2025年11月4日火曜日

「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」初演を聴いて

2025年10月30日(木) 豊洲シビックセンターホール:「ヴォクスマーナ第54回定期演奏会」


藤井健介:「Sè
lèh II」ヴォーカルアンサンブルのための
北爪道夫:てまりうた――良寛の歌による
三輪眞弘:「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」6人の女声歌手と男声傍観者達のための
 詩:「ひとのきえさり」(藤井貞和「美しい小弓を持って」)より
福士則夫:「WAJIMA」for eight voices
(アンコール)伊佐治直:「優雅な犯罪」

指揮:西川竜太
合唱:ヴォクスマーナ


2025年10月30日の「ヴォクスマーナ第54回演奏会」にて三輪さんの「ごはんのうた(カメルーンの旋律より)」の初演に接することができました。以下にその感想を記録しておくことにします。

これは個人的な経緯に過ぎませんが、自らコンサートホールを訪れて三輪さんの作品に接するのは、 2017年12月9日愛知芸術劇場小ホールでの「新しい時代」の再演以来であり、何と8年ぶりということになります。その間には2020年9月19日の「鶏たちのための五芒星」初演をはじめとする『三輪眞弘祭 清められた夜』、2021年2月21日の「人形たちのための五芒星」初演、2022年5月28日~6月19日の「母音廻し、または遠隔音響合成のための五芒星」のライブ・ストリーミングに接していますが、その最後からも3年半近い年月が経過していて、その事実を確認して絶句せざるを得ません。勿論、そうなった最初のきっかけは新型コロナウィルス感染症の蔓延にあり、『三輪眞弘祭』のライブストリーミングも、『配信芸術論』として結実する京都大学人文科学研究所の研究プロジェクトの内容も、そうした状況下における可能性を探り、試みられた「応答」としての側面を有していました。その後、踵を接するようにして生じた個人的事情も加わり、思いもよらぬ長期のブランクを経て、ようやくにして三輪さんの作品の公演に再び立ち会うことが叶ったということで、個人的にはそれだけでも感無量であり、是非ともその記録を残しておきたく感じます。

ちなみにヴォクスマーナの指揮者である西川竜太さんが指揮するコンサートとしては2015年10月12日のクール・ゼフィールの演奏会で「火の鎌鼬」の再演(但し初演に接していない私自身にとっては初めてでしたが)に接して以来ということになります。こちらは何と、もう10年も前の事ですが、このコンサートは色々な意味で印象深いもので、当日会場で経験したことを今尚ありありを思い浮かべることができるが故に、経過した年月の隔たりを確認しても俄かには信じ難い思いがします。前回の感想ではコンサートのプログラムに含まれていた三輪さん以外の作品についても一通り言及しましたが、今回はそれを割愛させて頂き、三輪さんの作品に接した感想についてのみ記すことにさせて頂きたく思います。

実のところ西川さんとヴォクスマーナの歌手の方々の卓越した演奏技術・解釈が可能にする驚く程幅広い表現や、作品に対する献身的な姿勢、演奏における集中は、普通の意味合いにおいては寧ろ他の作品の演奏において、一聴して直ちにわかる仕方で聴き手に感じ取れるものであったと思います。今回のプログラムを構成する他の作品が、その作風や作曲者の音楽観や音に対する姿勢、作品創作の背景において、際立った多様性を持ちつつ、それぞれに声のアンサンブルの多彩なポテンシャルを発揮できるように書かれていたことは、私のように(マーラーの作品におけるそれと能楽の地謡以外は)ヴォーカル・アンサンブルの実演に接することがない者にとっても明らかなことに感じられましたし、この演奏会が所謂「聴き巧者」を納得させる、極めて質の高いコンサートであったことは疑いないことに思えます。そしてそれだけに前回のクール・ゼフィールの公演の時にも況して三輪さんの作品の相貌の特異さが際立っていたように感じられました。またその一方で、これは専ら私個人の側の問題として、他の作品にせよ、それらとは全く違う耳と聴取の姿勢が要求される三輪さんの作品にせよ、大きな聴取上のブランクの後、様々な折り合いをつけながら向き合うことになってしまったが故に、その作品に相応しいかたちで接することが出来なかったという忸怩たる思いがあります。その結果として背景知識のない他の作品の印象を語ることは憚られ、三輪さんの作品に関しても、その作品に相応しい形で語ることは思いもよらず、辛うじて初演に立ち会ったことを証言するためだけに筆を執るというのが偽らざる現実であり、三輪さんの作品に限っても、自分がコンサートホールでそれを極めて不十分な形でしか受け止められなったことを認めざるを得ません。以下の記録がそうした条件付きのものであることを最初に記しつつ、三輪さんの作品についてのみ記すことをお赦し頂きたく思います。

*   *   *

「火の鎌鼬」はそもそも ヴォクスマーナの委嘱作品で2014年の第30回定期演奏会で初演された作品ですが、今回の委嘱新作「ごはんのうた」も、同じ藤井貞和さんの「ひとのきえさり」に基づく、いわば「姉妹作」という捉え方が可能でしょう。そして勿論、三輪さんの多くの作品が持つ「逆シミュレーション音楽」として定式化された特徴、状態遷移規則によって決定論的に作品の時間的構造が決定される点、リアルタイムにその場で都度奏者が「演算」を行い、その結果を音響や行為に変換することを通じて作品が生成される点、或いは通常の西洋音楽の演奏のための訓練された発声法・歌唱法・表現法ではなく、地声で、表現を拒絶して、ダイナミクスの点でも極めて抑制された演奏が行われる点は、三輪さんの作品に親しんでいる聴き手にとって「お馴染み」のものですが、そうした共通性を持ちながら、今回の新作では幾つかの点で従来の作品とは異なる新機軸が試みられているように見受けられます。私見では、その最も主要な点は題名に付せられた「カメルーンの旋律より」という点、つまり、世界でも最も複雑なポリフォニーを持つと言われるらしいカメルーンのピグミー、バカ族の歌を素材として用いており、作品を通してポリフォニーが支配的である点に存します。特に「逆シミュレーション音楽」およびそれに準じるコンセプトに基づく作品を中心に、少なからぬ数の三輪さんの作品が単旋律に基づいていますし、そうでない作品でも、複数の音の重ね合わせとしての和音はあっても、明確に線的でポリフォニックな発想に基づく作品というのはあまり思い浮かびません。勿論例えば「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」は弦楽器のグリサンドのポリフォニーと言えるかも知れませんし、「新しい時代」系列の合唱曲もポリフォニックな作品はありますが、前者は「逆シミュレーション音楽」の派生作品とはいえ、その場で奏者が「演算」を行うという要素は欠いていますし、後者は明確に異なる系列に属する作品です。多様な音響的な層が重ね合わせられる作品としては、これまた「ひとのきえさり」系列の作品である「59049年カウンター」のように三輪さんの作品の中でも重層性・統合性・複雑さの頂点に立つような作品もありますが、複数の異なった旋律パターンが常に線的に重なりつつ状態遷移を行うという点では、今回の作品は異色のものに感じられます。

とはいえ正直に言えば、私が会場で直ちに「これまでと違う」と感じたのは、視覚的にわかりやすい側面、つまり6人の女性歌手と指揮者が中央に積み上げられた鍋を取り囲むように円陣を作り、そこで「演算」が行われる点では共通でも、これまでの多くの作品のように方形ないし五角形の頂点間を奏者が移動するという要素がなく、座ったままポリフォニックな歌唱を続けるという点でした。指揮者が円陣の後ろに座る3人の男性傍観者に対して指示を出して、それに応じて傍観者は、スマートフォンでガザの状況のライブストリーミング映像を見る/手を叩きながら詩句をつぶやく/旋律にのせて詩句を歌う の3種類の動作を切り替えながら繰り返していきます。それに対して円陣の側では各ステップ毎に演算者である女性歌手が胸に手を当てる所作が時計回りに7ステップ一周で繰り返されるのみで、それ以外には動きはありません。ステップ毎にポリフォニーが微妙に変化するのは何となく感じ取れますが、基本的には小声でのポリフォニーが少しずつ変化しつつ連綿と繰り返されているように聴こえます。

「ひとのきえさり」の詩句は7行1連の2連分、14行が歌われますが、比較的聴き取りやすいのは「ひとのきえさり」と「いきものすべて」の2行で、前者は女性合唱のポリフォニー中の旋律の一つとして周期的に出現し、後者は男性傍観者により旋律にのせて歌われるので、相対的にはっきりと聴きとれたということのようです。14行のうちこの2行が比較的明瞭に聴きとれたのは、勿論、そうなるように作曲者が意図したことに間違いなく、それは傍観者がスマホで見るガザの映像、円陣中央に積まれた鍋とともに、この作品が置かれた文脈(「逆シミュレーション音楽」における「命名」の相に相当。これは三輪さんがプログラムノートとして記しているので、お読み頂ければ明白だと思います)を雄弁に物語っているように感じられました。

冒頭に述べた、当日演奏された他の作品と比較した時に際立っている三輪さんの作品の特徴は、コンサートでの演奏というフレームの中にありながら儀礼性を明確に帯びていて、作品の上演は「奉納」であり、聴き手は作品を鑑賞・消費するのではなく「礼拝」に直接関与することなく遠巻きにして立ち会う役割を負わされるという点にあります。公演の進行として、プログラムの2、4、5曲目では前の曲が終わり、奏者が袖に退場して拍手が鳴り止むと、西川さんがマイクを2本持って単独で舞台に出てきて、客席におられる作曲者を呼んで舞台に上がってもらい、プレトークを行うという形式で進められたのですが、20分の休憩を挟んで後半の最初の曲として置かれた三輪さんの作品については、休憩後に客席の照明が落とされ、舞台中央が明るくなってしばし沈黙の時が流れた後、鍋を2つないし1つ下げた奏者が入場し、まず舞台中央に鍋を置いてから自分の位置に座り、最後に指揮者の西川さんが柄杓と鍋とを持って登場して、やはり中央にそれらを置くと、客席に対するお辞儀なしで背中を向けて円陣に加わってそのまま演奏開始となりました。終演後も、座っていた奏者が次々と立ち上がり、舞台中央に積み上げられた鍋の中から自分のものを取り上げて順次退場。その最後となった西川さんも柄杓と鍋を持ち、客席への挨拶をせずに袖に下がり、舞台は開演前の状態に戻りました。

その時私が思い浮かべたのは能舞台でした。舞台奥の鏡板に描かれた松こそないけれど、開演前に無人で、終演後に再び無人の空間に戻った舞台は能舞台そのものに感じられました。能では開演の合図は舞台裏での囃子のお調べであり、その後作り物がある場合にはそれが設置され、囃子方は袖から橋掛かりを渡って、地謡は切戸口から舞台に出て着席し、指揮者に相当する笛の一吹きで開演となり、拍手はありません。終演後はシテがまず橋掛かりを渡って退場し、ワキが後を追うと、地謡が切戸口から退場し、最後に囃子が橋掛かりを渡って退場します。私の拝見する公演の場合、最後の囃子方が橋掛かりを渡って退場するくらいのタイミングで拍手となるのが普通ですが、元々神事であり今尚奉納としての側面を留める能の場合には、元々は拍手はしないものであり、その伝統と近年の「芸術鑑賞」が折り合いをつけたところがそうした拍手の習慣ということになるのだろうと推察します。しかしコンサートホールでの公演にそうしたコンベンションがあろう筈もなく、拍手をしかかっては止める人がちらほら居ながらも、結局、最後まで拍手は起こらずに演奏が終わることになりました。

客席に戸惑いがあったのは確かなのですが、これは色々な文脈を持った人が聞きに来ていることを思えば当然で、能の公演でも時として起きることです。この日の拍手なし、挨拶なしという上演の仕方については当然、三輪さんと西川さんの間で事前の打ち合わせがあってのことで、この作品を休憩の直後に置くというプログラムの組み立ても実に巧みで、総じて「コンサート=奉納」という場の質的な変容という点ではこれまで私が立ち会ってきたどの上演にもまして徹底した達成が違和感なく自然に実現していたと感じました。

冒頭にも述べたように、プログラムの他の作品では技巧の限りを尽くすリアライズを行ったヴォクスマーナの歌手の方々にとっては、通常の歌唱法ではなく、小声で、表現付けを排除したリアライズが求められる三輪さんの作品は、通常とは違った意味での難しさがあったのではないかと思いますが、そうした通常と異なる意図は申し分なく徹底されていたように感じました。例えば男声傍観者の唱法、特に手拍子を伴うささやきの箇所については、手拍子にムラが生じたりするのですが、勿論、一分の隙も無くぴったりと揃えるという指示があればそのようにすることは容易な筈であって、それはそうした行為が、客席にいる聴き手に聴かせるためにではなく、謂わば祭礼の所作の一部として、自分のために行っていると考えれば納得が行くものに思えます。

その一方で、女性歌手の歌唱については、もともとのバカ族のポリフォニーそのものが複雑で豊かなものなのですが、それが「演算」をして次に歌うパターンを決めながらリアライズしているとは思えないような自然さと自在さで、或る意味では余りにスマートに演奏されてしまった故に、バカ族の歌唱が持っていたゆらぎとかムラに由来するふくらみのようなものがなく、また同じ旋律がずっと歌われているように聴こえたとしても実際にはどの旋律を誰に歌うかについては刻々と交替が起きているわけですが、その点についても(私の耳の精度の悪さもあるのでしょうが)その場で聴いている限りではほとんど気づかないなど、パラドクシカルなことにさえなっていたように思います。

西洋音楽の規範では、同一楽器・声部のパートの内部は均質であることが理想であり、誰が演奏しても同じである「べき」なのですが、西洋音楽の外部では必ずしもその限りではない場合もあり得ます。三輪さんの意図が奈辺にあるかはわかりませんが、「儀礼」であるが故に「間違えない」ことは条件として、指摘した点については、結果としてどのようになるかは様々ありえたとして、そこに価値の優劣はないのだろうと推察します。その一方で、女声歌手によるポリフォニーの絶えまない連続性の感じと、そこで生じる微妙な変化のバランスが「演算」結果の写像についての非常に繊細な設計により実現していたのだということは、当然のことながらその場では気づきようがなく、後から教えて頂いて感銘を受けた点なので、以下、少し詳しく触れておきたく思います。

その場で聴いた限りでは、6人居る女声歌手の右側3人と左側3人が組になっているような感じがする以上のことは全くわからなかったというのが正直なところなのですが、実際に行われているのは三輪さんの作品ではお馴染みの「蛇居拳算」という演算で、その結果により定まる自分自身の状態によって次にポリフォニーのどのパートを歌うかが決まります。そして4つある女声の旋律のうち2つは6人居る女声歌手の右側3人と左側3人の両方が、残りの2つは左右のそれぞれの側だけが担当することになっています。従って変数の取る値の出現確率が全員で等しければ、左右両方で歌われる旋律と左右いずれかしか歌えない旋律では出現頻度が異なることになります。その一方でどの旋律を歌うかは各人の状態によって決まるので、同じ値を持つ複数の歌手が同じ旋律を同時に歌うことも生じえます。斯くして全般としては歌う旋律の交替を行いつつ、総じて同じパターンが繰り返されているように聴こえつつも、ある旋律が消えたり、再出現したり、あるいは複数人で同じ旋律が歌われたりという、微妙でかつ複雑な変化が生み出されるようになっているのです。こうした繊細な多様性が事前に設計されているという点は、恐らく間違いなくオリジナルのバカ族のポリフォニーとははっきりと異質なものであり、アルゴリズミック・コンポジションという作曲技法に由来するものであり、三輪さんがタイトルで「カメルーンの旋律より」という言い方をしているのもそうした事情に基づいたものだと思います。

同じことは女性歌手の歌唱におけるピッチについても感じました。これもまたオリジナルのバカ族の歌唱との比較になってしまうのですが、オリジナルの演奏は、恐らくは即興的に自発的に色々な人が歌唱に加わって、時として何かの理由で止めたり、また途中から参加したりといったことが普通に起きているものと想像され、それ故にかピッチに関しても時として不安定であり、正しいピッチに向けての補正がリアルタイムで行われているような感じもあります。それに対して、「演算」規則に従った間違いのないリアライズが求められる三輪さんの作品を、高度な訓練を積んだ高い技術を持った奏者が演奏するというのは、同じ演奏とは言ってもかなり位相の異なるものであるに違いありません。

もっともこのことに関して言えば、聴き手も部外者ではあり得ない筈で、恐らくオリジナルの歌唱では演奏者と聴衆の区別というのは仮にあっても希薄なものなのではないかと想像され、それはまずもって西洋音楽におけるコンサートという制度とははっきりと異質なものです。その一方で「ごはんのうた」において三輪さんは、これも他の幾つかの作品でもそうであるように、舞台上の奏者の中に歌手と傍観者の区別を導入しています。これの意味するところは、祭礼における参加者にヒエラルキーが存在するということで、喩えて言えば、神役なのは女声のみであって、男声傍観者はその神事に立ち会い・補佐するという役割を担っているのだと考えることができるでしょう。(一例を挙げればごく近年まで行われていた宮古島狩俣の祭祀にも同様の二重構造が確認できます。もっともそこでは男役は神女が行う儀礼を見ることさえできないのですが。)これは演奏者と聴き手の二分法を前提とするコンサートという制度に「ありえたかも知れない祭祀」を埋め込むに当たって必要な媒介というように考えることができるでしょう。それ故にか、傍観者の役割というのは流動的な面があり、「火の鎌鼬」での女性傍観者のように単に立ち会って傍観する「演技」を求められることもあれば「59049年カウンター」のように楽器の奏者が「傍観者」としての役割を担う場合もありますが、今回の場合には、既述のようにガザの状況のリアルタイム画像を見るという、文字通りの媒介の役割もある一方で、手拍子とつぶやきというモードと旋律をうたうモードの二種類の形で演奏にも関わるということで、かなり奏者よりの位置づけになっているのが印象的でした。(実は私は、これでは「傍観者」ではないのでは?と思ってしまったのですが、例えば既に参照した宮古島狩俣の神歌としてもっとも著名なニイリが、実は傍観者である男役の歌であることを想起するならば、今回のような配分もまた傍観者として自然なものなのだと思います。)

更に言えば、同じことは指揮者にも言えます。「架空の祭祀」という性格を持つ三輪さんの作品の多くは指揮者を置きません。その一方で「演算」の誤りをチェックし、エラーを検出すると演奏に介入を行う「悪魔」(これは「マクスウェルの魔」を嫌でも思い起こさせます)と呼ばれる役割が置かれることがありますが、今回はそのように明示はされていないものの、強いて言うならば指揮者が「悪魔」の役割を果たしていると考えることができそうです。しかしながら、「ごはんのうた」における指揮者は、6人の女声歌手の円陣に加わって、傍観者に対して行為のパターンの切り替え指示をするだけでなく、(実はこれは後で教えて頂いたのですが)「演算」そのものに参加しており、指揮者の持っている状態が傍観者の行為を決めるという構造になっているのです。女声歌手のポリフォニーの配分規則もそうですが、この指揮者の位置づけもまた、7桁(女声歌手6人+指揮者1人)の3進数上での状態遷移規則というシンプルな原理に基づきつつ、そのうちの指揮者用の1桁を傍観者の行為に割り当てることによって、音楽的なリアライズとしては繊細で多様性に満ちた複雑な変化を可能にする要因の一つになっていると思います。

しかしながら残念なことに、上で説明した繊細で複雑な変化は聴き手を選ぶところがあり、既述の通り、私が当日その場で聴きとることができたのはその豊かさのごく一部に過ぎませんでした。また後から言っても詮方ないことながら、例えば「火の鎌鼬」のような従来の舞台上の動きがある作品を根拠もなくイメージしていたことから、その動きが俯瞰的に見えやすい方が良いかと思って、舞台に向かって左側の後ろから2番目の席にしたのも失敗で、舞台間近の席であれば、「演算」の様子やそれに応じた声部の受け渡しなど、もう少し色々な情報をその場で拾えたかも知れず、折角の機会なのにもったいないことをしたという思いもあります。そしてこれは負け惜しみというわけではなく、「ごはんのうた」のような作品は、エキスパートならぬ普通の聴き手にとっては一度切り聴くだけで理解できるような作品ではなく、バッハのポリフォニー作品のように何度も聴くことでその作品の複雑で巧妙な構造が段々と掴めてくるようになることで、徐々にその繊細な変化が感じ取れるようになるタイプの作品であると感じられました。

三輪さんがこの作品の作曲に用いた7桁の3進数上での状態遷移規則自体は非常にシンプルなものです。しかしそれを音の系列に写像するやり方は無限にあり、恐らくそのほとんどはトリヴィアルな結果にしかならないでしょう。ここで三輪さんが素材として用いたのは、それ自体が世界中で最も複雑なポリフォニーを持つと言われるカメルーンのピグミー、バカ族の旋律でした。それは自体として固有の魅力に満ちたものではあるのですが、三輪さんの音楽は、ちょっと聞いただけの聴感レベルでは「似た」ように聴こえたとししても、似て否なるものであって、三輪さんはそれを素材にして(但し、自作の旋律も加えた上で)、6人の歌手と傍観者のパートにどのように旋律を割り当てるかの写像規則を設計しました。その規則もまた簡単に書き表せるシンプルなものである一方で、それは一見したところ、単純で美しい状態遷移系列の持つ規則性や対称性を恣意的に分解してしまうものにも見えます。7桁のうちの最初の桁(指揮者の桁)が傍観者の歌唱・行為のパターンに、次の3桁が中核の女声によるポリフォニーを構成する4つの旋律のうちの3つを最初の3人にどう割当てるかを、最後の3桁は4つの旋律のうち、2つは最初の3人と共通で残りの1つは最初の3人が歌うことのない旋律を、残りの3人にどう割当てるかを決定します。ここにある不均衡はしかしながら具体的に状態遷移系列に適用されると、一見したところ静的な反復に見えて、実際には多様で繊細な変化をもたらします。無限にあるであろう状態遷移規則によって得られた系列を音に写像する仕方の中で、まさにこの規則を選択することがどのようにして可能になったのかはわかりませんが、その結果が驚くべきものであることはわかります。非常に粗雑な類比ですが、今日であれば生成AIを用いて、単なる道具としてのレベルではなく、独創性とか新規性が問われるような領域で意味ある結果を得るための、試行錯誤の果てに得られるコツのようなものが思い浮かびますが、この類比には限界があることも明らかです。いずれにせよ、結果としてリアライズに際して地声で無表情に、小声で唱えられるポリフォニーは、しかるべき仕方で訓練した上で耳を澄ませる時にこそ、寧ろ受け止めきれないような豊かさを示すように仕組まれているのです。そしてまた、この日の西川さんとヴォクスマーナによる演奏は、恐らくはその豊かさを十全にリアライズしたものであったに違いなく、勿論自分に為し得る限りでその作品と演奏とを受け止めるべく努めたのではありますが、十分に受容するだけのキャパシティもなく、準備もできていなかったことが悔やまれ、三輪さんにも、西川さんをはじめとするヴォクスマーナの皆さんにも申し訳なく感じています。この日のコンサートのプログラムにも過去の委嘱作の再演が含まれていましたので、何時の日か、「ごはんのうた」についても再演の機会が訪れたならば、是非とも再度会場に足を運んで、今度こそはその真価をきちんと受け止めらるように努めたく思います。

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数年ぶりに、本当に久しぶりに三輪さんの作品の初演に接したからなのか、三輪さんの作品に接したばかりの時に感じたことをふと思い出しました。三輪さんの使用する規則はシンプルなもので、それによる時間発展の仕方は原理的に限定されたものになります。突飛な喩えですが、例えばマーラーの音楽が持つような時間的な遍歴を持つことはありえません。私は当初、そのことに対して、恐らくは物足りなさを感じて、複雑さに向かう方向性を示唆したことを良く覚えています。しかしながら、例えば「逆シミュレーション音楽」の3つの相に一旦還元された上で再構成された「音楽」は、例えば「またりさま」のようなシンプルなものから、「59049年カウンター」のような人間が一度に受け取ることができる情報量を超えた複雑で多層的なものまで実に幅広いものであることがわかり、私は当初の浅慮に気付くことになりました。そして今回「ごはんのうた」で提示された方向性は、同じ原理に基づきながら、異なる素材と、単純だけれども巧妙極まりない写像規則の組み合わせにより、これまでにない新たなポリフォニーが可能であることを示しています。

私が今回の「ごはんのうた」に接して感じた印象を言い当てようとしてふと思い浮かんだのは、南部陽一郎先生がノーベル賞受賞記念講演の締めくくりに述べた以下のような言葉でした。
「物理学の基本法則は多くの対称性を持っているのに現実世界はなぜこれほど複雑なのか。対称性の自発的破れの原理は、これを理解するための鍵となっています。基本法則は単純ですが、世界は退屈ではない。なんと理想的な組み合わせではありませんか。」
勿論、この言葉を三輪さんの作曲に適用するのは非常に緩いアナロジーの下でしかありえませんが、しかし言いたいことは既に述べた内容からご理解頂けるのではないかと思います。繰り返しを避けずに言えば、私見では「ごはんのうた」の魅力は、一見恣意的に見える状態遷移パターンの旋律パターンへの割当規則にあります。そこにある不均衡が多様性を、複雑さを生み出す源泉になっているように思えるのです。

ただし、ここには重大な違いもまたあることを指摘しておきたいと思います。既に述べたように三輪さんの用いる状態遷移規則自体はシンプルなものであり、摂動をランダムに与えた場合の挙動も含めて、結果として生成された系列を与えて小規模なリカレント・ニューラルネットワークに学習させることによって「擬き」が比較的容易に作れることがわかっています。繰り返して述べてきたように、それを音楽にどのように写像するかには原理的に言って莫大な可能性がありますが、今日の生成AIそのものではなくても、その延長線上では、逆シミュレーション音楽の「設計書」を自動生成するということ自体は恐らく可能になるでしょう。膨大とは言っても有限量の可能性を虱潰しに当たって、「当たり」を見つけるといったような場面であれば、興味深いものをAIが発見する可能性はあるでしょう。しかしながら何が「当たり」であるかは、結局のところ与える必要があるでしょう。そうした価値づけ、方向性は個別の状況の中で生きる存在にとってのみ意味を持つものなのです。そして規則を学習して「擬き」を作ることは出来ても、自分が置かれた個別的な状況への「応答」として、聴いて興味深い仕方でそれを音に変換することは、今のところは人間にしかできないもののように思われます。

それは言い方を変えれば、ユク・ホイが示した「偶然性と再帰性」という2つの原理の組み合わせにおいて、今のところは人間が体現しているようなレベルの実現は容易ではないということでもあります。それ自体が進化の産物である、偶然性と再帰性の巧妙なバランスの上に成り立った人間という有機体が、二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前の「意識の時代」において蓄積した文化的遺産の上で、直感的な仕方で偶然性と再帰性のバランスを見出して実現する新たな作品の創造は、少なくとも今しばらくは人間に固有のものなのではないかと思われます。既に「生成科学」的なアプローチが提唱、実践されつつある自然科学的な領域であればともかく、こと個別的な文脈に応じた倫理的な「応答」が関わる「人文工学」の領域の、更に加えて「言説の空間」内での単なる記号操作レベルに原理的に閉じることのない、身体性や情動を基盤とした他者との共感に根差した「音楽」活動は、それを「逆シミュレーション音楽」における「規則の生成」のレベルのみに相当するに過ぎない音響の操作に矮小化してしまうことなく、「命名」も含めたその3つの相を不可欠の契機として捉える限りにおいて、優れて人間のものに留まり続けるでしょう。それが個別の状況に対する「応答」である限りにおいて、その作品もまた個別的なものである他なく、そしてそれ故にこそ「新しさ」の経験が可能になるのではないでしょうか?如何に大規模なものであっても閉ざされた単一の空間の中に居る限り、「新しさ」はあり得ません。「新しさ」は自分の展望の地平の外にいる他者の裡にしかなく、他者が住まう多元的な世界でしか可能ではないのではないでしょうか?

既に生み出された作品を入力として「擬き」を出力することが如何に巧妙に出来たとして、一体他の誰が、これまでの様々な創作の試みの延長線上に、「ごはんのうた」のような作品を構想し、実際にこのような仕方で実現することができるでしょうか?更にまた、如何に巧妙に楽器を奏し、声を人工的に合成することができたとして、作曲者の指定に応じ、その意味を了解した上で持参した鍋を中央に積み上げ、スマートフォンでガザの映像を眺めつつ「奉納」をすることができるでしょうか?演奏の正確さを数量化して比較評価する仕組みが如何に巧妙になったとして、その作品と演奏とに感動することができるでしょうか?

私が実演から遠ざかって逼塞している間に状況はすっかり変わり、それまでは何時の日か訪れるであろう、或る種の理論的な極限に過ぎなかったシンギュラリティが俄かに現実味を帯びる中、数年ぶりに三輪さんの作品の上演にコンサートホールで接した私が感じたのはそうしたことでした。そして生成AIが表面的には如何に巧妙に音楽について論じることが出来るようになったとて、音楽を「聴き」、それに共感し、感動した経験について語ることについては、これもまた今のところ人間にのみ為し能うことのようです。それ故その聴取が如何に至らないものであったとしても、自分が接した作品と演奏とにこのように「応答」することが、その場で上演に立ち会った人間の義務であるという思いもまた強く、その衝動に従って感想を記し公開する次第です。最後に改めて三輪さん、西川さん、ヴォクスマーナの歌手の方々に感謝の念を表明してこの拙い感想を終えることにしたいと思います。

(2025.11.3執筆, 11.4公開)

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