2025年10月2日木曜日

三輪眞弘を考える上での主題系

  本来は相関図を用いるべき。

  • 意識・無意識・自己・心・他者:現象学、初期ハイデガー、批判理論、解釈学、認知科学、プロセス哲学、脳科学、神経生理学、進化論(ミーム含む)、発達心理学、精神病理学、精神分析学。フリストンの理論(自由エネルギー原理・能動推論・マルコフブランケット。)
    • 「二分心」(ジュリアン・ジェインズ)崩壊以降、シンギュラリティ(カーツワイル)以前の「意識」の時代。「延長意識」「自伝的自己」(ダマシオ)「自己意識」の成立と維持の仕組み。
    • フィクションとしての「私」。「意識が一つ続きのものであること」(兼本浩祐)が如何にして可能になるか。時間をまたぐ構造保持のメカニズム。「自伝的自己」の生成機序と構造。
    • 表象の同一性維持機構としての「ことば」。
    • 「私」を立ち上げる必須の契機としての「他者」。他者の声の交響の場としての「私」。やまだようこ「ことばの前のことば」における「うた」。
    • サイバネティクス・オートポイエーシス:前史としての「エスの系譜」(互盛央)。後期ハイデガー、ユク・ホイ「再帰性と偶然性」、モナドロジー(ライプニッツ)。人工知能。情報物理(セス・ロイド)、Life3.0(テグマーク)
  • 時間性:意識=時間性の起源としての他者の(原)触発。「隔時性」(レヴィナス)。リベットの実験における意識の「遅れ」=差延(デリダ)。他者への「応答」への遅れ⇒「投壜通信」としての「作品」。
  • 「音楽」の問い直し:「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。 そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか? もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない」(三輪眞弘)に対する応答。:「無意識の層を伝え合うエクササイズ」(ベイトソン)。宇宙技芸(ユク・ホイ)。「人文工学」の擁護。
  • 「逆シミュレーション音楽」の3つの相の解釈。:
    • 「規則」は自然法則ではなく、形式的に同一であっても文化的な「禁忌」であること。
    • 「解釈」:(演奏者の身体を用いた実践をその場で体験・共有することとしての)「音楽」=「祭祀・礼拝」(cf.「録楽」)。身体性を通した無意識的な領域への開け。道元的な「修証一等」としての修行。到達点としての「悟り」の拒絶。本覚思想の拒絶。
    • 「命名(由来)」:想像力、仮想性。「ありえたかも知れない民謡」。「…という夢をみた」という構造。その場に不在の(非)存在としての「幽霊」は「音楽」にとって必須の契機。「音楽」は「幽霊」に対する呼びかけ、応答、祈り。故に「命名」なしの「規則」「解釈」は「音楽」ではない。
  • 「うた」の境位
    • 「うた」の起源=意識の起源:(1)藤井貞和「<うた>起源考」⇒宮古島狩俣の祭祀の分析。(2)やまだようこ「ことばの前のことば」における「うた」。(3)ジョルダーニア「人間はなぜ歌うのか?」におけるポリフォニーの優位。(4)「傍観者」「悪魔」の位置づけ。聴き手の位置づけ。
    • 人間の歌う「うた」はアルゴリズミック・コンポジションに直交(例えば「夢のガラクタ市」のリート。「新しい時代」の「うた」)。
    • MIDIアコーディオンという「誰でもない声」による「声なきもの」のための「うた」。ファンタズマゴリーへの抵抗。虐げられた者、見捨てられた者、疎外された者の「声なき声」の代補。「幽霊」の歓待。
  • アルゴリズミック・コンポジション:有限状態オートマトンの状態遷移が、「感じ」を惹き起こすこと。クオリアの機能。「感じ」としての意識(ソームズ、パンクセップ、ダマシオ)/「図式的期待」(ナームア、マイヤー)⇒「意識の音楽」・「時間の感受のシミュレータとしての音楽作品」。⇒機械学習による「擬き」
  • 個別的なものの学(mathesis singularis)」としての「三輪学」。「投壜通信」(パウル・ツェラン=マンデリシュタム)。「コミットメント」(マイケル・ポランニー)。

(2025.10.2 暫定版公開。ワーク・イン・プログレス。)

0 件のコメント:

コメントを投稿