると必ずしも必然的は見えないかも知れない特攻隊員の辞世の歌もまた、既に天皇警護の家柄であった 大伴氏という集団の歌謡の引用に過ぎず、そこだけを採れば「家持」の作者性は存在しない「海ゆかば」の 歌詞に対して、あえて殆ど「自分の言葉」が含まれない、個人の声が剥奪された歌を辞世に詠むことを社会的に 強制されたいう状況をも含めて、「変奏」なのだというように理解することができるのではないか。

特攻隊員の歌は色々と伝えられていて、もっと自分の言葉が出ているものもあるし、この歌についても、 この歌をいわば「内包」している母親への手紙が遺されていて、そちらはもう少し、こういう「割り切り」を 強いられている状況のようなものがにじみでていて、読んでいて肺腑を抉られるような気持になったことを 記憶している。硫黄島の司令官であった栗林忠道さんの辞世の歌が大本営の玉砕の発表(そこでも 「海ゆかば」が流れたはずである)において「改竄」されたことは、近年、梯久美子さんの本により随分と 知られるようになったが、当時は手紙さえも当然検閲されていたわけだし、それこそ逃亡兵になって ドロップアウトすることを覚悟でもしなければ(しかもそのことによって、親子供や親戚も巻き添えに することになるので、それも含めて覚悟する必要がある)書けないこともあったと思われる。 結局、この辞世の歌の本当の作者は一体誰なのか、寧ろこの歌の背後の沈黙の方にこそ「主体」が 潜んでいるのではないかとさえ思えるのだが、そうした歌はまさにこの文脈における「海ゆかば」の 変奏に相応しいものに感じられてならない。

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勿論、私個人については、初演を聴いた上での再演の聴取であり、仕掛が或る程度わかった上でのそれであるから、 いわばブラインドで聴取したらどうであるかについては逆に知るべくもない。聴取の経験もまた、リセットして 初期化して恰も初演を聴くかのように聴いて双方を比較することなど出来はしないのである。 けれども聴き手が仕掛に気づき意識できるかは、この作品の意図する「儀式の上演」にとっては 副次的な問題ではないだろうか。

初演の時に判然とせず、感想においても率直にそのように書き留めた管弦楽合奏についてもまた、 「録楽」であればそちらにどうしてもフォーカスしてしまう結果としての音響上の効果のみを 論じることの抽象性を強く認識させられた点が寧ろ重要に思えるのである。 このコンサートは収録されていて、後日FMでラジオ放送されるそうだが、 少なくともこの作品に関しては、それは単なるドキュメントに過ぎず、演奏の「再現」ではないことは 最早明確なことの思われるのである。既に上で一例としてリゲティを参照したが、それも含めて 他にも先行する試みがないわけではない、相互に単純な比例関係にないテンポの重ね合わせの 音響上の効果自体を追及するなら、人間の奏者は不要であり、今日ならメトロノームや プレイヤーズ・ピアノ以外の技術的な実現手段は幾らでも存在するのだから、 ここでは結果としての音響よりも、その実現の方法の側にフォーカスがあるというよりも、 そちら側にしか「音楽」はないのだということは明確なのである。

単純な比例関係にならないテンポの重ねあわせによって実現される音響が、 指揮者を頂点とする伝統的な管弦楽ような組織構造によるものか、指揮者はいなくても「窓」と「交通」がある、 室内アンサンブルにあるような組織構造の産物なのか、「窓と交通」のない機械を頂点とする組織構造の 産物なのかを「聞き分ける」のは、充分に敏感で繊細であれば可能かも知れないが、寧ろそれは人間ではなくて、 それを検出する「機械」が必要となるようなレベルの精度が要求されるものだろうし、ここではそうした 判定を行う認知実験をしようとしているわけではないのは明らかである。

そして実はそのことは聴き手にとっては、初めから副次的なものなのだ。なぜなら、実際に眼前で 「窓がなく、交通がない」奏者がスマートフォンを相手に音を奏しているのだし、その結果 として実現される音響の総体を聴いてしまっているから。当惑は勿論、そうした状況全体に対する反応であって、 実現される音響のみ取り出すのは抽象に過ぎないのである。

ただ、可能性として、そうした状況で実現される音響そのものも、それを非音楽的な音響として受け止めるべき なのか、それとも、そこにも音楽があると受け止めるべきなのか、という選択はあり得るわけで、勿論、作曲者に どういう意図なんですか?と聞いても仕方ないのかもしれないが、どっちなんですか?と聞いてみたくなって しまったというのが初演の時の経験だったということなのだと思う。そして再演に接してみると今度は、 人間のような複雑な系では強力なフィードバックが働いて認知は簡単に「歪め」られてしまう、というか、 常に何らかの「歪み」を介してしか認知はできないのだということを感じずにはいられない。

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あるアルゴリズムに従って複数の人間が音響の生成を伴う動作をすることが 「合奏」であるとすれば、三輪さんの作品の中においては、逆シュミレーション音楽の系列の作品 例えば「またりさま」もそうだし、「59049年カウンター」のようにそれ自体が生物のような 複雑で自律的な圧倒的な豊かさを獲得したケースも含めて「合奏」であると言いうるであろう。 が、ここではそういう意味では、(もちろん、音高自体は、MIDIアコーディオンのそれと 関係づけられてはいても)「合奏ではないもの」が問題になっているのである。

一方通常の合奏では、少なくとも聴き合う、あるいはそれだけではなく、アイコンタクトやジェスチュア などによる「交通」がある筈である。だが、ここにはそれもない。「窓」はなく、「交通」はない。 その結果は何か。しかも厳密に記譜はされていて、その通りに演奏するしかない。窓がなく、交通がない状態で、 勝手に音響の各種のパラメータを選択するわけではない。しかも作曲者と聴き手は全体を知ることができるけれど、 奏者はそうでない、という状況を、そこにある不均衡をどう受け止めたらいいのか?

例えて言えば、都市の夜景の灯りの明滅のような効果を、人工的な設定を介してあえて実現しようとしている のだと考えられる。それは近傍との相互作用によりマクロな挙動が創発する生物の群れの振る舞いですらなく、 一つ一つの灯りは基本的には、他の灯りとは交通を持たず、窓を持っていない。結果その明滅は独立しているのだ。 しかもそれが、見る者にとっては不可視である、或る種の統制を受けているかも知れないという点でも、 この比較は興味深い。ラジオ等のテクノロジーを介した統制により、例えば灯火管制が敷かれた状況において 灯火が徐々に消えて暗闇になっていくのを考えてみたらよいだろう。

勿論、演奏は認知実験ではないけれど、フォルマント合成が母音を産み出して、そこに主体の「幽霊」を浮かび上がらせる ように、ここでも音楽の極限によって実現された音響が、何かを浮かび上がらせるということがあっても良いわけで、 ピッチは既に拘束条件の下に置かれているけれど、速度だけではなく、音色のパラメータもあり、 そこに何かが浮かび上がってくるのを聴いてみたいというように思ってしまうのかも知れない。 そんなところにさえ「意味」を読み取ろうとしてしまうのもまた、生き物としての人間、 ある文化の拘束の下にいる「人間」が持っている傾向には違いなかろう。

そしてそうした「人間」の反応を正直に書き留めておくならば、三輪さんが機械に支配された状況において、 音楽が不可能になる限界を見極めるために、更に加えて「非合奏」を設定したこと自体に、逆説的な 可能性の萌芽があるように感じられたのである。適切な喩えとは言い難いが、見えない力の強制によって、 蝉の羽化の周期が素数の重ね合せになることで、成虫の大発生の周期がずれるように。更にここで、それでもまだ 奏者がいて、演奏行為があり、表面的にはその自由がなくても、他の楽器の音を聴き、あるいは客席の反応を 感じることによって。蝉の場合とは異なって、個体がそれに対して全く受動的でしかない自然淘汰の結果ではなく、 自律的な人間が成員であるが故に、カタストロフへの累進的な加速の危険の傍らに、決定論に対するエピジェネティックな 反逆の可能性があるのではないか。そして更には、現実の強制ではなく、強制の「儀式」の上演に参加することで、 奏者は勿論、一見受身な存在でしかない聴き手でさえも協同して、仮想的な場を確保すること自体の中にその可能性が 潜んでいるのではないか。このような言い方しか出来ないこと自体、そうした可能性をきちんと捕まえることが 出来ていないことの証であることを自覚しつつ、だが、後日に備えてそのことは記録しておこうと思う。

最後に、これは聴き手たる自分の限界故に漠然としたものであっても、そうした可能性が感じ取れたことが、 岡野さんや東京シンフォニエッタの方々の素晴らしい演奏あってのことであることを改めて思い起こし、 そのことへの感謝の気持ちを述べて感想の結びとしたい。 (2015.8.29初稿)

2015年5月4日月曜日

MIDIアコーディオンによるペルゴレージ「スターバト・マーテル」歌唱の試みについて

G.B.ペルゴレージ「スターバト・マーテル」第1曲(ソプラノ・アルト重唱・ピアノ伴奏)

MIDIアコーディオン歌唱:岡野勇仁
ソプラノ:さかいれいしう
ピアノ:岩井亜希子
編曲:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)

「サウンドパフォーマンス・プラットフォーム 」
2015年3月12日(木)
愛知県芸術劇場小ホール


MIDIアコーディオンによる人工歌唱のための「兄弟式国際ボタン音素変換標準規格」に基づく 人工音声と人間の重唱によるペルゴレージ「スターバト・マーテル」の初演が、 2015年3月12日に愛知県芸術劇場小ホールにて行われた。初演に立ち会うことはできなかったが、 初演の映像記録をYoutubeで視聴することができたので、その感想を以下に記しておきたい。

*   *   *

まず最初に、これが初演に立ち会った記録ではないことに留意しておこう。一回性の「出来事」に 遭遇した証言ではなく、原理的には何度でも再生可能な映像記録を、実際に複数回視聴した 記録であることを。次に画像がPray/Playの交替を利用したタイトル(「Pr(l)aying voice / Stabat Mater」)が つけられている点に注目しよう。そしてそこでは「祈り」(Pray)が優越しているという点を。 これは宗教音楽の演奏(Play)の持つ、行為遂行的な側面を端的に説明しているとともに、 人工歌唱という、恰も人形遣いが人形を遣ってある「人格」を演ずるかのように「声」格を演ずる(Play)、 MIDIアコーディオン奏者の役割を示してもいるだろう。それは更に「誰」がStabat Materを演奏するのか という問題、「何を」行っているのかという、演奏の主体と対象の問題をこの試みが問題提起している点を 指し示してもいるだろう。演奏の、そしてそれにも増して祈りの主体と対象の問題こそが、この試みの問いかけの、 控えめに言っても最も重要なものの一つであることは疑いないであろう。演奏の、そして、祈りの。 だが祈りの対象という時それは「何を」祈るかではなく、「何に」祈るかではなかったか? では演奏の方は?今や演奏の対象は専ら「何を」しか問題にしないかに見える。「何に」向かって演奏するのか? これはコンサートホールだけの問題ではない。今日でもさすがに能舞台での翁の礼拝に拍手する人間はいなくても、 文楽劇場では、開演前の三番叟の人形の「礼拝」を客席へのお辞儀と勘違いして拍手をする人間が必ず居るものだ。 いや、もしかしたら演者の側の意識としても、半ばは「お客様は神様です」とばかり、それは客席への お辞儀そのものになりつつあるのかも知れない。

しかもそれが、通常のコンサート・ホールでの、しかも「サウンドパフォーマンス・プラットフォーム 」 という枠組みの中で行われた点に留意しよう。前者について言えば、18世紀イタリアのナポリ楽派の 作曲家ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「スターバト・マーテル」は、修道会での典礼用に 委嘱されたという経緯はあるものの、その後の多くの西欧の宗教音楽と同様、コンサート・ホールで 演奏されることは珍しいことではない。勿論、演奏場所として教会が用いられることも多いようだが、 それの本来の姿であるSeptem Dolorum Beatae Mariae Virginis (カトリックの教会暦では9月15日)におけるsequentiaとして、つまり典礼の一部として機能する わけではないことがほとんどであろう。後者はと言えば、上述の「問題提起」の場として、それは 如何にも相応しいということが言えるだろうが、一方でそうしたメタな批判的視点は、それ自体、 祈り/演奏の行為遂行性を損ねることになるのでは、という懸念が生じることは避け難い。 それに対する弁護としては、そうした環境の如何にかかわらず、常に演奏=祈りは成立するのだ という主張が成り立つだろうが、これは今度は、祈りというものが、歌いさえすれば「自動的」、 「機械的」に成り立つのかという、行為遂行性に付き纏う別の疑念を呼び起こすことになる。

更にそうした問題は、幾重かに折り返されて聴き手たる私の問題ともなって戻ってくる。 その場に居て「共に祈った」わけではない私は、「出来事」に参加したかどうかについては、 事実として明らかに「否」なわけであるが、それでは「演奏を聴いた」とも言えないのだろうか? 端的にペルゴレージの「スターバト・マーテル」の演奏のみが収録され、「サウンドパフォーマンス・ プラットフォーム 」という文脈がそぎ落とされた映像に接することにより、寧ろ作品自体・ 演奏自体に端的に向き合えると言ってはいけないのだろうか?これらは形式的には、 三輪さんの言う「録楽」による作品聴取の問題と同型である。ラジオやテレビを媒体にした伝道や礼拝というのは、 日本では必ずしもそうではないけれど、例えばアメリカではありふれた光景であり、 今日において決してめずらしいわけではないという現実も考慮する必要があるだろうか。

何度でも再生可能な演奏記録を視聴することには慣れっこで、それによって「音楽を聴く」ことが 成立していることに疑念を抱くことはほとんどないかも知れないが、では「祈り」の方はどうか? 礼拝を撮影した映像の視聴は、その視聴の仕方次第で、それ自体「祈り」の行為への 参加たりうるのであろうか。そこに付き纏う行為遂行の「今」「此処」からの隔たりが、 演奏=祈りとその聴取=祈りの両方を毀損することはないのか? 正確なかわりに機械的な記録の反復再生によって、「祈り」もまた正確に再生されるのだろうか? ここで私は「祈り」の「幽霊」的な出現に遭遇しているというべきではないのか?

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ペルゴレージの「スターバト・マーテル」はソプラノとアルトの重唱で歌われることが多いが、 今回はそのうちソプラノは人間が歌うのに対して、アルトはMIDIアコーディオンによる人工音声で歌われる。 これまでのフォルマント兄弟の試みでは、人工音声の歌唱に対して、人間が伴奏をするという形態での 「合奏」は行われてきたが、ここでは人間と「共に歌う」点が大きく異なっている。 そうした「合奏」の事例としては、直ちに思いつくだけでも、 ここでと同じく岡野勇人さんが奏するMIDIキーボードによる合成音声に田中悠美子さん奏する三味線が 合いの手を入れるNeo都都逸、幾つかのバージョンでの「夢のワルツ」の伴奏。そして、 「海ゆかば」でのMIDIアコーディオンの歌唱に対する管弦楽によるアンサンブルの否定の試みが挙げられよう。 人力を介さない機械も含めれば、「ひとのきえさり」における、マーチン・リッチズさん製作の Singing Machineの朗詠とドレミパイプの「合奏」による祈りが挙げられるし、更に音声という点に 拘らなければ、東大のシンポジウムで試みられた西陽子さんの箜篌とマーチン・リッチズさん製作の Thinking Machineの合奏、といった例が挙げられよう。

そこで思い浮かぶのは、「音楽」における人間が演奏するという契機を重視する三輪さんの作品群の中では 特殊な位置を占める、テープ作品という演奏の次元が不在なジャンルの作品である「再現芸術における幽霊」である。 「新しい時代」の作品系列に属するこの作品では、年末の街頭で流されている、悔い改めを呼びかける 人間の声の「録音」がサンプリングされて、音素材として組み込まれていた。そこでは布教、伝道という行為の 主体は端的に不在であるわけだが(もっとも私が見かけた「布教活動」では、全く人間が介在しないわけではなく、 先端にラウドスピーカを取り付けた棒を持った人が、彼自身は無言で街頭に立っていたのだが)、そのこと自体も 含めて、更にはテープ音楽の素材として、予め録音された人間の声の再生をもう一度録音したものを用いるという点も 併せて、構造的に、Stabat Materという典礼目的で創られた作品を、MIDIアコーディオンを奏する人間(彼自身は 声を発することはない)を介して生成される人工歌唱により演奏するという今回の試みは、丁度鏡像的な関係に あるように思われる。

序でに言えば、「新しい時代」系列の作品の中核を為すのはモノローグ・オペラ「新しい時代」であるが、 今回の演奏でソプラノを担当しているさかいれいしうさんは、「新しい時代」の唯一の登場人物である、 架空の宗教の信者である少年役を担当しており、また同系列の「信徒歌曲集」の録音もあるが故に、 その「声」は、一連の「新しい時代」作品群のカバーストーリーを想起させずにはいない。

*   *   *

だがここでは、それらのこれまでの全ての試みと異なって、機械が、或はより事態に即した言い方を するならば、別の人工器官によって人間が、誰のものでもない声で、ということになるのだろうが、 中世の修道士の作とされる聖母マリアの嘆きの詩を歌うことによって、キリストの死を嘆く聖母を語ることで共苦し、 あるいは死後の栄光を祈念するということを、固有の声を持つ人間と一緒にしていることになる。 ここでもカバーストーリーを仮構するのであれば、なぜアルトが合成音声なのかについてのストーリーが 必要となるに違いない。更にはなぜ人間が機械と共に歌い、共に祈らなくてはならないかについてもまた。

祈りという点では、合奏の相手が「MIDIアコーディオン奏者により合成される人工音声」である場合と、 Thinking Machine/Singing Machineのような機械の場合との差異は無視できない。更にまた、私はここで 「奏者により合成される人工音声」と言い、「MIDIアコーディオン奏者」とは言わないが、 それは実現された音響が、音色の推移としてではなく、「言葉」として聞こえてしまうという点に拠っている。 岡野さんが演奏しているのが、決してMIDIアコーディオンという楽器ではないのは、結果として聴き手がそこに、 楽器の音色ではなく、人の声を聴き取ってしまうという事実によるのである。だがそうだとして、もう一歩進んで、 それは「誰」の声なのか?ここでフォルマント兄弟が採用している音声合成の方式が問題になる。 誰かの声のサンプリングの再生ではなく、その場でフォルマント合成されるその声は、誰の声でもないが故に、 岡野さんは、例えば別に存在する誰かを再現しているわけでもないのだ。 そして、ことそれが祈りの言葉、数百年前に人間の修道士によって書かれた祈りの言葉であるとき、 「祈りの主体」と「祈りの対象」の問題を浮かび上がらせるように思えるのである。

更にここで、MIDIアコーディオンによる人工歌唱の特質であるリアルタイム性がPray/Playの行為遂行性に とって決定的な役割を果す。ヴォーカロイドのように予め入力した設定に従って歌を「再生」し、 人格を「再生」するのではなく、人力を介して、その場でリアルタイムに歌唱は行われるのである。 中音(なかね)マリアという声格(人格のアナロジーであろう)が設定されているのはヴォーカロイドと同様であっても、 ここでは岡野さんの超絶技巧により中音マリアが「出現」するという点で「演奏」の様相は全く異なっている。 強いて類比を試みるならば、状況は人形浄瑠璃における人形遣いと人形の関係に近い。

ところで人形に人形遣いが「息を吹き込む」(ここで「息」は「生命」の比喩として用いられていることに留意しよう)ように、 「楽器」に「息を吹き込む」ようにして擬似的な人格を与え、宿っている魂を賦活するという考えに対して、 「スターバト・マーテル」が属する西欧での伝統もまた、全く無縁というわけではない。例えばバロック期以前の klangredeの伝統を思い起こしてみれば良く、例えばアーノンクールが日本でモーツァルトの交響曲のアンダンテか何かで 公開のレクチャー=プローベを行った際、実際に喩えとして、器楽パートの対話にマリオネット劇場を用いていたという 話を思い出す。ここでは向きは逆であるものの、楽器での模倣のイメージとして、人間の役者ではなく、あえて 人形の所作が用いられている点が注目される。

だがそれはあくまでも世俗的な状況の描写であり、宗教的な「祈り」ではない。そういう意味ではここでの状況により 相応しいのは、やはり例えば日本における人形遣いの伝統、神事において相撲をとったり、「三番叟」を奉納したりする 日本の人形の伝統であろうし、それらを踏まえ信仰の側を仮構した「またりさま人形」のような三輪さんのこれまでの 試みであろう。しかもここでは「祈り」という行為の主体として、「声」という人間固有のもの、人格や個性と 結びつくものを仮構することが問題になっているのである。誰のものでもない仮構された「声」による祈りについては、、 人間を媒体とした憑依による「他者の声」による「告げ」のようなものとの関係を問うべきなのかも知れない。 そしてその「他者」は、「降霊術」や「口寄せ」のような、ある特定の既知の人格の呼び出しではなく、 未知の人格の出現なのである。 だが、もう一度、西欧の伝統の基盤の一つであるヘブライズムの伝統においても、そもそも人間は神が塵に息を 吹き込んで創造したものとされたのではなかったか。そして人造人間ゴーレムの伝説は、そうした発想に直接 繋がるものであることを思い起こしてみても良いだろう。

*   *   *

それにしても、西欧の宗教音楽、日本語ではなくラテン語の詩を持つ作品を、人工音声に歌唱させることを、 日本において行う意義は何かという問いが立てうるかも知れない。

勿論ここにはまずもって技術的な挑戦といった側面があって、 2013年に制定されたMIDIアコーディオンによる人工歌唱のための「兄弟式国際ボタン音素変換標準規格」の 「国際」という名に相応する多言語への拡張の試みである点がまず指摘されねばならない。そしてそれは単に 日本語音素とは異なったラテン語の音素に対応することだけではなく、「高音キン」という声格が仮想的に 体現するものとされた日本の伝統的な歌謡の発声法や歌唱法とは異なった伝統を持つ、西欧のクラシック音楽に おける発声法や歌唱法への対応をも含んでいるのである。

更に、そうした人工音声の実現における技術的な側面をおいても、ラテン語の歌が(特にそれが21世紀の日本で 歌われたとき)どの程度、「言葉」として聴き手である人間に認知されるのか、その言葉の「意味」が認識されるのか、 という、これは合成音声が介在しなくても存在する、西欧音楽受容における問題に触れる面もあるだろう。 翻訳の(不)可能性の問題やら、母語でない言葉で歌を歌うこと、聴くこと、いわゆる(かつての日本人歌手の) 「カタカナ発音」の問題もあるだろう。西欧においても日常生活では最早用いられなくなっている、 ラテン語という言語の発音の規範の問題も射程に含まれうるだろうし、もう一度日本の伝統に折り返して、 そもそも制度上「国語」としての発音の規範がある筈の日本語の場合においてすら、特にフォルマント合成を ベースにした場合は尚更に、人工音声合成の現場において問題が存在しないというわけでは 決してないことにも目を向けるべきなのかも知れない。

だが何といっても重要なのは、「祈り」において、 言葉の「意味」を伝達することが問題なのではなく、呪文を唱えることが典型的にそうであるように、 言葉を声に発するという行為が、何かに対して作用して効果をもたらすことが問題なのだという側面だろう。 ずっと時代を遡って、隠れキリシタンの「オランショ」が「意味」が脱落した 「呪文」のごときものと化してしまったことを思い起こしてみても良いかも知れない。だがそもそも、 神道の祝詞や仏教におけるマントラ、いや仏典の中国語訳を音読するという「お経」だって、 「意味」が脱落した「呪文」のごときものではなかったか。ここでもまた西欧のカトリック圏における ラテン語が祈りの言葉としてもっていた地位と引き比べてみるべきなのかも知れない。 いずれにせよ「祈り」においては、言葉の意味の伝達ではなく、だが単なる叫びや呻りと いった感情や情緒の表現でもなく、まさに意味を持った言葉を唱え、歌うことが持つ効果が問題なのであることを、 フォルマント兄弟の試みは鮮明に浮かび上がらせているように思われる。

*   *   *

他方、Stabat Materという西欧の既成の宗教的伝統に根ざし、西欧音楽の伝統に根差した作品を、 従来は専ら日本語による都々逸や山唄といった日本の伝統芸能を対象としてきた人工歌唱の対象として 取り上げるのは、極東の架空の島の歌から逆シミュレーション音楽に至った後、 三輪さんが提唱した新調性主義のコンセプトのうち、西欧音楽の伝統を意識した部分と 並行するところがあるように思える。

それに関連して注意しておきたいのはフォルマント兄弟によるこの演奏の紹介の文章で、そこには 「ソプラノ、さかいれいしう(人間)とラテン的声格のアルト、中音(なかね)マリア(人工音声)の 二重唱による18世紀珠玉の名曲。聖母の如く音楽に跪きその死を悼む「初演」である。」と記されているのである。

一読してひっかかるのは、「その死を悼む」の「その」が一体何に係っているのかという点だろう。普通に読めば 直前の「音楽」を指しているように読めるが、もしそうだとして、今度は「音楽」とは、更に前の部分で出てくる 「18世紀珠玉の名曲」=ペルゴレージの作品のことなのか、それともそれに代表される「音楽」一般のことなのかの 可能性があるだろう。意図的にその辺を曖昧にした文章が用意されているわけだが、まずはその解釈の如何によらず、 現時点で既に喪われてしまっているものを、喪われたことを前提に悼むことは可能であり、 そしてそうした「不在の対象」「幽霊的な対象」への行為の遂行によってのみ可能になる何かがあることが 告げられているのは確かだろう。

だが、更に別の読みの可能性はないものだろうか? 普通には、作曲者ペルゴレージの死を悼むというのならこれは自然に見えるが、でもこの文脈ではそれが 当たり前というわけでは到底ない。まずは25歳で夭逝した作曲者の遺作という背景知識があればのことで、 そうでもなければ、そもそも作曲者を悼むというのは、アニヴァーサリーとか、命日(3月17日ということで、 奇しくも割と近くではあるが)とかといった文脈なしには、作品演奏の「目的」として普通ではないわけである。 あるいは更に深読みをして、Stabat Materは聖母がイエスの死を悼む内容だから「その」はイエスだ、 という可能性もあるかも知れない。だがここでも「記念日」「暦」に拘るならば、前述のとおり、 カトリックの教会暦ではStabat Materがsequentiaとして用いられる Septem Dolorum Beatae Mariae Virginisは9月15日である。

かくして結局のところ、最初に述べた、直近の「音楽」の「死を悼む」というストレートな解釈が妥当であるとして、 その上でなぜStabat Materを歌うことが追悼という行為になりうるのかを問うならば、作曲者ペルゴレージの 西欧音楽史上の位置づけを振り返り、Stabat Materという作品の西欧音楽における位置づけを確認してみる必要があろう。

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ペルゴレージの作品は丁度バロックと古典期の端境にあり、先駆的な古典派の作曲家に分類されても おかしくない様式を備えていて、例えば古代ギリシアの「エトス」(Ethos)論、バロック期の「情緒説」(Affektenlehre)といった 伝統と、平均律以前の調律法を踏まえた調性格論(Tonartencharakteristik)は健在である。 「スターバト・マーテル」も その作品の内容に相応しく、死者の葬送・追悼や、死についての瞑想、 Memento moriの調性であるヘ短調が主調であり、ここで演奏された第1曲Stabat Mater dolorosaは そのヘ短調で作曲されている。例えば良く知られた古典期の調性格論であるC.F.D.シューバルトの『音楽美学の理念』 (C.F.D.Schubart, Ideen zu einer Ästhetik der Tonkunst, 1806、ただし調性格論の箇所が実際に執筆されたのは18世紀末の 1780年代とのこと)所収の説では、ヘ短調は「深い憂鬱、死の嘆き、悲惨な呻き声、埋葬への憧憬」 (tiefe Schwermuth, Leichenklage, Jammergeächz, und grabverlangende Sehnsucht)、もう一つだけ例を挙げれば、 ペルゴレージと同時代のマッテゾンのそれ(Johann Mattheson, Das neu-eröffnete Orchestre, 1713)では、 「穏やかで平静、深く重苦しい、絶望的、死ぬほどの心の不安、暗く救いようのないメランコリー、恐怖心、戦慄」とされていて 一見取り止めがなさそうであるが、五度圏の中の位置関係による相対的な性格付けには一定の傾向が存在するし、 それは何よりもペルゴレージのStabat Mater自体を聴く事でより明確になるものであり、第2曲目以降、調性は ハ短調、ト短調、変ホ長調、ハ短調、ヘ短調、 ハ短調、ト短調、変ホ長調、ト短調、変ロ長調、ヘ短調という遍歴を経ていって、 その過程は光の寒暖(といっても実際には一貫して、どちらかといえば暖色系の色彩の中での コントラストなのだが) や明暗の変化となって「見えて」くるように作曲されているのである。

一方でこの作品は、一般にはそうした様式的な特性ゆえに、宗教曲としてあまりに甘美過ぎるという批判を長く受けてきた歴史がある。 その後の 西欧音楽は、大規模な演奏会用音楽であるレクイエムやミサ曲の傑作を幾つも手にすることになるが、音楽史上は 寧ろオペラ・ブッファの先駆となった幕間劇(インテルメッツォ)「奥様女中」の作曲者として有名であるからというわけではなく、 この作品は恐らくそうした典礼目的の作品から逸脱していく傾向の潜在的な嚆矢となるような側面を内在させているのは間違いない。

だが、他の先行する音楽が劇場での演奏を想定したもので あったとしても、 あるいはこの作品が(同じ編成のスカルラッティの同じ曲に替わるものとして)修道会から 委嘱されたものであったという事実を考慮しても、そうした事実関係のみでは、 作品が己の裡に内在させている傾向性を測ることはできない。 音楽が(教会音楽も含めて)「人間」(これは西欧的な伝統における概念としてのそれを指す) のものであるとしたならば、この作品こそ、他の後続するあらゆる作品に優って そうであるという印象を受けるのである。 同時代の、だが自身はより保守的な様式の作曲家であったJ.S.バッハがこの作品に目を留めていて、 ドイツ語の歌詞への付け替えを行ったものが残っていることは良く知られている(詩編51番のドイツ語歌詞による 、モテット「我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ(Tilge, Höchster, meine Sünden)」BWV1083)し、 時代を遥かに下ってストラヴィンスキーが新古典主義に向かうにあたり、偽作も含めた「ペルゴレージ」の様式に 範を求めたこと(「プルチネルラ」)も良く知られているが、そうした消息もまた、この作品が時代に還元しようとする 議論を遥かに凌駕する独自の個性と普遍性とを兼ね備えていて、ここでフォルマント兄弟によって採り上げられることによって、 300年の歳月を経ても滅びることがないどころか、ますます輝きを増すかにさえ見えるのである。

それは、この作品と、この作品が代表する時代とともに何かが終ってしまい、その後の西欧音楽史というのが、 長く、そして華やかではあっても、その後はその死に向かう緩慢なプロセスそのものではなかったかということを 感じさせることはないだろうか、例えばもう少し先のベートーヴェンの晩年のミサ・ソレムニスが最早或る種の回顧でしかなく、 単に時代の嗜好からすると反動的な様式を用いているという以上に、作品に刻印された「音楽」への向き合い方の結果として、 恰も廃墟のような印象を与えるのを見る時、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」はそうした身振りからは (もしかしたら、これ一度限り奇跡的に)自由でありながら、超越的なものとの関わりを保っていることに気付かざるをえない。 (今ひとつの例外になったかも知れないモーツァルトのレクイエムが遂に完成されることがなかったということは、 偶然とは言え、まさにここでの展望に相応しいことのように思われる。)

「聖母の如く音楽に跪きその死を悼む」というのは、従って、そうした音楽の在り方が最早その後不可能になったという 認識を告げる言葉なのかも知れないのである。冒頭に指摘した、演奏を記録したYoutubeの映像のタイトルが Pr(l)aying voice / Stabat Materであるというのは、演奏が祈りの形でありえたような音楽の在り方が、その後、 第一義的には演奏でしかなくなってしまったこと、そして今や、再び演奏が第一義的に祈りであろうとすれば、 誰のものではない幽霊的な声を獲得するために、人工音声合成による「声」が必要であり、 そのためにはあたかも人形に息を吹き込む人形遣いのように、MIDIアコーディオンを 操作するといった迂路を経なくてはならないのだ、という認識を告げているのではなかろうか。

ピリオドスタイルの演奏が すっかり一般的になった今日、この作品においてもまた、一般的であるソプラノとアルトの女声による重唱を 弦楽合奏が伴奏するという演奏スタイルは、しばしばその後の受容が齎した歪みの結果であり、 作品の「真の姿」を伝えていないという批判がしばしば行われ、勿論、作品が元々置かれていた文脈を再現する作業の 持つ意義を否定するわけではないが、それがその後、この作品が数百年の時間を通して生き延び、今後も生きていくという 過程を蔑ろにするものであってはならず、だが、そうした作品の今後の生命を考えるとき、寧ろここでのフォルマント兄弟の試みのような 方向こそが、「祈り」としての「演奏」という本来の姿を継承するに適切なのではないかとさえ感じられるのである。

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勿論、そうした例外がこの作品において起きたことについては、より個別的な状況が関わっているという事情があるのかも知れない。 この作品は、300年近くも昔の異郷の地で、26歳で己の生涯の終焉に立ち向かわざるをえなかった1人の人間、ただし稀有な才能を授かった 天才である1人の人間が、苛酷な運命に曝されつつ、だがその才能によってその運命の過酷さを未来の人々の記憶に刻印し、 まさにそうすることのできる能力の持つ無限への飛翔を記録した作品なのである。

音楽の力はヴァーチャルなものに過ぎず、その音楽が鳴り響くちっぽけな脳の中にその座があり、通常魂と呼ばれているもの以外の 何かを変えるわけではないけれど、無限に向けて歩む人間が遺した音楽は、繰り返し演奏され、演奏が記録されることによって転移し、 伝播を繰り返すことによって、作品にとっては絶対的な過去であり、作品自体がそれの痕跡であるところの或る出来事が生起した場としての 魂を指し示すとともに、別の魂における、そうした出来事の生起への誘いとなるのではなかろうか。

その時、魂は生きているのでもない、死んでいるのでもない、幽霊的な 在り方で私に向かって呼び掛けてくるのだ。 それは例え私にその能力がなくても、 他の誰かが為し能うであろう無限への飛翔がかつて生起したという事実の証拠であり、 かつ今後生じるであろうことの預言でもある。300年の年月を経て、その音楽がフォルマント兄弟の手によって、 機械に歌唱させることによって本質的に幽霊的な声を獲得するという状況は、超越的なもの(の不在)に対する「祈り」における主体の在り方、 そしてそこでの音楽と人間の「個性」と呼ばれているものの関係を浮かびあがらせる試みであるように思われるのである。

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より技術的な可能性に範囲を限定し、「声格」という概念に限っても、それがどのように定義されるかという 問題は様々な問題を孕んでいるように思われる。

まず、声のモデルの問題がある。多くの場合音声合成は、サンプリングしたモデルの声をベースとして 行われ、ヴォーカロイドの場合はしばしば誰の「コピー」であるということが話題になったりもするようだが、 フォルマント合成による音声合成の場合でも、基本となる声については何等かのサンプルをいわば 「モデル」としてそれを加工して作成するから、やはり特定の誰かの声に意図的に似せることは可能であり、 実際にフォルマント兄弟の過去の試みの中でも、フレディ・マーキュリーに似せた声に日本語の歌唱を させるというものがあった。

だが、フォルマント合成を敢えて行う方式を採る意義を考えると、 サンプルはあくまでも出発点である素材に過ぎず、フォルマント合成された声はサンプリングされた特定の 「誰か」の声そのものであるわけではなく、やはり「誰のものでもない声」になる点が重要であろう。 中音マリアの場合であれば、一聴して感じ取れるように、ソプラノを担当しているさかいれいしうさんの声が ベースになっているようであるが、それはれいしうさんのコピーであるわけではなく、れいしうさんの声に似た 別の「声格」であるとするのが適切であろう。

そもそも声格というのは人格のアナロジーではあるけれど、それは両者に一対一の対応が存在することを意味しない。 寧ろ声格の観点から見れば単一の人格が多くの声格と対応することだって考えうるのである。 実は私は当初、「高音キン」と「中音ギン」の重唱をイメージしていたのだが、実際には「中音マリア」は 「中音ギン」ではなく、西欧クラシック音楽の発声法固有の声質を備えた別の「声格」なのである。

ところでそのようにして実装された「中音マリア」の「声格」とMIDIアコーディオンの関係を考えると、それは 所詮はハードウェアにデータとしてロードするという形をとるわけで、ある特定の物理的なMIDIアコーディオン固有 (つまり物理的構造に基づいた)の「声」であるわけではないことに気付く。逆にそのことは、例えば MIDIアコーディオンを何台か用意して、同じ「声」をセットして、重唱させるといったことを可能にするのである。 実際には楽器一台一台の癖のようなものも厳密には問題になりうるだろうが、その程度は、 楽器の物理的な構造と、音色の質が直接的に結びついている場合に比べて問題になりえないくらい 小さいものになるということだ。

さしずめ人間なら、近年は割と行われる「多重録音」による一人芸が思い浮かぶところだが、 MIDIアコーディオンはいわば人形であって、人間ではなく、人形遣いにあたる人間たる 奏者が必要で、これは複数の楽器を一人で同時にというのは岡野さんでも不可能であろう。 (もちろん、この場合も多重録音でなら可能なわけだが。) 従って、今度は「声格」と奏者の間の関係を問うたときには、同じ声を複数の奏者が共有する ということが起きるわけである。

かくしてここでは、声格とそのモデル、MIDIアコーディオン、奏者の間の関係は、通常は自明のものとして 同一視されるものを分離し、唯一のものであるものがコピー可能であるといった状況を呈することになる。 一般に声質というのは人格と結びつき、「声紋」というのがあるように、個人を同定するために用いられる ことすらあるが、他方で同じ岡野さんでも、フレディ・マーキュリーがインプリメントされたキーボードを弾けば、 それは明らかに異なる「声格」なのは明らかであろうし、日本語の民謡の歌唱用に構成された「高音キン」ともまた異なるのである。

一方で「中音マリア」の場合でも、同じなのは基本の「声」質に過ぎず、微妙な調音の癖とかは、 人形に「息を吹き込む」人形遣い次第なわけで、だから、どこまで「同じ」声なのか自体が自明ではない という見方も可能で、従ってここでいう「声格」というのは、岡野さんを含むのか、含まないのかが問題になろう。

だが一旦、作業仮説としてであれ、「声格」を解剖学的な特性、人形でいえば物理的な人形それ自体を指すものと 限定し、人形遣いから影響を受ける部分は「歌い方のクセ」として別のものと考えたらどうであろう。 実際に「声」を発するためには、霊媒師たる人形遣いの力が必要であるとはいえ、「声格」そのものは コピーして複数のアコーディオンに「憑依」しうるようなものなのである。 するとここでもう一度、「降霊術」や「口寄せ」における「霊媒」(メディア)とそれに憑依する「霊魂」の関係が、 今度はここでのMIDIアコーディオンという「媒体」(メディア)と「声格」の関係と並行したものとして 浮かび上がってくる。

そしてそうした「憑依」による「幽霊」的な「声格」の「出現」が可能になるのが デジタル・コンピュータのテクノロジーに因っている点に留意すべきだろう。 ここでは解剖学的な特性がアナログではなく、デジタルな情報として、いわばシミュレートされているからこそコピーが 可能になるのであり、かつまたこの点において人工音声による「声格」は、 一見したところ類比が可能なように見える、ストラディヴァリウスやグヮルネリのような歴史的なヴァイオリンの名品が持つとされる、 個別の楽器の備えている物理的な特性に基づく固有の音色とは異なっていることが明らかになるのである。

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最後に祈りの主体と対象の問題に戻ることにしよう。 勿論、こうした問いに対して答えが全て用意されていよう筈はなく、だがこうした問いを呼び起こす類の力を 今回の試みが備えているのだということをここでは指摘するに留めて後日を期することとし、 ここでは最後に、この演奏の試みが私個人に対して現実にもった意義について証言することで、 私が遭遇した「出来事」、可能であれば今後も繰り返されるであろう実演のいずれかの機会に立ち会いたいとは 思うものの、今のところは初演には立ち会うことができず、遅れて、離れたところから、Youtubeでの視聴による 確認しかできなくてもなお、私にとって「出来事」に外ならないこの演奏に接したの「経験」の証言としたい。 それは図らずも、「証言する」ことについての「証言」なのであるが。

「祈り」という行為は、第一義的には祈る主体と祈る対象の間の私的な関係として捉えることができるだろう。 主体と対象のみならず、いわゆるコミュニケーションの理論(ただしそれが「祈り」において有効かどうかは、既に上で示唆した通り、 自明ではないが)では「内容」とされる面も含めて、一般に、祈りとはなんなのかを考えたとき、「神の死」以後を生きる我々にとって、 (社会的な次元も含めて)自分(たち)が仮構した超越的な虚像に対して語るというのは結局は「独り言」の一種に過ぎないと 言い切ってしまえるものなのか? それはニヒリズム(例えばニーチェ)が批判するように、人間の弱さの顕れに過ぎないとして、乗り越えられるべきものなのか? ジュリアン・ジェインズの意識の考古学が示すように、意識の構造の変容の結果、神は「隠れたる神」となり、 もはや神との通信は不可能になってしまったのか? だが、にも拘らず、日常的にあまり反省することなく、今尚しているに違いない、もっと特定の具体的な他者への語りかけや、 他者の「幽霊」への(これも所詮は独り言的な)語りかけとの関係はどうなのだろうか?

怯懦な人間が生きていくために仮構した虚像であり、必要悪なのか?例えば鳥は祈らないだろうか?イルカやクジラはどうか? 更には、三輪さんが「感情礼賛」において仮想した意識形態の変容後の未来においては、あるいはカーツワイルの技術的 特異点の向こう側においては、「祈り」は依然として存続しうるのか、存続するとしたらどのようなものとしてなのか?

この点について、三輪さんの活動の文脈でまず思い起こすべきは、Lux aeternaにおける祈りの不可能性の認識であろう。 そこで示されたのは、祈りが不可能であるという認識の下で、主体的な祈りが不可能な状況でこそ祈りが可能になるという逆説的な 構造であった。だが祈りの対象は、(ペルゴレージの没後、フランス革命が起こり、ニーチェが神の死を 宣言し、進化論と唯物論が優位になるという過程において寧ろより一層明確になったいう見方さえ可能ではないかと思うのだが、) 西欧の伝統においても、否、一見して超越性に欠けているかに見える日本においても「祈り」の構造においては常に、 「隠れたる神」ではなかったか?「祈り」は常に対象に届かないという可能性においてしか「祈り」ではなく、 そして「祈り」においては、祈る主体の側もまた、自己超越の構造の裡で端的に「非在」となるのではないか?

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同じ構造は、例えば「真実を証言する」ことが求められる場面においても顕れるのではなかろうか?

そこではメモ等の補助記憶媒体を一切利用することは許されない。「真実」を証言するという観点からして、 記憶違いや認識のずれの危険は常にあり得ることでであるにもかかわらず、建前として、 自分の固有の記憶に基づいて証言することを求められるのだ。ここでは真実から 記憶違いにより遠ざかる危険よりも、補綴性なしの無媒介な固有の声による証言が優先されるかに見える。

その一方で、「真実の証言」が求められる場は常に既に、真実についての争いのある場でもあり、 それゆえ聴き手各々が避け難く持たざるを得ない主観的な展望によって、意図的に歪めて聴き取られて しまうことが避けられない。 だからといって「沈黙が金」かというと、決してそうであるわけではなく、語らないことすら意味を付与されてしまう。 覚えてませんを連発すれば、証人としての価値は下がることになる。 また、特に反対尋問においては、できるだけ答えにくい質問をして、そこでの言いよどみやちょっとした言い回しを 取り立てて、嘘をついているのではないかといった言いがかりをつけ、その証言が事実認定には役に立たないと 言われたりもするのである。

逆に、主尋問においても、自分の側にできるだけ有利になるように、記憶を整理し、回答の仕方も検討し、といった 準備をあらかじめ行うのが一般的だろう。必ずしも、自分が本当に感じたまま、思ったままを自由に証言するわけではなく、 証人という立場に沿った発言を求められるのだ。逆説的なことだが、反対尋問の方が、質問が予測 できない分だけ、証言者の自己の裁量によるものが大きいという見方さえできる。ただし、相手方はその 証言を素直に解釈してくれはしないし、今度はできるだけ相手方に有利になるように解釈するのだが。

ソクラテスの裁判が行われた時代の アテネを席巻していたソフィストたちの立場、即ち、人間が万物の尺度であって、認識は相対的であり、 言い合いで真実が決まるというそれ、私が真実だと思っているのは、私にとってそうであるにすぎず、 しかもすべて人間の認識はそうであって、超越的な真理はないという立場を彷彿とさせる。

勿論、完全な認識の相対性の立場に立っているわけではなく、「真実」があり、だからこそ 「虚偽」の陳述がありえ、信用できるかどうかの判定がされるわけであり、また、理性的な主体という 「理念的」想定があって、理論上は正しい記憶によって真実を証言することが可能であるというのが前提と なっている。ところが今度は、こちらは現実にはその建前は、ほとんどの場合には成り立たない。 人間は理性的存在者としてあまりに不完全なのだ。

更には「嘘」をつくことは許されないがゆえに、証言の前には宣誓が求められる。 宣誓書の文面は予め用意されているのだが、これを「声に出して読み上げる」という行為の遂行によって 虚偽の証言をしないという誓いを立てたことになるのである。 つまり証言の場においては、無言・無声は許されず、記憶の補綴もまた許されないのである。 (ところでここでは音声合成はどうなるのか?おそらく先例がないことはないだろうから調べれば わかることだろうが、多分、声を奪われた本人が「奏者」であれば認められるのではないだろうか。)

虚偽は禁じられ、補綴なしに自分の記憶に従い、自分の声で真実を語ることを求められつつも、 同時に、自分の言葉でありのままを語るのではなく、証人としての立場に即した発言が暗黙裡に 要求されるという意味で「固有の声」が奪われた状況に置かれている者にとっては、 「固有の声」を持たない祈りというのが、一種象徴的というか、寓意的なものに感じられる。

一方において一切の補綴性に依存しない「固有の声」というのが、 実はある種の極限概念、理念のごときものに過ぎないという、不完全性に苛まれつつ、他方では、 それとは別に「固有の声」で語ることが許されず、「固有の声」を聴きとってもらえないという状況がある。 最も内面的で、「私」に密着したと思われる行為が、ある種の媒介を通じてしか可能でない。 その一方で、祈りの中で、個別的で刹那的な「私」は消え去って、ある「匿名の声」が響き渡ることこそ、 本当の祈りなのではないか、という考えにたったら?何のために、誰が祈るのか?その祈りを聴くのは誰なのか?

個人を超えた「真実の証言」では、私「固有の声」が禁じられる一方で、 本当の思い、言葉にできない、自分の言葉では語りつくせない思いというのは、あるいは神話のようなかたちで、別の人格なり 声格に託してこそ、より正確に伝えうるのではないか、不完全な私の私的な経験よりも、私性を滅却した 物語こそ、寧ろ正しく状況を証言しているのではないか、ある種のフィクションの仮構によってしか伝えられない ものがあるのではないか、ということに私は思い至った。いろいろな理由で、正しく、適切に語ることが できない者にとって、それが最後の拠り所になるのではないか。

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そうした状況においては、「私のことは誰かが祈ってくれている」ということが、一つの鍵になっているのでは、 と私は感じている。これはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャの言葉であり(そこではまさに「法廷」の場で 真実を証言することが求められ、だが誤審が為されるのだが)、ジッドの「田園交響楽」の末尾の(否定的な)祈りの(不可能性)の 場面(だがそこではまさに「私のことは誰かが祈ってくれている」筈なのだという点にこの作品が示す状況の深刻さが現れている) とも関連があり、更に言えば、カフカの「審判」の結末の処刑される直前のところでK.が見た、自分を救ってくれるかも しれない人の姿とも多分関連しているに違いないことにも思い当たる。それは(物語の中の)現実では出現せず、K.は生き延びることが できないのだが、もし「希望」というものが可能であるとすれば、それは私という場においては不在のものとして、幽霊的な 「誰でもないものの声」によってでしかないのではないだろうか?

既に三輪さんのLux aeternaは神に対してではなく、「機械」に対してのものであった。もしそうであるならもう一度、 このStabat Materの演奏において祈りの主体は誰で、祈りの対象は何なのか?ツェランのあの余りに名高い、祈りの対象の不在=不在の対象への祈りたる 「誰でもないものの薔薇」(Niemandsrose)は、果してここでの祈りの主体の不在、非在の「誰でもないものの声」への祈りでもなかったか?

「誰でもないものの声」こそが、私を可能にするのではないのか?

Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.

Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.

Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühnend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.

(…)

aus : Paul Celan, "Psalm"

(2015.5.4初稿, 8,9加筆修正, 9.12加筆修正)

2015年2月1日日曜日

「POC#20」にて三輪眞弘ピアノ作品を聴いて

POC(Portraits of Composers) 第20回公演 細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集
2015年1月25日両国門天ホール
ピアノ:大井浩明

三輪眞弘「3つの小品」(1976, 世界初演)
三輪眞弘「レット・イット・ビー アジア旅行」(1990)
三輪眞弘「虹機械第2番「7つの照射」」(2008)
三輪眞弘「虹機械 公案-001」(2015, 委嘱新作・世界初演)


POC(Portraits of Composers)は大井浩明さんが数年に渉って行なってきた「現代音楽」のピアノ作品を 作曲家の個展形式で演奏していくピアノ・リサイタルのシリーズで、その第20回目において細川俊夫さんの 作品と組み合わせるかたちで三輪眞弘さんの作品が取り上げられた。事前に予告されたプログラムでは、 「全作品」と銘打たれ、三輪さんの作品としてはあと3曲、「公現/幻」(1985)、「語られた音楽が語るとき」(2000)、 「「虹機械」より第2部「武装した人」」(2008)の演奏が予定されていたようだが、演奏会が近づいてから ブログで曲目変更が告知され、結局、当日も上記の作品が演奏された。因みに三輪さんの作品と一緒に 演奏された細川さんの作品の方は当初の予告通り、「全作品」5曲が演奏された。

しかしながら、このプログラム変更について言えば、そもそも、同時代の、現役の、そして一作毎に 未踏の領域を踏破している作曲家に対して、リサイタルの時点におけるという限定をつけるにしても、 「全作品」という閉じたフレームは相応しくないことを思えば、そして、今回も作品数を絞った上で、 新作の初演が追加されるという変更であることを考えれば、勿論、予告されなかった作品 (そこには私が未聴のものも含まれる)も聴いてみたかったとは思うものの、 それはあくまでも欲張りな聴き手の勝手な言い分であって、後述のように、いわゆる「大作」では ないけれども技法の次元でブレイクスルーを達成した新作に接することができ、それによって 今なお、更にはこれからもなお、「全作品」という言葉は常に限定つきのものであり、道が未知の 領域に通じていることを確認できたことに感謝しなくてはならないと思う。

私は直前まで聴きに行く予定だったのが、前後の予定が変わったことで時間が取れる見通しが付かなくなって 一旦は断念し、だが結局は何とか時間ができて、隅田川沿い(最寄は両国駅)にある両国門天ホールを 訪れることができたのだが、その後はやはり時間がとれないまま一週間が経過してしまっている。ホールに着いて 中に入った時に、それまで自分が居た世界とは全く別の世界に迷い込んでしまったような感覚に囚われ、 今振り返ってみても、それがまるで夢の中の出来事のような感覚さえ覚える程で、コンサートを訪れることが 非日常的な経験になってしまっている私の感想は、いわば通りすがりのような立場での発言になることは 避けがたいと感じてはいるが、ともあれ何時もの通り、感想を書き留めて置くことにしたい。 これはこれで同時代の受容の記録の一つのあり方であり、事実を記録しておく最低レベルの意義は あろうから。

ただし、「現代音楽」の聴き手ではない私にとって、POCという壮大な企画は勿論、細川さんの作品についても 今回初めて接したような状況であり、そちらについて語るだけの持ち合わせがない。(もっとも、個別の作品に ついて言えば、三輪さんの作品にしても、初演は聴き損ねたものの、井上郷子さんの演奏による 素晴らしい再演には接している「七つの照射」を除けば、私にとっては初めて実演に接する作品ばかりだったのだが。) 従って、この記録の記述対象は三輪さんの作品に限定し、非常に優れた作品の優れた演奏であったことは このような「門外漢」の私にすら感じ取れた細川さんの作品の演奏を含むリサイタルの全体については、 それを語るに相応しい方にお任せすることにしたい。

*   *   *

リサイタル全体の冒頭におかれた「3つの小品」は、三輪さんご自身によれば演奏に間違いがあり不完全な 姿であるとはいえ、CDで初演時の自作自演を聴くことができるという意味合いにおいて、「世界初演」と 銘打たれていても、聴き手にとって全く未知の作品という訳ではない。ちなみに「3つ」とあるが、 中間の第2楽章は初演時には即興で演奏され、結局記譜されなかったとのことで、楽譜に固定されたのは 両端の2曲のみであり、演奏もまたそうであった。

第1曲は音楽をレコードなどに録音された形で聴くことが当たり前になった時代の中で生み出されたことを 証言するように、奏者によるいわば「人力の」フェードアウトによって閉じられ、あたかも「人間が機械を模倣する」と いう「逆シミュレーション音楽」に典型的に見られる発想の由来を告げているかのようであり、他方、 第3曲は「手拍子」が用いられていて、人力で演奏することを「音楽」を定義するにあたっての必須の契機とする 三輪さんの考えの出発点を垣間見るような作品であった。ちなみに後述するように、リサイタル全体の最後に おかれた新作にも、フェードアウトと手拍子は用いられており、いわば明確な自己参照が行なわれていたのだが、 それが「引用」としてではなく、新作においてもごく自然に素材の一部として用いられていたのは、 それらの要素が三輪さんの発想の基本的な部分に根差していることとともに、三輪さんの発想の 一貫性をも告げているということであろう。

*   *   *

細川さん・三輪さんの作品を通して作曲年代順に並べられたプログラムにおいて、今度は細川さんの 初期作品が演奏された後に位置づけられた三輪さんの作品の二曲目は、ビートルズの有名な曲 (何しろ私が知っているくらいなので)の編曲という体裁をとっているが、素材への向きあい方は 三輪さんならではのもので、私が実演に接している狭い範囲では、直ちに思い浮かんだのは、 弦楽四重奏曲ハ長調「皇帝」であった。(そちらは私にとってはずっと身近なハイドンの皇帝賛歌、 というより弦楽四重奏曲の第2楽章の主題が素材となっていた。)ただし素材の具体的な加工の仕方は 勿論異なっており、この日の演奏会の文脈で興味深く感じられたのは、伝統的な意味合いでの それのような規則に従ったものではないが、ここでも広い意味での「転調」のメカニズム(より直接的には 「アルゴリズム」)が問題になり、そのプロセスに対する人間の(典型的には聴き手の)反応が問題に なっているという点であった。

そしてそのプロセスは三輪さんがプログラムノートに(あたかもいつもの 「という夢をみた」という枠で語られる物語の縮小版のように)書かれた「妄想」の実現であるというより、 作品もカバーストーリーも、作曲者の自己が(仮想的なものも含めて)経験するプロセスを作品として 定着させたものであり、それ自体が知覚の変容をモデル化したシミュレーションのような感覚を覚える。 だがつまるところ音楽というのは、そうした変容の試み、そしてそのための方法の探究でなくて何だろうか。

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その後細川さんの作品2曲が演奏され、プログラム前半の締めくくりに置かれたのは、「七つの照射」という タイトルが付された「虹機械第2番」。「虹機械」は、三輪さんが「新調性主義」と呼ぶコンセプトに 基づく作品群のタイトルだが、私はそのうち、最初の作品であるピアノとヴァイオリンのための作品の初演には 接している。ちなみに「七つの照射」とは、ある規則によって変化してきた音楽があるパターンの繰り返しに 陥ったときに、奏者のかけ声とともにノイズを導入することで再び音楽が変化を始めるというメカニズムを 遺伝的アルゴリズムにおける突然変異に見立てたときに、その突然変異の原因となる放射線の照射を 暗示したもののようだが、東日本大震災により生じた福島の原子炉の炉心溶融事故を背景として 書かれたオーケストラ曲「永遠の光」も、作品の構造の背後には同じアルゴリズムが存在していて、 「虹機械」の系列の作品と見做すことができる。

作品の構造についてはこの作品の初演者である田中翼さんの解説を読めば充分だし、 コンセプトについても三輪さん自身が言葉を尽くして説明されているから、それらについてはここで 繰り返すことはしないが、アルゴリズムと初期値によって完全に決まってしまう音の系列(そこには 作曲者の主観が入る余地はなく、それはあるとしたら、アルゴリズムの設計と初期値の選択という 手前にしかない)をあえて人間がピアノで演奏するという点に関連して、以前、同じ大井さんのピアノで 実演に接したクセナキスの「ヘルマ」のことを私は思い浮かべた。といってもそれは「ヘルマ」と「虹機械」が 似ているという意味では全くない。いずれも作曲の過程でコンピュータを利用していても、両者の 作曲の手法は全く異なったものだし、音響的実現に直接具体化する音の群なり系列なりの 構成法や操作法も全く異なっていて、それはそれぞれの作品の作曲者の世界というものの捉え方の 違いにそのまま繋がる程、根本的な懸隔を示しているのだが、にも関わらず、たとえやり方は異なっても、 「人間的な」感情や情緒を拒絶したところで作品の構造が決まり、従って通常の意味での感情移入も 受け付けないだけではなく、楽器の奏法という側面においても、いわゆる「ピアニスティック」に書かれた 名人芸的な作品とは異なって、人間の生理に対して無頓着であるという意味での超絶技巧を 要求するという点において、両者はやはり接点を持っていて、それが偶々大井さんという同じピアニストに よる実演に接することにより浮かび上がって来た様に思われたということなのだろうと思う。

とはいうものの、ブロック毎に音群が、それ自体の内部構造や内部での演算規則をとりあえず捨象して、 (つまり群論的な構造を持たない集合の要素として)選択され、そうした音群の交替が集合論的な 操作によって行なわれる「ヘルマ」と、音の集合に対して与えられた演算によって都度選択される音群により 調性の基音や明瞭度が推移していくプロセスにフォーカスした「虹機械」の聴感上の肌触りは全く異なっている。 「調性」と名付けられてはいても、三輪さんが与えている具体的な構造は、伝統的な西洋音楽の調性の 図式とは異なったものあり、いわば「ありえたかも知れない」別の調性音楽の試みと見做すことができるのだが、 それと同時にいわばそれは「調性」という発想の根底にあるもの(の一部)を抽象したもの(の一例)になっている ようにも感じられる。転調といい、基音への解決といい、伝統的な西洋音楽における調性に纏わる様々な 規則をを三輪さんの「新調性主義」の地点から眺めることで、西洋音楽がどのようにして時間的な広がりや 展開を獲得しているのかが見えてくるのではなかろうか。

勿論それは単なる理屈ではなく、具体的な音響として実現された三輪さんの作品に感じられる有機性、 或る種の温度感、温もりのようなものと直接結びついていて、決定論的な離散力学系の音響的実現を 聴くことでそうしたものが感じ取れてしまうのは、伝統的には人間の「意識」や「心」と呼ばれてきて、 機械的、物理的なものとは相容れぬものと見做されてきたものが、実際には神秘的、超自然的な奇跡や 恩寵の類の結果としてではなく、近年の研究が少しずつではあるが解明しつつあるように、物理法則に 従ったシステムとして把握・理解することが可能であり、三輪さんが採用している手法とそれにより実現される作品は、 表面的にはそのように見えなくても、奥底のどこかで同型性を持っていることの現われなのではないかと私には感じられる。 機械的なアルゴリズムが実現する音の系列に、人間が勝手に反応し、そこに情緒を感じ取ってしまうということが起こるのも、 実はその両者の間に(ごく緩やかで限定的なものであれ、基本的な)同型性が存在するが故のものでは ないかと思われてならないのである。

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そうした印象は、プログラムの後半のほとんどを占める細川さんの作品の演奏の後、プログラム全体の 掉尾に置かれた新作「虹機械 公案-001」によって、より一層鮮明に感じ取れることになった。 間に休憩と細川さんの作品を挟んでではあるものの、一夜のリサイタルのうちで2曲を聴き比べることが できたのは大変に興味深い経験である。無論のこと、新作は勿論、虹機械第2番の方も一度実演に接した のみで、実質的には初めて聴くのと大して違いのないような状況の私にとっては、比較とは言っても その違いをその場で充分に見極めることなど出来よう筈もなく、あくまでも粗雑な印象レベルの話しか できないのだが、それでもなお、両者の違いは幾つかははっきりと感じ取れ、新作は格段に 「生き生きとした」ものに感じられたのが何より印象的だった。

その印象が何に由来するものであるかを一度の聴取で言い当てることは難しいが、それでもなお、 調的な重心が移動するプロセスの多様性(その速度、加速度の変化も含め)が増したこと(その代わりに 恐らく演奏者への要求は一層高いものになっていると想像される)、そして力学系が アトラクターに吸い寄せられた時のそこからの脱出の仕方がより自然に行なわれていたことは 明確に聴きとれたように思われる。言ってみれば、音響として実現されている次元においては 安定しているように見えるベイシンの或る次元に穴が形成され、アトラクター(ここではある調性への 収束と、調性間を振動するように循環するいわゆるリミット・サイクルがそれに該当する)が崩壊し、 その穴を通して軌道がアトラクターから脱出して別のアトラクターに向かういったことが繰り返し 起きているような印象を覚えたのである。 しかもアトラクターからの脱出は「七つの照射」においては、「サッ」という奏者の声をきっかけに系を撹乱するノイズによって 引き起こされるとはいえ、それは作曲者の外からの介入によって慎重に事前に準備されているように 為されるのに対し、新作においてはその脱出の過程自体が系自体によって自律的に探り当てられ、 より「自然に」為されているように感じられる。

この描像に類比的なものとして思いつくのは(実際に何が起きているかは別に解析が必要であるし、 これはあくまでも非常に粗い類比に過ぎないのだが)、カオス力学系で提唱されている「カオス的遍歴」だろうか。 件のアトラクターは正確には擬似的なものであり、寧ろアトラクター痕跡の如きものとして捉えるのが 適当なのではないか。勿論、アルゴリズムそのものと作曲者の全体を一つの系として捉えるならば、 アルゴリズムが動く次元以外の隠された次元に作曲者が介入することによって、 それは「七つの照射」でも起きていたことだと捉えても良いのだろうが、 そうした機構が新作においてはより明確に感じ取れ、系を発展させ、 動的な平衡状態を維持するための契機としてのノイズに対する反応の仕方の方も含めて システムの中に取り込まれたかたちに発展しているように感じられたのである。

つまり、ここでは「音楽」というシステムを最終的に音響的に実現される次元以外の、 隠された制御の部分を含めて考えるべきであって、狭義での音響的な実現としての「音楽」は、 そうした系の全体から見れば、一断面を音響に変換したものに過ぎない。作曲者の介入のプロセス、 試行錯誤の跡は消去され、選択された経路のみが作品として定着されるという点は同じでも、 経路の選択自体を外部から作曲者が行なうのか、系の中に埋め込むのかという決定的な違いがあるのだ。 そして更に誤解を惧れずに言えば、低次元の力学系+ノイズによる駆動という捉え方と高次元力学系に おいて遍歴をモデル化する捉え方との対比とパラレルなパラダイムの変化が「七つの照射」と新作の間に 垣間見られたように思われるのである。 ここでカオス的遍歴が現実に起きているわけではないにせよ、 自律的な「遍歴」の機構が獲得されたことの意義は大きい。実際にはそれは、寧ろ最適化における ローカルミニマムの脱出のメカニズムに近いものなのかも知れないが、ここでは如何なる意味合いでも 最適化が問題なのではなく、それは目的が定められた探索ではなく、その遍歴の過程自体が問題なのであり、 それは初期値に大きく依存し、かつ、その過程自体が終わり方を決めるようなものなのである。

結果として、新作の音の連なりがもたらす変化のプロセスを享受しつつ、私にはそれが或る種の「逍遥」「遍歴」の ようなものとして感じられ、そしてそれが単なる印象ではなく、作品を含む系が備えている構造に由来するもので、 従って結果は多様性にとんでいるものの、曖昧で感覚的なものではありえず、それ自体は単純な、確固とした 法則性を備えているような印象を覚えたということである。「作品」を聴くこととが「旅」である というのは、例えばラッヘンマンもまたそのようなことを言っているが、ここではそれは単なる比喩を超えて、 より構造的な実質を備えており、かくして「作品」を繰り返し聴くことは、より本質的な意味で、或る種の 「巡礼」となるのではないか。

たった一度のきわめて不完全な聴取の印象に過ぎず、現時点ではそれは単なる曖昧な予感のような レベルに留まっているには違いないが、それでもなお何か確固としてものに触れたような確かな手ごたえは 間違いなく感じたように思うし、何よりも、前作との比較において技法の次元で三輪さんがブレイクスルーを 達成したという点については、こちらは些かの曖昧さなく、この初演において闡明されたと言って良いと思う。

それは単に今回は、それが「新調性主義」の系列の作品であるが故に、私の狭い理解のレンジの 範囲で捉えることができたということに過ぎないのかも知れないが、ともあれ今回の新作は、 「七つの照射」で三輪さんが何が物足りないと感じて今回の作品に取り組んだかが、 その挑戦の結果である新作によって明確に窺い知ることができるという点で、その取り組みが とてもうまくいっているように感じられ、演奏を聴くのは心躍る経験であった。 アルゴリズムが自律的に秩序を維持しながら動作し続けるという点で画期的ではないかと思うし、 何よりも作品として聴いていて興味が尽きない。採用された方法が含み持つポテンシャルが、 恐らくは意図されたとおりに結果に非常に鮮やかに現れているように感じられ、聴いていて感動的だった。

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ここで留意すべきは、ほとんど同じ手法によって作られた2つの作品の差異が、あくまでもそれを実現する ためのメカニズムの改良の次元で為されているという点である。それもまたつまるところ作曲家の選択に よるものであり、システムが自律的に進化したわけではないのだから、通常の了解とは随分違う次元では あれ、いわゆる「インスピレーション」というのはそもそもこうした構造の発見の手探りの過程で起きている というふうに考えれば良いのかも知れないが、だとしても、通常の意味合いでの、「フィーリング」のような レベルで言われる作曲家の「個性」というものが何と幅が狭いものであるかということは感じずには いられない。寧ろそれは(結局は脱出不可能な)檻のようなもので、ここでは、それでも尚、そこを脱出し、 超越する営みが問題になっているのは確かなことだろう。

もちろんアルゴリズムの設計があり、初期値の 選択があり、どのように始めるかを決めるのと対応するように、どこで終わるか、どのように終わるかもまた、 それが「音楽」として、つまり人間によって演奏され、聴取される「作品」である以上は作曲者によって 決定されなくてはならない。だがそれは、アルゴリズムが紡ぎだす人間を超越した秩序を、人間の尺度に 合わせて切り取り、持続や速度を調整し、人間に聴き取れるかたちに翻訳して提示する、霊媒の ような役割にずっと近づいている。ここでは美というものもまた、感覚的な快不快によって測られるのではなく、 人間の尺度を超越するものを自分が受容できる能力の限界において垣間見る時に感じる畏れや 驚異によって惹き起こされるものであるかのようだ。

更に注意すべきは、ここで三輪さんが達成した技法の深化は、通常の了解とは異なって、作曲者による 系の挙動への介入が少なくなるに応じて、系自体の自律性が増大し、結果としての作品は より一層有機的で「まるで生き物のような」印象が齎されることになるという点だ。敢てこういう言い方をすることも できるだろう。新作において作曲者が意図し、行ったことは、旧作において残ってしまった人為的な 介入が齎す「機械的な」部分をより自然なものとするために、人為的な介入を減らして、機械に 自分で選択させるような改良なのである。そしてその結果がその意図通りの成功を収めていることは、 大井さんの演奏により実現された「作品」そのものが物語っている。

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大井さんのピアノは、過去の演奏に接した時に感じたのと同様に、作品の姿を聴き手に明確に示すと いう点において卓越していて、特に、既述のようにピアニスティックには書かれていないという意味合いで 演奏至難な三輪さんの「新調性主義」の2作品については、際立って良心的な演奏であったと感じられた。 ここで良心的というのは、ごく基本的な部分で「楽譜に書かれたものに忠実に」演奏するという、 当たり前ではあるが、「現代音楽」においては徹底が困難な場合がある部分について、作品のコンセプトや 構造が要求するものを測って、それを可能な限り正しく伝える演奏を行なうという点で規範的な姿勢が 感じ取れる、ということである。とりわけ新作は準備の時間等の制約があったと想像されるのであって みれば、三輪さんの作品の場合には、恐らくは指定よりも遅い速度であっても、音のパターンの遷移の 過程とそれがもたらす調的な安定性を正確に示すことがまずは重要で、その点については作品の姿を 窺うに充分なものであったと思う。

もし物理的な音響の実現において速度を優先するのであれば、プレイヤーズ・ピアノに自動演奏させれば 済むのである。ピアノというもともとは人間が演奏するための機械のメカニックな限界が問題になるなら、 電子的に再生してみるのでもよい。だがそこでも「人間という尺度」が暗黙の枠となっていることに留意しよう。 例えば新作の全体を数千万年という時間をかけて実現する場合や、逆に数秒で実現する場合を考えて 見ればよい。人間にとっては知覚不能なレベルもあるだろうし、別の次元(例えば音色の変化のようなもの)と 知覚されるレベルもあるだろう。それらに対してアルゴリズムは独立しているのであって、これが音楽である というのは、人間が作曲し、演奏し、聴取するという枠の範囲でしか起こりえない。だが同時に新しいものが 生じる豊穣な領域はその枠の境界、縁の部分、一歩間違えれば(一般的な意味での)混沌に陥り かねない危険と隣り合わせの領域であり、人間の定義が問い直されるような領域なのだ。そして三輪さんの 作品がそうした領域において生み出されていることは、この日の演奏会での大井さんの演奏によって 十分に感じ取ることができたように思うのである。

勿論、そのことは、任意のテンポで演奏すれば作曲者の 意図が達成するということでは全く無い。人間による、人間のための「音楽」作品として、美的な観点で 理想的なテンポというのが存在し、それゆえ作品を十全な形でリアライズするためには適切なテンポでの 演奏が必要なことも確かである。そしてそれは誰にでもできるわけではなく、三輪さんがこの作品を 作曲したのには、大井さんという、三輪さんが歩んでいる境界の領域を、演奏の次元において 踏破することができる演奏者の存在が大きな契機となっているのは疑いのないことであろう。

だが、そもそもこの点は決して聴き手にとっても他人事ではなく、安全な領域で奏者を批評できるというのは 幻想に過ぎない。聴き手の側にだって同じ課題が課されているのであり、とりわけても初演に接する場合の ハードルは極めて高いものであることを感じずにはいられない。昨年秋に大阪で三輪さんの新作初演に 接したときにも強く感じたが、演奏以前の問題として、聴き手たる私が、要求されている水準をパスするような 充分な聴取ができたかどうかの方が遥かに怪しいということを認めざるをえないのである。既に人間の寿命を超える 年月を経て生き残った作品が初演のときに被った無理解や誤解の記録を少しでも思い起こせば、 同じ轍を今、私が踏んでいない保証などありはしない。そういう意味においても、是非、再演を重ねることによって、 そして次回は指定されたテンポでの演奏が実現されることによって、聴き手の側への啓蒙と理解の促進の ための訓練の場を提供していただき、聴き手も含めた「音楽」が成立する場の全体として、作品の意図が 十全に実現されるリアリゼーションが行なわれることを期待したい。

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最後に、このコンサートが大変素晴らしい雰囲気で行われたことを証言しておきたい。隅田川の岸に程近い ビルの1階を改装したホールは客席も固定ではなく、パイプ椅子を並べたものだが、満員の客席と奏者が 一体となって快い緊張感の中でのリサイタルであったと思う。このホールを訪れるのは初めてだが、会場を 切り盛りしている方々は三輪さんの作品の演奏会で度々お世話になっている方々で、いつもながら そのきめ細かでフレキシブルな対応に感心するとともに、私のような通りすがりの聴き手が気付かないところでも 色々な配慮があってこそ、毎回このような手作りで温かみのあるコンサートが実現されていることと思う。 演奏をした大井さん、会場にいらした細川さん、三輪さんは勿論、企画・運営にあたられた方々にも 御礼を申し上げて、この拙い感想の結びとしたい。 (2015.1.31/2.1初稿)