2026年4月21日火曜日

火星——赤い地平の向こう(9)(地球外からの「極東の架空の島」の眺望・外伝・第1部)


 

第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在

前章まで、私たちは火星を科学的に、そして文学的に辿ってきた。観測史、探査史、物理的性質、進化史、生命論、未来計画、部分同型性、そして想像力の縁。

この章では、問いを音楽へと向ける。

音楽は、火星とどのような関係を持ちうるのか。科学的な火星は、音楽と接続できるのか。そしてもし接続できないとすれば、それは何を意味するのか。

だがその問いに入る前に、遠回りのように見えて実は最も直接的な道を辿ってみたい。宇宙からの視点と音楽という問いは、先例がないわけではない。

9.1 シュトックハウゼンの問い——宇宙から音楽を眺める

宇宙からの視点、展望から人間の営みである音楽を眺めるということは先例がないわけではない。管見でも、例えばマーラーの音楽に関して繰り返しそうしたアプローチが行われている事実があり、そのうちの一つは、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝の書評において、「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう」(酒田健一訳)と述べているものである。

この発言は、19世紀末の西欧の音楽に関して言われたものとしては「突拍子もないような視点」のように感じられるかもしれない。だが最大限批判的に捉えたとしても、こうした視点を採ることによって「音楽」に関して主張される普遍性の危うさを逆説的に浮かび上がらせているということはできるだろう。結局のところ、幾ら背伸びをしたところで「音楽」は「人間」を超えることはないという点においてシュトックハウゼンの発言は幾つかの点で示唆的である。

一つには生物の「高等」さの尺度が「地球人」におかれていること。無いものねだりとは言いながら、例えばスタニスワフ・レムが描き出したようにそもそも地球上の生物とは全く異なる物理化学的・生物学的基盤の上に「知性」(正確には「知的」に見えるもの)が備わっていることだって大いにありうるわけだ。そうであってみれば、そもそも「音楽」というのが件の高等生物にとっては全く理解しがたいもの、何のために存在するものであるかすら分からない音響だということも考えられるし、人間と同じ周波数帯の聴覚を備えていることを期待すべきではないかもしれない。

シュトックハウゼンが考えていることがあまりに「人間」的なものを自明なものと前提した、随分とムシの良い人間中心主義なのは明らかなのだが、彼の「音楽」が暗黙の裡に前提としているものはそれだけではない。彼の発言の意図が別にあることは承知で言えば、もちろん「地球人」をヨーロッパのある時期の、しかもかなり特殊な音楽、たった一人の人間が書いた音楽で代表させることの無謀さは明らかで、そこに西欧の文化帝国主義の無邪気な顕れを見出して呆れる人がいても不思議はない。

かくして異文化理解のようなレベルで議論している分には成立するかに見える普遍性も、一歩外に踏み出せば色褪せてしまうということが、このような「突拍子もないような視点」から浮かび上がってくる。別の星に住む高等生物を持ち出すまでもなく、人工知能研究以後におけるロボットを考えてもいいし、その認知能力が明らかになりつつある別の生物、例えばオウムやインコ、あるいはイルカやクジラを考えても構わない。

勿論シュトックハウゼンは、一方では「人間」が時代とともに変容するものであることに対する認識はあって、「その音楽は、人類が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめようとするまえの、古い、全的な、《一個体》としての人間による最後の音楽である」と述べてはいる。だが寧ろジュリアン・ジェインズが構想したような時間軸での意識の歴史のようなパースペクティブこそ相応しい文脈にも関わらず、こちらは今度はあまりに狭い文脈の議論に飛躍してしまっている。恐らくこの発言で想定されているのは、彼の周辺の「現代音楽」から眺めた展望に過ぎない。

そしてこの問題は、シュトックハウゼンが想定しているよりもずっと近くにある。火星にいる人間——宇宙服を着た人間、あるいは将来的には遺伝子改変によって火星に適応した人間——にとって、地球の音楽はどのように響くだろうか。

9.2 アドルノの視点——宇宙から眺めた地球

同じく宇宙からの視点といえば、アドルノがマーラー論において「大地の歌」に関連して宇宙飛行士が宇宙から眺めた球体としての地球を持ち出した以下の発言も思い起こされる。

「大地とは、この作品にとっては森羅万象ではなく、五十年後に広大なる高度にまで飛び出すことになる人間の経験がはじめて手にするようなもの、すなわち星なのである。地球を離れようとする音楽のまなざしには、この間に宇宙からすでに写真に撮られたように、地球は一目で見渡せる円い球と見える。それは創造の中心ではなく、ちっぽけなもので、はかないものと見えるのである。こうした経験には、人間よりも幸せな生物が住んでいるかもしれない他の惑星へのメランコリックな希望がともにある。けれども、遠くへと去っていった地球には、かつて星たちが約束していた希望は失われている。地球は虚無の銀河系の中へと没滅してゆく。そこでは美は、死にゆく眼が果てしなき空間の雪塊のもとに凍りつくまでその眼を満たしているところの、過ぎ去った希望の反映としてそこにある。そうした美に魅了される瞬間は、魔法を解かれた自然への凋落に対して大胆にも身を張って持ちこたえようとする。どんな形而上学ももはや可能ではないということが、最後の形而上学となる。」(龍村あや子訳)

アドルノの視点はマーラーの音楽の元々の文脈からすれば「突拍子もないような視点」ということになるのだろうが、更に50年後の時代に生きている人間にとって、それは珍説として脇に押しやるのではなく、寧ろその視点を今、ここの展望に応じて徹底させることによって乗り越えるべきなのである。

ここで重要なのは、シュトックハウゼンの発言もアドルノの発言も、いつの日か、遠い将来のある時点でジュリアン・ジェインズがホメロスの時代の意識の様態を探ったのとパラレルな探査が、マーラーの音楽を素材にして行われたりするのかもしれないように、ある時代の認識の様態を端的に象徴するものとして分析の対象になっても不思議はないという点だ。そしてそれは同時に、音楽もまた時代と場所の産物であるという事実を浮かび上がらせる。

音楽は、地球の大気の中で、地球の重力の下で、人間の身体によって生み出される。この事実は、通常は自明の背景として意識されることがない。だが火星という問いは、その背景を前景へと引き出す。

9.3 序——音楽は物語ではない

ここで、出発点を明確にしよう。

文学と音楽は、根本的に異なる。

文学は、言語によって世界を記述する。言語は、物理的条件から比較的自由である。火星の希薄な大気を描写するために、作家は実際に希薄な大気の中にいる必要はない。火星の古代の湖を描くために、作家はその湖のほとりに立つ必要はない。言語は、物理的な不在を超えて、世界を想起させることができる。

音楽は、そうではない。

音楽は空気の振動である。演奏者は、実際の大気の中で、実際の楽器を、実際の身体で演奏する。音楽は、物理的条件に深く依存している。

ここに、文学と音楽の根本的な非対称性がある。

この非対称性は、火星という問題において決定的になる。文学は、火星をどのようにも描けた。老いた文明を描き、きえさりゆく文明を描き、テラフォーミングによって若返る惑星を描いた。

しかし音楽は、火星の物理的条件から逃れることができない。

音楽にとって、火星は物語ではない。音楽にとって、火星は物理的制約の場である。

9.4 火星の音響条件——物理的事実として

では、火星の音響条件とはいかなるものか。パーサヴィアランスが搭載したマイクロフォンが記録したデータを含め、現時点で分かっていることを整理しよう。

大気圧と音の伝播

火星の平均大気圧は約0.6キロパスカル。地球の約0.6パーセントである。

音は媒質の振動として伝播するため、媒質の密度が低いほど、音は遠くまで届かない。火星では、音のエネルギーが急速に散逸する。地球では聞こえる距離でも、火星では聞こえないことが多い。具体的には、地球で100メートル先まで届く音は、火星では数メートルしか届かない可能性がある。

音速の差異

火星の大気は主に二酸化炭素(約95パーセント)から成る。二酸化炭素の分子量は44であり、地球の大気の主成分である窒素(分子量28)や酸素(分子量32)よりも重い。音速は、媒質の分子量と温度に依存する。火星では、低温(平均約マイナス60度)と重い分子の組み合わせにより、音速は約240メートル毎秒である。地球の音速(約340メートル毎秒)よりも大幅に遅い。

さらに興味深いのは、周波数によって音速が異なる可能性がある点だ。パーサヴィアランスの観測によれば、火星の大気では低周波(100ヘルツ以下)と高周波(100ヘルツ以上)で異なる音速が観測された。低周波では約240メートル毎秒、高周波ではやや速い。これは、火星では低音と高音が異なる速度で伝播することを意味する。複数の音が同時に鳴ると、距離が遠くなるにつれて音のタイミングがずれていく。和音の響きは、地球とは異なる形で変容する。

高周波の減衰

火星では、高周波の音が特に強く減衰する。これは大気密度が低いことと、二酸化炭素分子の振動による吸収のためである。地球で楽器を演奏するとき、高音の倍音成分が豊かな残響を作り出す。しかし火星では、高音成分が急速に減衰するため、音は「こもった」ように聴こえるかもしれない。弦楽器の高音域、金管楽器の輝かしい音色、打楽器の鋭い立ち上がり。これらは、火星では大幅に変容する。

残響空間の不在

地球での音楽において、空間の残響は重要な役割を果たす。コンサートホールの豊かな残響、教会の長い余韻。これらは、音楽の美的経験の一部をなしている。火星では、屋外での残響はほとんど期待できない。大気が薄いため、音が反射・拡散するための媒質が不足している。地平線まで広がる開放的な火星の風景は、視覚的には豊かだが、音響的には空虚である。

宇宙服という壁

人間が火星の表面に立つとき、宇宙服を着用しなければならない。宇宙服は、外部の音を大幅に遮断する。宇宙服の内部では空気が満たされており音は伝播するが、その音は外部の音響環境とは切り離されている。演奏者が宇宙服を着た状態では、自分の楽器の音を直接聴くことはできない。身体の共鳴——チェロ奏者が楽器の振動を身体で感じる、あるいは声楽家が自分の声の共鳴を頭蓋骨と胸郭で感じる——もまた、大幅に変容する。

火星の音響環境は、地球とは構造的に非同型に近い。

9.5 神話的火星と音楽——象徴としての惑星

音楽において、火星はどのように扱われてきたか。

最も有名な例は、グスタフ・ホルストの管弦楽組曲「惑星」(1914–1916年作曲)の第1曲「火星、戦いをもたらすもの」(Mars, the Bringer of War)であろう。

ホルストの「火星」は、5/4拍子の機械的なリズムで始まる。弦楽器のコル・レーニョ(弓の木の部分で弦を叩く奏法)による無機質な音響。低音弦の持続音。そして次第に高まる緊張と、壊滅的なクライマックス。

これは、軍神マルスのイメージである。戦争、暴力、機械的な力。ホルストの「火星」は、占星術的・神話的な惑星像に基づいている。彼が作曲を始めた1914年は第一次世界大戦勃発の年であり、「火星」の音楽は戦争の予感を帯びている。

しかしここで注意すべきことがある。ホルストの「火星」は、実在の火星とは何の関係もない。それは神話的象徴としての「火星」である。赤い色、軍神、戦争。これらは、惑星としての火星の物理的性質とは無関係である。

この神話的火星像は、現在でも根強い。映画や音楽において、火星を題材にした作品の多くは、何らかの形でマルス=軍神のイメージを引きずっている。

音楽における火星は長らく神話的象徴に留まり、科学的火星とは接続していない。

9.6 「火星の音楽」という主題

火星はこれまで幾度も音楽の主題となってきた。しかしその多くは、惑星そのものではなく、神話的存在としてのマルスに由来している。

18世紀には、ボヘミア出身の作曲家ヴァーツラフ・ピフルが《Symphony in D Major, "Mars"》を作曲している。これは惑星火星ではなく、ローマ神話の軍神マルスに因む標題交響曲である。ニ長調という調性の選択(当時の調性格論において輝かしさや威厳と結びつく調)、トランペットやティンパニを含む祝祭的編成、荘重な序奏に続く活発な主部、軽やかな性格をもつ緩徐楽章など、そこには神話的存在の性格が音楽的属性として反映されている。ここで音楽化されているのは、天体ではなく人格化された象徴である。

前節で見たホルストの「火星」もまた、同じ系譜に属している。占星術的寓意としての軍神マルス——戦争、暴力、機械的な力——が音楽化されており、実在の惑星の物理的条件とは無関係である。ピフルからホルストへと続くこの系譜において、「火星」という標題は惑星の名前でありながら、天体を指してはいない。それは神話と占星術が重ねてきた象徴の堆積に向けられた名前である。

20世紀に入っても、この構造は簡単には崩れない。アメリカの作曲家マイケル・マクナブの《Mars Suite》(1979年、1984年改訂)は、NASAが支援した立体映像作品《Mars in 3-D》のサウンドトラックとして書かれ、のちに演奏会用組曲として再構成された。バイキング着陸船が撮影した地形画像に音楽を付けるという制作上の経緯から、《クリュセ平原》《オリンポス山》といった実際の地形名が楽章の標題となっている。火星の地理が音楽に直接召喚された点では先行する作品と異なる。しかしマクナブ自身が述べているように、この作品の和声の根幹はホルストの《惑星》終楽章の冒頭——長三度離れた二つの短三和音——から出発しており、その素材から純正律に基づく独自の旋法体系を構築している。コンピュータ音楽の黎明期にスタンフォード大学CCRMAで開発された音声合成技術を駆使した「天上のコーラス」、そしてアナログ過程を一切経ないデジタル直接転送という先鋭的な制作手法は、当時としては本質的に新しい音響の地平を切り開くものであった。だが情景化された地形、語りによる地名の朗読、組曲という形式——これらは音楽を聴取可能な物語空間として組織するという点で、伝統的な「標題音楽」の論理の延長にある。火星は「記述される」対象として音楽の中に置かれている。

対照的な試みを示すのが、ドイツの即興的アンサンブル Syntopia Quartet の《Mars》(2003年)である。ヴァイオリン、クラリネット(バスクラリネット持替)、コントラバス、打楽器という編成で、全9曲のトラックには《Goodbye Earth》《Olympus Mons》《Valles Marineris》《Chasma Boreale》《Back to Earth》といった固有名が付されている。しかしここでの地名は描写の指標ではない。アルブレヒト・マウラー(ヴァイオリン)は欧州各地の音律を独自に研究しており、クラウディオ・プンティン(クラリネット)との微分音への共通の関心が、音楽に知覚的な不安定さと浮遊感を与えている。作曲と即興の境界が意図的に曖昧にされ、「どこが作曲された部分でどこが即興演奏のところか聴き手には判別しにくい」ことがバンドの美学的マニフェストとして掲げられている。音の姿は固体・液体・気体と変容し、微分音は知覚の起点を揺さぶる。火星の地名は到達点ではなく、開かれた生成過程の出口のない標識として機能している。それは火星を「情景」として組織するのではなく、重力や物質感覚の揺らぎを思わせる音響の運動としてその場に立ち現わらせようとする。

さらに別の方向を示すのが、イタリアのアンビエント音楽家 Oöphoi(ジャンルイジ・ガスパレッティ)と Tau Ceti(エンリコ・コジミ)の共同作品《Celestial Geometries》(2001年)である。《Arsia Echoes》《Cydonia Plains》《Valles Marineris》《Chryse Planitia》《Isidis》《Candor Chasm》《Tholus》という7つのトラックはすべて火星の地名を冠しているが、そこに情景描写の意志はほとんど感じられない。シンセサイザー、サンプリング、シンギングボウル、フルート、石や貝殻を含む特殊打楽器、加工した声——これらはガスパレッティの15世紀の石造りの農家を改築したスタジオ「キヴァ」でアナログ機材のみを用いて録音され、固有の音響的肌理をもつ。ミニマルで静謐なドローンの持続の中で、火星は出来事の舞台ではなく、遠隔的な存在の持続として——宇宙を静謐な幾何学的空間として体験させる何かとして——立ち現われる。関連作《Clouds Over Mars》(2005年)や《Celestial Geometries 2》(2012年)においても同様の姿勢が貫かれており、それはジャンルとしてのスペース・アンビエントの語法に沿いながらも、火星を「空間」として思弁的に提示しようとする一貫した態度を示している。

このように、火星はすでに多様な音楽的接近を受けてきた。神話化された火星(ピフル)、情景化された火星(マクナブ)、生成過程としての火星(Syntopia Quartet)、遠隔的持続としての火星(Oöphoi)。それぞれに固有の論理と音響的成果がある。

だがここで確認しなければならないことがある。マクナブの作品はNASAの画像という科学的火星に最も近い起点を持ちながら、その和声の論理はホルストへの参照——すなわち神話的火星の伝統——へと遡行した。Syntopia Quartetの微分音的生成は火星的空間の体験を指向しながら、それは地球の楽器と人間の身体によって演奏される音楽である。Oöphoiの静謐な持続は宇宙的な時間を喚起しながら、それはイタリアの石造りの農家で生まれた音響である。

火星は音楽の中にたびたび呼び込まれてきた。しかしそのことは、「火星の音楽」という主題をなお開いたままにしている。問いはむしろより鋭くなっている。既存のアプローチを尽くしてもなお届かないとすれば、その届かなさはどこに由来するのか。そして、それでも向かおうとする試みがあるとすれば、それはどのような方向にあるのか。

9.7 ケプラーの「世界の調和」——数的火星

第1章で触れたケプラーの『世界の調和』(Harmonices Mundi, 1619年)を、音楽の文脈で改めて考えよう。

ケプラーは、太陽系の惑星のおのおのが角速度を変えつつ軌道を動くときに奏でている音楽を書き留めた。惑星の近日点速度と遠日点速度の比を音程に転写し、各惑星に固有の「音楽的フレーズ」を与えたのである。

ケプラーの惑星音楽は、実際に「聴く」ことのできる音楽ではない。それは数学的比例関係の音楽への転写であり、実際の音響現象ではない。ケプラーにとって、これは単なる比喩ではなかった。彼は真剣に、宇宙が数学的調和によって構成されており、その調和は音楽的比例関係として表現できると信じていた。

ピタゴラス以来の「天球の音楽」(Musica Universalis)という概念がある。天体の運動は、音楽的調和を奏でている。しかしそれは人間の耳には聴こえない。宇宙の調和は、感覚ではなく知性によってのみ把握できる。

ここで火星は、音響的実在ではなく、数学的比例関係として音楽に接続されている。火星は響くのではなく、計算される。

これは、音楽における火星の二つの存在様式——神話的象徴と数学的比例——の一つである。どちらも、実在の火星の音響条件とは無関係である。

なお、本来は抽象的なものであるケプラーの「天体の音楽」における火星の「音階」を楽器や電子音響によって「再現」したり、それを素材にした作品は、例えばyoutube等で幾つか確認できる。特に後者は、後述する三輪眞弘の「逆アルゴリズム音楽」の定義における3つの相であれば、「規則(ここではケプラーの「音階」がそれに概ね相当すると考えられる)による生成」を「解釈」し、「命名」する試みと見做すことが出来るが、ここで個別に採り上げることはせずに、その試みの存在の指摘に留めたい。

というのも、いずれのケースでも、その生成の相におけるケプラーの「音階」は決定論的な規則ではないことは勿論だが、結局のところ楕円軌道の偏心率という条件を変換したものに過ぎず、条件としては抽象的に過ぎ、制約条件としては弱すぎると考えられるからであり、かつその後の相における音響的実現においては実在の火星の条件を考慮しているとは言えないからである。火星は、そもそも「逆シミュレーション音楽」の3つの相それぞれの実現可能性を問いに付する存在なのである。

9.8 なぜ「実在の火星の音楽」は存在しないのか——三つの理由

ここで根本的な問いを立てよう。

科学的な火星像を背景とした音楽は、なぜほとんど存在しないのか。文学では、ブラッドベリ、ディック、光瀬龍、ロビンソンが、科学的な火星像を深く内面化した作品を書いた。なぜ音楽には、同様の作品がないのか。

理由は三つある。

(1)身体条件の不一致

音楽は、演奏者の身体に深く依存している。呼吸——管楽器奏者は肺の空気を、声楽家は声帯の振動を通じて音楽を生み出す。重力——弦楽器の弓の動き、打楽器の打撃、鍵盤楽器の指の重みは、重力と深く結びついている。火星の重力は地球の38パーセントである。同じ筋力でも、弓の動き方が変わる。打撃の感触が変わる。身体的共鳴——チェロ奏者は楽器の振動を胸で感じる。声楽家は自分の声の共鳴を骨格全体で感じる——これらの身体的感覚は、音楽行為の不可欠な部分である。宇宙服はこれらをすべて遮断する。

火星では、音楽行為そのものが変質する。

(2)音響媒質の決定的差異

音楽は、空気の振動として成立する。しかし火星の大気は、地球の大気とは根本的に異なる。密度は地球の約0.6パーセント。主成分は二酸化炭素。音速は地球より遅く、高周波は急速に減衰する。残響空間は成立しにくい。

これは単なる「音質の違い」ではない。それは音楽の物理的基盤そのものの変容である。地球の音楽は、地球の音響条件の中で発展した。オーケストラの楽器編成は、コンサートホールの音響を前提としている。声楽の技法は、人間の肺と声帯と地球の大気の組み合わせで発展した。電子音楽でさえ、最終的には地球の大気を振動させてスピーカーから音を出す。

火星の音響条件では、これらの音楽的実践はすべて変容する。あるいは成立しない。

(3)テラフォーミング問題——地球化された音

ではテラフォーミングが完成した火星では、音楽は成立するか。

成立する。しかしそれは、火星の音楽ではない。

テラフォーミングされた火星の大気は、地球の大気に近い組成と圧力を持つ。その空気の中で演奏される音楽は、地球の音楽と同じ物理条件の下で成立する。それは火星で鳴っているが、火星の音ではない。それは地球化された音響空間の中の、地球の音楽である。

音楽においても、テラフォーミングは固有性の消去を意味する。

9.9 シュトックハウゼンの限界——人間中心主義の露呈、もう一度

ここで9.1で引いたシュトックハウゼンの発言を、火星の音響的文脈において改めて読み直してみよう。

シュトックハウゼンの発言の最も根本的な問題は、音楽が人間の身体的条件と物理的環境に深く結びついているということを見落としている点にある。

マーラーの音楽は、地球の大気圧の下で、地球の重力の中で、人間の肺と耳と神経系によって演奏され知覚される。それは「地球人の性質」を代表しているかもしれないが、同時に、地球という惑星の物理的条件に深く埋め込まれている。

「別の星に住む高等生物」が、仮に人間と同様の聴覚器官と神経系を持っているとすれば、マーラーの音楽を理解できるかもしれない。しかしそれは、その生物が地球と同様の物理環境の中で進化したことを前提とする。火星のような、地球と部分同型だが非同型でもある環境で進化した生命体が、果たして同様の聴覚と神経系を持つかどうかは全く不明である。

シュトックハウゼンの発言は、音楽の普遍性を主張しようとしながら、実は音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかを逆説的に示している。

しかしこの逆説は、音楽の終わりを告げるものではない。むしろそれは、問いの始まりである。音楽は人間の身体的・物理的条件に深く根ざしている。では、その条件が変わるとき、音楽はどうなるのか。

9.10 ローバーの「視点」と音楽——美を知らない存在が撮影する写真

ここで、第2章で論じたローバーの「視点」の問題を、音楽の文脈で再考しよう。

スピリットとオポチュニティが撮影した火星の夕暮れの写真。ジム・ベルが述べたように、それは「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」。だから私たちはその写真を見て、深く感動する。

カメラを据えたのはローバーであり、シャッターを切ったのもアルゴリズムである。ローバーは美を知らない。火星もまた、美を知らない。けれど私たちは、そこに立ってもいないのに、その地平に魅了される。

ジム・ベルは述べた。「バイキング着陸船とマーズ・パスファインダーで撮影された火星の風景と、スピリットとオポチュニティーが撮った風景との違いは、『画像を得る』ことと、『写真を撮る』ことの違いである。」そして「すべての芸術は現実との関連性という問題に直面する。この点で、本プロジェクトは特にユニークである。これは抽象的なアートではないが、今まで人間が実際に目撃した現実でもないのである。」

「写真を撮る」と「画像を得る」の違い。同様に、「音楽を作る」と「音響を記録する」の違いがある。

音楽は、意図的な構造を持つ。特定の音高、リズム、和声、音色が、美的・感情的な効果を意図して配置される。この「意図」は、現在のところ人間のものである。

ここで、将来の可能性を想像することは許されるだろう。人工知能が、火星の音響データを素材として音楽を生成するとしたら。あるいはローバーが、火星の環境に応答して自律的に音を生成するとしたら。

それは音楽か。そしてそれは、火星の音楽か。

この問いは、現時点では答えられない。ここに、「美」でない何か、でも「美」に通じている何かの視点を、いつしかロボットが獲得するという可能性が開いている。文字通りに獲得し、それによって自律的に「音楽」を作ることは、決して絵空事ではないだろう。その先で、ロボットによる「投壜通信」としての音楽を考えることすら可能だろう。

9.11 三輪眞弘の音楽——「ありえたかもしれない〈音楽〉」

ここで、この章の問いの核心に触れたい。

天体を題材とした音楽は、私が知る限り、どれも陳腐な空想の産物にしか聴こえない。ホルストの「惑星」は神話の音楽であり、ケプラーの惑星音楽は数学の音楽である。どちらも、実在の火星の音響条件とは無関係である。大抵のSFは火星についての探査結果が描き出すものの足元にも及ばない。火星のように一定の情報がある天体でないものを想像しようとしても、却って素朴なアントロポモルフィズムを曝け出し、人間が如何に自分の認識の檻から逃れるのが困難であるかを逆説的に証しすることにしかならない。

そうした中で、三輪眞弘の活動および作品は、私にはほぼ唯一、まともに想像力を行使しているものとして感じられる。「極東の架空の島」というカバーストーリー、「ひとのきえさり」という概念、「アルゴリズミック・コンポジション」という方法。これらは、音楽を人間中心主義的な自明性から解放しようとする試みとして、火星をめぐる問いと深いところで共鳴している。

「ひとのきえさり」という概念は、この章で問い続けてきたことと直接つながっている。

火星生命が存在した(あるいはしなかった)という問いは、「ありえたかもしれない生命」の問いである。テラフォーミング文学における「若返らせられる惑星」は、「ありえたかもしれない火星」の問いである。そして「ひとのきえさり」は、「ありえたかもしれない〈音楽〉」の問いである。

「きえさり」は「死」ではない。死は自らを語らない。だし「きえさり」は、きえさりゆくことについての意識を持つ。意識のきえさりではなく、意識のきえさりについての意識。それは「老い」そのものではなく、「老い」についての意識である。

滅んでしまった「火星人」の物語——あるいは滅んでしまったかもしれない「火星の生命」の物語——は、構造的には「ありえたかもしれない〈音楽〉」の物語と同じなのではないか。火星の「老いた風景」は、音楽が「きえさり」ゆく過程の外部化された形として読むことができる。

ここで決定的な問いがある。三輪の音楽は、この「ありえたかもしれない〈音楽〉」を、どのようにして「今、ここで鳴り響く音楽」として実現するのか。

答えは、テクノロジーによる媒介である。

三輪の音楽は、アルゴリズムによって生成される。人間の手を経ながら、人間の手だけによるのではない方法で、音が組織される。これは、ローバーが火星の写真を撮影するプロセスと構造的に類似している。ローバーというロボットと人間が不可分の一つのシステムを形作り、「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」風景を生み出す。三輪の音楽もまた、人間と機械が不可分のシステムを形作り、「今まで人間が実際に聴いた音楽ではない」何かを生み出す。

それは、火星の夕暮れの写真と同様に、「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」ものでありながら、「美しい」と感じさせる何かである。

9.11 ヴァーチャルな実在としての音楽

ここで、本書の核心概念である「ヴァーチャルな実在」を、音楽の文脈で考えよう。

火星は、物理的に実在しながら、経験的にはヴァーチャルにしか成立しない。このヴァーチャリティは、火星が地球と部分同型であるがゆえに生じる。完全に異質な天体は、そもそも経験の対象として想像されない。しかし火星は、「あそこに立てば、こんな風景が見えるはずだ」と想像できるほどには地球に似ている。その「似ているが、立てない」という緊張が、ヴァーチャリティを生んでいる。

音楽におけるヴァーチャリティも、同様の構造を持つ。

音楽は、物理的に実在する。空気の振動、演奏者の身体運動、楽器の共鳴。これらは実在の物理現象である。しかし音楽が喚起する「場所」や「情景」や「感情」は、物理的には実在しない。音楽は、ヴァーチャルな空間を作り出す。

三輪の音楽が喚起する「極東の架空の島」は、物理的には存在しない。「ひとのきえさり」が指し示す「きえさりゆく存在」は、物理的には捉えられない。しかしそれらは、音楽という物理的媒介を通じて、聴く者の意識の中にヴァーチャルな実在として現れる。

火星のヴァーチャリティと、音楽のヴァーチャリティは、同型ではない。構造的には対応している。どちらも、実在と経験のあいだに緊張を孕んでいる。どちらも、「似ているが、完全には同型でない」という部分同型性の構造を持っている。

音楽における火星は、常に地球音響条件のもとで構築されるヴァーチャルな火星である。そしてそのヴァーチャルな火星は、三輪の音楽が「ありえたかもしれない〈音楽〉」として構築するヴァーチャルな音楽と、構造的に共鳴している。

9.12 火星の音響環境と「天球の音楽」——ケプラーを超えて

いつの日か、三輪が火星をそのカバーストーリーに取り込んだ作品を作ることがあれば、是非聴いてみたい。

この時代に相応しい「天球の音楽」。既存の人間の尺度を寄せ付けない、古のピタゴラス派のそれとは異なり、ある仕方で人間にも聴き取ることができるハルモニア・ムンディ。空想の火星ではなく、メディアを介して垣間見ることのできる火星の風景に相応しい音楽。火星の、人間なしで成り立っている秩序に相応しい、人間のものに他ならない音楽。

これは空想ではない。技術的な方向性として、具体的に想像することができる。

火星の音響データ——パーサヴィアランスが記録した風の音、砂の摩擦音、大気の揺らぎ、更には火星の空を初めて飛行したヘリコプター、インジェニュイティの飛行音——を素材として用いることができる。火星の物理的条件——大気圧0.6パーセント、音速240メートル毎秒、高周波減衰、二重の音速——を作曲の条件として組み込むことができる。

それは、地球の音響条件のもとで演奏されながら、火星の音響条件を構造の中に内包した音楽である。それは「火星の音楽」ではないが、「火星についての音楽」でもない。それは、火星の物理的条件が作曲の論理の一部となった音楽である。

ブラッドベリが「細部の科学的正確さではなく、構造的な正確さ」において火星を把握したように、そのような音楽は「実際に火星で鳴る音楽ではなく、火星の構造を内面化した音楽」として成立しうる。

火星は響かないかもしれない。その沈黙の構造を、地球の音の中に刻み込むことはできる。

そうした音楽こそ、3.11後の風景の中で生きる人間、最早かつての「人間」とは異なった「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」における「コンピュータ語族」としての人間、「テクノロジーによって生み出された『人造物』を通して世界を理解し、感じ、考え、対話し、戦い、生存している」人間、人間の方が人造物システムの一部として「機能」しているような状況に置かれた人間に相応しく、なおかつ生きていくために必要とされる「音楽」ではないだろうか。

9.13 火星の沈黙——響かない惑星が示すもの

最終的に、私たちはどこに辿り着くか。

火星は沈黙している。

音がないわけではない。風は吹き、砂は舞い、大気が揺れる。パーサヴィアランスのマイクロフォンはその音を記録した。しかしそれは、人間の音楽の空間ではない。

音楽は身体的である。呼吸、重力、共鳴。これらを必要とする。火星では、これらがすべて変質する。

音楽は社会的である。演奏者と聴衆、作曲家と演奏家、師と弟子。これらの人間的な関係の中で音楽は生きている。火星には、まだその社会がない。

音楽は時間的である。繰り返し、変奏、展開、終止。これらは人間の時間意識に根ざしている。火星の時間——1日24時間39分、1年687日、地質学的には停止した時間——は、人間の音楽的時間とは異なる構造を持つ。

これらの意味において、火星は「響かない惑星」である。

しかしこの「響かない」という事実は、音楽の限界を示すだけではない。それは人間という存在の限界を示している。人間は、自分の身体的・社会的・時間的条件の中でしか音楽を作れない。火星という極限的な場所は、その条件を照らし出す。

火星の沈黙は、人間中心的な経験の限界を示す。

そしてその限界を認識することが、音楽の射程を問い直すことにつながる。シュトックハウゼンが「宇宙人がマーラーを聴く」という突拍子もない視点から音楽の普遍性を語ろうとしたとき、彼が意図せずして示したのは、音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかという事実であった。その不十分さを補い、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそ、「音楽」に関する今日的な射程は見えてくるのではないか。

9.14 章のまとめ——物理的制約の場としての火星

音楽は、物理環境から独立して成立することができない。

火星の音響環境は、地球と構造的に非対称である。大気圧は地球の約0.6パーセント、音速は約240メートル毎秒、高周波は急速に減衰し、残響空間は成立しにくい。

音楽における火星は長らく神話的象徴(軍神マルス)と数学的比例(ケプラーの惑星音楽)に留まり、科学的火星とは接続していなかった。シュトックハウゼンの「宇宙人がマーラーを聴く」という発言は、音楽の普遍性を語るようでいて、実は音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかを逆説的に示している。

実在の火星の音楽が成立しない理由は三つである。身体条件の不一致、音響媒質の決定的差異、そしてテラフォーミング問題。テラフォーミングによって火星で音楽が鳴るとき、それは火星の音楽ではなく、地球化された音楽である。

小説は火星を時間的に変形できる。だが音楽は物理条件を変形できない。この非対称性が、文学と音楽における火星の決定的な差異である。

しかし三輪眞弘の音楽が示すように、この制約は音楽の終わりではない。人間と機械の不可分のシステムとして、「ありえたかもしれない〈音楽〉」を現在の音の中に実現すること。火星の沈黙の構造を、地球の音の中に刻み込むこと。それは可能であり、そしてそれこそが、今日の「音楽」が問い続けるべきことではないか。

音楽は、火星に届かない。だが火星は、音楽に何かを問いかける。

次章では、この問いを総括し、火星が人間に何を映しているのかを問う。


(2026.4.21 公開)

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