第1章 観測と理論——火星が動かした科学
1.1 夜空の赤い星
火星は、古代から人類に最も強い印象を与えてきた惑星の一つである。夜空に浮かぶその独特の赤は、しばしば血や火、そして闘争と結びつけられた。
しかし、火星が人々を翻弄したのはその色だけではない。その「動き」こそが最大の謎であった。 惑星(planet)という言葉は、ギリシャ語の「さまよう者」(planetes)に由来する。 恒星が天球に固定されているのに対し、火星はある時期になると空の中で逆向きに動く「逆行運動」を示す。この奇妙な動きは、長らく東西の天文学者たちを悩ませてきた。
火星観測の組織的な記録は、紀元前のメソポタミア、バビロニアにまで遡る。彼らは火星を「サルバタヌ(Salbatanu:「赤い」の意)」と呼び、疫病と死、そして冥界を司る神ネルガル(Nergal)と結びつけた。
バビロニアの天文学者たちの卓越した点は、その徹底した「記録」にある。彼らは粘土板に火星の出没や逆行の時期を数世紀にわたって刻み続け、火星が特定の周期(複数の会合周期が整数比に近づく長期周期)で動くことを数学的に導き出していた。この冷徹なまでのデータ志向が、後の西洋天文学の基礎を築くことになる。
このバビロニアの知識を継承した古代ギリシャでは、火星は破壊を司る軍神アレスの名で呼ばれた。続くローマ帝国においてその地位はより複雑で崇高なものへと変わる。ローマの守護神マルスは、戦争の神であると同時に農業の守護者でもあり、建国者ロムルスの父として崇められた。3月(March)が彼の名に由来するのは、農耕の開始と軍隊の遠征が重なる季節を彼が司っていたからである。
古代ローマの博物学者プリニウスは、その著書『博物誌』の中で火星を「燃えるような、恐るべき星」と形容した。彼は火星が示す不規則な軌道を、天界における過剰な「熱」の象徴として捉えていた。このイメージは中世まで続き、占星術の世界で火星は「小凶星(Lesser Malefic)」として、紛争や火災、あるいは人間の体内の熱病を引き起こす不吉な存在として位置づけられた。
同様の視線は、東洋の地でも注がれていた。古代中国において、火星は「熒惑(けいこく)」と呼ばれた。「火のように赤く輝き、その動きで人を惑わせるもの」という意味である。五行思想では「火」の属性を与えられ、この星がさそり座のアンタレス(心宿二)付近で停滞・逆行する「熒惑守心(けいこくしゅしん)」は、皇帝の死や国家の動乱を告げる最悪の凶兆として、日本でも深く恐れられた。
古代の宇宙モデルは地球中心(天動説)であった。2世紀のプトレマイオスは、この逆行運動を説明するために「周転円」という複雑な軌道モデルを考案した。惑星は大きな円(導円)に沿って動きながら、同時に小さな円(周転円)を描くとされたのである。 この幾何学的なモデルは驚くほど精密であったが、観測データが積み重なるにつれ、その複雑さは限界を露呈していくことになる。
天動説という「頭の中の計算」で星の動きを追っていた時代、火星は依然として「点」であり、象徴であった。 この「点」が、望遠鏡という武器を得て「風景」へと変わり始めるのは17世紀以降のことである。西洋でケプラーやニュートンが物理的な宇宙像を確立していく一方で、日本では時代が下るが、江戸時代の国友一貫斎が自作の望遠鏡で火星の表面をスケッチし、その実体を見極めようとしていた。 こうした「計算による解明」と「視覚による発見」が交差する中で、人類の宇宙観は劇的な転換点を迎えることになる。
1.2 コペルニクスの転回
16世紀、ニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』(1543年)において、地球ではなく太陽を中心に置く宇宙モデルを提唱した。このモデルでは、惑星の逆行運動は見かけ上の現象として説明される。地球が火星を追い越すとき、火星は逆向きに動いているように見える——ちょうど、走る電車の窓から別の電車を見たときのように。
コペルニクスの体系は、宇宙の構造を根本から変えた。だがそれでも、彼は惑星の軌道を円であると仮定していた。円は完全な図形であり、天体の運動もまた完全であるべきだという、古代ギリシャ以来の信念が残っていたからだ。
この信念を打ち破ったのが、ヨハネス・ケプラーである。
1.3 ケプラーと火星——楕円の発見
ケプラーは、師であるティコ・ブラーエが残した膨大な天体観測データを引き継いだ。ティコの観測は、望遠鏡以前の時代において最も精密なものであった。ケプラーはこのデータを用いて、惑星の軌道を正確に記述するモデルを探求した。
そして彼が取り組んだのが、火星であった。
火星は、他の惑星に比べて軌道の離心率が大きい。つまり、円からのずれが顕著なのだ。ケプラーは火星の観測データと円軌道モデルを照合し、わずか8分角(1度の8分の1)のずれを発見した。もしケプラーがこのずれを誤差として無視していたら、惑星運動の法則は発見されなかっただろう。だが彼は、ティコの観測精度を信じ、円ではない別の曲線を探った。
そして1605年、ケプラーは楕円軌道という答えに到達する。
彼の著作『新天文学』(1609年)の副題は、「原因論に基づく天体物理学、すなわち火星の運動についての注解」である。火星は、その名を冠されるほど、ケプラーの理論にとって決定的であった。
ケプラーの三つの法則——第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)——は、のちにニュートンの万有引力の法則によって統一的に説明されることになる。だが重要なのは、ケプラーが火星の観測データに忠実であり続けたことだ。火星は、近代天文学の誕生において、単なる対象ではなく、理論転換の触媒であった。
1.4 ケプラーと「世界の調和」
ケプラーは近代科学者であると同時に、古代・中世的な宇宙観の最後の継承者でもあった。彼は『宇宙の神秘』(Mysterium Cosmographicum, 1596年)、『世界の調和』(Harmonices Mundi, 1619年)の著者でもあり、アリストテレスが『形而上学』第1巻第5章で「数の構成要素をすべて存在の構成要素であると判断し、天界全体をも音階(調和)であり数であると考えた」と記述するような意味合いでのピタゴラス派の末裔であった。
アウグスティヌスが『音楽論』において算術、幾何学、天文学、音楽の四学科に分かたれると記述する文脈での、それらを包括する意味合いにおける「数学者」の一人であったことを思い起こすべきだろう。
『世界の調和』においてケプラーは、太陽系の惑星(当時はまだ6つだが)のおのおのが角速度を変えつつ軌道を動くときに奏でている音楽を書き留めてさえいる。惑星の軌道速度の比を音程に転写し、天球の音楽を譜面に記したのだ。火星もまた、その音階の一部を担っていた。
ここで火星は、音響的実在ではなく、数学的比例関係として音楽に接続される。火星は響くのではなく、計算される。この数的な火星像は、のちに本書が扱う「火星は響くか」という問いへの一つの前史となる。
1.5 望遠鏡の時代——表面の発見
1610年、ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を用いて天体観測を開始した。彼は月のクレーター、木星の衛星、金星の満ち欠けを発見した。だが火星については、望遠鏡の性能が不十分であり、詳細な観測は困難であった。
17世紀後半になると、より高性能な望遠鏡が製作されるようになる。1659年、クリスティアーン・ホイヘンスは火星表面の暗い模様を観測し、スケッチに残した。彼が描いたのは、現在「シルチス・マジョル」と呼ばれる三角形の暗い領域である。ホイヘンスはこの模様の位置変化から、火星の自転周期がおよそ24時間であることを推定した。
1666年、ジョヴァンニ・カッシーニは火星の極地に白い領域——極冠——を観測した。この白い領域は季節によって大きさが変化することも確認された。極冠の存在は、火星が地球と似た季節変化を持つ可能性を示唆した。
火星は、点から円盤へ、そして模様を持つ天体へと変貌していった。
こうした「風景としての火星」への移行は、西洋に限ったことではなかった。19世紀前半の日本において、近江国の発明家・国友一貫斎は、独学でグレゴリー式反射望遠鏡を完成させている。1836年(天保7年)、彼はその望遠鏡を火星に向け、克明なスケッチを残した。そこにはホイヘンスが描いたものと同じ暗い模様(大シルチス)が捉えられており、一貫斎はその模様の変化から火星の自転についても考察を巡らせていた。
東洋の伝統的な星占の文脈において火星は依然として「熒惑」という凶兆であったが、一貫斎のレンズはそれを物理的な実体を持つ「地表」として切り出したのである。もっとも、民衆の意識の中でこの二つの火星像が完全に分離するには時間を要した。一貫斎の没後、1877年の火星大接近において、人々が赤い星の中に西郷隆盛の姿を見た「西郷星」の騒動は、古代からの神話的想像力と、望遠鏡がもたらした実体的な視覚体験が奇妙に混ざり合った、過渡期の象徴的な出来事であったと言えるだろう。
そしてこの1877年、火星観測の歴史はさらなる決定的な転換点を迎える。
1.6 スキアパレッリの「カナリ」——運河論争の始まり
1877年、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリ(Giovanni Schiaparelli, 1835–1910)は、ミラノのブレラ天文台で火星の大接近を観測した。
この年の火星は、地球に約5,600万キロメートルまで接近し、望遠鏡観測に理想的な条件となった。スキアパレッリは口径22センチメートルの屈折望遠鏡を用いて、火星表面を詳細にスケッチした。
彼が見たのは、明るい領域と暗い領域、そしてそれらをつなぐ細長い線状の模様であった。
スキアパレッリはこれらに体系的な名前を与えた。明るい領域には「ヘラス」「エリュシオン」「アルカディア」といったギリシャ神話由来の地名を、暗い領域には「シルチス・マジョル」「マーレ・キンメリウム」といった古典的な地名を付けた。そして線状の模様を「canali」と呼んだ。
「Canali」という言葉
イタリア語の「canali」は「水路」あるいは「海峡」を意味する中立的な言葉である。スキアパレッリは、これが自然の地形であるか人工的な構造物であるかについて、明確な主張をしなかった。
だがこの言葉が英語圏に伝わる過程で、「canal」——人工的な運河——という訳語が当てられた。この誤訳が、火星運河論争の引き金となった。
機械的客観性への移行期
スキアパレッリの観測は、科学における客観性概念の転換期に位置していた。
科学史家ロレーヌ・ダストンとピーター・ギャリソンは『客観性』において、科学的客観性の概念が歴史的に変容してきたことを論じている。
18世紀には、科学的描写は「自然への真実」(Truth-to-Nature)という理想に基づいていた。これは、個別の偶然的な特徴を排除し、理想化された典型——本質——を描くという考え方である。植物学者は、特定の個体ではなく、種の典型的な形態を描いた。
だが19世紀中頃から、新たな客観性の理想が登場した。「機械的客観性」(Mechanical Objectivity)である。これは、人間の介入を排除し、機械が自動的に記録することで客観性を達成しようとする考え方である。写真技術の登場が、この理想を可能にした。
スキアパレッリの観測は、まさにこの移行期に位置していた。
望遠鏡を通して見える火星の像は、大気の揺らぎ、光学系の収差、そして観察者の眼の限界によって、常に不安定であった。火星は瞬間的にしか鮮明に見えず、大部分の時間はぼやけていた。
観察者の仕事は、この断片的に見える像を統合し、恒常的なパターンを抽出することであった。これには訓練が必要であった。何百時間も望遠鏡を覗き、瞬間的に見える像を記憶し、スケッチを繰り返し、パターンを洗練させる。
スキアパレッリは、そのような訓練された観察者であった。彼は機械(望遠鏡)を使用したが、その機械が記録したものを解釈し、意味あるパターンとして抽出する過程には、人間の判断が不可欠であった。
だがこの観察様式は、既に写真技術による「機械的客観性」の挑戦を受けつつあった。
アルベド地形という概念
スキアパレッリが記録したのは、実際の地形ではなかった。それは「アルベド地形」(albedo feature)——地表の明暗に基づく見かけ上の地形——であった。
火星表面には、太陽光の反射率(アルベド)が異なる領域がある。明るい領域は砂や塵に覆われた地域であり、暗い領域は岩石が露出した地域である。季節によって砂嵐が起こり、砂が移動すると、明暗のパターンも変化する。
つまり、スキアパレッリが見た「地形」は、固定された地形ではなく、変化する表面の模様であった。それは実在するが、地質学的な地形とは異なる種類の実在であった。
20世紀後半、探査機による高解像度の観測が進むと、アルベド地形と実際の地形の対応関係が明らかになった。例えば「シルチス・マジョル」は、実際には玄武岩質の平原である。「ヘラス」は、巨大な衝突盆地である。スキアパレッリの「canali」に対応する直線的な地形は、存在しなかった。
それでもスキアパレッリの命名は、現在でも部分的に使用されている。国際天文学連合(IAU)は、火星の地形名称を管理しているが、アルベド地形の名称の一部は、歴史的な経緯から保存されている。
「見る」ことの複雑さ
スキアパレッリの観測が示すのは、「見る」ことの複雑さである。
彼は虚偽を報告したわけではない。彼は自分が見たものを、正確に記録しようとした。だし「見る」という行為そのものが、既に解釈を含んでいた。断片的な像を統合し、パターンを抽出し、意味を与える。
スキアパレッリの火星地図は、機械的客観性への移行期における、人間の観察の成果であった。そしてその地図が、次の段階——ローウェルの運河論——への道を開いた。
1.7 ローウェルと運河の実証
スキアパレッリの観測は、フランスの天文学者カミーユ・フラマリオン(Camille Flammarion, 1842–1925)によってフランス語に翻訳された。ここで問題が生じる。フラマリオンは「canali」を「canal(キャナル)」と訳した。フランス語や英語で「canal」は、人工的な「運河」を強く連想させる言葉である。
この翻訳を読んだアメリカの実業家パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell, 1855–1916)は、火星に知的生命体が存在し、彼らが水を運ぶための運河を建設したのではないかと考えた。
ローウェルは、1894年にアリゾナ州フラッグスタッフに私財を投じて天文台を建設した。ローウェル天文台である。彼は火星を集中的に観測し、数百本の運河を「発見」した。彼はこれらを精密にスケッチし、火星全体を覆う運河網の地図を作成した。そして1895年、『火星』(Mars)という著作を出版した。
「老いた惑星」という直観
この本の中で、ローウェルは火星を次のように描写した。
「火星は地球よりもはるかに古く、進化が進んでいる。そのために海が干上がり、乾燥し、砂漠化している。火星の知的生命体は、限られた水資源を極地から赤道へと運ぶために、惑星規模の運河網を建設した。」
ローウェルの火星像は、科学的観測と推測と想像力が混ざり合ったものであった。しかし重要なのは、ローウェルは自分が「見た」ものを真剣に信じていたという点である。
ローウェルの観測は、スキアパレッリと同様に、機械的客観性への移行期における観察の産物であった。彼は何百時間も火星を観測し、スケッチを繰り返し、パターンを洗練させた。望遠鏡を通して見える断片的な像から、意味のあるパターンを構成する。それは当時の天文学者の技能として認められていた。
ローウェルは、火星表面に幾何学的パターンを見出すように眼を訓練していた。そしてその眼には、運河が「実在」していた。
写真技術と機械的客観性
他の天文学者たちは、ローウェルの運河を確認できなかった。
イギリスの天文学者エドワード・ウォルター・モーンダー(Edward Walter Maunder, 1851–1928)は、1903年に興味深い実験を行った。彼は、火星表面のランダムな斑点模様を描いた図を、距離を置いて子供たちに見せた。子供たちは、その斑点を「線」として認識した。
この実験は、人間の視覚が断片的な情報から線状のパターンを構成する傾向があることを示していた。ローウェルの運河は、火星表面の実在の地形ではなく、人間の視覚と認知のパターン認識の産物である可能性が示唆された。
さらに重要なのは、写真技術の発達であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、天文写真が実用化された。写真乾板は、人間の眼よりも長時間の露光が可能であり、微弱な光も記録できた。
ダストン&ギャリソンが指摘するように、写真技術の登場は「機械的客観性」という新たな理想をもたらした。人間の主観を排除し、機械が自動的に記録する。それこそが真の客観性であるという考え方である。
ただし写真乾板による火星観測では、ローウェルの運河は確認できなかった。写真には、明暗のまだらな模様は写ったが、明確な直線的構造は見られなかった。
機械的客観性は、人間の眼による観察よりも「真実」に近いとされた。機械は嘘をつかない。機械は期待しない。機械は客観的である。
論争は数十年続いたが、1965年のマリナー4号によって決着した。マリナー4号が送り返した画像には、運河は一切確認されなかった。火星表面は、クレーターで覆われていた。
機械的客観性の勝利のように見えた。第2章で見るように、この「勝利」もまた単純ではなかった。マリナー4号の最初の画像は、技術者たちが色鉛筆で手塗りした。機械的客観性の時代においてさえ、人間の手と眼は介在していた。
科学的誤りと構造的正しさ
ローウェルの運河論は、科学的には誤りであった。
だし興味深いのは、ローウェルの火星描写——「地球よりもはるかに古く、進化が進み、そのために海が干上がり、乾燥し、砂漠化している」——という部分は、現代の火星科学の知見と奇妙に一致しているという点である。
火星は実際に、地球よりも速く「老いた」惑星である。磁場を失い、大気を散逸させ、水循環を崩壊させた。運河は存在しなかったが、古代の河道は存在した。知的生命体はいなかったが、生命の痕跡が存在した可能性はある。
ローウェルは、細部において誤っていたが、構造において正しかった。
ここに、観察の複雑さがある。ローウェルは嘘をついたわけではない。彼は真摯に観察し、真摯に解釈した。観察と解釈は、常に技術と判断の相互作用の中で行われる。そしてその相互作用は、時に誤ったパターンを生み出す。
20世紀に入り、火星観測は「機械的客観性」の時代へと移行する。しかし機械もまた、第2章で見るように、中立的な記録装置ではなかった。火星は常に、観測技術と人間の判断の相互作用の中で現れ続ける。
だが、一旦ローウェルの時代に立ち戻れば、別の観測技術がローウェルの仮説を後押しすることになる。
1.8 分光観測と「大気」の発見
19世紀後半、天文学は新たな感覚器官を獲得する。分光器である。
光を波長ごとに分解し、その吸収線を読むことで、天体の成分を推定する技術が確立された。視覚が形を捉えるのに対し、分光は物質を読む。
この新しい方法を惑星観測に応用したのが、イギリスの天文学者 ウィリアム・ハギンズ であった。1860年代、彼は火星のスペクトルを観測し、それが恒星の自発光ではなく太陽光の反射であることを確認した。火星は光る星ではなく、太陽に照らされた物体である。これは自明に見えて、決定的な区別であった。
さらに19世紀末には、火星大気中に水蒸気が存在する可能性が報告される。酸素の吸収線が検出されたとする主張さえ現れた。これらの観測は今日の基準では誤認を含んでいたが、当時としては火星が地球と類似した大気を持つ可能性を示唆するものであった。
望遠鏡が火星に「風景」を与えたとすれば、分光器はそこに「空気」を与えたのである。
火星はもはや単なる模様ではない。呼吸しうるかもしれない世界となった。この科学的示唆は、ローウェルの運河仮説に思いがけぬ追い風を与えることになる。
だが運河論争は、単なる科学的議論に留まらなかった。それは一般大衆の想像力を大いに刺激したのである。
1.9 火星語事件——霊媒が語る異言
19世紀末から20世紀初頭にかけて、火星に対する科学的関心は、奇妙な形で心霊研究と交差した。当時流行していた降霊会において、霊媒が「火星語」なるものを語ったとされる事件が起こったのである。
スイスの心理学者テオドール・フルルノワは、霊媒エレーヌ・スミス(本名カトリーヌ=エリーズ・ミュレ)が降霊会において語る異言を記録・分析し、1900年に『インドから火星へ——異言を伴う夢遊症の研究』(Des Indes à la planète Mars)という著作を刊行した。
霊媒が語ったとされる「火星語」は、独自の文法構造を持つかのように見える言語体系であった。フルルノワの降霊会には、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールも参加していた。ソシュールは、霊媒が語るもう一つの異言——古代インドの「サンスクリット」とされる言語——について助言を求められたことがきっかけで、この現象に関わることになった。
フルルノワの著作の翌年、言語学者ヴィクトル・アンリは『火星語』(Le langage martien)という著作を刊行し、霊媒の「火星語」を無意識的な観念連合の産物であると結論づけた。アンリはサンスクリットおよび印欧語の専門家であり、霊媒の「サンスクリット」が実際には不正確なフランス語の変形であることを指摘した。
精神分析学的には、霊媒の異言は「転移」「逆転移」と呼ばれるプロセスによる、降霊会の参加者——その中にはフルルノワやソシュールもまた含まれる——の無意識的な欲望の反映であると考えられる。つまるところ、それは参加者がまさに聞き取りたいと思っていたことの反映であった。
ここで興味深いのは、霊媒の語る「火星語」が、古代インドのサンスクリットと並置されていたことである。フルルノワの著作の題名が『インドから火星へ』であったのは、霊媒の異言が両方を含んでいたからだが、これは当時流行していた東洋趣味の影響もあってか、火星が東洋に近接するトポスを持つものと一般には捉えられていたことを物語っているように思われる。
こうした「火星への投影」という現象は、西洋の知識層や心霊研究の場に限ったことではなかった。奇しくも同じ1877年の大接近のさなか、極東の日本においても、民衆の熱狂的な投影現象が起きている。それが「西郷星」の騒動である。
西南戦争で非業の死を遂げた英雄・西郷隆盛が、赤く輝く火星の中に軍服姿で現れたというこの噂は、またたく間に日本中に広まり、錦絵として描かれ、人々は夜な夜な空を見上げて「死んだはずの英雄」との再会を試みた。エレーヌ・スミスの「火星語」が言語学者たちの欲望を介した産物であったように、「西郷星」もまた、敗れ去った英雄を惜しむ民衆の集団的な無意識が、火星という赤いキャンバスに描き出した「幻視」であった。
火星は、科学的探求の対象であると同時に、無意識的欲望の投影面でもあった。
1.10 1909年——運河の崩壊
だが、20世紀初頭、火星をめぐる視覚の確信は大きく揺らぐ。1909年、火星は再び大接近を迎えた。この年、パリ近郊ムードン天文台の大望遠鏡を用いて観測を行ったのが、ギリシャ生まれの天文学者 ウジェーヌ・アントニアディ である。彼は当初、スキアパレッリやローウェルの報告を尊重していたが、実際の高解像度観測に基づき、決定的な結論に至る。火星表面には、地図に描かれるような幾何学的直線網は存在しない。
彼が観測したのは、複雑で不規則な明暗の斑模様であった。いわゆる「運河」は、限界的な視覚条件下で生じる錯視の産物にすぎない可能性が高い。人間の視覚は、曖昧な点列を直線へと補完する傾向を持つ。火星の運河は、外界に存在する構造というよりも、知覚が作り出した秩序であった。
ここに至って、火星文明の幾何学的証拠は大きく後退する。火星は再び、謎に満ちた斑模様の天体へと戻ったのである。しかし、重要なのは、幻想が単純に消え去ったわけではないという点である。むしろこの崩壊は、火星をめぐる想像力を別の領域へと移動させる契機となった。
1.11 ウェルズとバローズ——空想の火星
ローウェルの「運河」は、科学的には否定されることになるが、それは別の形で結実した。文学である。
H・G・ウェルズは1898年、『宇宙戦争』(The War of the Worlds)を発表した。この小説では、乾燥した火星で資源が枯渇した高度な文明が、地球侵略を試みる。火星人は三脚歩行機械に乗り、熱線兵器で人類を攻撃する。だが最終的には、地球上の微生物に感染して死滅する。
ウェルズの火星人は、高度に進化したがゆえに身体が退化し、巨大な頭部と触手のみを持つ異形の存在として描かれた。ここでは火星は、進化の極限を示す警告的なイメージとして機能している。
一方、エドガー・ライス・バローズは1912年から「火星シリーズ」(通称「バルスーム」シリーズ)の連載を開始した。バローズの火星は、ウェルズのそれとは対照的に、冒険とロマンスの舞台である。主人公ジョン・カーターは地球から火星に転送され、そこで様々な種族——赤色人、緑色人、白色人——と出会い、戦い、恋をする。
バローズの火星は、実際の火星とは全く無縁の御伽噺である。しかしそれは、20世紀前半の大衆文化において「火星」という言葉が喚起するイメージを形成した。
なお、その後の文学における、「空想」を脱し「現実」の火星に対峙していくようになる火星像の変遷については、後程、第8章にて集中的に取り上げて別途検討することにする。
1.12 大気の再評価——物理量の火星
文学が想像の火星を拡張する一方で、観測技術は着実にその物理的条件を測定していた。
アリゾナ州フラッグスタッフのローウェル天文台では、天文学者 ヴェスト・スライファー が精密な分光観測を続けていた。皮肉なことに、彼はローウェルの遺志を継ぐ立場にありながら、その観測結果は運河文明の可能性を次第に狭めていく。
スライファーの研究は、火星大気が地球に比べて極めて薄いことを示唆した。水蒸気はごく微量であり、広大な運河網を維持できるような水循環は想定しがたい。20世紀前半になると、火星大気の主成分が二酸化炭素であることも明らかになる。地球型の温暖湿潤な世界像は、物理量によって静かに解体されていった。
火星は、文明の痕跡を宿す惑星というよりも、寒冷で乾燥した世界へと姿を変えつつあった。 望遠鏡が与えた風景は、分光器によって剥ぎ取られていく。火星は想像の舞台であると同時に、測定可能な対象となったのである。
1.13 マリナー前夜——想像の火星から実在の火星へ
かくしてローウェルの「運河」がウェルズの火星人を産み出し、更にはバローズの、実際には火星とは全く無縁の御伽噺を呼び起したのは19世紀末から20世紀前半にかけてであり、ほんの1世紀前までの「火星」は寧ろ空想の産物であった。
勿論それは火星に限った話ではなく、金星もまた20世紀前半までは、密林とジャングルに覆われた惑星として想像されていた。だが金星は、探査のごく初期の段階で得られたデータに基づき急激に関心の対象から外れていった。表面温度は約460度、大気圧は地球の90倍、硫酸の雲に覆われた灼熱地獄であることが判明したからだ。
火星の特異性は寧ろ、その後の火星像の急激な変化、その「実在」のあり方の大きな変容にあり、それはより早く詳細な観察が行われ、唯一人間が実際に到達した地球外天体である月にひけをとるものではない。否、一旦到達すると寧ろ文化的熱狂は一時的に沈静化した感のある月と比べてもそうである。
火星は持続的に興味の対象であり続け、恐らく今後もそうであり続けるであろう。つまり想像力を掻き立てる豊饒なカオスの縁に留まり続ける軌道を描く対象なのである。
そしてその転換点となったのが、20世紀中葉のマリナー計画であった。
20世紀半ばまでに、火星はすでに幾つもの層を失っていた。直線の運河は錯視として退けられ、 地球型の大気は否定され、 豊富な水循環の可能性も狭められていた。分光観測は、火星大気の主成分が二酸化炭素であることを示し、気圧が地球よりはるかに低いことを示唆していた。温暖で潤沢な世界像は、観測精度の向上とともに後退していった。
それでもなお、決定的な確証は存在しなかった。地上からの観測は、つねに大気の揺らぎというフィルターを通して行われる。どれほど分光が精密になっても、どれほど望遠鏡が大型化しても、火星はなお遠くにあった。そこには依然として、投影と解釈の余地が残されていた。
1960年代、宇宙開発競争の只中で、火星はついに「観測対象」から「訪問対象」へと変わる。1965年、NASA の探査機 マリナー4号 は火星に接近し、初めてその表面を至近距離から撮影した。送られてきた画像は、クレーターに覆われた荒涼とした地形を示していた。そこに運河はなく、都市もなく、流れる水もなかった。
それは突然の崩壊ではなかった。 むしろ、すでに分光観測と物理測定が予告していた像の確認であった。マリナー4号は幻想を破壊したのではない。 幻想が取り除かれた後に残る火星を、初めて人類に可視化したのである。火星は文明の舞台から、物理的世界へと完全に移行した。 神話的天体は、測定可能な惑星となった。
しかし同時に、別の問いが立ち上がる。もし現在の火星がこのように乾燥し寒冷であるならば、 それは常にそうであったのか。 あるいはかつて、異なる時代を持っていたのか。幻想が剥がれ落ちたあとに残ったのは、空虚ではなく、 時間という新しい次元であった。
こうして火星研究は、空間の観測から歴史の探究へと移行する。 マリナーは終点ではない。 それは「現代火星学」の出発点であった。

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