2026年4月22日水曜日

「20世紀の三輪眞弘展」について(1) 上映会 (2026.4.3)

 20世紀の三輪眞弘展

上映会

2026年4月3日 19:30開演

としま区民センター 小ホール


後半に演奏記録が上映された作品と奏者:

ピアノとチェロ(コントラバス)のための「極東の架空の島の唄 I」(1991)

 チェロ:林はるか、ピアノ:森田花央里 

ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのための「私の好きなコルトレーンのもの」(1993)

 ヴィオラ・ダ・ガンバ: 福澤宏、チェンバロ:山田香織

*     *     *

三輪眞弘さんのドイツ時代(1978~1996)にフォーカスした展示、当時についての三輪さん自身や三輪さん知る方々へのインタビューを中心にして構成されたドキュメント映像および作品演奏の映像の上映会、演奏会よりなる企画が、としま区民センターにて開催されました(上映会は4月3日、12日の夜の2回、展示は4月9日~12日、演奏会は4月11日の午後)。私はそのうち、上映会の1回目と演奏会を訪れたので、その感想を記しておくことにします。演奏会については別に稿を起こすこととし、ここでは上映会の感想を書き留めておきたく思います。

なお上映会については私が訪れた第1回目以外に、演奏会の翌日の夜にもう一度、この一連の催しの、いわば「結び」として行われた筈ですが、この1回目の上映会は、「オープニング」の位置づけと言えばそうなのかも知れないとはいえ、4/9から開始される展示に対して離れ小島のように孤立して行われたせいか、参加者もまばらで(私が数えた限りでは自分も含めて12~3人といったところだったと記憶します)、残念ながら些か寂しい催しとなった印象があります。もっともそれは、この金曜日の夜の催しに参加すべく、常とは異なって、仕事を終えた後に帰宅ラッシュの人混みに揉まれながら池袋迄移動し、会場を取り巻く、週末を迎える夜の池袋東口の喧噪に満ちた雑踏を掻き分けて会場に辿り着き、早く着きすぎた故に外で時間を潰してから開演会場に赴くと、当初客席にいたのは2,3人だったということもあるか知れません。後から振り返ってみても、後日の11日の演奏会の盛況からは想像がつかない、何か不思議な雰囲気の催しであったというのが率直な印象です。これはこの上映会に限ったことではなく、平日夜の催しはそのようなものですが、終了は20時20分過ぎ、そこから郊外の自宅に戻れば普段はもう休もうかという時刻の帰宅となり、大げさと取られるかも知れませんが、今思い起こしても、何か日常とは違った時空に迷いこんだような、あたかも夢の中での経験であるかのような、非現実的な印象があります。もっともこれもまた、個人的な理由で新型コロナウィルス感染症の蔓延以降、流行が収まってからもイベントに参加することを控えてきたという私の側の事情に拠る部分が大きいのだと思いますが。

上映された映像は、ドキュメント映像にせよ、作品演奏の映像にせよ、非常に興味深いものと感じられたが故に一層、会場を訪れる人の数が少なかったのが惜しまれるように思えたのですが、想像するに、恐らく演奏会の翌日の2回目は、上映前に別のフロアでの展示を観ることも可能でもあり、前日の演奏会同様、盛況であったに違いなく、この日に会場で私が抱いた懸念について言えば杞憂であったかも知れません。その一方で、サラマンカホールでの≪三輪眞弘祭≫のような、ライブイベントのオンライン配信というわけではなく、事前に収録された映像の上映のみなのであれば、仮に「イベント」として日時を決めて実施するにしても、事前に公開されたプレビュー同様、youtubeでの視聴を可能にした方が、より多くの方の視聴が可能だったのではないかという気がしないではありません。勿論、映画館の暗闇の中で大きなスクリーンに映し出される映画を観ることが、自宅の自室のPCの画面で同じ作品を観るのとは異なる経験であるのと同様に、上映会にそれ固有の意義があることもまた、確かでしょうが。

いずれにせよ、当日会場に居合わせた人間の一人として、この企画の意義を十全に受け止めきれていない、「応答」としては取るに足らないものであったとしても、記録を残すこと、またそれに対する反応を記し、「証言」することに何某かの意義があると考え、委細を問わず記していきたく思います。そしてそれに先立って、まず、この貴重な催しを企画され、更にドキュメント映像の制作、演奏の収録、上映会の実現に尽力された羽山さんをはじめとする多くの方々に対して敬意と感謝の気持ちを記しておきたく思います。

*     *     *

上演が始まる迄の時間、スクリーンには、youtubeで事前公開されていたプレビューが流されていたように思います。その内容は、この日上映された2編の映像からの抜粋をコラージュしたものと思われ、この日の上演は、ドキュメンタリー映像の上映の後、一旦、映像が切れてから演奏記録の映像が上映されるという2部構成になっていました。実はプレビューの映像には本編では採用されなかった映像が含まれていた(「極東の架空の島の唄」の演奏をバックにしたCG画像のうちの一部は本編では登場しなかった)ようにも思えたのですが、これは単なる私の勘違いかも知れません。ドキュメント映像の長さは30分程度、演奏の映像は当然、作品の長さに従うことになりますが、2曲合わせて20分強。全体で50分少し位の上映時間でした。

ドキュメント映像は、上述のCGの挿入を除くと、今回のために収録された三輪さんへのインタビューに加えて、この催しが扱う時代の三輪さんや当時の音楽の状況を証言する、嶋津さん他3名へのインタビュー、三輪さんがドイツを訪れた時に撮影・収録したと思しき映像(「東のクリステ」を初演した指揮者およびピアニストと三輪さんの鼎談含む)、更には今は亡きクラーレンツ・バルローへのインタビューで構成されていました。三輪さんのお話は、ドイツに渡る前の、幼少期の音楽との関わりの話から始まり、その内容は初めて聞くものも含まれており、大変興味深いものでした。また嶋津さんのお話には、当時のベルリン(ベルリンの壁崩壊以前の、まだ西ベルリンと東ベルリンが分割統治され、往来に制限のあった時期)での生活の回想も含まれ、これもとても印象的でした。これは私事になりますが、私が三輪さんの音楽に出遭ったのは、三輪さんが日本に戻って後、更に10年近く遅れて21世紀になってからのことです。その後の10年のギャップに加えて、三輪さんがヨーロッパに滞在していた期間自体も1978年から1996年までの18年に及ぶ訳で、改めて、私が出会う前の年月の厚みに思いを致すとともに、同時代に生きているが故に、自分が同じ時期に何をしていたかと引き比べてみることができてしまうという事情もあって、このドキュメンタリー映像の語るもの、更にはその背後にある時間の厚みと重みに圧倒される思いがしました。

後半に上映された演奏の記録は、いずれも1990年代前半の日付を持つ、三輪さんのヨーロッパ滞在の末期の2つの作品を取り上げたものです(確認したところ、初演は「極東の架空の島の唄I」の初演は1992年11月4日、京都で、「私の好きなコルトレーンのもの」は1993年9月26日に、作品の委嘱者によってドイツで初演されていて、三輪さんが当時、ドイツと日本を股にかけて活動していたことが窺えます。)これは三輪さんの音楽に出遭った直後に記した「覚え書」にも記したことですが、当時の私にとって、三輪さんがヨーロッパ滞在末期に作曲した一連の作品——それはまさに今回の催しが焦点を当てて取り上げている作品群に他ならないのですが――の印象は圧倒的でしたし、それから更に20年余りが経過した今でも、優れた録音記録があることや、特にこの日に上映された2曲は、作品のフォーマットが「普通」であり、「録楽」で聴くことへの抵抗感が少ないこともあって、折に触れ聞き返す頻度が高い作品です。それだけにこの催しは私にとって得難く、しかも事前予告によれば、演奏会では取り上げられないというアナウンスであったこともあり(実際には別稿で記す通り、「極東の架空の島の唄I」は演奏会でも取り上げられたのですが、そちらはコントラバス版でしたから、チェロによるバージョンには上映会でしか接することができなかったことになります)、大きな期待をもって会場を訪れたのですが、期待に違わぬ素晴らしい演奏に接することが出来、しばし時を忘れて聴き入りました。その一方で、いわゆる通常の室内楽のフォーマットの作品であるとはいえ、やはり録画されたものに接するのは、その場で奏者が演奏するのに接するのとは全く異なる経験であり、そのことも、この日の催しがどこか夢で見たもののように感じられることに関わっているのかも知れません。

「…」という夢を見た、というのは、後年の三輪さんの作品にしばしば付せられる「由来」の形式に他ならず、それは「逆シミュレーション音楽」の3つの相では、「命名」の相に属するものです(「極東の架空の島の唄I」であれば、楽譜の自作解説の「極東の架空の島の「インディアンのおじいさんが星空の下で子供たちに昔話を語っている」イメージ」というのが、「…という夢をみた」に相当するものかも知れません)が、それを思えば、「解釈」の相が「命名」の相に埋め込まれてしまったのような、自分が実際には(つまり実演では)聴くことのできない、自分の知らない過去の作品の来歴を垣間見させられているような、そんな感じをこの日の上演から受け取ったように感じます。上映された映像が、この催しの一部として、新たに演奏されたものを収録したものであることは(映像そのものからも)明らかであるにも関わらず、あたかもそれが自分の属する時空とは別の、「ありえたかも知れない架空の」場所でかつて演奏されたものの記録に接しているような感じと言えば良いのでしょうか。そう思うと、今回の「20世紀の三輪眞弘展」自体が、三輪さんの作品全体に対して、そうした「由来」を紡ぐことそのものにも思えてきます。この2作品が、私がまだ三輪さんの作品に出会う、遥か前に作曲されたという、私個人の事情も与っていることだろうと思いますが。

*     *     *

上述のように、その後の三輪さんは、「逆シミュレーション音楽」という方法論を確立し、決定論的な状態遷移規則によって生成される音の系列に基づくようになる一方で、「逆シミュレーション音楽」では「命名」と名づけられた相の重みが増大し、時としてそれが作品に抜き差しならぬ重みをもたらすことにもなるのですが、この日上映された2曲を含め、今回の催しで取り上げられた作品は、その豊かさが自在でのびやかな拡がりに通じているように感じられます。特に「極東の架空の島の唄」シリーズは、柴田南雄さんの『音楽の骸骨の話』における日本民謡の構造、単に旋法を用いているというだけではなく時系列的な音の継起にも規則性があるという了解(楽譜の解説の三輪さん自身の言葉を引用すれば日本の五音音階の旋律において音階音の出現の順序に明確な規則性がある」ので「コンピュータ・プログラムの中では静的なデータ構造でしかなかった「音階」という概念がアルゴリズム(手順)として書かれなければならない」という了解)に基づいて、その規則をプログラミングし、そのプログラムを実行して、確率的に旋律を生成するシミュレーションを繰り返すことで作成された作品です。作曲者は生成された音響列に直接介入するのではなく、コンピュータが生成する音響を聴いて、生成規則や各種パラメータを調整したり、生成された音響を切り取ったり、重ね合わせるといったやり方でフィードバックを行って、更にシミュレーションを繰り返すといったプロセスにより作り上げられたものです。

実際にはここでの自在な変容は、基本的にはアルゴリズミック・コンポジションに組み込まれた確率的挙動がもたらすものなのでしょうが、もしそれを知らない人が聞いたら、コンピュータが自動的に生成したものであるとは気づかないかも知れない程に、それは自然なものに聞こえます。しかしそこには勿論、繰り返し聴いては調整を行う、膨大なトライアル・アンド・エラーのプロセス(再び、楽譜の解説の三輪さんの言葉を引用するならば「確率分布を用いた五音音階旋律生成アルゴリズム」の実行により「コンピュータが生成する初めもなく終わりもない旋律を切り取り、低音楽器によるゆったりとした単旋律とピアノによる重なり合う複数の旋律を組み合わせること」)が介在しており、従って寧ろここで思い起こすべきなのは、例えばラヴェルのト調のピアノ協奏曲の緩徐楽章が、実は少しづつ継ぎ足すようにして作曲されたというエピソードなのかも知れません。ラヴェルの場合にはアルゴリズムはラヴェルの頭の中にあって、コンピュータは介在していませんが、ここでプログラムされた規則は、日本民謡のいわば楽理に相当するものですから、制約されているとはいえ莫大な可能性の空間の中から音を選んでいくという行為という点において、両者は変わるところがないという見方も可能なように思えます。そもそも後年の決定性アルゴリズムに厳密に従った音の系列をそのまま用いる場合とは異なって、ここでのコンピュータ・アルゴリズムの役割は第一義的には「初めもなく終わりもない旋律」という、いわば「素材」に相当するものの提供に存しており、それを作品に組み上げる(=composeする)にあたっては作曲者の関与の余地は大きく、作品としての「自然さ」が人為による彫琢の産物であると言う点は両者に共通していると言えるのではないでしょうか。

その一方で、膨大な事前学習に基づく大規模言語モデルをベースとした生成AIが、瞬く間に人間に迫り、範囲を限定するれば凌駕するようになった現時点の状況を踏まえれば、この30年以上前に試みられたアルゴリズミック・コンポジションの結果を聴くこともまた、かつてと同じではありえないように私には感じられました。特にこの1年くらいの生成AIの性能向上は1年前には想像がつかない程のものであり、今や「こんな感じ」という指示を与えれば、生成AIが楽曲を生成することさえ可能になっています。それを「自動作曲」と呼ぶならば、ようやく音楽的な専門知識や訓練による高度な技術の習得なしで、或いは、コンピュータを用いた作曲に限定すれば、コンピュータに関する専門的な知識や技術の習得なしでも「自動作曲」が可能になった現在に、かつてのアルゴリズミック・コンポジションを改めて配置し直す作業は、色々な面で興味深いものがあるように感じます。

そこで、この上演会の感想はここまでとして、以下では、このイベントの記録からは離れますが、イベントに接しての反応の一部ということで、上記の点について思ったことを記しておきたいと思います。

*     *     *

今回の上映会のドキュメンタリー映像と2つの作品の演奏記録に接して強く感じたのは、端的に言えば、作曲における「聴く」の重要性のことです。記号学的な三分法では作曲・演奏・聴取のような形で分けられてしまいますし、「アルゴリズミック・コンポジション」のような方法論では、音楽の構造をプログラムによって生成させるので、一見したところでは演奏による音響的実現結果の聴取というのは副次的な問題であるように思われます。実際に三輪さん自身がインタビューの中で、ドイツ時代の自分が、構造が全てであり、音響的実現などどうでもいい、といったようなニュアンスの発言をしたことがあると述べていることも、音楽の構造的側面の重視を証言したものと言えると思います。

しかし私がこの日に感じたのは、そのことは「聴く」ことを蔑ろにすることを意味しない、ということでした。一方では、構造はアルゴリズムで決まってしまうのだから、音響的実現はどうでもいいという言い方があって、これはともすればピタゴラス派的な「天球の音楽」、耳には聞こえない数理的秩序の重視のように見えますが、他方で、作曲の現実のプロセスとして、実現された音響を聴いて確認する作業は不可欠に違いありません。そればかりか、特にアルゴリズミック・コンポジションは、自分で書くのはプログラムで音響そのものではない分、プログラムが生成する音を聴くというプロセスが一層重要になる、という逆転というか往還のようなものがあるように感じたのです。これもまたインタビューで、三輪さんが教わった伝統的な作曲においても徹底的に聴くことが重視されたという証言もあり、そうであればこの点においては「アルゴリズミック・コンポジション」との違いはないことになるでしょう。否、寧ろ、中間にコンピュータが挟まることで、その両者がフェーズとして明確に分離され、実現された音響に直接介入するのではなく、プログラムに実装された生成規則自体や、各種のパラメータ、初期値等を調整した結果を再度聴き返すという作業を繰り返すことになる分、「アルゴリズミック・コンポジション」の方が「聴く」ことを一層ラディカルに要求しているという見方さえできるのではないでしょうか?

*     *     *

今回の三輪さんの20世紀のアルゴリズミック・コンポジションを回顧する企画は、生成AIの性能がドラスティックに向上し、ほんの1年前は、まだ音楽生成はできないと言っていたのが、いよいよ普通の環境でも生成AIに自然言語で指示することで音楽を生成することができるようになった状況下で行われました。そこで当然のように出てくる問として、コンピュータを利用した作曲という点では共通している両者の比較が出てくるように思います。言い方を変えれば、今、この企画に聴き手として向き合おうとするとき、生成AIによる音楽生成を鏡にして、20世紀の、更にはその後のアルゴリズミック・コンポジションを再確認することが求められているように感じたということです。

私は実はやったことがないのですが、生成AIに音楽を作らせる場合、当然のこととして、自然言語で指示をする、結果を聴いて、自然言語でダメだしをして改良していくというプロセスになるでしょう。するとここでも「聴く」ことはプロセスの一部になっていて、なおかつ、これは決定的に重要だと思うのですが、それは結局、ここでも「人間」の側に配分されていることになります。

勿論、自然言語での指示には色々な仕方が考えられるわけで、指示のレベルには多分違いがあって、アルゴリズミック・コンポジションに相当することを自然言語でやろうとすれば、それは音楽を生成する規則・手順を与えることになるので、コードをAIに書かせる作業に近いように思えます。(後者は今日、バイブ・コーディングと呼ばれて、既に実用化段階にあります。)実際には20世紀の三輪さんは、或る時期まではC言語に代表されるようなプログラミング言語で自分でプログラムを書いて、規則・手順をコンピュータに与えていたわけですが、今後は、ソフトウェアエンジニアがコード自体は書かなくなるように、アルゴリズミック・コンポジションもコードを書かずにやるようになるのかも知れません。

実際には(これも私は本格的にはやったことがなく、専ら読むことしかできませんが)、或る時期からは既に「アルゴリズミック・コンポジション」での作曲方法も、プログラムそのものを書くのではなく、MAX/MSPのような環境でグラフィカルな仕方で音楽の構造を指示するやり方に変わっています。であってみれば、チャートの作成が自然言語になっただけだという見方も成り立つのかも知れません。

そういう向きに考えて行くと、結局、今、普通の人間が生成AIに向き合うようになったスタンスを、実は半世紀近く前から先取りしていたのがアルゴリズミック・コンポジションであるという見方も成り立ちそうです。

そして重要に思えるのは、今も昔も共通してコンピュータないしAIに出来ないのは、作曲のプロセスにおいて「聴く」ことなのだといえるのではないかと思うのです。例えば、ある曲に似た曲の作成、ある曲と別の曲が似ているかどうかの判定、或いはある基準に基づいて作品を比較評価することは今や可能でしょう。しかしながら、統計量を計算して、分類する、ある評価軸で点数づけをすることはできたとしても、それは音楽を「聴く」ことではありません。コンピュータは(そして今のところAIは)人間にとって「聴く」ことの最も重要な側面、それに感動する、共感するといった側面を欠いています(そういう言葉を返すことができても、それは言説の空間上での頻度に基づけば、それが最もありえそうだということを示しているに過ぎません)。この点においては、アルゴリズミック・コンポジションにおける規則(ここでは確率分布も広義の規則に含むものとします)に従って音の系列を生成するプログラムと何ら変わることはないと言えるでしょう。従ってまず明らかなこととして、生成AIが自分が生成した音の系列を「聴く」ことができない限り、生成AI「が」作曲をしているとは言えないことになります。

*     *     *

では指示を与える側についてはどうでしょうか?繰り返しになりますが、自然言語で指示を与える場合に、その指示の与え方には色々なやり方が考えられます。アルゴリズミック・コンポジションと等価なことをするのであれば、従来はプログラムの形で記述していた手順を、自然言語の形で与えることになりますが、そうではなくより直感的な「こんな感じで」という指示をして音楽を生成させ、その結果についてダメ出しをして改善していくことで自分の望んだ作品に仕上げていくというやり方も可能のように思われます。既述の通り、近年、自然言語で生成AIに指示をしてプログラムを作成することを、バイブ・コーディング(Vibe Coding)と呼ぶようですが、ここでのVibeはまさに上述の「こんな感じ」の「感じ」のことで、「こんな感じ」を指示してあとはお任せ、というニュアンスもあり、プログラムの非構造的な側面(典型的にはGUIの見た目とか)については、文字通り「雰囲気」を伝えるのが最も効率的なインタフェースの取り方なのかも知れません。もっとも、それだけでは、見た目の確認をするためのモックアップのようなものは作成できても、それ以上のことはできず、やはりきちんとした仕様を言語化して与える必要があることには留意すべきでしょう。

そしてこのプログラミングのアナロジーは、そのまま音楽にも適用できるのではないでしょうか?そればかりか、AIを利用して、オリジナリティのある作品——それは小説でも、音楽でも、或いは学術論文でもいいのですが――を創ることができることが可能か、或いは生成AIを利用して出来た作品の著作権の問題についても、「アルゴリズミック・コンポジション」を参照して考えることによって、一般的な原則となる指針が得られるように思われるのです。

そして実はこの問題は、生成AIを利用するという状況に固有の問題ではなく、生成AIを他の人間、共同制作者に置き換えても構造は変わらないのではないでしょうか?以前、まさに「こんな感じ」を詳細にチャート化して、作曲のスキルがある他の人に渡して、音楽的な実現を委ね、でもその音楽は、「こんな感じ」を指示する側の著作物とする、といった事例が実際にあったことも思い出されます。また、特に生成AIが出始めたばかりの頃に、レポートの課題を丸投げしたらWeb上に存在する別の著作物の「パクリ」が返って来るということが問題になったことがもあります。実は根本的にはこの問題は未だ解決しているわけではないのですが、これもある点で、基本的な構造が共通しているように思えます。要するに、指示が漠然とした一般的なものであれば、生成AIの返す回答はそれ相応のものにしかなりません。つまり自然言語であれ、プログラムであれ、与える指示がオリジナルなものであれば、返ってくる結果もまたオリジナルなものとなるという点がまずは言えるのではないか思います。

*     *     *

しかしながら、こと音楽について言えば、それで話が済むわけではありません。もしそうであれば、言語による「こんな感じ」も、それをどんどん詳細にしていけばオリジナリティが出てくるのでは、ということになってしまいそうですが、実際にはそうでないのは明らかです。端的に言って、「こんな感じ」の詳細化はどこまで行っても、その感じを惹き起こす「音楽」に辿り着くことはありえません。例えば、楽曲解説は構造を説明しているように見えますが、ごく一般的な楽曲解説から元の音楽を再現することができないのは直感的に明らかでしょう。では何が必要なのかと言えば、それが音の系列を生成する手順=アルゴリズムだということになります。

三輪さんが「構造が全てて音響的な実現はどうでもいい」と言う時、それは音響的実現なしで「音楽」が成立するという意味では勿論なく、音響だけでは「音楽」は成立しない、寧ろ人がそれに従って音響を実現することは前提として、人が従う規則の存在が音楽には不可欠だ、そしてその規則を与えることが必要条件の一つなのだということを言っていると私は了解しています。

しかしそれは必要条件であって十分条件ではありません。それでは与える規則が複雑であれ良いのか、例えばそれがカオスとか、フラクタルのような複雑系であれば良いのかといえばそうではありません、そもそもそれは単なる規則であってそれ自体は「音楽」ではありません。実は規則には必ず2種類があって、抽象的なパターンを生成する規則と、それを具体的な音響にどうマップするかの両方が必要となります。音楽の規則は自然法則そのものではなく、それに従って生成されたパターンが音の系列に写される限りにおいて「音楽」の一部になりうるのであって、数式そのものではありません。つまり作曲は、規則に従って生成され、演奏によって実現される音の系列に対するコミットメントを伴うものでなくてはならないのです。

しかもアルゴリズミック・コンポジションの場合には、音の系列が一旦生成されたら後は直接その結果に介入して意図に添わない部分を修正して、規則の方は昇ったら捨ててしまう梯子のように捨て去られてしまう訳ではありません。そうではなくて、生成された音の系列を確認して、その結果に基づいて規則そのものや各種のパラメータ、或いは初期値のようなデータを調整してシミュレーションを繰り返すフィードバックループによって作品を創り出していくのです。これは今日、ソフトウェア開発においてコード生成をAIにやらせる際に、生成されたコードの不具合を人間が直接修正してしまうのではなく、生成AIに対する指示を手直していくことで生成AIを巻き込んだ開発プロセスを立ち上げていくことと極めて良く似ているように思えます。

*     *     *

かくして、現時点において「20世紀の三輪眞弘」を回顧して、数十年前に試みられた「アルゴリズミック・コンポジション」を見直すことは、今日生成AIに対してどのように接していくべきなのかに関して多くの示唆を与えてくれるように思えます。今や生成AIに対して「こんな感じで」という指示を出すことで音響が生成され、あたかも作曲ができるようになったかの状況が実現しつつあります。楽譜の書き方はわからなくていい、プログラミング言語も不要だし、MAXのようなツールを使えなくても音楽が作れるかも知れない。そうした状況で、コンピュータを使って音楽を作るということがどういうことなのか?というのを問うた時、実は「アルゴリズミック・コンポジション」が時代を先取りしてずっとやってきたことが、「私が作曲する」と「AIに作ってもらう」の境界を示しているのではないでしょうか?

そしてまた「AIに作ってもらう」は「AIが作曲する」ことを直ちに意味する訳ではなく、生成された音を「聴く」ことが人間の側に配分されている以上、そしてAIが音楽を「聴く」ことがない限りは――但しそれは、原理的に不可能ではなく、いつかは、しかも恐らくはそんなに遠い将来ではない未来において、或る仕方で、もしかしたら人間とは異なる仕方で実現するかも知れないのですが――「音楽」を作っているのは人間であってAIではない、言い換えれば、差し当たっては、単なる「こんな感じ」という指示で生成された音の系列には二重の意味合いで「作品性」が欠如していて、人間が作曲したのでも、AIが作曲したのでもないということをも告げているように思えるのです。それは端的に「音楽」ではないのだ、ということになるようです。

*     *     *

この催しに接してこうしたことを考えたのには背景があって、こちらは音楽ではなく、文章を書くことなのですが、今までは一から十まで自分で文章を書いていたのが、いわば「文章の仕様」に相当するものをAIに与えて文章を生成させることができるようになりました。ここで(上述の通り、ソフトウェア開発の現場もそうなのですが)、短気を起こして、意図通りにならない部分を直接人間が手直ししておしまいにするのではなく、根気よく、そのフィードバック過程に生成AIを巻き込んでいくことにより、文章(ないしプログラム)を仕上げていくことを繰り返すことによって生成AIを「使える存在」にしていく作業を繰り返していく過程で、ふと、これって、三輪さんがプログラムないしパッチを書いて実行して、結果を聴いて、音響に直接介入するのではなく、あくまでも与える規則なりパラメータ、初期値を調整することで作品を作っていくことに近づいてきているのではないか、今自分がやっていることは、これも或る種の「アルゴリズミック・コンポジション」(但し、コンポジションはこちらは音楽作品ではなく、プログラムやレポートの制作ですが)なのではないかというように感じたのでした。生成AIで自分のオリジナルな「作品」(音楽でも、文章でも、あるいは科学的研究でも)を作ろうとしたときにやらないといけないことは、実は、アルゴリズミック・コンポジションの方法論によって先取りされているのではないか、特にその改良・改善のプロセスにおいて、アルゴリズミック・コンポジションのそれを後追いしているように感じられてなりません。

実を言えば、「音楽」が成立する条件、音の系列が「音楽」となる条件は、この日の催しに触発されて考えた上記の内容に尽きるものではありません。まだ十分条件には達していないのです。だけれどもその点については、この場ではなく、4月11日に行われた演奏会の感想を記す場で触れるのが適当に思われます。何故ならば、それには20世紀の三輪さんが後に辿り着いた「逆シミュレーション音楽」の3つの相において明確に示されることになるように、「規則による生成」に加えて「解釈」と「命名」という2つの相が関わるからで、それは上映ではなく、実演の場により相応しく、かつまた演奏会で演奏された作品の中でもとりわけ「東のクリステ」こそ、そのことに言及するに相応しいと私には感じられるからです。

(2026.4.22 公開)


0 件のコメント:

コメントを投稿