2020年9月27日日曜日

『三輪眞弘祭 清められた夜』にネットワーク越しに立ち会う:ライブ配信視聴の記録

ぎふ未来音楽祭2020『三輪眞弘祭 ―清められた夜―』

三輪眞弘 《鶏たちのための五芒星》(2020サラマンカホール委嘱・世界初演)
ヨハネス・オケゲム 《死者のためのミサ曲》(15世紀) MIDIアコーディオンとオルガン版
フォルマント兄弟 《霊界ラヂオ》+ボイパと《海ゆかば》(2020)
三輪眞弘 箏と風鈴のための《もんじゅはかたる》(2019)
三輪眞弘 《神の旋律》+《流星礼拝》(2020版)

作曲・企画:三輪眞弘
映像監督:前田真二郎
フォルマント音声合成:佐近田展康
詩:松井茂
写真:麥生田兵吾

出演:
川口隆夫(ダンス)
岡野勇仁、西村彰洋(MIDIアコーディオン)
塚谷水無子(オルガン)
ほんまなほ(ルバブ)
マルガサリ(ガムラン・アンサンブル):恵美須屋直樹、大井卓也、黒川岳、谷口かんな、中川真、西村彰洋、森山みどり
公募パフォーマー:石田正人、小野馨、鏡あすか、黃芃嘉、ごとうたくや、佐藤優太郎、杉野智彦、高木実咲、中路景暁、新美里奈、花太郎、林暢彦、原惟奈、洞口はるか

6羽の鶏

2020年9月19日 23時開演(26時終演、22時よりスタンバイ配信開始)
サラマンカホールよりライブ配信(無観客開催・視聴無料)

主催:サラマンカホール
共催:情報科学芸術大学院大学、京都大学人文科学研究所

* * *

 『三輪眞弘祭』が2020年9月19日、この文章を綴っている時点から丁度1週間前の深夜に岐阜のサラマンカホールで開催された。新型コロナウィルス感染症の流行により「緊急事態宣言」が発せられ、あくまでも「禁止」ではなく「自粛の要請」という形ではあるが、通常の形態でのコンサートの開催が事実上不可能になってから半年、日本では第2波の流行にお構いなく―今度は明確な「緊急事態宣言」という形式を踏まずに、在宅7割の要請が出たのち、それ自体については明示的な解除がなされないまま、いわばなしくずし的に―、"GoToトラベル"と称する国内旅行を促すキャンペーンが政府主導で行われ、コンサートの開催についても再開の兆しが見える中(もう半月先には、”GoToイベント”なるものも開始されるとのことである)での無観客公演がライブ配信されるのをネットワーク越しに、自宅で受信するかたちで立ち会うことになった。

 公演をこの形態で行うことは、既に半年前にまさに新型コロナウィルス感染症の第1波が猖獗を極める状況下で決定され、告知が行われた。その後この形態での公演を前提にした企画・構成が進められ、準備が行われた上での公演であり、この半年間の未曽有の経験とその記憶が集約されたイベントとなったように感じる。実際このイベントは、単なる無観客でのコンサートの実況中継ではなく、初めからライブ配信されることが前提に組み立てられており、ネットで配信することもまた作品の一部であるようなメディア・アートのパフォーマンスとして捉えるのが適切であろう。実際、配信されたのは前田真二郎さんによる映像だけではなく、まさにその映像の中に舞台の上を動き回る様が映り込んだ麥生田兵吾さんが撮影した写真がインスタグラム(https://www.instagram.com/masahiro_miwa_festival/)に公開され、Twitter による実況中継が行われ(https://twitter.com/miwafest)、更には松井茂さんの詩「聖、或いは、日知り」が映像と並行してメール配信されており、そうしたマルチモーダルな配信の総体が一つの「作品」であるという点にまず留意しておきたい。

 要するにこれは、本来、サラマンカホールの舞台上で、観客を前に行われる筈だった「生演奏」の色褪せた代替としてのライブ配信ではなく、新型コロナウィルスの蔓延によって顕在化した、だが既に伏在していた今日の状況に対する「応答」として企てられたものとして受け止めるべきなのだ。プレイベントで三輪さん自身が発言されていたように、録音された音響の再生を「録楽」と呼んで、人間がその場で演奏する「音楽」と峻別する立場からすれば、無観客の公演は端的に「音楽」の否定であり、実演にその場で接することができない限りにおいて、これは三輪さんの定義する「音楽」ではないのだが、それを踏まえた上で「音楽でない」何かを提示する試みとして位置づけられているのである。

 そういう意味では、当日のライブ配信だけが「作品」なのではなく、例えば事前に8月28日に開催されたプレイベント『プロローグ「音楽の終わりの終わり」はここからはじまる――。』も含め、或いはWeb上に設けられた専用サイト(https://miwafest.net/)も含めて、一つの作品として捉えるべきであろう。もう一言加えれば、本稿を書くに先立って、この公演の共催団体である京都大学人文科学研究所の教授であり、プレイベントにも参加されていた岡田暁生先生の『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書, 中央公論新社, 2020.9.25刊)に接することができたのだが、この著作はその執筆期間がまさにこの公演の準備期間と重なり、刊行のタイミングもほぼ同じ、内容上もプレイベントでの発言と密接に関連しており、随所に三輪さんへの言及を含んでおり、私には『三輪眞弘祭』と双子のような関係にあると感じられた。或る意味ではこの著作もまた『三輪眞弘祭』の一部を為すという捉え方さえ可能ではなかろうか。

 専用サイトの設置やプレイベントの開催自体は、通常の形式のコンサートでも、今日、マーケティングの手法として普通に行われていることに違いないのだが、当たり前のこととして何の違和感もなく受け止めているそうした「仕掛け」の自明性が括弧に入れられ、今日、ネットワークの端末の先にぶら下がるようなモードと、身体を移動させてある場所に集い、視線や言葉を交わすといったモードとの間をごく当たり前のように往還している我々の存在の様態そのもの、そしてそれといわば共犯関係にある「音楽」の在り方そのものを問いに付すような出来事として企てられたものなのだ。ここで試みられたことは、新型コロナウィルスの蔓延の中で数多く見られたような、予め確立された主体が新型コロナ禍で分断され、離れ離れに孤立しているのをどのようにして結びつけるかといったコミュニケーションの水準の問題の水準ではなく、つまりは既成の音楽を如何に取り戻すかといった地平に留まるものではない。コロナ禍以前からテクノロジーの浸食により仮借なく進んできた「音楽」のきえさり(それは「ひとのきえさり」に他ならない)を現実として直視した上で、残された可能性を探る試み、「音楽(でないもの)」の上演を経験することによって都度生成し、立ち上がっていく主体の様態に纏わる水準の問題なのだと私は捉えたい。予め確立された「自己」を備えた主体の分断、コミュニケーションの断絶という捉え方は、それ自体が或る種の臆見(ドクサ)であって、本当は事後的に形成された「自己表象」という虚構を実体視しているにすぎず、実際には「自己」は外部との接触の都度立ち上がる可塑的で一時的なインタフェースの如きものなのであるという認識に立った時に初めて、この試みの射程を正確に捉えるための出発点に立てたことになるだろう。

 企画全体やその中で上演された個々の作品に込められた作者の思いについては、上記のサイトを通して、あるいは―イベントそのものとは異なって、こちらは記録映像にアクセスし、再生することが今現在でも可能になっている―プレイベントを通じて知ることができるので、ここで屋上に屋を架することは慎みたいが、上のような立場に立った時、この一度限りのイベントーWebページにある通り、例えば映像に限ってしまえば技術的には可能であるにも関わらず、映像記録の公開の予定はない―に立tち会った何百人かの中の一人として、自分がそこでどのような経験をしたかを記録しておくことには何某かの意味があるであろうと考え、以下に記すことにしたい。どんな形であれ、「それが起きた」ことを記憶し、再生(可能に)し、記録することは、出来事に立ち会ったものの責務であり、出来事の意味や価値に比して、それ自体が取るに足らないものであったとしても、或いは受け手の受容能力の制約を受け、更には機構上、無意識であれ意識的であれ、編集・加工が為されたものであることは避けがたいとはいえ、そうすることによってしか「それが起きた」ことを証しすることはできないだろうからである。その一方で、以下に記載する内容がその場の印象に限定されると宣言せざるを得ないこと、『三輪眞弘祭』が備えている筈の広範な社会的・文化的文脈における含意についての言及が以下の記録にほとんど為されていないことについては、自分がそれを受け止め体験したその場で、それに対して反応するだけの蓄積を持たないためであることを率直に認めざるを得ない。だがそれは寧ろ、例えばこの催しの共催者である、岡田先生をはじめとする京都大学人文科学研究所の諸先生方の領分であるから、今回は特に安心して委ねる先があることになる。そのことも踏まえた上で、以下の記述については自分が経験したものを記録するという目的に範囲を限定することとしたい。

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 それが生演奏であれば、開演の何十分か前にコンサートホールに到着し、自分の座席の位置を確認して開演を待つことになるのだが、今回は自宅で、受信する端末の前に座り、Webページを開くことになる。開演前から配信は始まっていて、私が接続したのは開演の15分くらい前からだっただろうか。通常のコンサートであれば、公演のためのセッティングがされた状態で、でも誰もいない空の舞台を、こちらは少しずつ埋まっていく客席から眺めることになるのだが、今回はいきなりモノクロームの映像で、公演の準備で多くの人が行き交う舞台の様子が映し出された。6羽の鶏は既に舞台の上を動き回っている(後でtwitterで確認したところでは22:06分に舞台の上に放たれたようだ。ちなみに私はtwitterのアカウントを持っておらず、普段は使っていないこともあって、リアルタイムではチェックしていなかったし、接続を開始した時点での過去ログのチェックもしなかった)。「音楽」のお通夜としての「清められた夜」という設定に相応しい23時開演・26時終演予定という時間枠は、通常のコンサートではまず実現困難だろうが、ネット配信に立ち会うのであれば、多少生活のリズムを調整すれば大きな困難はない。

 私は過去に一度サラマンカホールを訪れたことがあり、その時の記録は後述のように本ブログの別の記事として公開しているが、プレイベントの映像等で見ることができたカラーでのホール内部の映像が、自分が訪れたホールを想起させるのに対して、前田さんによって意図的にそのように選択された結果であるモノクロの映像で見るホールは、かつて自分が訪れたという既視感を呼び起こすこともないし、ライブ映像のリアリティを感じさせることもない。ワヤン・クリを意識したらしい画像の肌理は、未だ映像記録がモノクロのみであった時代の記録とも微妙にずれを呼び起こして、映像の向こう側の光景から現実感を奪い、時間上の位置づけの感覚を麻痺させてしまうかのようだ。強いて言えば、色彩の感覚がぼやけた夢の中の光景の感触に一番近いだろうか。それに加えて現実に客席に座っていれば原理的に経験しようのないカメラアングルの切り替わりも、ライブ感覚よりも、夢の中での場面転換に近いように感じられる。しかも公演開始の23:00までは無声なので、余計にその感覚が増幅されるように感じた。夢の映像というのは、過去に経験した映像の記憶を素材として無意識の裡に変形・加工が行われたものだろうが、そういう意味でも夢が一番近いように思われる。ともあれ、モノクロでしかも壁面がビニールで覆われ、舞台の上で鶏が動き回る映像は、かつてサラマンカホールを訪れたときのエピソード記憶を些かも呼び起さない。かといって既視感がないわけではなく、かつて一度も訪れたことがないのに現実感には事欠かないという奇妙な感覚は、一般的なライブ配信における現実のコピーとは全く異なったものだ。

 松井さんのメールの配信については当日の開演数時間前に登録を行ったので、画像を受信する同じPCでメールの確認も並行してできるように準備をしておく。登録したメールアドレスは今回のために使い捨てのものを用意したわけではないので、可能性としては、他のメールの着信が一緒に確認される可能性もあり、それはそれで興味深い経験になっただろうが、現実には、翌朝まで、他のメールはスパムも含めて、当該アドレスには着信しなった。「メールの確認も並行してできるように」とは書いたものの、着信の自動通知はしていないので、着信の確認のためには前田さんの映像が映っているウィンドウから一旦フォーカスを切り替え、かつ手動でメール着信の確認をする必要がある。つまり「詩」がライブ公演の時間を区切り、同時性の確認をするための或る種の証拠として機能するという企図からすると、初めから画像との「同時性」については制限付きの状況にある。一方で、instagramについては、これもtwitter同様、普段使っておらず、アカウントも持っていないため、この文章を綴っている現時点でさえ、ログインしてすべての写真することができないのだが、当日の公演中も、写真を確認することは全くしなかった。結果として、舞台の上を動き回って写真を撮影する麥生田さんの姿を、つまりは撮影行為そのもののみを確認することになった。(従って、本稿では撮影された「作品」としての写真についての言及はないことを予めお断りしておく。)

 舞台上に描かれた五芒星のすこし外側に餌が撒かれ、あちこち動き回っていた鶏が餌をついばみ始めてしばらくすると開演の時刻となり、すると音声が入ってくるようになる。映像の中継は最初のうち、途中何回か「映像配信中です」といった告知の画面が(恐らくは意図的に)挟まる以外は滞りなく受信されて、その意味での連続性が途切れることはなかったように記憶する。

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 開演後しばらくは『五芒星』の演奏・パフォーマンスが続く。四角形が五角形になった違いはあるけれど、舞台の上の動き、カラーパイプの音(これも今回はガムランの音階に調律されたので、厳密には従来とは異なるのだが)、進行を監視する「悪魔」の存在、間歇的に起きる拍手といった要素は、三輪さんの同じ系列の先行作品で馴染みのものである。五角形になったために出来た中央のエリアには、「鶏の精」たるダンサーが座り、頂点から出発して中心の近傍を通過して反対側の頂点に移動するパフォーマーは、中央のエリアをかすめる際に五芒星の頂点において柄杓に掬った「清めの白粉」をダンサーに振りかけ、「防疫」を行うが、この所作もまた、例えば『みんなが好きな給食のおまんじゅう』で、こちらは四角形の中心に立つ人間の口に強制的に押し付けられるおまんじゅうの変形と捉えることができるかも知れない。ガムランもまた然りだが、従来との違いとしては、今回はガムランの演奏もまた舞台の上のパフォーマンスと同じ状態遷移の規則から直接導かれたものとのことで、音響的には、例えば『59049年カウンター』のそれが重層性や広がり、そして暖かみを感じさせるものだったのに比べると、よりコヒーレントで禁欲的なものに感じられるのはそのせいかも知れない。この印象はネットワーク越しに聴いていたからに過ぎない可能性もあるけれど、一度きりで後で映像や音響の記録を再確認することができない以上、それを確認する術もなく、だがそうした私の不正確な印象は措いても、作品の構造上のコヒーレンスの点で、この作品はこれまでの三輪さんの先行する様々な作品の集大成と言えるのではないかと思われる。

 ガムランの楽器の中核は各種の金属質の打楽器であり、一部で膜質打楽器が、更には「生の声」の代理でもある擦弦楽器(ルバブ)が加わるが、特に打楽器群の音響は、直接会場の空気の振動として伝わるのと、如何に同時とはいえ、録音されたものを手元の端末で再生するのとでは全く質感が異なる。映像と同様(或いは映像との相互作用の結果かも知れないが)、それもまた夢の中とか回想の中で聴覚印象が心内で再生されるのに近いように感じられる。リアリティを欠いているというより、リアリティの質が変わってしまっているように感じられるのだ。とはいうものの子供の頃以来、何十年も「録楽」に慣れ親しんで来たせいか、不自然さを感じることはない。

 途中、舞台上でのパフォーマンスにエラーが発生して、演奏が止まり、誤りを訂正して再開となる。エラーはその後も何度か発生することになるが、いわば「想定内」の事態であり、悪魔が誤りを検出し、ゴンを鳴らしてパフォーマンスを中断し、一旦は音楽的時間の持続は断ち切られるが、やがて何事もなかったかのように再開する。結果としてそれは時間の流れの方向を変えたり、別の状態への遷移を惹き起こしたりすることはないように感じられる。

 これは私の環境固有の問題に起因するのだが、メールによる「詩」の着信についてはちょっとしたハプニングが起きた。使用しているメーラーには迷惑メールの自動判定機構が備わっているのだが、どの判定ルールに抵触したものか、最初の着信が迷惑メールとして判定されたのだ。迷惑メール用のフォルダからメールを受信箱に戻し、システムにそれが迷惑メールでないことを通知してしばらくすると、二通目以降は普通に届くようになった。一方でメールの着信のタイミングを確認する限り、『五芒星』の状態遷移の時間の流れと同期しているようには全く見えなかったため、「日知り」の意図(つまり、どういうルールでメールの送信タイミングを決めているか)は読み取れず、不思議に感じていた。この件については、今回の上演が「単なるライブ中継」ではないことを示す興味深い事実が後で判明したので、その点については後程報告したい。

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 私の個人的な体験を、この調子で同じ詳細度で時系列に沿って語り続けるのは煩瑣なだけで、報告としても意味あることとは思えないので、以下では気付いた点をトピック的に述べることとしたい。先走って行ってしまえば、私個人としては、とにかく無事に最初から終わりまで立ち会うことができ、この「出来事」の傍観者、証人としての最低限の責任を果たしたような気持ちになり、ほっとするとともに、翌日は(普段の生活リズムとはかなり違うことをしたせいもあってか)ちょっと気が抜けたような状態になった。といっても今回は、演奏が行われているその場で咳一つして空気を振動させることさえも私はできなかったわけで、(正直に言えばしばしば苦痛を伴う)場所の移動がなかったこととともに、その点が通常のコンサートでの経験との決定的な違いだったように感じる。

 ライブ配信を視聴しつつ感じたのは、自分の反応が相手に伝わるかどうか―例えば、咳をすれば会場の空気を伝わって、舞台上にも、他の客にも聞こえてしまうわけだが、そういうことはライブ配信の視聴においては生じない―もっと言えば、具体的なインタラクションが生じるに至らずとも、単に自分が見られていると思うかどうかという事さえ、臨場感にとってプラスに機能するのではないかということである。技術的な制約もあり、現在のネットワークや機器の性能から、参加人数がさほど多くない場合に限定されるだろうが、例えば視聴する側もカメラをONにして、会場からも他の視聴者からも見えるようにするだけでも違いは出たのではないかというようなことを、これは後知恵ながら考えもした。例えば、客席に大きなスクリーンを張って、そこにネット接続して視聴している人たちをギャラリー・ビューの形態で映し出せば、少なくともZoomでのWeb会議と同程度の緊張感は生まれたのではなかろうか。そんなことが足しになるものかという反論がありそうだが、コロナ禍でzoomでの会議が普通になれば、その状況に適応して、それなりの空気感を感じ取れるようになる程度には、人間の認識のモードというのは柔軟性があり、勿論、対面で直接会って話をするのと同等とは行かないにせよ、単なる音響の記録に過ぎない「録楽」を「音楽」と同一視して疑わない程度には、そこに「現実」を見出すようになるのではないかというように思わずにはいられない。

 ここで問題なのは、「あたかもその場にいるような」臨場感のある映像の見せ方ではなく―それならそれで『もんじゅはかたる』で用いられたような拡張現実用のゴーグルを用いるなど、技術的手段はあるだろうが―、画像の方は、今回前田さんが意図してそうしたように、疑似現実感を拒否して、寧ろ「見たまま」のそれとは異なった別の現実を提示しようとするものであったとして、あたかも夢の中の人物に見つめられて見つめ返すように、そこにサーキットが構成されるという点である。所詮は「因果性」も「自由意志」と同様に、主体の抱く「感じ」に過ぎないのであれば、それを惹起するような回路さえ確保できていれば、「同時的」な出来事であると同時に、それゆえに「事後的に」しか受け取ることができないという、リアルタイム配信された画像を一方的に受け取るだけの時に生じる疎外感は(決してその場限りの誤魔化しなどではなく)解消できるのではなかろうか。

 実際、メディアによって通信にかかる時間的なコストは異なるが、時として、電子メールですらない「往復書簡」のような媒体を通じてさえ、否、比喩ではない文字通りの「投壜通信」ですら「同時性」を、他者の息遣いを感じることは可能であろう。リアルタイムではない、電子メールや往復書簡、投壜通信といったメディアもまた、それ固有の時間を持ち、固有の「同時性」を、「現実」を持つと考えるべきであり、そこではそのモード固有の「自己」が都度生成されるのだと考えるべきではなかろうか。実演にその場で接することの替わりにそれらがなるという訳ではなくとも、現実に、言語能力を獲得し、文字を使用し、自分の直接経験できる世界を超えて、自分の生まれる以前の過去や自分の死後の未来についての了解を持つようになった人間は、実際に多重の時間の流れを、その分岐や合流を現実に生きている筈である。そう思えば、今回の試みは、新型コロナウィルスの蔓延によってこのような環境におかれたことによって偶々可能になったとも言える新たな「現実」と対峙することにより、稍々もすれば通常の演奏会の経験からは喪われ、その存在が忘却されがちであった、人間の心の奥底に潜んでいる何物かを見出すためのエクササイズではなかったかと思えるのである。

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 公演全体の構成について言えば、『五芒星』の演奏と並行して、オケゲムの『レイクエム』、霊界ラヂオとボイス・パフォーマンス(『海ゆかば』)、『もんじゅはかたる』『流星礼拝』が順次上演されるという事前の説明を聞いた私は、うっかりして(良く考えれば三輪さんがそうしたことをしないことはわかりそうなものだが)、例えばケージのナンバーピースのように、本当に複数の作品が音響的にもオーバーラップするものと思い込んでいた。その結果として『五芒星』の音楽的時間がコンサートの開始から終わりまでを支配し、音響的にも、或る時には背景としてであれ、途切れることなく持続するものと何となく思っていたこともあり、オケゲムのレクイエムが、舞台の奥、オルガンの演奏卓が設置されたバルコニーで始まると同時に、ガムランの演奏が止んだことに一瞬、虚を突かれた感じになった。勿論、舞台上のパフォーマンス自体は続いており、説明に偽りはないのだが。

 オケゲムの『レイクエム』の演奏によって私の中に呼び起されたのは、以前サラマンカホールを訪れて、その場で実演に接したペルゴレージの『スターバト・マーテル』第1曲のMIDIアコーディオン(アルト)と人声(ソプラノ)による二重唱(オルガン伴奏)のことだった。(2015年9月12日、三輪眞弘がフェスティバル・ディレクターをつとめた「電子音響音楽祭」にて。その時の感想は、本ブログの記事「サラマンカホールでフォルマント兄弟編曲によるペルゴレージ「悲しみの聖母」を聴く 」https://masahiromiwa-yojibee.blogspot.com/2015/09/blog-post.html として公開しているので、詳細はそちらを参照されたい。)今回は、本来は全て人声によりアカペラで歌われる作品が2台のアコーディオンによる人工音声とオルガンによって演奏されたのだが、サラマンカホールとオルガンとが、本来どのような場所であり、楽器であり、どのような作品が演奏されることを目的としたものであったかを思い起こさずにはいられないという点は、以前に電子音響作品を聴いた後でペルゴレージの『スターバト・マーテル』を聴いた時にも抱いた感慨である(それは要するに、ガムラン音楽はこうしたホールにはそぐわないように感じられたということに他ならない。ガムラン音楽については私はほぼ何の知識の持ち合わせもなく、単なる思い違いかも知れないが、それは寧ろ野外で演奏されるためにあったのではないかという気が何となくするのである)。だが前回のコンサートとの決定的な違いは、前回が人間とMIIDIアコーディオンの重唱であったのに対して、今回は人声が全く排除されていることである。そもそもMIDIアコーディオンの重唱が行われたのは今回が初めてとのことであったが、人工音声とともに響くオルガンの音色は、それもまた(ラテン語の歌詞こそ歌えないものの)人工音声の一種であるかのように感じられた。尤もオルガンは、そもそもがフォルマント合成に近い発想で多彩な音色の変化を可能にしている楽器であって、予めハードコードされたシンセサイザーの祖型のような存在であり、(今回の演奏における音栓の選択は公開されてないが)もともと人声を模した音色さえあることを思えば、そうした印象は当然なのかも知れず、ここで追悼されるべき音楽のいわば「アイコン」である筈のオルガンが、逆説的にも、実は人工音声合成の試みの遠い先駆であったことを寧ろ想起させてしまう、或る意味では皮肉な事態が起きたようにも感じられた。第一義的には奏者お二方の超絶技巧の賜物なのだが、歌詞が典礼文であることもあり、更にはネットワーク越しであることも手伝ってか、MIDIアコーディオンによるラテン語の歌唱はこれまでにも増して自然に感じられた。その声は性別を欠いたような奇妙なものであり、モノクロの映像の効果もあってか、「今、ここ」で行われている現実の儀礼に自分が立ち会っているという感覚は希薄であり、やはり夢の中で聴いたかのような質感を帯びていたように感じる。

 オケゲムの『レイクエム』の演奏が終わると、再びガムランの音色が戻るが、舞台上でのパフォーマーが交代しただけでなく、ここでテンポが変動しているのは、『レクイエム』の演奏が『五芒星』に干渉してもたらした変化というように感じられた。その一方で、舞台上の状態遷移の順序の方は変化することなく、事前に定められた通りに行われ、誤りが発生すれば、それを訂正して再開、という動作が繰り返される。続いてフォルマント兄弟の『霊界ラヂオ』の「演奏」と、MIDIアコーディオンによる『海ゆかば』によるボイス・パフォーマンスが始まるが、ここでネットワーク越しに聴くMIDIアコーディオンは、それが本来帯びている筈の「身体性」―それが機械であることを考えればこれは適切な言い方ではないのだが、にも関わらず、そのように呼ぶのが適切という他ない、不思議な存在感を備えていることを私は以前の幾度かの実演で経験しているので、敢えてこういう言い方をさせてもらうことにする―が、どこかに消えてしまう一方で、それが「ラジオ」の形態をしていることによって、響いてくるフォルマント合成の結果があたかも霊界からの幽霊の声に聞こえるという趣向と思われる『霊界ラヂオ』との差異がぼやける印象を私は持った。想像するに、どちらも人工音声合成技術を用いた2つの「楽器」によるこのパフォーマンスは、その場で実演に接してでないと、その微細な差異が喪われてしまうのではないか。「生演奏」の場合とは逆に、映像そのものがリアルタイムの現実というよりは、夢ともうつつとも判別し難い肌理を備えた今回の公演では、それを「幽霊」であると言うならば、その場で演じられている筈の『五芒星』すら幽霊性を帯びずにはいなかったような気がするのは、私の個人的な印象なのだろうか。「生演奏」であれば、恐らくは舞台の空間の只中に特異点が生じて、そこから異界からの声が響いてくるインタフェースとしてラジオという機械=メディアがあるのだとは思うのだが。端的に言えば、ライブ配信の形態をとったことで、こと私にとっては、「幽霊」の声が響いてくるのがラジオからではなく、目の前にある端末としてのPCからであるという当たり前の事実が妨げになっているように感じられるのだ。ここで思い当たるのは、「録楽」で聴く『歌え、そしてパチャママに祈れ』と実演での聴体験のコントラストである。今回の公演の中においても、このパフォーマンスについてだけ言えば、会場のマイクが拾った音ではなく、ラジオが発した音をそのまま送信する、或いは更に―実際にそのようなアイデアも検討されたと聞くが―、いっそのこと受信者の手元にあるPCが勝手に呟きだすといった、空間の多重性を逆向きに縮減していく方向性の趣向の方が私にはより興味深く感じられたのだが、実際に接してみると尚一層、そうしたオリジナルの企図が実現しなかったことが惜しまれる。

 ところがそうした空間の多重性の印象は、或る意味では逆説的な形をとって、次に演奏された『もんじゅはかたる』においては確かに起きたような気がするのである。
 
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 『霊界ラヂオ』が終わると、またもや『五芒星』のパフォーマンスにガムランの演奏が重なるのだが、ここでまたテンポが変化して、今度は楽器の種類も変わる。既に開始から2時間近い時間が経過していて、時間の感覚が麻痺しつつあるが、テンポの傾斜もまた、時間が停滞していくような印象を強めていたように感じられる。視覚的には、悪魔がパフォーマンスの間違いをチェックする「帳面」(といってもカメラ越しに書いてある内容が確認できるような巨大なものだが)が最後のページに到達し、その中途の「(Da Capo)」と書かれた終点に状態遷移の系列が近づいていることが確認でき、2時間と20分位が経過した時点で『五芒星』のパフォーマンスは一旦終わってしまう。悪魔はそれまでチェックしていた「帳面」の紙を引き裂くように剥ぎ取ってしまい、その後の舞台には暫し沈黙が支配する。そしてその沈黙の最中で舞台の向かって右手前の位置にシートが敷かれ、箏が用意され、巫女風のいで立ちで榊を持った奏者が客席から舞台に上がって『もんじゅはかたる』の演奏が始まる。ここで、この公演で初めて、人工であったり代理であったりするのではない「生の」人の声が舞台に響き渡るのである。

 ここで私が咄嗟に思い浮かべたのは、一つには、これまた上でも触れた以前サラマンカホールを訪れた際のことだが、ペルゴレージの『スターバト・マーテル』の後に演奏された、さかいれいしうさんの歌唱による架空の新興宗教の歌という体裁の独唱曲『訪れよ、わが友よ』であり、もう一つには、その後、名古屋での公演に接したモノローグ・オペラ『新しい時代』の終わり近くで響いた同名曲の、これも同じくさかいれいしうさんによる独唱であった。正直に言えば、公演の進行に対して、私はこの時点でかなり混乱していたように思う。まず最初にも述べた通り、私は当初、公演の全体を『五芒星』が音響的にも覆うのだと思っていた。その思い込みはオケゲムの『レクイエム』の地点で覆されたのだが、それでもなお、公演の途中で『五芒星』が終わってしまうとは思っていなかったのだ。そして、(これも考えてみれば迂闊であって、初めからわかりきっていたことにも関わらず、)『もんじゅはかたる』で「生の声」が舞台上に響くことになることを、すっかり失念していたようなのである。その理由の一つは単純で、三輪さんが「生演奏」以外で、生の人間の声を用いることはない、という或る種の「規則」が念頭にあったためだと思う。最初に述べたように、今回はライブ配信であり、その限りでそれは「音楽でないもの」である。しかるがゆえに、そこには生の人間の声が入り込む余地はない、とそのように思い込んでいたところに『もんじゅはかたる』が始まってしまって、そこでは「生の声」が舞台上に響き渡るという当たり前の事実に慌てふためいたのだった。

 だがその混乱に更に追い打ちをかけることが立て続けに起きる。『もんじゅはかたる』では、奏者は演奏の間はAR用のゴーグル(ホロレンズ)を付けており、その意味では舞台上にはいないのだ。にも拘わらず、「声」だけは、まごうことなき「生の人間の声」がその場に響くのを私はネットワーク越しに視聴しており、会場に響いている筈の声はマイクで拾われてネットワーク越し私の耳にリアルタイムに届いている。あたかもメビウスの輪とかクラインの壺のように、時空が捩れて、ネットワークの向こうの演奏会場という「現実」に穿たれた特異点の向こう側に、ゴーグルをつけた人にしかアクセスできないもう一つ別の「現実」があって、しかもそれがネットワークの隔たりを別の隠れた次元で横切って直結しているかのような印象と言えばいいのだろうか。ライブ配信されている筈の歌唱は、だが、そこで生の声が鳴り響いている筈の現場において、実は既に幽霊的に、別の現実から響いてくるものなのだ。幾つもの点で逆転が起きているにも関わらず、やはり「生の人間の声」を巡って通常とは異なった捩れが生じている現場に立ち会った過去の経験としては『新しい時代』が思い浮かぶ。こちらは会場に実際に響き渡って客席の私にも確かに届いた「生の人間の声」が、閉ざされたカーテンの向こう側の(見えない筈の)室内の映像、しかもこちらは意図的に時間的に遅延が起きるように操作された映像に加えて、サンプリングされた「生の声」の変調を交えた再生が交錯していく場面のことを思い起こさずにはいられない。更に言えば、何か見聞きしてはならない秘儀の一部を、禁忌を破って聞いてしまったような印象は不思議と両方に共通していて、何か既視感のようなものすら覚えたように記憶している。そして恐らくはそのことと関係するのだろうが、以前サラマンカホールの空間を振るわせ、確かにその振動を受けめた「本物」の「人の声」によって歌われるのは、いわばフェイク、紛い物の宗教歌であるのに対して、今回、サラマンカホールの空間の振動を直接感じることができないままネットワーク越しに、いわば「贋物」を聞くしかなかった筈の「人の声」は、『五芒星』の儀礼の後で「ひとのきえさり」を語ることを通して、今しがた終わった追悼の儀礼の後に来るものを用意する、いわば特異点として機能しているように私には感じられたのであった。それは『三輪眞弘祭』を一連の「儀礼」として捉えたときの句読点、一時休止(チェズーア)であり、「息の転換(Atemwende)」であり、追悼から追悼の後に来るものへの推移が起きる瞬間(ただし抽象化された極限としての幅のないそれではなく、有限の持続を持つ、時としてその内側に永遠を包含すると言われもするそれ)のように感じられる。同時にまた、三輪さんの作品はしばしば、それが「奉納」として儀礼性を帯びているが故に「外部」に対しての開口部を具体的な形で持つのだが、今回の『三輪眞弘祭』を一連の「儀礼」として捉えたときにまた同様に、そうした外部への開口部の存在を感じた。今回の場合はその開口部を、私は『もんじゅはかたる』の、こちらからは決して窺い知ることができないAR用ゴーグル(ホロレンズ)の向こう側に見出したということになるだろうか。恐らく、演奏会場で聴く声とネットワーク越しに聴く声は、全く異なったものであるだろう。だが、この作品に関しては、前者が本物であることは果たして自明だろうか。三輪さんが今回のライブ配信のプログラムの中で恐らく例外的にここにだけ「人の生の声」による歌を含めたのには、そういう背景があるのではないかと思われる。

(だが、だからといって、今回のような形態が『もんじゅはかたる』の上演の本来の姿であると言いたいわけではない。これもまたコロナ禍でしばしば試みられたと聞くが、いわば神事にリモートで立ち会うようなものであり、神事が営まれているその場で神事に参加することとの差異は埋めがたい。だがその一方で、傍観者・立ち会い人として、その神事が行われたこと、仮にそれが私のいる「今、ここ」でではなくても、(ネットワークの向こうの)いつかどこかで行われたことが確認できれば、それが神事である限りにおいてはーつまりそれが「外部」に向けられたものである限りにおいては―充分ではないか、その場に集い、直接それを見聞きするというのは、あくまでも社会的動物として進化してきた生物としての人間側の都合に過ぎないのでは、本当にそれが「外部」に向けられている儀礼は、その場での傍観や立ち会いを拒絶する(だからそれはしばしば「秘儀」として営まれる)のではというような気もするのである。そしてそれが後付けの合理化の際の論理的な帰結として得られたものではなく、ネットワーク越しではあるけれど、確かに「生の人の声」が響くのに立ち会ったという点に懸かっているということを確認しておきたい。)

 その印象は『もんじゅはかたる』をうけて、一旦終わった筈の『五芒星』が再開される、その演奏のされ方によって補強される。まずテンポがここで初めて上がる。実際にはそれは前回のサイクルのある部分のテンポと同じであり、客観的には一旦落ちた果てで停止したものが文字通り再開したということなのだが、だからといって同じことの繰り返しというわけではない。寧ろそれは、この文脈においては、全く異なった新しいテンポであるというべきであり、単に速度の変化に留まらず、最早誤りをチェックする「悪魔」の姿は見えず、パフォーマーは最早、五芒星の中心の近傍を通過しても「清めの白粉」を「鶏の精」にかけて「防疫」することを止めてしまう。ネットワーク越しのモノクロの映像を通しても、その場の空気の調子が変わったことは伝わってくるように感じられる。

 しかし、なおも続けて疑問が頭をもたげてくる。時間は既に開始から2時間30分が経過している。終演は26:00の筈なのに、このタイミングで2周目を開始して、最後はどうするのか?ライブ配信は終えるが、舞台の上での儀礼はその後も続くのか?こうした問いは、今度は『流星礼拝』のサイン波による「神の旋律」がオーバーラップして置き換わっていくことによって一旦遮られる。これについてだけは或る意味でもともと自分がイメージしていた終わり方なのだ。『五芒星』がフェードアウトして、『流星礼拝』に変容していく。だが、それと同時に、サラマンカホールの以前の公演において歌曲の独唱が終わった後、オルガンが「神の旋律」を奏し始めるのだが、しばらくするとそれがスピーカーから流れる音に置換され、その音が徐々に変調して最後はサイン波になったことをふと思い出す。私が持っていたイメージの根拠はそこにあったというわけだ。ちなみにその時には、会場全体の空気を直接震わせていたオルガンの音がスピーカからの音響に切り替わった地点があからさまに聞き取れて、そこに生じた断層のようなもの―その場で鳴っているオルガンの音と、スピーカーの向こうの「異界」から響いてくる音の質的な隔たり―に気付かされたのだったが、今回は、最初から「ライブ配信」であるが故に、そうした断層はあからさまなものとはならない。

 もう一つ『もんじゅはかたる』から『流星礼拝』に引き渡されたものがある。それは鈴の音だ。『もんじゅはかたる』では、扇風機の風によって鳴り響いた風鈴の音が、『流星礼拝』では、「神の旋律」に反応して発生する電気刺激によって、奏者の腕に装着された鈴が、いわば受動的に不随意的に鳴らされる音に置換されるのだ。ここに至って時間を支配するのは永遠に続く「神の旋律」となり、従って、いつ終わっても違いはなくなり、ライブ配信は終わり、あとは「布教放送」に引き継がれることが宣言されて公演は終了となる。時刻は25時50分くらいだったろうか。急に夢から醒めたように、PCの画面から映像が消え、自分がリモートで自宅でライブ映像を受信していたことに気付く。

* * *

 だが実を言えば、私にとって疑問はすっかり解消されたという訳ではなかった。まず『流星礼拝』に先行して再開された『五芒星』の行く末が気になる。「またりさま」がそうだし、より一般にはヴォルフラムのセル・オートマトンが良く知られているだろうが、同じ状態遷移規則に従うにしても、初期値によって得られる系列は異なる場合があり、この場合も、今回の上演で用いられた1980ステップで初期状態に戻る系列以外の系列があるだろう。二回目としてそうした別の、より短い周期を持つ初期値を選択する可能性を考えたのだが、三輪さんに後で確認させて頂いたところによれば、実際にはそうではなく、全く同じ初期状態から始めたとのことであった。実際、私が思いついた選択肢が選択されたならば、「日知り」のための松井さんの詩の配信―それは後述するように、実際には全部で15回行われたのだが―はもう1回余計に為された筈であり、なおかつその追加された1回は、他の回とは異なった状態遷移過程のログとなった筈である。だが実際には配信は15回、最初の周期がクローズするまでに限定して行われたのであり、再開された二回目については最早「日知り」が行われることはなかった。逆にそのことによって『もんじゅはかたる』において生じた亀裂の後、二回目が、一回目の単なる反復ではなく、別のものであるという私の印象が裏付けられたようにも感じた。

 だがそれは松井さんの詩の配信について起きたことが了解できた後の話であり、ライブ配信が終わった時点での私の最も大きな当惑の種は、既に述べた通り、寧ろ松井さんの詩の配信の背後にある規則についてであった。「日知り」として暦のような周期性を知らせる役割を果たすことが意図されていたかに見えて、実際には着信のタイミングからはその規則が全く予想できず、かつ詩の「内容」たる状態遷移の系列との関係もまた不明なままであった。後で紹介するように、着信の順序で並べたとき、一見したところ昇順に排列されて最後に0に戻っているかに見える「詩」の「標題」にあたるメールのサブジェクトも、途中で順序が入れ替わっている部分があり、その入れ替えが持つ意味合いもまた掴みどころが全くないのである。だが更なる困惑が、公演の翌朝、普段通りにメールの着信を確認した時に起きた。松井さんからのメールは、公演が終わった後も何通か届いており、最後の着信は終演後1時間以上が経過した3:12であったため、再び私はライブ配信が終わった後も、布教放送の背後で儀礼は継続していたのではないかという疑問に捕われたのである。この疑問は、三輪さん、松井さんに経緯をメールにて尋ねたのに対して回答を頂けたことにより解消したのだが、判明した事実は、今回の公演の狙いを踏まえると非常に興味深いものと私には思われたので、対応頂いたことに対する謝意も込めて判明した事実を記録しておくことにしたい。

 先に質問のメールを送ってみて、後からふと気付いたのは、別に問い合わせるまでもなく、電子メールなのだからヘッダを見れば発信の時刻はわかるだろうということだ。そこで早速調べてみると、以下のようになっていたことが確認できた。

 以下、各行が1通のメールの情報を表し、左から1列目がメールのサブジェクト(ここでは詩の題名だが、これは演奏が始まった時点を起点とし、各メールの詩が「書かれた」時点の15進表現であり、いわばタイムスタンプの如きものとのことで、従って昇順に規則的な増分を持った等差数列を形成する)、2列目が演奏会場で行われたメールの発信時刻、3列目が私の端末へのメールの着信時刻である。視聴の記録ということだと本来は順番は着信順にすべきだが、ここでは第1列と第2列の持つ規則性のわかりやすさを重視し、送信順に並び変えた。実際には演奏会場でのメールの送信は、宛先がプロバイダが規定する1回あたりの送信先数の上限を超えたために、1通につき2回に分けて送信されたとのことで、私が受け取ったのはそのうちの一方ということになる(だがそのことは、原理的に受信した私には知りえないことである)。メディアの制約により演奏の進行の周期性によって行われる筈の持続の分節そのものが、実は初めから2つに分裂していたことになる。否、寧ろ「詩」の配信という経路における時間の流れ方は他とは異なっていて、その結果、「同時性」の定義もまた、個々の時間の流れ毎に異なると考えるべきなのだろうか。いずれにせよ既に配信の段階で、演奏の時間とも、それに対して時点をラベリングすべくタイトルが書かれた時間ともずれていたということになる。

24E 23:11:39 23:12:33
4A5 23:19:25 23:20:19
711 23:28:16 00:01:46
972 23:37:40 00:02:00
BE5 23:46:54 00:35:28
E27 23:55:09 00:57:26
1167 00:03:36 01:31:34
13A2 00:12:12 01:31:41
15EA 00:20:45 02:12:42
1854 00:29:28 02:13:06
1AAB 00:38:22 02:09:42
1CEB 00:46:57 01:42:16 
2039 00:55:16 02:54:18
2287 01:03:59 02:54:44
0    01:17:45 03:12:49

 これを見てわかることは、大幅な配信の遅延が起きただけではなく、―そういう場合にしばしば起きることだが―、発信の順序すら保存されず、先に発信したものが、遅れて着信する順序の逆転が起きているという事実である。一方、送信側に注目すれば、ほぼ8分と数十秒間隔で規則的に発信されており、まさに「日知り」を意図したことが窺える。「詩」の中身は、松井さんが事前にテキストで告知した通り、演奏の「ログ」、より正確には舞台上の状態遷移過程自体を数値で表現したもので、1行が1ステップにあたり、132ステップが1単位で1編の詩として配信されたようだ。これが15回繰り返され、132×15=1980ステップで完全に初期状態に戻るのだが、15通のメールの本文を比較すればただちにわかるように、15個の部分(「ターン」と呼んでいるとのこと)の間にも対称性が存在し、パフォーマーのIDを無視した移動パターンに注目すると5種類のパターンが各3回繰り返されるし、同じものを今度は移動するパフォーマーのIDの順序に注目すると3種類のパターンが各5回繰り返されるという非常に美しい構造を持っており、詩の区切りは、状態遷移パターンが持っている周期性を反映したものとなっていることがわかる。松井さんが事前に告知したテキストのうち「周期性(Κλειώ)が時間(Κρόνος)を制定する」という部分がまさに企図されていることがわかる。しかしながら実際にはメールの配信が大幅に遅延したことにより、「周期性(Κλειώ)が時間(Κρόνος)を制定する」という意図は着信側からは読み取ることができなくなったのである。何しろ周期性が前提としている無時間的な順序(「逆シミュレーション音楽」では規則の生成の相であり、ライプニッツにおけるモナドの世界の秩序に相当する)が保存されないのだから、「規則」が与える順序に対して具体的な持続の測度を導入する「解釈」において、致命的なエラーが生じたようにも見える。

 だがそれでは、これは意図を無効にするようなトラブルだったのだろうかと言えば、同じ松井さんの文章の中に書かれている詩の意図を確認すると、必ずしもその限りではないことが読み取れるようなのである。そこでは「演奏された時間、タイトルが書かれた時間、配信され受信される時間、メディア越しに見える時間の差異の際立ちにある」と述べられているが、メール配信の遅延によって、ライブ配信の前提であった筈の同時性が、いわば脱臼させられ、単に時間の流れるスピードが変わるのみならず、本来なら測度が与えられても保存される筈の順序さえ逆転してしまい、メディア(媒体)を通過することにより意図せず偶然に編集・加工されたものが着信側には「現実」の時間の流れとして認識されたということであるから、「メディア越しに見える時間の差異の際立ち」については寧ろ申し分なく達成されたという見方すら成り立つのではなかろうか。それを遅延やトラブルとして「本当はそうではなくて、こうなる筈だった」と捉えるのではなく、むしろ今回の上演の中に存在する複数の時間の流れのうちのある部分においては、他の部分とは時間の流れ方が違っており、事後的にみると「同時性」が破綻し、「現在時」の分岐が生じていた、そしてその結果、ある部分においては(私は実際に、一度はそのように考えたのだが)、別の部分での上演=配信が終わってからも儀礼が続いていたというように捉える方が、今回の上演のコンセプトには即した見方なのではないかと思うのだ。ちなみに言えば、送信されたメールは文字通り複製されて、メールの配信を希望した複数の人間にばら撒かれた訳だが、着信の時間は、確認のネットワーク上のトポロジー上の位置であったり、各自の端末の環境であったりに応じて、それ自体の中で差異を孕んだものであった筈で、それはこの公演の配信を受け取った人の数だけ、異なる時間の流れが生じたということに他ならない。

 実は私がこの企画のお話を伺った時に思ったのが、そもそも認識における「現実」というもの自体が、実は無意識的に仮構されたものであるという心理学的な事実であった。わかりやすい例で行けば視覚における「盲点」のことを思い浮かべても良いし、一見すると絶対的なものと思いなされる時間的順序の認識ですら、ベンジャミン・リベットの有名な実験の結果が示しているように、意識下で行われた編集作業の結果であることは、今や良く知られた事実となりつつある。勿論水準は違うけれども、まさにリベットの実験の結果のような「時間の差異の際立ち」が今回のライブ配信において確認できたことは特に印象的であった。

 既に述べたように、コロナ禍においてコンサートホールに集まった観客を前にした上演が不可能となった状況に対して、今回の『三輪眞弘祭』の企画は、無観客のコンサートホールでの上演をその場で経験できたに違いない「現実」に出来るだけ近づけるべく、「リアリティ」を追求する方向を目指すのではなく、メディアを介した配信も含めたプロセスの全体を「作品」として捉えることで、通常の様式での演奏では経験不可能な新たな「現実」を構築し、提示することを試みたと言えるだろう。その観点から、今回のマルチモーダルな配信の一つであった「詩」の配信において上記のようなことが起きたことは、どのように位置づけられるだろうか。

 『霊界ラヂオ』のところでも触れたが、企画の途中では、単なる配信に留まらず、ネットワーク越しに、受信側の端末でMIDI音源をリモートで再生させるようなことも検討されたという。容易に推測されるように、そうした試みはセキュリティ上の問題を惹き起こす可能性があることから、セキュリティ面を配慮した配信を行うための技術的な工夫が必要となるだろう。実際にはそうした試みは実現せず、配信自体は一見したところありきたりのライブ配信の形態となったようだが、通常自明と考えられている「同時性」や「リアルタイム性」を、ひいては「リアリティ」を揺るがせ、聴き手が(ここではネットワーク経由で)パッケージ化されたコンテンツを受け取るというコミュニケーションの図式を問いに付し、それらが仮構されたものであることを示す批判的な意図は、全体の上演の構成の点でも、映像の点でもそうであるのに加え、詩の同時配信というマルチモーダルな試みにおいて偶々発生した―だが、この発生は想定外ということはなく、寧ろ起こりうることは十分想定可能だった筈である―トラブルを通してもまた、達成されていたのではないかと私には思えるのである。

* * *

 というわけで、3時間(ただしメールによる「日知り」モードについては更にその後も)にわたるライブ配信の間、色々なことを感じたのだが、敢えて全体としての印象の整理を試みるならば、映像に関しては、敢えて臨場感やライブ感の追及から背を向けて、「いつそれが起きたか」に関する感覚を宙づりにすることで、例えば夢も生きられる一つの「現実」であるといった意味合いでの「出来事」のリアリティを追求していたように感じられた。複数のカメラを用いた視線の切り替えについても、コンサートのライブ中継で同様のことが行われるのとは異なった感触(夢の中での時間の流れの不完全性の印象に近い)が感じられたように思う。ただしそれが例えば映画のような「映像作品」が持つ固有の時間の自律性とどう違うのかについては私には判断がつかない。確実に言えることは、それが(実際には可能なのかも知れないが、少なくともさしあたりは)録画されたものを再生する(映画を何度も見るとに近づくだろう)ことが出来ない以上、私にとっては、夢から醒めた時に自分が見た筈のずの出来事の朧げな痕跡を辿るのと同じことしかできないということである。

 一方でそうした映像と比較した時、音響については、正直に言えば、やはり「録楽」に接した時と同じような感覚を持たざるを得なかった。詳細はわからないが、会場で演奏された音をマイクで拾う他ない作品と、そうではなく、音源からの音を直接流すことができる作品という区別が今回の場合には存在したように思うのだが(電子楽器については論理的には後者が可能であるように思われる)、いずれにしてもネットワーク越しに聴いた当然の結果として、全てが幽霊性を帯びてしまい、例えば『霊界ラヂオ』とMIDIアコーディオンによる『海ゆかば』の朗読との間にあった筈の微妙な差異、会場においては否応なく生じてしまう、何が鳴っているのか、どこから音が聞こえているか、どのように音が空気を伝わるかということに関する微妙な差異が消えてしまうような印象を避け難く抱くことになった。もしかしたら、そのあたりについても実は非常に繊細な操作が行われていたのかも知れないが、私のPC端末と、何より(あまり立派な性能を持つとは言い難い)私という「端末」の限界からか、もしそれがあったとしなたらば、私はそれを捉えそこなったことになる。だが開き直る訳ではないが、それ自体は―特に後者は―実は実演に接した時にも起きている問題だから、今回のライブ配信の「せい」だという事はできないだろう。その中で私にとって印象的だったのは、会場に響いたとはいえ、ホロレンズの向こう側の世界から響いてきたものでもある『もんじゅはかたる』の「生の人の声」が、或る種の特異点のようなものとして、本来は(これも実質はマイクで拾った音をネットワーク越しに聞いているのだから)存在しない筈の差異を感じさせ、時間的にも亀裂を生じさせていたように思えたこと、それに対し『霊界ラヂオ』の方は、三輪さんの先行する幾つかの作品で同じように「特異点」としての役割を担ってきた機械=メディアの一つであるにも関わらず、今回は(寧ろ、意図された通りというべきなのかも知れないが)特異点としては機能せず、ラジオの向こう側(それは、受け手とトポロジー的には対称的な、演奏会場の外にあるネットワークかも知れないが)としての「外部」を指し示しているようには感じられなかったのが、或る種の違和感として残っている。実際には映像と同様に、音響に関しても途中で様々な操作・加工が行われたものが届いている筈だし、それを際立たせるために、それとわかるノイズの除去や変調をしたり、或いは遅延させたりといったことをやればいいというものでもないだろうが、電話越しの声やラジオ放送、更には「録楽」に慣れきってしまっているからか、更には新型コロナ禍にあってzoomでの会議などでネットワーク越しの会話に適応してしまっているからか、或いはそうした環境にも関わらず、臨場感ということに関して、耳の方が遥かに保守的で頑固であり、演奏会場でもスピーカからの音と、その場で鳴る楽器の音を同時に聴くことに対して強い違和感を感じるというような事情が影響してか、結局のところ「コンサートホールでの実演は、ライブ配信とはやはり違うのだ」という平凡な事実を突きつけられることになったようにも思える。

 だが初めからそのように告知されていたことを踏まえれば、「これは音楽ではない」ということの提示として、「音楽」の追悼として、更には、今回はそれに直接接することができなかったが故に「…かもしれない」「…という夢を見た」という括弧に入った形ではあるけれど、「音楽」が持っている力、持ちうる力が反語的に浮かび上がってくるという点で、今回の試みは強い説得力を持つものであったように感じる。してみるとここでは、もともと三輪さんの作品の多くには、「…という夢をみた」という由来が伴い、「逆シミュレーション音楽」の3つの相においても「命名」が「音楽」を構成する必要条件として規定されている(「命名」を欠いた「規則」の「解釈」は、未だ「音楽」ではない)ことを思い浮かべ、今回経験したことを反芻してみるべきなのかも知れない。

 「詩」の同時配信については、改めて繰り返すまでもないが、メール配信の遅延により、図らずも(松井さんは、実はそれをある程度予想していたかも知れないが)、「場の共有」や「同時性」や「リアルタイム性」が実は仮構されたものであることを暴き立て、ライブ配信のフレームを揺さぶり、複数の時間を浮かび上がらせた点で、得難い経験をすることができたように感じる。

* * *

 鶏の存在もまた、舞台の上で複数の時間が流れていることを感じさせる点で、実に印象的だった。当たり前のことではあるが、彼らは別にホロレンズを付けなくても我々とは別の現実を生き、別の時間を生きているのだ。そして彼らは粉まみれで五芒星の中央に崩れ折れてしまうダンサーが自分達の精であることを知らない。そうした彼らが、平常時には居られるはずのないコンサートホールの舞台の上を、自分の興味の赴くままに歩き回り、時として演奏の妨げにさえなりそうになる姿は強い印象を残す。もともとが芝居小屋という由来もあってか、オペラ等では本物の動物が舞台に登場する場面にもしばしば出くわす(鳥ということなら、例えばペルゴレージのアニヴァーサリーにゆかりの土地であるイエジで上演された彼のオペラの一つ『シリアのハドリアヌス』では、よく調教された鷹が歌手とともに舞台に登場したことが思い出される)が、ことコンサートホールに関しては通常時ではそもそも考えられないことであり、このような状況下とは言えそれが実現したのも、これまでも三輪さんとのコラボレーションを行ってきた実績の積み重ねがあってのことだろう。だが結果として鶏たちの存在がこの公演にとって不可欠であったことは、上演に立ち会った多くの人間が同意することと思われるし、そうした継続的な関係こそが、このような状況において意味を持つのだということが実感させられる。今回ネットワーク越しに垣間見たホールは、以前訪れたあの美しいホールとは些か異なるものであった。だが、状況に呼応して、このような「変容」が達成できたという事実が今後のポストコロナでのホールの在り方に及ぼすものは決して小さなものではないに違いない。無観客での開催、無料での配信ももちろんのことだが、そうした点についてもホールのこれまでの活動と併せ、今回の英断に敬意を表したい。

* * *

 以上をもって、私が当日経験したことの記録を終えることにする。上に記したような、その場で感じたこと、記録を綴る途上で思ったことはそれとして、この出来事を正当に受け止めるためには、別途まるまる一篇の論考が必要とされるであろうが、それについては後日を期することとし、最後にこの上演に関わった方々に対する敬意を感謝の気持ちを記して、ここで一旦、視聴の記録については筆を擱くこととしたい。(2020.9.26-27初稿, 28公開, 12.20演奏者名を追記)

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