三輪眞弘/入鹿山剛堂 Nomadische Harmonie (interactive installation)に触れて
2007年11月26日東京大学駒場博物館
東京大学駒場博物館で開催されている「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の記念コンサートとして10月31日に 行われた自動ピアノ演奏会については、その感想を既に書いたが、その際、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品については、 インタラクティヴ・インスタレーションという性質上、再訪の上、自分で実際に触れてみたいと書いた。偶々、予定していた アポイントメントが突然キャンセルになって、空白の時間が出来て休暇をとった午後、東京大学駒場博物館を再訪して、 「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の展示を見るととともに、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れてきたので、 その感想をまとめたい。展示の中での今回の目玉である「思考する機械」(Thinking Machine)を中心とした感想は 稿を改めるとして、ここではまず、三輪眞弘/入鹿山剛堂作品について。
なお、最初にお断りしておくが、この稿を書くにあたっての素材は、作者の注文通りピアノの鍵盤を色々な仕方で叩いた 経験と、会場にあった作品についての簡単な説明のみである。つまり具体的なアルゴリズムの知識があるわけではないし、 背景知識もない。触ってみて作者に聞いてみたいことは結構あるけれど、残念ながら聞く機会はないし、それ以前に、他の感想が そうであるように、まずは先入観なしの印象を書き留めるのが目的であると考えている。背景知識の欠如についてもう少し補足すると、 私はプログラムの開発経験はあるけれど、MAX/MSPに触ったことはないし、楽理の方は更に怪しい。ピアノも弾いて楽しめるレベルには 程遠いし、音楽的な訓練を受けているわけではないので、音を聴いてぱっと和声を言い当てる、といったこともできない。 何故こんなことを書くかといえば、そういう知識さえあれば私がやった作業はもっと簡単なものだったろうし、より突っ込んだ 楽しみ方ができただろうと思うからであり、その一方で、以下の記述もまた、そうした専門知識を前提とすれば、ひどくまどろっこしい ものに感じられるに違いないことが容易に想像できるからである。また、知識がある人なら犯さない類の勘違いを している可能性も大いにある。間違いはできるだけ直していきたいが、それがなくなったところで所詮は、 (年甲斐も無く)好奇心旺盛な素人の体験談に過ぎない。従ってそういうものとして受け取っていただけるように予めお願いしたい。
実は当初、その前の3連休を使っての再訪を予定していたのだが、聞けば駒場祭とのこと、まあ、博物館自体の 混雑はまた別かも知れないが、キャンパスは人で溢れているに違いないし、博物館だって普段に比べて混んでいることが 容易に予想されて断念し、このままだと再訪は叶わないものと半ば諦めていたら、ふとした偶然で時間ができてしまった。 学園祭翌日の平日の午後、博物館は、私にとっては幸いなことに空いていて、主として1階で行われていた展示もゆっくり 見れたし、作品にも時間をかけて触れることができた。間歇的にやってくる他の見学者の方々に遠慮して席を外しては、 階下の展示を見て、空いた頃を見計らって、作品に触れられるピアノに戻る、というのを何回か繰り返したので、 或いは、博物館のスタッフの方には変な奴と思われたかも知れない。基本的にはご迷惑はおかけしていないと思うが、 多少、作品のインタラクションを試すためにあれこれ鍵盤を叩いたので、普段は立たないようなタイプの「騒音」を立てて しまったかも知れない。
端的に言ってこれはとても面白かった。とはいってもその面白さの大半は、音のインタラクションに由来している。 自動ピアノコンサートの感想でも触れたとおり、音に同期してディスプレイには、鳴っている音に連動して色の帯が 表示され、今鳴っている音の強さが帯の長さで、その音が属している(とシステムに判定された)調性が色で表示される ようになっている。絶対的な音高は反映されないし、アタック(スタカート、レガート)なども反映されない。 だが、システムは強度にもアタックにも、音高にも持続にも反応する。調性と色の割当は相対的には意味づけがされている。ただし それは絶対的なものではないようだ。(もっとも共感覚の個人差はかなり大きいようなので、こちらは無理だろう。) だけれども、調的に離れた音群が並存する環境になると、画面は虹のようにカラフルになるし、調的に収束すると、 概ね2色くらいにまで色彩のパターンも減る。少し慣れれば、画面上に虹を出したり、水色を基調にしたり、 マゼンダを基調にしたりといったことができるようになるので、これはこれで面白いが、それ以上のものではない。 音から聴き取れる共感覚に由来する色彩感とは基本的に別のものだし、繰り返しになるが、システムのインタラクションの 次元の一部を抜き出したに過ぎない。システムの状態の一部を示すグラフに過ぎず、せいぜいがインタラクションの実験の 結果を確認するインタフェース・ツールくらいの役割しか果たさない。聴覚的に得られる経験の方がずっとずっと豊かなのである。 画面を見ずに返ってくる音に聴き入った方が、はるかに色彩的に感じられるという印象は、自動ピアノ演奏会の時と変わらない。
なお調的とはいっても、西欧の古典的な和声のシステムに依拠しているわけではないようで、どちらかというと 旋法的な音の集合への帰属が基本になっているように感じられた。最も端的には一つだけ音を叩いて どのような音のパターンが返されるかを見てみれば良くて、この結果はほとんど規則的に感じられた。 また、システムがサンプリングするのは単一の音であり、和音を弾くことには意味がない。この点も システムが伝統和声に従っているのではないことと関係がありそうである。
ある音の調的な帰属の計算は隣接する2音、つまり今鳴っている音と直前になっている音との関係で決まっているので、 同じ音を叩いても、常に画面に同じ色が出るわけではない。(ただしオクターブ以上の解離のある2音連続の効果は 試すのを忘れた。)その一方で、目標となっている集合内に含まれると予想される幾つかの音を、順番に注意して選択的に叩けば、 収束を妨げることはない。ただし収束を加速させることができるかどうかまではわからなかった。 いずれにせよ、慣れてくればある程度までは、どの音が返ってくるか、自分の介入が収束を攪乱するか否かくらいの予測がつくようになる。 画面に虹を出そうと思えば、システムが選択しようとする旋法の外の音を選択すれば良い。あるいはシステムが 収束しつつある音集合の外に逸脱するように誘導するような音を継続的に順次選択していけば良いわけである。例えば 白鍵のうちの幾つかの音のみで構成される旋法に安定するようにさんざん仕向けておいてから、急に楔を 打ち込むように黒鍵での割り込みを繰り返すと、簡単に収束が起きずに、しばらくはいわば複旋法でのパターン生成が続く。 メシアン的なカレイドスコープみたいな音響効果が得られてけっこうまばゆいのだが、伝統的な和声に慣れた人が聴くと、 カオティックに響いたかも知れない。(もし、うるさいと思われた方がいらしたらすいませんでした。) でも勿論それはランダムなクラスターではなく、従って、確固とした色彩を音に感じることができる。
アタック、強度、持続への反応は面白くて、うまく叩いてやるとかなり複雑なリズムパターンを生成することも できるし、特殊なアタックや極端な強度の対比の効果は、それに対する最初のシステムの反応が、後続する音の系列に 減衰しながらも影響を残すので、これも生成される音を多様にする効果がある。 左ペダルはリセットのためにリザーブされているようだったが、右ペダルの人間の操作がサンプルとして 入力されていたかはわからなかった。もっと正確に言えば、多分サンプルにはなっているのだけれど、 その一方で、人がペダルを踏まなくてもシステムの側が勝手にペダルを踏む場面があったように 思えたので、あまり自信がないのと、ペダルを踏む操作が衝突すると楽器を壊してしまう 危険を感じたので、あんまり試せなかったのである。(ペダルを踏んではいけません、とは書いてなかったけれど、 これって、作者の側からするとフレーム問題の類に属する行為なのかも知れない。 ちなみにさすがに内部奏法をやってみようとは思わなかったが。)
ピアノが2台あるわけではなく、トリガーとなる人間の打鍵とそれへの反応が1台のピアノの鍵盤上に 並存するので、間歇的に、しかもシステムに遠慮して鍵盤を選ばないと、打鍵の衝突が起きるのは ご愛嬌である。しかも、システムは連弾を弾くような音域のとり方をするのではなく、どちらかといえば、 人間が叩いた鍵盤の隣接音を中心に反応を返すので、本格的な連弾をするのはなかなか難しそうだ。 もっとも、このシステムはどちらかといえば初期値を与えてもらって、そこからあるアルゴリズムに従って 音の系列を生成するような造りになっているので、上述の和声的な同時的な打鍵に対する制限は 勿論のこととして、そもそも人間がまとまった旋律を弾くこともまた、あまり想定されていないかも知れない。
そういう意味で面白かったのが、短二度や三全音のトリルとか比較的早い速度の半音階を 入力として与えることで、特に半音階については、短二度は互いに素であると思われるので、結果は色彩の散乱になる。 (はじめは伝統和声に従ったアルペジオを試したのだが、これはリアクションとしてはあまり面白い結果にならなかったと 記憶している。) また全音音階も興味深い効果が得られたように思える。その延長線でメシアンのM.T.L.も試して みればよかったかも知れないがこれは試さなかった。
システムは時間的に隣接する2音間の関係によって調的な帰属を計算しているはずだし、一音叩けばシステムは 勝手に自分も音を鳴らし始めるので、上述のような音の系列を人間が与えるといっても、厳密には 音の系列の間にはシステムが鳴らす音が混じることになる。だが、システムはもともとある音の 集合に収束するように傾きを与えられているし、その点に限定すれば絶対的な音高は関係がない ようなので(要するに上述のオクターブ以上の解離は意味がなく、オクターブの剰余類が演算の元になっている ように感じられる)、多少の攪乱は生じるが概ねは短時間に連続して入力する音の集合が全く無視されてしまうと いうことはないような印象を受けた。
そしてふと思いついて最後に試してみたのが、もともと旋法によって書かれている旋律を弾いてみることで、 これはやってみるとわかるのだが、システムの生成する音響と衝突することがほとんどないように感じられた。 例えば「君が代」がその例で、うまく弾くとまるでシステムが一人で弾いているように装わせることも 可能ではないかとさえ感じられた。というわけで最後は「君が代」を「合奏して」おしまいにした。 (偶然かどうかわからないが、タイミング良く階下から人が上がってきて、スタッフの方が注意しに来たのかと 勘違いして、一瞬びびった。)
実はこの作品、作成されたのは随分前のことで、1996年に奈良で開催された人工生命学会ALIFE Vで 発表されたものとのこと。2002年2月には、テレビの「題名のない音楽会」でも取り上げらたらしい。 言われてみればなるほどという気もするし、ここに「東の唄」などの「極東の架空の島の唄」の系列の作品の こだまと、逆シミュレーション音楽を予告する徴候の両方を見てとることができるような気もする。
発表時の反応を知る由も無いのだが、実際にインタラクションを試した限りでは、これは音楽作品として、 実に良く出来たものだと思う。(研究上の価値については、その方面のサーベイをやったことがなく、 ごく一般的な知識しかないので、私には判断できない。)
ひとつには鍵盤を叩く人間には、色々な関心をもった、色々な人間がいるわけで、 どのようなレベルの入力を想定するかについては様々な選択肢が存在するのだが、ここでは 丁度このような展示に相応しいように、最も単純な入力に対しても、それなりの反応を返すように できている。それだけでなく、必ずしもアルゴリズムの知識がなくてもシステムの癖がわかってくれば、 ある程度はその反応を人間が予測することができるし、簡単な「合奏」も不可能ではない。 しばらくいじっていると、私のような訓練を受けていない人間でもそれなりの「コツ」が掴めてくるのだ。 逆に言えば、音楽のプロにとってはあんまり面白くないだろうし、ピアノをバリバリ弾ける人にとっては 腕の振るいようがなく、発想の転換を迫られるもので、寧ろ苦痛に感じるかも知れないが、 私くらい能力がないと丁度良い按配なのかも知れない。
調的な収束についても、いわゆる急降下を行うわけではないようだ。恐らく人間の側の入力が収束に対して 攪乱するような働きをした場合への頑健性を考慮した結果だと思うが、Nomadischeの命名の通り、 収束は、ふらふらした軌道を描きながらのもので、逸脱に対しても反応ができるようになっているし、 最後の段階になっても、完全に安定してしまうわけではないようだ。喩えてみれば、ひねればまた 沸騰するように、ゆらぎが残った準安定状態のようなところに留まるようになっているようなのである。
そしてそうしたことの結果が、自動ピアノ演奏会の感想でも述べた、自動ピアノのリアクションの側に 感じられた身体性なのではないか。それはどちらかといえば虚像と言うべきなのだろうが、虚像であろうが なんだろうが、そのような感覚が生じた事実は残る。上で「君が代」で「合奏した」という言い方をしたが、 それは比喩であると同時に、実感そのものでもあるのだ。
一般的にインタラクションのあるシステムの設計は難しいものだ。それはシステムの状態だけではなく、 人の反応という得体の知れないものを相手にしなくてはならないからだ。一見すると「良心的な」 使い方しかしそうになく、だからそのようなリスクがなさそうに見える業務システムの設計においてすら、 少し複雑なものになれば、設計者の想定外の事が起きるのはほとんど不可避である。
その一方で、人間の適応力というのは実に優れていて、最初は使いにくく感じられるシステムも、 しばらくすると人間の方がシステムの挙動に合わせて自分の行動や意思決定を調整してしまう。経験を フィードバックして、機械の挙動を読んで先回りしてパラメータの制御・微調整をすることも稀でないどころか、 ごく普通のことだ。(例えば工場でのプラントの制御、製造用の各種の機械や工具の取り扱いなどを 考えれば良い。「熟練」というのは、そうした調整のための経験の蓄積のことを言うのである。 もっともこのこと自体は、例えば音楽における楽器の演奏だって基本的には同じだろうと思うが。) それはかなり複雑な意思決定支援システムでもそうで、それゆえ、現実にはそのような人間の調整能力を 見込んで、人間が歩み寄りやすいような挙動をするようにシステムの側の設計を行うといった ことが頻繁に生じる。学術的に優れた解を出すのが目的であれば別だが、実用のシステムに 要求されるのは、寧ろそうしたインタラクションによって得られる適切な均衡であり、逆にその均衡点を 事前に適切に設計して、その通りになるようにシステムを作ることは、これはこれで大変に難しいものである。
もっとも上述のような状況を、今回のインスタレーションを含めた三輪さんの作品に単純に類比するのは 無理があるだろう。「自動販売機に身体性を感じることはない」と書いたが、上述のシステムにおいても、 別に利用するユーザーはシステムに身体性を見出しているわけではない。そればかりか、均衡点を 見誤れば、人間がシステムに合わせて無理を強いられる、使い勝手の悪いものになってしまうのであって、 そこで起きているのは寧ろ人間の機械化である。要するに身体性の仮構は、それとはまた一つ別の 問題なのだ。
だがこの作品においては、三輪さんの作品はそうした弊を免れていると私には感じられる。 もっとも、どこがどう違うのかを現時点で分析的に述べることは私にはできない。それは三輪さんの 作曲家としての能力と、修練の賜物、これもまた「熟練」によって可能になっているのだと 想像してみるくらいのことしかできそうにない。そもそも、こうした感覚はあるところから先は 分析不可能なものだ。要するに実際に自分で触ってみて各人が感じ取るしかない類のものなのであると思う。 もっとも感性情報処理や、「勘」や「読み」の分析だって行われているのだから、そうした専門の方のお考えは また別かも知れないが。いずれにせよ、私の分析能力には限界があるので、そういう意味で直接作品に触る機会を 得られたことは非常に幸運だった。
勿論、興味は尽きることはなく、できればもう少し、システムのつくりについての詳しい説明や、 こうしたインタラクティブ・システムの可能性や現時点での限界などについて、作曲家の視点からの お話を伺ってみたいものだと思う。 繰り返しになるが、この作品はもう10年も前のものなのだ。個別の技術的な視点はおくとしても、 例えば現時点での展望はどのように変わり、あるいは変わらないのか、 任意時点でのユーザの介入を受け付けるこの作品と、分散・協調型ではあるが、 初期値が与えられれば基本的に外乱は想定しない「逆シミュレーション音楽」とを比較して どうなのかなど、聞いてみたいことはたくさんあるのだ。(2007.11.28初稿, 11.29加筆, 12.12修正)
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