2017年12月29日金曜日

モノローグ・オペラ「新しい時代」の再演に接して(前半)

モノローグ・オペラ「新しい時代」

作曲・脚本・音楽監督:三輪眞弘
演出・映像:前田真二郎
フォルマント音声合成:佐近田展康

14歳の少年信者:さかいれいしう
儀式を司る4人の巫女(キーボード):岩野ちあき、木下瑞、日笠弓、盛岡佳子
信者1(映像オペレーター):古舘健
信者2(音響オペレーター):ウエヤマトモコ
信者3(ミキシングオペレーター):大石桂誉

2017年12月9日(土)、愛知県芸術劇場小ホール

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このところ三輪さんの旧作の再演が続いていて、私もそのうち「歌えよ、そしてパチャママに祈れ」の再演、「赤ずきんちゃん伴奏器」「東の唄」の再演には接することが出来た。(その折の感想は別にまとめているのでここでは繰り返さない。)一方で、昨年末に大阪で行われた「新しい時代」関連の一連の作品群の再演には足を運ぶことが叶わなかったが、いよいよ今回、その中核を為すモノローグ・オペラ「新しい時代」の再演ということで、名古屋公演の2日目に足を運んだ。もともとの出不精に加え、今年は是非とも赴くべき僅かばかりの公演を、不慮のトラブルのために二度(一方はマーラーのコンサート、もう一方は能の公演だった)までも逃していて、今回もまたその繰り返しになるか予断を許さなかったのだが、幸いにして会場を訪れることが叶った。

一方で私は、「遅れてきた者」であるが故に、この作品の初演に接しておらず、公演の記録映像とCDに収録された音の記録のみによってしかこの作品を知らないという事情がある。今回が私にとって初めての実演なのである。他方、上述の昨年末に再演された関連作品の一つである「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」は、関連作品群の中は勿論、三輪さんの活動の中でも異例の取り組みといって良い、マルチ・チャンネルスピーカーシステム(とラジオ、ただしラジオの方は寧ろ馴染みのメディアであろう)のための作品であるが、こちらは三輪さんの作品に実演で接するようになってから間もなく、その東京日仏学院での初演に接することができたのであった。

以来10年に亘り、「新しい時代」関連の一連の作品群へのアクセスを試みるべく、幾度となく文章を記してきたのだが、それは三輪さんの活動に関する文章の嚆矢となった「覚え書」において、この作品群に対する疑義を記したことに対する絶えざる問い直しの試みであった。つまりこのモノローグ・オペラを中核とする一連の作品群は、私にとって三輪さんの作品の中で最大の「謎」、最大の「問題」であり続けてきたのであり、それ故、今回の公演に接することができたことに一際重い意義を感じずにはいられない。

私より遥かに長く三輪さんの活動を見守って来られた方々にとって、或は逆に、期間こそ短くても、三輪さんの活動の核心を易々と掴むことができる方々にとって、私のこうした姿勢は不可解なものと感じられるに違いない。実際私も、つまるところそうした逡巡は、単純に個人的な嗜好に起因するのではないかという疑念に対し、最終的には抗弁する言葉を持たないことを認めざるを得ない。そしてもしそうならば、殊更に言葉を重ねる必要がないばかりか、寧ろそれをするに相応しい他の方々に評価を委ねて沈黙する方が良いのかも知れないと思わないでもないのである。

それ故私がこの文章を纏めるのは、第一義的には専ら自分の整理のために過ぎない。にも関わらずこの文章の公開をするのは、この文章の謂わば「前史」を為す公開済の文章群に対し句読点を打つという目的に限られることは最初にお断りしておくべきであろうと考える。強いて言うならば、世上この作品群について語られることがこれまで余りに少なく、更に、17年ぶりという今回の再演の時点から初演の時点を振り返った時の展望について上記のような脈絡を持つ人間が証言することに、ドキュメントとして些かの意味があるかも知れないという思いはある。

初演当時の私は三輪さんの活動を全く知らなかった。単なる偶然のなせる業ではあるが、それ故私は、初演に接した経験をお持ちの方々、三輪さんの作品の最上の聴き手であろう方々とは些か異なった展望を持ってしまっている。勿論それは「赤ずきんちゃん伴奏器」や「東の唄」についても言えることなのだが、こと「新しい時代」については、再演が行われた現時点において、見方によっては「預言の成就」とでも言うべき文脈を再付与されているように思われるが故に、仮に他の方が気付いていないか、気付いていても(もしかしたら自明であると判断されて)書き留めることなく過ぎてしまう可能性がある様々な事柄について、念のために書き留めておきたいように感じるのである。

更にもう一点、実演ならではの側面についても触れておくべきであろう。今回の再演は3回の公演よりなり、私が接したのはそのうちの名古屋での2回目の公演であり、その1週間後には場所を変え、大阪のフェニックスホールで3回目の公演が行われた。聞くところによればフェニックスホールでは発売した席が全て売れるという盛況であったらしいが、のみならず名古屋での公演の結果を踏まえ、技術的な細部についての改善が施されての再演であったとのことである。

私のような音楽家としての専門的な訓練を受けていない単なる聴き手が、技術的な細部の差異について、事前に示唆されることなくそれと気付くということはまずありえないし、よしんば専門家にしても、比較が可能であればまだしも、(とりわけ現代音楽の場合には、伝統的な音楽の規範が必ずしも前提とされていないことを思えば)事前に適切さの基準が与えられることなく、一度きりの聴取によって、問題点がどこにあるかを突き止めることは、一般論としては不可能であろう。

しかしながらその細部の違いというのは、聴き手に意識されることはなくても、その場での聴取への影響がない筈がない。わけでも三輪さんの音楽が、優れてベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」であるからには、そうした細部が気付かずに聴取の印象を変えてしまうことは寧ろ避け難い。そして実際、今回の上演に接した印象のうち、幾つかの点が上述の改善に関わることであり、かつそれが、この作品を私がどのように受け止めたかについて決して周辺的とは考えられなかったことから、煩瑣を厭わず、そうした細部についても記録しておく必要があると考えるのである。

正直に言えば、この作品についてそれに相応しい仕方で語ろうと思えば一冊の書物が必要となる、というのが私の実感である。だが、さしあたり私にはそうするだけの時間もないし、準備もない。これまでも言ってきたことの繰り返しになるが、私は同時代人としての「応答」の義務感から、拙いなりに証言をする他ないように感じていて、それ故この文章が、あわよくば将来書かれるであろう(いや、もしかしたら誰かが既に用意しているかも知れない)そうした書物のための素材となるのであれば、これに勝る幸いはない。

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今回初めて訪れた愛知県芸術劇場小ホールの客席は200弱。私が聴いた公演は既述の通り、この会場での2回の公演のうちの2回目、土曜日のマチネであったが、この公演も客席はほぼ埋まっていたように思う。発売した席が全て売り切れたらしい大阪での公演と併せて聴き手の数は延べ500人を上回ったのは確実であろう。そしてまた、東京での公演がなかったこともあり、恐らくは私同様、新幹線等で長距離の移動をして会場を訪れた人も少なくはないであろうと思われる。

まず最初、劇場の建物の地下にある小ホールに入場する際、ロビーの入り口でのチケットのもぎりの後で手の甲にスタンプを押されるという趣向になっている。スタンプは「新しい時代」の教団のエンブレムであり、これが演奏会というよりは「儀礼」への参加であること、選ばれたわけではなくとも、かくして会場を訪れた「あなた」は、それに気づいているか否かによらず、「神の旋律」に導かれてこの「儀式」に参加するのだということを確認するような具合になっている。(ちなみに、このスタンプはそれを望まなければ断ることもできる旨、きちんと告知されていたことを付記しておく。拒否したら参加できない方が「儀式」としては筋が通った姿勢なのだろうが、一般的にはこれは愛知県芸術劇場主催の「ミニシアター・セレクション」シリーズの1演目の公演に過ぎないから、「儀式」という設定を拒絶する権利があるということであろう。)更にまた、入場の際に渡されたパンフレットにも「本日の式次第」が挟み込まれており、やはり「儀式」としての性格付けがなされている。(もっとも、この側面についても、一般的な曲目解説なしに100分近くかかる舞台作品に接する聴き手に対する配慮と考えることもできるだろうが。)

全席自由席だが、開場とともに整理番号の順番に入場して私が坐ったのは、中程の通路に面した舞台に向かって少し右寄りの正面の席。舞台向かって左にスクリーン、中央に儀式を司る4人の巫女=キーボード奏者の席が一段高く設えてあり、その中央には「楽譜」が投影される小型プロジェクタが置かれている。更にその右側には、能でいけば「シテ」にあたる14歳の少年信者が坐る「作り物」が据え付けられていて、私は何とはなしにその「作り物」寄りに席を占めたのだが、結果的に普段能舞台を拝見するのとほとんど同じ場所となったのである。

ただし能舞台では背景となる鏡板を背にして舞台中央奥を囃子方がを占め、演目によってその手前の舞台に作り物が置かれるという位置関係であるから、スクリーンがその左に、シテが演じる場は右にあるという位置関係は、能舞台では脇正面から見ているのに相当することになる。勿論、舞台の正面が向かって右側にある筈はなく、だからこうした比較には無理があるかも知れないが、それでもなお、本来はスクリーンは一番奥に、その手前にキーボード奏者の席があって、一番手前に部屋の作り物があるべきではないかという感覚も根強いものがある。もしやろうとしても幅より奥行きの方がある縦長の空間になるだろうから、このようなホールでの上演においては実現不可能だが、もしこれを別の空間、例えば教会とか修道院の内部で行ったらどうだったろうか(クセナキスの「ポリトープ」等の一連の作品が先例として思い浮かぶ)。或いは、この「儀礼」専用の礼拝堂を作ってしまったらどうなのか?例えばキリスト教のカテドラルの内部空間の構造を思い浮かべてみても良かろう。

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「作り物」と書いたが、能舞台とは異なって、それは既に開場前にセッティングされているし、サイズも遥かに大きいから、この比較もまたあまり適当とは言えないかも知れない。だがそれは寧ろ小さな部屋を模したほとんど立方体の形状で、四本の柱にはカーテンが取り付けられていて、能の「作り物」で周囲が布で覆われている場合がある(多くの場合、それは塚、即ち墓を表す)のを思わせなくもないのだ。ただし能の場合とは逆に、最初、カーテンは仕舞われていて、上演のある場面に達すると四人の巫女によりカーテンが広げられ、内部が観客席からは見えなくなるのだが。

思うにこの「逆行」は恐らく、それと意識されて意図されたものではないとしても、舞台の上で繰り広げられるパフォーマンスの実質を何某か物語るものに違いない。例えばハイデガーの「ヒューマニズムについて」の一節、「(…)技術は、その本質において、忘却のうちに眠る存在の真理の、存在の歴史に即したひとつの運命である。つまり、テヒニーク[技術]は、その名称の点で、ギリシア人たちのテクネー[技術的知]に遡るだけではない。むしろ技術は、本質の歴史に即するならば、アレーテウエイン[覆イヲ取リ除イテ真相ヲ露呈サセルコト]の一様式、すなわち存在者を顕わにすることの一様式としてのテクネー[技術]に、由来している(…)」(渡辺二郎訳)を思い浮かべるのは、一見してそう見えるかも知れないほど突飛な連想ではないだろう。つまるところここで行われる「儀式」の本質は、そうした技術理解とは逆のベクトルを保持しているのだし、ここまで類比してきた能楽のそれとも概ね逆を向いているから、能楽の持つ儀礼性とも異なるものがここでの「儀礼」には含まれているのだということになる。(ただし能楽においても例外、しかも決して些末ではない作品における例外が存在する。例えば禅竹の能「定家」のシテはその末尾において、解脱を、救済を拒んで作り物に戻る。塚は最早覆われることはないのだが。)

「作り物」の正面には階段が取り付けられ、そこを登って中に入れるようになっていて、中央には蔓桶ならぬストールが、四本の柱の一つにはカウンターが取り付けられ、その上には液体の入った壜が置かれ、脇にはヘッドフォンが架かっている。そして「オペラ」的な出来事は、最初は舞台中央の、4人の巫女の席の手前で歌う少年が「作り物=部屋」に入って後、専らこの「作り物」の内部でしか起こらない。ヘッドフォンは、三輪さんの作品にしばしば登場するラジカセと同じように「外部」への通路であろう。ただし、後述するように、この作品における「外部」が「何処」なのかは、この作品自体に即して判断されなくてはならない。それは「歌え、そしてパチャママに祈れ」のそれとも違うし、「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」の場合と比較してさえ異なるのだ。

ただしカーテンで覆われた後、客席からは見えなくなる「作り物」の内部では、勿論能と違って物着が行われる筈もなく、内部の様子は赤外線カメラで撮影され、時としてディレイを伴って舞台向かって左側の巨大なスクリーンにプロジェクトされるのである。客席は覆われた「作り物」の内部を、いわば「覗き見」できるのだが、そのことによって、人間が生得的に備えている器官では知覚できないものがテクノロジーの補綴により知覚可能となるという状況をも指し示されていることになる。であってみれば、更に映像の編集によってベンジャミン・リベットばりの錯覚が仕組まれていたとしても不思議はないが、仮にそうであったとして、それが成功していれば客席がそれに気づくことはない。否、錯覚に留まらず、実際にはその場で起きていない出来事の映像が混在していても、それと気づくことは困難であろう。かくして、覆いがされた後に起きることは、「儀礼」のリアリティから乖離したものにならざるを得ない。既にヘッドフォンによって外部が組み込まれていた場が更に反転し、更にもう一段、テクノロジーを介してしかアクセスできない「外部」が穿たれることになるのだが、その結果現出する時空は、両義的な性質を持つことになるだろう。そしてそれがこの作品についての了解にとって鍵鑰を為すことを後に見る事になるであろう。

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もう一つ、これも個人的な文脈によって起きた連想を書き留めておくと、ここしばらく万葉集について書かれた書籍を色々と読んでいる中に、初期の挽歌の舞台となったと想定される殯宮儀礼についての記述があり、その儀礼の空間の想定された復元のあるバージョンを見た時に、それが三輪さんのパフォーマンスを伴う作品のレイアウトとどこか似たものであるように感じられたことがあった。私が思い浮かべていたのは寧ろ、近年の作品で用いられるベケットのQUADの方であって、「新しい時代」の舞台が念頭にあったわけではなかったのだが、それ故舞台のセッティングを眺めた時に些か虚を突かれた感じになったのを思い出す。

勿論、広義でのイニシエーション(成人となる通過儀礼、ただしここでは成人になる前に死を選ぶという捻りが加えられているが)の類型に属する「新しい時代」の構想と、死者を弔う殯宮儀礼は性質が異なるから、棺を前にして方陣の頂点に位置する四人が順番に交唱するそれと「新しい時代」の設定のアナロジーはこじつけと取られても仕方のない貧弱なものに過ぎないが、それでもなお、「儀礼」の空間の在り方として接点を見出すことはできるだろう。寧ろ、引用、参照でない分、無意識的なレベルで機能している神話的思考の如きものの存在が私には感じられたのである。

これも後述するが、最新のテクノロジーに支えられたこの作品の実演に接して私が強く感じたのは、逆説的にも「アルカイスム」とでも呼ぶほかないものだったのだが、その原因の一つは、恐らくはこのような連想にあったように感じられる。殯宮儀礼は措くとしても、ワグナーの「パルジファル」をレヴィ=ストロースがそう見做したように、「新しい時代」もまた、或る種の神話的思考の(少なくとも今のところ)掉尾を飾る作品と見做すことはできないだろうか。そこに「成人することの拒絶」という捻りが含まれる点も含めて、この点についても後程取り上げてみたい。

なお客席に入ると、何の音かわからないが、ずっとノイズのような音が鳴り続いているに気づく。これはかなり耳障りなもので、スクリーンに映される図形のパターンの単調な遷移以上に気になったのだが、これもまた意図されたものなのかと思ってしまう。開演直前には音は鳴り止んだので、空耳ということはないと思う一方で、空調等の施設の維持に伴う音に過ぎず、いわば背景音として受け止める(というか、受け止めずに聞き流す)べきものに過ぎなかったかも知れないが、スタンプによっていわば「聖別」され、既に「儀礼」の開始を待つという状態は、ありもしない仕掛けを見つけようとするもののようだ。ここでの私の連想の先は「人のきえさり」の背景音、マーチン・リッチズのEintonの音高の知覚の閾を下回る低音の唸りであった。

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お調べこそ聴こえないが、事前にアナウンスされた通り、非常灯も含めて照明が落ちて、舞台の周辺だけが浮かび上がってくると演者の入場となる。オペラと名づけられはしても、枠を縁取る序曲・前奏曲の類があろう筈も無く、従って拍手もない。キーボード奏者でもある儀式を司る四人の巫女を囃方とすれば、映像オペレータ、音響オペレータ、ミキシングオペレータが「信者」として入場するのは、役割こそ違え能の後見のように見立てることもできようが、三輪さんの近作を思い浮かべれば「傍観者」と名づけられた存在が演者とともに舞台に上がることもまた想起されよう。ほんの一例に過ぎないが、例えば「59049年カウンター」では楽器演奏者が「傍観者」として舞台に上がるし、ほぼ後見に相当する役割をする演者が「悪魔」(これは寧ろマクスウェルやラプラスのそれを思い起こさせる命名だったが)と命名されていたりすることを思えば、類似の趣向と捉えて良いのだろうが、それでも巫女たる奏者はともかく、テクノロジーの番人たるオペレータが「信者」であるというのは、かなり捻りが効いているように感じられてしまう。現実の宗教でも儀礼の様々な演出を担当するのは「信者」とは区別される「聖職者」と呼ばれる存在であるのが普通であろう。

それではスタンプにより「聖別」された客席の我々、さまざまな音響や映像の効果を「享受」する我々は一体どういう役割を与えられているのか?我々もまた「信者」ではなかったのか?あるいは我々は、(そのうちの一部がその後「入信」することになるとしても、さしあたりは)単なる傍観者、立会人なのか?入会志願者というわけか?現実の宗教団体の組織への対比はおいて、内在的な構造に限ったとしても、技術を操作する側の人間が「信者」であり、この「儀式」の主人公たる少年=オペラの主役もまた同様に「信者」であるというのはどういうことなのか。テーマパークであればアトラクションの享受者と操作者が同一の役割を与えられるということになるわけで、現時点から測れば改訂の対象となりえた可能性もあるように感じられ、この作品が逆シミュレーション音楽に先立つという来歴を思わせる。だがそれはこの作品が持っている或る種の捩じれ考えれば、寧ろ作品自体の中では整合的であって、この点のみを変更することには意味がないかも知れない。

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「本日の式次第」に従って、まずは招霊の儀式。最初の少年の詠唱「訪れよ、我が友よ」に続いて、四人の巫女=キーボード奏者による「アレルヤ」が演奏される。「演奏」と書いたが実際には、それは音響生成システムの操作でもあり、サイン波で弾き出される「神の旋律」の重なりはフォルマント合成の原理により「声」を浮かび上がらせていくし、それに対する応答が奏者によって日本語を含む数ヶ国語で囁かれる。四人はいわば「声」を合成する人力シンセサイザーと見做すことができ、実演上起きる微妙なタイミングのずれは、そのまま「声」の変調となるのだ。

この部分は、この作品に先行する「言葉の影、またはアレルヤ」の共通するが、他方で、アルゴリズムによって生成された音の系列を人間が演奏するという側面は、三輪さんの作品のほとんど全ての作品に共通するコンセプトであり、なおかつここでは、ラッヘンマン風には集団が一つのヴァーチャルな「楽器」を産出し、のみならず更にそれが、表向き聴こえる旋律の多声的な絡み合いに対する「影」のような存在として、単一の「誰でもないものの声」を浮かび上がらせる点にも留意すべきだろう。それは詠唱における少年の生の声と鮮明なコントラストを為しつつ、「幽霊」的な存在を召喚する「招霊」に他ならない。かつての「新しい時代」の解説には、それが少年に先行して既に「記号化」した存在の声であるという説明があったと記憶するが、もしそうだとして、そうした「記号化」が繰り返され、従って「霊」が複数存在したとしても、「声」は彼らのアイデンティティを最早喪失してしまった匿名の単一のそれに過ぎないことに留意すべきだろう。ここでは「幽霊」は個別性を失うことを余儀なくされ、結果として複数性を、多声性を帯びることが禁じられているのだし、それはこれからまさに少年がこの儀礼によって「記号化」された結果を予示するかに見える。

或る種の錯覚の常で、聴き手にとってフォルマント合成による「声」が聴こえてくるようになるまでにはある程度の時間的持続があった方が良いだろうが、それもあってか、この「アレルヤ」のパートは極めて長大であり、丁度能の序の舞の囃子がそうであるように、その持続は時間の方向感覚の融解をもたらし、ちょっとした催眠の効果すら持ちうるだろう。実際、私の隣の席に坐った若者は、催眠効果にかかったかの如く、上演中のほとんどを夢うつつの境で過ごしたように見受けられた。しかしこれは、その結果だけとれば能舞台でもしばしば起きることだし、のみならず、宗教的な儀礼において「音楽」は寧ろこのような目的で用いられているといっても良いだろう。脳神経科学者のフリーマン言うところのいわゆる「脱学習」と密接に関係するそれは、他方ではパブロフの「超限抑制」、一般にには「洗脳」と呼ばれる技術と神経化学的過程において共通してもいて、疲労と感覚と過負荷の結果、自己意識を喪い、意識の変性状態が起きて、しばしば社会集団への強い情動的帰属をもたらすものに他ならない。この点においてもこの「アレルヤ」は、テクノロジーに裏打ちされている一方で、「音楽」の起源に遡行するようなアルカイックな側面を持つように感じられる。そしてそれは「逆シミュレーション音楽」において明確にコンセプト化され、今日の作品にまで至る道程の出発点であることは間違いないだろう。

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続いて「アーカイブ」のパートに入ると、祈誓文や信仰告白の後、個体の情報を「歌」に転記するための「奉声の儀」(キャプチャー)、ついでコピーが完了した後、残った個体を消去させるための服薬と続く。他のところでは伝統的な儀礼の枠組みを借用している式次第も、ここでは「アーカイブ」、「キャプチャー」というテクノロジカルなコノテーションを持つ語彙が侵入し、教義のテクノロジーへの依拠が明確にされ、有限の肉体を離れて精神が永続性を獲得するという昔ながらの希求を、デジタルネットワークへの個体情報の転送・保存という、17年後の現時点においても未だ(それが実現可能であると前提して、なお)近未来的なテクノロジーが実現するという設定が提示されるのである。

三輪さんが構成した信仰告白他のテキストはフェイクとしては極めて巧みなもので、こちらは古くからある神秘主義的な精神の進化論を下敷きにしたものであって、特にブラヴィツキーの神智学やシュタイナーの人智学の教義を思わせる(直接的な引用もあるらしい)が、図らずも近年、AIブームの再来とともにシンギュラリティ(技術的特異点)の主張が人口に膾炙するようになったこともあって、この作品が既に17年前に構想され初演されており、今回は再演であることを忘れさせる程に今日の展望に通じるものがある点は、思わず3.11の折の「電力芸術宣言」のエピソードを思い起こさずにはいられない程のインパクトがあり、三輪さんの時代を先駆け得た直感の確かさに驚くほかない。

この再演は、いわゆるピリオドスタイル風に初演時のハードウェアをそのまま使うという復元の試みではなく、他方、新たな演出を施すことも含めた改訂作業もまた基本的には行わず、初演時とほぼ同じ形態での上演を現時点でのハードウェアを用いて実現するというコンセプトで為されたようだが、一点だけ、コンセプト上極めて重要な変更が為されていたことには言及しておくべきだろう。即ち、プログラムノートにも記載されていることだが、「奉声の儀」(キャプチャー)のプロセスを、かつての初演においては技術的制約ゆえに生声のサンプリング(録音)によって実現していたのに対し、今回は佐近田さんの自動音声合成により実現したという点である。既述の通り、「奉声の儀」(キャプチャー)によって記号化されることが個体性の喪失であり、その結果を再生した時には、「アレルヤ」において旋律の「影」として浮かび上がった声同様、最早「誰のものでもない声」でしかないことに対し、サンプリングの再生では、それが再生である点において「幽霊的」であるということは言えたとしても、匿名性が含み持つ根源的な断絶を示すことは困難であることを思えば、技術的な徹底によるコンセプトの一貫性の面においてキーポイントとも言える成果であろう。

しかもそれは、初演後の佐近田展康さんとのユニット「フォルマント兄弟」名義の活動の積み重ねによって獲得されたものであって、近年では岡野さんが奏するMIDIアコーディオンによるリアルタイム音声合成によってペルゴレージの「スターバト・マーテル」を、ここでは少年役を演じているさかいれいしうさんと「重唱」したことが思い起こされる(しかもそれが「新しい時代」の詠唱が後続するプログラム構成において実現したことも指摘しておきたい)し、更には同じく岡野さんが奏するMIDIアコーディオンと室内管弦楽のための「万葉集の一節を主題とする変奏曲」において「誰のものでもない声」が担った役割を、事後的ではあれ「新しい時代」に折り返してみた時、「新しい時代」のコンセプトが孕む極限的な状況が浮かび上がってくることを認めずにはいられない。要するにここでは「誰のものでもない声」と化して個体を消滅させることが、「私の歌」を歌うための唯一可能な条件であるという逆説が存在しているように思われるのだ。

これは当初から変わらない「アレルヤ」の部分における四人の巫女による「神の旋律」のキーボード演奏によって浮かび上がる「誰のものでもない声」と、少年役のさかいれいしうさんにより歌われる詠唱の「生の声」に、これもまたフォルマント合成による自動音声合成の「誰でもない声」が加わったことは、だが、実演に接してみれば単なるコンセプト上の意味合いに留まるものではない。

私はこれまで、フォルマント兄弟による自動音声合成の試みに関しては、時としてコンセプトの面で疑問を感じる(例えば「フレディ―の墓」「フォルマント兄弟のお化け屋敷」)一方で、その具体的な実現についても留保を述べたことが何度かあったのだが、今回についてはその質が気になることはなかった。(実は、上演するサイドではこの点が課題と認識され、大阪での公演ではその点について微調整が行われたようであるが)。それはパンフレット等を通して事前にそう告げられていたからか、あるいは仮にそうした事前の刷り込みがなかったとしても、それが「誰のものでもない声」というフレームで利用されたという状況が与かったのかも知れない。或いはまた、長大な持続を持つ冒頭のアレルヤが浮かび上がらせる「声」を聴き続けたことが影響していたのであろうか。直接会場の空気を介して飛んでくる生の声に加え、その場で生成されたにも関わらず増幅されて出てくる他ない2種類の合成音声があり、更に加えてそれらをサンプリングしたものがリアルタイムで(意図的にディレイや変調を伴って)再生されるのが重なるという現場に立ち会うのは、目眩がするような経験であった。「アレルヤ」の反復の呪術的効果については既述の通りだが、「神の声」のみならず、「人の声」もひっくるめて、何が聴こえてくるのか、何を聴いているのかが曖昧になってしまうのだ。

最初に記した通り、この作品の初演は私は間に合わず、録画と録音でしか知らなかったのだが、この点はその場で実演に接しなければわからない。雰囲気の問題もあるが、何より生の声、増幅された声、再生された声、自動音声合成による声といった様々な声のニュアンスは録音だと喪われ、差異が潰れてしまう。だがその差異こそが、この作品の持つある側面にとってはまさに核心的なものなのだ。

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服薬の後その成否を確かめ、「作り物」のカーテンを拡げて少年を不可視にするのは四人の巫女の担当である。成就の言葉の後「天使の秘密」の詠唱が済むと、第三部、「式次第」によれば「昇華」の部分となる。巫女も去り、少年も姿を隠した舞台の上で行われる「昇華」のパートの音楽的な中心は、にも関わらず、(かつての?)少年が歌う詠唱「新しい時代」である。

ここの部分ではまず、先行する「同志への遺言」が「霊体浮遊」に相応しい音場で聴こえたことが印象的だったが、「新しい時代」詠唱の方は明らかに音の定位が変わり、「作り物」のカーテンの内側から響くように設計されている。そしてここの部分には、この作品全体の理解を左右するような重大な仕掛けがなされている。そしてそれは、私が上で声の主体をまさしく「(かつての?)少年」と表現した点に関わる。ところがここの箇所もまた、大阪公演において改善が行われた部分であったらしく、私が接した公演ではアルゴリズムによって自動生成される「背景の旋律」の音の選択に纏わる問題と、その「背景の旋律」とれいしうさんの歌唱との間で調的なずれの問題が生じていたようなのである。

実はここの部分、私はれいしうさんのピッチがちょっと不安定だったのは感じたものの、恥ずかしながら「背景の旋律」を私は聞いていなかったと思う。ピッチも含め独立に奏されるもので、実質的にア・カペラだと捉えていたと記憶している。だが考えてみればこれは能ではなく、古典的な西欧音楽とは別ではあっても五度圏上のシステムに基づく音楽なのであるからそのような筈はなく、このあたり私はこの作品を「音楽」としては充分に聴けていなかったということになる。

具体的な箇所を言えば、「天使の秘密」のキーボード演奏では、冒頭を除いて6音音階の中から音が選ばれ、それが自動演奏に移行したところから、それまで弾かれなかったAsの音が加わり7音音階になる部分、音色的にはノイズ音になっていき、舞台上は巫女が演奏を止めてカーテンを閉めに行くあたりの部分で、今回私が接した公演では、選択される音の確率分布が初演時のそれとは異なっており、その結果、三輪さん自身の言葉によれば、本来、歌はその響きの中で聴かせたかった「F音を中心とした「ほの暗い」響き」にならなかったとのことなのである。

三輪さんが別のところで記しているように、「神の旋律」は7音音階の中の4音が規則に従って選択され単旋律を形成していくもので、従ってここには和声組織というものは存在しないのだが、それでもなお、音の選択の確率分布に基づく出現頻度の偏りが旋律に或る種の「色合い」や「明度」の違いを産み出すことになる。尚ここで「色合い」「明度」という時、私自身についてはそれを単なる比喩としてではなく自分が持っている共感覚を念頭においている。実は私の色聴は音そのものに対するものではなく、西欧音楽のある時期以降の調組織に結び付いたものなので、三輪さんの音楽からはっきりとした色を感じることはない。三輪さんの作品には、古くはNomadische Harmonieのように音と色彩の対応を直接扱った作品もあるし、「虹機械」とか「369」といった系列の一連の作品では共感覚的な知覚に対する言及もあり、近年でもカラーパイプの使用もあるから、聴取によって色彩の渦が見えたらいいのだが、残念ながら私についてはそうはならない。色が見えないということではないのだが、色聴の典型的なケース(私の場合、それはモダンピッチで演奏されたモーツァルトやハイドンの管弦楽作品、シューマンやブラームス、マーラーやブルックナーといったロマン派の管弦楽作品、ワグナーの「パルジファル」などが該当する)と較べ、規則的であったり鮮明な変化が感じられたりはしないということである。

一方で三輪さんにとっては、本来の確率分布で音階音が選ばれる「神の旋律」の四声体は「ほの暗」く、それに対してこの公演で響いていた、おそらく正規分布で選ばれていたらしい四声体は「長調的」な響き(ただし、もちろん旋法ではあるが)に聞こえたため、「神の旋律」を生成するアルゴリズムを昔(=初演時)のもので上書きしてみてその違いに納得し、大阪公演では元のバージョンに戻したということのようである。

共感覚というのはまさにクオリアの領域の話であって、それは後成的(エピジェネティック)に固定化されるものに違いなく、それゆえに体験の共有は保証されていないのだろう。そうであってみれば私の色聴が三輪さんの音楽では明確ではないのは、単に「修行」が足りず慣れていないだけという可能性も高いのだが、この指摘を受け、現在「布教放送」のURLで流れている「神の旋律」を聴いてみた印象は、(すでに一週間が経過して、厳密な比較にはなっていないことは制限として前提した上で、)私が聴いたと思い、記憶していた筈のものとは雰囲気が全く異なっている。

実は私は実演に接していたとき、該当の恐らく六音音階の箇所を聴いたとき、それが例えばJ.S.バッハの作品のように響くように思えて、意外な感じがしたのを記憶している。意外、というのは、三輪さんの作品における音組織は上述の通り、微視的にもバッハのそれとは異なっているからだが、それでも響きの印象としてはバッハか、或いはそれくらいの時期の或るタイプのオルガン(しかもどちらかというと北方系のオルガン)によるオルガン曲の色合いに近いものを感じていたのだ。色的には寧ろ青白くて透明な明るい光だったと記憶している。それは私が前回の上演記録やCDを接して感じ取っていたこの作品のイメージからはずれたものであたったが故、意外に感じたのであろう。初演の時の映像つき記録に感じていたのは、寧ろ「幽霊的」な所在なさだったのに対して、この上演で聴こえてきたものは、寧ろ「遍在」といった印象に近く、それゆえその感覚の違いは鮮明に覚えている。そうした印象が昔からずっとこういうことをしていたんじゃないかという感覚に繋がり、結果として既述の「アルカイズム」の感覚をもたらしたのではないかと、振り返ってみて思うのである。

考えてみれば通常の長音階・短音階のシステムにおいても音階構成音それぞれの出現頻度には偏りがある。勿論、和声とはまずは同時にどの音が鳴るかのパターンであり、加えてパターンの時間方向の連結たるカデンツの構成によってもっと強く明確な「偏り」がもたらされるのだが、システムは違っても、音階構成音の出現頻度の偏りが「色合い」「明度」の共感覚を惹き起こすというのは考えられる。結果として、一瞬の変化を一度の聴取で掴むのはできなくても、一定の持続があって、ある時点を境に分布が変われば、それが色の違いのようなものとして感じ取れたのではないかと推測する。そして私の感覚はたまたま、大まかな方向性としては、三輪さん自身のそれと似通っていたのだが、それもまた、クオリアが最終的には個人的なもの、主観的なものとは言っても、同じ物理的・生理的な基盤の上に後成的に形成されるものであることを考えれば、文化的な背景を共有する集団の中でのそれに一定の傾向性のようなものが共通して存在するというのもまた、そんなに無理な仮定ではないように思うのである。

これは些か言い訳めくが、こうした細部の違いが、私の場合には漠然とした印象でしかなくても、ともかくも受け取ったもののずれを生み出したという事実は、逆に制作サイドの、聴き手にそれとわからないような微細な違いへの拘り、細部の徹底が如何に重要なことであるかを物語っているということはできないだろうか。

専門的な訓練もなく、一度限りの上演に立ち会ったに過ぎない人間は、上述のようなテクニカルな(だが実際にはそこにこそ本質が宿っている)細部の積み重ねを、自分のキャパシティの範囲で、曖昧で総体的な印象として受け止める他ない。けれども私の意識がそれと自覚していなくても、私の無意識はその差異を聴きとっている筈であって、それゆえ意識には受け取ったものを分析的に説明することができないに過ぎないのではなかろうか。特に今回のようなマルチモーダルな作品の情報量は、私のようなキャパシティの限られた人間にとっては過剰であって、その全てを意識的に受けとめることは不可能である。(ちなみに私はこのことを能の上演に接する度に感じずにはいられず、かくして観能の感想には毎度そのことへの釈明が記されることになる。)勿論、無意識的には聴き取れているのだと言ったところで私が聴き手として作品についていけていない点についての何の弁解にもなっていないことは承知の上、結局のところ私はこの作品の良い受け取り手ではないのかも知れない点は認めた上で、この感想の限界を確認するという意味でも、この点は書き留めておくべきと考える。

* * *

その後ノイズのような電子的な音響が増して「出立」を暗示し、その音が途絶えると終演。これまた恰も能の留め拍子の如くである。演奏時間も約100分程度でやはり能一番程度。何よりも見終えた時の自己の内部の状態という点で最も近いのは能を観た時であるように思われた。

それが故か、最後、終わると拍手が起きて、(舞台そのものはカーテンはないのだが)カーテンコールが行われるのはこのジャンルの作品の上演においては普通の光景の筈なのだが、私は多少の違和感を感じていた。能舞台でも今日では終演後拍手は普通に起きるものだが、私は決して拍手はしない。それがもし「儀礼」であるならば拍手は不要であり、寧ろあってはならない筈だろう。「拍手」をし、「カーテンコール」が行われることは、それまで上演された内容を、あっさりフィクションとして括弧入れすることに他ならない。そして私の中には「習慣によって」惰性として拍手をすることにより括弧入れをしてしまうことを躊躇わせるような何かがあり、抵抗感を覚えたに違いない。だが、と同時に、そこで起きたことを例えば能が(今日においても最上級の上演であればなお)そうであるような「奉納」であるとして受け止めることもできず、当惑し、些か混乱さえしていたかも知れない。そして寧ろここではそうした混乱を振り切るべく、意識的に、句読点をうち、括弧で括るために拍手をしておこうと、そのように思って遅れて拍手を始めたのを記憶している。

その混乱の由来は何処にあるかといえば、接した公演の私の印象では、最後の歌は「幽霊的」には聴こえず、むしろ生の声の力というのを強く印象付けられたという点にまずは存するように思われる。そして恐らく私はそれを、さしあたり何に対するそれであるかを明確に掴めないまま、それでもなお何かに対する「逸脱」として受けとめたのだと思う。これまた全く個人的な文脈で働いた連想だが、私は少年の姿に、北村透谷の、明治初年の混乱の中で没落してゆく佐幕派の士族の家に生まれ、「キリスト教」に接近し、「楚囚之詩」「我牢獄」「蓬莱曲」といった作品を書いて後、「一夕観」を遺して自ら命を絶った若者のそれを重ねてみずにはいられなかったのだが、それもまた「逸脱」の感覚がもたらした連想であったように思われるのである。(なお、総体として透谷を現代に甦らせようとした時に、三輪さんの活動との共鳴が生じるという認識については既に別のところで発表しているので、ここでは繰り返さない。)

そしてそれが「逸脱」であるという感覚は、繰り返しになるが、私が最後の詠唱の声の主体を「(かつての?)少年」と記した点に関わるのである。それが「生の声」であること自体が、「逸脱」であると感じられたのだとして、それが何に対する逸脱なのかについて反芻し、私が思い当たったのは、それが「儀礼」という枠組みに対するものであるということであった。それが最後の「昇華」の部分で、まさに全てが済んだ筈のところで起きたということは、「儀礼」の論理にとっては皮肉なことであるとさえ言えるだろう。というのも、もしコンセプトを徹底させるとしたら、「音楽」としての効果は問わず、儀礼」の「成就」の後は「生の声」で締めくくられるべきではなく、寧ろ「誰のものでもない声」こそがそれに相応しかったのではないかという問いの可能性すらあるように思われるからである。今回、キャプチャーされた声の「再生」が、サンプリングの「文字通りの」再生ではなく、その場でのキーボードによるリアルタイム音声合成により行われたことを踏まえて、儀礼の論理の方を徹底させれば、後半をすべて自動音声合成で歌唱させるというオプションはないのか?という問いこそが、仮構された「儀礼」ではなく、「新しい時代」という作品の上演を理解するための、まさに核心となる問いであるように私には思われたのである。

寧ろ最後のここの部分に至って、「作品」が「儀礼」を離れたと考えるべきなのかも知れないと私は考えた。キャプチャーも服薬も済んだ後、成就の言葉以降に「生の声」が響くのはどうしてなのか?「霊体浮遊」して「どこでもない場所」からメッセージを送った筈の少年の最後の「歌」が、なぜ「再び」カーテンの中から聞こえてくるのか?一体歌っているのは「誰」なのか?それゆえ私は三輪さんに確認せずにはいられなかった。制作者の側から見て私が接した上演が持っていた上述の問題点についてわかったのもそれゆえなのであるが、ここでの問いに関して三輪さんに確認できたことは、上演にあたり、「生声」は映像の画面から聞こえるのではなく、カーテンの中から聞こえてくるよう細心の注意を払って設計されていたのである。しかもキーボードの6音音階にAsが加わって7音音階になったことが、音楽的には「成仏」を意味している筈であるにも関わらず。

これを「儀礼」の「式次第」の側から見れば、何が成就したのかがわからなくなってしまうということにさえなるのではあるまいか?「昇天した」筈の少年が歌を歌う映像は、まさに「起こりえないこと」の映像であり、そのわからなさを一層増幅していたのだと思えば、その場での当惑の幾ばくかの説明たりえているように思う。そして勿論こうした疑問は、初演版の記録映像の視聴からは浮かばなかった疑問、もし仮にそれをどこかで感じたとしても、その場で上演に立ち会うことによって初めてその切っ先の鋭さを感じることが可能である類の疑問であることは間違いない。

またしても能を持ち出せば、能の場合であれば、そこにいるのは「幽霊」という「約束」があるからそういう当惑はそもそも起きようがないのである。面をつけたその背後から聞こえる声は、夢幻能の場合にはそもそも人間の声ではない。だが能に最新のテクノロジーを持ち込んで、複式夢幻能のシテの声をそっくり音声合成システムに置き換えるべきだと言う人はあるまい。それはまずもって「幽霊的」ではあっても「匿名」ではありえない。能が「儀礼的」であったとして、そこで演じられる存在は、神であれ鬼であれ、人間の霊であれ、あるいは動植物の霊であったとしても、その存在は個別的だし、その儀礼はある個別の「出来事」を想起するために反復されるという構造を持っている。

この「作品」において最後が生の声でないというのはありえない選択肢であり、最後の歌唱を音声合成システムに委ねるではないかというのが「愚問」の類であろうことは私も重々理解している。そうではあるが、これがもし「式次第」に従った「儀礼」なのだとしたら、なぜこのような断層が生じるのか?「作品」としての芸術的な判断が優先した、というのは「作品」の分裂、失敗を意味することになる以上に、この「作品」の意味(あえて作者の意図とは言わない。作者にとってもまた作品は、その細部をどこまで精緻に構築したとしても、謎の部分が残る筈である。というかそのような「作品」でなければ「無意識のエクササイズ」の名に値しないし、この作品が優れて「無意識のエクササイズ」であるというのは、そうした側面も含めての評価である)を、特にその儀礼性を内側から解体してしまうのではないか?一体、ここで起きていることはどういうことなのか?

ここでは逆転が存在すると考えなければならないことになるのではないか?生の声こそ「幽霊」の声なのだ、という逆転が。これはもしかしたら純然たる「謎」なのかも知れない。作者たる三輪さんにとっても、自分が確信を持ってそう選択したにも関わらず、その選択が何を意味しているのかについては謎であり続けるような類のものなのかも知れない。音楽というのは、一般に芸術というのは、そうした「謎」を孕むものなのだろう。送り手から受け手へのメッセージの通信というモデルはここでは通用しないのだから、結局のところ意味は、その作品に接する一人一人が自分のやり方で、しかも身体に深く根差した無意識的な水準を含めた、文字通りの「全身」をもって見つけ出すしかないものなのだろう。

* * *

いずれにせよ、「新しい時代」の詠唱が「幽霊的」に、だがすぐそこで「覆い」に覆われた中から響いたのであれば、「そこ」はヘッドフォンの向こう側、スピーカの向こう側とは別の場所であるということになる。全てが終わって「成仏」した後、生の声が響いてくることは、この作品に埋め込まれて仮構された「儀礼」の内部の論理の中からは出てこない、と少なくとも私は理解している。「新しい時代」と名付けられた作品の、いわばタイトルナンバーである歌、そこにこそすべてが賭けられている最後の部分が、実は、その名前を冠した教団の「儀礼」の外側であるということが、この「作品」の構造そのものなのだと理解する他ない。だがそのことに思い当たると、上演に接した際の戸惑いは、或る種の納得感と、増大する当惑に更に引き裂かれることになる。

しかしここには既述のハプニング、つまり「背景」となる「神の旋律」の音の分布が予期していたものと異なり、結果として詠唱のニュアンスにずれが生じていたという事情が介在していることを考慮しなくてはならない。本来とは異なる色彩を背景としていたという時、私はその場では、それが本来意図されたものではないということには思い至らなかったのだが、それが想像していたよりも明度が高く、かつ「アルカイック」に響いたとは感じていた。そして分裂の印象は、このハプニングがもたらしたものであると考えるべきなのだろう。そうとはっきりとわからない私のような聴き手にとっても、聴取の印象にぶれが生じ、その結果、「作品」の構造が破綻しているような感覚を抱いてしまったように思う。

正直なところ、今そのように考えても、後付の合理化に陥る可能性が高くなるが、私が抱いた当惑の本当の原因は、三輪さんの設計した背景の旋律の「色合い」が意図せずずれたが故であったとして、そこには神秘は存在しない。勿論、これは共感覚の知覚実験ではないのだから、そのために改めてブラインドテストをして追検することに意味があるとは思えない。色聴のみであれば、録音記録の比較によって確認できるだろうが、そうした実験は上演における基本的な条件を捨象してしまった抽象的な環境でしかないから、結果的にそれは「作品」の「意味」に辿り着くことはない、単なるお門違いにしかならないだろう。

だが、ずれの方はハプニングであるとして、でも「生の声」の方は、本来まさにその「幽霊的な」出現が意図されていたということであれば、最後の歌の「生の声」のインパクトの鮮烈さは多分に誤解の結果ということになる。だがそれを「説得力をもって」と書いてしまえば、三輪さんの意図だけではなく、恐らく私自身のその場の当惑の感情を裏切ってしまうことになろう。少なくとも私の聴いた演奏ではそのように仕組まれたものというよりは、仕組まれた「儀礼」からの逸脱に感じ取れたというのが本当なのだから。

だけれども、であったとしても、それを「失敗」であったとは私は考えない。少なくともそれは「新しい時代」という作品の欠点ではない。「新しい時代」という作品は、儀礼を仮構し、それを作品の本質的な契機としつつ、だが儀礼そのものではない。儀礼に呼び寄せられてしまい、「記号化」による自己の否定を希求せざるを得ない疎外への批判とともに、今後はその儀礼の方が孕み持つ危うさ、儀礼自体が更なる疎外を招くという二重の構造に対する批判こそがこの作品を成り立たせているのではないか。この作品は「儀礼」にしか救いを求めることが出来ない存在への鎮魂であるとともに、「儀礼」によってもう一度疎外された存在に対する鎮魂でもあるのはないか。

してみれば三輪さんが意図したのとは恐らく違った形で、多分に誤解して私は受け取ったことになるが、でも受け取ったものの方は結局のところ三輪さんが意図したものそのものであったとは言えないだろうか。率直に言って私は、私の立ち会った上演でのそうした出来事を教えて頂いて、ようやくその場で自分が感じていた色々な違和を整理できたように感じ、ちょっとほっとしもしたものである。

だがその上で更に、やはりこの作品は、そのように理解されない危険が大きいという認識は変わらないように感じる。感じ取った説得力が一体、何を意味しているのかをまるまる誤解される可能性はないのか?勿論、この作品の後に続く「逆シミュレーション音楽」、そして更にその後を知っている人は、そのような誤解をすることはないと思うが、開き直るわけでないが、今考えても、当時の私の疑問は仕方なかったと思う。偶々この作品だけ、一度きり聴いた人は、三輪さんの意図を正しく把握できるだろうか、とやはり思わずにはいられない。今回の上演で起きた問題は、図らずもその点を浮かび上がらせる役割を果したというようにも考えられよう。であるからこそ、一方では技術的な詳細に亘り、他方では私という信頼性の低い聴き手に固有である限りでは些細なことなのかも知れないとは思いつつ、そのことをここに記載して公表しておくことにした次第である。

* * *

この作品について私は、一方ではいつもながらの緻密な組み立てを感じ、作品の構成そのものは遠心的・雑種的ではあるが、それが一見破綻なく、隙を見せずに組み上がっている(「儀礼」のフレームがそれをしっかりと支えている)と感じる一方で、他方で、三輪さんがこの作品ほど組み立てについて意識的であったことはないのではないかと感じた。

三輪さんの作品はおしなべて実験的で、作品の内外の様々な条件に対して自覚的であらざるを得ないような、どちらかというと工学者や科学者がシミュレーションや実験を組み立てるようなある種突き放した眼差しを感じることがあるけれど、それがこの作品では(上述のように非常に巧みに組み立てられていて)表面的には目立たなくても、実は最も甚だしいように感じた。同時に、これは言い過ぎになるかも知れないが、受け取り手(ある意味では実験の対象)に対する条件設定が極めて巧妙で、言い方を変えれば要求レベルが非常に高い。恐らくは三輪さんが作品の組み立てに込めた思いの深さに応じて、受け手は非常に剣呑な状況に追い込まれる度合いが最も甚だしいのだと。

正直に言って、私はこの作品に対しては、それがうまくできすぎているように感じられて、どこかで距離を取ろうという無意識の防衛反応のようなものが働いて、やはり素直に聴けなかったと思う。あまり近づきたくないというか、繰り返して聴きたいとは思わない。比較の対象として持ち出した、愛の讃歌とか59049年カウンター、あるいは算命楽、いや369とか虹のシリーズでもいい、あるいは逆シミュレーション音楽(例えば「蝉の法」)とかでもいいが、それらを繰り返し聴いてみようと思うようには思えない。そして、最後の箇所に込められた或る種の逆転に気づいても、今後はそのことに思い至る過程の余りの微妙さにたじろぎ、「私はこの作品を、それにふさわしく受けとめられているだろうか?そもそもそれだけの資格が私にあるだろうか?」と問わずにはいられないのである。意図してか意図せずか、その構造を歪曲し、あるいは正しく理解することなく、この作品をカルト宗教の「儀礼」そのものであるという曲解ないし誤解をする人間がいないとは言い切れまい。

結局のところ三輪さんのこの作品は、自らその「危うさ」を引き受けつつ、それを剔抉し、我々に問題提起しているものと考えるべきなのだろう。三輪さんが自らその「危うさ」を引き受けたのは、それが他人事ではなく、まさに「我が事」であるという認識に基づくものであるだろうし、作品の完成度、上演の質の高さが、「危うさ」の反応を増幅するように思われるのも、問題提起が一層尖鋭なものとなっているわけで、その意図を裏切る「悪用」の危険のようなファクターはなお残るとはいえ、ここで達成されたものの質は、それにより深まることこそあれ、損なわれるようなことはないように感じられる。その認識の深さは、その「危うさ」を引き受けつつ、その後三輪さんの活動がどのように展開していったかを跡付けることによって窺い知ることができるだろう。

だが冒頭にも述べたように、この作品が持つ射程を、一方でこの作品が背景としている脈絡を踏まえ、他方でこの作品が先蹤をなし、いわば表裏一体のような関係にあるその後の三輪さんの活動を踏まえて捉えようと思えば、優に一冊の書物を必要とするであろう。それは上演の感想として記載するには相応しくもないと感じられる。実際、上述の内容には単に示唆に留まっていて、更なる展開をすべき論点やより広い文脈で捉えるべき観点も多々あるが、それらについては感想とは別に記すことが適当であると判断し、感想としてはここで一旦打ち切ることとしたい。(2017.12.10-17初稿、18-25修正稿、26-29改稿、29公開)

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