第2章:双分観と三分観
1. 狩俣における双分構造の複合と重層の様相
以下、双分観に関して、双分構造の複合と重層の様相を把握しつつ、それと三分観の関わりを描き出すことを試みる。
まずは東西の方位観について、8月15日の十五夜の綱引きを手掛かりに見ていくことにする。
「東は雄綱で西は雌綱であり、(…)西が勝ったら豊作、東が勝つと凶作になると言われたが、東はそれでも一生懸命引いたという。(…)さて勝負がつくと(西が多く勝ったといわれる)(…)」(琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第12号 狩俣・熱田部落調査発表, 年中行事のうち8月15日の十五夜(綱引き), p.83)
当然のこととして、南西諸島に共通する、男(ビキリ)/女(ブナリ)の双分観をまず見ることができる。ここでは西がブナリであり、ブナリが勝つと豊作で、他の地域の綱引きでしばしば見られるように、綱引きの結果が非対称の場合には、実質的には正の価値の項が明示的・暗示的かを問わず、勝負において優位に立つ事も共通している。
ところで、狩俣の村落形成過程や、祭祀組織の形成過程を考慮に入れると、方位に関する双分観について、以下のように対応付けることが可能である。(以下は第1年度の調査結果に基づく。詳細は別紙参考資料『狩俣村年代記 ver.1.10 2019.8.11版』及び『「狩俣村年代記」説明 ver.1.10 2019.8.11版』を参照。なお、検討にあたって確認が必要な場合には、本論中において、適宜典拠となる資料を参照・引用することにする。)
第1段階:根井間村(西:ビキリ=男神)/狩俣村(東:ブナリ=女神)
第2段階:村落の原住民(西:ブナリ):仲間+大城元/新たに移住した職能集団(東:ブナリ):志立(=後(尻)立:後から成立:西:ビキリ=男神)+仲嶺元(東:ブナリ=女神)
非対称な価値を持つ双分観は明らかだが、第1段階での方位と性差の対応が逆転している点が注目される。大城元の祭神はアサティダ・ウマティダの夫婦神だが、神話の中で娘神ヤマヌフシライとともに降臨するのは母神ウマティダであり、アサティダの方は遅れて登場する蛇神なのに対して、仲間元の祭神はリュウグウヌス、即ち竜神・海神であるから、実はリュウグウヌスそのものであるという解釈も成り立ちうることを考えると、西がビキリ、東がブナリとなると考えられる。一方で、志立元に関しては、兄妹神の神話があるが、祭神ユーヌヌスは兄妹神のうちの兄の穀物神であり、仲嶺元は兄妹神の子守であるウンツカサという女神であるが、これは水神(井戸の神)である。従って第2段階で追加された(注:志立とは、後立、つまり後から追加されたということを意味している)構成要素である東側の項の内部構造を為す、志立元・仲嶺元についても、第1段階と同じ方位と性差の対応の逆転が見られることになる。
志立(西:ビキリ=男神)/仲嶺元(東:ブナリ=女神)
従って、綱引きにおける雄綱・雌綱の性差と方角との対応は、第2段階に対応するものと考えるべきだろう。一方、祭祀集団としての各元の祭祀を行う場所である元屋の位置関係は、以下の通り、まさに第1段階と第2段階を複合した結果として把握することが可能である。
(ただし、双分観的な方位観念という点では共通でも、東西への価値配分や他の双分的特性との対応については、地域毎に異なっており、それぞれ各地域における構造に即して解釈されるべきであることに留意すべきである。ここではビキリ>ブナリの価値に関する対称性は琉球文化においてある程度の普遍性を持つが、西の東に対する優位は「自明の前提」では全くない。)
「(…)東が雄綱、西が雌綱で、東勝利は豊作、西勝利は豊漁とされている。」(同書,p.310)
2.単独の村落/複数の村落からなる文化圏:内部に孕まれた共時的な差異と通時的な遅延
ところでこれに関して興味深いのは、狩俣の村落内部の上記の整ったシステムに対して、大神・島尻・狩俣という祖神祭が実施される村落で構成される村落群を仮に「狩俣圏」と呼ぶことにしたとき、「狩俣圏」を構成する村落間には以下のような対応があるということだ。
親(=ブナリ):大神/(娘=ブナリ:島尻/息子=ビキリ:狩俣)
これは例えば、以下のような文献で確認できることである。
「ウヤガン祭祀は、旧暦6月から10月に大神島でまずおこなわれ、旧暦10月から12月に島尻・狩俣でおこなわれる。大神島は両集落の離島で、島尻はその娘、狩俣はその息子の間柄であるからだと伝えられている。」(もろさわようこ「太古の系譜」,『上井幸子写真集 太古の系譜』所収, p.210)
「伝承によると大神島の始祖神はメガアルズとよばれる女神であり、島尻の始祖神マヒトマツカサはメガアルズの娘とあり、狩俣の始祖神もマツメガと呼ばれる女神である。」(同上, p.213)
「(…)狩俣は大神島の息子に当ると考えられ、島尻は娘と言われている。ウヤガン祭祀も、まず親と考えらえている大神島でおこなわれ、その後を受けて島尻、狩俣でおこなわれることになっている。このカンミケーイは大神島の神と狩俣の神を迎えるといわれていて、大神島の神は天から、狩俣の神は南の海の方から来るという。この場面を直接見ることができないので推定の域を出ないが、これは狩俣の始祖たち(始源の神)の源流を示しているとも考えられる。つまり大神島から狩俣へ、南方の海の彼方から狩俣へという二つのルートである。」(上掲書, p.77)
一方島尻の祖神祭については同等の情報はないが、ここでは大神・島尻と狩俣自体の関係についての狩俣の認識を記述することとすると、
第1段階:北=親:大神島/南=子:本島北辺(狩俣・島尻)
第2段階:西=男:狩俣/東=女:島尻
ということになり、狩俣の内部での第2段階と比較すると、東西と男女の対応が逆転していることがわかる。一見するとこれは、方位観に関して体系が矛盾を内包しているように見えるが、この矛盾をどのように扱うか検討が必要だろう。更に、これが東西の方位観の価値づけの例外なのか、男女の性差に関する双分観における価値づけの例外なのかについても検討の余地がある。だが、狩俣の始祖神の大神の始祖神および島尻の始祖神に対する親族関係が上記の記述で曖昧にされている理由がまさにその矛盾にあって、狩俣の始祖神が女神であるにも関わらず、「狩俣圏」においては「息子」の位置づけであるという、構造的に2つの階層の間に存在する逆転のために生じている捩れの結果、同列に並べた記述を行った時にどこかに曖昧さを持たせることによって矛盾を見えなくしているのではないかと推測される。
ところでこの点で興味深いのが波照間島の御嶽の組織体系における方位観に関して、似たような矛盾が指摘されていることで、やはりそこでも重層的なシステムにおいて、ビキリ/ブナリの価値が逆転しているように見えるということをアウエハントが指摘している(アウエハント『HATERUMA』, 第5章
宗教的関係 1.御嶽の組織体系, p.213以降)。比較対照して検討することで、双方に対する理解が深まる可能性があるように思われるが、それは後日の課題として、ここではその点について、狩俣・島尻・大神という「狩俣圏」の構成要素間のコミュニケーションという観点で検討してみる。
狩俣を中心に見た時、大神との関係については、上述の通りの祭祀上の関係以外にも、例えば、仲松弥秀「宮古諸島の地理」の4.村落の立地の種類 (3)古代性の濃い狩俣村落の中で、「海の向こうに大神島が望まれ、こゝ狩俣から小舟連絡がなされている。」(『宮古諸島学術調査報告書 地理・民俗編』所収, p.23))というような記述がある一方で、島尻との関係は確認できず、島尻の方でも、これまた上述の祭祀上の関係の証言以外にも、同じく仲松弥秀の上で参照した文献に「島尻村落も同様であるが、三年毎に大神島を拝しに行くとのことである。」(同書, p.23)とあるように、大神との関わりに対する言及はあっても、狩俣との関係は確認できない。そればかりか、既に1920年代に田村が以下のように報告している点は、村落形成過程における狩俣・島尻の(無)関係を証言するものとして注目されるべきように思われる。
「(…)狩俣ノ住民ノ門中ハ土着門中ニシテ島尻部落トハ血族ノ関係ヲ有スルモノナク、旧来結婚ハ両者ノ間ニ行ハレズ。(…)」(田村『琉球共産村落ノ研究』第2章 琉球共産村落発生 第4項 宮古ノ島尻及狩俣ノ山ゴモリ, p.137, なお引用にあたり舊字体を新字体を改めた。)
「(…)フツムトゥは元々から島尻に住んでいた人々であり、ウィキャームトゥは他から島尻に入ってきた人々の集団であるという。」(『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・歌謡)』, p.280)
となっており、非対称な双分制が窺えるものの、これは狩俣では第2段階:村落の原住民:仲間+大城元/新たに移住した職能集団:志立+仲嶺元のレベルに対応するものであって、第1段階の村落の起源自体の複合性とは区別されるべきであり、
村落の原住民:フツムトゥ/新たに移住した集団:ウィキャームトゥ
と把握するのが妥当に思われるのである。更に島尻元島からの移動はずっと時代を下って昭和期になることが幾つかの文献で確認できる。例えば既に引いた仲松弥秀の「宮古諸島の地理」では、
「北東海岸沿いにあった村落のうち、旧共同体が崩れずに残っているものは島尻村落の共同体のみであろう。この村落は崖下の海沿いにある小さい分離地塊状的なウツマズマにあったのだが、しだいに崖上に移動し、元島に残っていたものは三年前は二戸、現在一戸のみとなっている。この元島(島は村落の意)をなしているウツマズマのお嶽は良く保存され、樹林におゝわれている。この村の祭祀に関しては今でも秘密をよく守っていて外部の者が窺い知ることは困難である。」(『宮古諸島学術調査報告書 地理・民俗編』, p.17~8)
「島尻ハ狩俣ノ東方半里ニ在ル宮古島ニ於ケル最モ旧キ部落ニシテ戸数八十二戸アリ、此ノ部落ノ北方ニ当リ地積一町歩半島状ヲ成セル丘陵アリ、名ヅケテ元島又ハ内島トイフ。此ノ元島ハ宮古住民最初ノ地ナリ現在ニ於テハ戸数六戸アルノミ。其ノ住民ヲ元島人ト称シ、其ノ世襲的家族ハ増加ニ伴ヒテ漸次元島ノ東南及ビ西南方ヘ発展シ島尻部落ヲ成セルモノト伝ヘラル、元島住民ハ総ベテ本来的地人ニシテ他ヨリ移住シタルモノナキヨリ見レバ太古に於ケル先住民族ノ子孫タルヤ疑ヒナキトコロナリ。元島門中ハ世襲的ニ他ニ移住シ能ハザルノ迷信アルヨリ見テ明ラカナリ。
最モ研究ヲ要スベク又興味アルハ元島ノ形態ナリトス。恰モ狩俣部落全部落ノ形態ト同ジク、四囲ハ石垣ヲ以ツテシ入ルニ一ヶ所ノ門アリ、元島住民ハ総ベテ此ノ門カラ通用ス、其ノ東方ニ一ツノ門アリ、共に古代元島防衛ノ為ニ築キタルモノニシテ後方門ノ附近ニハ「弓使所」」トイウアリ。(…)」(前掲書, p.134~5、引用にあたり舊字体を新字体に改めた。)
3.双分観から三分観への移行と通時的な動的プロセスとの関係
北:聖なる丘陵 ⇒ 中心:ミヤーク ⇒ 南:バイヌスマ
という構造となっているが、その一方で「ミヤーク」の北側の「聖なる丘陵」についての記述には
「この丘陵全体は、かずらや大木が生い茂り、その内部は昼でもうす暗い感じだが、ここには十数ヶ所の拝所、聖所がある。ここで、その主なものを東側から順に記せば、スサスグ、(…)その他である。スサスグは、狩俣の北海上に浮かぶ大神島からの神々が辿り着く場所であると信じられている。」
傍証として、奥濱幸子は『祖神物語』の第一章第六節「狩俣集落の領域認知に見る「ニィスとニシィ」」において、
「狩俣での聞き取りの中で、「狩俣では大神島が北(きた)だ」、「大神島の方を北(にぃす)とは言わず、上辺(うぃなぎ)」と言う」、「狩俣ではニィスは北のことだ」「ニィスヌヤマはニィスにあるから「北の山(ニィスヌヤマ)」だ」という言葉があった。」(p.42)
祭祀領域:上辺領域/居住領域:(西辺領域/南辺領域/東辺領域)
という双分構造を認めることができる。この点については考古学的調査に基づく村落の変遷過程の考察が、沖縄大学沖縄学生文化協会『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告中の論文「狩俣村落における村落構造と変遷」にて行われている。
「前掲、狩俣村落の地籍図から土地区画をみると、まずA区域に相当する拝所群附近は不井然ないわゆる自然的家屋配置をなし、とりわけ聖域となっている「神の森」附近と丘陵の東側がそれを如実に示している。次いで現村落の中心部にあたるB区域における土地区画は、井然とした碁盤型形態に近い状態を呈し、さらに石垣線外側にあたるC区域に下るとまたもとの不井然な土地区画の様相をみせている。よって上述の遺物による比較や土地区画の状態から、仲松弥秀氏が「宮古の地理」で狩俣村落について「(前略)村落は丘陵麓が特に古いと思われ、西北の部分を根間、南東の部分を狩俣と称していたと言う。その双方から次第に下の低地に拡大されたもののようである。(後略)」と述べているように、現在の狩俣村落の前身は、かって丘陵麓の西側(神の森附近)と東側にあった2つの集団であり、それらは最初土地区画に関係なく人口の増加や生産力の増大などの理由で順次下方へ放射線状に広がっていったが、石垣線附近まで広がった時点において、何らかの大規模な土地区画の規制を受けたことが推察できる。」(「狩俣村落における村落構造と変遷」,3.結びにかえて, 2)村落の土地区画,『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告所収, p.229)
北の山/(北辺(根井間村=仲間元)/上辺(狩俣村=大城元))
という入れ子構造を想定すべきだろう。言うまでもなく、北の山を一方の項とするレベルが先行しており、森に住んだ神が、森から里に降りて村を立てたという出来事に対応し、境界には「北門」があって、北門から入る内部となる「北の山」が御嶽、即ち神域であることを示している。なお、狩俣の祭祀に関わる場所の名前は非常に複雑な様相を呈しているが、狩俣において「御嶽」と呼ばれる神域は「北の山」にしかないことには留意すべきであろう。一方で、北門の外部となる領域には狩俣村落の第1段階の双分構造における根井間村(西=ビキリ)/狩俣村(東=ブナリ)に対応する北辺/上辺の双分構造が存在するのである。
大城元>仲間元>志立元>仲嶺元
という序列なのだが、大城元と仲間元の序列関係に関して、方位における東西の序列関係とは一見逆転しているように見える点が一見したところ矛盾に見えるということである。だがこれは、最初に述べたように価値的な序列が、方位観よりも性差の双分構造に根差しているが故と考えることができる。そしてこれは、「狩俣圏」において、母なる大神島に対する子供たる「(宮古島)本土(=ミヤーク」」としての島尻・狩俣の両村落の位置関係と性差の配分と性格に対応しているのである。(東にある島尻が娘(ブナリ)で西にある狩俣が息子(ビキリ))
図1:「狩俣圏」の構造、本永の三分観、狩俣村落の構造の対応関係
つまり、一見したところ自己矛盾しているかに見える、方位観と性差の対応や祭祀における序列との対応を見ると、まず気付くこととして、(1)再帰的な入れ子構造になっている上下の層の間で、規則的に対応づけの逆転が起きているのだが、それが体系的な秩序を形成するプロセスを物語っているように思われる。次いで本題であった本永の三分観について触れるならば、それは(1)で述べた双分的な下位のシステムと上位のシステムを繋ぐ結節点で起きている逆転を、事後的に上から眺めた時に浮かび上がるものではないかという仮説が導けるように思われる。
② 北の山の北側の北御嶽(仲嶺元の女神:ウンツカサを祀る) 仲嶺元が管轄
③ 磯津御嶽(仲間元の竜宮神:マンツザー) 仲間元が管轄
「(…)ナカズマは人間の住む世界であり、ニズヤ・カニヤは死霊の住む世界である。それならば、ナカズマの神とニズヤ・カニヤの神の結婚は不可能であるはずであり、もしできたとしてもそれはこわれる運命にある。(…)更に、ニズヤ・カニドヌが四つ足の動物の形をしていて、荒々しく、それ故に悪霊を退治する神であることは注意してよい。ニズヤ・カニヤが死霊の住む世界であり、穢れた場所であるとするならば、そこを代表する神も四つ足の動物によって象徴され、かつ悪霊を退治する役割を課せられてごく当然である。」
「『南島歌謡大成』宮古篇(外間守善・新里幸昭編)の「ニガリ」の注に、ニッジャ金殿は「狩俣の東門に坐する家畜の神」と説明している。またその「補注」には「鉄塊を輸入しヘラ・カマなど農機具にかえて農業の基礎をきずいた神。別称鍛冶神がカニドウン(金殿)である。ニッジャ金殿、アロー金殿も同系の神である」と説明している。「ニガリ」の注にはニッジャ金殿は家畜の神とあり、「補注」には鍛冶神の系統とされている。そこには内容に混乱が見られるだけでなく、その記述全体がまちがっている。
『古事記』によれば、スサノオは「妣の国、根の堅州国」にいきたいと泣きわめいたとある。根の堅州国はどんなところであろうか。「根」はニライカナイ(沖縄本島)、ニーラ(八重山)、ネリヤ(奄美)などのニまたはネと同じ意味と考えられる。すなわち根は万物の生命の根源をあらわしている。では「堅州」はどうか。宣長の『古事記伝』では地底の片隅のこととしているが、そうではあるまい。地底または海の彼方の堅い場所と解するのが自然である。刀剣を鍛えることが古語でキタスまたはカタスというが、それもこの言葉と関係があると思う。いずれにしても「根」は万物の生命の根源をあらわし、「堅州」は永久不滅の場所をあらわす。それが「根の堅州国」である。この「根」にあたる語がニッジャであり、また「堅州」にあたる語が金であると考えるならば、ニッジャ金殿は、堅固な根の国を支配する者という以外にはどのような解釈も成立たない。」(谷川健一『南島文学発生論』,「青の島とあろう島」, p.420~421)
「刀剣を鍛えることが古語でキタスまたはカタスというが、それもこの言葉と関係がある」ならば、なぜ鍛冶神という解釈が当然のように排除され、このような断定が可能なのかを文章に記載された内容のみから判断するのは私には出来かねるが、それは措いて、この谷川の主張の興味深い点は、本永の三分観における、中心と対照を為す周縁たるニルヤ・カナヤとニズヤ・カニヤが実は同一のものである可能性があるという主張に繋がる可能性を持っているという点であろう。つまりここでは中心―周縁という非対称の双分構造の周縁たる海の彼方の根源的な領域が価値的に分極して、北と南、天と地下と別れて三分観が成り立ったという別の可能性を示唆していることになるからである。
本永の所説では、四つ足の動物のような姿をしたニズヤ・カニドヌだが、まず谷川の言及する家畜神説に関しては、長濱幸男「宮古島の牧と沖縄北部のマキ」を参照することができるだろう。この説では、狩俣にクパラバアズが構築した城壁の構築の目的が牧畜であったという、かなり大胆な主張であるが、それを前提にニッジャ金殿を家畜の守護神と特性づけた上で以下のような解釈を提示している。
「(…)クパラパーズが狩俣で牛を飼っていたことは、うかがえるだろうか。まず、クバラパーズの構築した東門に、ニッジャ金殿という住民と家畜の守護神が祀られていることが、謎解きの糸口となる。部落周囲に石垣を築いたのはクバラパーズの実績とされているが、この石垣は外的からの防御するほどの強固なものではなく、牛が逃げ出さないような囲いではなかっただろうか。つまり石垣を張り巡らしたのは、牛を放牧するためであり、その牧の中に部落はあったと考えられる。」(長濱幸男「宮古島の牧と沖縄北部のマキ」, p.49)
本永はと言えば、クパラパーズの構築した城壁について「ところで、このミヤークと呼称される場所は、ごく最近まで一定の範囲を占めていて、その四方周囲が小高い石垣で持って包囲されていた。村人の住むべき空間が定められていたのである。村人は、この空間から外へ出て住むことを禁じられ、その内部のみで、住居を構えて生活していた。」とし、続けて「この理由がいかなるものであったかは知る由もない」と述べた箇所の注記(巻末の注3)では、
「このことに関し、武力攻撃を防ぐためであったと言い伝えらているが肯定しがた」く、「そこに宗教的意味づけがあったと解している。」
「舟は寅の方(東)の風を受けて大海を渡り、初めに八瀬干潟に着き、次にフデ岩を経て大神島に着いた。三人は島に上陸し、しばらく島に住んでいたが、水がうまくないので別の土地を捜そうと島を出て、世渡崎をまわり、狩俣の南海岸ターヌビダから上陸した。今の東門のあたりで一休みしていると、近くの凹地のユーナギヤマ(オオハマボウの群落)から小鳥がぬれて飛び立つのが見えた。泉があるに違いないと思い、小鳥が飛び立ったところを急いでなぎはらってみると、思っていたとおりの清水が湧いていた。飲んでみるとたいへんうまかったので、この地を定住の地と定め、泉近くのナーンミ(ムトゥの場所)に家を造り、守姉をそこに住まわせた。兄妹はそこからさらに上の方に進み、シダティを根所と定め家を建て、持ってきた種子をまいて農耕を広めた。兄は豊饒をもたらす神「ユーヌヌス」として祀られている。」(『平良市史 第9巻 資料編7(御嶽)』, p.46~7)
南から狩俣に入り、東門の脇に位置する泉(仲嶺元の管理するズーガー)を探し当て、仲嶺から志立に上ったという経路だけではなく、彼等が近親相姦の禁忌に触れたとされる伝承自体もまた、反復される村立て、渡来者の泉を求めての巡行の反復としての神話化にあたり、後から来て、一時的であれ旧来の支配層に対立し、実際には村落にとって重要な役割を果たすことになった集団の村落への統合・同化のために、つまり社会システムにおける他者の自己への「体内化」のために必要とされた合理化の結果として加工された側面を含んでいるであろうことさえ想定できるだろう。
4.双分観から三分観への移行を、生物学的アナロジーで考える
私がここで思い浮かべるのは、真核生物の起源について、つまり生命のオートポイエーシスのある水準の議論である。真核生物の起源については未だに諸説入り乱れて論争が行われている状態ではあるが、ほぼ共通認識として受け入れられていることとして、真核生物が、2つ以上の生物が合体して誕生したということがある。真核生物の細胞は、原核生物の細胞と比べて複雑な内部構造を備えているが、特にその中でも特徴的なミトコンドリアや葉緑体といった器官は、もともとは別のバクテリアが取り込まれて共生関係となったことが起源とされている。また真核生物以外の共生について言えば、ヒトの場合の大腸菌のように共生関係はごく一般的なものである(真核生物における共生によるオルガネラの起源はリン・マーギュリスの説だが、それを含む真核生物の起源に関するの簡潔な紹介として、ここではJ・メイナード・スミス、E・サトマーリ『進化する階層』第8章 真核生物の起源を挙げる。また同書第11章 共生は、真核生物の起源以外の共生についての簡潔な紹介である)。従って、他者と自己の境界や相互作用を考えるにあたっては、そのような共生関係を念頭におくべきなのだが、それと並行したことが、恐らく心のシステムにも社会システムにも言えるのであって、<二分心>や意識といった心のシステムがやはり個体としての自己と他者の境界や相互作用に関わっているように、双分観と三分観との関係は村落を構成する集団間の境界や相互作用に関わるといった形で並行しているという見方ができるだろう。そしてそうした動的な相互作用の痕跡が、神話や歌謡に見られる重層的な構造、各層の間の緊張関係として痕跡をとどめており、それを外部か観察した時に、双分的構造、或いは三分的な構造として認識できるということなのではなかろうか?そして特に狩俣において本永が見出したような三分的な構造は、村落形成の歴史における双分的な構造の重層を事後的にある平面に射影した時に浮かび上がるものと考えたいのである。

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